信長の野望で過大過小されている武将96人目

このエントリーをはてなブックマークに追加
100名無し曰く、
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)