信長の野望・創造 3作目

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243名無し曰く、
>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。

そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。信長の抜擢もクソもねーじゃん。

統治体制と軍制の改革に乗り出した謙信による抜擢と信任を受けた新参者 織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官) 安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるの
に連絡役なわけないだろ…。そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だった。白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもん。土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。まったくお前の言ってることはデタラメ。

訂正 若狭守護武田義統の妹は光秀の妻ではなく母のお牧の方。光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ 濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりが
あったのを買われ信長から採用され奉行や調略をやってた。その背景には川並衆の蜂須賀正勝や前野長康や美濃の竹中重治らを家臣にして
秀吉が独自勢力を作っていった。 木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。
244名無し曰く、:2013/05/24(金) 16:47:50.55 ID:MsH859dW
中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。

例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。

信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
>>家督相続後の世襲
河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。

それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)

こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。

武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松
美濃出身の多田満頼
下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
245名無し曰く、:2013/05/24(金) 16:49:15.00 ID:MsH859dW
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?
謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる