信長の野望で過大過小されてる武将104人目

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718名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:30:03.42 ID:8aizJWpO
つっても石高や格から言って当時毛利より上なんて家康除けば秀頼くらいしかいなくね?
719名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:44:16.66 ID:X/3K4Nce
>>718
石高はともかく格なら毛利に対抗する連中いるでしょ
720名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:49:31.64 ID:Yp/gwkri
>>663
>>さらに突き詰めていけば三成が基盤を固められなかったのは、東軍が強固な基盤を築いていたからではなく
>>三成自身の力のなさ、ひいては西軍諸将の力の拙さ纏まりのなさであろう。

東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
721名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:56:52.43 ID:Yp/gwkri
>>660
その豊臣秀頼を福島加藤黒田始め武功派連中皆見捨てて家康の犬になっている件…
722名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:02:53.74 ID:Yp/gwkri
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
723名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:05:22.84 ID:Yp/gwkri
>>当たり前。必勝を期待するなら秀頼の成長を待って、秀頼の裁可を仰ぐのが最も好ましい判断だし

あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した

正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
724名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:05:38.07 ID:jcwa0pt6
If屑 vs だか
725名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:12:39.87 ID:G7vQXq7T
>>718
格なら唯一、織田秀信がいる
726名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:13:25.69 ID:Yp/gwkri
>>620
清正は9/7に→本多正信・西尾吉次に向けて家康の清須への到着に対応し、行動するといっている
さらに9/11に尾張到着を受けて、行動を開始するといっているので
関が原会戦前より清正が東軍方だったのは明白
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
727名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:22:48.48 ID:2TR4C0jV
>>699
ソース出せないなら黙っておけばいいのにw
しかも三河物語の記述を捏造とか
お前上の方で丹羽歴代年譜録についても適当なこと言ってたけど、
読んだことないの丸分かりだぞ
728名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:30:23.35 ID:Yp/gwkri
>>697
>>なら家康はなぜ上杉征伐と称して軍を率いる立場にあったんですか?
公儀無視して家康の私婚政策やら諸大名への恩売りで篭絡されたアホな大名やら
三成憎しで凝り固まっている人間らが家康側についたからだろ。
私婚問題で奉行衆や大老衆に詰問された時も軍事力行使で無理矢理乗り切っているし
三成襲撃事件に見えるように福島加藤武功派連中は豊臣の事より三成憎しの個人的感情で
家康と組み、三成を失脚させ、家康に大チャンス与えた張本人
>>誰に認めて貰えたから、そういう立場についていると思っているんですか?
同上。
729名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:36:57.29 ID:Yp/gwkri
>>691
>>関ヶ原合戦後の秀頼=蔵入地が3分の1以下、徳川幕府が成立し家康が征夷大将軍になる
まず徳川幕府が成立、征夷大将軍就任、豊臣蔵入り地三分の1と言う時点でろくに権力行使できていない
豊臣秀頼にそんな権力あるならそれ自体がありえず、削減された西国大名分を豊臣分として加増したり
秀頼本人が関白になるくらいじゃないとおかしい

>>・豊臣秀頼が右大臣に昇進(公卿補任)
官位自体は無意味とは言わないがそれに応じた権力発動ができるかどうかはまた別問題
実際に秀頼や豊臣家の命令で何かしら軍事行動なり諸大名の加増厳封なり
実力行使している場面がないと話にならない
>>・豊臣秀頼が徳川家康と会談し、加藤清正、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎が伴をする(家忠日記、徳川実記)
それ自体がなぜ「秀頼の権限・実力行使」になるんだ?
傀儡みたいな当主でも前主君の子なら、建前上そのくらいのことはやるだろ
730名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:56:59.03 ID:X/3K4Nce
>>727
ごめんごめん
三河物語じゃなくて板坂卜斎覚書だけだったな
有名な方を挙げた方がわかりやすいと思って「秀頼たいめん」の記述を勘違いしただけだよ
すまんなぁ
731名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:03:05.04 ID:X/3K4Nce
>>720
>>これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は
>>無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう

そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
三成と家康の所業に苦言を呈していた三中老は家康に所属と
全く持って三成が統御できている節がないんですがw

>>その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後

所詮その権力が付け焼刃でしかないというのは既に述べてますけどね
そもそもあなたも「むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず」
って言ってますやん。家康が持っている権力もその程度なんですよ

>>721
家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
関ヶ原直前期の家康は他の人も言うように家康と三成の対立からくる派閥抗争でたまたま家康についているだけ
この時点で秀頼が出てきたら家康はどうすることもできない
732名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:04:55.11 ID:2TR4C0jV
>>730
謝らなくて良いから早くソース出せよ
適当なこと言って誤魔化そうとしてもバレバレなんだからな
お前みたいに議論で優位に立とうとするために資料捏造するクズが多くて困る
どうせ毎日2chに長時間張り付くニート同然の生活してるんだから
図書館にでも籠ってまともな資料探してこいや
733名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:10:04.21 ID:X/3K4Nce
>>722
>>このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
>>他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方

全然潰せてませんけどね
浅野は当人が隠居しただけで終わってますし、
奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで、何もできずに終わっています
結局この時の家康の権力固めというのは「力」を背景に「脅迫」で他大名に頭下げさせているだけで、
力そのものも不安定であるうえに、秀頼が出てくればあっさり終わってしまうような不安定極まりないものにすぎない

>>豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番

石田三成がいる限り徳川家康が対立勢力を纏め上げることなんぞ容易でしょうなw
そんなことをするくらいなら秀次事件にかこつけて三成ぶっ殺した方がよっぽど豊臣のためになります
734名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:13:22.59 ID:X/3K4Nce
>>732
あー君アレか
ある事実を述べた人には「その話は捏造妄想だ」とか言って
史料名を出した人には「この史料の中身は信用できない」とか言って
原文丸写しした人には「史料の中身を改竄している」とか言っちゃう人か

まあ悪いこと言わないから、「板坂卜斎覚書」の件は君が下がった方がいいよ
君が意地になって認めなくても、第三者が認知できちゃうからね
735名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:18:43.17 ID:X/3K4Nce
>>726
>>関が原会戦前より清正が東軍方だったのは明白

書状で言うだけなら、誰でもできちゃうんですよ
結局清正は東軍のために何か動きましたか?
本戦前に東軍として行動しましたか?

>>728
>>三成襲撃事件に見えるように福島加藤武功派連中は豊臣の事より三成憎しの個人的感情で
>>三成憎しで凝り固まっている人間らが家康側についたからだろ

やっぱり三成が蟄居されたまま消えればよかったんじゃないかw
三成がいなければ東軍についた豊臣家臣は家康のもとから離れるし
家康が豊臣家臣の掌握に苦心している間に秀頼が出てきてゲームセット
三成が辞任されたのにまた出戻りするから皆怒るんだよね
しかも出てくるだけ出てきたわりに、大したことできずに死んじゃうしw
736名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:31:17.64 ID:Yp/gwkri
>>そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
その通りで全くもって毛利一族のヘタレ具合で負けただけなのが西軍
>>その権力が付け焼刃でしかないというのは
具体的にどういう点でだ?
後付け焼刃程度でも
付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえる
>>むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず
いや、西軍と東軍のまとまりの優劣の話であって権力度合いの話ではない
>>家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
そんなのは理由にならない
大阪の陣で武功派連中も皆家康の犬に成り下がってる時点で豊臣どうこうよりも三成にくしなどという私的感情でおろかに豊臣家を衰退させたにすぎない
>>奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで
そもそも筋目から家康が私婚問題で糾弾されたら軍を動かしたり武功派連中の警護で
大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
>>全然潰せてませんけどね浅野は当人が隠居しただけで終わってますし
>>560に書いたように皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
それこそ家康によって天下簒奪が完成するだけ
737名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:36:45.84 ID:Yp/gwkri
>>735
>>書状で言うだけなら、誰でもできちゃうんですよ
>>726で十分
他の寝返った連中と違い清正は寝返ってもいないし三成方とも連絡とってないし
寝返った勢力は寝返った時点で西軍と判断されるだけでそうでない清正は東軍と呼応する事を約し
実際その通りの行動で戦役は終わったので東軍


いやそもそも豊臣家のことを考えるなら消えるべきは三成ではなく武功派連中
三成は他大名の領地問題やら家康の専横に対して一貫して豊臣蔵入り地維持or増加&徳川派閥拡大阻止&他大名の倉入り地削減など
豊臣のために動きまくってるが
武功派連中は好き嫌いで三成を敵と見定め、家康にまんまと利用された上に秀頼成人後も豊臣を見事見捨てて徳川の犬になりさがっている
738名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:40:17.25 ID:X/3K4Nce
>>736
>>付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえ

つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
じゃあ豊臣秀頼じゃ当時の家康なら相手にならないよ、「相手が三成だから」「三成が貧弱な権力しか持っていないから」勝てただけ

>>家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから

家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康

>>大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している

所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性。

>>皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって

浅野や前田は滅ぼされましたか?
家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
あの上杉ですら最終的には許されてますけど

>>自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理

秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
家康とていちいち敵対したり弾劾したりするのにも時を費やす。
739名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:44:30.45 ID:X/3K4Nce
>>737
>>清正は東軍と呼応する事を約し実際その通りの行動で戦役は終わったので東軍

ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正

>>三成は他大名の領地問題やら家康の専横に対して一貫して豊臣蔵入り地維持or増加
>>&徳川派閥拡大阻止&他大名の倉入り地削減など豊臣のために動きまくってるが

全然豊臣のために動いてませんけど
代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
強固な支配体制を確立した徳川幕府ならいざ知らず、幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
740名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:47:13.21 ID:2TR4C0jV
>>734
会津征伐前に家康が後陽成帝や豊臣家から下賜を受けたとか、
史籍集覧で慶長年中ト斎記の該当日見なくてもWikipediaですら書いてんだよ
このスレで要求されてるのは秀頼成人まで家康は何もできなかったとか
宇喜多総大将の方が妥当だとかいうお前の主張のソースなんだよ
必死で本論と関係ないことに話を振ってその資料を挙げて何かを証明したように取り繕ってるが、
お前が平日に仕事をせず休日に家族友人恋人と出掛けたりもせず
1日中2chするしか能がないニートだという事実と同様、皆にはバレバレだぞ
つうか三河物語や丹羽歴代年譜録の捏造ばれてんのによく恥ずかしげもなく書き込み続けられるな
さすがニート様は違うと感心するよ
741名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:53:18.68 ID:lA+26Jqu
>>690
1.の逸話だが、逸話集に記載されてる戦国武将の智謀を示す話なんて大なり小なりこんなもん
三国志演義の軍師のように敵に離間策を仕掛けたとか
敵軍師の謀略を見破ったとかそういうレベルの話は有っても稀
石田三成にはこの手の才覚を示す逸話が秀吉の次くらいに多いので、それは評価されるべきだと思う

2.の三成挙兵については、6月20日付直江兼続宛書状でも三成が自慢げに書いてる通り、
直江に挑発された家康が上杉討伐のため東下している間に佐和山から発して大坂入り、
その後毛利輝元と宇喜多秀家と協力して家康打倒の兵を挙げるということで、
途中までは三成の計画通りに進んだということが分かる
挙兵の際に失脚していた、というのは政争に敗れたというわけだから、そこは確かにマイナス要因かもね
政争の相手が五大老筆頭で絶大な権勢を振るった家康だったということは考慮して頂きたいが

3.は意見の別れるところだろうね
事実かどうか怪しいとされる秀次讒言や氏郷暗殺に加え、
三成は唐入りの間に加藤清正失脚や小早川秀秋移封のために動いているが、
秀吉存命中は豊臣政権の脅威となりうる武将の排除や軍紀の徹底というような意味が有った策謀も、
秀吉死後は豊臣政権内の混乱や対立を助長する一因となったとも言える
まあ三成にとっては秀吉の寿命まではどうしようもないことだし、
松永久秀の三好一族殺害疑惑も三好家衰亡に繋がっただけなのに
ゲーム中で高く評価されてるし別に良いんじゃね、と思う

現状ゲーム中で石田三成と同じ知略85が付いてる武将は
蘆名盛氏、壬生綱房、筧十蔵、河田長親、安国寺恵瓊、上村頼興、伊集院忠朗たち
壬生や上村のように味方を讒言、暗殺した奸臣(徳川史観での三成と同じと言える)もいれば、
筧のような講談枠忍者武将もいるし、恵慶のような三成と同じように刑死した西軍首脳もいる
蘆名や河田、伊集院も名将だが知略を示すような事績には乏しいし、三成もこんなもんじゃないの、と思う
大谷吉継のように知略90台以上なら過大と言われても仕方ないだろうが
742名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:00:22.69 ID:0IRsYKNS
もう能力関係なくなってきたな

