660 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:08:45.78 ID:djeWJtHD
>>んなもん柴田に限らん。羽柴も明智も滝川もお前の好きな信忠も同じ。つうか他の大名も同じ
信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
人の言ってることも理解できんのかアスペ野郎
>>なんで天下に面目を施すことがやって当然のことをやったという解釈になるのか不明
「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ
>>織田一門だからエコ贔屓されたんだろ。好き嫌いで判断するのが信長だからな。
その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w
>>信長の評価基準がデタラメすぎるだけだろw
根拠なしの妄想乙
661 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:17:28.21 ID:djeWJtHD
>>コネや縁故で入った無能にはしょぼい仕事が与えられ、叩き上げの有能な武将には責任大きい期待度高い仕事が与えられるのが会社。
TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
そんな社会の仕組みも知らないニート君が会社を例に出しても馬鹿にされるだけw
>>信長→川尻で信忠の軽挙つつしむよう書いてる
で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
しかも信長が後から「武田を平定」するのに「出馬」不要と書状で伝えている。
>>
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ
で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
すぐ高遠城を攻めて甲斐にまで突っ込んでるわけだが。
>>川尻は自分が信長代行として信忠を率いて命令したが信忠は川尻信長のいうこときかず無視して勇んでいっただけ
誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ
>>根拠なし。川尻が信長とじきにやりとりしてつなぎの城の築城など軍事命令を受け取って動いてたんだから武田攻めの総大将は川尻で滝川信忠が補佐
武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
「不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候」の書状を出したのはおまえだぞ?w
>>そんな史料あったか?
滝川は信長書状で散々言われているし長益は信長公記にあるだろ
>>信長の機嫌伺いも糞も信長がじきじきに川尻に命令に当たる軍令出して信忠を従わせようとしてるんだから見透かすも糞もない
で誰1人川尻の命令聞かずに攻めまくっているわけだが
>>抗戦したのが仁科1000程度だけだからな
で川尻は結果的にほとんど何もせずに終わったって話じゃん
662 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:27:36.98 ID:G4uTqnXR
>>禄高の大きさなんてそれこそアテにならん、佐久間のように全部没収されたら終わりだしな
だったら織田家臣団の序列なんて妄想でしかはかれねーなボケ
>>要地に領土を貰ったり、織田一門と縁戚やコネを作っておけば、例えどんなことになっても優遇される
そんな優遇されるべき一門の地位にいながら冷遇されまくりハナクソみたいな土地しかもらえなかったのが丹羽
>>荒木攻めなんてほとんど本願寺毛利攻め兼任だしかなりの長期間だろうが
なんで遠方にいる毛利攻めと佐久間が担当してる本願寺攻めといっしょくたになるんだ?
>>事実雑賀攻めでも越前衆は参加しているし一番重要な時期に引っこ抜かれてるじゃん
なんで手取川前の時期ほんの一時行われた雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
謙信死後御館の乱や新発田の乱で弱りきったから周辺国にまわす余裕できただけだろ
>>神保と斎藤は柴田の与力ですらねーだろ、信忠与力をぶち込むことで柴田の功績をおいしく戴かれてるじゃん
なんで柴田の手助けを行ったのに「柴田の手柄をとられた」という歪曲解釈になるのか不明。
柴田の与力の佐々前田らが多方面に出兵したから柴田の功責を水ましするつもりだったとでもいうのかよアホ
>>末森記って江戸時代の史料だから、それこそアテにならんし
根拠は?末森記否定なら末森合戦の史料なんてそもそも存在しないし、そもそも前田家の家記だし一次資料の享禄以来年代記にも同じ数字が書かれてるし
長家家譜も同じ数字だったはず
織田軍による北陸制圧の後半は、織田信忠旗下の家臣も参加しているから45000の兵力が全て柴田の指示で動いていたかどうかも眉唾じゃん
>>中国地方に左遷されたと言いながら、北陸なんぞに飛ばされた柴田は優遇か
いや、そもそもお前に話を合わせたんだがね
>>どこがオールスターだよ適当な解釈で捏造してんじゃねーよボケw
長家家譜(織田側) そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容には信長本隊 佐久間信盛軍団 (浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団 (氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
>>織田信忠含む織田一門は全く介在してないし明智光秀や池田恒興すらいない
でも圧倒的に大軍が投入されてるしな。織田家中核の柴田+その他大勢で軽く4万は超える
>>森、佐久間、永岡などもおらずただ手の空いた奴をとりあえず連れて行っただけで
なんで丹羽柴田前田佐々羽柴長稲葉堀蜂谷金森長谷川らの手があくんだよボケ
>>やる気のない秀吉が勝手に帰還してるほど纏まりの欠いた集団じゃんw
秀吉はビビリまくって逃げただけじゃんw謙信相手では戦死するのが目にみえてるからな
>>勝手に殺すなや、雑賀攻めとかでも謙信生きてるのに普通に不破光治とか参戦してるじゃんよ
なんで謙信生前一月か二月で終了した雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
>>謙信が出てきてちょっと雲行き怪しい時だけ与力が協力してくれているだけで基本は全部柴田の役回りじゃんよ
柴田は美濃とか他地域にも与力がいまくるからな。長島侵攻戦でも大量の柴田軍団が投入されてるし。
>>そのために一族の柴田義宣あたりがぶっ殺されたりしてるし冷遇極まりない
それだけ信長から寡兵でも戦えるって評価されてたんじゃね
>>よっぽどのことがない限り家督は年長者からだアホ、ただえさえ正室腹の息子が存在しねーんだしな
ならとっくに北畠や神戸から復姓させとるわw
>>協力関係だってのは距離が近く従軍して補佐している関係ってことだ。川尻と団は協力関係と言っていいがな
んで丹羽と信雄らの関係は信忠と彼らの関係とどう違うんだ?
