446 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:10:46.23 ID:OYqZ0UGm
>>445 お前はさっきから、まったく史料的裏付けも出さずに、
自分が思ったことをひたすら書き連ねて落書きを書いてるだけだよな?
いい加減、根拠ない妄想の垂れ流しはやめてくれないか荒らし君。
447 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:13:59.79 ID:C+omd33A
>>446 だって君が言いだしたことなんだから俺が史料的裏付けをする必要ないもの
俺「小田井原は局地戦、真に追い詰めたのは北条」
君「
>>421 川越野戦は捏造。 山内上杉が衰退したのは晴信が小田井原の戦いで14人もの敵将を討ち取り上杉憲政を大敗させたのがキッカケ」
だから
・河越夜戦がなかったこと
・河越夜戦がないのに、武田や上杉ではなく北条に関東諸将が従ったこと
・小田井原の戦果は、勝山記のように壮大なものであったかどうか
を証明する必要が君にはある
448 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:15:06.53 ID:RjJ2xfqk
>>445 議論で追い詰められるとソースソースと印象操作w
関東諸将が北条に与した理由は
>>431、
>>435、
>>440でも説明されてるだろ
武田には古河公方や関東管領という大義名分がないし、謙信の登場は
もう少し後の話
449 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:17:21.34 ID:C+omd33A
ちなみに、逃げ場をふさぐ意味でもう1つ言っておくと
まず
>>412で君(ID:OYqZ0UGm)が「川越野戦自体捏造じゃんw」と言っている
それに対して俺は
>>414は「河越夜戦の有無なんてさほど関係ない」と発言した。
つまり最初の悪魔の証明を俎上に挙げたのは、ID:OYqZ0UGm
450 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:18:41.70 ID:23QQu/4v
>>411 >>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ
>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄
451 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:19:56.74 ID:23QQu/4v
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
452 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:20:20.55 ID:CSUG5vtW
結局信長って火事場泥棒とラッキーで美濃泥棒しただけだよな
伊勢も南近江も河内摂津大和も似たようなもんだけど
453 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:20:53.60 ID:23QQu/4v
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
454 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:22:31.03 ID:23QQu/4v
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
455 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:22:32.10 ID:C+omd33A
>>448 肝心要が説明できていない。
・婚姻関係だけで、格下の北条に名門足利が傀儡化されたこと
・古河公方に圧力をかけられるようになった原因となった
>>435説にある、扇谷上杉の著しい衰退
・確たる関東管領上杉憲政がいるのに、関東管領を僭称した北条に従う理由
恐らく君は、それが河越夜戦によるものだと考えているんだろうし、
俺もそれに関しては同感でいる。だがID:OYqZ0UGmは、
>>412、
>>437で
「河越夜戦は捏造で、そんなものはない」と言った。そこからこの議論は始まっている。
456 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:23:43.42 ID:69bzBKgt
>>450 だからそんなに簡単に美濃が取れるなら信玄が先に取れば良かったんじゃないの?
お前の言う通りなら楽勝だろ?
457 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:23:46.28 ID:23QQu/4v
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
458 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:24:46.16 ID:23QQu/4v
459 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:31:55.32 ID:C+omd33A
都合が悪くなるとどうでもいいコピペで誤魔化そうとする、基地外たるゆえんだな
>>450 >>諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある
全員が共同して武田と戦ったわけではない、上杉が介入したのは小田井原だけだし長尾の介入もかなり後
>>全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城
ただの妄想
>>豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
それは急ごしらえの統治体制しかできなかった斎藤側の責任。自分の不始末を信長に帰させる無能乙w
>>周辺国は分裂・弱体化しきっており
三河:巨大勢力の今川義元が着実に介入
美濃:信長の義理の父親である斎藤道三が死に、斎藤義龍が国を纏める
伊勢:北畠氏を中心に諸勢力が団結
は?w
>>(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
堀秀政もさほど身分が高くなかったはずだが。
>>津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
同姓なんていくらでもいる
>>氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
>>417では農民や下級武士の息子と書いただけでそこまで書いていない、恣意解釈乙
460 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:32:53.77 ID:RjJ2xfqk
>>455 俺も河越夜戦は捏造で、そんなものはないと考えているぞ
そもそも河越「夜戦」は江戸時代の作者・成立年不詳の妄想軍記にし書かれていない
北条の遺臣が書いた北条五代記には昼間の合戦となってるし8000対80000という荒唐無稽な数字も書かれていない
461 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:35:48.41 ID:69bzBKgt
>>458 美濃をぶんどって本拠地にすれば補給も糞もないだろが
462 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:37:18.96 ID:C+omd33A
>>460 いや、捏造云々の記述レスは見当たらなかったけどな。
仮に河越夜戦がなかったとしたら、少なくとも扇谷上杉の衰退は意味不明になるのだが・・・
扇谷上杉の衰退は、通説では河越夜戦で当主の上杉朝定が討死したことによるものだと言うことになっているが、
「河越夜戦がない」というのなら、扇谷上杉の衰退理由はなんだ?