関が原の話したかったら
日本史板や戦国板いけよ
743名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:00:37.52 ID:X/3K4Nce
>>740
秀頼や宇喜多の話は既に出したから君が見ていないだけでしょ
江戸幕府成立後の圧倒的徳川優勢と思える時期ですら家康は
秀頼との関係を重視しまくっているし、関ヶ原の敗戦状況を鑑みれば
宇喜多の方が妥当であったとする見方はごく自然な発想だし
そもそも俺自身あの場で最もよかった行動は「秀頼の成長を待ち裁可を仰ぐ」と
散々言っていて、前述の秀頼の話で十分説明できているだろ

この多種多様な業務体系の多い現代日本で、まだそんなおっさんみたいなこと言ってるのか
しかも今日は日曜日、昨日は土曜日で普通の社会人ですらわんさかいる曜日に
わざわざ「曜日感覚のないニートですよ」と取られるような言い方しなくてもいいと思うぞ。

俺自身3年前から2年前まで1年間転職による失業無職期間があったから偉そうなことは言えないが
「無職無職」だとネットで声高に叫ぶのは経験上同類項かガキくらいだからや恥かくだけだよ
744名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:07:49.47 ID:lA+26Jqu
世の中には夜働いて昼寝てる人もいれば休日働いて平日休んでいる人も居るけど、
労働時間でない貴重な余暇を毎日長時間2chで書込することに費やす、
そういうライフスタイル自体が嘲笑されてるんじゃないの
まあID赤い人間が言っても説得力ないかもしれんが

>>742
秀吉の死〜関ヶ原〜大坂の陣、について語り合おう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349929455/
関ヶ原の戦い
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320762138/

誘導先としてはこんなもんか
745名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:12:25.39 ID:X/3K4Nce
>>744
「貴重な余暇を毎日長時間2chで書込することに費やす」ことを嘲り笑うこと自体は大いに結構なんだけど、
今回の場合は言ってる人間が言ってる人間なんだよな。ID:2TR4C0jVは今日だと昼頃からいて、
今この深夜でも文句垂れているくらいだし、はっきり言って人様のライフスタイルを嘲笑できる種の人間ではないでしょ
あんまり言いたくないが、「文句しか言っていない」「そのわりに投稿量、投稿回数が多い」というのは
むしろこんな下衆い俺ですら、ちょっと引く
746名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:17:26.59 ID:X/3K4Nce
>>741
三成の知略に戻ってきたのでそこに話題をこちらも移すが
まず筧は講談忍者なのでハナから除外していいだろう
安国寺は三成と同種の評価体系のままだから、量の大小はわからぬが下げるべき
上村と壬生は難しいところだが個人的にはこのままでいい
蘆名は現状維持が妥当、河田伊集院も下げるべき

というか、三成が典型的なのだが逸話の大半に政治絡みの話があり、
実際に政治で多く評価を貰っている人間が
知略でも多くの加点を貰うというのはどうなのか単純に疑問
特に三成のような「最後は失敗した」系でこれを貰うのは
747名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:34:24.63 ID:Yp/gwkri
>>つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
いや家康の専横がまかり通るような状態だった状況に比していえば家康程度でもある程度強力だったといえるのではと指摘しただけ
そもそも三成に限った話ではなく豊臣家の状態が三成に私恨で豊臣宗家の事を忘れる武功派の愚行、
家康にいちゃもんをつけられて攻めるポーズを見せたら即座に誤り人質要求されそれに従う浅野・前田・細川ら
そして「天下殿」の世評を得る家康、など豊臣の状態自体が既にグラグラだというだけ。
>>家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
>>武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
つまり豊臣恩顧武将がそういう状態にしただけ。
豊臣恩顧武将が戦後の論功行賞で異を唱えるなり江戸幕府開設を妨げるなり秀頼の官位昇進を強く促すなり
いくらでも防ぐ手法はあったわけで。豊臣の事を忘れ、家康に利用され、家康の権力強化を妨げず
権力が強化された家康の犬になり豊臣を見捨てたのが豊臣武功派連中