>>北条氏政なんて織田に協力して分捕ってやった上野を、なぜか織田家臣の滝川に領地取られて恩賞なしの時点で信長からどう思われてるか察せよw
だから協力関係だったことにかわりはないだろw信忠と協力関係だった奴なんてごまんといるじゃん
663 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:34:22.36 ID:Gno+jI19
>>656 例の人にいちいち返答するのはやめておけよ
スレを埋められるだけだ
664 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:41:43.05 ID:G4uTqnXR
>>いちいち膨大な織田家臣の名前を挙げるのを面倒くさがっただけ
根拠なし。雑魚だしろくな功責もないから名前挙げなかっただけ。
>>つうか名前挙がらない=信頼されないなら織田家臣の大半は信頼されてないことになるし不働きだというのなら佐久間と一緒に丹羽も追放されているだけ
いや雑魚でもイエスマンなら政務に使えるし、忠誠が篤ければおいとける
>>勝家を重用したいのなら摂津戦線でも任せればよかっただけ
なんで摂津戦線が最重要戦線とか他方面の武将は重用じゃなくなるんだよボォケw
秀吉なんて摂津に出向かせてもらってないから冷遇しまくりだなw摂津なんて長期持久戦で落ちるから将の資質問われんから雑魚で十分だわw
>>上洛直後から重用されていた重臣で 以後畿内方面に参加できなかったのは勝家だけ、丹羽も秀吉も佐久間でさえ畿内で戦えたのに柴田は一切戦えず
そりゃ最強上杉の相手や一揆の風土が強い越前加賀支配を任されてたからな。柴田は対浅井朝倉で戦いまくってるじゃねぇかタコ
浅井朝倉もいない雑魚しかいない畿内でそんな強い武将投入する意味がない
>>根拠なしの妄想乙、役に立つんなら使うだけ。信頼されてるかどうかは別
年寄りでも危険な戦線&強敵上杉相手に投入されてるんだから織田家内では実力評価されてた証拠
>>その大封は勝家とほとんど縁のない与力の領土、勝家が統括できていたかも怪しい代物
そんなもん他の連中も同じ。つうか他の大名も頼子より親制だから一緒
>>後世の創作にして妄想乙
はっ?常識だろ。何いってんだ?
>>この当時の織田軍が越前失ったところで滅亡なんてまずない、つうか越前は朝倉旧臣がぶっ殺されまくった時に一度失ってるが
>>盛大に大軍を派遣して更地同然の如く敵対勢力を葬って終わったじゃんw
そりゃ上杉や毛利ら周辺大名との連携も取れてない時期だしな。謙信が手取川で、赤井が丹波、毛利が播磨戦線で勝利重ねる時期はかなり織田家は窮地だったし
謙信生きてたらかなり危ない。播磨の諸将や畿内でも不穏な動きあるしな
>>戦争がほとんど終わっているのに戦闘経験積ませるとかアホ乙wまあ松永荒木別所攻めで十分に戦争経験積む機会があったのはあれだがなw
まだ四国中国北陸関東東北九州とたくさんのこってるだろアホ
>>信長は寝返ると思っていなかったんだろ
つまり信長の信頼は正確さ0の妄想と
>>関係を取り持つことと実際に前線に赴くことは全然ちげーよks
だから「経略は。」
>>その程度の傾きでどのみち織田家が崩壊するわけねーから一過性のもんにすぎん
武田勝頼毛利輝元本願寺顕如荒木村重上杉謙信松永別所赤井と一度に結託したらとんでもないことになる。
史実では毛利がありえないくらいヘタレて出兵約束反故にしたり謙信赤井直正と名将の病死や別所荒木松永の離反時期の齟齬でうまくいかなかったがな
>>そんなの信長あたりが直属率いて軍を出せばすぐに終わるし実際松永は瞬殺じゃん
そりゃいっぺんの全員が離反しなかったし毛利もなかなか出兵しないし謙信も病没したし直正も病死したからな
>>自領付近で戦争しかけるとか馬鹿のやることだボケ。なんで敵と戦うだけで領地を疲弊させなきゃならんのだアホ
だったら余計に前線に名将おいて敵を頑強に食い止められる状況作る必要あるって話だろアホ
>>全部薄氷の権力じゃねーかw実際原田死んだ後一族はあっさりポイされてしまうくらいに落ちぶれたわけだしな
薄氷であれ大身は大身。分国中にかなりの大軍がいるわけだしな
そもそも信長の権力自体薄氷だしな
665 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:55:13.11 ID:G4uTqnXR
>>信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
何も違わない
>>634-635よく読めよアホ。信長の命令で何もかもやっててただの傀儡にすぎないのが信忠
>>同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
同僚じゃねぇよカス 与力制はある軍事命令内では与力の大将の命令内で動かないといけないのが実際(手取川の時なんか
あれだけオールスターメンバーいるのに柴田が大将の権力持ってなかったら到底軍として機能しないし信長がいないとおかしいことになる)
>>「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
意味がわからん。なんでそれがやるべきことをやった、なんだ?
>>軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ
単に担当戦線が違うしその時期加賀や越中を中々突っ切れずにいたからどうしても地味に見えたってだけじゃね
>>その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
>>おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w
意味不明。どこがどう受け継がれたんだ?
>>根拠なしの妄想乙
根拠なら書いてる
>>653の下部
>>TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
デタラメ乙。有能な若手には大変な仕事任せるのが普通。つうか無能な武将にやらせても失敗に終わるだけなので意味がない
>>というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
無能な連中に大変な仕事任せたら業務こなせず会社が潰れて終了
>>で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
そりゃ単に信忠がアホってだけの話だろ。川尻は必至に信長の機嫌伺ってるが信忠が無視したからな
>>で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
信忠は信長からじきじきにいわれても無視するアホだからな
>>誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ
一応信長が命令出した撤退用のつなぎの城は作ったんじゃないのか?
>>武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
そりゃアホばっかりだから信長の命令も川尻の命令も無視したんじゃね
666 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:56:38.74 ID:G4uTqnXR
667 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:02:51.16 ID:G4uTqnXR
天正9年1月1日 在国諸將の参賀を停む、又馬場を安土城の北に築く
天正9年1月3日信長、武田勝頼の、遠江高天神城を赴援せんとするを聞き、信忠をして、尾張清洲城に出陣せしめ、水野忠守、同忠重等を遣して、遠江横須賀城を守らしむ、
天正9年1月9日信長、鯨肉を献ず
天正9年1月15日信長、三毬打を安土城に行ふ、又北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗す、
1月25日信長、河内安井清右衛門に其屋敷を安堵せしめ、諸役を免除し、之に禁制を掲ぐ、
天正9年2月6日宮女及び立入隆佐等を安土に遣し、練香を信長に賜ひ、調馬の事を命ぜらる、信長、之を奉ず、
天正9年2月11日信長、綸旨等の旨に任せ、四府駕輿丁藤本三郎左衞門尉の諸役を免除す、
天正9年2月20日信長、入京して、本能寺に館す、
天正9年2月23日耶蘇会宣教師バリニヤーニ、黒奴を連行して信長に謁す、
天正9年2月24日柴田勝家、上京して、信長に謁し、太刀、黄金等を進む、信長、其越前、加賀を平定するの功を賞す、
天正9年2月28日信長、馬埒を禁裏東門外に構へ、諸將をして騎乗せしむ、之を叡覧あらせられ、信長に勅書及び御衣を賜ふ、
天正9年2月29日信長、紀伊熊野新宮神主堀内新次郎に知行分同社領の地を安堵せしむ、
天正9年3月1日 前右大臣織田信長を、左大臣に任ぜんとす、尋で、信長、譲位の叡慮を奉じて後に之を拝すべきことを奏請す、譲位を延引あらせらる、
天正9年3月5日信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、
天正9年3月5日信長、長岡藤孝をして、所領丹後を諸給人に宛行はしめ、余分は藤孝の直務と為さしむ、
天正9年3月6日本願寺光佐(顕如)の請に依り、紀伊雑賀に在る同寺坊官赦免の命を諸国に下すべき旨を信長に命ぜらる、尋で、信長、之を奉ずるに依り、光佐、御禮金を献ず、
3/18勝頼が佐竹の斡旋で信長と同盟を結ぶ風説が伝わる
天正9年3月20日三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、信長に帰属せしむ、
天正9年3月24日信長、佐々成政、神保長住をして、越中小井手城を赴援せしめ、又不破光治、前田利家等の諸將を遣し、之を援けしむ、是日、上杉景勝等、兵を班す、
天正9年3月25日信長、矢部善七郎、猪子兵介をして、山城勝龍寺城を守らしむ
天正9年3月28畠山氏の遺臣長連龍、信長の援に拠り、温井景隆等を能登七尾城に攻めて、之を降す、是日、信長、菅屋長頼を遣して、之を守らしむ、
天正9年4月1日吉田兼和、松井友閑に頼り、吉田社修理のことを信長に請
天正9年4月8日信長、筒井順慶をして、歓進猿楽を大和木寺に張行せしむ、
天正9年4月10日信長、近江竹生島に詣し、帰城す、其侍女等の恣に同国桑實寺に詣するを怒り、之を出さしむ、同寺僧、之を庇護するに依り、併せて、之を殺す、
天正9年4月12日信長、越前溝口定勝(秀勝)に所領を宛行ふ、
天正9年4月13日信長、長谷川秀一、野々村幸久に所領を宛行ふ
天正9年4月16日若狭高浜城逸見昌経歿す、是日、信長、其所領を武田元明、溝口定勝(秀勝)に頒ち與ふ、
天正9年4月20日信長、堀秀政をして、和泉國中に指出を徴せしむ、槙尾寺、之に応ぜざるに依り、是日、秀政、兵を率ゐて、之を囲む、僧徒、退散す、尋で、信長、同寺を火かしむ、
天正9年4月20日信長、森蘭丸(長定)に近江に於て所領を宛行ふ、
天正9年4月25日越前溝口定勝(秀勝、)高麗鷹を信長に進む、
天正9年6月5日北條氏政、信長に馬を遺る
天正9年6月15日信長、筒井順慶に大和吐田村を宛行ふ、是日、順慶、信長に之を謝す、
天正9年6月16日信長、越後新発田城新発田重家の款を通ずることを越中の某に報じ、之と海上の連絡を計らしむ
天正9年6月28日信長、眞桑瓜を献ず、
天正9年6月28日近衞前久、信長の命に依り、島津義久をして、豊後大友義統と講和せしむ、是日、義久、太刀、馬を前久に遺り、之を謝す、
668 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:22.91 ID:G4uTqnXR
天正10年1月6日信長、鯨肉を献ず、之を廷臣に頒ち賜ふ
正10年1月10日備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印状を請ひて、駿河守に與ふ、
天正10年1月15日信長、三毬打を行ひ、又騎乗す、近衞前久、之に会す
天正10年1月16日信長、佐久間信盛の遺子正勝を召出して、信忠に仕へしむ
天正10年1月21日羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ、
天正10年1月22日信長、狩獲せる鶴を献ず
天正10年1月23日一向宗徒紀伊鈴木孫一、養父の仇土橋平次を撃たんとし、援を信長に請ふ、信長、族左兵衞佐某をして、之を同国雑賀に赴援せしめ、平次を斬る、是日、本願寺光壽(教如)をして、信長と和融せしめらる
正10年1月25日大神宮神主等、両宮を造替せんことを信長に請ふ、是日、信長、銭三千貫を寄進し、平井久右衞門、上部貞永を奉行と為す、尋で、織田信忠をして、岐阜城に蓄ふる銭を検して、造替の用途に備へしむ、
天正10年1月29日信長、尾張の暦師の訴に依り、陰陽頭土御門久脩を招きて、閏月の有無を糺決せしむ、
天正10年2月2日信濃木曽義昌、美濃苗木城苗木久兵衞に頼り、武田勝頼に背きて、信長に通ず、是日、勝頼、之を撃たんとし、諏訪上原に出陣し、諸將をして、国境を守らしむ、
正10年2月3日信長、諸將の甲斐侵入の進路を定め、親ら織田信忠等と共に美濃より、徳川家康をして駿河より、北條氏政をして関東より、金森長近をして飛騨より進ましむ
天正10年2月9日信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停めて、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ、
天正10年2月21日信長、織田信忠及び瀧川一益、川尻秀隆をして、信濃高遠城攻略の為め付城を築き、守備を厳にせしむ
天正10年2月28日信長、妙心寺をして、法度を犯す者は、寺法に拠りて、処分せしむ
天正10年3月5日信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、
天正10年3月6日信長、美濃呂久川に著す、仁科盛信の首級を実検し、之を長良川に梟せしむ、尋で、岐阜城に著す、
天正10年3月9日石清水八幡宮法楽和歌御会を行ひ、信長の戦捷を祈らせらる、
天正10年3月10日諸社寺をして、信長の戦捷を祈らしむ、
天正10年3月14日信長、信濃波合に著陣し、武田勝頼父子の首級を実検す、明日、同国飯田に移り、之を梟す、3/11誠仁親王、千返楽を奏し、信長の戦捷を祈らせらる
天正10年3月16日武田信豊、信濃小諸城下曽根信恒に頼る、信恒、信豊を殺し、是日、首級を信長に同国飯田に進む
3月19日信長、信濃飯田より同国上諏訪に陣を移す、徳川家康、来会す、明日、木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君、来り謁す、信長、之に旧領を安堵せしめ、義昌に信濃安曇、筑摩の二郡を加増す、又諏訪社、同上坊、南方村、甲斐川口郷等に禁制を掲ぐ
天正10年3月19日信長、信忠をして、甲信両国を守らしめ、東海道より帰国せんとす、是日、徳川家康、道路の普請等を為さしむ、
天正10年3月21日北條氏政、信長に物を遺りて、戦捷を賀す
天正10年3月22日左中弁萬里小路充房を甲斐に下し、宸翰を信長父子に賜ひて、之を犒はせらる
天正10年3月22日信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送る、是日、之を梟せしむ、
天正10年3月23日信長、上野及び信濃二郡を瀧川一益に與へ、関東に鎮せしむ、尋で、一益、上野箕輪城より同国厩橋城に移る
天正10年3月24日信長、従軍の將士に兵糧を頒ち與ふ
天正10年3月26日信長、信忠の戦功を賞して、物を與へ、家督を譲るべきことを約す、尋で、信忠、之を謝す、
天正10年3月26日北條氏政、信長の飼馬料として、米千俵を信濃諏訪に輸す
天正10年3月28日北條氏政、信長の、好を厚くせんことを伊豆三島社に立願す、
天正10年3月29日信長、甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井、水内、更科、埴科四郡を森長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団景春に、同金山城を森長定に與ふ、
天正10年3月是月信長、甲信両国の法度を定む、又信濃の金鑿をして、速に還住し、採掘に努めしむ、
天正10年4月2日信長、帰国せんとし、信濃諏訪を発し、甲斐台原に到る、北條氏政、狩獲せる雉を進む、
669 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:45.44 ID:G4uTqnXR
4月2日信長の將森長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ
4月3信長、甲府に到り、武田氏の館址に陣す、北條氏政、馬、鷹を贈る
4月3日信長、甲斐仏師原郷等に禁制を掲ぐ
4月10日信長、穴山信君に甲斐の本知分を安堵せしめ、河尻秀隆に宛行ふ地と境界を立て、領知せしむ
4月21日信長、甲府を発し、是日、安土に凱旋
5月1日上杉景勝、信長の兵と戦はんとし、佐竹義重と旧交を修す
5月7日信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、之に讃岐を與へ、三好康長に阿波を與ふ、
5月17日信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
5月21日信長、徳川家康等をして、京都、大坂、奈良及び堺等を遊覧せしむ
5月22日伊達輝宗、信長に馬を贈る
5月29日信長、津田信益、蒲生賢秀等をして、安土城を守らしめ、近臣数十人と共に入京し、本能寺に館す
5月29日越後新発田城新発田重家、信長と通謀し、芦名盛隆も亦、信長に款を通ず、是日、盛隆の將金上盛備、瀧川一益に違約せざることを陳ず、
また信長死後ですら隠岐清家の義子経清、織田信長に属せんとし、事成らずして、清家を誘殺す、
伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、輝元の援を乞ひ、数通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る、
と信長という名前が史料にあがっている。実権が信長にあったのは明らか
670 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:13:37.60 ID:/Bn1jav9
あぼーんだらけになったぞばかやろうw
671 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:43:49.02 ID:gmZOupGE
柴田勝家は過小評価されてると思う
戦闘系パラメータもそうだが、政治力も後継争いとかの根回しは下手だったが、国を治めるという意味では名君の範疇だし
逆に本田忠勝とかなんでこんな高いんだ?って気がする
ていうか過去作ではもう少し普通の武将だった気がするけど、いつからかトップクラスの猛将になってた
672 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:59:59.76 ID:ZFtmy0IN
柴田は戦闘面はもう十分評価高いじゃん
政治知略はまあ同意
673 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:10:59.58 ID:nVoWiH7b
勝家は適正が不遇だな織田においては
武田か上杉に行ったほうが活躍出来る
674 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:16:35.46 ID:/hUYR0xN
勝家の適正はホントにずっと言われてるね
適正活かすの難しい
675 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:40:14.35 ID:B0jTq1Kx
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。
孝標日記(仮)
1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
つーか俺には愛する妻もいるし。
2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。
3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
これはかなり断り辛い。最悪。
4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。
5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。
6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
つーかストーカーだろ完全に。
1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い
676 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:41:10.64 ID:B0jTq1Kx
613 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:47:20.36 ID:IR7rRxeP0
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
畜生、ハメられた。
って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。
8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。
8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。
9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。
10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
ヤケクソだ。
なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。
614 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:01:08.92 ID:EhN6dW4D0
頼長さんは保元の乱の時も、夜襲かけようぜ!ってノリノリの為朝さんに
「バーロー皇族同士の戦いでそんな姑息なマネができっかよ」と
謎のスポーツマンシップを発揮した挙げ句、相手方にさくっと夜襲かけられて
殺されたジェントルマンだからな。
677 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:43:15.38 ID:B0jTq1Kx
857 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 13:33:59 ID:ObMPUxG9
上田宗箇は常々こう自慢していたという。
上田「ワシは今まで金銀は見た事がない!」
ゲヒ殿、なんかいってやってくださいよ。といいたいがこれを聞けばこの人達はこう言っただろう。
前田利家「銭があれば世の中怖い物はないんじゃ!」
黒田如水「銭で兵を雇うんじゃ!」
徳川家康「銭があれば何でも出来るんじゃ!」
徳川家康は「ケチ」だと、フロイスにも書かれるほど有名だったが、もちろん趣味だってあった。
なんだか文章があってないと思うかも知れないが、実はその趣味が何と「へそくり」。
しかも鎧櫃の中にへそくりをため込んでいたのだ。
ある日、どこかの大名家(名誉の為、伏せる)の家臣が使いとしてやってきた。
使者「申し訳ありません。のっぴきならない理由がありまして、つまりその・・・・」
家康「何?」
使者「お金貸してください!」
家康は家臣に言って奥から鎧櫃を持ってこさせ、開けさせた。
使者はこれを見てビックリした。そりゃそうだ。中にはぎっしりと詰まったお金の山。
それもきちんといつここに入れたものかも書いてあった。つまり「へそくりの記録付き」。
そしてその使者はもう一つ驚いたものを見つけた。銭に書かれた記録の中には、
家康がまだ三河の小領主時代のものがあったのだ!
