信長の野望で過大過小されてる武将102人目

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539名無し曰く、
>>日和見なんてされた時点で負けですな
>>しかも秀吉家臣ならともかく家康の家臣
>>そういえば関ヶ原では毛利軍が堂々と日和見してましたな
>>味方が日和見なんて実質寝返りと同義なんは家康が一番わかっとる話ですな
意味不明。元々水野が国境の不安定な位置で日和見的に両勢力間を右おう左おうといってるんだが?
>>つまり半ば偵察目的の軍を送って秀吉と2、3回戦っただけで土下座して息子人質に降伏したんやな
意味不明
そんなちょこっとの軍勢に秀吉は1万人戦死させた上に戸木松ノ木浜田河波蟹江長久保東駒野など蹴散らされ
本願寺顕如にやっとこさ取り成しやってもらって信雄の懐柔→家康単体では状況的に抗戦無理なので従属したんだが?
お前の論法なら秀吉が勝てないとビビリまくって本願寺顕如にとりなしやってもらった上に出陣する出陣すると
他大名に出陣の意思を表明しまくっていたが結局できずじまいで終わったじゃねぇかw
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる