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名無し曰く、:
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。