恐るべき「へそくり歴」である。
ちなみに、某大名家の使者はちゃんと家康からお金を借りる事が出来たそうである。
863 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 14:28:38 ID:ObMPUxG9
徳川家康の「ザ・へそくり術」
さて、
>>857の続編とも言うべき、「家康のへそくり」の話。
家康はへそくりが好きだったのだが、どうやってへそくりをしたのかというと・・・・
勘定方「殿。今年度の収入はこのようになりました。お言いつけ通り兵糧用の米と換金の米を分け、
銭の収入はこのようになりました。」
家康「決済する!」
そう、コイツも又、前田利家と同じく自分の勘定は自分で決済していたのである。
但し、利家の場合は例の「そろばん」まで用いて、本当に自分で計算までしていたが。
家康「この数字のキリがいいところまでは銭蔵に収めておけ、半端な銭はもってこい。」
勘定方「はっ!いつも通りにいたします。」
家康「それから奥向きで仕事をしている女房衆も呼んできてくれよ。」
こうして、奥から女性陣がやって来る。そうこうする内に、勘定の結果、「貫」の単位までは
銭蔵へ収められ、「匁」以下の端数の銭が持ち込まれた。
家康「これは、ワシの私的に使う銭(お小遣い)じゃ、数えておくれ。」
侍女「は〜い。」
こうして私的な銭が数えられた。そして・・・・・
家康「終わったか。では、鎧櫃へ入れよう。」
侍女「は〜い。」
こうしてへそくられた。
こうして貯められたへそくりでアッチコッチの大名にお金を貸した。
そして、味方を増やしてしまい、天下人になったのだ。
ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
678 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:45:03.25 ID:B0jTq1Kx
760 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/20(水) 18:29:20 ID:hPtFliDR
江戸時代末期、将軍徳川家定は台所で料理するのが好きだった。
これを見て松平春獄はこう言った。
春獄「男が台所にはいるとは、まったく芋将軍が。」
もしこの人が聞いたらこう言っただろう
( ●Д゚)「武将こそ台所に入りやがれ!バカ野郎!」
ご存知、仙台の不良老人、日本一のへそ曲がり、伊達政宗である。
この人は本当に多彩だった。武芸から芸事まで趣味のクラスター爆弾とも言うくらい
たくさんの趣味を持っていた。
この政宗が大好きだったのが、
「料理」
である。
なんでまた、と思わないように。
ちなみに細川幽斎も料理が得意だったが政宗の料理好きの原因はこれ。
→「兵糧研究」
簡単に言うと補給の問題を解決する為である。大きな軍隊を動かす政宗にとっては
若い頃から補給の問題に目を向けていたのである。
ところがこれにはまってしまった。
太平の世が来たときの目的はこれ。→「美食を極める。」
今度は今度でいろんな食材をどうするかという研究だったのである。
当然台所に入って自ら料理をした。
この結果、仙台は「美食の街」になってしまったのである。
政宗は常々こう言っていたそうである。
( ●Д゚)「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
ちなみに兵糧研究から「凍り豆腐」が美食研究から「ずんだ餅」が生まれたと言われている。
679 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:46:26.97 ID:B0jTq1Kx
814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/14(土) 23:43:58 ID:k+QIANcy
江戸城禁煙令
父親の影響か、徳川秀忠もかなりの健康マニアであったようだ。ただ、父親と違うのは、
家康は案外、他人の嗜好には立ち入らない人間だったが、秀忠はそうではない。
自分が良いと思うことは、満面の善意で、人にも勧める人間である。
そんなわけで江戸城内に、こんな命令が出された
『喫煙厳禁!』
当時既にタバコは、世の中にかなり広まっていた。
当然徳川家中にも、である。ニコチン中毒者がこういう時考える事。それは禁煙!
ではない。
当然、「隠れて吸う」である。
そんなわけで江戸城内の御番衆の湯飲み所は、いつのまにやら秘密の喫煙室と化していた。
さて、ニコチン患者達が今日も安らかにタバコを吸っていると、そこにひょっこり顔を出した人間がいた。
「よっ?なにやってんの?」
老中、土井利勝であった。
一同驚愕、大慌てで各々とっさにタバコ道具を隠す。なかにはキセルでやけどする人間までいる
有様であった。
しかし利勝騒がず、部屋の中に着座し、
「そなた達が今吸ってたもの、私にも振舞ってくだされ。」
などと言い出した。一同すっかり困り果てたが、何度も所望するのでしかたなく、
袖の中やひょうたんに隠したタバコやキセルを出し、利勝に差し出した。
彼はこれを二三服吸うと
「思いもかけず珍しいものを頂いた。ありがとう!」
そういって帰ろうとした、と、そこで振り向き、
「今日のことは私も一緒だから当然誰にも言わないけど、私に見つかるくらいだからここは危ないぞ。
上様がお嫌いなものなんだから、五月蝿いのに見つからないうちに、な。」
そこでこれ以降、湯飲み所での喫煙はピタリと無くなった、とのことである。
680 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:01.49 ID:B0jTq1Kx
727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/12(木) 01:49:45 ID:0gCb8Q/X
ある日、武田家に仕えたいという牢人がやって来た。
そこで重臣たちが面接すると、かなりの才人であることがわかった。
「こいつは掘り出し物だ。きっと御家の役に立つであろう。」
ということで彼らは信玄にこの牢人のことを話した。
「とても優秀な男です。なんとしても召抱えるべきです。」
「ふ〜ん、お前たちは皆同じ意見なのか?