463 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:59:34.98 ID:RjJ2xfqk
>>462 そもそも河越城は氏綱が天文六年に奪取して以来、対上杉の最前戦
そこで戦いがあった事は否定しないが、それが8000で80000を撃退した河越夜戦とは別物だろうということだ
扇谷上杉はもともと相模・武蔵の殆どを有する大勢力だが、氏康が家督した頃には本拠、河越城を含む領土の大半を失っている
上杉朝定は氏綱の河越奪取時に死んだとする史料すらある
つまり河越夜戦の頃には衰退しきっていた訳だ
衰退の理由は両上杉の対立、長尾景春、氏綱などいくらでも有る
464 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:05:45.21 ID:23QQu/4v
>>ただの妄想
http://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html >>それは急ごしらえの統治体制しかできなかった斎藤側の責任。自分の不始末を信長に帰させる無能乙w
いや斉藤の責任どうこうの話ではなく斉藤側の状況(分裂状態・クーデター状況)で信長は運よく火事場泥棒的に美濃を手に入れただけという事
>>三河:巨大勢力の今川義元が着実に介入
義元→ウルトラスーパーラッキーパンチで死亡→家康独立・同盟で東の心配なし
それどころか滋賀の陣や姉川で活躍する有力同盟者確保
>>美濃:信長の義理の父親である斎藤道三が死に、斎藤義龍が国を纏める
義龍死亡→龍興幼君・分裂・クーデター騒ぎ
>>伊勢:北畠氏を中心に諸勢力が団結
北畠→木造氏をはじめ家中内訌で分裂
>>堀秀政もさほど身分が高くなかったはずだが。
重鎮丹羽長秀と同様の立場として永禄9年段階で信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場してる
>>461 んなことしたら敵が集中してる東国方面の計略がおぼつかなくなるどころか今川上杉北条などに集中砲火にあってアボーン
465 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:18:20.41 ID:C+omd33A
>>463 長享の乱や長尾景春の乱って河越夜戦から50年近く前だろ?
関東の両上杉や古河公方が内紛に明け暮れていても、
そこから北条に敗北、傀儡化されるのは北条の行動ありきだと思うけどな。
もちろん、通説にある北条が寡兵で大軍を破ったというのは疑問視されるところではあるが、
結局北条氏康の攻勢や軍事力は関係がなかった、とするのはさすがに無理があるように思える。
466 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:27:17.46 ID:C+omd33A
>>464 返答になってない
おまえはそもそも
>>450で「全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城」と書いたよな?w
おまえの出したサイトは、戦国期にあった城で、そこのサイト立ち上げ人が「行ったことのある」「山城限定」だろ
事実そこのHPのトップには「登山のキツかった山城ランキング」とあって、決して「堅城」だとは書いてない
>>信長は運よく火事場泥棒的に美濃を手に入れただけという事
余所から見れば万全の状態を作れていないのが斎藤にとっては可能な限り万全を尽くしたと言うだけ
火事場泥棒でもなんでもなく、ただ信長が正当な方法で美濃を奪取して統治しただけの事
火事場泥棒というのは稲葉山城乗っ取りみたいなことを言うんだ
>>義元→ウルトラスーパーラッキーパンチで死亡→家康独立・同盟で東の心配なし
>>それどころか滋賀の陣や姉川で活躍する有力同盟者確保
>>義龍死亡→龍興幼君・分裂・クーデター騒ぎ
>>北畠→木造氏をはじめ家中内訌で分裂
今川は信長自ら侵攻を跳ね除けた結果だしその他の勢力も勝手に崩れただけ
信長が家督を継いだ当初は、固く持ちこたえていた勢力。時を経て自壊しつつあったというだけじゃん
>>重鎮丹羽長秀と同様の立場として永禄9年段階で信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場してる
それ身分の高さに全く関係ないじゃん。信長が秀政を重用したということだけじゃん。
467 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:29:03.93 ID:RjJ2xfqk
>>465 俺は「関係がなかった」とか一言も言ってないわけだが
議論の追い詰められると
人のレスを曲解、捻じ曲げ、印象操作乙w
468 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:29:47.57 ID:KPY/2NYV
zakoieyasu w
469 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:31:20.99 ID:RjJ2xfqk
470 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:31:36.24 ID:23QQu/4v
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
471 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:32:43.16 ID:C+omd33A
>>467 それはただの感想だから無視してくれて構わん
472 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:33:39.74 ID:OYqZ0UGm
なんだ長尾能景に相模に乱入され、
頼みの早雲も熱海へ逃亡し、
結局、能景に川越城を包囲され
扇谷上杉が無条件降伏し、
決定的に扇谷が崩壊しているのも知らんのか無知織田厨は。
だいたい上杉朝定は病死した可能性が高いし。
朝定も憲政も22歳そこそこの素人若造だしよ。
473 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:37:03.04 ID:23QQu/4v
>>余所から見れば万全の状態を作れていないのが斎藤にとっては可能な限り万全を尽くしたと言うだけ
意味不明日本語で頼む
>>火事場泥棒でもなんでもなく、ただ信長が正当な方法で美濃を奪取して統治しただけの事
正等な方法も糞もない
完全に弱りきってる所を火事場泥棒して楽に手に入れただけ
>>火事場泥棒というのは稲葉山城乗っ取りみたいなことを言うんだ
ほとんど稲葉山乗っ取りとかわらんだろ攻めてったら勝手に降伏するものばかりでまともに抗戦することなくまんまと美濃乗っ取っただけだし
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかり。頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かった。
その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれた。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
474 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:42:00.21 ID:23QQu/4v
>>今川は信長自ら侵攻を跳ね除けた結果だしその他の勢力も勝手に崩れただけ
美濃が稲葉山城を家臣に乗っ取られたりする無能だったし
将軍奉公衆や甲賀衆や大和衆やそれに協力する一揆や本願寺や比叡山といった
諸勢力が三好軍を摂津や近江などで撃退したりと
敗北続きの信長に協力してくれたし、
天皇も決勝綸旨でバックアップしてくれたから
三好軍はあっけなく瓦解し信長は成功しただけだろ。
信長は他力で這い上がった挙句、増長し味方だった者はことごとく裏切られたと激
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからで
それ以前の今川はまったく衰退していないのも知らんでアホかよ。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っているのに無知晒すな。
それに信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし、
第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
>>信長が家督を継いだ当初は、固く持ちこたえていた勢力。時を経て自壊しつつあったというだけじゃん
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
信長は無能暴君DQNを遺憾なく発揮しまくり、失望した守役達は自決したり&謀反の連続で
英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
信玄が哀れんで信長を救う為に織田と同盟してあげ救助してやったのが史実。
>>それ身分の高さに全く関係ないじゃん。信長が秀政を重用したということだけじゃん
秀政ではなく秀吉の話だし領土安堵状は身分の低い者は基本出さない(出してる例はなく一定以上の階級の者だけ)
475 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:42:33.48 ID:C+omd33A
というか、追い詰められるも何も意味不明すぎるのだが
「河越夜戦なかった、捏造である」は、元々
>>412(ID:OYqZ0UGm)が言い出し、
俺は
>>414で、河越夜戦の有無はさほど関係がない、と信憑性を疑問視しながら、
それでも北条の躍進と両上杉の衰退は関係があるとしているのに、
>>421でさらに捏造説を強く主張
それにID:RjJ2xfqkが乗っかっている。
ID:OYqZ0UGmの「河越夜戦捏造説」は
・山内上杉が衰退したのは河越夜戦ではなく小田井原で信玄にボロクズに負けたから(
>>421 )
・山内上杉についていた家臣は、自立したのち古河公方を牛耳る北条氏に臣従した結果(
>>444 )
で、ID:RjJ2xfqkがさらに注釈をつけ
・氏康が古河公方を脅迫して関東管領を僭称(
>>431 )
・扇谷上杉の著しい衰退によって、北条は古河公方に直接圧力をかけれる(
>>435 )
・扇谷上杉が衰退した根拠に、両上杉の対立、長尾景春、氏綱を挙げる(
>>463 )
を主張したわけだが、名門足利家の古河公方が北条の圧力に屈した点も、扇谷上杉が衰退した根拠も不透明なまま。
ID:RjJ2xfqkはまだ現実的な主張をしているが、ID:OYqZ0UGmはそれこそ根拠なしのレベル
476 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:48:54.05 ID:C+omd33A
>>473 >>意味不明日本語で頼む
斎藤はアレで万全を尽くした状態だった
加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城はハナから斎藤が織田に勝てないと踏んで臣従した
火事場泥棒でもなんでもなくただの正当な奪取であり統治
火事場泥棒(かじばどろぼう)とは、火事で混乱した現場で窃盗を働くこと、または窃盗を働く者。
転じて、人々が混乱している中で利益を得ること、または利益を得る者。