>>所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性
根拠不明
>>浅野や前田は滅ぼされましたか? 家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
いや滅ぼされたとかどうとかではなく「敵対勢力を潰す」>>560
>>秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
10、11じゃ幼君もいい所じゃねぇかw
普通元服行うのは1516だろw
>>上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
意味不明
三成襲撃事件→三成失脚・家康「天下殿」の世評→前田浅野細川へのいちゃもん→屈服
また対島津みたいに多大な恩売るor婚姻・同盟→徳川勢力拡張
と順繰りに潰されていくだけ
>>ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
>>関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
勝ち馬にのろうがのるまいが東軍の家康と東軍に呼応して挙兵すると約束し
東軍の尾張着陣にあわせて行動開始している(9/7・9/11書状)のでどうみても東軍
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
748名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:39:41.56 ID:Yp/gwkri
>>代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
お前は徳川は他大名をろくに潰していないからたいした権力ないと一方でいい
石田は他大名の領地を少しでも削って豊臣蔵入り地を少しでも増大させようとする事が豊臣の基盤強化に繋がらないと妄想し
矛盾しまくりなことに少しでもきづけアホw
>>幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
幼君だからこそ基盤をしっかり築く事が政権の安定化になる
幼君にもかかわらず配下大名の領地が膨大にあり
家臣達の専横・私利私欲・私的感情で崩壊したのが豊臣家
749名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:44:03.14 ID:Yp/gwkri
>>そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
結局武功派連中は私利私欲につられて恩賞を減らそうとする三成を毛嫌いして豊臣宗家の事を忘れ家康に利用されたにすぎない
そんな奸臣こそ豊臣を崩壊させた張本人
750名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:48:41.36 ID:Yp/gwkri
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
751名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:48:56.11 ID:Yp/gwkri
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
752名無し曰く、:2013/02/04(月) 00:04:37.84 ID:oxdhDFc6
黒川晴氏

伊達政宗を破りかけてるから
753名無し曰く、:2013/02/04(月) 00:53:08.93 ID:juXa9+U6
お前らもうそろそろ本当に戦国板帰れよ

秀吉死後から関ヶ原前後の話すると
家康の手腕凄いよねしか答え出ないだろ。
754名無し曰く、:2013/02/04(月) 01:16:09.06 ID:x9viooSS
能力値に関係ある話してるのに他スレ誘導とかアホじゃねぇの
知識ろくにねーからまともに議論参加できねー糞カスはROMってろよクズ
755名無し曰く、:2013/02/04(月) 02:57:11.83 ID:cdHdjhih
関ヶ原でそれなりに頑張ってた宇喜多秀家もう少し統率武勇上がらないかな
あれじゃ福島正則に一瞬で叩き潰されるだろ
政治は内政干渉されないと家臣まとめきれなかったくらいだしマイナス30でもいい
756名無し曰く、:2013/02/04(月) 03:50:46.85 ID:x9viooSS
東軍武闘派連中の統率は異常に過大
輝元の援軍要請無視によって圧倒的兵力差が生じ美濃国人も寝返りばかりになって美濃突破できただけなのに
757名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:02:52.45 ID:j5f64daE
マイナスするならそいつらより輝元だろ(すでに低い評価だが)
輝元なんてあんだけ圧倒的大軍と総大将の肩書きがありながら何もできず大厳封食らって
吉川小早川断絶とか情けなさ過ぎる
輝元の場合対宇喜多や南条の攻防も雑魚だから低評価するには申し分ない実績

関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない

東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
758名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:04:55.22 ID:j5f64daE
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる

この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
759名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:06:27.06 ID:j5f64daE
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

馬鹿かお前
その関が原でどうして戦う事になったのか考えてみろよタコ
東軍が尾張口に来たときに輝元が散々美濃口の防衛要請無視したり大垣篭城組の後詰要請無視して
伊勢湾だの四国だのどうでもいいところに兵チラシまくった結果だろうが
大体石田なんて大きな軍団持ってないしほとんど毛利一族のどうこうで決まるたたかいじゃねぇか
持ってた地位と軍団の規模無視して無理矢理捏造擁護で輝元擁護してんじゃねぇよクズ
760名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:07:44.94 ID:j5f64daE
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない

>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
761名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:09:16.04 ID:j5f64daE
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した