そうか、じゃあ召抱える前にどんな男かこっそり見てみようか。
その男に食事を出してやれ。」
そして信玄は隣の部屋から男の食事している様子をチラッと見ると、
すぐに自分の部屋に戻った。
「どうですか、なかなかよさそうでしょう?」
「あの男は登用しない。」
「は?」
「あれは牢人じゃないな。牢人はあんな食い方はしない。
いいとこの大名の、しかもそれなりに地位のある家臣だろう。」
「なんですとっ!?」
驚いた重臣たちは牢人のところに素っ飛んで行き、締め上げた。
「おい貴様、よくも我らを謀ったな!どこの家中の者だ!」
「ひぃっ、わ、私は○○家の者です〜。」
その男は都周辺の大名の家来だった。信玄の推理通りだ。
重臣たちは恐縮しながら信玄のもとに戻ってきた。
「ハッハッハ、だから常々言ってるじゃないか。
全員が百点満点をつけるような人間にろくな奴はいない、ってな。」
681 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:59.62 ID:B0jTq1Kx
296 名前: 紙やすり(catv?)[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 19:01:00.91 ID:MlQXFf5i
>>235調べてたらこんなのがあったw
宇喜多中納言の略歴
1572年 岡山で誕生
1573年 近所の小川で泳いでいるところを家臣に目撃される。
1576年 旭川を泳いで渡る
1577年 大雨で水嵩の増した吉井川を渡っているところを領民に目撃される
1579年 児島湾横断に挑戦し成功する
1580年 岡山の燈籠崎から櫃石島、岩黒島、与島を経て宇多津へ遠泳する
1582年 瀬戸内海を泳いで東上し、本能寺の変を見物。即日泳いで帰郷する
1586年 前田家の姫君と結婚する。前田利家に挨拶するため、敦賀から金沢まで泳ぐ
1590年 小田原の役で伊勢から泳いで参戦
1592年 名護屋から釜山の近郊東莱まで泳ぐ
1597年 再度朝鮮へ泳いで渡る
1598年 朝鮮から泳いで帰国
1600年 関が原で敗北、大坂から泳いで薩摩に逃亡
1603年 島津忠恒によって徳川家康に引き渡される。大阪まで瀬戸内海を泳いで渡る
1606年 八丈島へ流罪が決まり、逃亡を恐れた幕府により、船で八丈島まで送られる
1614年 島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。徳川勢に苦汁をなめさせる
1615年 またも島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。敗北し泳いで八丈島へ逃亡
八丈島にいたらしいが、大坂や岡山での目撃証言や、
江戸城の御堀で泳いでいたのを目撃したという証言もある
1655年 八丈島で逝去。享年83
682 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:49:54.71 ID:B0jTq1Kx
伊達政宗が治めた領国は62万石
しかし、一説には江戸中期の実高は少なく見ても100万石
多く見ると150〜200万石程あった模様
ここまで実高を伸ばした背景には政宗の100万石への野望が
あったのかもしれない・・・
軍事ではなく内政で100万石に達した仙台藩
この大事業の陰に一人の浪人の存在が大きく関係している。
川村(孫兵衛)重吉(※しげよしorじゅうきちが一般的な読み方)
彼は関ヶ原の戦いで人生を大きく変えた人物である。
関ヶ原の戦い前夜
伊達政宗は会津の上杉景勝を抑える為に東北戦線に参加していた。
政宗は徳川家康から上杉景勝を抑えた見返りとして、葛西・大崎一揆時に
領地替えで没収された、米沢等を含めた50万石を与えられる約束を
されていた。
世に言う”100万石のお墨付き”である。
しかし当時、政宗30代中ごろの油の乗り切った時期・・・
未だ天下への夢は諦めていなかった。
また、世間から”狸”と評されている家康の話を鵜呑みにはしなかった。
( ●_ ̄)「家康殿はああは言っていたが、早々と石田方と決着が着くとは思えん」
「所詮は紙切れでしかない約束事などに如何程の効力があろうか・・・」
( ●ー ̄)「ここは騒ぎに乗じて領国を拡大する好機と捉えるが吉!」
「上杉を攻める準備の裏で南部領で一揆を扇動するかのう・・・」
政宗は上杉景勝をけん制する動きをしながら裏で南部領内に一揆を扇動したのであった。
また徳川方、石田方どちらに転んでもいい様に上杉にも和睦の使者を使わす動きを見せた。
683 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:50:50.87 ID:B0jTq1Kx
327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:06:14 ID:/evSTSPf
326つづき
しかし、政宗の読みとは裏腹に関ヶ原の戦いは1日で徳川方の勝利となる。
徳川方勝利の報を聞いた政宗はその場で落胆したという。
( ●_ ̄;)「わ、僅か1日で勝敗が決するとは・・・」
「やはり天の時は政宗ではなく家康殿を選ばれたか・・・」
止む無く兵を岩出山へ引いた政宗であったが
この時、戦後の論功行賞に対しての策が浮んでいた。
( ●ー ̄)「このままで終わる政宗ではないわ!!」
その後、家康から会津の上杉を抑えた件に関して感状が届いた。
その感状の返答として政宗は以下の要求を家康に強請った。
「徳川家康 様へ
この度の戦勝おめでとうございます。
さて、これから論功行賞に移られると思いますが、
私からこの度の上杉攻めに関しての恩賞をいくつか
リクエストしたく思います。
1.葛西・大崎一揆時に没収された米沢等の領地 50万石
(これは既に確実ですが、念のために書きましたw)
2.奥羽仕置時に太閤から没収された会津領 50万石
3.関東or京近辺に領国が欲しいです。 20〜30万石
あの強豪上杉を抑えたんですからこれくらい当然ですよね!!
上杉を私が抑えていなければ今回の東軍の勝利はなかったと
思いますよ!!
政宗あっての徳川家だということをお忘れなく・・・
家康様 期待してますNE!!
