1 :
名無し曰く、:
2 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 17:18:31.97 ID:j5f64daE
3 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 17:40:44.52 ID:bVxVEu90
前スレ終盤でソースがどうの言ってたけど、ソース提出する必要あるのはあるって主張する方だからな
ない証拠は出せないから、ない事そのものが証拠になる
この辺を考えたうえで某コピペ馬鹿はソース出せって言ってくれな
4 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 00:10:56.12 ID:Ca1+p8bH
石田三成ってガンダムのマ・クベ大佐みたいな人物だな。
5 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 12:01:39.95 ID:OhqaucTU
前>> 767
>柵もめぐらされていない無防備な陣の小牧山
マジですか?
6 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 12:37:26.75 ID:BDC1W2XC
またコピペでスレが埋まったのか
だがを越える奴は出そうにないな
7 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 15:44:30.01 ID:NazuGoSU
天道スレの方に湧いてるな
流石にここまでくればいい加減コピペ爆撃で依頼通りそうな気もするけど
8 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 17:19:54.42 ID:BDC1W2XC
戦国板で散々暴れていた時ですら通らなかった時点でお察し
9 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 22:05:22.35 ID:lYt8ZtB2
10 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 22:15:34.53 ID:etK6NlK0
佐久間信盛は過小
蒲生氏郷とかの雑魚と入れ替えていいくらい。
川尻や蜂谷、日根野とか織田家の中堅格やそれ以下の武将はもうちょい高くていい
その分アホみたいな豊臣雑魚武将を下げて能力入れ替えるべき。
11 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 22:29:56.13 ID:BDC1W2XC
当代記すらまともに読んでいないアスペだがw
「小牧は酒井左衛門尉在城令」の文字すら読めんらしいw
12 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 22:45:32.67 ID:lYt8ZtB2
三河物語
小牧山には柵をさへ付させ給はずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。
土手の際までかけ付けして、十万余り之人数に面を出させ給はず
13 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 22:50:08.64 ID:etK6NlK0
信雄・家康総軍で16000程度で
家康も榊原や井伊も信雄も小幡方面へ出兵してるから小牧山なんてせいぜい数千が残るだけだろ
こんな所を10万の大軍で攻められないとか終わってる件
14 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:03:24.65 ID:lYt8ZtB2
前スレまとめ
>>つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
いや家康の専横がまかり通るような状態だった状況に比していえば家康程度でもある程度強力だったといえるのではと指摘しただけ
そもそも三成に限った話ではなく豊臣家の状態が三成に私恨で豊臣宗家の事を忘れる武功派の愚行、
家康にいちゃもんをつけられて攻めるポーズを見せたら即座に誤り人質要求されそれに従う浅野・前田・細川ら
そして「天下殿」の世評を得る家康、など豊臣の状態自体が既にグラグラだというだけ。
>>家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
>>武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
つまり豊臣恩顧武将がそういう状態にしただけ。
豊臣恩顧武将が戦後の論功行賞で異を唱えるなり江戸幕府開設を妨げるなり秀頼の官位昇進を強く促すなり
いくらでも防ぐ手法はあったわけで。豊臣の事を忘れ、家康に利用され、家康の権力強化を妨げず
権力が強化された家康の犬になり豊臣を見捨てたのが豊臣武功派連中
>>所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性
根拠不明
>>浅野や前田は滅ぼされましたか? 家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
いや滅ぼされたとかどうとかではなく「敵対勢力を潰す」
>>560 >>秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
10、11じゃ幼君もいい所じゃねぇかw
普通元服行うのは1516だろw
>>上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
意味不明
三成襲撃事件→三成失脚・家康「天下殿」の世評→前田浅野細川へのいちゃもん→屈服
また対島津みたいに多大な恩売るor婚姻・同盟→徳川勢力拡張
と順繰りに潰されていくだけ
>>ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
>>関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
勝ち馬にのろうがのるまいが東軍の家康と東軍に呼応して挙兵すると約束し
東軍の尾張着陣にあわせて行動開始している(9/7・9/11書状)のでどうみても東軍
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
>>代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
お前は徳川は他大名をろくに潰していないからたいした権力ないと一方でいい
石田は他大名の領地を少しでも削って豊臣蔵入り地を少しでも増大させようとする事が豊臣の基盤強化に繋がらないと妄想し
矛盾しまくりなことに少しでもきづけアホw
>>幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
幼君だからこそ基盤をしっかり築く事が政権の安定化になる
幼君にもかかわらず配下大名の領地が膨大にあり
家臣達の専横・私利私欲・私的感情で崩壊したのが豊臣家
>>そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
結局武功派連中は私利私欲につられて恩賞を減らそうとする三成を毛嫌いして豊臣宗家の事を忘れ家康に利用されたにすぎない
そんな奸臣こそ豊臣を崩壊させた張本人
15 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:03:56.78 ID:lYt8ZtB2
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
16 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:04:01.10 ID:BDC1W2XC
>>12 おまえさ、まさかとは思うけど、それ家康の陣の記述だと思ってるのか?w
「柵をさへ付けさせ給はずして」「かけはなちに陣取らせ」の主語は「関白殿」だぞ?w
原文で載せると
「早関白殿、十万余騎引連れて、宇留間を越て犬山へ押出て、小牧山を取らんとし給う処に、
家康早くかけ付させ給ひて小牧山へ上がらせ給へバ、関白殿も手を失ひて、小口・楽田に諸勢ハ陣立て、
一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。小牧山にへハ柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。
土手の際までかけ付かけ付して、十万余之人数に面を出させ給ハず。」
で主語は「関白殿」になる。大体すぐ前に「おぐち、楽田」と秀吉陣の様子があり、
「十万余之人数に面を出させ給ハず」と秀吉が率いてきたと思われる軍の数が明記されているのに
これを「家康が主語だ」なんて無茶苦茶な言い分をするのはさすが基地外と言うべきか
秀吉が小牧山に対しては柵をつけず、かけはなちに陣取らせて、十万近くいる人数の軍勢を前に出したということだぞ?w
17 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:13:13.70 ID:lYt8ZtB2
>>16 小牧山には家康が陣取ってるのに秀吉が柵をつけなかったとか相当馬鹿だな
百瀬明治の訳「一方、家康は小牧山に柵さえ設けず、一見無防備のまま布陣した。
次の分 そして秀吉側の土手まで何度か兵を繰り出し、十万余りの大軍を封じる事につとめた」
次の10万余りの人数に土手の際までかけ付して面を出させなかったように動きを封じているのは徳川方としていえないので
当然前の文も徳川軍
いい加減曲解は体外にしろこのチンカス野朗
18 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:14:53.48 ID:lYt8ZtB2
つうか
>>一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。小牧山にへハ柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。
>>土手の際までかけ付かけ付して、十万余之人数に面を出させ給ハず。」
小牧山にへはとか勝手に加筆してんじゃねぇよこのタコ
19 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:16:11.37 ID:etK6NlK0
ID:BDC1W2XC
こういう史料を無理矢理加筆したり曲解する馬鹿は死んだ方がいいな
二度とスレくんなタコ
20 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:19:12.36 ID:lYt8ZtB2
ID:BDC1W2XC
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21 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:21:10.68 ID:lYt8ZtB2
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
22 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:25:05.84 ID:lYt8ZtB2
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
馬鹿かお前
その関が原でどうして戦う事になったのか考えてみろよタコ
東軍が尾張口に来たときに輝元が散々美濃口の防衛要請無視したり大垣篭城組の後詰要請無視して
伊勢湾だの四国だのどうでもいいところに兵チラシまくった結果だろうが
大体石田なんて大きな軍団持ってないしほとんど毛利一族のどうこうで決まるたたかいじゃねぇか
持ってた地位と軍団の規模無視して無理矢理捏造擁護で輝元擁護してんじゃねぇよクズ
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
23 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:25:28.65 ID:lYt8ZtB2
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
24 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:26:49.28 ID:lYt8ZtB2
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
>>そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
その通りで全くもって毛利一族のヘタレ具合で負けただけなのが西軍
>>その権力が付け焼刃でしかないというのは
具体的にどういう点でだ?
後付け焼刃程度でも
付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえる
>>むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず
いや、西軍と東軍のまとまりの優劣の話であって権力度合いの話ではない
>>家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
そんなのは理由にならない
大阪の陣で武功派連中も皆家康の犬に成り下がってる時点で豊臣どうこうよりも三成にくしなどという私的感情でおろかに豊臣家を衰退させたにすぎない
>>奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで
そもそも筋目から家康が私婚問題で糾弾されたら軍を動かしたり武功派連中の警護で
大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
>>全然潰せてませんけどね浅野は当人が隠居しただけで終わってますし
>>560に書いたように皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
それこそ家康によって天下簒奪が完成するだけ
25 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:27:55.46 ID:NazuGoSU
発狂っぷりにワロタ
だがもどきさんこの間の村上の時の話の言い訳考えたー?
26 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:31:31.84 ID:lYt8ZtB2
基地外織田厨死ね
27 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:32:25.48 ID:BDC1W2XC
>>17 おまえは悉く頭がカラッポなんだなw
小牧山の家康を攻めるのに秀吉が自分の陣に柵貼ってどうするんだよw
向こうは城に籠っているし自陣に柵つけたら逆に進めねーだろw
どこのチンケな作家載せているのか、あるいは作家の名前だけ借りて
いつもの如く妄想を繰り広げているのか知らんがな、
俺が載せた原文は小牧市が「小牧山」の史跡紹介に使う文献を書いた史料だ
http://www.city.komaki.aichi.jp/bunkazai/komakiyama/002846.html (小牧市 文献資料 2番目 三河物語)
また三河物語原文も、きちんとこのように書かれており、小牧市の原文が正しいことがわかる
大体、「十万余之人数に面を出させ給ハず」の次の文は原文だと
「然る後ハ、岡崎ヘ押寄而。城ヲ取物ナラバ。」と続き、さらに「見吉之孫七郎殿(三好秀次)ヲ大将と」
とある。どう見ても秀吉軍の行動が書かれているだけなのを捏造するだがw
28 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:42:03.05 ID:lYt8ZtB2
>>27 お前の糞翻訳なんぞ知らん
百瀬明治は三河物語だけではなく北条記や他の軍記類の翻訳でも活躍してる歴史家だ
大体ネットソースじゃねえかw
徳間書店の書籍でも
長久手町史資料編に乗ってるのでも日本戦史の奴でも書籍として発行してる本で「にへは」などと書いてるでたらめ本なんてねーわクズw
一々史料曲解していちゃもんつけて秀吉無理やり擁護してんじゃねぇよ童貞包茎チンカスゴミヲタ野郎
29 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:47:08.35 ID:lYt8ZtB2
>>>小牧山の家康を攻めるのに秀吉が自分の陣に柵貼ってどうするんだよw
秀吉は自軍周辺に岩崎山・窪・青塚・田中卿・二重堀など堅固に普請して要害に拵えって言ってるんだがw
>>向こうは城に籠っているし自陣に柵つけたら逆に進めねーだろw
同上
30 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:48:27.83 ID:BDC1W2XC
基地外アスペルガーだがは日本語の基礎の基礎も知らんらしい
通常、その文中に出てくる主語は、その直近の文頭にある人物が主語で、
しかも三河物語では家康の事を指す場合「家康ハ」と記してあるし
実際原文でも「家康早くかけ付させ給ひて小牧山へ上がらせ給へバ」とわざわざ記してある
問題となっている原文では「関白殿も手を失ひて、小口・楽田に諸勢ハ」と明らかに関白殿こと秀吉の動きであることがわかり
その後「「然る後ハ、岡崎ヘ押寄而。城ヲ取物ナラバ。」「「見吉之孫七郎殿(三好秀次)ヲ大将と」と続き
「家康ハ三河へ敵まいると聞召」とわざわざご丁寧に家康を主語に入れている状況
また
>>17では「十万余りの大軍を家康が封じる事につとめた」と訳されているが
家康が主語であるという記述はどこにも見えず、原文では「面を出させ給ハ寸」としか書かれていない。
秀吉が逸る味方を抑えて、不用意に前に出させなかったとする見方もできるわけであるし
実際この文の直近の主語は「関白殿も手を失ひて」とあるように「関白殿」である。
31 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:52:01.87 ID:BDC1W2XC
>>28 勢い余って市のHPまで否定しだしたかw
しかも三河物語の原文も細部まで酷似しているのに全否定
おまえの糞翻訳よりはマシというがそっくりそのままおまえにかえしてやるよw
>>29 秀吉が要害を築いているのは小牧を包囲するため
小牧を包囲するための要害で逆に小牧への進軍を阻害するかおまえはw
どんな古今の無能武将すら思いつかないようなことをやるんだなw
32 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:55:50.36 ID:BDC1W2XC
日本語教養すら拙いアスペルガーにもう1つだけ教えてあげよう
格助詞の「に」「へ」は場所や位置の到達点を示す用途、
つまるところほぼ同じ目的で使われ、これによって文の意味が変わると言うことはほとんどない
つまりアスペルガーだがは、本来証明しなければいけない
「関白殿も手を失ひて、小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。
小牧山にへハ(ニハ)柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。
土手の際までかけ付かけ付して、十万余之人数に面を出させ給ハず。」
の原文の主語が「家康」であることを証明しづらいがために
たかだが2文字3文字の異なる本文、それも大して意味の変わらない文に固執してケチをつけているのであるw
33 :
名無し曰く、:2013/02/05(火) 23:59:24.65 ID:lYt8ZtB2
>>通常、その文中に出てくる主語は、その直近の文頭にある人物が主語で、
そんなもん例外はいくらでもある件
>>しかも三河物語では家康の事を指す場合「家康ハ」と記してあるし
信康自害事件の顛末の台詞でも読み直してからきてください
>>実際原文でも「家康早くかけ付させ給ひて小牧山へ上がらせ給へバ」とわざわざ記してある
そもそも家康早くかけつけさせ給ひて
などと徳川が主語となる文が登場してる上、基本三河物語は徳川側の視点で描かれているので
関白など敵方相手方の登場時には相手の名前を出すか相手とわかる言葉を出すなりして相手のこととわかる文にしてる
>>問題となっている原文では「関白殿も手を失ひて、小口・楽田に諸勢ハ」と明らかに関白殿こと秀吉の動きであることがわかり
逆。基本家康や徳川方主体となる文は徳川が主語などとは省略してはっきり書かないことが多いが
関白主語の文はそれとわかるように書いてる
>>家康が主語であるという記述はどこにも見えず、原文では「面を出させ給ハ寸」としか書かれていない。
土手の際といってるが
秀吉が柵も陣地も築いていないなら土手なんぞできようがないので明らかに家康側の事
>>秀吉が逸る味方を抑えて、不用意に前に出させなかったとする見方もできるわけであるし
そもそも秀吉は丹羽あて書状で楽田周辺をガチガチに砦で固めまくってるといってるので
無防備に布陣してたなどというのはありえない。
無防備に布陣してたなら土手(防壁の役割)などできようもないので明らかに家康方
34 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:03:19.06 ID:+sRoQ7Ud
>>秀吉が要害を築いているのは小牧を包囲するため
は?お前矛盾しまくり
かけはなちに布陣させるなら周辺に砦で固めまくるわけねーだろクズw
>>おまえの糞翻訳よりはマシというがそっくりそのままおまえにかえしてやるよw
お前の糞翻訳してる馬鹿歴史家なんぞいねえよクズw
お前は小牧市の捏造歪曲文章を持ってきて「翻訳もされていない」
無理矢理歴史家の正しい翻訳を曲解してるだけだろうがタコ
35 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:06:31.37 ID:yGbpFtz7
>>33 屁理屈もここまで来ると痛快だなw
>>秀吉が柵も陣地も築いていないなら土手なんぞできようがない
>>無防備に布陣してたなどというのはありえない
原文で「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」
と陣を築いていることは三河物語でも明言されている。
そのうえで「小牧山にへハ(ニハ)柵をさへ付させ給ハずして」と、自軍が
小牧に籠る家康を攻めやすいようにそこを開けている、というだけw
>>信康自害事件の顛末の台詞
少なくとも小牧とは関係ありませんね
>>徳川が主語となる文が登場してる上
徳川が主語となる場合は「家康」と前についています、少なくとも小牧の下りでは
ちなみに当代記では「小牧は酒井左衛門尉在城令」とあるように
小牧は城扱いされている。城に柵を築かなかったところで
「前>> 767 >柵もめぐらされていない無防備な陣の小牧山 」にはなりようがない
36 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:08:08.19 ID:+sRoQ7Ud
つうか秀吉→丹羽「悉要害に拵え、陣捕候前に芝手を築、柵を付け少しも無越度様に申しつけ」って書いてるんだが
これで秀吉陣営の事とかアホすぎね
37 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:10:15.34 ID:yGbpFtz7
>>34 >>かけはなちに布陣させるなら周辺に砦で固めまくるわけねーだろクズw
一方向からしか物を考えられない、まさに典型的なアスペルガーだなw
周辺に砦を置くことで、小牧を一気に攻める自軍を妨害されないようにする、
安全に城攻めを行うように付け城で防御を固める戦術は当時既に行われています、これがその一環なだけw
>>無理矢理歴史家の正しい翻訳を曲解してるだけだろうが
あなたが
>>17で出した、百瀬明治は作家ですけどねw
「長野県生まれ。京都大学国史学科卒。25歳で青春小説でデビュー。平凡社で『季刊歴史と文学』の編集長を務め、
38歳から歴史作家として、会田雄次、邦光史郎との共著などを含めて活動を始める。仏教史、宗教史への関心が深い。」
つまり司馬遼太郎や山岡壮八あたりとそう変わらないわけでして、作家の小説や推論がソースとは笑いが止まりませんなぁw
38 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:11:38.03 ID:yGbpFtz7
>>36 城攻めを安全に行うために自軍が他から攻撃されないように付け城を固めるのは
当時では普通に行われていたことです。少なくとも秀吉の主君である信長は
石山本願寺を攻めるために多くの付け城を築いて包囲してますね
39 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:16:58.44 ID:+sRoQ7Ud
>>原文で「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」
>>と陣を築いていることは三河物語でも明言されている。
つうか自分で書いてて矛盾してる事に築けアホ
高土手を築きて、そのうちに陣取りと「小牧山には…かけはなちに陣取り」と
その二つの文が両陣営を対象として書いてるのに築けアホ
一丈ばかり高土手を築く、のどこがかけはなちに陣取り、になるんだよタコw
>>少なくとも小牧とは関係ありませんね
同じ作品内なので十分関係あり
>>徳川が主語となる場合は「家康」と前についていますなので
然処に堀久太郎、長谷川藤五郎…小幡まで打たれける
と家康とか徳川が完全に省略されてる
つうか主語なんて適当に入れ替わったりしまくってるのに
国語の教科書みたいに丁寧にちゃんと近い所を刺すわけねーだろクズw
つうかお前古語履修してねえだろw
基本問題じゃなくなると主語なんて適当に入れ替わりまくるんだがw
40 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:19:50.40 ID:+sRoQ7Ud
>>37 アホだな
付け城で防御を固めると「かけはなち」の矛盾が全くわからないとか
>>38 だったら「かけはなち」、「柵をさへ付けさせ給はず」
じゃねーだろクズw
41 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:23:36.70 ID:+sRoQ7Ud
其れよりも三万余りの者共を切り崩し給ひて
の文も家康どうこうなんて書かれてねーじゃん
42 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:23:47.22 ID:oso3Rbsu
同時代史料じゃないものをソースと言い切るとか流石ですね
43 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:26:10.84 ID:0b3hy2Lh
大久保って思いっきり当時の人間じゃねぇかw
44 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:29:25.99 ID:yGbpFtz7
>>39 >>その二つの文が両陣営を対象として書いてるのに築けアホ
そう思っているのならあなたの妄想です
そもそも、三河物語原文では
「小牧山に陣取ろうとして(家康が早く行ったために)おぐち・楽田に陣を敷いた秀吉」と
「小牧山に入り、岡崎に押寄る見吉之孫七郎殿らを追いうつべく出撃する家康」と
行動単位で両者が対比されており、事実それ以降家康の活躍が延々続きます
>>一丈ばかり高土手を築く、のどこがかけはなちに陣取り、になるんだよタコw
一丈って現代の単位に換算すると約3メートルですけどねw
「其内に陣取なり」と原文は続いてますから秀吉がそこに居座ったということでしょ
>>同じ作品内なので十分関係あり
その関係性が認められたところで可能性の1つでしかありませんし、
現に小牧の部分ではそのようなことはないです
>>然処に堀久太郎、長谷川藤五郎…小幡まで打たれける
>>と家康とか徳川が完全に省略されてる
その部分は天正十二年甲申卯月八日の後に続く「家康ハ」はから延々と続いているので
主語省略ではなく文の一部分にしかすぎません。「家康ハ」から続き
途中「榊原式部太夫」「水野惣兵衛」と武将の名前が入りますが彼らが主語のまま
その該当箇所まで延々と文が続いているだけです。主語省略とは異なります。
45 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:36:30.80 ID:yGbpFtz7
>>40 やはり君は脳に欠陥があるようですね、1つが同じだと残りは全て同じだと思い込むw
アスペルガーの典型的症状ですよそれは、一度調べるか近くの病院に行くことを本気でお勧めします
>>付け城で防御を固めると「かけはなち」の矛盾が全くわからないとか
>>だったら「かけはなち」、「柵をさへ付けさせ給はず」
「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。
小牧山にへハ(ニハ)柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。」
の三河物語原文は、秀吉が陣を敷く際にどう対応したかが述べられているもので、
小牧には「かけはなち」の状態で自分の城攻めを安くし、
他の動きに備えるために「陣立て」「陣取り」としたということが記されているだけです。
結局今のあなたは、半ば無意識的に「小牧には『かけはなち』なら、他の場所でも『かけはなち』だ」とか
「陣取りがなされているのなら、小牧に対しても『陣取り』がされているべきだ」と
どちらかでしかないと決めつけているだけに過ぎません。
46 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:43:15.34 ID:+sRoQ7Ud
>>そう思っているのならあなたの妄想です
二回秀吉方の「陣取り」の様子をわざわざ「陣取り」という言葉を2回使って別個に説明する必要なんぞない。
一度に書けばいいだけ。
>>一丈って現代の単位に換算すると約3メートルですけどねw
十分堅固な陣地じゃねえかw
>>「其内に陣取なり」と原文は続いてますから秀吉がそこに居座ったということでしょ
小口・楽田に諸勢は、陣取てに続く文なのでそいつらが高土手を築いて陣取ったといってるだけ
>>その関係性が認められたところで可能性の1つでしかありませんし
なんで同じ作品の中で文章の法則(徳川の行動には「家康は」を付ける)など変わるんだよアホ
>>その部分は天正十二年甲申卯月八日の後に続く「家康ハ」はから延々と続いているので
その文の初頭は秀吉方の事が書いてる(秀吉方が岩崎を攻め取って勝どきをつくりて)
つうか途中の平松と鳥居と二人のやりどうこうの文でも「敗軍」の主語は秀吉方なので
主語は途中で入れ替わったりしてる
つうか基本徳川視点で書かれてるので基本徳川の行動が細かくかかれてて途中に秀吉方の行動が挿入されてるだけの話
天正12年甲申之年、関白殿、の文でも家康の台詞は主語を省略されたりして
途中で主語が秀吉→家康に自然に変わったりしてるし基本徳川視点で、挿入的に秀吉やら信雄やらの台詞行動が書かれてるだけ
47 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 00:47:42.72 ID:+sRoQ7Ud
>>45 >>結局今のあなたは、半ば無意識的に「小牧には『かけはなち』なら、他の場所でも『かけはなち』だ」とか
>>「陣取りがなされているのなら、小牧に対しても『陣取り』がされているべきだ」
小牧に家康・信雄の主軍が居座ってて秀吉方が「芝手を築き、柵を付け、要害として堅固に」築いた陣地(岩崎山・内窪・青塚・田中卿・二重堀)
は全て小牧を囲む位置にあるのも知らんとかワロタw
小牧に対してかけはなちなら、一体秀吉が「芝手を築き、柵を付け、要害として堅固に」築いた陣地(岩崎山・内窪・青塚・田中卿・二重堀)
はどこに向かって築いた拠点なんだよアホw
48 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:03:13.77 ID:yGbpFtz7
>>46 >>二回秀吉方の「陣取り」の様子をわざわざ「陣取り」という言葉を2回使って別個に説明する必要なんぞない。
正確には三回です。「おぐち・楽田に陣取」「其内に陣取」「かけはなちに陣取らせ」の三回。
このうち最後のみが、主語に書かれていない「家康」の行動だ、とする根拠はなんですか?
>>十分堅固な陣地じゃねえか
>>小口・楽田に諸勢は、陣取てに続く文なのでそいつらが高土手を築いて陣取ったといってるだけ
いやだから、それでは「高土手で囲い其内に陣取(秀吉含む)」と「小牧攻めのために『かけはなち』に陣取」という2つの事実があるという
根拠に対する否定にはなりませんよ。原文では「一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」ですから
何も全方位それで固めているとは一切書いてないわけです。「小牧ニヘハ(ニハ)『かけはなち』だった」ということしか記されていませんよ
結局のところ「「小牧には『かけはなち』なら、他の場所でも『かけはなち』だ」とか
「土手を使った陣取りがなされているのなら、小牧に対しても『陣取り』がされているべきだ」の2つしか
考えられていないから、そんな答えしか出てこないわけです。
>>なんで同じ作品の中で文章の法則(徳川の行動には「家康は」を付ける)など変わるんだよアホ
話ごとに別の時期に作られたものであったりする場合や、
書いた本人が特に統一する気がなかった場合などいくらでもありますが
事実信長公記では家康の扱いがまちまちで、信長公記を一次史料とする有力な見方にもなってますが
>>その文の初頭は秀吉方の事が書いてる(秀吉方が岩崎を攻め取って勝どきをつくりて)
その文は「家康」や「榊原式部太夫」「水野惣兵衛」らが、
岩崎城を攻め取り勝鬨を挙げる「堀久太郎」「長谷河藤五郎」を追いうつという
文章であって、秀吉方は主語ではなく目的語です。目的語がさらに主語になって
情報が補足されているだけであって、この文章の主語は「家康」であり他の徳川諸将です。
49 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:15:26.07 ID:yGbpFtz7
>>47 >>小牧に家康・信雄の主軍が居座ってて秀吉方が「芝手を築き、柵を付け、要害として堅固に」築いた陣地(岩崎山・内窪・青塚・田中卿・二重堀)
>>は全て小牧を囲む位置にあるのも知らんとかワロタw
>>小牧に対してかけはなちなら、一体秀吉が「芝手を築き、柵を付け、要害として堅固に」築いた陣地(岩崎山・内窪・青塚・田中卿・二重堀)
>>はどこに向かって築いた拠点なんだよアホw
全方位から囲んでいるわけでもありませんし、そもそもその付け城群はあくまで小牧山城を分断する目的で築いてますから
小牧山城に籠る兵ではなく、外部と遮断する目的で築かれているのですから外部、しいて言うなら徳川三河領に向けて築いた付け城でしょう
「小牧山にへハ柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ」とはどことも矛盾しませんがw
そもそも「十万余之人数」ともいうべき秀吉が率いてきた大軍を、全部付け城や陣地に入れられると思う方がいろいろと非現実的だと思われますがw
50 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:19:46.01 ID:+sRoQ7Ud
>>このうち最後のみが、主語に書かれていない「家康」の行動だ、とする根拠はなんですか
最初の二つは、でつながっているだけの同じ文中
さらにその二つの文で矛盾もしない。最後の文は秀吉自身の書状の内容とも矛盾するし文が入れ替わってるし小牧山の事だし
句点の前後で両陣営の陣取りの様子が対比的に描かれているのがわかる
>>いやだから、それでは「高土手で囲い其内に陣取(秀吉含む)」と「小牧攻めのために『かけはなち』に陣取」という2つの事実があるという
屁理屈ばかりだな貴様は。
高土手でその内部に陣取ったらどこに対しても堅固な布陣じゃねぇかw
>>何も全方位それで固めているとは一切書いてないわけです
つまり小牧山周辺を囲む形で築いた拠点が、なぜかその肝心の小牧山に対しては柵を設けないといいたいのか?w
そんな馬鹿な妄想体外にしろアホ
>>結局のところ「「小牧には『かけはなち』なら、他の場所でも『かけはなち』だ」とか
>>「土手を使った陣取りがなされているのなら、小牧に対しても『陣取り』がされているべきだ」の2つしか
つうか小牧に対してかけはなちなら小牧山周辺を囲むように柵や芝手を築き要害に拵えたといってる秀吉書状の内容と明らかに矛盾するともわからないとかアホだろ
>>話ごとに別の時期に作られたものであったりする場合や、
>>書いた本人が特に統一する気がなかった場合などいくらでもありますが
そんなら同じ年度(小牧長久手最中の記述)も同じで本人が特に統一する気なしで適当に書いた。
話ごとに書き足したりして別の時期に書かれた、で問題なし
>>文章であって、秀吉方は主語ではなく目的語で
小口・楽田を立て、岩崎へ出て、一時の内に岩崎を攻め取りて、勝どきをつくりて有りける所、
と完全に述語が存在するので目的語ではなく主語
>>目的語がさらに主語になって
そんな糞みたいな理屈でいいなら柵どうこうの一連の文章も「尤もの義なり」(家康の台詞)で
途中関白が一時的に目的語になってその目的語が主語になって情報が補足されてるだけで
一連の文章の主語は「徳川方」「家康」でFA
51 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:32:15.53 ID:+sRoQ7Ud
>>そもそもその付け城群はあくまで小牧山城を分断する目的で築いてますから
無知乙
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
そもそも秀吉方陣営周辺は秀吉方の領域であり、家康の領国と小牧山を分断する位置にあるのは龍泉寺・柏井・大草。
だからそんな家康領国でもない所に「家康領国からの小牧山分断」などという目的で城が築かれるわけがない
52 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:35:29.21 ID:yGbpFtz7
>>50 >>さらにその二つの文で矛盾もしない。最後の文は秀吉自身の書状の内容とも矛盾するし文が入れ替わってるし小牧山の事だし
全然矛盾してませんが。秀吉が拵えた付け城の一部が
「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」の部分と合致しますし
むしろこれ以上ないくらい矛盾ありませんけど、三河物語の方が詳細に書かれているだけでw
>>高土手でその内部に陣取ったらどこに対しても堅固な布陣じゃねぇかw
「囲った」と書いてあるだけで「どう囲った」かは全く不明なんですがねw
すぐにそうやって自分の都合よく解釈するからアスペなんて言われるんですよw
>>つまり小牧山周辺を囲む形で築いた拠点が、なぜかその肝心の小牧山に対しては柵を設けないといいたいのか?w
>>そんな馬鹿な妄想体外にしろアホ
自分の馬鹿さに気づけない人間というのは愚かですね。
秀吉は小牧山を攻めるために拠点を立てているんですよ
小牧山に対して防備を固めて、いったい誰に対抗するつもりでいるんですか?
攻めるべき相手がすぐそこにいるのに、堅固に要塞を築いてこっちが守りに徹するんですか?w
>>つうか小牧に対してかけはなちなら小牧山周辺を囲むように柵や芝手を築き要害に拵えたといってる秀吉書状の内容と明らかに矛盾するともわからないとかアホだろ
秀吉の書状の内容は、前半部分の「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」だけで
証明されています。徳川勢は小牧山から秀吉の軍を見渡せる位置にいたので、詳細な情報を書くことができただけ。
>>そんなら同じ年度(小牧長久手最中の記述)も同じで本人が特に統一する気なしで適当に書いた
別の時期に書かれたとするなら、あなたが自分で
>>33で出した「信康事件」との関係は一切なくなりますから
「小牧の頃は、主語をキッチリ明記していた。ゆえに「小牧には」の部分の主語は秀吉」となりますよw
あなた馬鹿ですかw自分で自分の主張を否定してどうするんですかw
>>完全に述語が存在するので目的語ではなく主語
日本語の基礎知識くらい学んでください。
目的語の第二主語化って基礎の基礎ですし英語ですら出てきてますよw
大体主語が堀や長谷川なら、堀や長谷川は自作自演で敗れたことになりますよw
家康、榊原水野らが「『岩崎城を攻め落として勝鬨を挙げていた』堀や長谷川を」追い打ちした
二重各個ならだれでもわかることです
53 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:43:24.24 ID:yGbpFtz7
>>51 自分で言ってて気づかないのなら相当ですよ
>>家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの
>>そもそも秀吉方陣営周辺は秀吉方の領域であり、家康の領国と小牧山を分断する位置にあるのは龍泉寺・柏井・大草。
>>だからそんな家康領国でもない所に「家康領国からの小牧山分断」などという目的で城が築かれるわけがない
実際の地図を見ないとわからないようですが、秀吉が陣を敷いた周辺地域、ちょうど犬山城のあたりですね
そこから山あいに進むと徳川領の信濃に行きつくことができます。美濃でも織田信雄に味方する勢力もいますし
信濃から在国する徳川軍を引き込むこともできるわけです。
つまり秀吉は北側に築いた付け城で美濃、信濃からの織田信雄、徳川家康の味方勢力の進出を阻み
東側に築いた付け城で徳川領三河との連絡をけん制、分断しているわけです。
というか、城を攻めている間に後ろから援軍が来れば挟み撃ちともなって最悪壊滅的な被害を被るわけですから
外部の援軍に備える必要があるのは当然のことですよw
54 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 01:54:00.50 ID:+sRoQ7Ud
>>秀吉が拵えた付け城の一部が
>>「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり」の部分と合致しますし
だからそれが小牧山には柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに陣取らせになるわけねーだろっつてんだろうが
この屁理屈野郎
>>「囲った」と書いてあるだけで「どう囲った」かは全く不明なんですがね
小口・楽田の背後は秀吉領国なんだが背後が秀吉領国。右も左も秀吉方拠点やら領国で
南に向かって土手やら柵やらで防御してるに決まってるだろうがこのチンカス野朗
>>小牧山に対して防備を固めて、いったい誰に対抗するつもりでいるんですか?
無知乙
秀吉→丹羽で「普請を堅固にしたので、家康を包囲して攻撃する」といってる
つうか付け城を堅固に築いて攻城戦やるのは信長でもやってたって自分でも書いてるじゃねぇかアホ
>>秀吉の書状の内容は、前半部分の「小口・楽田に諸勢ハ陣立て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり
小口楽田に高く土手築いたりしてたら小牧山に向けての防備だとアホでもわかる
なにがこれが「かけはなち」「柵をさへ付けさせ給はず」なんだよクズ野郎
>>別の時期に書かれたとするなら、あなたが自分で
>>33で出した「信康事件」との関係は一切なくなりますから
意味不明
>>「小牧の頃は、主語をキッチリ明記していた。ゆえに「小牧には」の部分の主語は秀吉」となりますよ
小牧の頃でも主語省略しまくってる
「尤之義なり」の文でわかる
>>目的語の第二主語化って基礎の基礎ですし英語ですら出てきてますよw
お前の妄想は知らん
>>大体主語が堀や長谷川なら、堀や長谷川は自作自演で敗れたことになりますよw
小幡まで打たれける
又其れより追い返されて
散々に乱れておひけるところを
と何回か主語が変わっているのでただの主語の省略が行われているだけ
55 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:00:05.74 ID:+sRoQ7Ud
>>実際の地図を見ないとわからないようですが、秀吉が陣を敷いた周辺地域、ちょうど犬山城のあたりですね
お前地図みてねーだろ。小牧山周辺にある秀吉方拠点は全て小牧山から至近距離にあり
信濃やら奥三河など話にならない距離。しかも美濃には秀勝軍五千が背後かためている上に
遠山など一部除き全て秀吉方。ちなみに木曽も春時点で秀吉についてる
田井卿・二重堀は「小牧山まで10町までおし寄せ家康が引けないように陣取り」(秀吉→丹羽)
あと小口・楽田は「完全に」徳川領国と小牧山の中間地点ではなく
秀吉領国と小牧山の中間地点に位置するためそんな屁理屈はなりたちようもない
56 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:08:22.22 ID:+sRoQ7Ud
特に秀吉が堅固に柵や芝手を築いて要害に構えたといってる拠点のうち、
岩崎山・青塚・小口が右も左も北も秀吉方拠点が構えられている位置なので
残るは南の小牧山にしか芝手・柵をめぐらせるべき敵方拠点がない
つうか秀吉は上杉に援軍要請してて徳川方は信濃の伊那から一歩も動いていないんだが
これで遥か遠くの信濃からの後詰(秀吉方の木曽・美濃のほとんどの諸将も通過)を警戒してるとかアホすぎる
証拠に秀吉の書状には家康領国からの援軍を意識していると感じられるものは一通もなく、
小牧山を押し詰め、とか小牧山ばかり意識して堅固に普請してる書状しかない
57 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:08:37.91 ID:yGbpFtz7
>>だからそれが小牧山には柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに陣取らせになるわけねーだろっつてんだろうが
>>小口・楽田の背後は秀吉領国なんだが背後が秀吉領国。右も左も秀吉方拠点やら領国で
>>南に向かって土手やら柵やらで防御してるに決まってるだろうがこのチンカス野朗
虚しい妄想の塊ですなw
そもそも楽田の背後が秀吉領国になったのは、つい最近秀吉に組した池田恒興のおかげであって
しかも背後の美濃には信雄の領国もあるのに悠長に構えているるわけがないw
犬山城だってもともと信雄の城だし全然不安定極まりない勢力圏ですなw
そもそも10万と号する大軍を小牧に向けて釘づけにするだけで立派に警戒や陣になるのに
この上自らの足を束縛する柵を築けとは馬鹿の極みw
>>秀吉→丹羽で「普請を堅固にしたので、家康を包囲して攻撃する」といってる
>>つうか付け城を堅固に築いて攻城戦やるのは信長でもやってたって自分でも書いてるじゃねぇかアホ
付け城を堅固にするのは、城方の警戒ではなく外部の敵への警戒をすることで城攻めを楽にするためですけどw
実際信長が築いた付け城も石山本願寺の外部との行動を制約するためですし、
そのために信長は別所を討伐したり毛利の水軍を追い払ったりとコツコツ敵を削いで行っているわけですがw
>>意味不明
>>50より
>>そんなら同じ年度(小牧長久手最中の記述)も同じで本人が特に統一する気なしで適当に書いた。
>>話ごとに書き足したりして別の時期に書かれた、で問題なし
本人が統一する気がない→信康事件で主語省かれたのは大久保の気まぐれ→つまり小牧も気まぐれで主語をちゃんと書いた→証明不可
>>お前の妄想は知らん
目的語の説明のために『to』を使う不定詞や接続詞『That』を使って説明するのは
中学生英語ですら習う代物なのにもしかして底辺中卒だったりするんですか?ww
>>何回か主語が変わっているのでただの主語の省略が行われているだけ
その文は主語が変わっているのではなく全て家康であり榊原水野の行動の戦況報告
追い打ち追い返されまたおひけると戦争でよくある一進一退の攻防を伝えているだけ
58 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:17:27.17 ID:yGbpFtz7
>>55>>56 >>遠山など一部除き全て秀吉方。ちなみに木曽も春時点で秀吉についてる
その遠山が領しているのが信濃にほど近い領地ですが
木曽が秀吉についているって池田と同じ新顔ではいつ寝返るかもわからないのに
気安く全幅の信を置けなどと無謀なことばかり言いなさるw
>>秀吉領国と小牧山の中間地点に位置するためそんな屁理屈はなりたちようもない
山を越えればいくらでも信濃徳川領に行けるしそもそも美濃には織田信雄の領土もあるんだがw
敵対勢力を放置して敵に挟撃されるとかは考えないんですね無能君w
>>つうか秀吉は上杉に援軍要請してて徳川方は信濃の伊那から一歩も動いていないんだが
>>これで遥か遠くの信濃からの後詰(秀吉方の木曽・美濃のほとんどの諸将も通過)を警戒してるとかアホすぎる
それは家康が慎重だったが故の結果論
>>証拠に秀吉の書状には家康領国からの援軍を意識していると感じられるものは一通もなく、
>>小牧山を押し詰め、とか小牧山ばかり意識して堅固に普請してる書状しかない
小牧山城を攻撃することに集中するために付け城を築くんだから当たり前
逆に言えば小牧山ばかり意識しているということは付近の状況にも対応しやすいように防備を固めていると言うのと同じ
そもそも小牧山城へは10万とも号する大軍を差し向けているのだから警戒する必要も薄い
ところで、三河物語の「小牧山にへハ柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ」の
主語が徳川家康だったとすると、当代記の「小牧は酒井左衛門尉在城令」と矛盾しまくるのですがw
三河物語では柵さえつけずかけはなちの無防備陣を築いておきながら、当代記では城郭扱いですかw
59 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:22:32.65 ID:+sRoQ7Ud
>>しかも背後の美濃には信雄の領国もあるのに悠長に構えているるわけがない
美濃の秀吉の敵は高木(2千貫の雑魚)遠山(東美濃の僻地、しかも家中で家康秀吉に分裂)だけ
他は全て秀吉方の上、秀勝軍が後詰部隊として5〜6千で残ってる
>>犬山城だってもともと信雄の城だし全然不安定極まりない勢力圏ですなw
犬山城は池田・森が陥落させて以来反乱どころか秀吉方拠点として使われまくってる
そんな反乱のきざしすらない所を「不安定」とはいはない。むしろ信雄方が池田・森・石田毛利氏・毛利秀頼と離反だしまくってるし
毛利の書状だと他にも尾張国内で秀吉に寝返る者がいたとい書いてるからよほど不安定
>>そもそも10万と号する大軍を小牧に向けて釘づけにするだけで立派に警戒や陣になるのに
>>この上自らの足を束縛する柵を築けとは馬鹿の極みw
秀吉→丹羽で尾張の諸城の普請を堅固にしたので、家康を取り巻き、即時討ち果たすとかいてるので
小牧山を意識しまくって「岩崎山・うち窪・田中・二重堀などを柵を付け、堅固に要害として築いた」事がわかる
>>付け城を堅固にするのは、城方の警戒ではなく外部の敵への警戒をすることで城攻めを楽にするためですけど
>>37-38と矛盾するアホ乙
>>本人が統一する気がない→信康事件で主語省かれたのは大久保の気まぐれ→つまり小牧も気まぐれで主語をちゃんと書いた→証明不
つまり小牧中の記述も本人のきまぐれで適当に書いた、でFA
>>目的語の説明のために『to』を使う不定詞や接続詞『That』を使って説明するのは
英語と文章の成り立ちが異なる古語で例としてあげるアホ乙
>>その文は主語が変わっているのではなく全て家康であり榊原水野の行動の戦況報告
そんなら別の文であげてやるよ
関白殿、御本所に腹を切らせで始まる文章「尤之義なり…」の台詞の主語は明らかに家康だが
省略されてる
つうか家康なんていくらでも省略されてるだろw
基本書かなくても大体徳川方の武将の書いた物なんだから大体徳川の人がどうした、こうした、という話で部分的に敵方やら他家の人が主語つきとかで
出てくるにすぎん
60 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 02:35:07.14 ID:+sRoQ7Ud
>>58 本とに地図みてないんだな
遠山とか木曽とかそもそも秀吉方陣営から遥か遠くの山奥の僻地に寡兵でいるだけで
しかも徳川方の菅沼ら伊那の諸侯はこいつらと敵対して木曽谷に攻め入ったりしてる
そもそも木曽谷〜遠山のいる恵那あたりの狭隘の僻地じゃ通るのに時間もかかるし
秀勝が岐阜に居座ってるし遠山は敵味方でわかれてるくらいだしそもそも遠山なんてこの頃秀吉は意識すらしていない
>>山を越えればいくらでも信濃徳川領に行けるしそもそも美濃には織田信雄の領土もあるんだが
何回も同じ事書かせてんじゃねぇよクズ
信濃やら奥三河など話にならない距離。しかも美濃には秀勝軍五千が背後かためている上に
遠山など一部除き全て秀吉方。ちなみに木曽も春時点で秀吉についてる
田井卿・二重堀は「小牧山まで10町までおし寄せ家康が引けないように陣取り」(秀吉→丹羽)
あと小口・楽田は「完全に」徳川領国と小牧山の中間地点ではなく
秀吉領国と小牧山の中間地点に位置するためそんな屁理屈はなりたちようもない
特に秀吉が堅固に柵や芝手を築いて要害に構えたといってる拠点のうち、
岩崎山・青塚・小口が右も左も北も秀吉方拠点が構えられている位置なので
残るは南の小牧山にしか芝手・柵をめぐらせるべき敵方拠点がない
つうか秀吉は上杉に援軍要請してて徳川方は信濃の伊那から一歩も動いていないんだが
これで遥か遠くの信濃からの後詰(秀吉方の木曽・美濃のほとんどの諸将も通過)を警戒してるとかアホすぎる
証拠に秀吉の書状には家康領国からの援軍を意識していると感じられるものは一通もなく、
小牧山を押し詰め、とか小牧山ばかり意識して堅固に普請してる書状しかない
>>それは家康が慎重だったが故の結果論
上杉景勝は川中島に2年連続で出兵して信濃の徳川方を蹴散らしているから無理
秀吉もそれは把握していて「比類なき手柄」とかいって褒めているのが天正12年4月
しかも天正12年夏に木曽谷を攻めた徳川方菅沼らは見事敗北してる
>>小牧山城を攻撃することに集中するために付け城を築くんだから当たり前
>>逆に言えば小牧山ばかり意識しているということは付近の状況にも対応しやすいように防備を固めていると言うのと同
小牧山という言葉ばかり出てきて
家康領国の他の拠点からの後詰など意識する様子すらないのに小牧山周辺に密着するように包囲する形で築かれた秀吉方本陣から程近い拠点が
小牧山ではなく周辺からの後詰からの防衛目的で、小牧山に向けては柵をめぐらせずかけはなちで陣をめぐらせるとか意味不明
>>三河物語では柵さえつけずかけはなちの無防備陣を築いておきながら、当代記では城郭扱いですかw
無防備でもなんでも城は城
秀吉方拠点は堅固にしたと秀吉が書いてるし三河物語にも書いてるので論外
61 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 03:11:30.54 ID:yGbpFtz7
>>59 >>美濃の秀吉の敵は高木(2千貫の雑魚)遠山(東美濃の僻地、しかも家中で家康秀吉に分裂)だけ
>>他は全て秀吉方の上、秀勝軍が後詰部隊として5〜6千で残ってる
>>犬山城は池田・森が陥落させて以来反乱どころか秀吉方拠点として使われまくってる
>>そんな反乱のきざしすらない所を「不安定」とはいはない。むしろ信雄方が池田・森・石田毛利氏・毛利秀頼と離反だしまくってるし
>>毛利の書状だと他にも尾張国内で秀吉に寝返る者がいたとい書いてるからよほど不安定
家康だって軍のほとんどは国許に残している
そもそも秀吉に寝返った池田森毛利などなどの元織田家臣は
「秀吉優勢」と見て勝手に寝返ったような奴らばかり。別に反乱が起きる必要はない。
そいつらがもう1回織田信雄に寝返るだけで秀吉は不利になる。だからこそ秀吉も池田森と織田家臣を三河別働軍に組み込んでる。
>>秀吉→丹羽で尾張の諸城の普請を堅固にしたので、家康を取り巻き、即時討ち果たすとかいてるので
>>小牧山を意識しまくって「岩崎山・うち窪・田中・二重堀などを柵を付け、堅固に要害として築いた」事がわかる
小牧山を意識するのはあくまで兵
堅固な砦にしたのは後ろを固めるため
>>つまり小牧中の記述も本人のきまぐれで適当に書いた、でFA
ソースは?
少なくとも小牧に関しては大久保はちゃんと書いてる
>>遠山とか木曽とかそもそも秀吉方陣営から遥か遠くの山奥の僻地に寡兵でいるだけで
>>しかも徳川方の菅沼ら伊那の諸侯はこいつらと敵対して木曽谷に攻め入ったりしてる
>>そもそも木曽谷〜遠山のいる恵那あたりの狭隘の僻地じゃ通るのに時間もかかるし
>>秀勝が岐阜に居座ってるし遠山は敵味方でわかれてるくらいだしそもそも遠山なんてこの頃秀吉は意識すらしていない
>>しかも天正12年夏に木曽谷を攻めた徳川方菅沼らは見事敗北してる
しつこいなアスペ
そもそも菅沼保科らは攻めあぐねて撤退しただけで別に軍を損傷していないから
すぐにまた攻めてくる可能性だって大いにある。実際木曽勢も義昌の本城は守りきったが
周辺諸城は犠牲になっているわけだからな。つまりおまえの理屈は結果論で「こうだからこうすればいい」と言っているだけで
実際にいざ起こりうる状況を全く考えようともしない無能な考え方でしかない
62 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 03:18:28.77 ID:yGbpFtz7
>>つうか秀吉は上杉に援軍要請してて徳川方は信濃の伊那から一歩も動いていないんだが
>>これで遥か遠くの信濃からの後詰(秀吉方の木曽・美濃のほとんどの諸将も通過)を警戒してるとかアホすぎる
上杉の援軍要請なんて時間稼ぎ以上の何者でもない。
いつまでも無事ですむ可能性も少ないしなんの気休めにもならない
徳川が動かなかったまま終わったというのもただの結果論
>>小牧山を押し詰め、とか小牧山ばかり意識して堅固に普請してる書状しかない
そら秀吉は目の前の小牧にいるし小牧で家康信雄を降伏させれば万事解決だからな
>>残るは南の小牧山にしか芝手・柵をめぐらせるべき敵方拠点がない
敵方拠点に向けて10万と号する大軍を向けているのに柵や芝手を入れる場所はない
そもそも兵数だけで十分すぎるくらい威嚇をかけているのに背中丸腰になってまでさらに前を警戒する必要はゼロ
>>しかも天正12年夏に木曽谷を攻めた徳川方菅沼らは見事敗北してる
城が落ちなかったから撤退しただけ、いつまで持つかわからぬ薄氷の勝利
>>家康領国の他の拠点からの後詰など意識する様子すらないのに小牧山周辺に密着するように包囲する形で築かれた秀吉方本陣から程近い拠点が
>>小牧山ではなく周辺からの後詰からの防衛目的で、小牧山に向けては柵をめぐらせずかけはなちで陣をめぐらせるとか意味不明
10万以上の大軍が既に小牧に対して警戒しているので小牧山へは十分すぎるくらい警戒の網が張っている
背中丸腰にしてまで柵を築く必要性はゼロ。むしろ自軍の行動を阻害するから何の足しにもならんどころかかえって邪魔
>>無防備でもなんでも城は城
>>秀吉方拠点は堅固にしたと秀吉が書いてるし三河物語にも書いてるので論外
城があるのに無防備野ざらしで陣を敷くとか言い出す矛盾wwww
秀吉が発言したとかリップサービスで適当に言ったとか大久保からはそう見えなかったとかいくらでも言える。
同時代の史料で同じ徳川家から出た史料なのに、一方は「かけはなち」「無防備」と書き
一方は「城郭」と書く矛盾wwwwそしてそれを
>>9>>12で恥知らずに嘘ついたアスペwwww
63 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 04:22:21.73 ID:+sRoQ7Ud
>>そいつらがもう1回織田信雄に寝返るだけで秀吉は不利になる。だからこそ秀吉も池田森と織田家臣を三河別働軍に組み込んでる
いやそもそも秀吉優勢と見て秀吉についたのではなくこいつらが秀吉に付いたため
家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
>>小牧山を意識するのはあくまで兵 堅固な砦にしたのは後ろを固めるため
とりあえずソース出せ
秀吉→丹羽や→毛利で秀吉は小牧山を包囲殲滅し、動けなくするための付け城として築いたといっていて
他の拠点からの後詰防衛などとは一言も書いていないしそんな遠隔地からの援軍気にするのは
伊勢方面や美濃方面の別働隊を家康方が意識しまくって小牧山周辺の拠点を築いたといっているくらいアホな妄想
>>そら秀吉は目の前の小牧にいるし小牧で家康信雄を降伏させれば万事解決だからな
だから「小牧山を意識して」堅固に柵やら芝手やらで要害に構えたんだろうが
64 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 04:22:57.39 ID:+sRoQ7Ud
>>ソースは? 少なくとも小牧に関しては大久保はちゃんと書いてる
お前の
>>57>>本人が統一する気がない→信康事件で主語省かれたのは大久保の気まぐれ→つまり小牧も気まぐれで主語をちゃんと書いた→証明不
>>そもそも菅沼保科らは攻めあぐねて撤退しただけで別に軍を損傷していないからすぐにまた攻めてくる可能性だって大いにある
>>実際木曽勢も義昌の本城は守りきったが周辺諸城は犠牲になっているわけだからな。
秀吉の味方 上杉、木曽、美濃ほとんどの諸侯&後詰秀次軍5000〜6000
家康の味方 菅沼・保科・諏訪・依田ら。しかも信濃では木曽谷だけが戦地ではなく
川中島〜安曇・筑摩・仁科方面でも戦争は繰り広げられている上に美濃から信濃口は狭隘で軍勢の行き来に時間がかかる山間部で天然の要害
そんな遠距離からの援軍を秀吉は気にしている気配すらない。むしろ状況的に家康の方が気にしなくてはいけない状況
(信濃は国人の自立的統治を領土安堵状など出すなどしてあと押ししただけの間接統治で事実その後離反によってほとんど失っているから秀吉なぞとは比べものにならないくらい不安定)
>>つまりおまえの理屈は結果論で「こうだからこうすればいい」と言っているだけで実際にいざ起こりうる状況を全く考えようともしない無能な考え方でしかない
だから実際そんな考えで秀吉が拠点築いただの根拠がなく毛利や丹羽宛書状見る限り小牧山を意識して至近距離に堅固に柵芝手で固めて動き封じる目的しか読み取れないって言ってるだろうが
>>上杉の援軍要請なんて時間稼ぎ以上の何者でもない。いつまでも無事ですむ可能性も少ないしなんの気休めにもならない
根拠なし。そんな遠隔地からの後詰なんて気配すらないし家康も行う気配なし
秀吉も意識する気配なし
>>敵方拠点に向けて10万と号する大軍を向けているのに柵や芝手を入れる場所はない
その10万会っても戸木も松ノ木も浜田も河波も東駒野も長久保も蟹江も突破できず攻防で破れ尾張口突破に見事失敗してるから説得力なし
そもそも付け城の目的は「敵城を攻める際、攻囲軍の居所として築いた小型の城」であり
「敵軍の城を攻撃し陥落させるという明確な軍事目的の元に築かれた城」であり付城の「付」とは
「敵城に攻め寄せる」「敵城に対して」という意味であり、「すみやかに敵を屈服させる事ができにくいと思われた場合」に
築かれる城と定義される。最後まで信雄方として陥落しなかった戸木城の付け城や浜田・松ノ木、秀吉が水攻めした竹鼻などに築かれたのも
同じで目的は「敵城の攻略・陥落」であり周辺地域からの後詰などは定義されない
>>城があるのに無防備野ざらしで陣を敷くとか言い出す矛盾wwww
「無防備な城」で問題なし
>>秀吉が発言したとかリップサービスで適当に言ったとか大久保からはそう見えなかったとかいくらでも言える。
意味不明
秀吉の記述と三河物語の記述から秀吉方が芝手・柵を築いて楽田や周辺砦を小牧山を包囲する
「付け城」の役割として要害として普請した事は明らか。
65 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 04:47:25.66 ID:+sRoQ7Ud
>>10万以上の大軍が既に小牧に対して警戒しているので小牧山へは十分すぎるくらい警戒の網が張っている
>>背中丸腰にしてまで柵を築く必要性はゼロ。むしろ自軍の行動を阻害するから何の足しにもならんどころかかえって邪魔
付け城には敵方を持久戦で弱らせたり逃げ道を防いで一人でも打ちもらす人数を減らす意味があると思われる(3/17秀吉→田丸で松ヶ島城の包囲について塀・柵を付けて城兵を一人も
逃がさないように指示している)
66 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 09:09:17.06 ID:C2VhZnOf
まーた、能力関係ない歴史談義してる
67 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 09:51:40.16 ID:oso3Rbsu
当時の人間が書いたから同時代史料って訳じゃねえからな
日記とか書簡とかそういうのが同時代史料
それとついでに言っとくと軍記物語は史料として質が低いものとみなされるんで注意が必要
68 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 12:09:06.76 ID:yGbpFtz7
>>67 そう、そして
>>9でアスペは
「当代記、三河物語に載っている」と自信満々に大見得切った癖に
当代記は嘘っぱち、三河物語はただの恣意解釈だということで終わっている
>>66 率直な話これは歴史談義とは言えない
>>9で自分の荒唐無稽な説を「史料に存在する」と言い切ったアスペが
振り上げた拳を下したくないがためにいちゃもんつけているだけ
そもそも当代記で記述がなかった時点で
>>9は真っ赤なウソなのだが
三河物語を恣意解釈して事実だと勝手に嘯いているだけ
69 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 12:40:33.34 ID:OYlGfClT
おまえらアスぺにかまってやるとか暇なんだな
長文の時点で読む気ないわ
70 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 12:43:55.84 ID:yGbpFtz7
>>63 >>いやそもそも秀吉優勢と見て秀吉についたのではなくこいつらが秀吉に付いたため
>>家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
秀吉方は10万(当代記、三河物語)、しかも筒井の2万も加わる大軍だと号する軍勢に対して、
家康信雄方は1万6千(当代記)しかいないのに、たかが池田森の美濃衆が合流するかしないかで、
秀吉方の優勢が変わるわけがないw池田や森は8万くらい兵を率いていたのか?wwww
>>堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
>>大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
>>吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
>>そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
たった2年従っただけで譜代扱いするアスペw
そもそも信雄は織田家というくくりにすれば何年も従えてきた家臣ばかりなのだがw
特に滝川雄利なんて信雄最初期から存在した重臣中の重臣じゃねーかw
捏造しかできないアスペwwww
>>秀吉の味方 上杉、木曽、美濃ほとんどの諸侯&後詰秀次軍5000〜6000
>>家康の味方 菅沼・保科・諏訪・依田ら。しかも信濃では木曽谷だけが戦地ではなく
>>川中島〜安曇・筑摩・仁科方面でも戦争は繰り広げられている上に美濃から信濃口は狭隘で軍勢の行き来に時間がかかる山間部で天然の要害
>>そんな遠距離からの援軍を秀吉は気にしている気配すらない。むしろ状況的に家康の方が気にしなくてはいけない状況
付け城や後詰を築いたから気にする必要がなくなったんだろーがw
大体上杉が秀吉の味方て上杉は本能寺後の内乱で家康と敵対しただけw
>>根拠なし。そんな遠隔地からの後詰なんて気配すらないし家康も行う気配なし
家康がただしなかっただけの結果論
>>秀吉も意識する気配なし
意識する必要がないのなら岐阜城に後詰を入れる必要なし
岐阜城に秀勝を入れている時点で、明らかに家康軍の後詰を警戒している
ということは秀勝が突破されることも想定する必要がある、それゆえの付け城
>>「敵軍の城を攻撃し陥落させるという明確な軍事目的の元に築かれた城」であり付城の「付」とは
>>「敵城に攻め寄せる」「敵城に対して」という意味であり、「すみやかに敵を屈服させる事ができにくいと思われた場合」に
そう、そして籠城戦には敵軍の援軍がほぼ確実にあるのでそれを想定するために作られている。
というかおまえはアホか?「敵城に攻め寄せる」目的の付け城で「敵軍が襲来した時のために柵や芝手で守りを固める」とか意味不明w
敵を攻めるための軍を敵から守るように固めるのがアスペ流らしいwww
71 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 12:45:03.17 ID:yGbpFtz7
>>「無防備な城」で問題なし
城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防衛拠点として設けられた構造物。
戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の集積場所でもある。主要な城は指揮官の居所であり、政治や情報の拠点であった。
純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。城郭ともいう。
無防備な城は城とは言われない
そもそも小牧山には小牧山城が存在して、当代記でも「城」と明記してある
かけはなちに陣を放つような場所は小牧山に存在しない
>>秀吉の記述と三河物語の記述から秀吉方が芝手・柵を築いて楽田や周辺砦を小牧山を包囲する
>>「付け城」の役割として要害として普請した事は明らか。
付け城の役割をするなら敵の城を攻めるための目的で築くものだから「小牧には(にへは)かけはなち」で足る
柵や芝手を築いて自軍の攻城を邪魔する理由はどこにもない。
>>付け城には敵方を持久戦で弱らせたり逃げ道を防いで一人でも打ちもらす人数を減らす意味があると思われる
小牧の戦いの際の小牧山城は、東や北こそ秀吉軍が抑えているが南や西は家康信雄の勢力圏
つまり家康が小牧を捨てて自勢力圏に帰るのは比較的容易であり、『敵方を持久戦で弱らせたり逃げ道を防いで』と言うのは不可能。
柵や芝手を築くのは逃げる敵の追撃を意図しないだけになり、「小牧にはかけはなち」にして敵の動向を探る目的があったとする方が自然。
つまりこの事実を指して「秀吉の統率下げろ」「家康の統率上げろ」というのは
全く持って荒唐無稽であることがわかる
72 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 14:31:56.89 ID:+sRoQ7Ud
>>たった2年従っただけで譜代扱いするアスペw
秀吉の陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない
お前のいうような「烏合の衆集団」ではこれは行いようもない
また信長の頃と違い格軍団・別働隊に事細かに指示を出す事ができている(→関や田丸・児島などに出された書状で見られるように
寝返ったばかりの連中ですら秀吉に城攻めの手法(誰々と相談し砦を4つ設けるように、とか、砦は2箇所は小島・一箇所は田丸、残り一箇所は榊原
が担当するように)なども指示し、それにちゃんと従うシステムができている)
秀吉の軍が烏合の衆どころかまとまりをもって機能していた証拠。(実際信雄方では吉村など至近距離にいる領主に対して
しか行えず、木造・中川・佐久間・滝川など貫高の大きい有力城主にはできていない)
>>そもそも信雄は織田家というくくりにすれば何年も従えてきた家臣ばかりなのだがw
信雄が持ってた領国は南伊勢の北畠領だけじゃん。北伊勢は前年まで滝川の領地で
ちなみにこの地域の領主は3月時点で関・田丸・信包・八重羽・富田・神戸・津田・榊原・小島とことごとく秀吉方に寝返っている
信雄を支えたのは木造と北伊勢の本領に近い部分の領主と尾張(これも一部は敵方だが)のみで他はほとんど会戦早々秀吉に篭絡されまくっている
そもそも当主でもない北畠の養子に出された人間が関係ない領地の人間まで「何年も従えてきた」とか意味不明もいい所
小牧長久手の戦いと在地社会の動向(山本浩樹氏)「この時期、高木・吉村氏らにとって信雄はまだなじみの薄い領主で信雄に対し特別な忠誠心を抱いていたわけではなかった」
>>付け城や後詰を築いたから気にする必要がなくなったんだろーがw
付け城を行ったからとか、ではなく付け城の目的としてそんなアホみたいな遠隔地からの後詰など意識していないし全くその根拠もなく
ただ小牧山を意識して築かれているといってるだけなんだが。相当アホだなお前は
>>家康がただしなかっただけの結果論
秀吉が全く意識してる様子がなく眼前の小牧山を落とす目的しか書状から読み取れないといってるんだが
>>意識する必要がないのなら岐阜城に後詰を入れる必要なし
根拠不明。お前のいうような「不安定」な美濃尾張国境の状況に対応するためとも
木曽谷や恵那に援軍後詰を行う目的とも高木などを攻める目的とも取れるため全く根拠にならない
>>そう、そして籠城戦には敵軍の援軍がほぼ確実にあるのでそれを想定するために作られている。
戸木城浜田城とか周辺地域味方領域しかない状況でもつけ城行いまくり完全封鎖してるので全く根拠にならない
特に戸木城の場合東西南北全て味方領域で完全に孤立した位置にあったがそれでも秀吉は付け城を築くよう命じている
>>というかおまえはアホか?「敵城に攻め寄せる」目的の付け城で「敵軍が襲来した時のために柵や芝手で守りを固める」とか意味不明
「敵城を簡単に落とす事ができないと判断し、長期戦を意識した」「毎日攻城に当たれるわけではないので敵の至近距離で陣地を築き敵の動きに素早く対応し
動きを封じる目的で作られた」で問題なし。つうかあんだけ圧倒的大軍があっても尾張口突破できなかったくらいだし二重堀合戦では反撃くらってるとこから考えて織田方の逆襲に対応するための
目的もあったかもしれないな
73 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 14:54:44.48 ID:+sRoQ7Ud
>>敵に攻め込まれた際の防衛拠点として設けられた
その防衛性が劣る城って事だろ
>>無防備な城は城とは言われない
城でも柵も芝手も堀もなしでただ適当な防衛拠点に急ごしらえ的に作られたら無防備だろ
>>付け城の役割をするなら敵の城を攻めるための目的で築くものだから「小牧には(にへは)かけはなち」で足る
付け城には相手からの脱走兵を防いで一人も打ちもらさないようにしたり(4/12秀吉→榊原・田丸・小島や3/17秀吉→田丸)
敵地からの夜襲などの反撃に対応したり、至近距離に陣取る事で相手の動きにすぐ対応する意味がある(「豊臣の城 戦争と城郭」)
ので秀吉→丹羽の書状に見られるように柵や芝手を構えて堅固に要害として拵える必要があるというだけ。
そもそも城は基本全方向に対応するため、柵や芝手など防衛構築をある一方向(しかも尤も近い距離にいる上に、敵方のもっとも大軍が集まる方向)
にだけその防衛の構築がなされていないとかありえない。普通の脳味噌の持ち主ならその一方向(小牧山方面)だけ手薄にしてかけはなちにするなら
犬山のある秀吉方ばかりの北や西を手薄にした方がまだまとも。
>>柵や芝手を築いて自軍の攻城を邪魔する理由はどこにもない
つうかお前そろそろ築いていい頃だと思うが「小牧山に対してだけかけはなち」に柵もつけずに陣取ったなら他地域からの後詰に対応できないぞw
ただ後詰軍が南から周り込んで手薄な方向から攻めればいいだけじゃんw
>>つまり家康が小牧を捨てて自勢力圏に帰るのは比較的容易であり、『敵方を持久戦で弱らせたり逃げ道を防いで』と言うのは不可能。
しかし東や北側の至近距離に敵方拠点があれば動きがより敵にわかりやすくなるし(事実秀吉は家康の小幡方面の行軍を知っていた)
東や北方向へ家康が移動する事も防げるしより相手の動きを封じる事ができるから有利になる事に変わりない。
つうか家康の他地域からの後詰(距離で考えてそんな事ありえないが)警戒ならそんなとこ築かないほうがいいじゃんw
わざわざ警戒しなきゃいけない方向が増えるだけだしお前のいうように南方向から回り込めば、いくらでも小牧山と合流可能だしw
>>柵や芝手を築くのは逃げる敵の追撃を意図しないだけになり、「小牧にはかけはなち」にして敵の動向を探る目的があったとする方が自然。
意味不明
敵の動向がなぜ「かけはなちにする」事でわかりやすくなるんだ?
74 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 15:15:50.16 ID:+sRoQ7Ud
三河物語原文
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/103 これの113ページ(本の51ページ)に該当箇所があるが
これは旧字の「に」であって「へ」ではない
あといっても無駄だろうが他の翻訳本でも「に」と訳され
その文の主語は徳川としており秀吉が小牧山方向にだけ柵や芝手を設けず
かけはなちに陣取ったなどと馬鹿妄想書いて訳しているのはいない。
つうか文脈的に考えて普通に徳川方の事と普通の脳味噌の人間ならわかる
小牧山周辺に付け城しまくって小牧山落とす準備するのに何でその肝心の小牧山に対してだけ柵や芝手を設けず
遠隔地からの後詰などを警戒するのかって話だわなw
75 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 17:03:43.10 ID:oso3Rbsu
アスペじゃなくてだがだと(ry
風評被害すぎるwww
76 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 20:01:00.96 ID:yGbpFtz7
>>72-
>>73 >>小牧山落とす準備するのに何でその肝心の小牧山に対してだけ柵や芝手を設けず
>>遠隔地からの後詰などを警戒するのかって話だわなw
自軍の攻撃進路に遮蔽物を設けて、来もしない徳川織田軍に備えて、そして徳川織田軍の撤退を安くすることがおまえの考える「攻城」なんだなw
>>また信長の頃と違い格軍団・別働隊に事細かに指示を出す事ができている(→関や田丸・児島などに出された書状で見られるように
>>寝返ったばかりの連中ですら秀吉に城攻めの手法(誰々と相談し砦を4つ設けるように、とか、砦は2箇所は小島・一箇所は田丸、残り一箇所は榊原
>>が担当するように)なども指示し、それにちゃんと従うシステムができている)
そんなの信長ですらやっているのに何を今更www
信長ですら本願寺攻略では水野荒木松永佐久間保田などなどに付け城を築かせている
結局長々と書いているだけで秀吉は違う、ひいては俺の説が正しいと妄想こいてるだけw
>>信雄が持ってた領国は南伊勢の北畠領だけじゃん。北伊勢は前年まで滝川の領地で
>>ちなみにこの地域の領主は3月時点で関・田丸・信包・八重羽・富田・神戸・津田・榊原・小島とことごとく秀吉方に寝返っている
>>信雄を支えたのは木造と北伊勢の本領に近い部分の領主と尾張(これも一部は敵方だが)のみで他はほとんど会戦早々秀吉に篭絡されまくっている
>>そもそも当主でもない北畠の養子に出された人間が関係ない領地の人間まで「何年も従えてきた」とか意味不明もいい所
秀吉に籠絡も何も開戦当初から10万越え(当代記、三河物語)VS1万6千(当代記)と秀吉が圧倒的有利なんだから誰でも秀吉につくのは当たり前w
大体何が「関・田丸・信包・八重羽・富田・神戸・津田・榊原・小島」だ基地外アスペwww
信雄重臣の子である神戸正武はもろ信雄方だし関や小島とはドンパチやりまくってんじゃねーかw
結局「秀吉が優勢だから秀吉についた」などというよくある内応劇で秀吉が不利になったらどう転ぶかわからんような奴らだろw
>>付け城を行ったからとか、ではなく付け城の目的としてそんなアホみたいな遠隔地からの後詰など意識していないし全くその根拠もなく
>>ただ小牧山を意識して築かれているといってるだけなんだが。相当アホだなお前は
>>秀吉が全く意識してる様子がなく眼前の小牧山を落とす目的しか書状から読み取れないといってるんだが
秀吉の養子である羽柴秀勝が岐阜城に入って後詰をやっている時点でおまえの論理は全て破綻している。
後ろを気にする必要がないなら後詰など必要ないし兵力の無駄。
岐阜城に大軍を入れて後ろに備えている時点で秀吉が信雄家康方の勢力からの援軍に備えていることに気づかないとかアホw
岐阜城の兵力で対処できなくなったら真後ろから挟撃されるんだからそれに備えているだけの事、もちろん小牧山城攻めを安くする目的もあるがなw
77 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 20:02:03.15 ID:yGbpFtz7
>>72-
>>73 >>戸木城浜田城とか周辺地域味方領域しかない状況でもつけ城行いまくり完全封鎖してるので全く根拠にならない
>>特に戸木城の場合東西南北全て味方領域で完全に孤立した位置にあったがそれでも秀吉は付け城を築くよう命じている
完全封鎖ができるのならそれに越したことはないが小牧山城の場合南と西は信雄と家康の勢力圏
完全封鎖ができないから秀吉は東と北に付け城を築いて攻城を安くし、同時に南や西の敵勢力圏へ
牽制をかけるように「小牧ニハ、かけはなち」の布陣を行った
>>「敵城を簡単に落とす事ができないと判断し、長期戦を意識した」
>>「毎日攻城に当たれるわけではないので敵の至近距離で陣地を築き敵の動きに素早く対応し、動きを封じる目的で作られた」で問題なし。
敵の動きを封じたいなら猶更しかるべき部分は開けておかないと全く意味がないんだがなw
長篠の戦ですら信長公記では柵を築いたのは滝川、徳川の陣取りとしか書いてないし、
敵の動きを封じたくて全面に柵を敷いて自軍の行動範囲を著しく減らすとか馬鹿の極み
まあアスペだがにはそれでも賢く見えるんだろうがw
>>その防衛性が劣る城って事だろ
>>城でも柵も芝手も堀もなしでただ適当な防衛拠点に急ごしらえ的に作られたら無防備だろ
意味不明。当時の城郭では天守閣を作ったりするなどは稀であり、
柵や堀を用いた防衛地点を指して「城」と言われている。つまり「無防備で適当な拠点」なら
当代記では「城」と表記されるわけがない。それではただの山であり平地にすぎん。
>>付け城には相手からの脱走兵を防いで一人も打ちもらさないようにしたり(4/12秀吉→榊原・田丸・小島や3/17秀吉→田丸)
>>敵地からの夜襲などの反撃に対応したり、至近距離に陣取る事で相手の動きにすぐ対応する意味がある(「豊臣の城 戦争と城郭」)
>>ので秀吉→丹羽の書状に見られるように柵や芝手を構えて堅固に要害として拵える必要があるというだけ。
意味不明
相手からの脱走を阻止するも何も小牧山城の南、西は家康信雄勢力圏。
さらに南東には家康が築いた蟹清水、宇田津など拠点が多く存在する。
よって秀吉が柵を築いて敵の脱走を阻止しようとしても南方向から織田徳川軍が逃げ放題という現実
>>つうかお前そろそろ築いていい頃だと思うが「小牧山に対してだけかけはなち」に柵もつけずに陣取ったなら他地域からの後詰に対応できないぞw
>>ただ後詰軍が南から周り込んで手薄な方向から攻めればいいだけじゃんw
おまえこそ秀吉は10万を超える軍勢を率いていると言う前提にそろそろ気づけw
南側が貧弱だったところで10万を超える軍がいるんだから織田徳川軍が追いそれとせめられるわけがないw
大体南から回り込むとか秀吉が率いている軍勢から丸見えで奇襲以前の問題だから10万以上の軍勢に嬲り殺されて終了
「秀吉が丸腰でまともな軍勢を持たず南側だけ何も防衛策を立てていない」とはわけが違う
>>しかし東や北側の至近距離に敵方拠点があれば動きがより敵にわかりやすくなるし(事実秀吉は家康の小幡方面の行軍を知っていた)
>>東や北方向へ家康が移動する事も防げるしより相手の動きを封じる事ができるから有利になる事に変わりない。
それをするのなら10万を超える大軍で容易に阻止できるし、むしろ織田徳川軍の動きを
少しでも封じたいのなら「小牧にはかけはなちにする」ことですぐにでも織田徳川軍の動きに備えるのが筋
大体現実的に考えて10万以上もいる軍勢を全部あの楽田周辺の付け城内部に入れることなど不可能w
>>敵の動向がなぜ「かけはなちにする」事でわかりやすくなるんだ?
「かけはなちにする」ということは秀吉率いる10万の軍勢がいつでも織田徳川軍に攻撃かけられるんだから
敵もうかつに動けないし動いてもある程度対応しやすくなる。池田森の討死があまりにも早かったために
慎重になった秀吉によって達成されることはなかったがな。柵や芝手を全面に築くのはかえって自軍の行動を制限するだけ。
「小牧にはかけはなち」にして牽制をかけようとしたのを徳川軍が小牧山城から見てそれを大久保が自著に記しただけw
78 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 20:03:49.85 ID:yGbpFtz7
>>74 >>他の翻訳本でも「に」と訳され
>>その文の主語は徳川としており秀吉が小牧山方向にだけ柵や芝手を設けず
またお得意の適当な作家の名前を出して「こいつはそう言っている(と俺が考えた)」かw
言っておくが百瀬明治は司馬遼太郎や山岡壮八と何も変わらない、むしろそれ以下の作家だ
いくら俺でも小説家や作家の言質をソースに大見栄切る度胸はないぞw
以上のことから
>>9は大嘘であり
秀吉家康両名の統率、知略評価に何の影響もない些事である
79 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 20:06:10.08 ID:yGbpFtz7
80 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 21:53:43.01 ID:+sRoQ7Ud
>>自軍の攻撃進路に遮蔽物を設けて、来もしない徳川織田軍に備えて、そして徳川織田軍の撤退を安くすることがおまえの考える「攻城」なんだなw
お前の論理だと城攻めの際に築城される城・砦に設けられる城や砦は城からの夜討ちや奇襲に対する警戒はなしで無防備で陣構えするってか。
なんかまともな本でも読んで勉強しなおせw
>>そんなの信長ですらやっているのに何を今更 信長ですら本願寺攻略では水野荒木松永佐久間保田などなどに付け城を築かせている
んでその築かれた城には「本願寺以外の箇所からの軍勢に対する警戒の意味での芝手・柵を構えての要害構築」だけをして
本願寺側からの奇襲や夜討ちは全くノーマークってかwww
>>信雄重臣の子である神戸正武はもろ信雄方だし関や小島とはドンパチやりまくってんじゃねーかw
相当無知だな天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
>>結局「秀吉が優勢だから秀吉についた」などというよくある内応劇で秀吉が不利になったらどう転ぶかわからんような奴らだろw
根拠なし。そんなもん徳川方や織田方にぴったりの言葉で、事実会戦前からボロボロ寝返りまくっている
>>秀吉の養子である羽柴秀勝が岐阜城に入って後詰をやっている時点でおまえの論理は全て破綻している。
根拠不明。お前のいうような「不安定」な美濃尾張国境の状況に対応するためとも
木曽谷や恵那に援軍後詰を行う目的とも高木などを攻める目的とも取れるため全く根拠にならない
>>後ろを気にする必要がないなら後詰など必要ないし兵力の無駄。
後ろ(恵那口)に攻めかかるつもりか単に交代要員かまたは後から動員予定だったとも考えられる
戸木城浜田城とか周辺地域味方領域しかない状況でもつけ城行いまくり完全封鎖してるので全く根拠にならない
特に戸木城の場合東西南北全て味方領域で完全に孤立した位置にあったがそれでも秀吉は付け城を築くよう命じている
付け城なんて緒戦「その城の陥落」が目的で周辺地域からの後詰を防ぐ目的なんてないかあっても二次的なもの
>>岐阜城に大軍を入れて後ろに備えている時点で秀吉が信雄家康方の勢力からの援軍に備えていることに気づかないとかアホw
5000のどこが大軍なんだよアホ
美濃国中味方で秀吉も他地域からの後詰など全く気にする気配もなく様子伺いのため上杉やら木曽やらに書状送るだけなのに
>>岐阜城の兵力で対処できなくなったら真後ろから挟撃されるんだからそれに備えているだけの事、もちろん小牧山城攻めを安くする目的もあるがなw
いい加減ソース出せタコ
>>完全封鎖ができないから秀吉は東と北に付け城を築いて攻城を安くし、同時に南や西の敵勢力圏へ
>>牽制をかけるように「小牧ニハ、かけはなち」の布陣を行った
徳川織田方軍勢が集結してるのは小牧山地域だけなんだが一体どこに向けて「牽制」かけるんだよアホ
遥か遠くの信濃ってかwwww
>>敵の動きを封じたいなら猶更しかるべき部分は開けておかないと全く意味がないんだがな
妄想乙秀吉が付け城の構築目的は「城中者一人も不遁之様、普請丈夫ニ可被仰付候」と書いてるように敵方戦力の完全封鎖にある
>>敵の動きを封じたくて全面に柵を敷いて自軍の行動範囲を著しく減らすとか馬鹿の極み
軍事の基本も知らないアホ乙
敵が大軍でいたら敵に対してたとえ優勢でも敵の夜討ちや奇襲は警戒しないとアボーンになる
秀吉はそもそも尾張入国直後から退路を用意するほど慎重さだしな
>>柵や堀を用いた防衛地点を指して「城」と言われている。つまり「無防備で適当な拠点」なら
山を利用して周辺に兵が寝泊りできるくらいの屋敷を構えた事を以って城といった、で解決
>>当代記では「城」と表記されるわけがない。それではただの山であり平地にすぎん。
城を思わせるような屋敷とか施設でもありゃ解決でしょ
そもそも徳川方は三河物語の描写どおり堅固に普請行ってる様子なんてないし
81 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 22:05:50.75 ID:+sRoQ7Ud
>>さらに南東には家康が築いた蟹清水、宇田津など拠点が多く存在する。
>>よって秀吉が柵を築いて敵の脱走を阻止しようとしても南方向から織田徳川軍が逃げ放題という現実
逃げる方向が制約される分、戦略的に有利になるのは変わりない
つうか家康も蟹清水とか宇多津とか徳川方拠点を秀吉の領国とは関係ない方向に築きまくってんじゃん
なんでこれで「拠点構築は他地域からの後詰分断」なんてアホな論拠ができるわけだ?ソース出してみろよタコ
>>南側が貧弱だったところで10万を超える軍がいるんだから織田徳川軍が追いそれとせめられるわけがないw
二重堀合戦で奇襲食らって秀吉方は数百人被害だしています
長久保城攻防では秀吉方陣地からさして遠くない距離にもかかわらず奪回しています
数があろうと奇襲に対する警戒や夜討ちに対する警戒を無視していいことにはならん。事実池田ら別働隊は奇襲的に寡兵の徳川勢に襲撃されて敗北した
>>大体南から回り込むとか秀吉が率いている軍勢から丸見えで奇襲以前の問題だから10万以上の軍勢に嬲り殺されて終了
そんなら家康が秀吉方の陣営の北や東から小牧山に合流しようとしても秀吉から丸見えで無意味なのでそんな拠点(付け城)は不要でFA
>>「秀吉が丸腰でまともな軍勢を持たず南側だけ何も防衛策を立てていない」とはわけが違う
意味不明。南側に敵本陣があって秀吉方付け城は家康の小牧山を囲むように配置されてるし
秀吉が要害に堅固に築き芝手や柵をめぐらしたといってるのは普通の脳味噌で考えれば家康方の陣所に向けてのもの
>>それをするのなら10万を超える大軍で容易に阻止できるし、むしろ織田徳川軍の動きを
そんなら他地域からの小牧山への後詰合流も10万を超える大軍で「容易に阻止可能」
>>少しでも封じたいのなら「小牧にはかけはなちにする」ことですぐにでも織田徳川軍の動きに備えるのが筋
それなら初めから陣所なんて築かない方がいいし背後から後詰が来たら即座に対応するために背後にも芝手や柵なども設けない方がいい。
あともっというとお前の論理だとある2大名が攻防しているとき、兵力が優勢な方は攻撃側だから相手の攻撃などに備える「城」や「陣所」すらいらないことになり
堅固に普請したり土手やら柵を設けたりする作業は全て無駄。かえって動きが鈍る事になる
>>大体現実的に考えて10万以上もいる軍勢を全部あの楽田周辺の付け城内部に入れることなど不可能w
どのくらいの地域の範囲かは知らんが一次資料類でも北尾張の楽田近辺には10万いたことになってる
>>「かけはなちにする」ということは秀吉率いる10万の軍勢がいつでも織田徳川軍に攻撃かけられるんだから
お前の論理だと「城に篭もってる側」は「功城側」に対して奇襲や夜討ちなど不可能、河越野戦とか城側の奇襲が成功した例などありえないといってるわけ?
