信長の野望で過大過小されている武将96人目

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58名無し曰く、
それは反動する力が多分に残されていたからであり、その原因はまず永正の乱〜天文の乱に求められる
竹俣、色部、本庄宗家らが、上杉房能を討った長尾為景に対し、叛旗を翻した
為景は中条らと力を合わせ、彼らの拠る竹俣城、平林城、本庄城を瞬く間に落としていったが
討ち果たすまでには到らなかった
この際、一度降伏した筈の竹俣&本庄宗家は関東管領・上杉顕定の大軍を越後へ呼び、再び反抗する
当初は上田長尾まで関東管領に味方したので、為景も越後から逃げ出すしかなかった
関東管領の旗色が悪くなると、上田長尾は為景方へと乗り換えたので、上杉顕定を討ち果たす事には成功した
が、依然として揚北衆&上田長尾らは健在で、後に上条の乱において為景を打倒してしまう

その上条の乱でも、上条定憲が繰り返し兵を挙げ、その度に為景は勝利するも、上条を殺さず(殺せず?)、
結局上条はすぐに復活してしまう
そして定憲は三度目ともなる「打倒為景」の檄を越後全土に飛ばした
為景は堪らず、北条毛利&安田毛利に辞を低くして破格の条件を提示し、なんとか味方に引き込む
しかし揚北衆連合や上田長尾はじめ、大多数の越後豪族は上条方へつき、
次第に追い詰められた為景は敗北>隠居>死去
府中長尾家に恨み骨髄の豪族達は勢力を盛り返し、その為景の葬儀は武装で行われた

上条はじめ上杉一門と上杉の元被官達、それに味方した有力な越後豪族達
彼等は府中長尾家に対しては、勝利者という意識を残したまま、屹立した存在を維持し続けた
叩き潰されてもおらず、勢力も温存されたので、府中長尾に従う意識も当然、希薄
晴景時代には春日山への出仕を拒み、景虎時代には第三次川中島の時点でさえ派兵に応えない
そんな連中を政権内に取り込む課題は、かなりの難題だった

>ヒント・苦労のベクトル。
こんな状態なので、政権を確立させ、浸透するまでも長き道のり
しかも景虎が家督を継ぐにあたって、上杉定実は長尾に大きな借りを作っており
上条の乱で長尾を破った上杉からの影響がさらに増し、二重支配の状態からスタートしなければならなかった
つまり長尾と敵対し、勝利した豪族達だけでなく、上杉一門からも干渉を受けた景虎政治の実態は、
晴信以上に外部から強い干渉を受けている
第三次川中島の時点では、色部&本庄宗家に軍役を負わせられる立場でも無い