信長の野望で過大過小されてる武将106人目

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1名無し曰く、
論破された同一内容のレスの繰り返し、論拠を書かない妄想願文、
自作自演、根拠のない他人への感情的な中傷、 根拠のない史実と異なる妄想創作、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など結果論で一方的に武将の能力を決める行為禁止
キチガイ織田チョンは書込禁止

関連サイト
全国版から天道までの武将の能力値を羅網したサイト
火間虫入道 -信長の野望 蒐集者の庭-
http://hima.que.ne.jp/index.shtml
DS2の武将能力はここで
信長の野望DS2Wiki
http://www26.atwiki.jp/nobuyabods2/
Wikipedia戦国武将
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86

一応あることにはあるまとめサイト
http://www26.atwiki.jp/sengokujidai
信長の野望天道攻略wiki

天道武将データ一覧
http://www17.atpages.jp/nobuyabo/data.html
武将の統計データ
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%C5%FD%B7%D7
武将データの変化
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%CA%D1%B2%BD

前スレ
信長の野望で過大過小されてる武将105人目

http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1359964379/
2名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:13:12.10 ID:QDC5GDl9
信長の功績は捏造だらけ

信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
3名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:14:06.43 ID:QDC5GDl9
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
4名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:15:11.59 ID:QDC5GDl9
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
5名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:16:52.87 ID:QDC5GDl9
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
6名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:17:59.45 ID:QDC5GDl9
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
7名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:18:48.34 ID:QDC5GDl9
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
8名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:18:48.57 ID:Du7wj/HS
>>大体東美濃衆が飢餓や不景気で抗戦できなかったとするソースは?

幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
9名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:19:21.11 ID:QDC5GDl9
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
10名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:21:37.56 ID:QDC5GDl9
ID:C+omd33A
こういう史料を無理矢理曲解する馬鹿は死んだ方がいいな
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二度とスレくんなタコ
11名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:24:15.32 ID:Du7wj/HS
>>豊かな西美濃衆を味方につけられなかったってことだろ、それ斎藤の自爆じゃんw
だから楽に美濃攻略できるような斉藤の自壊要因があったっていってるんだが
>>クーデター、離反、降伏は斎藤の身から出た錆
つまり信長はそんな弱りきった斉藤の領地(幼君・クーデター・離反だらけ)火事場泥棒しただけ
>>代替わりで苦労するのは信長も経験しているしそこで外圧を跳ね返せないなら飲み込まれるだけ
信長は斉藤と当時同盟中・美濃大垣城も保持・朝廷の覚えめでたい斯波家
>>つまり代替わりの大事な時期にまともな統治体制を確立できなかった斎藤の自爆
だから信長は火事場泥棒しただけといってるんだが

>>信長が重用してやって無理やり身分をあげてやっているだけでスタート地点と関係なし
重用してやって無理やり身分を上げたとかそれこそ妄想乙だな
一次資料類で丹羽らと同じく高い身分で1566年に登場してるし信長公記でもそうなんだから
元々ある程度高い身分だったと考えるのが妥当
>>そんなこと言ったら世に出ている戦国武将は皆高貴で身分の高い人間だらけになる、荒唐無稽。
意味不明
12名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:26:59.80 ID:QDC5GDl9
信長はマグレの火事場泥棒しかできない雑魚
信長の父信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
13名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:27:40.19 ID:QDC5GDl9
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
14名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:28:31.64 ID:QDC5GDl9
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、 此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで、悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
15名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:29:01.49 ID:QDC5GDl9
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ

>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄
16名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:30:19.77 ID:QDC5GDl9
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
17名無し曰く、:2013/02/21(木) 08:31:44.26 ID:w4651gf7
三国志12でも北条の過大、秀吉過小が酷い

北条氏康 - 92 74 90 98 354
羽柴秀吉 - 83 68 89 97 337
18名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:09:12.75 ID:Du7wj/HS
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
19名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:09:44.50 ID:Du7wj/HS
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
20名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:10:19.33 ID:Du7wj/HS
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w

史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
21名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:10:58.36 ID:Du7wj/HS
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
         

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)


圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
22名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:11:20.60 ID:Du7wj/HS
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに

秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
23名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:12:21.76 ID:rYCN6hH6
織田信雄に7.5倍の兵力でガチンコ決戦で1万人ぶち殺され
高木や吉村や木造など数千貫そこそこの領主に5万で挑みかかって撃退される秀吉を上げるとか意味不明
輝元にも3000人ぶち殺されてるし補井田や宇喜多にも負けてるし2.5倍の兵力で有利な布陣で光秀軍より多い損害受けてるし
北条にも重臣何人か殺されてるし秀吉を60台くらいにヘタレさせれば何も矛盾がなくなる
中国でいえば劉邦だろ
政治や知略をその分チート化させれば問題ない
24名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:12:52.73 ID:Du7wj/HS
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
25名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:13:27.77 ID:Du7wj/HS
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
26名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:13:58.91 ID:Du7wj/HS
小牧長久手の時でも雑魚信雄相手に1万人殺された上に
戸木松ノ木蟹江二重堀東駒野河波長久保浜田など格城郭の攻防で蹴散らされて
諦めて大阪に納馬する予定であり天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる


和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです

秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもん
27名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:16:12.41 ID:Du7wj/HS
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>243
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
28名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:17:06.49 ID:Du7wj/HS
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
29名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:17:53.52 ID:Du7wj/HS
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
30名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:18:30.65 ID:Du7wj/HS
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
31名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:52:44.78 ID:QDC5GDl9
普通に史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍100000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城、柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はあるだろうな

事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で
一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし

秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
32名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:53:53.50 ID:QDC5GDl9
神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例

北条>>>>>織田

秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし

むしろ織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ

信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
33名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:56:21.60 ID:QDC5GDl9
まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな

包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし

領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな
しかしそんな氏康でも信玄謙信里見には大苦戦

1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【長久保城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1559年【唐沢山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄
34名無し曰く、:2013/02/21(木) 13:57:15.05 ID:QDC5GDl9
北条は確かに雑魚だが、それは佐竹・里見・結城・宇都宮・武田・上杉など強豪と比べての話。

幼君義龍(クーデター騒ぎで分裂状態)に負けまくった信長や、信雄・輝元などの雑魚武将に蹴散らされまくった秀吉などに比べれば遥かに強い。
織田家トップクラスであり秀吉が伊勢方面で蹴散らされまくった滝川を北条が瞬殺してる時点でわかる

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ
35名無し曰く、:2013/02/21(木) 17:27:17.61 ID:Du7wj/HS
佐久間信盛・日根野弘就・川尻・蜂谷頼隆・金森らは過小
豊臣系ゴミ武将とかと能力入れ替えていい
36名無し曰く、:2013/02/21(木) 19:31:58.57 ID:QDC5GDl9
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
37名無し曰く、:2013/02/21(木) 19:33:10.29 ID:QDC5GDl9
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
38名無し曰く、:2013/02/21(木) 20:26:38.30 ID:rYCN6hH6
毛利の両川が過大
39名無し曰く、:2013/02/21(木) 22:00:14.80 ID:ll85lwZt
だがをNGしたら3レスしかなくて噴いたぞ
40名無し曰く、:2013/02/21(木) 22:45:39.86 ID:5zXn/Z+v
両川は本能寺の変なかったら
北条兄弟と同等の数値ぐらいだろうな

小早川高えよ
吉川の反対を無視して三村斬ってまで宇喜多味方にして
あんのじょう裏切られ苦戦する
41名無し曰く、:2013/02/21(木) 23:17:51.47 ID:rYCN6hH6
両川なんて大友や宇喜多に蹴散らされまくるくらいしか実績ないのに
糞みたいに軍事能力過大だな
宇喜多に領国から兵力総動員して辛川合戦や加茂崩れなどで数千人戦死の大敗したあげく
南条・小鴨5万石すら攻略失敗するとか情けなさ過ぎる
42名無し曰く、:2013/02/22(金) 05:08:00.04 ID:5+ekVgUx
幸村が父親より統率が高いのは人気補正だな
戦の場数が父親と違いすぎるし
幸村が実際に戦で指揮した回数なんてわずかだ
43名無し曰く、:2013/02/22(金) 10:52:45.84 ID:ZMdqFZyI
父親どころか信之と比べても劣る戦績だろ
44名無し曰く、:2013/02/22(金) 12:18:47.60 ID:QbrchowZ
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
45名無し曰く、:2013/02/22(金) 12:20:34.18 ID:QbrchowZ
過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚

信長の戦闘能力の低さの現われが弱体化しきった幼君無能義龍に例年の年中行事のように負けまくり長島侵攻戦で2回も大損害蒙ったあげく
三回目には餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちしたら一門10人以上ぶち殺され最後は光秀に負けて殺されて織田家は木っ端微塵の間違いな
領土→光秀に負けて殺されて死んだので信長の保持領土は0
討伐した大名→信長のチート国力からすれば鼻くそみたいな勢力しかいないのに
例年負けまくり多く重臣死にまくり家康に瞬殺された機内や美濃に10年以上もたつく始末
秀吉→織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
山之内上杉の大軍大破したり三方が原で織田徳川の大軍木っ端微塵にした武田とは比べるべくもない
46名無し曰く、:2013/02/22(金) 12:21:46.91 ID:QbrchowZ
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
47名無し曰く、:2013/02/22(金) 12:22:36.73 ID:QbrchowZ
格武将ごとの直接対決の結果が以下。
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
48名無し曰く、:2013/02/22(金) 12:23:12.52 ID:QbrchowZ
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
49名無し曰く、:2013/02/22(金) 16:34:57.97 ID:Z/tGDgzA
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50名無し曰く、:2013/02/22(金) 21:57:53.35 ID:SLYd9wBa
両川は幸村や勘助と同じ講談での査定
51名無し曰く、:2013/02/23(土) 00:37:28.02 ID:HIihj7hk
512kbで次スレ知らないうちにコピペ荒らしとか相変わらず酷いですね
52名無し曰く、:2013/02/23(土) 02:53:22.48 ID:9iEk4HBR
典型的なオオカミ少年だからね
嘘と長文で多くのネットユーザーを惑わしたのは過去の話
やがて真実を言ってもコピペ君が発言したと言うだけで誰も信用しなくなる始末
つくづく信玄の信者であってくれてありがとうと逆に言いたくなる
53名無し曰く、:2013/02/23(土) 04:14:32.97 ID:jtOgSVeD
そもそもコピペは最初から毎回繰り返される織田厨の妄言垂れ流しに対する反論なんだから
すごくブーメランとしか
54名無し曰く、:2013/02/23(土) 04:17:35.19 ID:ikMkkzez
織田厨は何回論破されても同じ妄想垂れ流すだけの馬鹿だからね
魚でも学習能力くらいあるのに織田厨はなし
魚以下だろ
55名無し曰く、:2013/02/23(土) 06:12:42.84 ID:NxKWYA7e
甲陽軍鑑ってものがこの世に存在しなければこんなに荒れることは・・・
56名無し曰く、:2013/02/23(土) 12:42:35.13 ID:9iEk4HBR
甲陽軍鑑がなくても荒らしたと思うよ、こいつは

>>53->>54
まあそう思ってるのは本人だけだけどねw
可哀想に、言えば言うほど信用をなくして1人相撲・・・まるで武田勝頼みたい
57名無し曰く、:2013/02/23(土) 13:54:36.42 ID:pFA7S/NW
勝頼はこんな間抜けじゃねーよ
狂信者長治がマシに見える無辺者
58名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:31:34.11 ID:jtOgSVeD
そもそも織田厨はwikiしか読まない上に妄想垂れ流すしかできない馬鹿
特に戦国版以上にこのスレはほとんど織田厨の妄想(前々スレからでいえば石田三成は無能、天下取ったから経過は関係なく戦がうまい(←政略や調略は何のためにあるんだよアホ)、
家康が信長より強かったら信長を裏切って倒した(←なんでわざわざ同盟結んだ相手を裏切る必要あるんだよアホ)、などという論拠にもならない糞理論の垂れ流しばかり)
59名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:33:59.13 ID:ikMkkzez
織田厨は糞長公記と自分の妄想がソースだからね
普通の脳味噌の人間なら考えもつかない論法(もし〜なら〜である、という背理法らしいが家康と信長の例のようにその内容が全く論拠にならない妄想ばかり)
60名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:34:45.81 ID:9iEk4HBR
真におそれるべきは有能な敵より無能な味方とはよく言ったもんだね
いや別にコピペ君は味方じゃないけど
相手にされないコピペ君と同じような考えを持ってる人は心中穏やかじゃないだろうなぁ・・・
61名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:36:34.81 ID:9iEk4HBR
>>57
誰彼構わず喧嘩売りまくって、最後は滅亡するんだからそっくりじゃん
62名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:39:20.66 ID:ikMkkzez
誰彼かまわず喧嘩売りまくって光秀の恨み買ってぶち殺された信長
63名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:40:33.62 ID:jtOgSVeD
妄想力と学習能力のなさでいえば織田厨に勝る武将はいない
64名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:44:21.94 ID:9iEk4HBR
信長の恨みは信長だけで終わって織田家はそのまま存続
かたや勝頼が死んでも誰も再興すらせず家康に名前だけパクられた武田
最後は家臣に寄生して権力者に媚びて血の入れ替え、悲惨だなぁ
65名無し曰く、:2013/02/23(土) 14:45:30.35 ID:9iEk4HBR
あとコピペ君、別に2つIDを使う必要はないよw
66名無し曰く、:2013/02/23(土) 15:01:20.17 ID:ikMkkzez
信雄もいちゃもんつけられて改易されたし
秀信も家康に改易されたじゃん
67名無し曰く、:2013/02/23(土) 15:16:41.47 ID:9iEk4HBR
なんで織田有楽斎と織田信包を消すの?都合が悪いから?w
68名無し曰く、:2013/02/23(土) 15:53:04.39 ID:HIihj7hk
織田家は潰れてないし、傍系とはいえ将軍家に血が入ってるからねえ
どこかの武田家はそれすら入ってないけど
69名無し曰く、:2013/02/23(土) 16:01:04.35 ID:9iEk4HBR
一応直系でも将軍家に輿入れならしてるよ、ただ徳川忠長がすぐに死んだので有耶無耶になったけど
70名無し曰く、:2013/02/23(土) 19:35:47.78 ID:pFA7S/NW
>>61
勝頼は失敗しただけで周囲と誼を結ぶ姿勢はあった
こんなのと一緒にするなよ
71名無し曰く、:2013/02/23(土) 20:00:21.80 ID:9iEk4HBR
そうだな
72名無し曰く、:2013/02/23(土) 20:51:37.75 ID:pFA7S/NW
勝頼は大名としての思考格付けが低くても
将としては統率80位つけられるほど優秀
70超えて誰も能力値に触れないし、もう
73名無し曰く、:2013/02/23(土) 22:22:04.96 ID:g6WXhmyF
因果って本当に在るんだな
信玄みたいに極悪非道な事やってると
子孫に必ず報いが来る
74名無し曰く、:2013/02/23(土) 23:05:04.83 ID:ikMkkzez
虐殺や騙まし討ちなど極悪非道な手段でのし上がりそのために人望なくして部下に裏切られまくり殺された信長さんですね
75名無し曰く、:2013/02/23(土) 23:29:18.39 ID:9iEk4HBR
子孫に報いは来なかったね・・・
76名無し曰く、:2013/02/23(土) 23:41:54.84 ID:4bIxppYk
信玄の末裔らしいぜ
http://i.imgur.com/lo369FR.jpg
77名無し曰く、:2013/02/24(日) 01:11:33.18 ID:4qdq6T8R
どうやらまだ光秀怨恨説論者はいたようだ
78名無し曰く、:2013/02/24(日) 05:55:24.17 ID:GpGTVKYZ
前田慶次の武力補正をやめようかそろそろコーエー
79名無し曰く、:2013/02/24(日) 07:22:40.76 ID:WDsBqsHY
河越野戦が事実関係や年代が間違いまくってる北条五代記にしか存在せず、 
上杉や佐竹や里見や武田の史料に一切載ってないので、そんな乾坤一擲の大合戦なんて無かったってのは戦国板の常識だろ…
80名無し曰く、:2013/02/24(日) 12:09:54.91 ID:WGKFi114
世間の常識≠戦国板の常識≠暦ゲ板の常識≠過大過小スレの常識
81名無し曰く、:2013/02/24(日) 12:54:18.37 ID:yctKEO0l
武田の場合大久保長安以外の旧臣みんな無視していたってのが哀れというかなんというか
82名無し曰く、:2013/02/24(日) 13:21:45.75 ID:joqxKfd+
>>73
お前、信玄の悪事について聞かれて、
答えたら全部論破されてたじゃんよwww
83名無し曰く、:2013/02/24(日) 14:14:41.89 ID:8jicMgQ4
>>81
誰1人大名に取り立てる奴がいないのが哀れすぎ
武田で一番出世したのが家康が息子に作らせた武田信吉家とか・・・
84名無し曰く、:2013/02/24(日) 15:36:36.25 ID:E2bI3Kdu
>>79
戦国板いかねえから知らないよ
ちなみに姉妹スレの三國志過大過小だと演義が基準やで
85名無し曰く、:2013/02/24(日) 15:57:05.97 ID:n7AYP8af
そもそも怪しげな軍記講談の類がOKなら肥査定の信玄謙信も問題ないわけで
ここはそんな評価基準にNOと言うスレだったはずなんだがな
86名無し曰く、:2013/02/24(日) 16:01:32.76 ID:GHsmOZBi
信長の勝利なんてほとんど軍記講談ソースじゃん
桶狭間森部稲生天王寺
87名無し曰く、:2013/02/24(日) 16:27:34.01 ID:1qDqlpe5
桶狭間の戦いなんてその軍記内ですら運よく先陣と思って突撃した先が本陣で
雨や風が偶発的タイミングで吹いただけだしね
今川領国は駿河遠州三河70万石くらいに対し信長領国は尾張57万石+津島交易チート収入+全国トップの朝廷への献金額で
ほとんど同じくらいなはずだし
88名無し曰く、:2013/02/24(日) 18:37:35.46 ID:N/h6lZWb
桶狭間は戦果は大きかったけど、元々はそんなに特筆すべき戦争になるはずがなかった節があるんだけどな。

> 桶狭間の戦いなんてその軍記内ですら運よく先陣と思って突撃した先が本陣で

少なくとも信長公記を読む限り、義元は大高城で指揮をとり鷲津・丸根を落とすと元康らを大高に残し桶狭間まで北上し人馬を休息させてる。
よって必ずしも信長の認識が誤りだったとはいえない。

> 今川領国は駿河遠州三河70万石くらいに対し信長領国は尾張57万石+津島交易チート収入+全国トップの朝廷への献金額で
> ほとんど同じくらいなはずだし

今川領国はともかくこの時の信長領国はどうだろう?
国内反信長勢力はほぼ平らげられていたとはいえ桶狭間の戦いで上四郡の動向はよくわからんし、下四郡も三河方面は今川勢になっている。
もともと砦に入れられていた軍勢以外で信長が動かしたのは馬廻り+αくらいじゃないのか?
89名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:08:55.51 ID:RpH2n5lj
信長の野望は史実より有名な創作の方を重視という方針
90名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:31:14.77 ID:8jicMgQ4
そもそも今川義元が長い時間かけて領国化してきた領土と
織田信長が急激に拡張した領土を同一視する奴はなんなの?
ただえさえ今川義元は背後の武田北条を同盟者にしている一方、
織田信長は斎藤義龍も伊勢連中も敵だからこいつらへの備えも必要なのに
91名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:37:10.51 ID:GHsmOZBi
尾張は信秀の頃から斯波家織田の領国
この頃から津島港からのチート収入と朝廷への全国トップの献金額
むしろ今川のが三国同盟後急激に西遠江三河と領土化しただけ(そもそも三河は領土化などしていないが)
92名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:48:02.77 ID:1qDqlpe5
当時の斎藤は浅井と戦っていて六角義治が斎藤と協調しようとするのを土岐氏に配慮する六角義賢が
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
93名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:52:10.90 ID:1qDqlpe5
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからでそれ以前の今川はまったく衰退していない。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っている。また信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
94名無し曰く、:2013/02/24(日) 19:56:01.03 ID:8jicMgQ4
斎藤義龍が南下を一切考えてないとか典型的なゲーム脳だな
織田信広や織田信賢は誰をアテにしていたと思ってるんだか
無知を棚に上げて都合の悪い史料を捏造するのはいつものことだから特に気にしてないけどな
95名無し曰く、:2013/02/24(日) 20:04:17.82 ID:N/h6lZWb
>>94
一切考えていなかったかどうかはともかく、少なくとも侵攻できる余裕はなかったから信広や信清を支援したんじゃないの?

> 信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り

信秀は大和守家などを被官化できたわけじゃないじゃん。
自分が平気で嘘をつくから桶狭間を捏造とか言えちゃうんだなw
96名無し曰く、:2013/02/24(日) 20:09:20.26 ID:8jicMgQ4
>>95
そりゃあ本格的な侵攻を考えてたかどうかは、当人以外わからんと思う。
ただ信広や信清あたりを支援して、あわよくばと考えるのは当時では普通だし事実やっている。
逆に言えば信長が「斎藤は南下してこない、絶対」なんて考えているというのは、さすがにトンデモ説。
まあ提唱者がだがだから、奇抜さはないけどな
97名無し曰く、:2013/02/24(日) 20:53:49.64 ID:1qDqlpe5
まず大前提として桶狭間は軍記にしかない合戦だし
斉藤が木曽川を超えて侵攻する気配もないのに
現に攻めて来た今川軍に戦力集中させて迎撃しないわけがない
可能性があるというだけでそんな所(北尾張)に留守居部隊を誰彼を何人置いてたとか史料もないし
そもそも軍記内での数字だし妄想の域を出ないとしかいいようがない
98名無し曰く、:2013/02/24(日) 20:55:21.40 ID:wBt/ny73
信玄書状で井口と織田が結んだから東濃から撤退するけど木曽は苗木死守しろって
義龍と信賢の事か?
この頃から信長や奥三河の反今川と連絡取り合ってるし信玄はどうしようもないな
99名無し曰く、:2013/02/24(日) 21:00:37.49 ID:1qDqlpe5
「信長公記」に信長は

「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労
なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

「各々よく々承り候へ。あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて
手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。その上、小軍なりとも大敵を怖る〃なかれ。運は天にあり。
此の語は知らざるや、懸からばひけ、しりぞかば引き付くべし。
是非に於いては、稠(おお)ひ倒し、追い崩すべきこと、案の内なり」

という発言をしたと記されている
つまり信長は、目の前にいる敵が今川義元の本陣だとは思わず
敵の先鋒隊(家康)と勘違いしていたと考えられる
それなら突っ込んでいったのも納得出来る
だって相手は疲弊した兵(と信長は思い込んでる)、こっちは新手、勝てないわけが無い
まぁ家康はこの時点では元康と名乗ったんだけど
太田牛一は結構適当なところがあるから間違ったんだろうね
100名無し曰く、:2013/02/24(日) 21:34:26.69 ID:N/h6lZWb
>>99
> だって相手は疲弊した兵(と信長は思い込んでる)、こっちは新手、勝てないわけが無い

鷲津・丸根を落として戦後処理を終えて大高城から(少なくとも一旦は)引いてる最中なんだし、実際に桶狭間山で人馬を休息させてる。
まるっと勘違いしてるわけでもない。

> 今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労
> なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり

これを全て家康単体でなしたとするのは無理がある。単に一連の戦闘での家康の行動を抜けだしたにすぎないと見るべき。

そもそも信長が指呼の間、は言い過ぎにしても目指できる距離にある義元本陣を誤認したというのは解せない。
千秋や佐々が寸前に突撃して討ち死にしているように義元は別に本陣を秘匿してる様子もない。
101名無し曰く、:2013/02/24(日) 21:38:04.15 ID:8jicMgQ4
>>97
おまえ軍記物の意味わかってないだろw
編纂物≠軍記物は大前提知識だしもっと言えば信長公記の成立年代は
最低でも1597年ではっきり言って1次史料側の存在
102名無し曰く、:2013/02/24(日) 21:39:50.77 ID:8jicMgQ4
おっと、信長公記の方は首巻だったなw
103名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:04:58.95 ID:wBt/ny73
朝比奈親徳が前哨戦で負傷し戦列から離れた為に
信長が義元本陣に攻撃時に傍にいれなかったと記してる事から誤認説はない
104名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:10:40.14 ID:GHsmOZBi
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
105名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:12:39.57 ID:GHsmOZBi
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に 織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
106名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:15:12.73 ID:GHsmOZBi
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
107名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:16:09.60 ID:GHsmOZBi
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。
108名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:20:42.80 ID:GHsmOZBi
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなくそれどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ 毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころかことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
109名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:23:51.42 ID:GHsmOZBi
信長は大河内城2ヶ月大包囲で将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎・丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・
寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで
信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるからかなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)
しろと命じてる)岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみてさっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
110名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:43:25.72 ID:8jicMgQ4
第一級史料と一次史料と二次史料の区別がつかないだがw
111名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:45:07.40 ID:1qDqlpe5
糞長公記は三次史料じゃね
デタラメばっかだし
112名無し曰く、:2013/02/24(日) 22:47:50.30 ID:8jicMgQ4
史料の信憑性に一次史料二次史料は全く関係ないことも知らないだがw
例え全部嘘の史料があってもそれが当時書かれたものなら一次史料なことも知らないだがw
113名無し曰く、:2013/02/24(日) 23:00:49.51 ID:1qDqlpe5
そんな糞公記とか軍記類にしかないデタラメ合戦が桶狭間。
しかもその軍記内ですらウルトラスーパーラッキーで勝てただけ
114名無し曰く、:2013/02/24(日) 23:15:16.10 ID:8jicMgQ4
根拠のない妄想、かつ運も実力のうちであることを知らないだがw
ケチをつけることしかできないあたりがまた哀愁を誘う
115名無し曰く、:2013/02/24(日) 23:18:59.99 ID:1qDqlpe5
本能寺で光秀に敗れ殺された信長は実力0だな
116名無し曰く、:2013/02/24(日) 23:50:36.80 ID:8jicMgQ4
実力0(キリッ
織田家が存続しているのに0w
信長に一族郎党殺された武田のことですねw
117名無し曰く、:2013/02/24(日) 23:57:33.53 ID:1qDqlpe5
織田が存続しようがしまいが関係なし
「光秀との戦いに敗れ殺されて死んだ」が信長の結果
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし
118名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:21:00.37 ID:T2QEiCq/
なんで織田家を目の敵にしてるんだろ
滅亡させられたからか
119名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:25:36.30 ID:iC2Ksub2
信長は自害だから殺されてすらいないじゃんw
家も存続してるし自然死と大差ない
120名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:28:24.17 ID:+OPfPtuZ
光秀との戦いに敗れて殺されたのが信長。
戦を生業とする武士が戦に敗れて殺されて死んだのだから中身検証せずに結果だけでいえば最底辺
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし
121名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:29:04.50 ID:7U+FAteE
信長が自害とか馬鹿じゃね
122名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:43:48.77 ID:iC2Ksub2
>>121
結果で言えば自害だが何か問題でも
例えば前田玄以や有楽斎は逃げている
信長はそのようなおめおめと逃げるマネをしたくないから自害した
最も、信長の場合織田家当主である信忠がいるからというのもあるがな
123名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:48:35.32 ID:+OPfPtuZ
>>121
信長が自害したなんて例によって嘘長公記とかのデタラメ逸話だし
逃げ切るまねをしたくないとかただの妄想だろ
自分は生き延び相手を殺したり従わせるのが戦争だしそれまでやってる事なのに
なんでこのときだけわざわざ逃げられるのに逃げないんだよアホ
逃げ切れない状況に追い込まれて死んだだけだからこういうのは自害とはいわんしただ殺されただけ
124名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:48:44.25 ID:iC2Ksub2
>>120
織田家一門が残した家

織田信雄−織田信良(上野小幡)
    −織田高長(大和宇陀)

織田信包−織田信則(丹波柏原)

織田有楽斎−織田長孝(美濃野村)
     −織田長政(大和芝村)
     −織田尚長(大和柳本)

一方の武田

武田勝頼(天目山でハラキリ断絶)
仁科盛信(味方が誰も駆けつけずわずか半日で落城自刃)
海野信親(織田軍に恐れをなしてハラキリ)
葛山信貞(織田軍の侵攻で人知れず討死)
武田信清(織田軍の侵攻でトンズラ、仇敵上杉を頼る)
武田信豊(織田軍の侵攻で部下に殺され城を開城される)
武田信廉(織田軍の侵攻で打ち首)

武田wwww
125名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:50:30.87 ID:iC2Ksub2
>>123
この時点の信長は既に織田家当主じゃないから
信長は公式記録では自害あるいは行方不明ということになっている
信長が誰かに討ち取られて死んだというのなら首級が間違いなく上がる
その史料は?
126名無し曰く、:2013/02/25(月) 00:53:08.37 ID:iC2Ksub2
当時の武士が死に様をかっこよくつけようと自害するのは別に不思議でもなんでもない
家康も伊賀越えの際に自害しておし留まったという逸話があるくらいだし
信長の場合は既に織田家当主ではないのだからどう死のうが信長の勝手
織田家当主なのにさっさと死んだ信忠はともかく信長が死に方どうこうで文句つけられる理由はない
127名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:03:34.62 ID:+OPfPtuZ
>>125
当主かどうかなんて関係ない
そもそも実権はまだ信長が持っており自分も政治に干渉しまくるどころか自分があちこちに指令だしたり誅殺したりしまくってるし
>>126
当主かどうかなんて関係なし
殺されて死んだことには変わりないんだから能力0だろ
128名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:07:08.42 ID:iC2Ksub2
殺されて死んだというなら武田勝頼のように首級が挙がっているはず。信長の首級があがったという史料は?

当主じゃないのだから信長がどういう行動を取ろうが織田家に全く影響はない。
そもそも織田家は1575年から織田信忠が当主で信長は信忠信雄信孝に軍預けまくって裏方ばかり
自分で出張った戦いが劇的に減少するし大御所家康と同レベル

で、明智軍の誰かが信長を討取って首級を晒したと言う史料は?
129名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:12:32.67 ID:iC2Ksub2
家督相続当初ならいざ知らず本能寺の変直前の信長の実権なんてほとんどないだろ
本能寺直前の6月1日には信長ではなく信忠の下に公家が大勢参集しているし
その前の武田攻めも織田信忠主導で全て行われ信長は富士山見物しただけ
明らかに信忠の当主権力の確立と信長の隠棲具合が見えるし、既に家督を譲って
戦線にも立たない人間が実権持ってるとか寝言レベルの妄想
130名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:16:16.30 ID:+OPfPtuZ
>>128
勝頼も自害なんだが。
そもそも首級があがったとか一々史料には残らん
光秀の時とか柴田の時とかでも首注文記録なんて残ってないし
>>当主じゃないのだから信長がどういう行動を取ろうが織田家に全く影響はない
一々各方面軍に援軍派遣したり命令だしたり北陸で城割やったり国人粛清したり動きまくってるし影響ないわけねーだろアホ
>>で、明智軍の誰かが信長を討取って首級を晒したと言う史料は?
そもそも本能寺の経緯なんて軍記類以外には全くかかれてないし
わかるのはあの変の前後で信長がいなくなった=殺されたというだけ
仮に自害だったとしても死ぬ状況に追い込まれて死んだとしかいえないので(生き延びられるなら逃げてる)
殺されたのと変わらん
それこそ勝頼とか滅ぼされた大名の当主でも最後は自害だろうし
131名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:29:01.54 ID:+OPfPtuZ
>129
天正9年3/24信長が本願寺顕如に紀伊本願寺への参詣を許す
天正10年信長→柴田で尾張犬山着陣と武田攻めの状況を伝えている。また松倉城攻略についての指示を出している
多聞院日記3/23で三河妙眼寺の僧可心が信長に熱田社の太刀を献上している
5/7信長が尾張土肥助次郎の所領を安堵している
同日信長が松平家忠に三河遠江両国衆に兵糧米を与えている
132名無し曰く、:2013/02/25(月) 01:56:37.74 ID:iC2Ksub2
>>仮に自害だったとしても死ぬ状況に追い込まれて死んだとしかいえないので(生き延びられるなら逃げてる)
>>殺されたのと変わらん

前提からして大間違いじゃん
本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし
「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらないじゃん
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>一々各方面軍に援軍派遣したり命令だしたり北陸で城割やったり国人粛清したり動きまくってるし影響ないわけねーだろアホ

前当主だから多少の庶務をやってただけだし本能寺の変の直前では大事のことはほとんどしてない。

>>それこそ勝頼とか滅ぼされた大名の当主でも最後は自害だろうし

大名の当主が追い詰められてする自害と信長の自害は全然違う
133名無し曰く、:2013/02/25(月) 02:45:28.75 ID:+OPfPtuZ
>>132
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」
6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反・本能寺襲撃は繋げて書かれているため
光秀の襲撃により信長は死んだ(殺された)といえる
何もなく自分で自殺したわけでもなく光秀に襲撃されて自殺した(させられた)んだから殺されたのと同じ
134名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:06:07.75 ID:+OPfPtuZ
>>前当主だから多少の庶務をやってただけだし本能寺の変の直前では大事のことはほとんどしてない

天正9年1月1日 在国諸將の参賀を停む、又馬場を安土城の北に築く
天正9年1月3日信長、武田勝頼の、遠江高天神城を赴援せんとするを聞き、信忠をして、尾張清洲城に出陣せしめ、水野忠守、同忠重等を遣して、遠江横須賀城を守らしむ、
天正9年1月9日信長、鯨肉を献ず
天正9年1月15日信長、三毬打を安土城に行ふ、又北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗す、
1月25日信長、河内安井清右衛門に其屋敷を安堵せしめ、諸役を免除し、之に禁制を掲ぐ、
天正9年2月6日宮女及び立入隆佐等を安土に遣し、練香を信長に賜ひ、調馬の事を命ぜらる、信長、之を奉ず、
天正9年2月11日信長、綸旨等の旨に任せ、四府駕輿丁藤本三郎左衞門尉の諸役を免除す、
天正9年2月20日信長、入京して、本能寺に館す、
天正9年2月23日耶蘇会宣教師バリニヤーニ、黒奴を連行して信長に謁す、
天正9年2月24日柴田勝家、上京して、信長に謁し、太刀、黄金等を進む、信長、其越前、加賀を平定するの功を賞す、
天正9年2月28日信長、馬埒を禁裏東門外に構へ、諸將をして騎乗せしむ、之を叡覧あらせられ、信長に勅書及び御衣を賜ふ、
天正9年2月29日信長、紀伊熊野新宮神主堀内新次郎に知行分同社領の地を安堵せしむ、
天正9年3月1日 前右大臣織田信長を、左大臣に任ぜんとす、尋で、信長、譲位の叡慮を奉じて後に之を拝すべきことを奏請す、譲位を延引あらせらる、
天正9年3月5日信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、
天正9年3月5日信長、長岡藤孝をして、所領丹後を諸給人に宛行はしめ、余分は藤孝の直務と為さしむ、
天正9年3月6日本願寺光佐(顕如)の請に依り、紀伊雑賀に在る同寺坊官赦免の命を諸国に下すべき旨を信長に命ぜらる、尋で、信長、之を奉ずるに依り、光佐、御禮金を献ず、
3/18勝頼が佐竹の斡旋で信長と同盟を結ぶ風説が伝わる
天正9年3月20日三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、信長に帰属せしむ、
天正9年3月24日信長、佐々成政、神保長住をして、越中小井手城を赴援せしめ、又不破光治、前田利家等の諸將を遣し、之を援けしむ、是日、上杉景勝等、兵を班す、
天正9年3月25日信長、矢部善七郎、猪子兵介をして、山城勝龍寺城を守らしむ
天正9年3月28畠山氏の遺臣長連龍、信長の援に拠り、温井景隆等を能登七尾城に攻めて、之を降す、是日、信長、菅屋長頼を遣して、之を守らしむ、
天正9年4月1日吉田兼和、松井友閑に頼り、吉田社修理のことを信長に請
天正9年4月8日信長、筒井順慶をして、歓進猿楽を大和木寺に張行せしむ、
天正9年4月10日信長、近江竹生島に詣し、帰城す、其侍女等の恣に同国桑實寺に詣するを怒り、之を出さしむ、同寺僧、之を庇護するに依り、併せて、之を殺す、
天正9年4月12日信長、越前溝口定勝(秀勝)に所領を宛行ふ、
天正9年4月13日信長、長谷川秀一、野々村幸久に所領を宛行ふ
天正9年4月16日若狭高浜城逸見昌経歿す、是日、信長、其所領を武田元明、溝口定勝(秀勝)に頒ち與ふ、
天正9年4月20日信長、堀秀政をして、和泉國中に指出を徴せしむ、槙尾寺、之に応ぜざるに依り、是日、秀政、兵を率ゐて、之を囲む、僧徒、退散す、尋で、信長、同寺を火かしむ、
天正9年4月20日信長、森蘭丸(長定)に近江に於て所領を宛行ふ、
天正9年4月25日越前溝口定勝(秀勝、)高麗鷹を信長に進む、
天正9年6月5日北條氏政、信長に馬を遺る
天正9年6月15日信長、筒井順慶に大和吐田村を宛行ふ、是日、順慶、信長に之を謝す、
天正9年6月16日信長、越後新発田城新発田重家の款を通ずることを越中の某に報じ、之と海上の連絡を計らしむ
天正9年6月28日信長、眞桑瓜を献ず、
天正9年6月28日近衞前久、信長の命に依り、島津義久をして、豊後大友義統と講和せしむ、是日、義久、太刀、馬を前久に遺り、之を謝す、
135名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:12:33.88 ID:7U+FAteE
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
136名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:20:03.13 ID:7U+FAteE
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は秀吉が婚姻させた秀忠の妻の江の哀願で信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
『高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった』信栄系に乗っ取られた。
137名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:22:14.99 ID:7U+FAteE
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw
138名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:22:59.80 ID:iC2Ksub2
>>133
おまえは本当にアホだなw
明智や毛利が「打ち果し」と書くのは当たり前
ついでに言うとほとんどの史料は「生害」の文字を使い
死体や首級が発見されてないことから現在でも「自害」の味方が強い

>>何もなく自分で自殺したわけでもなく光秀に襲撃されて自殺した(させられた)んだから殺されたのと同じ


本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし前提からして大間違いじゃん
「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらないじゃん
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>無駄に長いコピペ

本能寺の変直前というのが聞こえなかったのか、1年も前の話を持ってくるなよ

つか明智にぶっ殺されたとか荒唐無稽なこと言う奴っておまえくらいだろw
松平記を根拠に武田信玄は銃殺された、とする方がなんぼか証拠能力あるわ
139名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:30:34.50 ID:iC2Ksub2
>>137
武田信吉を甲斐源氏武田に入れるとか織田家で言ったら織田無道や織田信成を
信長の子孫と偽造誇張されてるレベルの舐められっぷりだろw
所詮甲斐源氏という戦国大名でも屈指のサラブレッド血縁の伝統と名誉を欲しただけ
武田信吉の頃は確か武田信玄の孫である武田信道も息子の武田信清も存命だっがこいつらの存在をまるで無視する家康w
挙句武田信吉が若年で死んだらもう用済みとばかりにコ川頼房に家臣と領地を与える有様wwww

織田家が美濃野村、大和宇陀、上野小幡、丹波柏原、大和芝村、大和柳本と6家10万石以上の大名家を出したのに
武田家は仇敵上杉と旧臣大久保に寄生して家康に家名だけ分捕られる大失態w武田の御先祖が草葉の陰から泣いてるぞwww
140名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:32:58.94 ID:+OPfPtuZ
>>138
>>明智や毛利が「打ち果し」と書くのは当たり前
意味不明。詰まる所は明智や毛利の言うとおり光秀が殺したというだけの話
>>ついでに言うとほとんどの史料は「生害」の文字を使い
他史料でも共通しているのが「光秀の謀反によって信長は生害」
よって光秀によって自害させられたんだから殺されたと同じ
>>本能寺の変でも織田有楽斎や前田玄以は逃げ延びてるし前提からして大間違いじゃん
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし
有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>つか明智にぶっ殺されたとか荒唐無稽なこと言う奴っておまえくらいだろw
光秀も小早川も言ってるし本城の覚書でも「光秀によって信長は自害させられた」と書いてる
>>本能寺の変直前というのが聞こえなかったのか、1年も前の話を持ってくるなよ
わずか一年で織田家の実権がどう大きく変わったのか具体的に説明よろ
141名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:45:53.54 ID:iC2Ksub2
>>140
>>意味不明。詰まる所は明智や毛利の言うとおり光秀が殺したというだけの話

光秀が信長を殺したのなら信長の首級が京都市中に晒されるだけ
にも拘らず当時の公家も光秀自身も信長の首級には触れていない
ちなみに兼見卿記では生害後の光秀の首級も山崎合戦後の斎藤利三の処刑に関しても記されている
これだけ注目を浴びているのに誰1人信長の首級の事に関しては記録していない事実

>>よって光秀によって自害させられたんだから殺されたと同じ
>>有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
>>有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし

逃げ延びた人物がいる以上、「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらない
信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手。

>>「光秀によって信長は自害させられた」と書いてる

光秀の襲撃と信長の生害は並立して書かれているだけでそれだけが原因ではない
つかそんなこと言い出したら戦争で軍事衝突があれば皆死ぬのかって話だな

>>わずか一年で織田家の実権がどう大きく変わったのか具体的に説明よろ

織田信忠が信長抜きで武田を完全滅亡させる
本能寺直前に公家が信長ではなく信忠を別個に訪問

武田征伐で信忠は信長の命令違反しても信玄の息子みたいに罰されることなく
普通に従軍できているし領土見ても明らかに実権が移譲されてきてるじゃん
どう見ても本能寺直前の織田家権力は信忠>信長じゃん
142名無し曰く、:2013/02/25(月) 03:51:49.28 ID:iC2Ksub2
つか信長ほどの有名人が本当に明知の手にかかってぶっ殺されていたら
明智が京に首を晒すのは当然のことだし当時はそれが普通
武田勝頼も生害した後織田軍の手に首級が渡って京で織田の手によって晒されているし
本能寺の変後も明智光秀の首むくろや明智軍の首級が見世物のように晒されてると当時の公家がこぞって書いているのに
信長だけ「首はありません、生害したらしい」と誰1人信長の死体や首級を確認できないまま本能寺の変が終わっている事実を無視するだがw
143名無し曰く、:2013/02/25(月) 04:12:41.90 ID:+OPfPtuZ
>>光秀が信長を殺したのなら信長の首級が京都市中に晒されるだけ
>>にも拘らず当時の公家も光秀自身も信長の首級には触れていない
焼けてなくなっただけかもしれんだろ
>>逃げ延びた人物がいる以上、「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし
有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
信長は織田家の実権持ちまくり。>>134でわかるし続きが無駄に長いから省略したがまた書かないといけないのか?
>>自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手
上記を証明できる史料をどうぞ。あと自害させたのは光秀の襲撃なんだから殺したのと同義
>>光秀の襲撃と信長の生害は並立して書かれているだけでそれだけが原因ではない
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」
6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候
兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」
6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており
信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>つかそんなこと言い出したら戦争で軍事衝突があれば皆死ぬのかって話だな
意味不明。戦争に負けた側が捕らえられたり逃げられない状況になったりして死を選ぶのは殺されるのと同義
戦争に負けた事と自殺が繋がってるからな。戦争がなきゃ死ぬわけないんだし
144名無し曰く、:2013/02/25(月) 04:28:09.85 ID:+OPfPtuZ
天正10年1月6日信長、鯨肉を献ず、之を廷臣に頒ち賜ふ
正10年1月10日備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印状を請ひて、駿河守に與ふ、
天正10年1月15日信長、三毬打を行ひ、又騎乗す、近衞前久、之に会す
天正10年1月16日信長、佐久間信盛の遺子正勝を召出して、信忠に仕へしむ
天正10年1月21日羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ、
天正10年1月22日信長、狩獲せる鶴を献ず
天正10年1月23日一向宗徒紀伊鈴木孫一、養父の仇土橋平次を撃たんとし、援を信長に請ふ、信長、族左兵衞佐某をして、之を同国雑賀に赴援せしめ、平次を斬る、是日、本願寺光壽(教如)をして、信長と和融せしめらる
正10年1月25日大神宮神主等、両宮を造替せんことを信長に請ふ、是日、信長、銭三千貫を寄進し、平井久右衞門、上部貞永を奉行と為す、尋で、織田信忠をして、岐阜城に蓄ふる銭を検して、造替の用途に備へしむ、
天正10年1月29日信長、尾張の暦師の訴に依り、陰陽頭土御門久脩を招きて、閏月の有無を糺決せしむ、
天正10年2月2日信濃木曽義昌、美濃苗木城苗木久兵衞に頼り、武田勝頼に背きて、信長に通ず、是日、勝頼、之を撃たんとし、諏訪上原に出陣し、諸將をして、国境を守らしむ、
正10年2月3日信長、諸將の甲斐侵入の進路を定め、親ら織田信忠等と共に美濃より、徳川家康をして駿河より、北條氏政をして関東より、金森長近をして飛騨より進ましむ
天正10年2月9日信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停めて、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ、
天正10年2月21日信長、織田信忠及び瀧川一益、川尻秀隆をして、信濃高遠城攻略の為め付城を築き、守備を厳にせしむ
天正10年2月28日信長、妙心寺をして、法度を犯す者は、寺法に拠りて、処分せしむ
天正10年3月5日信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、
天正10年3月6日信長、美濃呂久川に著す、仁科盛信の首級を実検し、之を長良川に梟せしむ、尋で、岐阜城に著す、
天正10年3月9日石清水八幡宮法楽和歌御会を行ひ、信長の戦捷を祈らせらる、
天正10年3月10日諸社寺をして、信長の戦捷を祈らしむ、
天正10年3月14日信長、信濃波合に著陣し、武田勝頼父子の首級を実検す、明日、同国飯田に移り、之を梟す、3/11誠仁親王、千返楽を奏し、信長の戦捷を祈らせらる
天正10年3月16日武田信豊、信濃小諸城下曽根信恒に頼る、信恒、信豊を殺し、是日、首級を信長に同国飯田に進む
3月19日信長、信濃飯田より同国上諏訪に陣を移す、徳川家康、来会す、明日、木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君、来り謁す、信長、之に旧領を安堵せしめ、義昌に信濃安曇、筑摩の二郡を加増す、又諏訪社、同上坊、南方村、甲斐川口郷等に禁制を掲ぐ
天正10年3月19日信長、信忠をして、甲信両国を守らしめ、東海道より帰国せんとす、是日、徳川家康、道路の普請等を為さしむ、
天正10年3月21日北條氏政、信長に物を遺りて、戦捷を賀す
天正10年3月22日左中弁萬里小路充房を甲斐に下し、宸翰を信長父子に賜ひて、之を犒はせらる
天正10年3月22日信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送る、是日、之を梟せしむ、
天正10年3月23日信長、上野及び信濃二郡を瀧川一益に與へ、関東に鎮せしむ、尋で、一益、上野箕輪城より同国厩橋城に移る
天正10年3月24日信長、従軍の將士に兵糧を頒ち與ふ
天正10年3月26日信長、信忠の戦功を賞して、物を與へ、家督を譲るべきことを約す、尋で、信忠、之を謝す、
天正10年3月26日北條氏政、信長の飼馬料として、米千俵を信濃諏訪に輸す
天正10年3月28日北條氏政、信長の、好を厚くせんことを伊豆三島社に立願す、
天正10年3月29日信長、甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井、水内、更科、埴科四郡を森長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団景春に、同金山城を森長定に與ふ、
天正10年3月是月信長、甲信両国の法度を定む、又信濃の金鑿をして、速に還住し、採掘に努めしむ、
天正10年4月2日信長、帰国せんとし、信濃諏訪を発し、甲斐台原に到る、北條氏政、狩獲せる雉を進む、
145名無し曰く、:2013/02/25(月) 04:38:55.08 ID:+OPfPtuZ
4月2日信長の將森長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ
4月3信長、甲府に到り、武田氏の館址に陣す、北條氏政、馬、鷹を贈る
4月3日信長、甲斐仏師原郷等に禁制を掲ぐ
4月10日信長、穴山信君に甲斐の本知分を安堵せしめ、河尻秀隆に宛行ふ地と境界を立て、領知せしむ
4月21日信長、甲府を発し、是日、安土に凱旋
5月1日上杉景勝、信長の兵と戦はんとし、佐竹義重と旧交を修す
5月7日信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、之に讃岐を與へ、三好康長に阿波を與ふ、
5月17日信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
5月21日信長、徳川家康等をして、京都、大坂、奈良及び堺等を遊覧せしむ
5月22日伊達輝宗、信長に馬を贈る
5月29日信長、津田信益、蒲生賢秀等をして、安土城を守らしめ、近臣数十人と共に入京し、本能寺に館す
5月29日越後新発田城新発田重家、信長と通謀し、芦名盛隆も亦、信長に款を通ず、是日、盛隆の將金上盛備、瀧川一益に違約せざることを陳ず、
また信長死後ですら隠岐清家の義子経清、織田信長に属せんとし、事成らずして、清家を誘殺す、
伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、輝元の援を乞ひ、数通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る、
と信長という名前が史料にあがっている。実権が信長にあったのは明らか
146名無し曰く、:2013/02/25(月) 05:02:13.78 ID:iC2Ksub2
>>焼けてなくなっただけかもしれんだろ
>>上記を証明できる史料をどうぞ。あと自害させたのは光秀の襲撃なんだから殺したのと同義
>>信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる

おまえ本気でアホだな
当時の生死確認は(今でもそれに近いが)死体を確認する、首級を確認するの2パターンを主に使用するが
信長の場合はその両方とも不可能なんだから失踪か生害と推測で書かざるを得ないわけ。
焼けてなくなったなんてあくまで可能性の1つでしかない

・信長は生き延びたが、記憶喪失になってそのまま織田家に戻ることはなかった

とかいくらでもいえるわけ、そして史料ではこの手のいわゆる「トンデモ説」の類ですら
信長の死に関して言えば首級が挙がらない+死体を確認できない、の2つの点から
「考察しうる真っ当な説」に早変わりできる。だから信ヤボの信長は本能寺の失点がない。
死んだかどうかもわからんのにマイナスにできるわけがないからなw

>>信長は織田家の実権持ちまくり。

まず信長に実権がないなんて一言も言ってないのだがなw
信長のほかに織田家一門で実権のある正統な人間があればそいつが当主。
そしてそれが信長から家督を譲られた信忠であるというだけ。
信忠>信長であるとは言ったが信長に実権がないなんて一言も話していないのを誇張解釈するだがw

ちなみにおまえがずらずらと挙げている実績、軍事行動の大半は信忠秀吉光秀勝家などといった
各担当者が実際には主流でやっていることくらいは知っているよな?
それを抜くとこの当時信長がやっていることは外交折衝が主になるのだが、
それをわかってやっているんだよな?w

>>戦争に負けた側が捕らえられたり逃げられない状況になったりして死を選ぶのは殺されるのと同義
>>有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
>>有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし

根拠なき妄想乙
信長の死体や首級が見つかっていない時点で明智軍には信長殺害の確たる根拠や自信はない
つまり明智勢は暗中模索の状態で信長の生死もわからんまま変当時行動している
有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
その時点で信長には逃亡する選択肢が存在した、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ

>>6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
>>6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
>>6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候
>>信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる

首級や死体が挙がってないのに死亡宣言とか史料もないのに根拠を語るおまえみたいなもんだろw
明智軍が死体出ないけどとりあえず信長は死んだということにしてフカしこいてるだけw
事実山崎へ向かう羽柴秀吉は6月5日に「織田親子は福富秀勝の手によって脱出した」と中川清秀に書状で通告している。
信長の生死定かならずな状態であったことがすぐにわかる史料だなw
147名無し曰く、:2013/02/25(月) 05:58:56.35 ID:vuMgxic1
結局、長篠の戦いは兵数何対何で勝った決めてはなんだったんだ?
三段撃ちはねつ造なんだろう?武田の騎馬軍団もそうなんだろう?
148名無し曰く、:2013/02/25(月) 14:02:09.23 ID:+OPfPtuZ
>>当時の生死確認は(今でもそれに近いが)死体を確認する、首級を確認するの2パターンを主に使用するが信長の場合はその両方とも不可能なんだから失踪か生害と推測で書かざるを得ないわけ。
焼けてなくなればその両方とも不可能
最後が自害だったなんてそれこそ当時を見てもいない人間が憶測で語ってる史料がほとんどで
当の光秀が信長は討ち果たしたと書いてる。そもそも信長が自害だろうが他殺だろうが関係ない
光秀の謀反襲撃によって自殺したなら信長は光秀に自殺させられたという事だから普通に殺されたのと同義
>>焼けてなくなったなんてあくまで可能性の1
焼けてなくなったからこそ死体確認不可能だったんだし普通に他殺だった場合でも焼けてなくなれば死体確認不可能だから自殺の場合と確率的にかわらん
あと自殺でも最後を近習に殺させたなら十分他殺
>>信長は生き延びたが、記憶喪失になってそのまま織田家に戻ることはなかった
信長は発見されなかったんだし皆史料でも本能寺の変で死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>そして史料ではこの手のいわゆる「トンデモ説」の類ですら信長の死に関して言えば首級が挙がらない+死体を確認できない、の2つの点から「考察しうる真っ当な説」に早変わりできる。
意味不明。本能寺で死んだのはどの史料でも共通してるしその後発見されてないのだから死んだと考えるのが普通
>>だから信ヤボの信長は本能寺の失点がない。 死んだかどうかもわからんのにマイナスにできるわけがないからなw
信ヤボの信長の本能寺の失点がないのはちゃんと経過が考慮されてるからであってお前のように運や状況無視して結果で決め付ける馬鹿がゲーム作成していないので当たり前
死んだかもどうかもわからんとか妄想乙だな。生きてるって主張する論文学説史料あげてからいえよクズ
>>信長のほかに織田家一門で実権のある正統な人間があればそいつが当主
当主でも格方面軍に命令出しまくり朝廷への貢献行為やりまくったり他大名からの献品受け取ったり
禁制だしたり攻め取った国の法度定めたり戦後の領土配分決めたり兵糧与えたり家臣を遠方に飛ばしたり織田家の中心的行動は全て信長起点で行われており
信忠は一方面軍を率いるという立場でしかない
>>ちなみにおまえがずらずらと挙げている実績、軍事行動の大半は信忠秀吉光秀勝家などといった各担当者が実際には主流でやっていることくらいは知っているよな?
そら他方面に部隊がいるから自分がそのどこかに向かえば全体に指令だせないから現地にはそれぞれ指揮官おいて中心から命令だしたり全体の戦略決定してただけだろ
>>信長の死体や首級が見つかっていない時点で明智軍には信長殺害の確たる根拠や自信はない
死体首級が見つかろうが見つかるまいが本能寺を十重ハ十重に囲んでその内部が全壊して全員殺せばその中に信長が混じってるなんてアホでもわかる。
たまたま焼け落ちて死体がなくなっただけ。大体本能寺なんて大して大規模拠点でもないし周囲を1万以上の大軍で蟻の抜け出る隙間もなく囲めば標的(信長)を逃がすわけがない
149名無し曰く、:2013/02/25(月) 14:02:30.67 ID:+OPfPtuZ
>>つまり明智勢は暗中模索の状態で信長の生死もわからんまま変当時行動している
光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>その時点で信長には逃亡する選択肢が存在した、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ
根拠なし。本能寺を十重ハ十重に囲まれて生き延びれるわけないし逃げれるなら逃げてる
>>首級や死体が挙がってないのに死亡宣言とか史料もないのに根拠を語るおまえみたいなもんだろw
そら上記のように皆死んだものとして扱ってるし発見された様子もないし
>>明智軍が死体出ないけどとりあえず信長は死んだということにしてフカしこいてるだけw
明智軍は大軍で本能寺を包囲したので逃げ切れるわけがない。本能寺なんて大して大規模拠点じゃないし隙間なく包囲なんて楽勝
ちなみに皆信長は死んだものとして行動しておりその後発見された様子もなし
>>事実山崎へ向かう羽柴秀吉は6月5日に「織田親子は福富秀勝の手によって脱出した」と中川清秀に書状で通告している。
当の秀吉が信長の仏事(葬式)を主催しているわけだが
家康も光秀も公家連中も死んだとしてるし生きてるなんて書いてるの秀吉の例のごとくデタラメ書きまくった糞史料だけだよ
150名無し曰く、:2013/02/25(月) 15:07:09.85 ID:iC2Ksub2
>>焼けてなくなればその両方とも不可能。当の光秀が信長は討ち果たしたと書いてる。
>>あと自殺でも最後を近習に殺させたなら十分他殺

根拠なき妄想乙、焼けてなくなったとか当時の史料に皆無。
ついでに言うと普通の火事ごときで人間の死体が判別不可能になるほど真っ黒焦げにはならない。
あと信長は「生害」であって「切腹」ではない。最期を見届けた近習がいるかどうかも不明。

>>光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし
>>公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし

明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が
信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実

>>織田家の中心的行動は全て信長起点で行われており信忠は一方面軍を率いるという立場でしかない

一方面軍とか知ったか乙、別所松永武田と織田家の軍事活動は信忠総大将で行われている
つか一方面軍だったら光秀や秀吉が信忠の旗下に入って戦うわけがない。信長は内政外交など裏方をやっていただけ。
外交すら信忠や勝家といった現地の連中がある程度やることもあるし実質内政だけが信長の特許。

>>有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
>>本能寺を十重ハ十重に囲まれて生き延びれるわけないし逃げれるなら逃げてる

有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は
自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。

>>7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付無比類御覚悟持頼などと書いてるし
>>6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
>>6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>当の秀吉が信長の仏事(葬式)を主催しているわけだが

認定死亡という言葉も知らない情弱乙、例え死んでいなくても一定期間帰ってこなければ死んだものと扱われるし
戸籍や個人情報が確たる現代でも、認定死亡扱いされた人間がヒョッコリ帰ってきたり別の場所で生きていたりするのがままある。
信長の死体や首級を誰も確認できていない以上、信長が死んだかどうかなんて確証や自信も一切ないし、
事実秀吉は信長の仏事(葬式)に際して信長の木像を代用している。
151名無し曰く、:2013/02/25(月) 15:31:00.10 ID:iC2Ksub2
つか信長の首級や死体が見つかりませんでした、なんて本当に信長が明智勢に殺されていたらまずありえないからな
多聞院日記や晴豊記では本能寺の変の発生時刻を「暁4時」「早天」としていることから
早朝に事変があったことは明白なのに太陽が昇った日中の捜索で首を見つけられないとかありえないし、
当事者の明智軍が見つけられないのに余所者が適当に見つけて死体持ち出しとかもっと無理だし
普通の死体じゃ放火で燃えたくらいで判別不可能になるくらい黒こげにならない。

書状で「信長打ち果たし」なんて書いてる光秀が信長の首を市中に晒さないとも思えないし
実はどこかで生きてました、とか言われても否定できる根拠を出せない。あくまでどれも推測、当事者同士ですら推測。
もともと信長は御歳49だし当時ならとっくに長生きできる年齢じゃないから
生き延びてても数ヶ月数年で天寿を全うしたのかもな。
152名無し曰く、:2013/02/25(月) 16:14:13.95 ID:+OPfPtuZ
>>焼けてなくなったとか当時の史料に皆無。ついでに言うと普通の火事ごときで人間の死体が判別不可能になるほど真っ黒焦げにはならない。
普通に考えて死体が見つからなかったにもかかわらず皆が死んだものとして扱っておりその後の登場もなくなるのだから焼けて死んだと考えるのが普通
後半部分は完全に妄想だな。火力が強ければ普通に判別不可能に黒こげになる。火葬場とかと同じ
>>あと信長は「生害」であって「切腹」ではない。最期を見届けた近習がいるかどうかも不明。
自殺と書いてるのは信長を見てるわけでも知ってるわけでもない公家連中とか家忠とかで当の光秀は討ち果たしたと書いてるだけで
そもそも自殺だろうが他殺だろうが光秀の謀反襲撃によって信長は死んだんだから殺されたのと同じ
>>明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
首級や死体を確認できないから討ち果たしたがデタラメとか基地外だな。普通に脱出不可能な包囲に追い込んで逃げられるわけないし皆死んだと扱ってる
つうか逃げたなら信長がその後発見された史料とか生きたものとして皆が行動してる史料がないはずがなく、そんなもんないので論外
>>事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実
そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね。それか光秀が哀れんで晒さなかっただけ。光秀の場合は謀反人だから世にさらし者にするのは当たり前だし
信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。
>>一方面軍とか知ったか乙、別所松永武田と織田家の軍事活動は信忠総大将で行われている
>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
>>つか一方面軍だったら光秀や秀吉が信忠の旗下に入って戦うわけがない。信長は内政外交など裏方をやっていただけ。
それは関係なし。北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>外交すら信忠や勝家といった現地の連中がある程度やることもあるし実質内政だけが信長の特許。
宇喜多からの家臣の拝謁と宇喜多家の裁定、佐久間正勝の信忠への家臣への取立てなどありとあらゆる行動を信長がやってる>>144-145
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるから
彼らが逃げられたからといって信長が逃げ切れる根拠には全くならない
>>結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は 自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。
根拠なし。ちなみにその価値観とやらはどの史料or論文でどう信長が明らかにしてる価値観なんだ?本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない
153名無し曰く、:2013/02/25(月) 16:14:33.23 ID:+OPfPtuZ
>>認定死亡という言葉も知らない情弱乙、例え死んでいなくても一定期間帰ってこなければ死んだものと扱われるし
だから発見されてない以上生きていたとか妄想としかいえない。後秀吉が認定死亡行ったなどという根拠もなし
>>戸籍や個人情報が確たる現代でも、認定死亡扱いされた人間がヒョッコリ帰ってきたり別の場所で生きていたりするのがままある。
んで信長が生きていた根拠は?
>>信長の死体や首級を誰も確認できていない以上、信長が死んだかどうかなんて確証や自信も一切ないし、
光秀も秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠も死んだといってるし皆死んだものとして行動してるしその後発見されてないんだから死んだと考えるのが普通
>>事実秀吉は信長の仏事(葬式)に際して信長の木像を代用している。
だからなんだ?
>>つか信長の首級や死体が見つかりませんでした、なんて本当に信長が明智勢に殺されていたらまずありえないからな
殺されていたからこそ皆信長亡き者として葬儀行ったり織田家の後継問題で清洲会議開いたり織田家を秀吉がのっとったり信長の子の領土にいちゃもんつけて攻め込んだりしただけ
つうか黒こげになったら首級なんてみつかるわけがない
>>多聞院日記や晴豊記では本能寺の変の発生時刻を「暁4時」「早天」としていることから早朝に事変があったことは明白なのに太陽が昇った日中の捜索で首を見つけられないとか
どうありえないのか不明。死体を埋めさせたのかもしれないしこげたものをバラバラにして家臣が葬ったのかもしれないしいくらでも妄想できるわけで。
>>当事者の明智軍が見つけられないのに余所者が適当に見つけて死体持ち出しとかもっと無理だし
身内とか小姓とかがが持ち出せばいいだけだろ
>>普通の死体じゃ放火で燃えたくらいで判別不可能になるくらい黒こげにならない。
なぜならないのか不明。人は脂肪分が多い分火力が強ければすぐ燃えるし燃えにくけりゃ油でもかけりゃいいだけ
>>書状で「信長打ち果たし」なんて書いてる光秀が信長の首を市中に晒さないとも思えないし
光秀は謀反人だから晒されただけ。当の謀反起こした光秀が信長を晒せる筋目なんぞない
>>実はどこかで生きてました、とか言われても否定できる根拠を出せない。あくまでどれも推測、当事者同士ですら推測。
そんなもん史料にない以上妄想だろアホ。皆死んだものとして行動してるわアホ
>>もともと信長は御歳49だし当時ならとっくに長生きできる年齢じゃないから生き延びてても数ヶ月数年で天寿を全うしたのかもな。
根拠なし。もっと長生きしてる人間なんていくらでもいるし病気だったという史料もどこにもなくただ光秀に殺されただけ。
154名無し曰く、:2013/02/25(月) 17:03:23.71 ID:iC2Ksub2
>>後半部分は完全に妄想だな。火力が強ければ普通に判別不可能に黒こげになる。火葬場とかと同じ
>>なぜならないのか不明。人は脂肪分が多い分火力が強ければすぐ燃えるし燃えにくけりゃ油でもかけりゃいいだけ
>>つうか黒こげになったら首級なんてみつかるわけがない
>>そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね

やっぱおまえバカだったんだなwwwwww放火による焼死と火葬場の御炊き上げを一緒にするなよw
火葬場の御炊き上げで灰になるのは、現代の技術と火葬場の職員の火加減調整でできる代物、
信長の遺体がきっちり燃え尽きるまで近習が生きてられるわけないし、本能寺は適当に放火してるんだから温度調節もできるわけがないw
ちなみに人間の体が焼かれて黒こげになり判別不可能になるのは、俗に言う「完全炭化」と言われるものだが
現代でもこれが観測されるのは原子爆弾や核施設での熱傷くらいで、普通の放火レベルだとまず起こりえないんだがなw

>>どうありえないのか不明。死体を埋めさせたのかもしれないしこげたものをバラバラにして家臣が葬ったのかもしれないしいくらでも妄想できるわけで。
>>身内とか小姓とかがが持ち出せばいいだけだろ
>>本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない

根拠なしの妄想乙。小姓や身内が逃げられるくらいなら信長も逃げられる。
そもそも明智軍は信長の首級死体が見つからないのに近江に転進している。

>>光秀が哀れんで晒さなかっただけ。信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。

根拠なし。当時の戦争で勝った側が討ち取った首級を晒さない、確認しないなんてまずありえないし、
光秀の場合信長の首を晒せなかった事が結果的に負けにつながってるのだから致命傷レベル。
おまえの妄想のために光秀もおセンチな性分にさせられるんだから可哀想なもんだなw

>>そもそも自殺だろうが他殺だろうが光秀の謀反襲撃によって信長は死んだんだから殺されたのと同じ
>>普通に脱出不可能な包囲に追い込んで逃げられるわけないし皆死んだと扱ってる

明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が
信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実

有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は
自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。
155名無し曰く、:2013/02/25(月) 17:16:38.57 ID:iC2Ksub2
>>>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく
>>信長を織田家当主として贈り物おくったり 拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
>>それは関係なし。北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
>>その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ

信長に貢物送るのはご機嫌取るためだし信忠は明智や秀吉を傘下に加えて別所松永の討伐も行っている
信長はあくまで内政作業や調整をしているだけにすぎない。つか信長が諸将を率いて敵を倒すなんて
戦国大名の基礎中の基礎を天正十年には全くやっていないし、信長自身が織田家の当主信忠に権力移譲させまくってる。
つか方面軍に指示を出すとか天正十年段階では信長の指示がほとんどなくなるし、当の信忠に命令違反されまくっているが。

>>そんなもん史料にない以上妄想だろアホ。皆死んだものとして行動してるわアホ
>>んで信長が生きていた根拠は?
>>だからなんだ?

まず信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ

信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。

つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
156名無し曰く、:2013/02/25(月) 17:17:23.75 ID:iC2Ksub2
秀吉葬儀→秀吉主導の信長葬儀
157名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:21:33.93 ID:+OPfPtuZ
>>放火による焼死と火葬場の御炊き上げを一緒にするな火葬場の御炊き上げで灰になるのは、現代の技術と火葬場の職員の火加減調整でできる代物、
現代のような炊き上げでなくても人を燃やすくらい楽勝。現代でも火事で死ぬ人くら一杯いるしな
>>信長の遺体がきっちり燃え尽きるまで近習が生きてられるわけないし
近習が信長の放火地点から離れればいいだけだし近習が生きているかどうかなんて関係なし。近習が死んでも信長が燃え尽きれば問題ない
>>本能寺は適当に放火してるんだから温度調節もできるわけがないw
適当に放火した根拠なし。適当でも人が燃えるくらい楽勝。火事でも人は死ぬしな
>>ちなみに人間の体が焼かれて黒こげになり判別不可能になるのは、俗に言う「完全炭化」と言われるものだが
>>現代でもこれが観測されるのは原子爆弾や核施設での熱傷くらいで、普通の放火レベルだとまず起こりえないんだが
現代でも火事で死ぬ人くらいいるし近習が信長の体を切ってバラバラにして油でもかけて燃やせば楽勝。死んで顔がわからなくなれば光秀側としても晒す価値などないしな
大体DNA判定の技術の進んだ現代とそんなもんない中世の死体判定を一緒くたにするとかアホかと
>>根拠なしの妄想乙。
いや、そもそもお前が諸資料で死んだことになっており、その後の登場もない信長が死体がないとかいう理由で生きてるとか主張する妄想への反論なんでまずお前の妄想からして根拠なしなので
妄想に対して反論するなら妄想で十分
>>小姓や身内が逃げられるくらいなら信長も逃げられる。
身内や小姓は直接的に狙われている張本人でもないし信長ほど執拗に追撃くるはずもないので根拠なし
>>そもそも明智軍は信長の首級死体が見つからないのに近江に転進している。
そりゃ信長が火の中で確実に死んだと思ったからじゃね。変起こして本能寺で信長襲ったのに信長死んでなかったら光秀側として意味ないしな。
実際光秀もほかの連中も死んだ事自体にけちつけてるアホはいないし
>>根拠なし。当時の戦争で勝った側が討ち取った首級を晒さない、確認しないなんてまずありえないし、
いくらでもあるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手
滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>光秀の場合信長の首を晒せなかった事が結果的に負けにつながってるのだから致命傷レベル。
信長の首を晒せないことと負けがどう繋がっているのが意味不明。
>>おまえの妄想のために光秀もおセンチな性分にさせられるんだから可哀想なもんだなw
意味不明。光秀は信長を殺したけど信長の死体が出てこなかっただけ。
>>明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
なんで嘘なんだよアホ。普通に考えて本能寺なんてちっぽけな拠点を大軍で取り巻いたら逃げ切れるわけないし光秀も秀吉も柴田も家忠も家康も小早川も毛利も公家も信長は死んだと書いたり
死んだものとして織田家の後継を決めたり行動してるのに死んでないわけないだろアホ
>>事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が信長の首級や死体に関して誰1人
そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね。それか光秀が哀れんで晒さなかっただけ。光秀の場合は謀反人だから世にさらし者にするのは当たり前だし
信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。
>>有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
158名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:22:18.61 ID:j/iKRPHw
誰ぞ読んでくれるとおもってるんだろうな
159名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:36:02.57 ID:+OPfPtuZ
>>そもそも本能寺どころか京中明智軍の軍勢がごった返していたのに有楽や玄以が逃げおおせている事実。
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるから
彼らが逃げられたからといって信長が逃げ切れる根拠には全くならない
>>結局その時点で信長には逃亡する選択肢が存在したことは否定できない、ただ織田家当主ではない信長は自分の価値観でそれを選ばなかった、それだけ。
根拠なし。ちなみにその価値観とやらはどの史料or論文でどう信長が明らかにしてる価値観なんだ?本能寺なんて小規模拠点を十重ハ十重に囲まれて逃げ切れるわけがない
>>信長に貢物送るのはご機嫌取るためだし
お前のいうように信忠が実権持ってるなら信忠に貢物すればいいだけ
>>信忠は明智や秀吉を傘下に加えて別所松永の討伐も行っている
>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
>>信長はあくまで内政作業や調整をしているだけにすぎない。つか信長が諸将を率いて敵を倒すなんて戦国大名の基礎中の基礎を天正十年には全くやっていないし
>>144-145のようにやりまくってるし武田攻めでも中国征伐でも援軍に行こうとしてた
>>信長自身が織田家の当主信忠に権力移譲させまくってる。
全然してないわけだが。>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>つか方面軍に指示を出すとか天正十年段階では信長の指示がほとんどなくなるし、当の信忠に命令違反されまくっているが。
>>144-145のようにやりまくってる
>>まず信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」 また他の史料でも信長の死と光秀の謀反・本能寺襲撃は繋げて書かれているため
光秀の襲撃により信長は死んだ(殺された)といえる
光秀以外にも秀吉は変を知ってかけつけてるし葬儀もやったりしてるしほかの連中も信長を捜索したとか生きていたとか言ってる気配は全くなく死んだ物として歴史は動いている
160名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:36:44.39 ID:+OPfPtuZ
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
やけこげてなくなったんじゃね。普通に生きてたら目撃証言とか生きてるらしい史料があがるはずだし当時の人間が皆生きてるなどとデタラメ書いてるの秀吉の中川宛書状だけだろ
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
>>見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
光秀が公家はまだしも家康や家忠や秀吉なんかに殺害を伝えてどうすんだよアホ。史料ないどうこうのレベルでなく自殺行為としかいえんわw
普通に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で取り巻いて逃げられるわけないのだから死んだと判断して討ち果たしたと書いただけ。
そもそも信長が生きてたら光秀側としたらとんでもない事になり本能寺出兵の目的も灰燼と化すのだからもっと必死に捜索している
単に光秀からみて確実に死んでると判断できる状況だからそれをしなかっただけ
>>諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない
161名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:38:25.75 ID:+OPfPtuZ
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
やけこげてなくなったんじゃね。普通に生きてたら目撃証言とか生きてるらしい史料があがるはずだし当時の人間が皆生きてるなどとデタラメ書いてるの秀吉の中川宛書状だけだろ
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
>>見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
光秀が公家はまだしも家康や家忠や秀吉なんかに殺害を伝えてどうすんだよアホ。史料ないどうこうのレベルでなく自殺行為としかいえんわw
普通に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で取り巻いて逃げられるわけないのだから死んだと判断して討ち果たしたと書いただけ。
そもそも信長が生きてたら光秀側としたらとんでもない事になり本能寺出兵の目的も灰燼と化すのだからもっと必死に捜索している
単に光秀からみて確実に死んでると判断できる状況だからそれをしなかっただけ
>>諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない
162名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:52:09.42 ID:iC2Ksub2
バカすぎわろたwwwww

>>現代のような炊き上げでなくても人を燃やすくらい楽勝。現代でも火事で死ぬ人くら一杯いるしな

火事で死ぬのは一酸化炭素中毒だバーカwwww中毒死だから黒くならねーし
むしろ肌がピンクになったままだから死班で焼死か中毒死か判別できるわけがないw

結局>>154>>155も否定できる根拠なし

信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ

信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
見つからなかったためであって、事実秀吉葬儀自体が信長死後3ヶ月近く経過した後で行われている。

つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を
諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。

信長が明智軍に殺されたというのなら最低でも
・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

これくらいは証明してもらわないと、俺も暇人じゃないんでおまえの妄想と教養教室にはつきあってらんねーわw
163名無し曰く、:2013/02/25(月) 18:52:48.56 ID:iC2Ksub2
死班で焼死か中毒死か判別できるわけがないw→死班で焼死か中毒死か判別できるのにw
164名無し曰く、:2013/02/25(月) 19:38:33.63 ID:+OPfPtuZ
>>162
相当無知だな
人間の体なんて水分がかなり大部分でありまた油分も多いから火力が強ければ簡単に焼死可能
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fireschool2/d-B3-16-3.html
大体中毒が直接的原因でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから直接的死因は関係なし
>>結局>>154>>155も否定できる根拠なし
>>157-161で論破されています
>>信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
そもそもこれが根拠なし。光秀が公家に一々「俺が信長殺したよ」なんて伝えている資料なんてあったか?
家康家忠秀吉なんかも光秀側から情報もらうわけねぇしw
>>ところが光秀含め明智軍は誰1人信長の首級も見てないし信長の死体も見ていない。
常識的に考えて本能寺みたいな小さな拠点を大軍で囲って火を放ったら逃げる隙間などなくなり逃げたらすぐ捕まるだけだから死んだとしかいえないし
実際光秀も公家も家忠も秀吉も家康も柴田も毛利も小早川もそう考えて書状に死んだと書いたり死んだものとして織田家の後継問題に着手したりして進めてる
>>つまり秀吉も公家も小早川も輝元も家康も家忠もみーんな光秀のフかしに騙されているだけにすぎない。
そもそも公家や小早川や輝元はともかく秀吉やら柴田やら家忠やら家康やらにどうやって光秀のふかしが伝わるんだよアホ。そんな事伝えている根拠資料はないどころかそんな事したら
討伐に来るタイミングが速まり自分の危険が増えるだけだろ
>>確証がないのに光秀が「信長をぶっ殺した」と自分が望みうるように発言したのを皆信じ込んだだけ
根拠なし。現場にいあわせた光秀近習の本城すら死んだと書いてるし死んだと考えるのが普通
>>信長の木像を秀吉が葬儀に使ったのは信長が死んだと言う確証である「信長の首級」と「信長の死体」が
でも光秀→西尾・小早川や足利御内書で信長を討ち果たしたと書いてるし公家日記や家忠日記でも本能寺で死んだことになってるし7/11秀吉→細川起請文でもやはり信長御不慮二付、
無比類御覚悟持頼などと書いてるし6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候といっており信長が死んだのは明らか
>>つまり記録上秀吉が葬儀を行ったことで信長が「認定死亡」されたことになるため、
そりゃ皆死んだといっており生きている根拠も姿もなく本能寺なんて小規模拠点を大軍で囲まれて生きられるわけないので死んだと考えるのが普通
>>それ以前の書状や史料から見れる「信長生害」はあくまで「明智光秀の伝達通告」による「推測願望レベルの情報」を 諸将公家たちが「騙されて真に受けていた」というだけにすぎない。
根拠なし。信長が生きていれば風聞やら姿やらが見つからないわけがない。死の直前記まで国割やら何やら自分で決めようとしまくったり武田を晒しものにしたり
自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
その後登場しなくなり皆死んだとしており政治も信長亡き後の後継問題に移っているのだから
信長死んでないとかただの妄想。そもそも生きてるなら登場してる気配くらいあるだろうし
165名無し曰く、:2013/02/25(月) 20:30:08.47 ID:iC2Ksub2
>>165
>>人間の体なんて水分がかなり大部分でありまた油分も多いから火力が強ければ簡単に焼死可能
>>大体中毒が直接的原因でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから直接的死因は関係なし

自分で引用したサイトも読めないアホwww
おまえが言っている完全炭化は火災による死者の死因4つのうちの1つ「焼死」の中の
熱傷深度(T度、浅いU度、深いU度、V度、W度の5つ)の中で最も深刻なW度のみ。
つまりおまえは本能寺で適当に放火された本能寺の変で、現代の火事の死因でも超稀な「完全炭化」を
信長が引いたと荒唐無稽なことを言っていることに気づかないアホwww

ちなみにおまえは
>>でもその後燃えて消えてしまえば体はぐしゃぐしゃになるのだから

とアホな妄想をほざいているが、熱傷で死んだ場合筋肉が凝固作用を起こして
ぐちゃぐちゃになるどころかきっちり固まってしまうのも知らないアホw

http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/lect/fire.html

多少グロイがこの焼死体の一部を解剖するサイトなんかでも
黒こげの部分はごくわずかで肌色の部分がところどころ見えているのがわかる。
おまえが言うような「真っ黒こげになって、姿かたちもわからない」なんてのは夢物語
現代でも滅多に起こらない症例が適当に放火した本能寺で起こるわけがないw
166名無し曰く、:2013/02/25(月) 20:52:13.41 ID:iC2Ksub2
>>>>157-161で論破されています
>>そもそもこれが根拠なし。光秀が公家に一々「俺が信長殺したよ」なんて伝えている資料なんてあったか?
>>家康家忠秀吉なんかも光秀側から情報もらうわけねぇしw
>> また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており
>>皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要

別に全員ではないが明智光秀が通告したケースもあるし、各々が早合点している場合も当然ある。
ただし本能寺の変に際して、後者の場合はあくまで伝聞にすぎない。毛利小早川に至っては
「織田信孝も戦死した」「光秀だけでなく勝家も加担」と適当な情報をリークしまくってる。
一次史料を経る前に伝聞や通告などの二次史料に使われる情報が早い段階で流れている。

で、織田信長が死んでいたとする最も有力な情報根拠が、変当時本能寺を囲んでいた明智光秀や明智軍であるが、
光秀含む明智勢は信長の首級も死体も発見していないし、「織田信長が死んだ」という確たる情報を掴んでいない。

つまるところ、「本能寺の変で織田信長は死んだ」という大前提が
信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで

・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。

>>いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、
>>関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で
>>殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる

市中に晒さなくても、明智光秀や明智軍が信長の首級を確認するのは当然だし、
当時の光秀はそれすらしていないわけだがそれはどう説明するんだ?
つか戦場で死んだ場合その死を見届ける敵や味方が必ずいるわけだが信長の場合はそれすらいない
勝家の場合は同様に考慮する必要があるな。

>>その後登場しなくなり皆死んだとしており政治も信長亡き後の後継問題に移っているのだから
>>信長死んでないとかただの妄想。そもそも生きてるなら登場してる気配くらいあるだろうし
>>自分の意思で織田を動かしまわる意思を持つ人間が自分の意思決定ができなくなる死という事態を望むわけがない

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
167名無し曰く、:2013/02/25(月) 20:57:55.65 ID:iC2Ksub2
つか光秀が信長の首級晒さないとか妄想にもほどがあるだろ
信長はそんじょそこらの戦場でのたれ死んで何も起こらないような端役じゃないし
信長を討ち取ったんならそれが立派な信長死亡の根拠になるし、信長の知名度から言って晒すのが当然
関ヶ原でも石田安国寺小西といった首謀者は切腹の末に晒されてるし
晒す価値もないと敵から判断される家臣連中や譜代連中と信長では歴然の差がある
168名無し曰く、:2013/02/25(月) 20:59:16.30 ID:+OPfPtuZ
>>165
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fireschool2/d-B3-17-3.html
の最後を見ればわかるように現代に比べて木造の比率の高い中世の場合焼死による死亡率が高いしそもそも現代でも比率でいって
中毒死が多く焼死が比較的少ないというだけで普通に焼死も起こりえるんだが
http://kaiwa-kouza.com/contents/sub/common/t_genso.html
のように人体の構成成分の96%は有機物なので普通に火で燃焼しうるわけ。
直接的死因が中毒死でもその後燃え続ければ普通に燃焼するのが人体。

>>http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/lect/fire.html
これは単に火傷レベルの人間の画像だし完全燃焼するまでには至っていない。
169名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:12:53.82 ID:iC2Ksub2
>>168
だから何を勘違いしてるんだ?
おまえのいう「真っ黒こげで姿かたちもわからない状態」ってのは
「焼死」の中の「W度」という現代でも超稀なレベルじゃないと起こらない。
そもそも炭化すると皮膚が固まるから、ぐちゃぐちゃになるどころか顔や体が固まって
マネキンのように一目瞭然の焼死体が出来上がる。信長がそんな状態なら光秀でも顔わかるだろーが。

体が燃える、焼死する、だけじゃおまえのいう「真っ黒こげで姿もわからん」なんてまず起こらないの
ただ黒こげになるだけで姿かたちはわかりうるの
170名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:19:06.98 ID:iC2Ksub2
http://meddic.jp/%E7%84%BC%E6%AD%BB
このサイトで焼死してしまった人々の関連画像が見れる
右から2番目なんて顔が歴然とわかるだろ?こんな状態で光秀が信長を見間違うと思うか?
171名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:22:31.28 ID:+OPfPtuZ
人体発火現象http://www.nazotoki.com/shc.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E4%BD%93%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%81%AB%E7%8F%BE%E8%B1%A1
>>166
>>別に全員ではないが明智光秀が通告したケースもあるし、各々が早合点している場合も当然ある
通告したのは毛利と小早川だけじゃね家康やら家忠やら秀吉やら相手に自分からいうわけないし言ったら逆に自分の首絞める結果になるだけ
早合点とか意味不明。根拠なしの妄想乙だな
>>後者の場合はあくまで伝聞にすぎない
そら当事者は光秀とそれに従軍した本城くらいだしこの二人が信長死んだと書き他の連中も皆信長死んだといいまた信長死んだものとして行動し信長亡き後の織田家に関して取り決めを行っているのだから
普通に考えて信長は死んだとアホでもわかるというだけ。
>>で、織田信長が死んでいたとする最も有力な情報根拠が、変当時本能寺を囲んでいた明智光秀や明智軍であるが、
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>光秀含む明智勢は信長の首級も死体も発見していないし、「織田信長が死んだ」という確たる情報を掴んでいない。
そら火に燃えて消えれば判別つかなくなるし誰かが埋めれば発見不可能
>>つまるところ、「本能寺の変で織田信長は死んだ」という大前提が信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで
その後だれも見ていないし歴史上から消えてる以上殺されて死んだと見るのが妥当。
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
172名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:23:28.07 ID:+OPfPtuZ
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
逆に生きていたとするならその生存史料が証明材料として必要。本能寺なんて小さな拠点を大軍で囲まれて脱出できるわけねえし普通に逃げ切れないと判断したから光秀は捜索しなかっただけ
>>信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
公家日記家忠日記家康書状光秀書状毛利書状足利御内書秀吉書状でわかるしその後信長葬儀が執り行われ清洲会議が開かれているから死んだとアホでもわかる
>>また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>つか光秀が信長の首級晒さないとか妄想にもほどがあるだろ
いくらでもあるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された
徳川譜代連中大勢や平手 滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>信長はそんじょそこらの戦場でのたれ死んで何も起こらないような端役じゃないし
逆にそうした高貴な人間はさらし者にしたりしないのが普通。家康が三成らはさらし者にしたが大老連中は殺さなかったのと同じ。
中途半端な地位にある奴のが殺されたりさらし者にされたりする
>>信長を討ち取ったんならそれが立派な信長死亡の根拠になるし、信長の知名度から言って晒すのが当然
晒しものにしない例なんていくらでもあるし死体が燃焼したり埋められてたら到底そんな芸当不可能
>>関ヶ原でも石田安国寺小西といった首謀者は切腹の末に晒されてるし
でも輝元も島津も景勝も利長も盟約違反の政宗も大名連中は晒しものにも殺されてもいないし逆に中途半端な地位の連中のが切腹させられたりしてる
>>晒す価値もないと敵から判断される家臣連中や譜代連中と信長では歴然の差がある
残虐な性格で長政や義景をはくだみにした信長が義昭に対して危害は加えなかったのと同じじゃね。高貴な人間だから晒したら残虐すぎるという事で批判を恐れたんじゃね
173名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:31:34.43 ID:+OPfPtuZ
>>169
現代でも稀というより救命手段が発達し建造物の中の木造の割合が減った現代だからこそ稀なんだろ
昔の戦争なんて火攻めとか使われまくってるし松永とか柴田とかも火の中で壮絶に死んだと伝わるしな
あと炭化するなら人体の中で最も構成比率高い水分や油分が蒸発するので元の形状とどめるなんて無理
>>170
どこから見れるんだ?
174名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:32:05.74 ID:iC2Ksub2
>>人体発火現象http://www.nazotoki.com/shc.html
>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E4%BD%93%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%81%AB%E7%8F%BE%E8%B1%A1

人体発火はまず出してくるだろうと思ったが日本での症例が0だからまずありえないw
ちなみに症例を見てくれればわかると思うがどれも1900年以降の話。
ちなみに人体発火の最有力説はアルコールの飲みすぎによるものだが日本にはそんな度数の高いアルコールなどない、特に当時は

>>また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>その後だれも見ていないし歴史上から消えてる以上殺されて死んだと見るのが妥当

信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで

・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
175名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:36:25.32 ID:iC2Ksub2
>>173
関連画像右 http://www.geocities.jp/torikai019/tokyo/tokyo3-10a30006.jpg

>>あと炭化するなら人体の中で最も構成比率高い水分や油分が蒸発するので元の形状とどめるなんて無理

水分や油が蒸発したところで死んだ瞬間から筋肉たんぱく質が凝固するから固まるんだがな
つかおまえ料理したことないの?牛肉や豚肉でいいから焦げて炭化するまで焼いてみたら?