かけはなちにするのと相手の動きに即座に対応することは関係ないしむしろ油断して無防備な陣を敷いたりした側は大体奇襲くらってまけるのが戦争
城側から敵に夜討ちや朝駆けが日本の戦。ゆえに陣地を堅固にかまえたりする作業と城攻めは切っても切れないわけ。
戸木城浜田城とか孤立した地域にあるごく寡兵がこもっただけの城に対しても付け城行うよう細かく指示したりして攻城に当たっていることからわかる
82 :
名無し曰く、:2013/02/06(水) 22:20:39.05 ID:+sRoQ7Ud
>>敵もうかつに動けないし動いてもある程度対応しやすくなる。
そんなら南以外の方向からの後詰に対応したり徳川織田方の迂回とか移動とか奇襲逃亡時の対応とかするのもかけはなちのほうがいいし
わざわざ芝手やら柵やら築いて要害として堅固に拵える必要なし。全方向に対してかけはなちで陣取った方が
あらゆる方向からの対応に即座にできるし兵力が多いから問題なし
>>池田森の討死があまりにも早かったために慎重になった秀吉によって達成されることはなかったがな。
意味がわからん。池田・森の戦死前から尾張入国直後から秀吉は慎重で退路確保したりしている(不破→家康書状)
>>柵や芝手を全面に築くのはかえって自軍の行動を制限するだけ。
その論理なら攻城側や兵力的に優位な側は城は不要でありつけ城はおろかあらゆる拠点は自軍の行動を制限するから不要という事になる
つうか城から打って出て相手に攻撃かけて撃退したりしてる例なんて一杯あるだろw
お前の論理だと篭城側は行動が制限されてるからそんな芸当不可能だなw
あと兵力的に優位なのに大阪城やら安土やら江戸やら日本に城築きまくった信長秀吉家康をはじめ日本の武将は馬鹿ばかりじゃねぇかw
わざわざ高い金はたいて城攻めする時なんで拠点築きまくったりするんだよw
>>「小牧にはかけはなち」にして牽制をかけようとしたのを徳川軍が小牧山城から見てそれを大久保が自著に記しただけw
普通に文脈で考えても秀吉の書状でもその内容が徳川方のことなのは明らか。
>>78 >>またお得意の適当な作家の名前を出して「こいつはそう言っている(と俺が考えた)」かw
なら小林の本でも買って確かめてみろよアホw
>>言っておくが百瀬明治は司馬遼太郎や山岡壮八と何も変わらない、むしろそれ以下の作家だ
百瀬は訳をしただけであり小説家としての功責やら歴史家としての地位やらそんなんは関係ない
ただ古文やら古文書に詳しい人間がその専門領域でそれを行っただけ
例えていうなら帰国子女で英語に精通した人間が英語の文書を日本語に直したのと
英語素人が文書を屁理屈をつけて曲解するのとどちらが正しいかというだけ
83 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:04:44.84 ID:3sa2RglE
基地外織田厨死ね
84 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:07:37.75 ID:3sa2RglE
>>そもそも10万と号する大軍を小牧に向けて釘づけにするだけで立派に警戒や陣になるのに
>>この上自らの足を束縛する柵を築けとは馬鹿の極みw
秀吉→丹羽で尾張の諸城の普請を堅固にしたので、家康を取り巻き、即時討ち果たすとかいてるので
小牧山を意識しまくって「岩崎山・うち窪・田中・二重堀などを柵を付け、堅固に要害として築いた」事がわかる
>>付け城を堅固にするのは、城方の警戒ではなく外部の敵への警戒をすることで城攻めを楽にするためですけど
>>37-38と矛盾するアホ乙
>>本人が統一する気がない→信康事件で主語省かれたのは大久保の気まぐれ→つまり小牧も気まぐれで主語をちゃんと書いた→証明不
つまり小牧中の記述も本人のきまぐれで適当に書いた、でFA
>>目的語の説明のために『to』を使う不定詞や接続詞『That』を使って説明するのは
英語と文章の成り立ちが異なる古語で例としてあげるアホ乙
>>その文は主語が変わっているのではなく全て家康であり榊原水野の行動の戦況報告
そんなら別の文であげてやるよ
関白殿、御本所に腹を切らせで始まる文章「尤之義なり…」の台詞の主語は明らかに家康だが
省略されてる
つうか家康なんていくらでも省略されてるだろw
基本書かなくても大体徳川方の武将の書いた物なんだから大体徳川の人がどうした、こうした、という話で部分的に敵方やら他家の人が主語つきとかで
出てくるにすぎん
本とに地図みてないんだな
遠山とか木曽とかそもそも秀吉方陣営から遥か遠くの山奥の僻地に寡兵でいるだけで
しかも徳川方の菅沼ら伊那の諸侯はこいつらと敵対して木曽谷に攻め入ったりしてる
そもそも木曽谷〜遠山のいる恵那あたりの狭隘の僻地じゃ通るのに時間もかかるし
秀勝が岐阜に居座ってるし遠山は敵味方でわかれてるくらいだしそもそも遠山なんてこの頃秀吉は意識すらしていない
>>山を越えればいくらでも信濃徳川領に行けるしそもそも美濃には織田信雄の領土もあるんだが
何回も同じ事書かせてんじゃねぇよクズ
信濃やら奥三河など話にならない距離。しかも美濃には秀勝軍五千が背後かためている上に
遠山など一部除き全て秀吉方。ちなみに木曽も春時点で秀吉についてる
田井卿・二重堀は「小牧山まで10町までおし寄せ家康が引けないように陣取り」(秀吉→丹羽)
あと小口・楽田は「完全に」徳川領国と小牧山の中間地点ではなく
秀吉領国と小牧山の中間地点に位置するためそんな屁理屈はなりたちようもない
特に秀吉が堅固に柵や芝手を築いて要害に構えたといってる拠点のうち、
岩崎山・青塚・小口が右も左も北も秀吉方拠点が構えられている位置なので
残るは南の小牧山にしか芝手・柵をめぐらせるべき敵方拠点がない
つうか秀吉は上杉に援軍要請してて徳川方は信濃の伊那から一歩も動いていないんだが
これで遥か遠くの信濃からの後詰(秀吉方の木曽・美濃のほとんどの諸将も通過)を警戒してるとかアホすぎる
証拠に秀吉の書状には家康領国からの援軍を意識していると感じられるものは一通もなく、
小牧山を押し詰め、とか小牧山ばかり意識して堅固に普請してる書状しかない
>>それは家康が慎重だったが故の結果論
上杉景勝は川中島に2年連続で出兵して信濃の徳川方を蹴散らしているから無理
秀吉もそれは把握していて「比類なき手柄」とかいって褒めているのが天正12年4月
しかも天正12年夏に木曽谷を攻めた徳川方菅沼らは見事敗北してる
>>小牧山城を攻撃することに集中するために付け城を築くんだから当たり前
>>逆に言えば小牧山ばかり意識しているということは付近の状況にも対応しやすいように防備を固めていると言うのと同
小牧山という言葉ばかり出てきて
家康領国の他の拠点からの後詰など意識する様子すらないのに小牧山周辺に密着するように包囲する形で築かれた秀吉方本陣から程近い拠点が
小牧山ではなく周辺からの後詰からの防衛目的で、小牧山に向けては柵をめぐらせずかけはなちで陣をめぐらせるとか意味不明
>>三河物語では柵さえつけずかけはなちの無防備陣を築いておきながら、当代記では城郭扱いですかw
無防備でもなんでも城は城
秀吉方拠点は堅固にしたと秀吉が書いてるし三河物語にも書いてるので論外
85 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:08:43.06 ID:3sa2RglE
>>たった2年従っただけで譜代扱いするアスペw
秀吉の陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない
お前のいうような「烏合の衆集団」ではこれは行いようもない
また信長の頃と違い格軍団・別働隊に事細かに指示を出す事ができている(→関や田丸・児島などに出された書状で見られるように
寝返ったばかりの連中ですら秀吉に城攻めの手法(誰々と相談し砦を4つ設けるように、とか、砦は2箇所は小島・一箇所は田丸、残り一箇所は榊原
が担当するように)なども指示し、それにちゃんと従うシステムができている)
秀吉の軍が烏合の衆どころかまとまりをもって機能していた証拠。(実際信雄方では吉村など至近距離にいる領主に対して
しか行えず、木造・中川・佐久間・滝川など貫高の大きい有力城主にはできていない)
>>そもそも信雄は織田家というくくりにすれば何年も従えてきた家臣ばかりなのだがw
信雄が持ってた領国は南伊勢の北畠領だけじゃん。北伊勢は前年まで滝川の領地で
ちなみにこの地域の領主は3月時点で関・田丸・信包・八重羽・富田・神戸・津田・榊原・小島とことごとく秀吉方に寝返っている
信雄を支えたのは木造と北伊勢の本領に近い部分の領主と尾張(これも一部は敵方だが)のみで他はほとんど会戦早々秀吉に篭絡されまくっている
そもそも当主でもない北畠の養子に出された人間が関係ない領地の人間まで「何年も従えてきた」とか意味不明もいい所
小牧長久手の戦いと在地社会の動向(山本浩樹氏)「この時期、高木・吉村氏らにとって信雄はまだなじみの薄い領主で信雄に対し特別な忠誠心を抱いていたわけではなかった」
>>付け城や後詰を築いたから気にする必要がなくなったんだろーがw
付け城を行ったからとか、ではなく付け城の目的としてそんなアホみたいな遠隔地からの後詰など意識していないし全くその根拠もなく
ただ小牧山を意識して築かれているといってるだけなんだが。相当アホだなお前は
>>家康がただしなかっただけの結果論
秀吉が全く意識してる様子がなく眼前の小牧山を落とす目的しか書状から読み取れないといってるんだが
>>意識する必要がないのなら岐阜城に後詰を入れる必要なし
根拠不明。お前のいうような「不安定」な美濃尾張国境の状況に対応するためとも
木曽谷や恵那に援軍後詰を行う目的とも高木などを攻める目的とも取れるため全く根拠にならない
>>そう、そして籠城戦には敵軍の援軍がほぼ確実にあるのでそれを想定するために作られている。
戸木城浜田城とか周辺地域味方領域しかない状況でもつけ城行いまくり完全封鎖してるので全く根拠にならない
特に戸木城の場合東西南北全て味方領域で完全に孤立した位置にあったがそれでも秀吉は付け城を築くよう命じている
>>というかおまえはアホか?「敵城に攻め寄せる」目的の付け城で「敵軍が襲来した時のために柵や芝手で守りを固める」とか意味不明
「敵城を簡単に落とす事ができないと判断し、長期戦を意識した」「毎日攻城に当たれるわけではないので敵の至近距離で陣地を築き敵の動きに素早く対応し
動きを封じる目的で作られた」で問題なし。つうかあんだけ圧倒的大軍があっても尾張口突破できなかったくらいだし二重堀合戦では反撃くらってるとこから考えて織田方の逆襲に対応するための
目的もあったかもしれないな
86 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:09:48.02 ID:3sa2RglE
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
87 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:10:29.71 ID:3sa2RglE
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
88 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:11:45.79 ID:3sa2RglE
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
89 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:12:38.18 ID:3sa2RglE
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>243 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
90 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:13:48.60 ID:3sa2RglE
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
91 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:15:38.68 ID:3sa2RglE
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
>>364 名前:名無しさん 投稿日: 2012/12/31(月) 22:30:55 ID:???
>>知将系では昌幸と大谷だけ統率も適正も高いままな気がする
馬鹿かお前
精強徳川軍を散々追い込んだ真田昌幸はあれでも過小
武田信玄の薫陶を受け継いだことをアホ織田厨が
これみよがしに叩いているだけ
大谷は雑魚家臣団の藤堂に奮戦したが結局やられるくらいだから少し下げればいい
こんな運よく天下とっただけの雑魚をマンセーするキチガイ織田厨は死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
二度とスレくんなタコ
92 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:21:34.56 ID:3sa2RglE
ID:yGbpFtz7
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93 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 00:48:17.69 ID:Sk72cDgC
とりあえず天道のスレで暴れるのはやめてくれないかな
94 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 01:38:26.83 ID:/pTtRywz
三傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三大夜戦の毛利元就、北条氏康
東北伊達政宗、北陸上杉謙信、近畿三好長慶、四国長宗我部元親、九州島津家久
伝承で真田幸村が彼等に比肩するのはアリで統率90以上はこの10人で良い
95 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:02:26.79 ID:3sa2RglE
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
96 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:02:57.10 ID:3sa2RglE
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
97 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:03:31.29 ID:3sa2RglE
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
98 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:04:18.72 ID:3sa2RglE
東美濃攻防はガチンコのぶつかり合い。激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
99 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:05:08.79 ID:3sa2RglE
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
100 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:07:20.23 ID:3sa2RglE
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
101 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:07:55.18 ID:3sa2RglE
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
102 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 02:08:29.49 ID:3sa2RglE
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
103 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 03:21:04.08 ID:3sa2RglE
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
104 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 05:24:19.23 ID:wTkasbGi
信玄って結局今川義元がいる間は駿河には手出せなかったよね
北条氏康が信玄に総合で勝とも劣らないパラなのに義元はまだ過小評価
されてる感じがするが、大原雪斎に統率を吸い取られてるんだろうか
105 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 10:07:20.84 ID:zdanJgli
義元ってそれほど戦の実績はないからな。
義元は信虎に借りがあり、信玄は義元に信虎を引き取ってもらった借りがある。そして婚姻同盟。
武田家としても信濃上野に戦線を広げてるから、義元と結んで背後を気にしないというメリットが大きい。
手を出せなかったんじゃなくてそういう政治的要因が大きかったんじゃないかな。
106 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 11:04:37.70 ID:O2kKDdUu
ID:3sa2RglEは反論できずコピペ連投か
107 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 11:09:25.21 ID:O2kKDdUu
義元ちゃんの功績
加東の乱で氏康に勝つ(雪斎あり)
小豆坂で信秀に負ける(創作)
桶狭間で信長に負ける(雪斎なし)
義元は政治的な松平調略や駿河の産業発展はあるけど
桶狭間で負けてるようじゃ、統率は低くても仕方ない
108 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 11:23:49.89 ID:tWQ+AY66
白兵戦で負けたなら統率は低くてもしょうがないけど論は多々あれ基本的には奇襲ないし不意打ちなんだろ?
それだけ聞くと統率より知略の方が低くてもおかしくなさそうではあるけどどうとらえるかの違いなのかね
たしかに備えが薄い、不意打ちされる時点でーって言われたら返しようがないけど
109 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 11:33:59.70 ID:7VbDw8Fn
たしか革新天道では奇襲の成功率は彼我の統率差によるから
奇襲で負けた奴は統率マイナスせざるを得まい
110 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 14:40:08.36 ID:3sa2RglE
今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康
その息子達も父に似て愚将揃いで北条家は滅亡
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【長久保城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1559年【唐沢山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄
111 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 14:42:11.95 ID:3sa2RglE
今川と両上杉に東西から挟撃されたのは
氏康の外交オンチが原因で言い訳にならない
そもそも武田軍は河東に兵は送ったが
遠くから見てるだけで全く参戦してない
武田は今川と北条を仲裁し和睦させるため来てるんだから
参戦しなくて当たり前
そして氏康率いる北条軍は義元率いる今川軍に敗北し
河東から叩き出されて泣く泣く講和に署名
まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな
112 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 14:43:04.00 ID:3sa2RglE
むしろ織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
北条>>>>>織田
113 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 16:36:02.50 ID:jklMB7Wg
上杉謙信に「尋常なる武将」と褒められた武将でも合計100ぐらいだからな
114 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 18:20:56.65 ID:/pTtRywz
義元は雪斎亡き後三遠の統治が拙い
尾張旧領取り戻すだけでは反乱独立は抑えられなそう
115 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 18:40:10.85 ID:dsoB0vc8
>>110 >その息子達も父に似て愚将揃いで北条家は滅亡
まぁまぁ頑張ったほうじゃね?
北条氏康 病死 北条滅亡まで19年
今川義元 戦死 今川滅亡まで8年
武田信玄 病死 武田滅亡まで9年
織田信長 戦死 信忠自害まで1日
大友宗麟 病死 義統改易まで6年
豊臣秀吉 病死 豊臣滅亡まで17年
長宗我部 病死 盛親改易まで1年
116 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:27:11.15 ID:ujmKJxVG
>>115 信長は秀信改易か信雄改易まで待ってやれよw
117 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:30:01.43 ID:YSBQoJkr
>>116 自分の都合の良いように曲解するような誰かさんのコピペに何を言っても無駄
118 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:41:45.70 ID:3sa2RglE
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
119 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:43:15.23 ID:3sa2RglE
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。
多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。
※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。
また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
120 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:45:42.36 ID:3sa2RglE
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
121 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:47:06.55 ID:3sa2RglE
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党・宇喜多・浦上&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は天下なぞとっていない。
秀吉が天下取ったなら秀吉死後豊臣幕府が開かれているはず
ただ武力で平定したわけでもなく他大名と同盟関係結んだだけ。
関が原の時とか皆豊臣のため戦うという名分利用して好き勝手に自勢力の拡張狙ってただけ
122 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:47:44.62 ID:3sa2RglE
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
123 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 20:52:59.50 ID:TS4NTUO0
天下人が能力が高いなら劉邦の能力は全部90以上あるなwwwwwwwww
天下人()
124 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 23:20:00.51 ID:dsoB0vc8
>>116 秀信改易だと18年、信雄改易だと8年か?
それでも北条はよく頑張ったほうだと思うんだがなぁ…
125 :
名無し曰く、:2013/02/07(木) 23:25:20.70 ID:ZdE3LL5n
信雄は復姓してないし織田じゃないだろ
復姓してない者が家を継ぐ事は他家にのっとられた事になるし
126 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 00:20:26.31 ID:QsuPHqKS
最後まで狸にペコペコ頭下げた信雄、長益の恥知らずは死ね
127 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 00:31:56.59 ID:2AQvUYnR
じゃああの状況で抵抗しろと?
戦犯は猿、恩知らずの猿は死ね
128 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 01:01:41.36 ID:kehh63QT
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
129 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 01:03:31.45 ID:kehh63QT
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。
多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。
※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。
また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
130 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 04:39:45.46 ID:8cnezXgI
信玄も元就も国人衆と頭目って状態で兵を動かす、農民兵を使う時点で
京より遠いと天下獲るの難しいな寿命が長くて信長に戦で勝てたとしても
維持するのが難しい。大内義興の二の舞になりそう
131 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 06:12:09.19 ID:10/1iNTG
>>126 たぶん、おそらくではあるんだが、もう死んでるんじゃね?
132 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 13:04:48.77 ID:x6lpNqL0
>>130 次代まで盤石な体制を作り上げて何らかの形で自壊するまで待たざるを得なかった大内と最初から神輿で次代で容易に崩壊した武田を比べるのは大内に失礼
133 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:47:55.14 ID:kehh63QT
毛利ごときに負ける大内なんて雑魚でしかないじゃんよw
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
134 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:49:05.61 ID:kehh63QT
周防も安芸も同じ瀬戸内海だから平等な土俵じゃないか。
水運経済は水軍に依存しており毛利だって小早川水軍を持ってたから通行税やら湊使用料を同じように取ってたろう。
だったら差を分けるのは地力
瀬戸内海があるから比較できないなら琵琶湖水運があるからとか日本海貿易があるからとか
伊勢湾があるからとか河川流通があるからと何一つ比較できないだろが。
毛利厨だけがそうやっていつも逃げるんだよなw
陶は大友にもある程度備えないとだし
陶が支配の正統性の象徴である傀儡の大内義長が拉致られないよう兵を置かなきゃならん
長門の内藤氏の内紛にも兵を出し介入し自派に勝って貰わなきゃならん。
石見で苦戦しまくり和議したものの破棄して背後を襲ってこないようにある程度の兵を置いて備えなきゃならん。
安芸に振り分けられる兵力なんてごくわずか。
>小早川は別家で関係ねーよ。毛利は安芸の大内陶派を討って安芸をほぼ統一したのが厳島の数ヶ月前
1年ほど前までは安芸の中枢部沿岸部すら大内の支配下にあったから水運経済なんてねーよアホか。
→元就が尼子から大内氏に寝返ったときにの条件として、大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっています。
>毛利の影響下にあるのは山間部ばかりって言えるし財政的にも弱い弱小勢力だったのに。
→山間部でも相当な収益を上げていました。毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する権益を井上氏は持っていた。
吉田は出雲街道の要衝にあり石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く駒足銭の徴収権は重要な経済的な権益だったが井上を滅亡させ元就は横領した。
また正妻の実家である吉川氏を奪い貴重だった鉄の生産地も手に入れ(謙信も毛利から鉄を買っていた)
元就は高橋氏に出した人質の娘を見殺しにして高橋氏を滅ぼし木材売買も手に入れた。
>まず義長が大内にいるのに大友に備えてというのは不自然。 これでは義長がいる意味がない。
それと大友義鎮の書状で「義長に援軍頼まれたけど毛利との約束で自分は泣く泣く弟を支援しなかった。
その辺のことを考えて、九州の大内領は大友が継承するのを認めてね。
あと秋月とか筑紫が反大友で騒いでるけど支援しないでね。」みたいな文書が残ってる。以上から大友に備えてと言うのは不自然
→これは大友が筑前豊前権益のため義長を犠牲にして毛利に内通してることを現しているって事です・・・
だから陶はそちらにも兵力を置いて牽制しなきゃならんのです。
それに基地害になった陶は野上房忠に命じて筑前守護代杉興連を殺害し豊前守護代杉重矩も殺したり宗像騒動で北九州情勢は不穏です。
>義長が拉致されないようにと言うけど、厳島合戦に参加しなかった多くの大内氏家臣や内藤隆世は守ってくれてるはずだろ?
→ 娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派と内紛中で山口にまで抗争は波及してます。
135 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:50:09.43 ID:kehh63QT
>毛利だって尼子に備えて兵を置かなければならず、宍戸隆家が残ってるだろうが!
