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名無し曰く、:
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>つまり半ば偵察目的の軍を送って秀吉と2、3回戦っただけで土下座して息子人質に降伏したんやな
>>たった2、3回で相手を心服させるなんてそれこそ秀吉が天才たる証拠やな
いや、正しくは秀吉が135000で攻める→信雄相手に木っ端微塵→信雄が本願寺顕如の取り成しと
長島周辺の苅田応酬にビビリまくりヘタレ降伏→家康も単体ではどうにもならんので乗る
→天正13年秀吉が和戦両用で接触→母と妹差し出す→仕方ないので乗る
>>宇喜多が従属しているんは織田にであって秀吉やないな
ただの妄想だろ
宇喜多は美作・備前戦線で秀吉と共闘してるし
八郎も秀吉が預かってるし本能寺後も一貫して秀吉に従属。長久手時も軍勢送ってるし
>>そもそもその180万石の大半は秀吉の同僚であって家臣やないな
妄想だろそれ。
山崎合戦でもしずヶ岳でも小牧長久手でも秀吉サイドから寝返り出ないどころか
相手側からばかり寝返りでまくったじゃねぇか
>>賤ヶ岳では柴田勝家が同僚の前田金森に寝返られ、山崎では明智が同僚の細川筒井に味方されないなか
それに対して秀吉は何もされず。そもそも秀長も宮部も他の連中で与力格だろ
与力なんだから秀吉の指揮下に入るのが当たり前
家康が攻めて従属させた駿河の連中や甲斐信濃はただの同盟者だから
家臣じゃないとでもいいたいのか?
>>秀吉は何もせずに同僚を家臣に加えたということやな、能力どれだけ上がるんやろうな
たまたま相手から寝返りでまくって運がよかっただけ