正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

>>そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
その通りで全くもって毛利一族のヘタレ具合で負けただけなのが西軍
>>その権力が付け焼刃でしかないというのは
具体的にどういう点でだ?
後付け焼刃程度でも
付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえる
>>むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず
いや、西軍と東軍のまとまりの優劣の話であって権力度合いの話ではない
>>家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
そんなのは理由にならない
大阪の陣で武功派連中も皆家康の犬に成り下がってる時点で豊臣どうこうよりも三成にくしなどという私的感情でおろかに豊臣家を衰退させたにすぎない
>>奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで
そもそも筋目から家康が私婚問題で糾弾されたら軍を動かしたり武功派連中の警護で
大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
>>全然潰せてませんけどね浅野は当人が隠居しただけで終わってますし
>>560に書いたように皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
それこそ家康によって天下簒奪が完成するだけ
762名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:11:48.17 ID:j5f64daE
>>つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
いや家康の専横がまかり通るような状態だった状況に比していえば家康程度でもある程度強力だったといえるのではと指摘しただけ
そもそも三成に限った話ではなく豊臣家の状態が三成に私恨で豊臣宗家の事を忘れる武功派の愚行、
家康にいちゃもんをつけられて攻めるポーズを見せたら即座に誤り人質要求されそれに従う浅野・前田・細川ら
そして「天下殿」の世評を得る家康、など豊臣の状態自体が既にグラグラだというだけ。
>>家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
>>武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
つまり豊臣恩顧武将がそういう状態にしただけ。
豊臣恩顧武将が戦後の論功行賞で異を唱えるなり江戸幕府開設を妨げるなり秀頼の官位昇進を強く促すなり
いくらでも防ぐ手法はあったわけで。豊臣の事を忘れ、家康に利用され、家康の権力強化を妨げず
権力が強化された家康の犬になり豊臣を見捨てたのが豊臣武功派連中

>>所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性
根拠不明
>>浅野や前田は滅ぼされましたか? 家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
いや滅ぼされたとかどうとかではなく「敵対勢力を潰す」>>560
>>秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
10、11じゃ幼君もいい所じゃねぇかw
普通元服行うのは1516だろw
>>上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
意味不明
三成襲撃事件→三成失脚・家康「天下殿」の世評→前田浅野細川へのいちゃもん→屈服
また対島津みたいに多大な恩売るor婚姻・同盟→徳川勢力拡張
と順繰りに潰されていくだけ
>>ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
>>関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
勝ち馬にのろうがのるまいが東軍の家康と東軍に呼応して挙兵すると約束し
東軍の尾張着陣にあわせて行動開始している(9/7・9/11書状)のでどうみても東軍
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる

>>代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
お前は徳川は他大名をろくに潰していないからたいした権力ないと一方でいい
石田は他大名の領地を少しでも削って豊臣蔵入り地を少しでも増大させようとする事が豊臣の基盤強化に繋がらないと妄想し
矛盾しまくりなことに少しでもきづけアホw
>>幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
幼君だからこそ基盤をしっかり築く事が政権の安定化になる
幼君にもかかわらず配下大名の領地が膨大にあり
家臣達の専横・私利私欲・私的感情で崩壊したのが豊臣家

>>そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
結局武功派連中は私利私欲につられて恩賞を減らそうとする三成を毛嫌いして豊臣宗家の事を忘れ家康に利用されたにすぎない
そんな奸臣こそ豊臣を崩壊させた張本人
763名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:12:38.74 ID:j5f64daE
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
764名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:13:49.33 ID:j5f64daE
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない

また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
765名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:28:18.08 ID:j5f64daE
秀吉は天下なぞとっていない。
秀吉が天下取ったなら秀吉死後豊臣幕府が開かれているはず
ただ武力で平定したわけでもなく他大名と同盟関係結んだだけ。
関が原の時とか皆豊臣のため戦うという名分利用して好き勝手に自勢力の拡張狙ってただけ

朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬

そういうのは政治で評価すればいいだけ。
こと戦闘の強さは戦ってみなきゃわからんのだから
戦った武将同士会戦状況(兵力・装備・地形など)や戦闘結果(被害・勝敗など)などを吟味して
より苦しい条件、厳しい状況、少ない兵力でより強い相手、より強大な兵力相手によりよい戦果出した武将を高く設定すればいいだけ。
大体ゲームでの統率の中心的意味が同じ兵力を与えられた時いかに強い戦闘力発揮できるかなんだから
そういう能力高い武将は高くし、低い武将は低く設定すればいいだけ
766名無し曰く、:2013/02/04(月) 09:45:42.39 ID:0scqsgcu
5奉行全員が西軍に付いた訳ではない 前田、浅野のアホは東軍
毛利が結局は豊臣を滅ぼした感じ 小早川の裏切り 吉川の動き無し 毛利の日和見
767名無し曰く、
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる