信長の野望で過大過小されている武将96人目

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60名無し曰く、
謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃 北条氏康は上野北部の沼田城に北条孫次郎を配置
関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手 残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い この強大化した北条と武田が協力し合って北上中
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた
大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、海運業の発展や青苧・越後布の奨励、
さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った