美濃衆はほとんど誰も混乱してない、最初から織田に通じる連中が多かっただけだし、稲葉山乗っ取りの混乱は、斎藤自身が招いた自爆
>>英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
>>尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
>>信玄が哀れんで信長を救う為に織田と同盟してあげ救助してやったのが史実。
武田と織田の同盟は美濃攻めの中盤以降だし、当然義龍は死んでいる。
そもそも尾張半国を奪取されたソースは?w聞いても無駄だと思うけどw
>>秀政ではなく秀吉の話だし領土安堵状は身分の低い者は基本出さない(出してる例はなく一定以上の階級の者だけ)
だから秀吉も同じじゃん。信長が秀吉を重用して、織田家で厚遇した結果。
477 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:00:41.20 ID:RjJ2xfqk
>>475 >>460の河越「夜戦」は江戸時代の作者・成立年不詳の妄想軍記にしか書かれていない
北条の遺臣が書いた北条五代記には昼間の合戦となってるし8000対80000という荒唐無稽な数字も書かれていない
が抜けてるぞ
都合の悪いレスはスルーして印象操作かw
478 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:01:06.15 ID:23QQu/4v
>>加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城はハナから斎藤が織田に勝てないと踏んで臣従した
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかり。頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かった。
その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれた。
>>火事場泥棒でもなんでもなくただの正当な奪取であり統治
幼君・クーデター騒ぎ・飢饉や不景気・離反・降伏ばかりで抗戦せずに手に入れただけなので火事場泥棒といって差し支えない
斉藤が万全の状態だったならともかく上記のようにガタガタに弱りきってた所を外側から奪っただけ
>>だから秀吉も同じじゃん。信長が秀吉を重用して、織田家で厚遇した結果。
いや、そもそも一次資料の初登場がそれ(丹羽と同じような立場)なのではじめから身分がある程度高かったと見るべき。
信長公記では一軍を率いる将として初登場 すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし
低い身分からの抜擢なんて講談の影響
479 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:36:05.87 ID:OYqZ0UGm
そもそも北条にも豪傑キャラ作ろうぜって感じで北条遺臣が捏造しまくったキャラ属性つけたのが北条綱成だろ。
父親に架空人物の福島正成を製造し、
今川有力家臣だったと妄想した挙げ句に、
捏造川越野戦を作る際に川越城に籠城した名将設定w
しかし一次史料の綱成なんて深沢城で武田軍に降伏土下座したヘタレでしかないわけでさ。
480 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:10:50.89 ID:lEigpBdl
桶狭間の戦いは信長公記だと今川勢四万五千となってるけど
いろいろ検証されて「国力からすれば二万五千が妥当」とか「義元本隊は五千程度」とか「半分は非戦闘員」とかケチ付きまくってる
河越夜戦は作者・成立年不詳の軍記物語の80000が通説な不思議
481 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:16:21.45 ID:CSUG5vtW
桶狭間の戦いは一次資料にない軍記だけのデタラメ。
当時の織田の国力は57万石+交易収入+全国ダントツトップの朝廷献金額で
三河遠州駿河三国の今川と同程度
その軍記内ですら先陣と勘違いして突っ込んだ先がたまたま本陣で偶発的タイミングで雨や風が吹いて運よく義元殺しただけ。
482 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:31:09.64 ID:23QQu/4v
一番捏造ひどいの毛利だろ
敷折畑の合戦は捏造だと学会でも発表
有田大井手の戦い、厳島の戦いとかいずれも史料になく
軍記だけのデタラメ
483 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:34:20.73 ID:RjJ2xfqk
>>480 通説じゃないし
まあ教科書にも載る超有名合戦とローカル捏造合戦の差だな
河越夜戦はまともな史料が無いからまともな研究者もいない
つまり学界の通説はない
捏造合戦である「河越夜戦」の説明として80000という数字しか存在しないだけのことだ
484 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:45:19.36 ID:IjxpaDxD
>>476 あんたにレスするのは変だけど、
> 英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
> 尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
それなのに義龍生存中に尾張をほぼ統一しちゃったんだよなw
そのくせ
> 桶狭間の戦いは一次資料にない軍記だけのデタラメ。
> 当時の織田の国力は57万石+交易収入+全国ダントツトップの朝廷献金額で
こんなこと言っちゃうんだぜ?