>>いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、
>>関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・ 三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や
>>平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる

光秀が信長の首級晒さないとか妄想にもほどがあるだろ
信長はそんじょそこらの戦場でのたれ死んで何も起こらないような端役じゃないし
信長を討ち取ったんならそれが立派な信長死亡の根拠になるし、信長の知名度から言って晒すのが当然
関ヶ原でも石田安国寺小西といった首謀者は切腹の末に晒されてるし
晒す価値もないと敵から判断される家臣連中や譜代連中と信長では歴然の差がある

市中に晒さなくても、明智光秀や明智軍が信長の首級を確認するのは当然だし、
当時の光秀はそれすらしていないわけだがそれはどう説明するんだ?
つか戦場で死んだ場合その死を見届ける敵や味方が必ずいるわけだが信長の場合はそれすらいない
176名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:40:50.65 ID:iC2Ksub2
まあ、一応注釈しておくと、原型とどめないくらい燃やすこと自体は可能だぞ
ただし核エネルギーとか超火力で焼かないと意味がないからな、適当に放火した当時の本能寺では無理
あと火攻めで燃やしまくるというのは大人数に対してだろうから一酸化炭素中毒が大半の死因になるし
それ単体で姿かたちもわからんくらい燃やすのは無理がある
177名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:45:29.58 ID:+OPfPtuZ
>>人体発火はまず出してくるだろうと思ったが日本での症例が0だからまずありえないw
別に外国で起こったなら日本で起こり得ない理由がないわけない。そもそも人体が燃えやすい事例としてあげただけ。
>>ちなみに症例を見てくれればわかると思うがどれも1900年以降の話。
いやそもそも燃えやすい事の事例だから時代とか関係ない。人体の構成成分が中世と今とでそんな大きく変化する根拠もないし
>>ちなみに人体発火の最有力説はアルコールの飲みすぎによるものだが日本にはそんな度数の高いアルコールなどない、特に当時は
根拠は?アルコール摂取過多なんて可能性の一つにすぎないし日本酒でもアルコール含まれるから燃料にはなりうる
>>信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
そら燃えてしまったり爆発でバラバラになったり埋められれば消えるのが死体。大体んなこというなら晒されなかった
しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された
徳川譜代連中大勢や平手 滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中とかは死んでないのかって話になるし長篠戦死者とされる武田家臣とかも晒されてなくないか
>>誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
178名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:45:52.73 ID:+OPfPtuZ
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
光秀はともかく他の連中がそんなものに言及する理由は皆無。旧主の首級やら死体を書状でああだこうだ言って何になるのかって話だし皆葬儀執り行ったり
後継問題に着手したりしてるし秀吉なんて専横を開始するしトップの信長が消えたいい証拠
>>信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
逆に本能寺で信長が生きていたなんて書いてる史料なんてない
>>また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
>>有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
>>いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
>>天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
それ以上生きた人間なんていくらでもいるし本能寺直前記でも織田家の中で多いに指示だしまくったり中心的行動してるのに
生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想
179名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:55:08.14 ID:iC2Ksub2
>>別に外国で起こったなら日本で起こり得ない理由がないわけない。そもそも人体が燃えやすい事例としてあげただけ。
>>いやそもそも燃えやすい事の事例だから時代とか関係ない。人体の構成成分が中世と今とでそんな大きく変化する根拠もないし
>>根拠は?アルコール摂取過多なんて可能性の一つにすぎないし日本酒でもアルコール含まれるから燃料にはなりうる

自分が出したWikiに書いてあるだろ。つか当時で一番考えられる説を出してあげたつもりなんだがな
リンなんて当時認知されてないし燃えやすい材質のセーターとか当時日本にないだろ
ちなみに2000年以上経って日本で人体発火の例は0。あと人体発火は人間の内部が燃えるからぐちゃぐちゃになるのであって
外部から燃やされる一般的な焼死ではそんな事例にならない。皮膚は意外と頑丈。

>>光秀はともかく他の連中がそんなものに言及する理由は皆無。

そのすぐ後の明智光秀の首むくろ晒し、斎藤利三処刑、明智党の首が本能寺跡で見世物にされていると
こぞって多くの公家が日記に書きまくっているのに、信長の首級や死体に誰も言及しない事実

>>他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており
>>皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想

信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで

・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった

信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。

信長の死体や首級が見つかっていない時点で明智軍には信長殺害の確たる根拠や自信はない
つまり明智勢は暗中模索の状態で信長の生死もわからんまま変当時行動している
有楽や玄以と言った実際に逃げられた人物がいる以上信長の逃げられる可能性は0ではない
180名無し曰く、:2013/02/25(月) 21:58:09.91 ID:+OPfPtuZ
>>水分や油が蒸発したところで死んだ瞬間から筋肉たんぱく質が凝固するから固まるんだがな
死後硬直は死後数時間経ってからなので死んだ瞬間では硬直しない
また筋肉が凝固しようがしまいが燃焼すれば形状が変化するので識別など不可能
>>つかおまえ料理したことないの?牛肉や豚肉でいいから焦げて炭化するまで焼いてみたら
焼いたら元の形状がなくなるので元々形状に特徴のある生肉の物を並べて記憶していても焼いたら形状が変化するため、
どれがどれか判別不可能になるなんて当たり前。
ためしに豚肉の肩切り落としともも肉を買ってきて誰かに形状を見せて焼いた後どっちがどっちか知らない人に判別してもらえばいい
人で同じ部位ならなおさらわからん
>>光秀が信長の首級晒さないとか妄想にもほどがあるだろ
いくらでもあるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された
徳川譜代連中大勢や平手 滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>信長はそんじょそこらの戦場でのたれ死んで何も起こらないような端役じゃないし
逆にそうした高貴な人間はさらし者にしたりしないのが普通。家康が三成らはさらし者にしたが大老連中は殺さなかったのと同じ。
中途半端な地位にある奴のが殺されたりさらし者にされたりする
>>信長を討ち取ったんならそれが立派な信長死亡の根拠になるし、信長の知名度から言って晒すのが当然
晒しものにしない例なんていくらでもあるし死体が燃焼したり埋められてたら到底そんな芸当不可能
>>関ヶ原でも石田安国寺小西といった首謀者は切腹の末に晒されてるし
でも輝元も島津も景勝も利長も盟約違反の政宗も大名連中は晒しものにも殺されてもいないし逆に中途半端な地位の連中のが切腹させられたりしてる
>>晒す価値もないと敵から判断される家臣連中や譜代連中と信長では歴然の差がある
残虐な性格で長政や義景をはくだみにした信長が義昭に対して危害は加えなかったのと同じじゃね。高貴な人間だから晒したら残虐すぎるという事で批判を恐れたんじゃね
>>市中に晒さなくても、明智光秀や明智軍が信長の首級を確認するのは当然だし、
首級確認なんてだれもやってないだろ。そんなもん史料に一々ない。一々首実検とかいって史料に残すのは信長とか残虐な武将だけだし
せいぜい晒しものにされるのが公家日記に残るくらいだし
>>当時の光秀はそれすらしていないわけだがそれはどう説明するんだ?
誰かが葬ったか光秀が隠したんじゃね。一応前主君だし恐れおおいと感じたんじゃね
それか燃えてわからなくなったかどちらか。生きてたら発見されるか
>>つか戦場で死んだ場合その死を見届ける敵や味方が必ずいるわけだが信長の場合はそれすらいない
そら皆殺されたんじゃね。光秀家臣本城も死んだと書いてるし
181名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:05:59.85 ID:+OPfPtuZ
>>リンなんて当時認知されてないし燃えやすい材質のセーターとか当時日本にないだろ
日本の家屋が木造中心だった中世では人に至るまでの火力が強くなるから問題なし
リンネル・亜麻・ウールも絹も普通に燃える
>>ちなみに2000年以上経って日本で人体発火の例は0。あと人体発火は人間の内部が燃えるからぐちゃぐちゃになるのであって
いやそもそも燃えやすい事の事例だから時代とか関係ない。人体の構成成分が中世と今とでそんな大きく変化する根拠もないし
>>外部から燃やされる一般的な焼死ではそんな事例にならない。皮膚は意外と頑丈。
皮膚が頑丈でも人体の構成部分で一番比率大きい水分や油分が飛ぶから元の形状とどめるなんて無理
肉をフライパンで焼いたりバーべキューで焼いたら元の形状なくなって黒こげになるのと同じ。
>>そのすぐ後の明智光秀の首むくろ晒し、斎藤利三処刑、明智党の首が本能寺跡で見世物にされているとこぞって多くの公家が日記に書きまくっているのに、信長の首級や死体に誰も言及しない事実
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
182名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:07:17.81 ID:+OPfPtuZ
>>信長の死体もなければ首級もない、明智光秀の伝達通告や各々の早合点、混乱した伝聞情報によるものであり、
そら燃えてしまったり爆発でバラバラになったり埋められれば消えるのが死体。大体んなこというなら晒されなかった
しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された
徳川譜代連中大勢や平手 滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中とかは死んでないのかって話になるし長篠戦死者とされる武田家臣とかも晒されてなくないか
>>誰1人信長が死ぬところも、信長の死んだ形跡も見ていない、「勝手に消えた」レベルの胡散臭さばかりで
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
183名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:07:33.69 ID:+OPfPtuZ
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
光秀はともかく他の連中がそんなものに言及する理由は皆無。旧主の首級やら死体を書状でああだこうだ言って何になるのかって話だし皆葬儀執り行ったり
後継問題に着手したりしてるし秀吉なんて専横を開始するしトップの信長が消えたいい証拠
>>信長が明智軍に殺されたという確たる情報も史料も一切存在せず、
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
逆に本能寺で信長が生きていたなんて書いてる史料なんてない
>>また「本能寺の変は明智軍がごったがえしていて逃げられない」と言う情報も
>>有楽や玄以といった生存者の存在であっさり覆される。
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
>>いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
>>天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
それ以上生きた人間なんていくらでもいるし本能寺直前記でも織田家の中で多いに指示だしまくったり中心的行動してるのに
生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想
184名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:08:07.62 ID:iC2Ksub2
>>死後硬直は死後数時間経ってからなので死んだ瞬間では硬直しない
>>また筋肉が凝固しようがしまいが燃焼すれば形状が変化するので識別など不可能

それは焼死じゃなくて遺体を放置した場合だろ。焼死の場合は筋肉や腱が固まる

>>焼いたら元の形状がなくなるので元々形状に特徴のある
>>生肉の物を並べて記憶していても焼いたら形状が変化するため
>>どれがどれか判別不可能になるなんて当たり前。

それは少ない部位のレベルだろ、人間丸ごと焼くのと規模が全然違う

>>首級確認なんてだれもやってないだろ。そんなもん史料に一々ない。一々首実検とかいって史料に残すのは信長とか残虐な武将だけだし
>>せいぜい晒しものにされるのが公家日記に残るくらいだし

信長の首級死体は日記にすら残ってない

>>逆にそうした高貴な人間はさらし者にしたりしないのが普通。家康が三成らはさらし者にしたが大老連中は殺さなかったのと同じ。

信長と同じ大名である武田勝頼や信長より身分の高い関白の豊臣秀次は晒し首だけど

>>誰かが葬ったか光秀が隠したんじゃね。一応前主君だし恐れおおいと感じたんじゃね
>>それか燃えてわからなくなったかどちらか。生きてたら発見されるか
>>そら皆殺されたんじゃね。光秀家臣本城も死んだと書いてるし

それなら逃げた説もありうるじゃん
185名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:16:53.46 ID:+OPfPtuZ
>>それは焼死じゃなくて遺体を放置した場合だろ。焼死の場合は筋肉や腱が固まる
死後は数時間たってから凝固するのが体。焼死だろうが放置死だろうが同じ
>>それは少ない部位のレベルだろ、人間丸ごと焼くのと規模が全然違う
家屋の中で燃え盛る火の中で人の頭の部位が焼けるのとバーべキューやら焼肉やら魚やききで肉やら魚やくのであんまり
火の規模と焼く対象とで変わらなくないか
>>信長の首級死体は日記にすら残ってない
死体が残らなかったら死んでなかった事になるとかないわ
火の中で死んだら死体晒すとか無理だし火の中で死んだとされる勝家とか爆死したとされる久秀とかと同じ
>>信長と同じ大名である武田勝頼や信長より身分の高い関白の豊臣秀次は晒し首だけど
信長は普通の大名より残虐な性格だし騙まし討ちとか誅殺がやたら多いし普通の大名と同じ視点で語るのは無理がある
そんな信長でもさすがに足利義昭とか顕如とかは殺さなかったしこいつをさらし者にはできないという人間が存在したのも事実だろ
俺はそういう例(中途半端に身分高い人間の方が最上位の地位の人間より殺されたりする)があるという例で反証しただけなのでもちろんそうでない例もある

>>それなら逃げた説もありうるじゃん
なんでだ?
186名無し曰く、:2013/02/25(月) 22:47:13.53 ID:iC2Ksub2
>>>>それは焼死じゃなくて遺体を放置した場合だろ。焼死の場合は筋肉や腱が固まる
>>死後は数時間たってから凝固するのが体。焼死だろうが放置死だろうが同じ

死後硬直の時間は温度によって変わるから燃え盛る炎の中ではものすごく早い

>>家屋の中で燃え盛る火の中で人の頭の部位が焼けるのとバーべキューやら焼肉やら
>>魚やききで肉やら魚やくのであんまり火の規模と焼く対象とで変わらなくないか

魚焼きで魚焼いたら元の形状はほとんど変わらんと思うが・・・どんな調理してんのよ
あと調理で使う器具と適当に放火した本能寺じゃ全然違う

>>火の中で死んだら死体晒すとか無理だし火の中で死んだとされる勝家とか爆死したとされる久秀とかと同じ

首級や死体が出なければそいつらだって死んだかどうかわからん
ただ久秀や勝家と違って信長は逃げる領土も匿ってくれる場所もたくさんある

>>信長は普通の大名より残虐な性格だし騙まし討ちとか誅殺がやたら多いし普通の大名と同じ視点で語るのは無理がある

豊臣秀次や石田三成は信長が殺したわけじゃないが2人とも晒し首じゃん

>>なんでだ?

信長を誰かが葬ったなんて史料に書いてないし光秀が信長を敬い晒し首にしなかったも同上
つまり史料から消えただけで信長が延命した可能性も考慮できる

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。

>>生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想

信長が病気を隠していた、認知していなかったとか普通にありうるし
病気かどうかもわからずすぐ死ぬ症状もあるわけだが
特に同齢で死んだ上杉謙信は、予兆もほとんどなく死んでるし
187名無し曰く、:2013/02/25(月) 23:23:13.43 ID:+OPfPtuZ
>>あと調理で使う器具と適当に放火した本能寺じゃ全然違う
バーべキューとか網焼きの焼肉でもしっかり焼けば形状は判別不可能になる(同種の肉で焼く前の形状を見せておいて焼いた後の形状から判別など不可能)
そもそも本能寺の変の放火が適当なわけないじゃん。
光秀側はお前のいうように死体発見する必要があるから信長が放火したとして光秀に死体を渡さない目的があるんだから油とか石油とか燃えやすい物質使って一気に燃焼させればいいだけ
>>首級や死体が出なければそいつらだって死んだかどうかわからん
だからといって死んでなかった事になるのかって話だわ。燃えて火の中で死んだ人間は皆死んでない事になるんじゃん
>>ただ久秀や勝家と違って信長は逃げる領土も匿ってくれる場所もたくさんある
小拠点本能寺の周りに光秀が包囲してるのに逃げられるわけないし逃げたらなんかの史料に存在してそうなもんだし
それがない以上妄想としかいいようがない
>>豊臣秀次や石田三成は信長が殺したわけじゃないが2人とも晒し首じゃん
しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・三方が原で殺された
徳川譜代連中大勢や平手 滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中とかは死んでないのかって話になるし長篠戦死者とされる武田家臣とかも晒されてなくないか
でも輝元も島津も景勝も利長も盟約違反の政宗も大名連中は晒しものにも殺されてもいないし晒しものにしたりしない例もあるじゃんといってるわけ
信長が義昭とか顕如に手出さなかったのと同じでこいつは晒したり殺したら世評に響くと思われるような人間は晒せないんだろ
>>信長を誰かが葬ったなんて史料に書いてないし
6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候
また天正11年6/2信雄の家臣余語が信長一周忌に際し信長画像を寄進しており「為御恩相当於一周忌之辰描之」といっており
多聞院日記6/2でも去年の今日信長生害と書いてあり兼見卿記6/2で秀吉が大徳寺に焼香を行っている
信雄の家臣植原も信長一周忌に際し尾張長光寺に寄進している
>>光秀が信長を敬い晒し首にしなかったも同上
いや皆死んだ事になってる信長を生きてた根拠としてあげてる「さらし者にしない」に対する可能性の一つとして反証しただけだから。
>>つまり史料から消えただけで信長が延命した可能性も考慮できる
だから史料にないので妄想としかいいようがない。
>>織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
>>いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
>>天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
それ以上生きた人間なんていくらでもいるし本能寺直前記でも織田家の中で多いに指示だしまくったり中心的行動してるのに
生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想
>>信長が病気を隠していた、認知していなかったとか普通にありうるし病気かどうかもわからずすぐ死ぬ症状もあるわけだが特に同齢で死んだ上杉謙信は、予兆もほとんどなく死んでるし
史料はない以上は妄想の域をでないね
188名無し曰く、:2013/02/25(月) 23:46:14.69 ID:7U+FAteE
信長公記とかでも焼けて死んだ事になってるじゃん
189名無し曰く、:2013/02/25(月) 23:48:34.66 ID:iC2Ksub2
>>そもそも本能寺の変の放火が適当なわけないじゃん。
>>光秀側はお前のいうように死体発見する必要があるから信長が放火したとして
>>光秀に死体を渡さない目的があるんだから油とか石油とか燃えやすい物質使って一気に燃焼させればいいだけ

当時石油なんてないしそもそも火をつけたのは光秀側なんだが。晴豊記にも「やき打」とあるし、
光秀側が信長の死体残さないために火をかけるの?殺すために火をつけるんじゃないの?

>>だからといって死んでなかった事になるのかって話だわ。
>>燃えて火の中で死んだ人間は皆死んでない事になるんじゃん

別に可能性を指摘しただけだろ

・明智軍の誰かが信長を討ち取った
・信長の首級や死体が市中に晒された
・信長の首級や死体に言及する史料があった
・本能寺の変を逃げ延びた武将がいる

で、信長が光秀に殺された確たる状況はない。信長が死んだと記録でわかるのは最低でも秀吉主導の葬儀から。
つまり本能寺の変に「史実」などない。信長が殺されたという点についての否定がまず史料で証明されちゃってるじゃん

織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。

信長が病気を隠していた、認知していなかったとか普通にありうるし
病気かどうかもわからずすぐ死ぬ症状もあるわけだが
特に同齢で死んだ上杉謙信は、予兆もほとんどなく死んでるし
本能寺の変で信長が殺されたかどうかなんて、信長の首級や死体がない時点で否定されてるじゃん
190名無し曰く、:2013/02/25(月) 23:53:05.05 ID:iC2Ksub2
>>188
信長公記の信長最期は
「御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、
是非に及ばずと、上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」
「御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、
内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ」とあり、信長の最期を誰も見ていない。

ちなみに息子の信忠については「此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す」という記述があり
信忠は作法に従いきっちり切腹と介錯を遂げているのに、信長は殿中奥深くで姿を見せまいと戸を閉めている。
誰かが代わりに腹切ってても誰も気づかない
191名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:12:57.79 ID:ZQV7NYGI
>>光秀が信長を殺したのなら信長の首級が京都市中に晒されるだけ
>>にも拘らず当時の公家も光秀自身も信長の首級には触れていない
焼けてなくなっただけかもしれんだろ
>>逃げ延びた人物がいる以上、「生き延びられない状況だったから自害した」に全く当てはまらない
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない
有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし
有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>信長は織田家当主じゃないから、生きる確率に賭けて逃げ延びるか、武士らしく自害して最期を迎えるかを
信長は織田家の実権持ちまくり。>>134でわかるし続きが無駄に長いから省略したがまた書かないといけないのか?
>>自分の価値観で決めて、自害を選び取っただけ。そこでどっちを選ぼうが信長は当主じゃないから信長の勝手
上記を証明できる史料をどうぞ。あと自害させたのは光秀の襲撃なんだから殺したのと同義
>>光秀の襲撃と信長の生害は並立して書かれているだけでそれだけが原因ではない
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」
6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候
兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」
6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており
信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
>>つかそんなこと言い出したら戦争で軍事衝突があれば皆死ぬのかって話だな
意味不明。戦争に負けた側が捕らえられたり逃げられない状況になったりして死を選ぶのは殺されるのと同義
戦争に負けた事と自殺が繋がってるからな。戦争がなきゃ死ぬわけないんだし
>>焼けてなくなったとか当時の史料に皆無。ついでに言うと普通の火事ごときで人間の死体が判別不可能になるほど真っ黒焦げにはならない。
普通に考えて死体が見つからなかったにもかかわらず皆が死んだものとして扱っておりその後の登場もなくなるのだから焼けて死んだと考えるのが普通
後半部分は完全に妄想だな。火力が強ければ普通に判別不可能に黒こげになる。火葬場とかと同じ
>>あと信長は「生害」であって「切腹」ではない。最期を見届けた近習がいるかどうかも不明。
自殺と書いてるのは信長を見てるわけでも知ってるわけでもない公家連中とか家忠とかで当の光秀は討ち果たしたと書いてるだけで
そもそも自殺だろうが他殺だろうが光秀の謀反襲撃によって信長は死んだんだから殺されたのと同じ
>>明智光秀は信長の首級や死体を確認できていないのだから討ち果たしなど真っ赤な嘘
首級や死体を確認できないから討ち果たしたがデタラメとか基地外だな。普通に脱出不可能な包囲に追い込んで逃げられるわけないし皆死んだと扱ってる
つうか逃げたなら信長がその後発見された史料とか生きたものとして皆が行動してる史料がないはずがなく、そんなもんないので論外
>>事実明智光秀の首むくろや斎藤利三の処刑、明智党の首が京で晒されているのを書き連ねている数多の公家が信長の首級や死体に関して誰1人書き連ねていない事実
そら信長が火で黒こげでなくなっただけじゃね。それか光秀が哀れんで晒さなかっただけ。光秀の場合は謀反人だから世にさらし者にするのは当たり前だし
信長の場合は殺した光秀本人が謀反人だし晒す権利などない。
>>一方面軍とか知ったか乙、別所松永武田と織田家の軍事活動は信忠総大将で行われている
192名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:14:28.00 ID:ZQV7NYGI
>>信忠は明智や秀吉を傘下に加えて別所松永の討伐も行っている
>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
>>信長はあくまで内政作業や調整をしているだけにすぎない。つか信長が諸将を率いて敵を倒すなんて戦国大名の基礎中の基礎を天正十年には全くやっていないし
>>144-145のようにやりまくってるし武田攻めでも中国征伐でも援軍に行こうとしてた
>>信長自身が織田家の当主信忠に権力移譲させまくってる。
全然してないわけだが。>>144-145を読めばわかるが逐一信長が軍事行動を指示だしたり当地で禁制だしたり戦後の領土配分決めたりしてる上に他大名も信忠ではなく信長を織田家当主として贈り物おくったり
拝謁したり書状で名前挙げたりしてるし信忠など傀儡みたいなもん。つうか信忠が他の方面軍に向けて指示出してる根拠なんぞない
中国にも北陸にも関東にも信長が逐一普請・諸役免除・国割・城割・国人の粛清・他大名からの献品・物資調達など行い信忠はほとんど信長に依存してるだけ
北陸で上杉と戦う際柴田が他方面の軍団を騎下において戦ったのと同じであくまで「任せられた経略内において」大将としての責任があったというだけ
その後の信忠が秀吉やら光秀やら柴田やら滝川やら各地の軍に対し逐一指示だしてる書状など存在せず皆信長を主君として行動してるというだけ
>>つか方面軍に指示を出すとか天正十年段階では信長の指示がほとんどなくなるし、当の信忠に命令違反されまくっているが。
>>144-145のようにやりまくってる
>>まず信長の死亡宣言の根拠は謀叛の当事者明智光秀の伝達によるものが全ての史料に共通する根拠。
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」
6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」 また他の史料でも信長の死と光秀の謀反・本能寺襲撃は繋げて書かれているため
光秀の襲撃により信長は死んだ(殺された)といえる
光秀以外にも秀吉は変を知ってかけつけてるし葬儀もやったりしてるしほかの連中も信長を捜索したとか生きていたとか言ってる気配は全くなく死んだ物として歴史は動いている
193名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:16:00.15 ID:ZQV7NYGI
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
194名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:16:39.37 ID:ZQV7NYGI
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は秀吉が婚姻させた秀忠の妻の江の哀願で信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
『高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった』信栄系に乗っ取られた。
195名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:17:23.70 ID:ZQV7NYGI
過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚

信長の戦闘能力の低さの現われが弱体化しきった幼君無能義龍に例年の年中行事のように負けまくり長島侵攻戦で2回も大損害蒙ったあげく
三回目には餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちしたら一門10人以上ぶち殺され最後は光秀に負けて殺されて織田家は木っ端微塵の間違いな
領土→光秀に負けて殺されて死んだので信長の保持領土は0
討伐した大名→信長のチート国力からすれば鼻くそみたいな勢力しかいないのに
例年負けまくり多く重臣死にまくり家康に瞬殺された機内や美濃に10年以上もたつく始末
秀吉→織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
山之内上杉の大軍大破したり三方が原で織田徳川の大軍木っ端微塵にした武田とは比べるべくもない
196名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:17:58.36 ID:ZQV7NYGI
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
197名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:18:52.59 ID:ZQV7NYGI
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ

>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄

信長は
過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚
198名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:21:13.17 ID:ZQV7NYGI
光秀との戦いに敗れて殺されたのが信長。
戦を生業とする武士が戦に敗れて殺されて死んだのだから中身検証せずに結果だけでいえば最底辺
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw
199名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:21:26.54 ID:72DxRuIK
>>189
殺すために火かけるならなおさら適当に放火する必要はなし。あと春豊なんて現場に居合わせた人間でもないし
当時でも油(燃えるのを加速させる燃料)はあるし
>>・明智軍の誰かが信長を討ち取った
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
>>・信長の首級や死体が市中に晒された
いくらでもやってない例あるがな。しずヶ岳の勝家、小牧長久手の森池田木下兄弟その他大勢の連中、関が原の大谷・長束など首謀三人以外の殺された連中・
三方が原で殺された徳川譜代連中大勢や平手滋賀の陣で殺された森・坂井・青地など大勢の連中。晒し物にするなんて残虐非道だしやったら逆効果だって期待できる
>>・信長の首級や死体に言及する史料があった
光秀はともかく他の連中がそんなものに言及する理由は皆無。旧主の首級やら死体を書状でああだこうだ言って何になるのかって話だし皆葬儀執り行ったり
後継問題に着手したりしてるし秀吉なんて専横を開始するしトップの信長が消えたいい証拠
有楽や玄以が生き延びたかどうかなんて関係ない 有楽や玄以は直接的に狙われた織田家全当主でもないし
有楽や玄以と一緒に信長が逃げたからといって執拗に追撃が来るに決まってるし有楽や玄以はそもそも光秀が襲撃してくるまで本能寺にいたのか?
>>で、信長が光秀に殺された確たる状況はない。信長が死んだと記録でわかるのは最低でも秀吉主導の葬儀から。
>>つまり本能寺の変に「史実」などない。信長が殺されたという点についての否定がまず史料で証明されちゃってるじゃん
6/14家康→吉村・佐藤・高木で京都之様躰無是非儀候、其付上様為御弔我々上洛と書いてるし
6/25秀吉→高田で其令上洛、上様御仏事執行候て可帰城候
また天正11年6/2信雄の家臣余語が信長一周忌に際し信長画像を寄進しており「為御恩相当於一周忌之辰描之」といっており
多聞院日記6/2でも去年の今日信長生害と書いてあり兼見卿記6/2で秀吉が大徳寺に焼香を行っている
信雄の家臣植原も信長一周忌に際し尾張長光寺に寄進している
光秀→小早川宛書状とか足利御内書とか光秀近習の本城覚書に信長は光秀に殺されたと書いてる
本城惣右衛門覚書(本能寺の変に従軍した光秀家臣)「あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申し候」
言経卿記「日向守依謀反押寄了、即時二前右府討死」6/2光秀→小早川・毛利輝元で「信長親子を誅し素懐を達し候」6/6小早川→桂・岡で「信長親子討果」
6/2光秀→西尾 信長親子天下之妨討果候 兼見卿記「信長之屋敷本能寺へ取懸、即時信長生害」6/13足利義昭御内書「信長討果上者、」
また他の史料でも信長の死と光秀の謀反襲撃は並立ではなく繋げて書かれており 信長は光秀によって死んだ(=殺された)とアホでもわかる
他の連中も皆葬儀行ったり後継問題に着手したり死んだものとして行動しており皆一切信長の姿見なくなるのに生きているというのなら逆に証明が必要
逆に本能寺で信長が生きていたなんて書いてる史料なんてない
信長が殺されたという点についての否定がどう証明されたのか不明
200名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:22:01.19 ID:ZQV7NYGI
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
201名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:23:01.56 ID:ZQV7NYGI
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。
202名無し曰く、:2013/02/26(火) 00:26:01.76 ID:72DxRuIK
>>織田信長は当時49歳だから信長の父親織田信秀(享年42)や同年代の上杉謙信(享年49)と同じように
>>いつ死んでもおかしくない年齢だし、別に明智光秀の謀叛があろうがなかろうが
>>天寿を全うしていても全くおかしくない状態。明智光秀の謀叛の混乱でごたごたしている間に心身憔悴して天寿を迎えたんだろ。
それ以上生きた人間なんていくらでもいるし本能寺直前記でも織田家の中で多いに指示だしまくったり中心的行動してるのに
生きられる状況で死ぬわけないし病気だったというのも史料にない妄想
>>信長が病気を隠していた、認知していなかったとか普通にありうるし病気かどうかもわからずすぐ死ぬ症状もあるわけだが特に同齢で死んだ上杉謙信は、予兆もほとんどなく死んでるし
史料はない以上は妄想の域をでないね
>>本能寺の変で信長が殺されたかどうかなんて、信長の首級や死体がない時点で否定されてるじゃん
意味不明上記のようにいくらでも史料があるし姿見かけなくなるし葬儀も行われてるから普通に殺されただけ。
>>190
信長公記では信長は御殿に火をかけられ近くまで燃えてきて敵に最後の姿を見せては成らぬと思ったのか御殿の奥深くまで入り
内側から納戸の戸を閉めて無念に切腹した事になってる
村井らはそのご信忠に「本能寺はもはや敗れ御殿も焼き落ちました」といってる
203名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:49:10.11 ID:ZQV7NYGI
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない

信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)

そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな

そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない

そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。

チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
204名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:51:57.43 ID:ZQV7NYGI
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。

多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。

※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。

また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
205名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:52:33.72 ID:ZQV7NYGI
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
206名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:53:34.57 ID:ZQV7NYGI
むしろ織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ

信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例

神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
光秀との戦いに敗れて殺されたのが信長。
戦を生業とする武士が戦に敗れて殺されて死んだのだから中身検証せずに結果だけでいえば最底辺
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし
207名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:54:35.76 ID:ZQV7NYGI
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
208名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:56:58.34 ID:ZQV7NYGI
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
209名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:57:49.38 ID:ZQV7NYGI
信長の功績は捏造だらけ

信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
210名無し曰く、:2013/02/26(火) 01:58:54.07 ID:ZQV7NYGI
基地外織田チョンは死ね
信長の勝ち戦なんてほとんどがデタラメ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
211名無し曰く、:2013/02/26(火) 02:11:43.05 ID:ZQV7NYGI
基地外織田チョンのように史料を無理矢理曲解する馬鹿は死んだ方がいいな
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
二度とスレくんなタコ
212名無し曰く、:2013/02/26(火) 02:40:43.40 ID:42i/YXO4
このペースだと400レスもいかなそうだな
213名無し曰く、:2013/02/26(火) 04:27:45.90 ID:6caI1pZ0
織田厨とだがとの壮絶なコピペ戦
214名無し曰く、:2013/02/26(火) 04:38:34.98 ID:ZQV7NYGI
基地外織田チョンはすぐに史料を無理矢理曲解するしスレから消えてくれてかまわない

他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない

信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)

そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな

そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない

そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。

チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
織田厨は結果で決め付ける馬鹿だしそこからいけば最後は光秀に殺されて領土0で死んだ信長は能力0
215名無し曰く、:2013/02/26(火) 04:39:57.44 ID:ZQV7NYGI
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
2小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
3徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0 (家臣に殺され、挙句乗っ取られる)       0倍
216名無し曰く、:2013/02/26(火) 04:40:57.15 ID:ZQV7NYGI
信長の弟で織田家重鎮にして
信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し
専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
217名無し曰く、:2013/02/26(火) 04:43:22.91 ID:ZQV7NYGI
S 武田信玄 
A 上杉謙信 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 伊達政宗 北条早雲 佐竹義重 島津義久
C 毛利元就 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
D ↑↓の奴以外
E 豊臣秀吉
F 織田信長
218名無し曰く、:2013/02/26(火) 06:26:17.10 ID:5ZQDC5Wy
だれか推奨NGワード集教えてくれ
「だが」でくくると極々稀な一般のレスまで消えちまう可能性が僅かにあるのが困る
219名無し曰く、:2013/02/26(火) 10:35:51.29 ID:7yOl1DMk
ここに居るのは戦国板から締め出し食らったから?
主張するのはいいが能力値ぐらい書くのが礼儀なのに
220名無し曰く、:2013/02/26(火) 14:16:23.77 ID:o9Ymn/sg
>>218

信玄>

>信長

>秀吉
221名無し曰く、:2013/02/26(火) 15:20:56.93 ID:mHUOht09
火事がどうとか訳分からん議論になっててワロタ
222名無し曰く、:2013/02/26(火) 16:52:32.02 ID:twH1fHAg
流石にこれはネタだよな?
223名無し曰く、:2013/02/26(火) 18:39:22.68 ID:Oz6dW1zc
>>217

A 上杉謙信 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 伊達政宗 北条早雲 佐竹義重 島津義久
C 毛利元就 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
D ↑↓の奴以外
E 豊臣秀吉
F 織田信長
G そこらの農民
H〜Q 略
R ゴキブリ
S 武田信玄
T ゴキブリの糞 
224名無し曰く、:2013/02/26(火) 18:52:35.47 ID:o9Ymn/sg
S 徳川家康 豊臣秀吉
A 織田信長
B 三好長慶 細川政元 大内義興 
C 伊達政宗 北条氏康 武田信玄 上杉謙信 毛利元就 長宗我部元親 島津義久 大友宗麟 龍造寺隆信
D 芦名盛氏 佐竹義重 今川義元 斎藤道三 北畠晴具 宇喜多直家 尼子晴久
225名無し曰く、:2013/02/26(火) 22:16:56.50 ID:IyqEAXhU
>>224
これが一番納得いく
226名無し曰く、:2013/02/26(火) 23:06:54.74 ID:42i/YXO4
龍造寺はワンランク下のイメージだなその面子だと
227名無し曰く、:2013/02/26(火) 23:16:21.17 ID:CSuWKfzZ
コピペ嫌がってるわりに自分から煽りに行ってそいつ召喚しようとしてりゃそりゃ荒れるわ
流石に自業自得
228名無し曰く、:2013/02/26(火) 23:20:54.08 ID:KRP2kMRJ
龍造寺は戦死がなければ
もっと上位でも良いんだがな
一代で大勢力にして一代にしてポシャらせたツケかな
229名無し曰く、:2013/02/26(火) 23:53:24.73 ID:72DxRuIK
>>224
糞ランク乙
230名無し曰く、:2013/02/27(水) 00:01:13.98 ID:J+IYNvsW
>>224
とりあえず運に恵まれまくって領土広げただけの信長とか
信長以上にウルトラスーパーラッキーで天下火事場泥棒しただけの秀吉が高すぎ
直接対決で信長は義龍や北畠や浅井朝倉本願寺長島一揆などに負けまくり
秀吉は輝元氏政信雄などゴミ武将軍団に規格外の兵力差で負けまくったしそんな高いわけない


S 武田信玄
A 徳川家康 北条早雲
B 三好長慶 細川政元 大内義興 織田信長 上杉謙信 
C 伊達政宗 北条氏康 毛利元就 長宗我部元親 島津義久 大友宗麟 龍造寺隆信
D 芦名盛氏 佐竹義重 今川義元 斎藤道三 北畠晴具 宇喜多直家 尼子晴久 豊臣秀吉


贔屓目にみつもってこんなもん
231名無し曰く、:2013/02/27(水) 00:02:08.02 ID:KkU3//92
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
232名無し曰く、:2013/02/27(水) 00:02:40.73 ID:KkU3//92
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
233名無し曰く、:2013/02/27(水) 00:03:48.98 ID:72DxRuIK
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
234名無し曰く、:2013/02/27(水) 00:06:31.91 ID:72DxRuIK
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
235名無し曰く、:2013/02/27(水) 02:14:54.09 ID:/6xtweGJ
>>227
そもそもこのスレにはもうだがさんとそれを煽る住人しか残ってない
236名無し曰く、:2013/02/27(水) 11:47:49.16 ID:i2qlyxiO
信長謙信よりも長生きだったくせに彼らよりもショボい領国だった信玄はもっと低評価でいい
237名無し曰く、:2013/02/27(水) 12:03:11.78 ID:i2qlyxiO
付け加えるなら甲斐26万石スタートの信玄よりゼロスタートから百万石大名にまでなった前田利家の方がどう考えても上
238名無し曰く、:2013/02/27(水) 12:55:34.79 ID:55RfNMf8
ギリサンやギリワンどころかギリゼロで100万だろあいつ
239名無し曰く、:2013/02/27(水) 13:01:52.08 ID:Nn+qsL3Q
一回裏切って義理一桁の方々結構いるのに利家は何故か55もある
どう考えても現代創作の補正です本当にありがとうございました
240名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:13:19.40 ID:xhH6m1B2
>>237
さすがにそれはないな
基地外のせいで逆に信玄過小になってるぞ今
241名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:16:55.50 ID:Ri4M1i7B
>>240
結果が全てのだがさん査定だと利家は信玄より上になってしまう
242名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:28:02.74 ID:qbs8Dhjh
光秀に殺されて死んだ事を無視して結果論脳の糞理論で信長マンセーしてるのはアホ織田厨なわけで。

利家なんて自力で戦った戦なんて皆無で信長秀吉の金魚の糞でくっついておこぼれに預かっただけの雑魚だろ
243名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:28:07.91 ID:xhH6m1B2
>>241
基地外の話聞くなよ
244名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:29:56.03 ID:qbs8Dhjh
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ

>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄

信長は
過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚
245名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:30:41.64 ID:qbs8Dhjh
光秀との戦いに敗れて殺されたのが信長。 結果だけでいえば能力0.
戦を生業とする武士が戦に敗れて殺されて死んだのだから中身検証せずに結果だけでいえば最底辺
運が実力どうこうをいうなら能力0なのが信長
大体織田のへっぽこ残党なんて信孝も信忠も信雄も秀信も殺されるか改易だし
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw
246名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:32:50.87 ID:qbs8Dhjh
過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚

信長の戦闘能力の低さの現われが弱体化しきった幼君無能義龍に例年の年中行事のように負けまくり長島侵攻戦で2回も大損害蒙ったあげく
三回目には餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちしたら一門10人以上ぶち殺され最後は光秀に負けて殺されて織田家は木っ端微塵の間違いな
領土→光秀に負けて殺されて死んだので信長の保持領土は0
討伐した大名→信長のチート国力からすれば鼻くそみたいな勢力しかいないのに
例年負けまくり多く重臣死にまくり家康に瞬殺された機内や美濃に10年以上もたつく始末
秀吉→織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
山之内上杉の大軍大破したり三方が原で織田徳川の大軍木っ端微塵にした武田とは比べるべくも
247名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:34:08.49 ID:qbs8Dhjh
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
248名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:35:56.16 ID:qbs8Dhjh
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
249名無し曰く、:2013/02/27(水) 14:39:34.28 ID:qbs8Dhjh
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長

武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
250名無し曰く、:2013/02/27(水) 15:08:35.15 ID:qbs8Dhjh
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
251名無し曰く、:2013/02/27(水) 16:31:56.03 ID:Zfr7wfBA
信長が能力零とか言ってるの世界でもココくらいだろうな
252名無し曰く、:2013/02/27(水) 17:06:24.65 ID:B1seBd3L
本気じゃないとおもうよ
極論立てて屁理屈こねて遊んでるだけ
253名無し曰く、:2013/02/27(水) 17:15:28.46 ID:i2qlyxiO
>>240
成長率もそうだが戦でも利家の方が信玄より上だよ
利家は末森城の戦いで数倍はある佐々軍を撃破している
翻って信玄は一度もそんなことはない
逆に数的優位にありながら村上にボコボコにされる始末
254名無し曰く、:2013/02/27(水) 19:07:13.96 ID:FTX0lTMN
佐々成政は脳筋ステだけど鉄砲適正のおかげで昔から使いやすい
255名無し曰く、:2013/02/27(水) 22:50:36.45 ID:mK4HMANB
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1302/26/news106.html

やっぱ武田厨はクズだなwww
256名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:04:08.58 ID:KkU3//92
>>251>>252
はあ?領土広げたとか状況見ない糞考察で語るアホになぞらえて結果論思考で語ってるだけ
結果でいえば信長は光秀にぶち殺されたから能力0
経過や状況考慮するなら弱体化しきった分裂した斉藤・六角・北畠・超幸運で戦死した義元など
領土拡張の大きさなどで語るのは間違い
そもそも信長なんてぶち殺されて死んだなんだから領土なんて0だがな
>>253
末森合戦なんてただの篭城戦だろ
しかも寡兵で城に篭もってたのは奥村で利家の功責でもなんでもないし
城攻めで疲弊した所に新手で成政の半分くらいも現れたら撃退されるの当然
長島侵攻戦で蹴散らされまくった信長とかと同じ
そもそも利家なんて信長の金魚の糞でおこぼれに預かっただけで自力で勝った戦なんて皆無
信長が超幸運で領土広げたおかげでホモ相手の利家にも領土が回ってきただけ
257名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:07:31.96 ID:qbs8Dhjh
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長

武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
258名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:08:46.58 ID:qbs8Dhjh
武田対織田の結果
上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
259名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:15:57.32 ID:KkU3//92
織田厨は斉藤や六角の弱体化や足利義昭の来訪など運に恵まれまくって拡張した領土は実力かのように語って無理やり持ち上げようとするが
光秀に殺されて死んだという都合悪い結果は無視して語る馬鹿
260名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:20:05.56 ID:qbs8Dhjh
長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。

天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
261名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:48:49.40 ID:gCuTzduc
整然と整えられた秩序ある軍
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね
指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある

>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから
『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしい
262名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:51:21.95 ID:gCuTzduc
キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか
志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で
攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、
下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも
知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
263名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:56:31.54 ID:gCuTzduc
天正12年の秀吉と家康による伊濃尾の戦いでの家康勝利歪曲。


小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。
264名無し曰く、:2013/02/27(水) 23:59:06.18 ID:gCuTzduc
>>家康が来ないからまんまと狙いが外れた
>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
城とは書いてないからその地域を一時的に占有できたのかもしれんな。
どっちにしろ家康には何ら功績などない。
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ。
秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
しかも10/18付けで家康は遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
265名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:03:38.81 ID:T+kgTwvx
戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど
他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと
書いてあるので事実だと思っている。
(つか藤田達生氏の新著の「蒲生氏郷」でもそれを支持しているしな)
そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本山)
一身田高田山専修寺の御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し
信雄の清洲へ退いた。それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。
尾濃葉栗見聞集によると、
木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするし
これ取り消したりしないだろうし。
講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。
どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw
266名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:06:02.99 ID:T+kgTwvx
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
267名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:07:50.27 ID:T+kgTwvx
あんたは日付とか書かないから
いつのことを指して、誰々がこう言っていると言ってんだかわからんから
それぞれ日付を明示してくれ。まったくわからんよ。
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして
尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを秀吉を恐れ傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。というか家康は戦略的に完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。
268名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:10:23.52 ID:T+kgTwvx
さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
269名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:11:37.23 ID:T+kgTwvx
>>蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
ププッそれ軍記の太閤記に出てくる
「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
当然のように危険極まりない行為をしたために
16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
>>馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
曲解してるだけだろ。信雄と家康がすでに追い詰められているのを
秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
持っていて、見通しが付いていただけの話。
そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
>>砦を数箇所構築したので納馬する予定である
だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して
長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。
秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で
秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、
自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いてて
まったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
秀吉貶したいチョン君がいくら
家康が圧倒的に有利だったと捏造しても
無駄だよ。家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために
軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
良かったのにねwww
>>楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論
どこが暴論だか意味不明。
270名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:13:52.02 ID:T+kgTwvx
>>石川派遣
それ10/5の書状で木曽谷で放火した話だろ。
で、結局、遠山半左衛門が討死してんじゃんよ。
それに応じて、秀吉が東美濃へ行くって10/19に宣言したけど
10/22付けで坂本まで出陣したけど、俺が向かったら敵は逃げちゃったから
このまま伊勢へ乱入するよって言ってて
結果的に信雄の降伏を早めただけなのが先がまったく読めないアホ家康の東美濃での攻撃。
11/7には美濃の東駒野でも田中真吉宛て戸田勝隆書状や土倉四郎兵衛に戦功を賞してる秀吉の姿がわかるし
>>木造の軍記を引用してた
軍記じゃないよ。家譜だよ。
それに具体的に奄芸郡一身田の高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になったと書いてるんだから
正当な理由があって木造氏が開城しただけで不利とか関係ないだろ。
>>勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
完全に周知の事実だよ。
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
271名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:19:34.08 ID:T+kgTwvx
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのにwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
272名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:21:02.27 ID:T+kgTwvx
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
よく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、
戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
>>279
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想に対して谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
>>280
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してるなw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw
噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
273名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:22:16.25 ID:T+kgTwvx
>>陣立書から名前がみえなくなる
違う場所へ転戦しただけだろw
信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを
5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。
しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので
秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)

それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば
秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので
付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、
奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて
秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて
必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。

5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、
5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、
是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。
むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。

だいたい秀吉は体調が悪く
大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて
上杉の新発田攻め計画を止めさせてて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)

また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
274名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:22:41.34 ID:WAt3wzty
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?

秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
275名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:23:02.40 ID:WAt3wzty
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
276名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:23:26.44 ID:WAt3wzty
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく

>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
277名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:23:47.52 ID:WAt3wzty
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
278名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:24:07.03 ID:WAt3wzty
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて家康に対しての討伐意思の表明とその実行が行われている
279名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:24:10.07 ID:T+kgTwvx
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり
神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?
>>滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事
だからなんなの? 俺が書いた文章がチョンだからちゃんと理解できてないの?
「この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ」と書いてるのに
なんで滝川敗戦後の話を持ち出して、蟹江攻略が当初からの
秀吉の戦略の一環だったことの証明できんの?まったくできてないだろ。
秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
そもそも秀吉の出陣先は6/21書状から伊勢であり、蟹江じゃないから滝川の後詰めをしようとしていたわけでもない。
むしろ滝川がアホな敗戦したから7/5付けで秀吉は出陣日まで仕切りなおししただけだろ。
>>秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな
その軍記の太閤記にだけ「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてるんだがwww
家康がいる清洲城と信雄のいる長島城を分断すると馬鹿馬鹿しい講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う
当然のように危険極まりない行為をしたために
滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
280名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:24:31.01 ID:WAt3wzty
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる


体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある
281名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:24:48.23 ID:WAt3wzty
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが
独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
282名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:25:07.75 ID:WAt3wzty
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
283名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:25:26.60 ID:WAt3wzty
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
284名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:25:46.96 ID:WAt3wzty
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
285名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:26:06.01 ID:WAt3wzty
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる

蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
286名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:26:23.05 ID:WAt3wzty
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
287名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:26:42.79 ID:WAt3wzty
>>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
288名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:26:59.40 ID:WAt3wzty
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
289名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:27:16.15 ID:WAt3wzty
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
290名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:27:35.25 ID:WAt3wzty
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
>当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外

そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん
>『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
>秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
>秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
当代記にそんな記載ありません

>「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
コピペは全てきょっかんてき事実です。
>秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です
>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない
浅井朝倉では箕浦のみ
毛利戦は別所に大苦戦してのぶながの援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一
毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。

>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
>って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
>本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
>戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない
池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。
むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田)
戦意に乏しかったから(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる

>残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて
>残念ながらこっちも浅井文書
>藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから
秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな
>プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ
屁理屈ではなく当然の理屈
>正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね
そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから
一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白
軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団
>秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り
堀軍の奮戦に助けられただけ
>つうかせめて『信長公記』くらい読めよ
信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題

>少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、
>賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが
>なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない
信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然
身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに強まるだろうね
これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね

信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が
光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから
完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから
領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者にならないのなら他の家臣と
立場何も変わらん。
291名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:27:51.78 ID:WAt3wzty
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
292名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:28:29.50 ID:WAt3wzty
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
293名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:28:56.83 ID:WAt3wzty
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
294名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:29:18.17 ID:WAt3wzty
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
295名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:29:48.26 ID:WAt3wzty
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
296名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:30:30.29 ID:WAt3wzty
箕浦合戦なんて後世の捏造だしなあ

松下文書なんて元本も存在しない捏造文書だし
はっきりいって中国戦線でも寡兵どころか織田の援軍&与力もらいまくってそれですら
三木で2年も費やしたんだから相当な弱さだろ
熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死にと触れられてるのに
無視する秀吉厨はただのアホ
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
297名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:30:51.11 ID:WAt3wzty
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
298名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:31:12.03 ID:WAt3wzty
>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに
家康が来ないからまんまと狙いが外れた
木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ

>一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている

>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
そんな資料ありません
>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
>9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
>秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる

>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ
三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから
継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方
7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず
家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため
家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった
>無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ
今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った
秀吉の大敗
299名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:31:34.24 ID:WAt3wzty
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ

>>583
木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
300名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:31:55.70 ID:WAt3wzty
>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本
>>10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ
大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
>>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく
土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
>>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
>>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
>>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても
301名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:32:14.91 ID:WAt3wzty
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに
勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
302名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:32:53.97 ID:WAt3wzty
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
303名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:33:16.21 ID:WAt3wzty
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
304名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:33:38.30 ID:WAt3wzty
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
305名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:34:02.28 ID:WAt3wzty
>>ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
306名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:35:55.77 ID:WAt3wzty
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
307名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:36:18.15 ID:WAt3wzty
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
308名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:36:48.69 ID:WAt3wzty
>>ププッそれ軍記の太閤記に出てくる 「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
>>そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
>>19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
>>当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
309名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:37:12.85 ID:WAt3wzty
>>曲解してるだけだろ。
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
310名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:38:12.78 ID:WAt3wzty
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、
九鬼も船手で三河に派遣と秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
311名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:38:36.51 ID:WAt3wzty
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
312名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:38:57.61 ID:WAt3wzty
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
313名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:39:19.94 ID:WAt3wzty
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え
1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉

>>279
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
314名無し曰く、:2013/02/28(木) 00:49:39.43 ID:T+kgTwvx
俺の質問には一切回答しないでコピペしてるだけじゃねぇかwww
俺は回答待ちして待ってるのにそのまま誤魔化す気満々だなw
秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
与える領地もない信雄は、吉村が今尾で放火した功を報告してきたことに対して
3/28に粉骨を褒めて、続く4/6にいまだに秀吉方の森寺忠勝の今尾城を与えると書き
さらに4/25には駒野周辺を守っていた高木貞利にまで今尾城を与えると信雄は家臣の土方雄良に言わせて
二重約束の空手形まで発行する背信までやらざる負えないほど追い詰められてる。
ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
これにより11/7になると信雄は完全に切羽詰って、吉村まで疑心暗鬼になって疑いだすんだよなw
長久保の福田別心と書いて秀吉の調略に乗って寝返りかましたことに触れて
日原まで平手大炊助を派遣すると書いた後に、お前の妻子は俺が預かってるとか
わざわざ恫喝してどーすんだよw
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
年次不明の2月朔の信長書状では今尾城の守備について
当時の今尾城主だった貞利の父の高木貞久に申し付けたとして
諸事相談して協力して守るように
吉村・木村・田中・西松ら近在土豪らに宛てた書状があり
ここらの顔役だった高木の降伏は家康・信雄らには完全に決定打だよ。
策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
士気が崩壊した信雄軍という状況は
秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
1万討ち死と書く小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が
昨日やってきた時に聞いた 「世上如風聞」と書いてるし、明らかに家康・信雄が吹聴してたネタを聞いただけ。
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として 正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎる数字だわなw
この戦役後に家康は敗戦処理として秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
つか小田原城してる北条兵力がそんな少ないわけねーだろw
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとか書いてるが、
そんなもん黒田基樹氏の小田原合戦と北条氏を読むだけで論破だわw
だいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
315名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:06:23.90 ID:vmlD6Nt1
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
316名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:07:43.68 ID:vmlD6Nt1
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
317名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:10:01.79 ID:vmlD6Nt1
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
318名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:11:53.86 ID:vmlD6Nt1
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
319名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:42:08.31 ID:vmlD6Nt1
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
320名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:51:06.96 ID:vmlD6Nt1
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
321名無し曰く、:2013/02/28(木) 01:55:37.08 ID:WrePAG2T
もうじき容量オーバーだ
322名無し曰く、:2013/02/28(木) 02:13:40.20 ID:vmlD6Nt1
>>1万討ち死と書く小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が
>>昨日やってきた時に聞いた 「世上如風聞」と書いてるし、明らかに家康・信雄が吹聴してたネタを聞いただけ。
犬山は秀吉方陣地で敗戦を包み隠そうと必死にほんのささわりにもならないだのたいした事ないだの言って
ごまくしまくってたのになんで秀吉方の歪曲フィルターではなく家康の誇張が伝わるんだよボケ
秀吉方陣地にもかかわらず秀吉が敗戦をごまかそうと捏造歪曲情報を流しまくってすらごまかせないほど敗戦の痛手が大きく実は1万どころか2万くらい戦死してたよい証拠
佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
>>むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として 正確な数字を書きいれてる。
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎる数字だわなw
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが 顕如こそただ京以西の秀吉勢力圏中枢部で秀吉の流しまくった捏造情報
間に受けて噂でたまたま聞いたのを後からかきたしただけだわwしかも横にちょこっと書き足す書き方は江戸期の講談とか編纂史料に多く後世の人が
勝手に書く記入法(小牧長久手の後世の合戦記とかに多く用いられている)ので後世の人が捏造して書いた可能性高い
また愛知県史資料編にはその記述はのってるが長久手町史資料編には一切その記述なしなので原文ではなく近年書き足したものと予測される

>>つか小田原城してる北条兵力がそんな少ないわけねーだろw
北条家人数覚書・秀吉書状・関東八州諸城人数覚書で2〜三万で共通しており小田原市史資料編によればこれと同レベルの人数が記載された史料がもう一点ある
>>しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとか書いてるが、そんなもん黒田基樹氏の小田原合戦と北条氏を読むだけで論破だわw
アホかw黒田は佐竹の史料無視して小田原編年禄とか糞史料で語るアホだから話にならんわw
>>だいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
>>ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
んな事書いてる学者なんぞいねぇよクズ
辛川合戦加茂崩れの敗戦とかちゃんと乗ってるし史料編纂なんてどの藩でもやってるわw
伊達文書も歴代古案も後世の史料全部捏造とか言ってたら話にならんわボォケwwwwww
323名無し曰く、:2013/02/28(木) 02:31:11.49 ID:vmlD6Nt1
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況な事が「わかる」
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから異常に少なく見積もられてるだけだろ。実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているしつーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる。必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだからいかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのになぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
324名無し曰く、:2013/02/28(木) 02:38:37.56 ID:vmlD6Nt1
>>この戦役後に家康は敗戦処理として秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ。戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
秀康を秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている。この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた。天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす。11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から
三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも
何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている。関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる。
325名無し曰く、:2013/02/28(木) 02:46:27.09 ID:+41NQQSF
330くらいで容量オーバーか
326名無し曰く、:2013/02/28(木) 02:47:03.78 ID:vmlD6Nt1
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中。戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです。
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束。3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
327名無し曰く、:2013/02/28(木) 03:06:13.95 ID:WAt3wzty
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
328名無し曰く、
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。