→当時の石見も備後も大内領国化していて安芸は安全圏になっています。下記年表をご確認ください。
尼子晴久の戦力集中は東側で1551年〜1554年に渡り備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出
1553年4月備後北部の三次盆地に勢力を持つ江田氏は毛利氏を中心とした大内氏方国人の攻撃を受けた。
江田氏を支援するため、晴久は自ら備後国高へ出陣して萩瀬にて毛利の援軍の陶晴賢率いる大内軍と激突したが勝敗つかず、
10月には江田氏の居城・旗返山城は落城し山内氏も大内方へと下った。尼子側国人宮氏も滅亡し備後は大内氏側へ。
1554年新宮党を謀殺する。この年の前後には相変わらず浦上氏と敵対し尼子の戦力は備前へ。
1555年に厳島合戦により石見の大内勢力が大減退によりやっと尼子が石見に再進出。
1556年に毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
>対する陶は大内全体の軍事指配を行っていた豪腕の持ち主で、当主義隆を討った後に家中をまとめあげ、更に大友家から当主養子を
迎え実質的に九州からの脅威を排除するという政治的センスもある男で今項羽とか西国無双として中華まで知れ渡ってた男だ。
→陶は北九州を混乱させ恐怖政治の殺戮だけでなく無能の石見守護代の問田隆盛を信任して
石見の吉見正頼の謀反が鎮圧できず津和野三本松城の戦いなどで陶自らが周防から遠征し大苦戦し実質敗北の失策続き。
そもそも陶は実力でのし上がってきた男ではありません。少年時から美男で義隆に寵愛されただけ+父の威光の七光りの無能。
直情型で独断専行な性格で文官の相良武任との政争に負けた挙句に追い詰められ破れかぶれの無計画な謀反です。
陶は主家殺しで疑心暗鬼になり片っ端から有力大内家臣団を虐殺し自らまわり中に敵を作りまくり自爆した。
末期症状で自分の領国の周防さえ満足に統治できなくなってたろう。
陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を安芸守護代弘中隆兼に
身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w
さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。
渡海後に弘中隆兼が武王の例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと
陶に進言するも大凶日は休戦日として軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。
今項羽とか西国無双もそんな厨っぽい記述は一次史料にありません。
>>厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
→まったくの大ウソ
宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。
どう考えてみても周防からの動員数しかいない。
はっきり言って毛利の記録は捏造歪曲と自己正当化のウソばかりで信用できないシロモノです。
136 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:51:16.60 ID:kehh63QT
元就が死んだ頃は美作や備中の大半も織田に支援された宇喜多らに支援された尼子残党に奪われるなど
毛利版図は大縮小して追い込まれてたんだよな。
元春も元就の葬儀に参列せずに山中鹿介追討の遠征してたくらい危機的だった。
武田北条の和睦が成立以後の義昭による織田包囲によって
西国への支援不可能になった織田を離反した宇喜多が
尼子残党支援を止めて毛利側に寝返ったりで
戦線を但馬播磨ラインに前進させている1572年〜1573年信玄死去までの期間の
元就の失敗遺産回復とも言うべき毛利の起死回生の急拡大ぶりは凄まじい。
義昭のおかげで毛利は浦上とも停戦させてるようだし。
史実では信玄死去したことで反撃に転じて朝倉浅井を滅亡させるや
信長が安国寺へ浦上を支援し播磨、秀吉を但馬へ出兵宣言すると
義昭が中国にやって来ないように心を砕くなど毛利の織田に対して低姿勢の豹変ヘタレ外交ぶりは異常だからなあ。
それを見た三村も毛利・宇喜多とのうやむやの関係を清算すべく織田へ寝返っちゃうし。
そのヘタレ外交に変化が起きるのが丹波の赤鬼により光秀撃破。
これで織田に支援された但馬因幡両山名が再び毛利方に転がり元春の再但馬進出がなった。
毛利はやっぱり他力本願なんだよなあ。
137 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:52:02.18 ID:kehh63QT
毛利って分国法すら編纂されてない内政・裁判すら明文化がなされてないと言う
ロクな政治体制すら確立されてないダメ大名だったからな。
関が原で負け組になってからやっとそういうのを整備し始めた。
のちに高橋氏を裏切って(長女見殺し)奇襲かけて滅亡させた悪行を正当化するために
幸松丸を利用して高橋(杉の大方の出身家)が専横したとする捏造まで
でっち上げて毛利が必死に歪曲してるのが痛いわ。
基本的に相手が悪いから元就はやむを得ずやったが徹頭徹尾貫かれた軍記妄想が毛利厨のソースだからどうしようもない。
7/15に幸松丸が突然死して
7/19には元就擁立決定。 動けるのは実質たった3日しかない。
その間に元就擁立を確定づけたのは
たまたま上洛し神仏詣をしていた栗屋元秀が将軍から相続許可を貰ってタイミングよく帰ってきたことと
尼子から家督を継ぐことを元就が認められたことがある。
明らかに3日の間に相合元綱を出し抜いてる。
どう考えても幸松丸死去以前から家督奪取へ向けて計画し動いていたとしか理解できないし
元綱がいつ死んだのかもわからないどころか元就自身が天涯孤独だと言って元綱の存在自体を抹消してる。
元就の人生は怪しいことばかりだからね。
柒谷宛て児玉就忠・桂元忠連署書状で
尼子家との今までの経緯を説明する中での冒頭に
尼子方として西条陣に出陣した幸松丸が死んだことに触れられ
毛利之家督を元就可存之旨、従與州被仰候て、事を存候処に、
其以後渡辺之者共能州(尼子筆頭家老亀井秀綱)へ色々頼申故、不被打置、
荷擔(負担を尼子が担がされる)させられ候つる、其外御取扱無曲子細敷多候に付、
しかるに防州へ仕えたと、元就が尼子へ渡辺を派遣して懇望してくるので尼子も捨て置けず荷物になるが
元就を後援してやったが元就が尼子を裏切り大内に仕えたと経緯を説明してる。
その後の文章は塩冶興久と経久の対立における毛利の対応についての弁明が続く。
138 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:53:07.20 ID:kehh63QT
元就の領国は家中の者の範囲だけだろうね。
国衆の統制に苦労してる元就は
「毛利のことをよく思う者は他国については
言うまでもなく、地元の安芸の国衆にも1人もいない」と言っているし
大内を滅亡させたのちですら一揆的結合と指摘される傘連判で
国衆はみんな序列もなく署名し、兵達の狼藉ですら毛利が勝手に処分できず
一揆構成メンバーの相談の上で討ち果たすことを取り決めてる。
元就はコミュニティーの議長の家柄であっても指導者では無いのが史料からわかる。
また元就の兄弟と宍戸に嫁いだ次女の仲が険悪なので教訓状を元就は出しているが
兄弟が隆元へ服従することを元就が要求した返書を完全に無視したと山室恭子も指摘してる。
つまり吉川も小早川も宍戸も元就の命令すら無視していて
元就が再度の要求をするもこれまた無視。
地域コミュニティーすら元就とは同格の連合相手であって主従関係では無いのがわかる。
安芸すらロクに掌握できてないのが元就。
元就は言わば一揆の持ちたる国加賀と似たようなもんだ。
まあ加賀は宗教を媒介にした強固な絆がある分、マシだけどな。
言って見れば
1400年に成立した信濃大文字一揆
1404年の伊東ら国人20国人による仙道一揆
1410年の相馬や岩城ら国人10人の海道五郡一揆
1417年の岩崎ら国人による海道一揆と同じ
相馬らの傘連判による一揆契約を読むと
一揆構成員の相互援助
談合による上部権力への対処
所務相論の解決
(逃亡百姓の返還要求など)
これら一揆連合は戦国時代の荒波に瓦解していった。
しかしぬるま湯の安芸ではいまだ1400年代の百姓の逃領主の地位確保の保身一揆連盟が行き続けただけのこと
139 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:56:43.40 ID:kehh63QT
守護や守護代が超恵まれてたなんてお前単純すぎてアホが突き抜けてるなw
毛利は一揆の盟主の家柄であり安芸や備後に所領を持つ最有力国人じゃねぇか。
一揆は大内ら上部権力に対して抗弁するために組織されたものであり
大内といえどもその集団意向を無視できなかった。
毛利が三千貫しか領地が無くて貧弱だなんて捏造もはなはだしいわ。
それに大内を事実上滅ぼしたのは陶だし、その陶の味方をして大内を裏切ったのが毛利。
その陶が石見で苦戦してんのを見て奇襲かけて裏切ったのが毛利だろ。
厳島では完全に村上水軍への他力本願で実際には毛利は何もやってないし
陶を予定戦場の厳島へ元就が誘導したってのも捏造。
尼子晴久には連戦連敗してるのが元就だし、その晴久死去後に
将軍家から毛利と尼子の和睦の話が出た際に
石見銀山を含む石見の毛利への譲渡が尼子から持ち出され和平が結ばれたのに
石見銀山を受け取った半年後に、さっそく和平を破棄して尼子へ奇襲かけて
銀山の軍資金をばら撒いて内応させまくりして尼子を追い詰めただけ。
本城常光はのちに暗殺して元就所有にしちゃってるしな。
のちに輝元が銀山資金を使おうとした時に元春が
「銀山の収入は軍事目的でしか使っちゃならんって死んだ祖父が言っただろうが」
って激怒してるくらい銀山収入は軍事的に優位になるシロモノ。
異常なまでに卑怯な意味では元就はたしかに天才だ。
山室氏も鴨川氏も元就が歴史の捏造してるのを指摘してるしな
140 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:58:33.52 ID:kehh63QT
1年ほど前までは安芸の中枢部沿岸部はほぼ大内の支配下にあった
→元就が尼子から大内氏に寝返ったときに、大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっている
厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
まったくの大ウソ
宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。 省9
厳島合戦で毛利が勝ったのは
能島村上水軍が陶
因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。
毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
141 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 14:59:49.64 ID:kehh63QT
元就がまともに戦って勝った事なんてねえよw
圧倒的大軍で大友浦上山名尼子と大敗をしまくり
月浦合戦では敵の自爆があったのに毛利軍は60000のうち30000討ち取られる大敗w
結局一時的に中国抑えてただけであっという間に瞬殺されるが情けで残されるw
結局圧倒的大軍持ちながら東軍相手に寡兵で殺された雑魚w
斉藤に20回負けてクーデターが起きたから城のっとれたが結局畿内勢に大敗しまくり
武田との主力決戦20回全て全敗の織田w
信長がまともに戦って勝った戦なんて一つもねえよw
相手の目に砂ぼこりが入ったか相手の兵士が穴にはまって死んだとか
そういうとかばっかだし斉藤に30回負けたけどクーデターに乗じて城のっとただけだし
戦下手だったから圧倒的大軍で寡兵の光秀(仁科以下が確定してる)にボロ負けして討たれたし
雑魚長は領土拡張率ゼロの雑魚w
武田との主力決戦10回全敗して勝頼が暗殺されたから倒したように見えるだけw
142 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 15:01:29.91 ID:kehh63QT
信長の功績も捏造だらけ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
143 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 19:53:24.41 ID:QsuPHqKS
砂ぼこり まで読んだ
144 :
名無し曰く、:2013/02/08(金) 23:34:54.25 ID:Ig1I/eYz
145 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 21:26:16.68 ID:q90Uvo9n
信長は雑魚すぎ
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
146 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 21:28:34.59 ID:q90Uvo9n
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
147 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 21:29:40.87 ID:q90Uvo9n
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
148 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 22:31:30.30 ID:q90Uvo9n
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
149 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 22:32:47.66 ID:q90Uvo9n
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
150 :
名無し曰く、:2013/02/09(土) 22:34:04.91 ID:q90Uvo9n
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討
151 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 05:43:24.00 ID:t15+7mcN
勝率五割の信玄
152 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 16:27:35.41 ID:6oj1NoZz
ダガがなんでココまで信野暮スレでネガキャンするのか分からん
統率だけ見れば信長・氏康・元就より全然高いのに
153 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 16:30:12.72 ID:mhK9NVWn
だがは関係ない天道スレまでコピペで荒らしてるからな
あんまり歴史わからず、ゲーム目的の人は戦々恐々だろ
154 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 16:31:38.43 ID:m76qgqbl
織田厨の糞妄想垂れ流しに反論してるだけの話だろ
織田厨の糞妄想がなくなれば自動的に反論もなくなる
155 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 16:33:58.85 ID:m76qgqbl
織田厨は馬鹿
156 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 16:34:02.10 ID:zk4fBWIc
ID変えんの忘れてるぞNG
157 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 19:30:32.85 ID:tlhDqsiU
信長や秀吉の戦闘指揮能力が高いと本気で信じている人がどれぐらいいるのだろう?
158 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 19:50:57.56 ID:e9HDt+hg
有名人だから高いんじゃね?って人のほうが多いんじゃね?
159 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 22:39:02.71 ID:Fnq9qK+2
信長や秀吉の戦闘指揮能力って同時代で言えば高いだろう
戦闘回数、戦った相手大名、討伐した相手大名、拡大した領土の広さなど
結果と過程両方持ち出しても十二分に実績がある。
逆にこの2人より戦闘指揮能力が高い人物って誰が挙がるんだ?
俺は家康くらいしか挙げられない。上杉武田の名前を出すのは、例の基地外君だけだろ
160 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 22:54:54.02 ID:tlhDqsiU
>>159 信長、秀吉は拡大した領土や戦闘の勝敗を実績を
そのまま戦闘指揮能力に置き換えようとするのが間違い
特に信長は他の大名と同じ尺度で判断しようとするのが間違いだし
同じ方法で査定してしまうのに無理がある
161 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 23:04:46.84 ID:tlhDqsiU
少し話題がそれ気味に聞こえるけどこれを理解してもらわないと話が進まないので
戦国時代の鉄砲の戦力としての価値は熟練兵士が使用するのであれば弓と
同等かそれ以下である
1.弓の殺傷能力は鉄砲の有効射程内の距離であれば鉄砲に劣らない
2.弓の連射速度は毎分10射ほどで連射速度は弓の圧勝
よって費用対効果なら武器としては弓の圧勝であるのに、信長は鉄砲を採用
これが信長のすごい所である
162 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 23:15:19.32 ID:tlhDqsiU
信長が鉄砲を重視したのは弓は屈強な熟練者でなければゴミ以下になるが
鉄砲は多少訓練すれば素人でもすぐに十分な殺傷能力のある武器になる
長期間の戦争状態において一番確保しにくい熟練者抜きで戦闘力を
維持できるようにした事が信長の成功の要因
なので信長はすごいが、勝利や拡大した領土が直接戦闘指揮能力評価に
結びつかない
163 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 23:31:00.76 ID:Fnq9qK+2
戦闘力を維持した結果があの領土拡張スピードや討伐戦闘した大名の多さ、戦闘回数の多さだろ
なら統率は高くていいじゃん。統率は信長個人の能力じゃなくて「信長が率いる部隊」の能力なんだから
164 :
名無し曰く、:2013/02/12(火) 23:41:47.37 ID:tlhDqsiU
>>163 信長の凄さは最低限の戦闘力の維持能力であって
精鋭部隊の強さじゃないから他の武将の評価と永久にぶつかる
たとえるなら、訓練度のあるシリーズで信長の国だけ徴兵したばかりの
兵士の訓練度に+30ぐらいされた状態
信長の統率力は凡庸な武将より少々マシぐらいが妥当で
特殊なボーナス系を大名になったときに付加したほうが
不満は少なくなるはず
165 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 00:43:25.44 ID:h4I8lZAW
その訓練度は今はないじゃん
じゃあ統率に入れるしかないじゃん
166 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 01:27:56.44 ID:keMH+/Xu
問題は決して統率がすごいわけでないから荒れるわけで
どちらかといえば、信長配下の雑魚がそこそこ使える統率になるような
ボーナス系なら文句は少ないはず
信長の統率は65ぐらい(最大100の場合)
特殊能力として配下武将の統率に (配下の統率ー65)/2の補正をプラス
(65以上の配下は一律+5ぐらい)
で最大値は低いけどそこそこの部隊が量産しやすい補正が適切だとおもわれ
167 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 01:31:49.25 ID:O8jIYJr9
なんで?
168 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 01:34:38.46 ID:keMH+/Xu
天道や革新の一枚マップスタイルならデフォルメ込みで
信長の統率を65(MAX100)にして信長配下の武将で65以下の武将を
強制的に統率65にするとかも有りか・・・
信長の強さはそこそこの強さの部隊を継続的に大量投入できるところだからな
169 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 01:37:26.41 ID:O8jIYJr9
なんで信長だけに限定すんの?
それ言い出したら毛利元就とか北条氏康はどうなるの?
170 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 02:21:19.15 ID:h4I8lZAW
信長は家臣に前線任せて後方でじっとしているタイプじゃないから全く適切じゃないな
稲生や桶狭間で前線に出るような男につける算定方式じゃない。
それをやるんならむしろ武田信玄にすべきだな、信玄の統率を60くらいまで下げて
代わりに他の武田家臣を信玄が率いるとき限定で武田家臣を全員統率+10とかにすればいい。
そうすれば武田軍の強さを維持しながら、長篠の大敗も「信玄がいなかった」でカバーできる
171 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 02:33:56.36 ID:hUPWYNlg
>>159 両軍とも同条件で野戦限定なら家久、元就、家康、氏康、謙信はなんとか
籠城戦、野戦、攻城戦の総合力なら無理
172 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 04:27:30.57 ID:t6L1HgyB
信長の戦績とか調べても信長出てない合戦とかも一緒になってて分類がまんどいな
調べてみると負けてるのは信長居ない合戦が多い
軍団長クラスが昇格後に采配とって負けるパターンがかなり多いわ
173 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 05:19:24.15 ID:2mmg2ZSB
姉川の合戦は徳川が手伝ってくれなかったらやばかったのかな
10段以上の陣備えをかなり奥まで突破されてるし
しかし姉川までわざわざ徳川は出向いていって三河留守にしてても
どこも空き巣狙ってくる相手はいなかったのか
174 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 05:40:58.21 ID:h4I8lZAW
姉川の10段以上って既に否定されてなかったかね
まあ浅井軍の序盤奮戦は事実のようだが・・・
>>172 織田軍の負け≠信長の負けじゃないからな
そこで色々と面倒なことになってるんだろう
175 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 05:43:08.39 ID:h4I8lZAW
織田軍の負け=信長の負けじゃないからな 、だった
176 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:02:34.13 ID:vKda9WSM
>>171 格武将ごとの直接対決の結果が以下。
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
177 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:03:19.29 ID:vKda9WSM
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
178 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:04:13.17 ID:vKda9WSM
信長は雑魚すぎ
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
179 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:07:19.01 ID:vKda9WSM
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け。結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
180 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:17:43.75 ID:vKda9WSM
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
181 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:18:44.19 ID:vKda9WSM
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>243 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
182 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:21:25.45 ID:vKda9WSM
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
183 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:24:08.61 ID:vKda9WSM
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
184 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 06:25:59.05 ID:vKda9WSM
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
185 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:17:01.15 ID:vKda9WSM
>>159 過程→尾張のチート国力&交易収入&朝廷への献金ダントツトップ
斉藤は幼君でボロボロ伊勢は内紛で崩壊、機内も三好が統率取れずガタガタ
そんな基地外のような好条件で巻けまくり苦戦しまくり家康が瞬殺した機内や美濃を10年も20年もかかる始末
結果→光秀に殺されて死んだ雑魚
秀吉→織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
186 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:18:16.11 ID:vKda9WSM
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
>>163 信長の戦闘能力の低さの現われが弱体化しきった幼君無能義龍に例年の年中行事のように負けまくり長島侵攻戦で2回も大損害蒙ったあげく
三回目には餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちしたら一門10人以上ぶち殺され最後は光秀に負けて殺されて織田家は木っ端微塵の間違いな
領土→光秀に負けて殺されて死んだので信長の保持領土は0
討伐した大名→信長のチート国力からすれば鼻くそみたいな勢力しかいないのに
例年負けまくり多く重臣死にまくり家康に瞬殺された機内や美濃に10年以上もたつく始末
>>170 桶狭間→軍記にしかないでたらめ(しかもその軍記内ですら先陣と勘違いしたさきがたまたま運よく本陣で都合いいタイミングで雨や風がふいて死んだだけ)
稲生→完全に講談話
山之内上杉の大軍大破したり三方が原で織田徳川の大軍木っ端微塵にした武田とは比べるべくもない
187 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:19:34.75 ID:vKda9WSM
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
188 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:20:32.51 ID:vKda9WSM
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討
189 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:23:15.08 ID:t6L1HgyB
姉川の十一段構えは地形的に距離が足りなくてありえない、と結論が出てるはず
実は場所が違うとか、あの辺で大噴火なり無理やりどこからか土を盛ってきて山を作らない限り
190 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:24:04.52 ID:vKda9WSM
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
191 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:26:16.15 ID:vKda9WSM
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
192 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:56:29.82 ID:Voxz/l8g
ねえねえだがさんこれの弁明マダー?
>141 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 21:07:11.27 ID:7swZNm58 [9/13]
>村上って二戦以外負けまくってるし
>上田原は兵力比1.4倍程度
>それでいいなら信玄が小岩岳城攻略し、飯富が村上勢を撃破。
>葛山城を信玄が攻撃して村上は城を捨てて逃亡。
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
>村上は城から叩きだされてついにその後は信濃に戻れませんでしたとさ。
後半略
193 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 07:58:45.65 ID:h4I8lZAW
基地外記念age
194 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 08:10:44.84 ID:keMH+/Xu
>>169 信長の開発したドクトリンが軍の強さの最高値を上げる方法ではなく
いかに臨時で集めた弱兵をそこそこ使える兵士にするかだからだ
もしかしたら秀吉の話かもしれないけど足軽に持たせる槍の長さで
長槍を採用したりしている
これも素人が使う場合長い槍のほうが有効
熟練兵士同士だと状況が変わる可能性が高い
195 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 08:20:28.05 ID:keMH+/Xu
第二次大戦にたとえるなら
謙信や信玄がいかにティーガー2のような戦車を作ろうかとしたのに対して
信長はどうすればシャーマンが効率よく量産できるかを追及した
戦いは数だよを実戦したのが信長
なので決して信長の指揮能力がずば抜けて高いわけではない
勝因は指揮官が無能であっても兵士が訓練不足でもそこそこの強さで戦える
軍隊を作った事
なので上を伸ばすより下を引き上げる補正が適切
196 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 08:21:59.53 ID:0QBjgwBI
勇将の下に弱卒無しとは言われるが、結局中央に近い温暖な地域の兵は環境の厳しい甲信越なんかより弱かったって事じゃないの?
スレの趣旨とはズレるが、地域差を認めずに武将の能力だけで論じるのは違うと思うな
197 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 08:42:55.13 ID:vKda9WSM
>>195 むしろそんな合理的な軍事機構で浅井朝倉斉藤北畠長島一揆武田上杉本願寺など
どこと戦っても圧倒的大軍でありながら寡兵の敵にくるしめられたりたくさん討ち取られた
信長や織田武将はどんだけ戦下手なのよって話なんだが
198 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 08:45:53.88 ID:vKda9WSM
>>196 信長が戦った相手も信長領国以西がほとんどじゃん
199 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 09:25:28.66 ID:h4I8lZAW
大体甲信越なんて環境ヌルヌルじゃんw
諏訪村上小笠原とまともな勢力が跋扈しない信濃に
越後に目を向ければつい2年ほど前にようやく越後統一した謙信こと長尾景虎
上野に目を向ければ北条に河越でボコボコにされて這う這うの体になった上杉憲政
こんなぬるま湯環境で10年も信濃で戦った挙句(謙信の川中島を含めれば20年近)、
ポッと出の信長に勢力を追い越されるんだから信玄はバカ
200 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 09:59:05.90 ID:JKlLm0v9
信濃は中小豪族の集まりだからな
諏訪(高遠)小笠原村上木曽が
信濃40万石を分割統治してる
神保とか姉小路クラス
201 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 10:47:48.01 ID:KBTfuZNT
>>194 > 信長の開発したドクトリン
ってのはどうかなあ?
そんなに軍制として徹底していたとは思えないんだが?
もちろん、逸話レベルとか初期の頃の馬廻りくらいはともかく、軍団としてそこまで明確に規定してた史料ってあるの?
信長の戦略は基本「機先を制し主導権を握る」に尽きるように思える。
そして戦術は機をとらえて先頭に立って猛攻を仕掛ける。
それ以外はあまり考えてない感じがする。
202 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 11:10:54.66 ID:vKda9WSM
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
203 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 11:16:35.31 ID:V3/TJ+2G
204 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 11:46:19.68 ID:JKlLm0v9
飛騨の三木って3万石くらいだろ
美濃の斎藤は50万石
24万石の甲斐が10万石レベルの豪族滅ぼすのとは違う
205 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 12:56:34.28 ID:vKda9WSM
甲斐は例年飢餓状態。実高18万石だがこの頃はもっと低いだろ
斉藤は幼君・分裂状態でクーデタ騒ぎまで起きてたし寝返るものばかりでろくにまとまった抗戦しなかったし
信長に刃向った連中の石高は15万石くらいじゃね
浅井らも援軍に来てたし
206 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 20:01:15.48 ID:h4I8lZAW
という妄想をするだがであった
207 :
名無し曰く、:2013/02/13(水) 20:42:36.67 ID:ZPND2/0k
>>202 >しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました
これは自業自得じゃね?
208 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:27:50.69 ID:5EsiC36k
自国の国力と周辺敵国の国力の比、弱体化してるかしてないかやそれらの配置状況や山間部、平野部の移動力の差やら石高当りの
領土面積の広さ、侵略先に援軍送ってきた事等諸条件が全く考慮されてないな。領土拡張率でいえば宇喜多直家や家康は信長より遥かに上
スタートでは毎年餓死者が続出する貧国甲斐と自立性高い国人から主導権を確保する所から始めた信玄に対し、豊な尾張で最強の弾正忠家を継いた織田
貧しい山国で自立性の高い国人で、毎年のように飢饉や水害が発生しまくる土壌が有りとかいわれてもな。織田なんざ異常に裕福な所を勢力にしてただろうが
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチでぶつかり合い長尾山之内上杉も介入してくる
状況で攻略の難しいキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ信濃を取った点や国力で勝る北条との抗争で駿河を取った事、距離的に
さほど攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事など見るにやはり軍略はピカイチだろう 負けがかなり少ないのも大きい
対吉良、今川戦で勝ちまくり姉川で大奮戦する最強武将家康が押されまくってる時点で武田の強さは証明されてる
兵力差を差し引いて考えても本拠地からの距離で考えたらさして侵略しやすいとはいえないのに
城落としまくりうまく城から釣り出し野戦で非常に軽微な被害で大勝し風前の灯火においこんだ
同時して恵那への侵攻もおこなってるくらい。強すぎる
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らと
ガチでぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め
、東美濃も侵略した事など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して何人も討ち取っている。信長は大軍で
弱体化した小勢力に何回も負ける斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで大変、
武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
信長は津島湊や知多南郡の木綿の生産地を掌握し、尾張でもダントツの経済力を有していた信秀の子に生まれた。織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。
北伊勢含めばもっと上がる。幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。尾張は石高的にかなり条件の良い国
京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。西は木曽・揖斐川の大河に守られ東と
結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく武田の本拠地も遠い。
周りの大名も今川義元は運良く戦死跡継ぎの氏真は暗愚松平家は独立 同盟で後方の安全を確保 斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた 三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者 織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅 足利義昭も信長の所に来た
209 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:30:39.38 ID:5EsiC36k
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけで
史実では武田に滅ぼされ滅亡する事が確定だった信長
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
210 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:32:07.79 ID:5EsiC36k
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
211 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:33:05.10 ID:5EsiC36k
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
212 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:33:27.66 ID:zl2a3Xml
武田信玄や山内上杉は恵まれた地盤持ってたくせに負けまくる雑魚
宇喜多直家や豊臣秀吉は国無しから大版図を築いた最強大名
と言うことだな
213 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:37:45.57 ID:5EsiC36k
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
214 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:38:43.66 ID:5EsiC36k
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
215 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:39:14.28 ID:5EsiC36k
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
216 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:39:53.25 ID:5EsiC36k
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>243 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
217 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:40:14.76 ID:zl2a3Xml
家康や信雄がそれだけ強かっただけ
大体、山内上杉なんて信玄と戦うつい1年前に北条氏康と戦ってボッコボコにされる雑魚じゃんw
氏康に対して8万の軍勢率いていたのにボロクソに負ける山内上杉を破ったところで何の足しにもならんw
218 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:40:41.49 ID:5EsiC36k
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
219 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:44:58.10 ID:5EsiC36k
氏康がそれだけ強かっただけ。大体負けたのは山之内上杉だけでなく扇谷上杉と古河公方や他の関東諸侯らも加わった大軍
家康はそれなりに強いだろうが信玄相手には負けまくり死に掛けてたし勝頼相手でもかなり苦戦
信雄が強いというのは根拠がない。伊賀侵攻で敗北してるし兄弟で唯一軍団を任せられなかったように信長の評価も低い
耶蘇会年報でも信孝は褒められているが信雄はけちょんけちょんに貶められている
220 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:46:53.14 ID:5EsiC36k
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
221 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:47:45.46 ID:5EsiC36k
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
222 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 03:49:45.39 ID:zl2a3Xml
大体武田信玄の周りなんて小勢力ばかりじゃんよw
一番デカいのが8万の軍勢持っておきながら
北条氏康にボコボコにされる山内扇谷両上杉の時点で終わっとるw
甲斐の右側は雑魚すぎる草刈り場上杉憲政と上杉朝定
それにまだ相模伊豆とその周辺しか手に入れられていない弱小北条氏康
左に目を向ければ諏訪村上小笠原と雑魚の連合勢力ばかりの信濃に
まだ美濃の統一すらできておらずあっちこっちから介入される斎藤道三
上は越後統一するかどうかでしかなかった長尾景虎に
下は北条織田に負けまくり最後は織田にぶっ殺される今川義元
こんなぬるい環境でスタートしたのに若干33歳の信長にあっさり領土抜かれる武田信玄は雑魚w
223 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 04:24:45.57 ID:WUZcoMUD
信玄って飛騨の戦況に介入してるけど信濃からどうやって飛騨まで軍送ってたんだ?
あれは嘘?というか外交的な形だけ?
224 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 05:12:56.86 ID:iebvAFKE
木曽方面から美濃に抜ける道と飛騨に抜ける道がある
そこ抜けて蹂躙してきただけ
流石信玄さん弱い者いじめは得意です
225 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 05:13:40.16 ID:5EsiC36k
自国の国力と周辺敵国の国力の比、弱体化してるかしてないかやそれらの配置状況や山間部、平野部の移動力の差やら石高当りの
領土面積の広さ、侵略先に援軍送ってきた事等諸条件が全く考慮されてないな。領土拡張率でいえば宇喜多直家や家康は信長より遥かに上
スタートでは毎年餓死者が続出する貧国甲斐と自立性高い国人から主導権を確保する所から始めた信玄に対し、豊な尾張で最強の弾正忠家を継いた織田
貧しい山国で自立性の高い国人で、毎年のように飢饉や水害が発生しまくる土壌が有りとかいわれてもな。織田なんざ異常に裕福な所を勢力にしてただろうが
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチでぶつかり合い長尾山之内上杉も介入してくる
状況で攻略の難しいキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ信濃を取った点や国力で勝る北条との抗争で駿河を取った事、距離的に
さほど攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事など見るにやはり軍略はピカイチだろう 負けがかなり少ないのも大きい
対吉良、今川戦で勝ちまくり姉川で大奮戦する最強武将家康が押されまくってる時点で武田の強さは証明されてる
兵力差を差し引いて考えても本拠地からの距離で考えたらさして侵略しやすいとはいえないのに
城落としまくりうまく城から釣り出し野戦で非常に軽微な被害で大勝し風前の灯火においこんだ
同時して恵那への侵攻もおこなってるくらい。強すぎる
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らと
ガチでぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め
、東美濃も侵略した事など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して何人も討ち取っている。信長は大軍で
弱体化した小勢力に何回も負ける斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで大変、
武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
信長は津島湊や知多南郡の木綿の生産地を掌握し、尾張でもダントツの経済力を有していた信秀の子に生まれた。織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。
北伊勢含めばもっと上がる。幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。尾張は石高的にかなり条件の良い国
京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。西は木曽・揖斐川の大河に守られ東と
結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく武田の本拠地も遠い。
周りの大名も今川義元は運良く戦死跡継ぎの氏真は暗愚松平家は独立 同盟で後方の安全を確保 斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた 三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者 織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅 足利義昭も信長の所に来た
226 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 05:14:22.86 ID:5EsiC36k
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
227 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 05:42:21.10 ID:zl2a3Xml
村上戦で板垣甘利どころか横田高松まで見殺しにし、
川中島でもしっかり武田信繁と室住を見殺しにする鬼畜信玄
そしてついに駿河攻めでは戦争する前に義信と飯富をぶっ殺すという鬼畜の所業を行うのであった
228 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 05:57:58.93 ID:zl2a3Xml
>>224 弱い者いじめは武田のお家芸だからなw
長篠でボッコボコに織田徳川軍に敗れた武田勝頼は
これ以降徳川勢に対してだけは駿河に軍をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
織田勢に対しては全く挑みかかろうという気すらなく、岩村城の重臣秋山を見殺しにしたからなw
この時織田軍は武田勝頼の援軍到来の可能性まで見込んで、ちょっと序盤に攻撃かけただけで
以降ずっと長期戦を見込んで包囲を崩さなかったのに、勝頼は援軍いくいく詐欺しまくって
織田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局岩村城は落ちて秋山はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる
はっきり言って浅井朝倉の方がよほど強国だなw
229 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 06:50:42.35 ID:5EsiC36k
武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
230 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 06:59:25.74 ID:5EsiC36k
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw
これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる
はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
231 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 07:00:55.92 ID:2oKO6oix
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
232 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 07:02:35.03 ID:2oKO6oix
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
233 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 09:17:07.58 ID:+dKu8myF
zakosingen
234 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 09:47:53.55 ID:0fKB8aCX
ねえねえだがさんこれの弁明マダー?
>141 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 21:07:11.27 ID:7swZNm58 [9/13]
>村上って二戦以外負けまくってるし
>上田原は兵力比1.4倍程度
>それでいいなら信玄が小岩岳城攻略し、飯富が村上勢を撃破。
>葛山城を信玄が攻撃して村上は城を捨てて逃亡。
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
>村上は城から叩きだされてついにその後は信濃に戻れませんでしたとさ。
235 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 10:04:00.26 ID:zl2a3Xml
>>233 実際信玄は雑魚だからな
大体、本当に信玄が強かったら300万石くらい余裕で取れるだろうよ
わざわざこんなけち臭いコピペで、100万石ぽっちもないショボ領土を誇大広告するより
実際に取った領土を明言する方が、よっぽど簡単に凄さを出せるのにそれをしない。
あまつさえ、敵が強力だったとか言いながら、
周りの連中は上杉憲政、上杉朝定、村上諏訪小笠原と雑魚勢力ばかり
斎藤道三、今川義元、北条氏康、上杉謙信も信玄が信濃の大部分を手中に収める頃は
そこまで盤石な基盤を持っていない、はっきり言って甲信越東海で武田信玄が一番有利だ
敵が強力どころか、どこも戦戦で疲労困憊なのに、ほぼ1人だけデカイ領土持ってるんだから
ズルしまくりレベルで強かったのに、北条は倒せず、上杉には弟と重臣を討取られ、今川は信長のコバンザメの恩恵で倒した
そら雑魚だと思われてしかるべき存在
236 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:17:58.14 ID:5EsiC36k
信玄が雑魚なら諏訪やら高遠に阻まれて甲斐から動く事もできずキツイ城ランキングトップクラスの立ち並ぶ信濃で
一生立ち往生するだけだろ
信濃は甲斐の2倍も国力ある上に山がちで割拠的に地の利による有力中小豪族が複数存在し連合を組んだり武田の侵攻阻むため山之内上杉やら長尾とも共闘して武田の侵攻を阻んでいる
本能寺後の家康も自力で信濃を攻略したわけではなく各郡内の国人の自立的統治を領土安堵状を出すなどして後押しするだけの間接統治を行っただけで天正11年・12年には上杉や木曽
天正13年には真田に敗れるなどし結局離反の連鎖で統治に失敗している
そんなキツイ地を貧国甲斐から山之内上杉や長尾が軍勢送ってくる中ガチンコで切り取ったのが信玄
さらに山間の硬城が並ぶ上野も長尾との攻防で切り取り国力で自国より明らかに上の北条今川連合から駿河を切り取り三増峠で北条の大軍撃破
国力で自国より勝る徳川織田連合から東美濃や遠州・奥三河を切り取り三方が原や上村合戦・東美濃攻防戦で織田徳川の大軍を撃破
237 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:22:28.71 ID:2oKO6oix
大体状況経過関係なく領土で強さ決まるなら信長なんて能力0じゃん
光秀との戦いに負けて殺されて死んでる時点で織田領は信長の下から離れてるだろ
238 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:33:51.10 ID:zl2a3Xml
信玄も死んだ時点で諏訪勝頼に乗っ取られているので領土0
自然死かどうかなど関係ない、嫡男をぶっ殺して諏訪の四郎に乗っ取られたのが信玄の結果
それが証拠に勝頼は終生武田の通字である「信」の字を使っていない
239 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:34:38.60 ID:2oKO6oix
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
240 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:36:39.93 ID:zl2a3Xml
山内上杉 → 河越で8万の軍勢(扇谷上杉なども含む)を率いながら北条氏康に敗れる雑魚
村上諏訪小笠原 → 浅井レベルしかない地方小勢力
今川 → 織田北条に負けまくり最後は織田に瞬殺される
武田が滅ぼした勢力なんて雑魚だらけ
信玄が滅ぼさずとも勝手に滅びる
241 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:40:55.54 ID:zl2a3Xml
>>230 改変するならもうちょっと頑張れよw
あ、最後の武田の無様な犠牲だけは捏造できなかったのかw
242 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:52:05.92 ID:5EsiC36k
河越は氏康が強すぎただけ。しかも負けたのは山之内上杉のせいではなく扇ガ谷上杉や古河公方や他の関東諸侯のせいとも考えられる
村上諏訪小笠原→諏訪はともかく村上や拡張期、北信濃の豊穣な地を基盤にしてた上に天嶮によっている。さらに
小笠原やら長尾やら他勢力とも共闘
今川→一次小豆坂・桶狭間はあったかどうかもわからん嘘くさい戦。しかも桶狭間は軍記内ですら超不運で負けただけ
2次小豆坂は勝利。三河尾張地方をどんどん侵略成功したそこそこ名将
自国の国力から考えたらハナクソみたいな分裂でクーデター騒ぎの斉藤やら内乱の北畠やら浅井朝倉やら一揆勢やらに苦しめられた雑魚とは格が違いすぎる
243 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:55:16.85 ID:zl2a3Xml
氏康なんてそれこそ軍記でしか勝利ないじゃんw
村上諏訪小笠原はどれも雑魚、よくある地方勢力でしかない
大体斎藤は美濃60万石の大部分領有してるし浅井も朝倉とセットで60万石近く
武田信玄が60万石クラスの敵と一度でも戦ったことあるの?www
244 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 13:58:11.56 ID:intoMRSY
>>243 そりゃ言いすぎだけど
河越・国府台にしても軍記物の粉飾は大有りだからな
245 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:02:38.68 ID:5EsiC36k
氏康は軍記以外の小田原編年禄とか諸資料でも関東侵攻で多いに功責をあげてるし(黒田氏論文)
村上諏訪小笠原も武田の貧疎な国力から考えれば十分脅威になりうる相手。さらに共闘したり長尾やら山之内上杉といった大国が介入
斉藤は幼君・分裂状態でクーデタ騒ぎまで起きてたし寝返るものばかりでろくにまとまった抗戦しなかったし
信長に刃向った連中の石高は15万石くらいじゃね
浅井らも援軍に来てたし
浅井も朝倉も信長と敵対する頃だと信長領国は230万石くらいいくだろうし
たいした相手ではない。それにもかかわらず信玄生存中は
>>209のように押されまくっている
信玄の相手→長尾+北信濃連合。山之内上杉+北信濃連合
北条+今川、織田+徳川で
いずれも60万石〜200万石越えのチート国力ばかり
246 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:08:12.19 ID:y8hheZkp
247 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:10:07.96 ID:2oKO6oix
一次国府台は相州文書快元僧都記大庭文書小山氏文書松平義行氏所藏文書などしっかりソースあるね
二次はよくわからん
248 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:14:22.66 ID:0fKB8aCX
>>245 必死にコピペ貼って無かったことにしようとしてるけど黒歴史は消えないよ?
普段は反論してくるのにやっぱりこれだけは反論できないのかな^^
249 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:16:53.18 ID:intoMRSY
第二次国府台は別の二つの戦いを一つに纏めた説が強いんだろ
250 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:21:00.55 ID:O0pjYu7t
一次国府台は氏綱指揮だし
251 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:26:09.16 ID:zl2a3Xml
>>245 長尾+北信濃連合 と 山内上杉+北信濃連合で60万石もねーよカスw
長尾こと上杉謙信が信濃に介入するのは信玄が信濃を大方平定した後だし
山内上杉は前年北条にボッコボコにされて領地ガタガタの上に救援したのは笠原だけw
織田徳川なんて織田はほとんど手抜きだし今川北条も北条が出てくる頃には今川はとっくに家康に降伏
体のいい捏造でまさに「アスペだが」って感じだけどなw
252 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:31:10.42 ID:5EsiC36k
村上は上田原の戦いにおいて5000の兵力動員してるから18万石くらいあるとみるべき。
山之内上杉は上野一国の支配者なので合わせれば60万石越え
長尾の介入時でも安曇・筑摩の一部と水内高井更科埴科といった信濃で最も豊穣と思われる地がしっかりのこってるので
長尾とあせれば60万石くらい越えるだろ
大体それいうなら浅井朝倉戦の朝倉なんかがいい例だろ
朝倉義景は信長討てる大チャンスにすごすご帰国したりしてるし
253 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:33:27.59 ID:5EsiC36k
あと織田が手抜きってことはないな
水野平手滝川佐久間林という大軍送ってるし手抜きではなく大軍送っても大破され
ビビッて放置せざるをえなかったと見るべき。
254 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:35:25.65 ID:KugSGOcc
北条は氏綱時代の第一次国府台で、すでに2万の軍を動員する大勢力なのに
河越で8000は少なすぎるな
逆に、両上杉+古河公方は合わせて100万石余の勢力圏なのに80000は多すぎ
255 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:38:37.84 ID:2oKO6oix
両上杉と古河公方に加え深谷上杉・結城水谷・那須・宇都宮・太田・佐竹・里見など
関東諸侯が加われば200万石は軽く越える
北条は当時相模伊豆と武蔵南部しかないので50万石程度じゃね
256 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:47:41.07 ID:KugSGOcc
北条は、相模伊豆だけで約25万石、武蔵は東京のほぼ全域と埼玉南部が含まれるので
40万石前後はあったと思われる、さらに氏綱時代は駿東も加わるので70万石は下るまい
257 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 14:58:24.65 ID:KugSGOcc
両上杉と古河公方は上野50万石、武蔵で25万石、下総その他で40〜50万石というところだろ
これには深谷上杉・結城水谷あたりも含まれる
258 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 15:05:00.51 ID:5EsiC36k
駿東は北条が古河公方両上杉関東諸侯連合に包囲されて窮地の時に
今川がコソ泥的に奪ったし河越時には失っている
武蔵において岩槻太田氏や天神山藤田氏、忍城成田氏、深谷上杉、上田なども敵で
氏康の領国は半分くらいで33万石程度じゃね
259 :
名無し曰く、:2013/02/14(木) 15:09:50.36 ID:KugSGOcc
それでも約60万石、第四次川中島の武田と同程度の勢力だな
260 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 00:53:01.92 ID:Ti6xhGDY
>>253 滝川林が行ったと言うソースは?
同時代の信長公記ですら佐久間平手水野だけ
まさか死んだはずの氏家直元が参陣している甲陽軍鑑?w
261 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 00:54:09.58 ID:Ti6xhGDY
あ、これ注釈だな
じゃあ甲陽軍鑑でもないのか
262 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 06:33:41.56 ID:nCVgpi3d
勝頼は劣化項羽
263 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 09:45:10.86 ID:Ti6xhGDY
劣化の劣化の劣化くらいあるだろ・・・
264 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 10:09:50.52 ID:lTitnBdv
ロケット花火は劣化大陸弾道ミサイル
265 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 11:29:49.32 ID:/E7jwI4G
項羽て言うんだったら
一回ぐらい家康倒さないと
倒すどころか長篠以降は出兵の度に
取り逃がして対した戦果あげてないよね
266 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 12:33:35.33 ID:5DB2dJ3S
長篠以降も高天神城は3年も籠城し続けていて徳川はかなり苦労してるね。田中城とかビクともしてないし。
つか一次史料を読むと天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるしそのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
267 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 15:41:49.03 ID:Ti6xhGDY
奇襲を使ったらイカンなんてルールはないが・・・
268 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 15:43:05.92 ID:XxEugihk
singenzakodekawaisou
269 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 16:55:42.89 ID:5DB2dJ3S
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
270 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 16:56:10.10 ID:5DB2dJ3S
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
付け加えるとして5/15書状の内容から鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)
また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
271 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 16:56:30.23 ID:5DB2dJ3S
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
272 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:04:37.47 ID:G/VrVj1f
141 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 21:07:11.27 ID:7swZNm58 [9/13]
村上って二戦以外負けまくってるし
上田原は兵力比1.4倍程度
それでいいなら信玄が小岩岳城攻略し、飯富が村上勢を撃破。
葛山城を信玄が攻撃して村上は城を捨てて逃亡。
その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
村上は城から叩きだされてついにその後は信濃に戻れませんでしたとさ。
そもそも、信玄が村上に苦戦したのは
小笠原の残党や後ろに長尾上杉とかの影響でしょ
ただ単に、武田vs村上だけでみるとかアホ
砥石崩れも城攻めで苦戦してた所に後ろから援軍で襲撃されただけだからガチンコでやりあって大敗したわけでもないし
信濃なんてキツイ山ランキングトップの立ち並ぶガチガチの防衛土地
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
歴史捏造大好きなID:5DB2dJ3Sことだがさん、反論が出来ずに悔しくてコピペ連投w
273 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:10:32.65 ID:iJjGSCJj
だがさん=ツブサワ説を言ってみる
274 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:31:50.93 ID:Ti6xhGDY
>>273 シブサワだったら信長否定まではせんだろう
そもそも武田信玄から見て信長は、同盟者でありまた勢力を競い合う敵でもある
そんな奴を馬鹿にすれば、相対的に信玄の評価も落ちるからな
ただえさえ信玄は、結果的に信長に攻撃をしかけ、信長を倒せずに死んだ
信長と違って「重視していなかった」理論も通用しないのが痛い
275 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:36:21.64 ID:5DB2dJ3S
信長なんて瞬殺したじゃん
上村合戦東美濃攻防戦三方が原。
276 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:37:08.74 ID:Ti6xhGDY
どの戦いにも信長いないじゃんw
277 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:37:54.27 ID:XxEugihk
www
278 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:39:05.26 ID:5DB2dJ3S
姉川は信長出陣した戦。
姉川から徳川>>>信長なので
信長より強い家康がけ散らされてるから問題なく武田は織田より圧倒的に上とわかる
というか信長出陣したほうが圧倒的に負けが込むしむしろいない状況で勝ったなら
いる状況なら100%武田の勝ちといっていい
279 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:40:00.90 ID:Fp7ZibUH
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけで
史実では武田に滅ぼされ滅亡する事が確定だった信長
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
280 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:40:37.03 ID:Ti6xhGDY
徳川>>>>信長なら家康はとっくに信長に反旗ひるがえして美濃尾張分捕ってる
志賀の陣の時も信長に援軍出さずに信長攻撃して領土取っている
281 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:42:59.28 ID:5DB2dJ3S
わざわざ同盟組んだのになぜ翻す必要あるんだよアホw
282 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:45:25.80 ID:Fp7ZibUH
そもそも家康って今川に深い恨みがあって織田についただけでしょ
三河物語に書いてるし
>>徳川>>>>信長なら家康はとっくに信長に反旗ひるがえして美濃尾張分捕ってる
>>志賀の陣の時も信長に援軍出さずに信長攻撃して領土取っている
これと同じ論法なら
信長>家康なら信長はとっくに家康を見限って三河遠州分捕ってるとか
朝倉に攻めかからずに徳川に攻めかかってるとか同じレベルのアホな論法だなw
283 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:45:33.94 ID:XxEugihk
ahohaomaeda
284 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:45:42.95 ID:Ti6xhGDY
徳川>>>>>信長ならわざわざパシリ同然の援軍なんて引き受ける必要ないだろ
武田侵攻してきた時にでもさっさと武田に寝返って一緒に信長攻めようとでも言えばいい
大体武田領より織田領の方が広大なんだから織田が雑魚ならさっさと攻め取っている
285 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:47:26.19 ID:Ti6xhGDY
今川に深い恨みがあるwwwwww
三河の領主として世話もしてもらい、今川の養女まで嫁にくれた今川に深い恨みwwww
大体家康の父親と祖父は両方とも織田の唾付いた連中に殺されているじゃんよwww
そんな織田に家康は恩義でも感じていたのか?w
286 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:47:57.39 ID:5DB2dJ3S
婚姻まで組んで同盟結んでるのに信義たがえるような事は武士にあるまじき行為。
大久保もちゃんとそう書いてる。
つうか同盟組んでるんだから援軍ぐらい出すのが筋。北条と武田も相互に援軍出し合ったりしてるし
助け合ったり敵を一緒に叩いたりするのが同盟関係
287 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:48:29.46 ID:5DB2dJ3S
288 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:49:32.94 ID:Ti6xhGDY
>>286 北条と武田なんてろくすっぽ同盟関係維持できてねーじゃんw
今川攻めたらあっさり北条に破棄されて、氏康死んだらまた復活させて、
御館の乱の時にまた破棄されてと信義のしの字もねーじゃんw
289 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:51:10.63 ID:5DB2dJ3S
同盟期間中は基本仲よくしてるし
両家の同盟決裂時は不利益しかもたらしていないし
三方が原でも謙信の関東出兵の時でも相互に援軍出したり助け合う重要な関係なのが北条武田同盟
290 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:53:58.79 ID:5DB2dJ3S
織田厨の論法全般に言えることだが
徳川>>>>信長なら家康はとっくに信長に反旗ひるがえして美濃尾張分捕ってる
志賀の陣の時も信長に援軍出さずに信長攻撃して領土取っている
こういう論理的のつながりのないアホな論拠で反証しようとする馬鹿なレスが多すぎる
徳川が織田を自分より強い(国力ではなく戦が)から攻めなかったと思ってたとかそんな史料あんのか?
291 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:55:21.65 ID:Ti6xhGDY
家康の織田援軍なんて思いっきり不利益じゃんw
しかも信長上洛から姉川志賀陣と来る戦来る戦家臣の如く扱われる家康www
「今川に深い恨みがあった」として寝返っておきながら、
織田には家臣同然の扱いを受けても恩義を感じる家康wwww
292 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:56:46.32 ID:Fp7ZibUH
織田厨の論法の真似
信長>>>>>斉藤龍興なら幼君で分裂状態の斉藤など2年で瞬殺できた
信長>>>武田なら圧倒的大軍で武田など信玄時代ですぐに瞬殺可能だった
信長>>>家康なら姉川で大軍朝倉相手を徳川に任せる必要もなく滋賀の陣でも援軍などいらなかった
信長>>>上杉なら上杉の自壊を待つまでもなく即効で圧倒的大軍で北陸出兵し1年で瞬殺可能だった
293 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:57:12.37 ID:Ti6xhGDY
>>290 戦国時代に相手が雑魚なら攻め取るのは当然のことだろ
おまえの大好きな武田信玄は今川義元が死んだ後嬉々として駿河を取ったじゃん
今川の方が国力も高いのにおまえの理屈なら信玄は永遠に駿河攻めできないぞ?
戦が弱くても国力に勝る敵には絶対手を出さないんだよな?w
294 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 17:58:58.84 ID:5DB2dJ3S
信長>>>>武田なら朝廷権力に頼ったり甲江同盟反故の騙まし討ちをする必要などなかった
信長>>>>本願寺なら朝廷にたよって和解しなくても即効で瞬殺可能だった
295 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:00:02.55 ID:5DB2dJ3S
>>293 今川義元が死んでから信玄の駿河攻めまで何年あると思ってんだアホ
296 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:02:17.35 ID:Ti6xhGDY
基地外アスペは相変わらず捏造だらけだなw
斎藤は60万石近くあるし志賀陣の家康は完全にパシリだし(そもそも織田VS浅井朝倉で徳川は蚊帳の外)
上杉武田は敵を多く抱える信長が畿内政策を優先しただけ
というか武田厨は戦がどんなに雑魚な相手でも国力が劣っていれば戦争はせんのか
生涯自分より上位の連中に直接対決しなかったチキンな信玄の薫陶をよく受け継いでいるw
297 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:04:33.20 ID:Ti6xhGDY
>>295 たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
ただそれだけのこと
298 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:07:18.19 ID:5DB2dJ3S
>>斎藤は60万石近くあるし
信長はチート57万石&斉藤は美濃54万石だが幼君でクーデター騒ぎ・寝返りだらけでろくに抗戦する勢力なしで
次々抵抗せずに降伏してる
>>志賀陣の家康は完全にパシリだし(そもそも織田VS浅井朝倉で徳川は蚊帳の外)
パシリだろうがなんだろうが信長が家康より強いならこなくても十分瞬殺できる国力はある
>>上杉武田は敵を多く抱える信長が畿内政策を優先しただけ
織田の国力は上洛時ですらすでに200万石超えるチート勢力。敵なんて雑魚の小勢力しかいないから
信長が武田や上杉よりつよければ圧倒的大軍で瞬殺可能
>>というか武田厨は戦がどんなに雑魚な相手でも国力が劣っていれば戦争はせんのか
武田→上杉北信濃連合、信濃連合+山之内上杉
北条今川連合、徳川織田連合など格上でもガチンコで戦挑みまくり
299 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:09:31.08 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
300 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:11:13.02 ID:Ti6xhGDY
斎藤の自滅はただ斎藤が統御できない幼君+器量不足だっただけで信長のせいじゃない
信長は現時点で家康を上回っているんだから家臣同然に扱って自軍の水増しをはかっただけ
そもそも上洛時の話をすれば浅井朝倉が約60万石、三好も同程度の石高があるし
わざわざ武田みたいなド田舎攻めても得られる土地は少ないだけ
山内上杉なんて北条にすらボロクズに敗れる雑魚中の雑魚だし
武田が上杉に挑んだ頃は謙信はまだ越後統一したばかりで信玄の下
今川は義元死んで一気に雑魚化し、北条が加担したのは今川の後
織田は所詮徳川に援軍送っていつもの如く徳川をパシリに武田と緩衝材にしているだけ
301 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:11:47.85 ID:5DB2dJ3S
つうか弱いとこから狙ってくのが本当なら
信玄は今川の次徳川や織田を狙って侵攻したから
織田徳川は北条より弱いことになるんだがw
302 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:14:02.62 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
303 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:14:42.08 ID:5DB2dJ3S
上洛時を言うなら浅井は、味方だし
朝倉攻めるより即効で武田攻めればいいだけじゃん
朝倉攻めたら浅井に離反されたし
武田領国は当時で上野信濃甲斐で越前一国よりは大きいし朝倉攻めの年なら
駿河攻めも完了
304 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:14:48.52 ID:Ti6xhGDY
>>301 信玄が今川の次に狙ったのは北条だろ
三増峠をもう忘れたのか?
305 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:15:44.77 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
306 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:16:22.36 ID:Ti6xhGDY
>>303 潰しやすい朝倉から先に攻めた
京にも近く近距離で維持しやすい
わざわざ辺境の利に見合わない戦争をするよりも
すぐ目の前にある利ばかりの土地を信長は優先して狙っただけ
307 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:16:54.74 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
308 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:17:13.80 ID:5DB2dJ3S
>>304 武田の目的が北条領国席巻ではなく単なる牽制だったのは信玄の即時の撤兵から明らか。
つうかその後も延々と北条と戦争してればいいだけ。徳川や織田に喧嘩ふっかける必要なし
309 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:18:06.99 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
>>306 根拠なし。
武田より弱いから攻められなかったと解釈するのが妥当
310 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:18:32.93 ID:Ti6xhGDY
>>308 氏康が死んでヒヨった北条が武田に和議を申し入れたから取りやめただけ
311 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:18:47.75 ID:5DB2dJ3S
織田厨の論法の真似
信長>>>>>斉藤龍興なら幼君で分裂状態の斉藤など2年で瞬殺できた
信長>>>武田なら圧倒的大軍で武田など信玄時代ですぐに瞬殺可能だった
信長>>>家康なら姉川で大軍朝倉相手を徳川に任せる必要もなく滋賀の陣でも援軍などいらなかった
信長>>>上杉なら上杉の自壊を待つまでもなく即効で圧倒的大軍で北陸出兵し1年で瞬殺可能だった
信長>>>>武田なら朝廷権力に頼ったり甲江同盟反故の騙まし討ちをする必要などなかった
信長>>>>本願寺なら朝廷にたよって和解しなくても即効で瞬殺可能だった
312 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:19:26.48 ID:5DB2dJ3S
>>310 だからそれを受け入れる必要ねえっていってんだろうが。
弱いほうから攻めるんだろ?
313 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:19:26.92 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
武田より弱いから 攻める気が一切ないなら長篠の戦いは発生しない
314 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:19:49.69 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
315 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:20:38.21 ID:5DB2dJ3S
信長>>>>>斉藤龍興なら幼君で分裂状態の斉藤など2年で瞬殺できた
信長>>>武田なら圧倒的大軍で武田など信玄時代ですぐに瞬殺可能だった
信長>>>家康なら姉川で大軍朝倉相手を徳川に任せる必要もなく滋賀の陣でも援軍などいらなかった
信長>>>上杉なら上杉の自壊を待つまでもなく即効で圧倒的大軍で北陸出兵し1年で瞬殺可能だった
信長>>>>武田なら朝廷権力に頼ったり甲江同盟反故の騙まし討ちをする必要などなかった
信長>>>>本願寺なら朝廷にたよって和解しなくても即効で瞬殺可能だった
316 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:20:38.28 ID:Ti6xhGDY
>>312 受け入れて家臣同然に使い潰してなし崩しに支配させるだけ
事実信玄は同盟したばかりの北条勢をさっそく自分の侵略戦争に一部駆り出させている
北条がヒヨったままあわよくば家臣同然に使ってやろうと信玄も考えていただけ
317 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:21:27.22 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
基地外アスペが反論できない事実w
318 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:22:16.25 ID:5DB2dJ3S
>>316 んでお前の主張する信玄の考えとやらを証明する史料か論文は?
いつも妄想ばかりしていないでちゃんとした史料なり論文なりだせ
北条は武田に屈服なんてしてねえよアホw
謙信の関東侵攻に援軍送ったりしてるんだがw
319 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:22:43.28 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
320 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:24:39.07 ID:Ti6xhGDY
>>318 信玄が北条勢の一部を全く関係のない自分の侵略戦争に駆り出した
これで証明終了
別に今すぐ服従させる気はないから北条が浮気して謙信と密にするのはありうる話
事実徳川も織田に家臣同然にされた後迷った行動もとっている
だが最終的に徳川は織田から離反せず、北条は武田から離反した、それだけ
321 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:25:14.49 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
基地外アスペが反論できない事実w
322 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:26:26.59 ID:5DB2dJ3S
>>320 同盟でも援軍くらい出すから全く根拠なし(謙信の関東遠征に信玄や勝頼は北条に援軍出したりしてる)
下三行は論拠も何もないお前の単なる妄想なので読む価値すらなし
323 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:26:43.75 ID:5DB2dJ3S
>>たった7年しかないし結局攻め滅ぼしたことに変わりはない
信玄は今川に同盟持ちかけたけど今川側が破棄してきたから当たり前
>>期間が経てばチャラになるとでも言う気か?w
お前の論理(弱いとこからせめてく)なら義元死後上野など放置して速攻で駿河狙うのが道理
>>信玄が苦戦した上杉を避け、息子ぶっ殺してまで戦争の弱い氏真を狙った
息子殺しと今川攻めは関係なし
324 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:28:56.55 ID:5DB2dJ3S
信長>>>>>斉藤龍興なら幼君で分裂状態の斉藤など2年で瞬殺できた
信長>>>武田なら圧倒的大軍で武田など信玄時代ですぐに瞬殺可能だった
信長>>>家康なら姉川で大軍朝倉相手を徳川に任せる必要もなく滋賀の陣でも援軍などいらなかった
信長>>>上杉なら上杉の自壊を待つまでもなく即効で圧倒的大軍で北陸出兵し1年で瞬殺可能だった
信長>>>>武田なら朝廷権力に頼ったり甲江同盟反故の騙まし討ちをする必要などなかった
信長>>>>本願寺なら朝廷にたよって和解しなくても即効で瞬殺可能だった
325 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:29:16.06 ID:Ti6xhGDY
>>322 防衛戦争の援軍と侵略戦争の援軍は全然違う
侵略戦争の援軍は本来同盟相手には必要のない戦い
必要のない戦いで向こうの都合で勝手に軍を派遣するという
強権的な行動を認めさせられている事実
妄想基地外乙
日本語も読めない人間にスレにいる価値はない
326 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:30:22.74 ID:Ti6xhGDY
今川から破棄 根拠なし&謙信を避けて氏真を狙う理由の否定にはならない
上野を放置すべき 上野は氏真以下の雑魚である上杉憲政が統治する場所
あの一帯で一番雑魚な上杉憲政が真っ先に標的にされただけ
息子殺しと今川攻め 武田の外交政策に苦言を呈した息子を斬ったのは事実
上杉謙信相手の時はこんなことなかった
武田厨は戦がどんなに雑魚な相手でも国力が劣っていれば戦争はせんのか
生涯自分より上位の連中に直接対決しなかったチキンな信玄の薫陶をよく受け継いでいるw
327 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:32:34.67 ID:5DB2dJ3S
浅井長政が織田を裏切ったのも
別所や荒木や松永や明智が織田を裏切ったのも
織田が弱いから。(弱くなければ織田についたままの方がよい)
寺崎や石黒や小寺や赤松や朝倉景健や本願寺や足利義昭やその他諸々の連中が織田を裏切ったのも
織田が弱いから。
以上で証明終了
328 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:33:19.51 ID:Ti6xhGDY
全員織田に敗れて滅ぼされている
329 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:40:04.50 ID:5DB2dJ3S
>>328 そりゃ簡単。国力・兵力が20倍くらい違う蟻と恐竜の物量の差で決着がついただけ
>>325 滋賀の陣→浅井朝倉が攻撃方
勝頼が出陣した関東出兵→北条の関宿・小山・里見攻撃に対し謙信が関東諸侯の要請に応えただけなのであくまで北条が攻撃側
330 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 18:44:47.36 ID:5DB2dJ3S
浅井長政が織田を裏切ったのも
別所や荒木や松永や明智が織田を裏切ったのも
織田が弱いから。(弱くなければ織田についたままの方がよい)
寺崎や石黒や小寺や赤松や朝倉景健や本願寺や足利義昭やその他諸々の連中が織田を裏切ったのも
織田が弱いから。
以上で証明終了
331 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 19:09:29.51 ID:Ti6xhGDY
全員織田に敗れて滅ぼされている
そもそも物量を揃えるのも実力なのに何を言ってるんだ
武田信玄は一騎打ちで全ての戦争に勝ったのか?w
志賀の陣なんて攻撃方防御方がコロコロ変わっている
浅井朝倉が攻撃方だった時なぞほとんどないが
関東出兵だって大部分北条が領する領土に謙信が介入してるんだから北条が防御方になりうる
332 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 19:16:15.35 ID:G/VrVj1f
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
歴史捏造大好きなID:5DB2dJ3Sことだがさん、証明マダー?
333 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 19:30:59.35 ID:5DB2dJ3S
>>331 物量を含めての強さと物量とは別の将の能力は切り離して考えるべき
ゲーム的に能力(統率や知略)は同じ兵数同じ装備同じ条件を与えられた時発揮できる戦闘能力の高さの事だし
現実でいっても同じ能力の物同士が100対10なら百パー100の方が勝つに決まってる
そもそも
>>274>>278など将の能力の話で物量の事ではないので
同数同装備同条件で比べるのが当たり前
>>浅井朝倉が攻撃方だった時なぞほとんどないが
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
334 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 20:14:47.95 ID:EiAwcJLr
>>333 物量と強さは同意
信長は戦上手ではないけど物量確保に関しては天才だと思うが
ゲーム内で表現できないのが痛いね
335 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 20:19:10.64 ID:EiAwcJLr
それと、信長は雑魚ワラ系の方針をとっていた節があるから
単純に配下含めて勝った負けただけで判断するのは少々酷かもしれない
それでも本人が戦上手だとはおもわないが
336 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 20:41:42.69 ID:CT/wKbJ4
戦上手なんて物量の前には屁みたいなものなわけだ。実際問題。
337 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 22:08:36.26 ID:m96/Yw0a
>>335>
>>336 同意信長とその家臣の統率は高すぎるな
織田の統率武勇を半分にして
信長が支配する拠点の金銭、兵糧、募兵の収入が
倍になる補正にすれば史実に近くなる
338 :
名無し曰く、:2013/02/15(金) 23:18:47.79 ID:lEskFQtJ
信長の統率は戦国で頭一つ抜けてる
次作で100以上のネタ武将達は伝承モードの数値にしてくれ
339 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 00:24:02.74 ID:2zAki9hh
大軍を率いて、大敗しまくりの織田信長が、統率100ってことは上限255か。
340 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 00:36:55.92 ID:zzmO8WV1
???
341 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 01:35:38.96 ID:2zAki9hh
天下をとったから、統率が一番高いと思い込む、結果論者がよく言うセリフ。
↓
物量を用意できる信長の統率は高い(キリッ
物量は国力の問題です。織豊厨は意図的に、国力で評価するべき事を、統率に還元しようとするけど。
342 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 01:46:16.01 ID:zzmO8WV1
その国力を育て上げたのは類まれなる統率力です本当にありがとうございました
343 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:00:23.65 ID:f8JAooPv
信長は雑魚すぎ
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
344 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:01:07.97 ID:f8JAooPv
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け。結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
345 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:01:35.98 ID:f8JAooPv
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
346 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:02:03.41 ID:f8JAooPv
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
347 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:02:28.78 ID:f8JAooPv
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討
348 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:04:21.23 ID:2zAki9hh
信長が貧国を富国にした例はないw
先祖が作った経済力を基盤に、、古代から各地域から収奪し、富や技術の蓄積があったが、
まともな戦国大名がいなかった畿内に侵攻しただけ。
仮に国力を育て上げたのなら、政治力に還元されるのであって、統率力ではない。
本当に頭が悪いんですね。
349 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:06:43.64 ID:f8JAooPv
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
350 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 02:07:09.70 ID:f8JAooPv
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
351 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 03:23:24.74 ID:NzLbdExf
妄想はその辺にしといて次行こう、ID変えて自演するコピペ馬鹿に付き合ってたってしゃあない
352 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 04:28:02.13 ID:n+TSwZtj
上杉謙信の女説以外に義に厚く騎馬隊を手足の様に扱う車懸りの陣の軍神説
武田信玄は慈愛の名君で謀略戦略にも優れ川中島で一騎討ちした風林火山説
独自技術をユーザーにAI禁止で有無を委ねる位なら
アホみたいな能力値も伝承は信じないの一手で態々編集させるなよ
353 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 04:41:01.22 ID:FgpNmn33
直江兼続と伊達の片岡さんは統率盛りすぎだよな片岡さんは知略上げてもいいけど
直江に関しては過大だわ景勝も謙信の養子補正で統率武力がかなり補正されてる気がする
354 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:06:04.93 ID:f8JAooPv
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
355 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:07:23.51 ID:f8JAooPv
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
景勝>>>>>柴田(織田家トップ格)
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
356 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:08:08.29 ID:f8JAooPv
御館の乱で天正8年まで国内で武田北条伊達蘆名を敵に回しての家中2分の内戦で争ってる間に
圧倒的大軍と地元諸将の調略で火事場泥棒しただけだし
内戦終結する天正8年半ばから2年ろくに進めてないのが実情
ちなみに柴田軍は前田の史料とかだと45000もの大軍で上杉は5000程度。
どうみても景勝>>>>>>>>>柴田(織田家トップ格)
しかも下越で新発田も敵で伊達・蘆名もそれを後援。いかに上杉が圧倒的不利な状況にもかかわらず
敢闘していたかがわかる
普通なら1か月くらいで滅んでおかしくない兵力比と状況だからな
357 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:10:07.80 ID:X64FHHOO
>>349-350 結局信長って地理的条件や周辺状況や運がチートクラスに良かっただけだよな
358 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:13:34.59 ID:X64FHHOO
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を浅井に向かわせ協力を取り付けたおかげで
やっと近江からの軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は中濃・西美濃の調略に成功し
10年に美濃を奪うことができたくらいの下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)8月滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが神戸氏への支援として関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒・伊勢水軍・志摩水軍に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反。
さらに北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局、戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝を与えて縁戚化させるしかなかった。
なんせ12年春には安濃津城前面まで来ながら信長は逃走してる。
そして織田方になった北伊勢の者どもを利用して調略や仲間割れを煽り
長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏の家中を疑心暗鬼にさせて暗殺や内紛を引き起こさせ
長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として渡し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して北畠は木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の関・神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
滝川三郎兵衛が九鬼を買収し志摩水軍を北伊勢反北畠連合側に寝返らせる。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔がやっと和睦に同意し
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
359 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:27:21.89 ID:lgNutaUa
結局家を乗っ取られるんだからお笑いにもならんなw
木造なんて元々北畠に刃向いまくってるしw
360 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:32:10.00 ID:f8JAooPv
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる
361 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 06:42:07.63 ID:FgpNmn33
ほんと上杉と武田のことになると分かりやすいなw長文コピペ
362 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 07:10:05.09 ID:lgNutaUa
滝川雄利の独裁(キリッ
木造氏の乗っ取り(キリキリッ
具政が北畠を乗っ取りたいなら自分が家督継げよw
信雄も一緒に殺す簡単なお仕事を信長にビビってできなかっただけじゃんw
363 :
名無し曰く、:2013/02/16(土) 08:52:55.55 ID:7wt03ivN
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
>その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
>一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
歴史捏造大好きなID:f8JAooPvことだがさん、証明マダー?
364 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 05:27:47.03 ID:sIYWEw61
もしかしてだがさんって出身が信玄の地元なのかなそんなに好きなのって
365 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 05:49:23.46 ID:EZ3zFjfp
大河ドラマの武田信玄で度ハマりして、その後流行った信長を毛嫌いしている説が濃厚
366 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 12:18:43.59 ID:aAJhY6Lf
真如苑の信者
あそこは山本勘助の子孫を自称し
勘助に導かれた信玄こそ戦国最強でその教えを再現するんだと
367 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 12:35:22.62 ID:aAJhY6Lf
勝頼は教えを守らず家を滅ぼした無能って
中学までは普通だったのに……
368 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 13:55:48.02 ID:w99rbYCa
信玄が中途半端に織田と敵対して死んだせいで
遅かれ早かれ武田は滅びる運命だった
勝頼は長篠でそれを早めたと思うか
よく持った方だと思うか
369 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 14:31:13.59 ID:EZ3zFjfp
信玄は織田に喧嘩売りっぱなしで死んだからな
北条は氏康が死ぬ前に武田と和睦しろなんて遺言を残していたそうだが
信玄は所詮独善的で身勝手な当主ということだな
370 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 16:17:41.90 ID:Lm3aiFDk
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけで
史実では信玄に滅ぼされ滅亡する事が確定だった信長
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
371 :
名無し曰く、:2013/02/17(日) 17:53:39.30 ID:EZ3zFjfp
4万の軍勢から8000の信長兵は自領を損なわずに和議まで行ったのか、すげぇ
372 :
名無し曰く、:2013/02/18(月) 10:46:43.16 ID:zMufplp1
373 :
名無し曰く、:2013/02/18(月) 11:07:14.36 ID:EWkE7Q4O
結局、小田原を奪えなかった謙信
結局、信濃を守れなかった謙信
結論
北条>武田>>>上杉
374 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 07:59:01.17 ID:fuG4qDNZ
そもそも信玄の過大って家臣の能力吸ってるってのもあるんだよね
しかも家臣も当主の能力を多少吸って過大になってるから始末に負えない
なんで息子にクーデター寸前まで追い詰められたりあんだけ散々に村上に裏かかれまくった信玄の智謀があんなに高いんだよ
外交も悪手だらけなのにあんなに政治高いし
375 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 11:27:24.29 ID:fmN9ohQG
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
376 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 11:28:17.88 ID:fmN9ohQG
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
377 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 11:31:14.25 ID:fmN9ohQG
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
378 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 11:34:19.60 ID:fmN9ohQG
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
379 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 12:04:51.43 ID:21H9lNoE
信長 → 勝頼 信長:信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので勝頼は油断ならない」
勝頼 → 信長 勝頼:信長をナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してた
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田は所詮田舎っぺの雑魚じゃんw
380 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 20:05:55.42 ID:HuF60RYe
>>363 俺はコピペ爆撃基地外チョンの味方はしたくないが、
原文を書いたのは俺だから一応、ソースは提示しておく。
勝山記という日記に「この年信州村上殿、8月塩田の要害(上田市)を退き
行方知らずに御なり候。1日のうちに要害16落ち候」って書いてる。
この記録した人は村上にちょっと好意的なんだな。
ちなみに有名な「世間の福貴候ことは、先代(信虎)には無かったことだ」と
晴信を賞賛して書いてあるのは、この翌年の記事。
俺のレスを勝手にコピペして使うのはかまわないが、基地外朝鮮人のアンチ秀吉・アンチ石田意見を
紛れ込ませて、俺を朝鮮人みたいに思わせる工作やめろや。
そもそも戦国板は一次史料重視でも構わないが、ゲーム板は講談逸話重視で
いいだろが、ちゃんと住みわけくらいしろやカス
だがとかしょうもないレッテルをあちこちで持ち出して荒らし回って馬鹿すぎだろ。
ついでに俺がコピペ厨と別人なのを証明しとくか。
>>344のレスだが、にちに俺は改変しとるのも基地外は知らんらしい。次回から下記を追加しとけノロマチョン
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←【【NEW】】
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
あと
>>345から347までのレスは他人のレスで俺のレスのコピペじゃねーからな。
あとな、俺は不等号とかアホみたいなもんで順位書いたりしねーから。
織田チョンが俺を無差別爆撃コピペ基地外イメージをつけようと必死に工作してるのばればれだから。
381 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 20:42:50.05 ID:0xiv2axH
>>380 久々の本人か
当時のレスしたのがあんたかあんたもどきだったか分らんがそいつはその前後のレスで
>144 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 21:42:17.10 ID:7iLskUjv [2/4]
>(彼の頭の中では)調略もガチだそうです
>その調略も信玄は手を出してないけど(彼の頭の中では)信玄のおかげになっているようです
ってレスに対して
>147 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 22:10:12.35 ID:LSjSIdYK [9/11]
>
>>144 >調略ってか普通に村上方堅固な拠点は信玄によっておとされまくってるわけだが。
>しかも信濃はキツイ山ランキングトップクラスの最強クラスの山城ばかりなのに
なんて言ってるんだよ
調略もせず一日で16の城を落としてるなんつってるんだから補正かけすぎにも程がある
>>380でお前さんの言ってる意味のように妙法寺記の内容から取るにしても
調略で奪取された後ふたたび取り返した後、信玄が大軍を率い砥石城を落とすことに成功すると次々に叛意を起こし北信濃における主導権を握った
って解釈するのが妥当
382 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 21:19:47.48 ID:mhSlVspr
ますます信玄のしょぼさが浮き彫りになったな
383 :
名無し曰く、:2013/02/19(火) 23:01:19.67 ID:21H9lNoE
もともと諏訪村上小笠原+義元死んだ今川しか倒せなかった雑魚だからな
基地外だがはこんな雑魚を盲信した挙句、なぜか信玄最強が
織田厨の手によるものだと見え見えの大嘘をのたまうんだから、そりゃ基地外と言われる罠w
384 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 00:45:31.71 ID:23QQu/4v
諏訪村上小笠原木曽ら信濃諸将+山之内上杉・長尾連合に打ち勝ち信濃奪取
上野も同様に攻略、北条+今川連合から駿河奪取
織田・徳川連合から奥三河・遠州の大部分・東美濃攻略
一方織田は弱体化しきった幼君で分裂状態の斉藤に蹴散らされまくり
内訌・分裂状態の伊勢攻略で2回も大敗し三回目は餓死寸前の一揆勢数百に騙まし討ちで一門10人以上殺される大失態
国力4分の1くらいの浅井朝倉連合に押されまくり滅亡寸前まで追い込まれる有様
385 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 05:23:14.35 ID:YNvKmxBU
信玄の合戦能力とかちょっと四天王を馬鹿にしてるよな
386 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 07:07:32.94 ID:83MztUH3
ノブヤボの戦国時代に出てくる大名で一番戦闘指揮の機会が多かった大名って
誰になるんだろ?やっぱり信長かな。包囲網の時なんか一年中戦ってた感じがする
兵士も戦闘に明け暮れてるから熟練度上がったろうな。レジェンド枠だと
長尾為景とか凄い戦闘回数だけど
387 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:18:28.02 ID:C+omd33A
信長か秀吉だろ
単純に合戦回数が多い
家康も大概だけどこの2人にはかなわん
>>383 大嘘乙w
浅井朝倉は都合60万石の大勢力w
山内上杉とか前年北条氏康にタコにされてズタボロの弱小勢力w
388 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:23:12.60 ID:zppg69Xm
秀吉は指揮経験は多いけど直接的な勝利は大名時代になるとそれほど多くも無いよね
389 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:25:13.54 ID:C+omd33A
そんなに少ないか?
引き分け同然なのって小牧の対家康、対信雄くらいだし
四国征伐は不参加だけど、
対明智光秀、対柴田勝家、対島津義久、対佐々成政、対北条氏政で
十分すぎるくらい勝利あると思うけどな
390 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:32:32.68 ID:23QQu/4v
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
391 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:33:29.34 ID:23QQu/4v
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
392 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:34:03.08 ID:23QQu/4v
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>243 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
393 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:34:36.75 ID:23QQu/4v
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
394 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:35:14.16 ID:23QQu/4v
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
395 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:43:03.70 ID:CSUG5vtW
氏政・輝元・信雄は戦国屈指の雑魚武将だが
こいつらにぼこぼこにやられまくったのが秀吉
氏政相手に7.5倍の兵力で挑みかかって緒戦の駿河伊豆国境の攻防で敗北
韮山300や忍1000に大苦戦し小田原1200に手も足も出ず
一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田が戦死し4ヶ月たって寝返りがボロボロ出る段階になっても自力で落とす展望は全く見えず
伊達や徳川に裏切られ勝つ展望がなくなった北条のヘタレ降伏に助けられただけ
熊見川では宇喜多や大友に蹴散らされまくる雑魚輝元に3000戦死の大敗。美作攻防では補井田元清に蹴散らされまくり
それまで宇喜多単体でも優勢に進めてきた美作・備中戦線は秀吉のために大きく後退
あげくのはてに伊賀攻めで醜態さらす雑魚信雄相手に135000の規格外の兵力で挑みかかって10000以上戦死の大敗
その後の攻防も二重堀・蟹江・松ノ木・浜田・東駒野・戸木・長久保・河波城攻防で敗北・逃亡する醜態っぷり
雑魚すぎてあきれるな
396 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:44:19.64 ID:23QQu/4v
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
397 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:47:28.09 ID:CSUG5vtW
>>387 当時の信長は尾張美濃伊勢の大部分南近江河内摂津の一部に加え大和や播磨・但馬の別所家も味方だし
普通に250万石クラスの大勢力だろ
浅井朝倉なんてハナクソみたいな国力
398 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:54:51.76 ID:23QQu/4v
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
399 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:56:57.72 ID:23QQu/4v
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
400 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:57:23.49 ID:23QQu/4v
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
401 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 11:59:01.84 ID:23QQu/4v
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、 此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで、悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
402 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 12:18:44.31 ID:CSUG5vtW
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
403 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 12:59:10.86 ID:C+omd33A
>>397 武田も大して変わらんだろw
甲斐22万石を領して信濃をその都度支配勢力を伸ばしてる
山内上杉なんて北条がボコった残党しかいないし信濃に手を出したのは最後の気休め程度
浅井朝倉60万石を滅ぼすのに3年、斎藤龍興60万石を滅ぼすのに7年かかった信長に対して
信濃のド辺境、せいぜい30万石程度を切り取るのに10年かかった雑魚信玄
404 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 13:02:02.41 ID:C+omd33A
>>402 信玄の勝ち戦こそでっち上げの極みじゃんw
初陣からいきなり誰も落とせなかった城を落とすなんてふかしこいてるのは信玄だけw
しかも信玄がきたらあっさり落ちると言う此の上ないヨイショじゃんw
そんな嘘っぱちは信長ですら書かれていないのにヨイショ極まった信玄w
405 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:15:56.33 ID:23QQu/4v
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
406 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:19:36.23 ID:23QQu/4v
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
407 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:23:41.72 ID:CSUG5vtW
結局信長って火事場泥棒とラッキーで美濃泥棒しただけだよな
伊勢も南近江も河内摂津大和も似たようなもんだけど
408 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:28:40.25 ID:69bzBKgt
そんなに簡単に美濃が取れるなら信玄が先に取れば良かったんじゃないの?
謙信と不毛な戦いやってないでさ
409 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:32:23.78 ID:oXUjIx7/
>>408 分国や地方の統一のが優先される世の中なんで
ノブヤボ脳で考えないで欲しい
410 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:38:37.77 ID:CSUG5vtW
信濃から美濃って相当遠いし補給路も細長くなり奇襲かけられたら終り
しかも美濃攻撃したら上杉今川北条に加え織田徳川浅井朝倉が敵対勢力になりうるから維持するなんて到底無理
411 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:49:45.38 ID:C+omd33A
甲斐は太閤検地でも22万石なのに18万石とかデタラメ乙www
上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
大体武田信玄なんて信濃分捕ったころには織田は織田信秀死んでgdgd
徳川家康はまだ今川義元の家臣にすぎず、その今川は織田北条にやられまくり
上杉は雑魚上杉憲政が惨敗続き、北条は大軍相手にして疲弊しまくり、長尾は長尾景虎が越後統一したばかりの新興勢力
こんな有利な状況で上杉謙信と長々信濃の田舎を争った挙句、34歳の信長に総合領土をあっさり抜かれる信玄は雑魚w
412 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:50:15.54 ID:OYqZ0UGm
川越野戦自体捏造じゃんw
413 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:51:33.09 ID:oXUjIx7/
総合領土って言い方のダサささがツボった
414 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:52:59.71 ID:C+omd33A
河越夜戦の有無なんてさほど関係ない
夜戦があろうがなかろうが北条氏康にボコボコにされ領地から叩きだされた事実は変わらない
先祖の威光で領地をもっていただけで周りの戦国大名に惨敗しまくる雑魚にはかわらない
415 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:53:13.53 ID:OYqZ0UGm
実際、信長は負けてばかりだから感状自体ほとんどない。
416 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:54:12.13 ID:oXUjIx7/
>>414 ついでに勝頼の評価も書いて欲しいとこだわ
信玄叩くのなら案外ageられんのかやっぱsageられんのか気になるw
417 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:56:12.87 ID:C+omd33A
大体信玄の立ち位置なんて全国諸大名どこを見渡しても恵まれすぎ
薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長に三河在地勢力の息子徳川家康、
越後守護代の四男に生まれた上杉謙信に農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
しかも周りは雑魚か新興勢力しかいない武田の跡を継いで、100万石未満の領土しか広げられなかったのが雑魚信玄
418 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:56:39.07 ID:OYqZ0UGm
偽北条は古河公方を幽閉して専横してただけじゃん。
419 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 15:58:05.99 ID:C+omd33A
>>416 勝頼なんてどう見ても愚将でしょ
名門甲斐源氏武田家を滅ぼした時点で毛利輝元や織田信雄の方が数段マシ
挙句血迷って武田が強い織田が弱いと思い込んだ結果が長篠の惨敗であり武田征伐の内応劇
山が少し噴火しただけで武田滅亡の原因だと言い訳されるくらい武田の滅亡を皆望んでいた
420 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:01:53.51 ID:C+omd33A
>>418 古河公方が北条に好き勝手されるのって北条が実力つけた後じゃん
上杉憲政だって同じようなことやればよかったし、そもそも正当性なら山内上杉の方が上
結局北条に叩きだされるくらい山内上杉が雑魚だったからできなかった
421 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:13:04.06 ID:OYqZ0UGm
川越野戦は捏造。
山内上杉が衰退したのは
晴信が小田井原の戦いで14人もの敵将を討ち取り上杉憲政を大敗させたのがキッカケで、
関東諸将が自立してしまったからだろがアホ。
422 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:13:13.97 ID:69bzBKgt
423 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:19:03.80 ID:C+omd33A
>>421 小田井原なんてそれこそ河越以上に眉唾じゃん
あれがそのまま史実だったら関東諸将は自立なんてせずに武田信玄に従ってるよ
424 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:19:40.31 ID:OYqZ0UGm
そもそも山内上杉と今川にフルボッコされる寸前まで追い詰められた偽北条を助けて、
今川と和議を斡旋してやった大恩の主が晴信だしよ。
425 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:24:46.75 ID:C+omd33A
河越夜戦が捏造で小田井原の戦果が史実なら関東諸将は武田信玄に属するのが筋
上杉憲政は武田信玄にズタボロに負けてトンズラこいたことになるから関東諸将は信玄を頼るか
ズタボロにされて負けた上杉憲政を庇護した謙信を頼るのが筋
何の関係もない北条に従う理由などないし、信玄に属した関東勢がほとんどいないのも不自然
426 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:28:23.13 ID:OYqZ0UGm
>>423 ププっ相変わらず無知さらしてワロスwww
勝山記にちゃんと載ってるから事実だよ低脳。
浅間山の岳に陣取る上杉軍に攻め込んだ武田軍が、
名大将十四五人打取る、雑人三千ばかり討ち取るってね。
ほんとキチガイ織田厨って馬鹿過ぎて話にならんわ
427 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:29:00.18 ID:KPY/2NYV
zakosingen
428 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:30:03.02 ID:C+omd33A
>>422 だが理論なら織田信長は自軍の兵数が心許ないのに、なぜか味方の徳川家康を
救援するために大軍を派遣して三方ヶ原で大惨敗を喫する雑魚らしいからな。
野田城みたいな僻地でちんたら1ヶ月攻囲することなく一瞬で降伏させ、
1573年の3月頃には美濃へ侵入し信長をぶっ倒して怒涛の如き勢いで美濃を席巻できただろうな、だが理論なら。
429 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:31:46.32 ID:C+omd33A
>>426 勝山記って武田の史料じゃん
武田の史料で武田の史料を持ち上げるのは当然のことだろ
なんでそれが=史実になるんだ基地外
そんなことが言えるなら墨俣一夜城も史実だな
430 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:32:16.70 ID:C+omd33A
武田の史料で武田の史料を→武田の史料で武田を持ち上げる
431 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:32:23.72 ID:RjJ2xfqk
>>425 関東諸将が北条に従ったのは
氏康が古河公方を脅迫して関東管領を僭称したからだろ
432 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:36:10.40 ID:C+omd33A
>>431 本物の関東管領がいるのに嘘っぱちの関東管領に従うのか?