一体どっちなんだって話だよw
485 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 22:16:26.93 ID:69bzBKgt
>>464 北条今川とは同盟しているし上杉は武田からちょっかいかけなければ動かんだろ
あと進軍も信忠や秀忠が大軍率いて通過していたんだから問題ない
それとお前の言うとおり東美濃の連中が困窮していたんなら金バラまけばなびくだろう
雑魚の信長でさえ取れるなだから信玄なら楽勝じゃないの?
486 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:00:56.66 ID:23QQu/4v
今川の衰退は永禄6年12月から始まる 遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる 遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により 三河とも連絡が取れなくなったから。義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかし駿河衆は今川に忠誠を誓っているのが確認されている。
それなのにわざわざ信玄が今川を攻めて背後に敵を作るバカな真似はしないだろう。
そもそも信玄が今川を攻めたのもやむを得ないこと。
だいたい直前まで上杉と戦ってんのに、今川攻めをするリスクを犯してまで
信玄は駿河攻めをしなければならないほど挟撃の危機を感知していた。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようと
この一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
永禄11年11/3にはすでに今川は駿河と甲斐の国境封鎖を開始し
11/25に氏真が謙信に信濃攻めを依頼するなど、明らかに今川が敵対を露にしてる。
487 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:16:05.57 ID:C+omd33A
>>477 いや、それは史料によって数や規模が異なると言うだけで
「河越夜戦がなかった」ことの根拠にはならない
例えば小田井原でも勝山記では三千討取、将も14人討取なんてあるが高白斎記にこんな記述はなし
また甲陽軍鑑では合戦の日時を1548年とし年次でも誤っている。
>>484 まあこの基地外に日本語が通じれば苦労はしないからね
司馬史観ならぬ「だが史観」とでも言おうか
488 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:22:26.33 ID:C+omd33A
>>478 >>その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある
>>西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
豊かな西美濃衆を味方につけられなかったってことだろ、それ斎藤の自爆じゃんw
大体東美濃衆が飢餓や不景気で抗戦できなかったとするソースは?
>>斉藤が万全の状態だったならともかく上記のようにガタガタに弱りきってた所
クーデター、離反、降伏は斎藤の身から出た錆
代替わりで苦労するのは信長も経験しているしそこで外圧を跳ね返せないなら飲み込まれるだけ
つまり代替わりの大事な時期にまともな統治体制を確立できなかった斎藤の自爆
>>いや、そもそも一次資料の初登場がそれ(丹羽と同じような立場)なのではじめから身分がある程度高かったと見るべき。
信長が重用してやって無理やり身分をあげてやっているだけでスタート地点と関係なし
そんなこと言ったら世に出ている戦国武将は皆高貴で身分の高い人間だらけになる、荒唐無稽。
489 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:27:40.10 ID:LHIt9817
>>487 河越「夜戦」は作者・成立年不詳の妄想軍記にしか書かれていない
河越城の合戦は北条五代記には昼間の合戦と明記されており、他の史料でも夜戦とするものは皆無
むしろ河越「夜戦」があったことの根拠がない
490 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:36:11.68 ID:LHIt9817
ついでに数や規模が書かれてるのは妄想軍記くらいで一次史料は皆無
491 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:40:08.60 ID:C+omd33A
>>489 河越夜戦の「夜戦」に括る意味はあるのか?
夜ではなかった、とするのなら河越の戦いになるだけで名前かわるだけの代物になる。
史料による記述の食い違いは、それだけで戦いそのものを否定する根拠にはならない
そんなこと言ったら小田井原も信玄の大勝とするのは勝山記だけだから
「史料によって記述が違うので小田井原の戦いは存在しない、捏造でっちあげである」という主張になりますますわけがわからなくなる
492 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:51:44.01 ID:LHIt9817
>>491 勝山記は俺のネタじゃないからどうでもいいけど一次史料だろ
河越「夜戦」は作者・成立年不詳という二次史料未満の代物にしか書かれていない
493 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:57:37.91 ID:LHIt9817
他のまともな史料から判るのは同時期に河越城付近で合戦があったらしいということだけだ
なぜかIDが変わってるが俺はID:RjJ2xfqkな
494 :
名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:11:21.06 ID:QDC5GDl9
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
495 :
名無し曰く、:
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ
>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