伊達政宗」
この書状を見た家康は怒りを通り越して政宗に呆れた。
家康「政宗という男は・・・こんな要求受け入れられるわけないだろ・・・」
「政宗が此度の上杉攻めの裏で南部領内の一揆を扇動したという
疑惑が南部利直から書状できておるし・・・」
「素直にしておれば米沢領50万石を拝領出来たものを・・・」
こうして政宗は米沢周辺50万石を家康から反故にされ代わりに
白石攻めで支配下に置いていた刈田領2万石のみの拝領となった。
この時点で仙台藩60万石・・・
その後、家康から申し訳ない程度で近江国(現:滋賀県)に1万石を拝領するに
留まった。
それからしばらくして・・・
政宗は京に向かう途中に家康から拝領した近江国の所領に立ち寄ることにした。
684 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:51:26.87 ID:B0jTq1Kx
328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:08:29 ID:/evSTSPf
326つづき
( ●_ ̄;)「確かに京周辺の所領だが・・・これ本当に1万石もあるのか?」
「ワシにはどう見ても3千石しかないように思えるが・・・」
田畑を訝しげに見ていた政宗の目に一人の男が映った。
ないやら田畑を見て「あーでもない、こーでもない」と言わんばかりである。
( ●_ ̄)「その方、何をしておる?」
( ・∀・)「いえ、この土地やりようによっては石高を倍に出来るかな
なんて考えてたんですよ」
( ●_ ̄)「何?この土地を倍にか?」
( ・∀・)「はい、そうです」
この男、早速政宗に土地改良の方法を説明し始めた。
あまりに斬新なやり方に政宗以下近習が驚きを隠せなかった。
( ●_ ̄;)「(これほどまでの男が何故浪人のような形を・・・)」
( ●_ ̄) 「お主、何故それほどの能力がありながら浪人のような形を
しておるのだ?」
( ・∀・;)「いや〜、元々私は毛利家に御仕えしていたんですが
関ヶ原の戦いで毛利家が120万石から36万石に減俸
されまして・・・」
( ●_ ̄) 「それで浪人となったと・・・」
( ・∀・;)「はい・・・」
この時、政宗の脳裏に家康から”100万石のお墨付き”を反故にされた事が思い出された。
( ●_ ̄) 「(身から出た錆とはいえ、100万石を不意にしたのは痛かった)」
「(これから大きな戦はないであろうし、軍事的に領土を増やすのは
もう出来ない。しかし、内政的には増やすことは出来よう)」
「(幸か不幸か、わが領国には未開拓の土地が山のようにある。それを
開発できれば・・・)」
( ●ー ̄)「(100万石、いや200万石も夢ではない!!)」
( ●_ ̄)「お主、ワシに仕えぬか」
( ・∀・;)「え?伊達様にですか?」
( ●_ ̄)「ワシの領内には未開発の土地が山のようにある。これからは戦で領土を拡大する
時代ではなく内政で領土を拡大する時代になろう。」
「そちのように治水・土木に精通する人間が必要になる」
( ●ー ̄)「どうじゃ?ワシとともに100万石、いや200万石を自らの手で開拓してみぬか!」
男はしばらく考えた
( ・∀・;)「(毛利家ではそんなに重用されなかった私を
必要としてくれる方がいたとは・・・)」
「(これも何かの縁だ、この方の御仕えしよう)」
( ・∀・)「伊達様!若輩の身でありますが、宜しくお願い致します!」
( ●ー ̄)「うむ、宜しく頼むぞ」
( ●_ ̄)「ところで、そちの名を聞いていなかったな」
( ・∀・)「川村重吉(かわむらしげよし)と申します」
( ●ー ̄)「重吉、宜しく頼むぞ」¥
こうして川村重吉は伊達家に仕官することとなった。
その後の重吉の仕事振りに伊達家中は驚きを隠せなかった。
685 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:52:26.04 ID:B0jTq1Kx
329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:09:57 ID:/evSTSPf
326つづき
当時の仙台城下は湿地帯でおまけに広瀬川は谷川という状態だった為、
井戸水の確保に頭を悩ませていた政宗は重吉に・・・
( ●_ ̄;)「城下に井戸が掘れるようにならんかね?」
と相談した。これに対して重吉は・・・
( ・∀・)「簡単です。広瀬川の上流から支流を人工的に作って
緩やかに水を流して町中を潤し、地中に水を浸透させればいいんです。」
と答える。
しかし、現在ほど治水・土木技術が発達していない当時この難事業は無理ではないか
と思われていたが、重吉はいとも簡単にこなしてしまう。
これが、現在の四ツ谷用水の基となった。
(この事業事態は伊達吉村まで引き継がれることになります。)
しかし、重吉とってもっとも難事業となったことがある。
北上川の治水工事です。
元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)の10年を費やす難事業となった。
重吉自身、工事費ねん出のため自ら借財、工事現場に泊り込み、
従事者達と汗を流し、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。
その結果、迫川と江合川を北上川に合流させ、
北上川本流を石巻湾に南下させる河川改修事業が成功。
この結果、三川が合流していた仙北平野の開発が進みました。
また仙台藩米のほかに盛岡・八戸藩米の川下しが開始され、
内陸水路が整備されて河口港石巻が成立された。
葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻に一躍米の集散地となり、
河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、
江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。
治水に伴って流域では三十三万石余の新田開発も行われ、
地域の発展に計り知れない恩恵をもたらした。
686 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:09.41 ID:B0jTq1Kx
330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:11:20 ID:/evSTSPf
326つづき
その後、重吉の活躍に対して政宗は1500石の領地を与えた。
しかし、重吉の家臣たちはこの政宗の褒美に憤慨した。
家臣1「殿はあれだけの大事業をなされたのに、
政宗様はたった1500石程度の褒美とは・・・」
家臣2「殿があまりに不憫過ぎます・・・」
そうぼやく家臣に重吉は笑いながらこう言った。
( ・∀・)「この1500石と書かれている領地はまだ未開拓の土地。
政宗様はこの土地好きなように開拓しろと書いている。
我らの力を持ってすれば10倍いや、
20倍にだって出来るではないか!!」
差し詰め、政宗は重吉に小切手を渡したといった感じであろうか。
重吉は貰った土地を開拓しながらも、さらに領内の治水・土木工事を
積極的に進めて行った。
北上川の工事完成後は石巻に住み、
慶安元年(1648年)、74歳で世を去る。
死の直前まで開拓現場に足を運んでいたようである。
それから335年後の昭和58年(1983年)8月1日・・・