そもそも古河公方は名門足利家の人間なんだが好き好んで北条みたいな
成り上がり者に従って北条の傀儡同然になるわけがないだろ
433 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:37:39.49 ID:OYqZ0UGm
勝山記は日記であって、武田の史料じゃねぇよカス
434 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:40:09.92 ID:C+omd33A
甲斐信濃のことについて年代で書いてるんだからほとんど武田の史料じゃん
武田のことを捏造あるいは誇張して持ち上げるなんて全然考えられるし
そもそも1つの好意的な史料持ってきて「ここにこうあるから史実」なんて言い出したら
信長や秀吉なんて完璧超人になれるレベル
435 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:46:50.32 ID:RjJ2xfqk
>>432 河越夜戦と小田井原の戦果はどちらも眉唾物だが関東管領・上杉憲政の権威を著しく損ねたことは間違いあるまい
また扇谷上杉の著しい衰退によって、この頃の北条は古河公方に直接圧力をかけれる立地
436 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:50:01.67 ID:OYqZ0UGm
>>434 全然考えられる←日本語がおかしいぞ…なんだ頭がおかしい在日だったか…
437 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:54:01.81 ID:OYqZ0UGm
川越野戦はでっち上げの大嘘
小田井原は客観視出来る第三者による日記であるから一次史料だし。
別に武田に好意的でもねぇよ読まずに語ってアホの極みだな
438 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:54:18.30 ID:oXUjIx7/
その文法は特に間違いではない
439 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:57:16.31 ID:C+omd33A
>>435 上杉憲政の権威を失墜させたこと、上杉憲政を領土から叩きだしたこと
これは間違いなき史実であろう。問題はその規模と戦いの真偽性だけであってね。
小田井原は後詰を派遣すること自体は恐らく史実だと思うが、
「将を大量に討ち取った」「その首を志賀城の周りに並べかけた」は勝山記にしかないので、
正直嘘くさい。当時は戦国時代であるので、何もなしに上杉憲政が領土を捨てることはありえないのだが、
その過程と事例に吟味は必要だよ。
>>436 それが日本語だと思えないのなら君が在日側だよw
440 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:57:38.65 ID:RjJ2xfqk
>>435の続き
関東諸将からすれば頼りにならない馬鹿管領・憲政よりは古河公方を擁する北条のほうがマシという判断だろう
この判断は後に謙信の関東管領就任によって覆るがそれは別の話
441 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:57:45.88 ID:OYqZ0UGm
全然…否定なのに肯定する文章につながるわけねーだろw
自演乙www
442 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 16:58:53.64 ID:C+omd33A
>>437 河越夜戦が大嘘だということを先に証明すればいい
武田信玄にボロクズに敗れた小田井原を上杉憲政失墜の元凶としながら
なぜ何の関係もない北条に関東勢が組したか、も
443 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:01:05.64 ID:C+omd33A
>>441 本気でそう思ってるのなら手元の国語辞典で調べることを勧める
全然、は打消しだけでなく強調の意味もある。
444 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:02:40.53 ID:OYqZ0UGm
小田井原で上杉大敗し、関東諸将自立。
氏綱娘芳春院と婚姻してる古河公方を擁立した偽北条側に次第に近づいただけ
445 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:05:49.48 ID:C+omd33A
>>444 全然繋がってないじゃん。
局地戦1回負けただけで独立とか普通は起こらないし、
上杉憲政の権威が失墜したと言うのなら破った武田側に属するのが筋
あるいは敗れた上杉憲政を庇護した謙信に従うのが筋
そもそも名門足利家に連なる古河公方が婚姻関係だけで
北条の言いなりになるというソースは?
446 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:10:46.23 ID:OYqZ0UGm
>>445 お前はさっきから、まったく史料的裏付けも出さずに、
自分が思ったことをひたすら書き連ねて落書きを書いてるだけだよな?
いい加減、根拠ない妄想の垂れ流しはやめてくれないか荒らし君。
447 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:13:59.79 ID:C+omd33A
>>446 だって君が言いだしたことなんだから俺が史料的裏付けをする必要ないもの
俺「小田井原は局地戦、真に追い詰めたのは北条」
君「
>>421 川越野戦は捏造。 山内上杉が衰退したのは晴信が小田井原の戦いで14人もの敵将を討ち取り上杉憲政を大敗させたのがキッカケ」
だから
・河越夜戦がなかったこと
・河越夜戦がないのに、武田や上杉ではなく北条に関東諸将が従ったこと
・小田井原の戦果は、勝山記のように壮大なものであったかどうか
を証明する必要が君にはある
448 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:15:06.53 ID:RjJ2xfqk
>>445 議論で追い詰められるとソースソースと印象操作w
関東諸将が北条に与した理由は
>>431、
>>435、
>>440でも説明されてるだろ
武田には古河公方や関東管領という大義名分がないし、謙信の登場は
もう少し後の話
449 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:17:21.34 ID:C+omd33A
ちなみに、逃げ場をふさぐ意味でもう1つ言っておくと
まず
>>412で君(ID:OYqZ0UGm)が「川越野戦自体捏造じゃんw」と言っている
それに対して俺は
>>414は「河越夜戦の有無なんてさほど関係ない」と発言した。
つまり最初の悪魔の証明を俎上に挙げたのは、ID:OYqZ0UGm
450 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:18:41.70 ID:23QQu/4v
>>411 >>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ
>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄
451 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:19:56.74 ID:23QQu/4v
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
452 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:20:20.55 ID:CSUG5vtW
結局信長って火事場泥棒とラッキーで美濃泥棒しただけだよな
伊勢も南近江も河内摂津大和も似たようなもんだけど
453 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:20:53.60 ID:23QQu/4v
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
454 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:22:31.03 ID:23QQu/4v
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
455 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:22:32.10 ID:C+omd33A
>>448 肝心要が説明できていない。
・婚姻関係だけで、格下の北条に名門足利が傀儡化されたこと
・古河公方に圧力をかけられるようになった原因となった
>>435説にある、扇谷上杉の著しい衰退
・確たる関東管領上杉憲政がいるのに、関東管領を僭称した北条に従う理由
恐らく君は、それが河越夜戦によるものだと考えているんだろうし、
俺もそれに関しては同感でいる。だがID:OYqZ0UGmは、
>>412、
>>437で
「河越夜戦は捏造で、そんなものはない」と言った。そこからこの議論は始まっている。
456 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:23:43.42 ID:69bzBKgt
>>450 だからそんなに簡単に美濃が取れるなら信玄が先に取れば良かったんじゃないの?
お前の言う通りなら楽勝だろ?
457 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:23:46.28 ID:23QQu/4v
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
458 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:24:46.16 ID:23QQu/4v
459 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:31:55.32 ID:C+omd33A
都合が悪くなるとどうでもいいコピペで誤魔化そうとする、基地外たるゆえんだな
>>450 >>諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある
全員が共同して武田と戦ったわけではない、上杉が介入したのは小田井原だけだし長尾の介入もかなり後
>>全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城
ただの妄想
>>豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
それは急ごしらえの統治体制しかできなかった斎藤側の責任。自分の不始末を信長に帰させる無能乙w
>>周辺国は分裂・弱体化しきっており
三河:巨大勢力の今川義元が着実に介入
美濃:信長の義理の父親である斎藤道三が死に、斎藤義龍が国を纏める
伊勢:北畠氏を中心に諸勢力が団結
は?w
>>(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
堀秀政もさほど身分が高くなかったはずだが。
>>津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
同姓なんていくらでもいる
>>氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
>>417では農民や下級武士の息子と書いただけでそこまで書いていない、恣意解釈乙
460 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:32:53.77 ID:RjJ2xfqk
>>455 俺も河越夜戦は捏造で、そんなものはないと考えているぞ
そもそも河越「夜戦」は江戸時代の作者・成立年不詳の妄想軍記にし書かれていない
北条の遺臣が書いた北条五代記には昼間の合戦となってるし8000対80000という荒唐無稽な数字も書かれていない
461 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:35:48.41 ID:69bzBKgt
>>458 美濃をぶんどって本拠地にすれば補給も糞もないだろが
462 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:37:18.96 ID:C+omd33A
>>460 いや、捏造云々の記述レスは見当たらなかったけどな。
仮に河越夜戦がなかったとしたら、少なくとも扇谷上杉の衰退は意味不明になるのだが・・・
扇谷上杉の衰退は、通説では河越夜戦で当主の上杉朝定が討死したことによるものだと言うことになっているが、
「河越夜戦がない」というのなら、扇谷上杉の衰退理由はなんだ?
463 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 17:59:34.98 ID:RjJ2xfqk
>>462 そもそも河越城は氏綱が天文六年に奪取して以来、対上杉の最前戦
そこで戦いがあった事は否定しないが、それが8000で80000を撃退した河越夜戦とは別物だろうということだ
扇谷上杉はもともと相模・武蔵の殆どを有する大勢力だが、氏康が家督した頃には本拠、河越城を含む領土の大半を失っている
上杉朝定は氏綱の河越奪取時に死んだとする史料すらある
つまり河越夜戦の頃には衰退しきっていた訳だ
衰退の理由は両上杉の対立、長尾景春、氏綱などいくらでも有る
464 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:05:45.21 ID:23QQu/4v
>>ただの妄想
http://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html >>それは急ごしらえの統治体制しかできなかった斎藤側の責任。自分の不始末を信長に帰させる無能乙w
いや斉藤の責任どうこうの話ではなく斉藤側の状況(分裂状態・クーデター状況)で信長は運よく火事場泥棒的に美濃を手に入れただけという事
>>三河:巨大勢力の今川義元が着実に介入
義元→ウルトラスーパーラッキーパンチで死亡→家康独立・同盟で東の心配なし
それどころか滋賀の陣や姉川で活躍する有力同盟者確保
>>美濃:信長の義理の父親である斎藤道三が死に、斎藤義龍が国を纏める
義龍死亡→龍興幼君・分裂・クーデター騒ぎ
>>伊勢:北畠氏を中心に諸勢力が団結
北畠→木造氏をはじめ家中内訌で分裂
>>堀秀政もさほど身分が高くなかったはずだが。
重鎮丹羽長秀と同様の立場として永禄9年段階で信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場してる
>>461 んなことしたら敵が集中してる東国方面の計略がおぼつかなくなるどころか今川上杉北条などに集中砲火にあってアボーン
465 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:18:20.41 ID:C+omd33A
>>463 長享の乱や長尾景春の乱って河越夜戦から50年近く前だろ?
関東の両上杉や古河公方が内紛に明け暮れていても、
そこから北条に敗北、傀儡化されるのは北条の行動ありきだと思うけどな。
もちろん、通説にある北条が寡兵で大軍を破ったというのは疑問視されるところではあるが、
結局北条氏康の攻勢や軍事力は関係がなかった、とするのはさすがに無理があるように思える。
466 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:27:17.46 ID:C+omd33A
>>464 返答になってない
おまえはそもそも
>>450で「全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城」と書いたよな?w
おまえの出したサイトは、戦国期にあった城で、そこのサイト立ち上げ人が「行ったことのある」「山城限定」だろ
事実そこのHPのトップには「登山のキツかった山城ランキング」とあって、決して「堅城」だとは書いてない
>>信長は運よく火事場泥棒的に美濃を手に入れただけという事
余所から見れば万全の状態を作れていないのが斎藤にとっては可能な限り万全を尽くしたと言うだけ
火事場泥棒でもなんでもなく、ただ信長が正当な方法で美濃を奪取して統治しただけの事
火事場泥棒というのは稲葉山城乗っ取りみたいなことを言うんだ
>>義元→ウルトラスーパーラッキーパンチで死亡→家康独立・同盟で東の心配なし
>>それどころか滋賀の陣や姉川で活躍する有力同盟者確保
>>義龍死亡→龍興幼君・分裂・クーデター騒ぎ
>>北畠→木造氏をはじめ家中内訌で分裂
今川は信長自ら侵攻を跳ね除けた結果だしその他の勢力も勝手に崩れただけ
信長が家督を継いだ当初は、固く持ちこたえていた勢力。時を経て自壊しつつあったというだけじゃん
>>重鎮丹羽長秀と同様の立場として永禄9年段階で信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場してる
それ身分の高さに全く関係ないじゃん。信長が秀政を重用したということだけじゃん。
467 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:29:03.93 ID:RjJ2xfqk
>>465 俺は「関係がなかった」とか一言も言ってないわけだが
議論の追い詰められると
人のレスを曲解、捻じ曲げ、印象操作乙w
468 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:29:47.57 ID:KPY/2NYV
zakoieyasu w
469 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:31:20.99 ID:RjJ2xfqk
470 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:31:36.24 ID:23QQu/4v
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
471 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:32:43.16 ID:C+omd33A
>>467 それはただの感想だから無視してくれて構わん
472 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:33:39.74 ID:OYqZ0UGm
なんだ長尾能景に相模に乱入され、
頼みの早雲も熱海へ逃亡し、
結局、能景に川越城を包囲され
扇谷上杉が無条件降伏し、
決定的に扇谷が崩壊しているのも知らんのか無知織田厨は。
だいたい上杉朝定は病死した可能性が高いし。
朝定も憲政も22歳そこそこの素人若造だしよ。
473 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:37:03.04 ID:23QQu/4v
>>余所から見れば万全の状態を作れていないのが斎藤にとっては可能な限り万全を尽くしたと言うだけ
意味不明日本語で頼む
>>火事場泥棒でもなんでもなく、ただ信長が正当な方法で美濃を奪取して統治しただけの事
正等な方法も糞もない
完全に弱りきってる所を火事場泥棒して楽に手に入れただけ
>>火事場泥棒というのは稲葉山城乗っ取りみたいなことを言うんだ
ほとんど稲葉山乗っ取りとかわらんだろ攻めてったら勝手に降伏するものばかりでまともに抗戦することなくまんまと美濃乗っ取っただけだし
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかり。頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かった。
その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれた。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
474 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:42:00.21 ID:23QQu/4v
>>今川は信長自ら侵攻を跳ね除けた結果だしその他の勢力も勝手に崩れただけ
美濃が稲葉山城を家臣に乗っ取られたりする無能だったし
将軍奉公衆や甲賀衆や大和衆やそれに協力する一揆や本願寺や比叡山といった
諸勢力が三好軍を摂津や近江などで撃退したりと
敗北続きの信長に協力してくれたし、
天皇も決勝綸旨でバックアップしてくれたから
三好軍はあっけなく瓦解し信長は成功しただけだろ。
信長は他力で這い上がった挙句、増長し味方だった者はことごとく裏切られたと激
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからで
それ以前の今川はまったく衰退していないのも知らんでアホかよ。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っているのに無知晒すな。
それに信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし、
第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
>>信長が家督を継いだ当初は、固く持ちこたえていた勢力。時を経て自壊しつつあったというだけじゃん
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
信長は無能暴君DQNを遺憾なく発揮しまくり、失望した守役達は自決したり&謀反の連続で
英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
信玄が哀れんで信長を救う為に織田と同盟してあげ救助してやったのが史実。
>>それ身分の高さに全く関係ないじゃん。信長が秀政を重用したということだけじゃん
秀政ではなく秀吉の話だし領土安堵状は身分の低い者は基本出さない(出してる例はなく一定以上の階級の者だけ)
475 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:42:33.48 ID:C+omd33A
というか、追い詰められるも何も意味不明すぎるのだが
「河越夜戦なかった、捏造である」は、元々
>>412(ID:OYqZ0UGm)が言い出し、
俺は
>>414で、河越夜戦の有無はさほど関係がない、と信憑性を疑問視しながら、
それでも北条の躍進と両上杉の衰退は関係があるとしているのに、
>>421でさらに捏造説を強く主張
それにID:RjJ2xfqkが乗っかっている。
ID:OYqZ0UGmの「河越夜戦捏造説」は
・山内上杉が衰退したのは河越夜戦ではなく小田井原で信玄にボロクズに負けたから(
>>421 )
・山内上杉についていた家臣は、自立したのち古河公方を牛耳る北条氏に臣従した結果(
>>444 )
で、ID:RjJ2xfqkがさらに注釈をつけ
・氏康が古河公方を脅迫して関東管領を僭称(
>>431 )
・扇谷上杉の著しい衰退によって、北条は古河公方に直接圧力をかけれる(
>>435 )
・扇谷上杉が衰退した根拠に、両上杉の対立、長尾景春、氏綱を挙げる(
>>463 )
を主張したわけだが、名門足利家の古河公方が北条の圧力に屈した点も、扇谷上杉が衰退した根拠も不透明なまま。
ID:RjJ2xfqkはまだ現実的な主張をしているが、ID:OYqZ0UGmはそれこそ根拠なしのレベル
476 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 18:48:54.05 ID:C+omd33A
>>473 >>意味不明日本語で頼む
斎藤はアレで万全を尽くした状態だった
加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城はハナから斎藤が織田に勝てないと踏んで臣従した
火事場泥棒でもなんでもなくただの正当な奪取であり統治
火事場泥棒(かじばどろぼう)とは、火事で混乱した現場で窃盗を働くこと、または窃盗を働く者。
転じて、人々が混乱している中で利益を得ること、または利益を得る者。
美濃衆はほとんど誰も混乱してない、最初から織田に通じる連中が多かっただけだし、稲葉山乗っ取りの混乱は、斎藤自身が招いた自爆
>>英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
>>尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
>>信玄が哀れんで信長を救う為に織田と同盟してあげ救助してやったのが史実。
武田と織田の同盟は美濃攻めの中盤以降だし、当然義龍は死んでいる。
そもそも尾張半国を奪取されたソースは?w聞いても無駄だと思うけどw
>>秀政ではなく秀吉の話だし領土安堵状は身分の低い者は基本出さない(出してる例はなく一定以上の階級の者だけ)
だから秀吉も同じじゃん。信長が秀吉を重用して、織田家で厚遇した結果。
477 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:00:41.20 ID:RjJ2xfqk
>>475 >>460の河越「夜戦」は江戸時代の作者・成立年不詳の妄想軍記にしか書かれていない
北条の遺臣が書いた北条五代記には昼間の合戦となってるし8000対80000という荒唐無稽な数字も書かれていない
が抜けてるぞ
都合の悪いレスはスルーして印象操作かw
478 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:01:06.15 ID:23QQu/4v
>>加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城はハナから斎藤が織田に勝てないと踏んで臣従した
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかり。頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かった。
その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれた。
>>火事場泥棒でもなんでもなくただの正当な奪取であり統治
幼君・クーデター騒ぎ・飢饉や不景気・離反・降伏ばかりで抗戦せずに手に入れただけなので火事場泥棒といって差し支えない
斉藤が万全の状態だったならともかく上記のようにガタガタに弱りきってた所を外側から奪っただけ
>>だから秀吉も同じじゃん。信長が秀吉を重用して、織田家で厚遇した結果。
いや、そもそも一次資料の初登場がそれ(丹羽と同じような立場)なのではじめから身分がある程度高かったと見るべき。
信長公記では一軍を率いる将として初登場 すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし
低い身分からの抜擢なんて講談の影響
479 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 19:36:05.87 ID:OYqZ0UGm
そもそも北条にも豪傑キャラ作ろうぜって感じで北条遺臣が捏造しまくったキャラ属性つけたのが北条綱成だろ。
父親に架空人物の福島正成を製造し、
今川有力家臣だったと妄想した挙げ句に、
捏造川越野戦を作る際に川越城に籠城した名将設定w
しかし一次史料の綱成なんて深沢城で武田軍に降伏土下座したヘタレでしかないわけでさ。
480 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:10:50.89 ID:lEigpBdl
桶狭間の戦いは信長公記だと今川勢四万五千となってるけど
いろいろ検証されて「国力からすれば二万五千が妥当」とか「義元本隊は五千程度」とか「半分は非戦闘員」とかケチ付きまくってる
河越夜戦は作者・成立年不詳の軍記物語の80000が通説な不思議
481 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:16:21.45 ID:CSUG5vtW
桶狭間の戦いは一次資料にない軍記だけのデタラメ。
当時の織田の国力は57万石+交易収入+全国ダントツトップの朝廷献金額で
三河遠州駿河三国の今川と同程度
その軍記内ですら先陣と勘違いして突っ込んだ先がたまたま本陣で偶発的タイミングで雨や風が吹いて運よく義元殺しただけ。
482 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:31:09.64 ID:23QQu/4v
一番捏造ひどいの毛利だろ
敷折畑の合戦は捏造だと学会でも発表
有田大井手の戦い、厳島の戦いとかいずれも史料になく
軍記だけのデタラメ
483 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:34:20.73 ID:RjJ2xfqk
>>480 通説じゃないし
まあ教科書にも載る超有名合戦とローカル捏造合戦の差だな
河越夜戦はまともな史料が無いからまともな研究者もいない
つまり学界の通説はない
捏造合戦である「河越夜戦」の説明として80000という数字しか存在しないだけのことだ
484 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 20:45:19.36 ID:IjxpaDxD
>>476 あんたにレスするのは変だけど、
> 英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
> 尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
それなのに義龍生存中に尾張をほぼ統一しちゃったんだよなw
そのくせ
> 桶狭間の戦いは一次資料にない軍記だけのデタラメ。
> 当時の織田の国力は57万石+交易収入+全国ダントツトップの朝廷献金額で
こんなこと言っちゃうんだぜ?
一体どっちなんだって話だよw
485 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 22:16:26.93 ID:69bzBKgt
>>464 北条今川とは同盟しているし上杉は武田からちょっかいかけなければ動かんだろ
あと進軍も信忠や秀忠が大軍率いて通過していたんだから問題ない
それとお前の言うとおり東美濃の連中が困窮していたんなら金バラまけばなびくだろう
雑魚の信長でさえ取れるなだから信玄なら楽勝じゃないの?
486 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:00:56.66 ID:23QQu/4v
今川の衰退は永禄6年12月から始まる 遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる 遠江での相次ぐ大規模反氏真
国人達の自立行動により 三河とも連絡が取れなくなったから。義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかし駿河衆は今川に忠誠を誓っているのが確認されている。
それなのにわざわざ信玄が今川を攻めて背後に敵を作るバカな真似はしないだろう。
そもそも信玄が今川を攻めたのもやむを得ないこと。
だいたい直前まで上杉と戦ってんのに、今川攻めをするリスクを犯してまで
信玄は駿河攻めをしなければならないほど挟撃の危機を感知していた。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようと
この一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
永禄11年11/3にはすでに今川は駿河と甲斐の国境封鎖を開始し
11/25に氏真が謙信に信濃攻めを依頼するなど、明らかに今川が敵対を露にしてる。
487 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:16:05.57 ID:C+omd33A
>>477 いや、それは史料によって数や規模が異なると言うだけで
「河越夜戦がなかった」ことの根拠にはならない
例えば小田井原でも勝山記では三千討取、将も14人討取なんてあるが高白斎記にこんな記述はなし
また甲陽軍鑑では合戦の日時を1548年とし年次でも誤っている。
>>484 まあこの基地外に日本語が通じれば苦労はしないからね
司馬史観ならぬ「だが史観」とでも言おうか
488 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:22:26.33 ID:C+omd33A
>>478 >>その点、裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある
>>西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
豊かな西美濃衆を味方につけられなかったってことだろ、それ斎藤の自爆じゃんw
大体東美濃衆が飢餓や不景気で抗戦できなかったとするソースは?
>>斉藤が万全の状態だったならともかく上記のようにガタガタに弱りきってた所
クーデター、離反、降伏は斎藤の身から出た錆
代替わりで苦労するのは信長も経験しているしそこで外圧を跳ね返せないなら飲み込まれるだけ
つまり代替わりの大事な時期にまともな統治体制を確立できなかった斎藤の自爆
>>いや、そもそも一次資料の初登場がそれ(丹羽と同じような立場)なのではじめから身分がある程度高かったと見るべき。
信長が重用してやって無理やり身分をあげてやっているだけでスタート地点と関係なし
そんなこと言ったら世に出ている戦国武将は皆高貴で身分の高い人間だらけになる、荒唐無稽。
489 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:27:40.10 ID:LHIt9817
>>487 河越「夜戦」は作者・成立年不詳の妄想軍記にしか書かれていない
河越城の合戦は北条五代記には昼間の合戦と明記されており、他の史料でも夜戦とするものは皆無
むしろ河越「夜戦」があったことの根拠がない
490 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:36:11.68 ID:LHIt9817
ついでに数や規模が書かれてるのは妄想軍記くらいで一次史料は皆無
491 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:40:08.60 ID:C+omd33A
>>489 河越夜戦の「夜戦」に括る意味はあるのか?
夜ではなかった、とするのなら河越の戦いになるだけで名前かわるだけの代物になる。
史料による記述の食い違いは、それだけで戦いそのものを否定する根拠にはならない
そんなこと言ったら小田井原も信玄の大勝とするのは勝山記だけだから
「史料によって記述が違うので小田井原の戦いは存在しない、捏造でっちあげである」という主張になりますますわけがわからなくなる
492 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:51:44.01 ID:LHIt9817
>>491 勝山記は俺のネタじゃないからどうでもいいけど一次史料だろ
河越「夜戦」は作者・成立年不詳という二次史料未満の代物にしか書かれていない
493 :
名無し曰く、:2013/02/20(水) 23:57:37.91 ID:LHIt9817
他のまともな史料から判るのは同時期に河越城付近で合戦があったらしいということだけだ
なぜかIDが変わってるが俺はID:RjJ2xfqkな
494 :
名無し曰く、:2013/02/21(木) 00:11:21.06 ID:QDC5GDl9
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
495 :
名無し曰く、:
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ
>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