信長の野望・創造 2作目

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278名無し曰く、
謙信は野戦が無敵すぎる

信玄は布施の戦い八幡の戦いで謙信と初めて戦い野戦で敵わぬことを悟り以後は調略に切り替えてる
氏康は寡兵の上杉先遣隊に苦戦し謙信に敵わぬと見て以降一度も野戦せず逃げ回った
氏治は地の利を生かして謙信を沼地に誘い込めば勝てると野戦挑み壊滅的打撃受けて居城捨てて逃げた
越中一揆は坂の上から数万の大軍で迎撃すれば有利だろうと謙信に野戦を挑み付近流れるびや川が一揆兵の血で真っ赤に染まる大敗を喫した

謙信には誰も敵わん

http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4_2.html
大軍なのに篭城でやり過ごそうとした孫子の具現者、武田信玄。
しかし、謙信は寡兵で敵地に奥深く入り込み絶対的不利な状況に身を置く。
信玄それを見て「もしかしたら勝てるんじゃん?」と台風に手を出してしまいコテンパンにノサレる。
上の動画は、もはや神領域の采配。さすが軍神、孫子の研究者たる海上智明が日本史で最も芸術的な戦いをする武将と推すのも理解できる。

海上曰く、信長では絶対に信玄には勝てない。
ましてや謙信とガチでやりあったらあっさり粉砕される。
279名無し曰く、:2013/05/20(月) 12:18:17.81 ID:+I47jLYE
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
280名無し曰く、:2013/05/20(月) 12:18:45.70 ID:+I47jLYE
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
281名無し曰く、:2013/05/20(月) 12:22:16.50 ID:+I47jLYE
戦国最強・上杉謙信の主な戦歴

天文13年 上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年 上杉謙信 ○・・・《黒滝城の戦い》・・・● 黒田秀忠
天文20年 上杉謙信 ○・・・《広瀬郷の戦い》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年 上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文23年 上杉謙信 ○・・・《北条城の戦い》・・・● 北条高広
天文24年 上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄

弘治02年 上杉謙信 ○・・・・《駒帰の戦い》・・・・● 大熊朝秀
弘治03年 上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄

永禄03年 上杉謙信 ○・・・《富山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄04年 上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康
永禄04年 上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直)
永禄04年 上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄05年 上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄06年 上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱
永禄07年 上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治
永禄07年 上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱
永禄07年 上杉謙信 ○・・・《菅名荘の戦い》・・・● 芦名盛氏
永禄07年 上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄
永禄08年 上杉謙信 ○・・・《関宿城の戦い》・・・● 北条氏康
永禄11年 上杉謙信 △・・・《放生津の戦い》・・・△ 越中一向一揆
永禄11年 上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長

元亀02年 上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤
元亀03年 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田信玄
元亀03年 上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 越中一向一揆

天正元年 上杉謙信 ○・・《朝日山城の戦い》・・● 越中一向一揆
天正02年 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△北条氏政
天正04年 上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張
天正05年 上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連)
天正05年 上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)
信玄も氏康も単独ではコテンパンにやられてたからなぁ。
信玄なんてライバルと言う風評だけど、謙信よりずっと多い軍勢で篭城とかってビビリまくりだしね。
城に篭ってやりすごせば、そのうち去っていく。
台風みたいな武将だよな謙信って。
神保長職って知ってる?

なかなか強い戦国大名なんだよ
越中富山城主で一向一揆と戦い、椎名康胤や斎藤氏を圧倒して越中最強だった
でも殆ど誰も知らない

なぜか?
謙信に秒殺されてザコ扱いされちゃってるから
たぶん浅井長政や村上義清レベルの武将
長職が弱いんじゃなくて謙信が強すぎるだけなのに可哀相
神保長職は最盛期に肥沃な越中の過半を支配したから1万の兵を動員できたようだ

そもそも越中守護代神保氏は越後守護代長尾氏とは父祖代々の宿敵
謙信の父は長職の父と幾度も戦ってる
長職は神通川の戦いで椎名康胤を破っており、謙信以外の武将が長職を倒すのは難しい
神保長職の父・慶宗は謙信の父・為景に激戦の末倒されてる そして息子の長職が神保家を復活させた
もとは神保家の領土は越中の西半分だけだったのに長職は東半分を侵略して呑み込もうと椎名康胤を越中の東端・松倉城まで追い詰めた
同時に越中南端の斎藤氏も潰しに掛かってる 越中制覇目前だった長職が相当強かったのは間違いない
そしてその長職を一瞬で降伏させた謙信はやはり最強 北条氏康程度では長職に勝てなかっただろう

蘆名も東北最強の戦国大名だった。 落ちぶれても伊達政宗が苦戦するほど。
282名無し曰く、:2013/05/20(月) 12:23:44.45 ID:VFzH5Fvw
越中守護代・松倉城主の椎名康胤も武勇に優れた戦国大名だぞ
越中守護代・富山城主の神保長職には劣勢だったが、後に謙信と敵対して善戦してる
越中三大山城の一つ、難攻不落の松倉城に立て篭もって謙信の大軍を手こずらせた

越中は中央部の神保と東部の椎名、そして西部の一向一揆の3強時代だった
最終的に一揆・神保・椎名が団結し越中連合軍として謙信と戦った

謙信は得意の野戦(尻垂坂の戦い)で一揆の大軍を撃破し主導権を握り、拠点・富山城を何度も奪還し、
越中三大山城(増山城・松倉城・守山城)を全て攻め落として越中制覇した
まさに軍神!!