宮城県の地元紙・河北新報社は、石巻市制施行50周年に当たり
港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため
宮城県石巻市の日和山公園内に川村孫兵衛重吉の銅像を建立、
石巻市民に寄贈した。
関ヶ原の戦いで浪人となった川村重吉・・・
歴史に”もしも”を持ち込んでは行けないが毛利家が重吉の才能を
分かっていたら、幕末の長州藩はどうなっていたのだろうか
等と考えてしまう。
687 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:44.17 ID:B0jTq1Kx
173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/02(月) 17:51:40 ID:jHcr0HH1
武田信玄の家臣に、原昌俊という武将がいた。
この昌俊は、辺見某と言う家の娘を、嫁とした。
この辺見某は合戦に追われ、家にいることがまれで、また、その妻も早くに死別し、
娘は屋敷で一人、さびしく留守をすることが多かった。
その家は上条の地蔵堂のほとりにあった。
結婚をして、この娘は昌俊に、深く愛された。娘もまた妻として夫を深く愛し、
新たな、あたたかい家庭を得た事を喜んだ。
が、妻は間もなく病に倒れ、必死の看病も空しく、はかなくも世を去った。
昌俊の嘆きは例えようも無いほどであった。
妻は死ぬ前に、法成地の地蔵堂の方に向かって手を合わせ、どうか願いをかなえてください、と、
地蔵の寳号を唱えながら死んだ。
そこで昌俊は妻を法成寺の後ろに墓をつくって葬り、自身もまた、妻が後世に導いてもらえるようにと
地蔵菩薩に帰依し、祈った。
妻の死から、100日を経た夜半の事である。
杖をつき、水晶の数珠を身につけた80歳ほどの老僧が、昌俊の家の戸をたたいた。
何事かと尋ねると、老僧は言う、「おぬしの妻が生き返ったので、連れてきた。」
昌俊は大いに驚き見ると、僧に、ぐったりとしているが確かに生きている妻が抱えられていた。
僧は言う。「自分は法成寺の内に住む者だが、今宵、堂より出でてみれば、塚が崩れ、この人が
倒れておった。何者かと尋ねれば、原昌俊の妻だと言う。よってここに連れて来たのだ。
良く、養生させるように。」
そしてかき消すようにいなくなった。
後で確認をしてみると、確かに妻を埋めた塚は崩れていたと言う。
さて、蘇った妻は、最初は呆然として、記憶なども欠落していたようだが、昌俊が粥などあたえ
看病しているうち、七日ほどたつと元のように戻った。
ただ、明るい場所を嫌うようになった。
ともかくも、元の幸せな生活が戻ってきた。翌年には子が生まれた。そして3年がたった。
妻は涙を流しながら、昌俊に言った。
「私は、この世の者ではありません。
あなたともう一度だけでも過ごしたくて、上条の地蔵菩薩にお願いをし、3年の間だけ、この世に
戻ってくる事を許されました。
その時間はもう、尽きようとしています。
子を残していくのはつらいですが、私の塚は壊さないで、良く弔ってください。どうか、
私のことを、忘れないでください。」
そして、消えた。
後で彼女の塚を見ると、崩れていたというのは幻で、草が茫々として生い茂っていた。
人々は不思議な事と囁きあい、この事を聞いた信玄は、法成寺の地蔵堂を改修し、
昌俊の妻の菩提を弔った。
そして昌俊はこれ以後、新たに妻を持つ事はなかった。
彼女の残した子は、成長した後、原隼人を名乗り、武田にその人ありと天下に名を響かせることになる。
688 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:54:38.44 ID:B0jTq1Kx
74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:20:50 ID:40yFsSUj
スレの流れを変えるには食い物ネタに限るな
ラスボスとふぐの話をとあるサイトよりコピペ
豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に
下関から海を渡っていった、しかし兵士が下関で獲れた
ふぐを内蔵ごと食べまくったせいで集団による食中毒死者を
大量に出してしまいました。
烈火の如く怒った秀吉により出されたのが「河豚食用禁止令」であり、
日本最初のふぐ食用取り締まり令だと言われている。
江戸期になるとあちこちの藩で禁令が出されるようになり、黒田藩や長州藩では河豚を食べ中毒死した場合はお家断絶と、
武士にとって最高の厳罰が設けられた。
しかし「河豚は食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれる河豚の味。
江戸時代の俳人・一茶や芭蕉も河豚をよんだ句がいくつかあり、そのうまさに魅かれて、さかんに河豚を食べている。
禁令をくぐって広く食用され、落語のネタや浮世絵の画材にされるなど愛されていた。
明治になってからも「河豚を食う物は拘留科料に処する」という禁令があった。
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:22:14 ID:40yFsSUj
明治21、22年の頃、すでに伯爵になっていた伊藤博文が
下関の料亭「春帆桜」(明治28年日清講和条約の舞台)を訪問した際に、
あいにくその日はしけで魚がない、女将がその旨を申し上げると
「俺はよいが馬関(下関)に来て、魚がないとは…。」とやんわりと皮肉った。
女傑として名高い女将が、それではと意を決して禁令の河豚を出したところ、
「一身よく百味も相をととのえ」と絶賛し、「調理法さえ間違えなければこんなに美味い
ものを禁じるのは勿体ないことだ。」早速、時の山口県令・原保太郎に命じ、
「違警罪即決例」のふぐの条項を削除させるように働きかけたのが「ふぐ解禁令」である。
全国で最初にふぐ食が解禁されたのが山口県であったということも、
下関でふぐが盛んになっていった要因の一つであると言えよう。
しかし河豚食が解禁されたのは山口県だけで、合法的に全国で河豚を食すには、戦後を待たねばならなかった。
(東京都は、明治25年、兵庫県は大正7年、大阪府は昭和16年に解禁)河豚といえば山口といわれるようになったのは、
このような事情からと推察される。
94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 18:54:03 ID:D3V+kteZ
>>75 一方少し送れて昭和後期、下関に立ち寄られた時の天皇(昭和天皇)は
万が一を警戒した近習によって河豚を食べさせてもらえなかった。
しょんぼりと膳(河豚抜き)のものをつつく天皇陛下をよそに、同行の
政治家や役人は河豚の美味をかみ締めていた。
陛下、そんな一同を見渡して曰く。
「河豚には、毒があるのだぞ…」
滅多に我侭を言わず、美食家ではあられたが食事への不満を言わぬ事
で有名であった陛下ですら負け惜しみを言ってしまうほどに世の人を
魅了した魅惑の食材なのでした。
689 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:10.74 ID:B0jTq1Kx
785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 06:34:11 ID:Mkh9BYHf
最上義光、人生を語る
―義光公は無道に報いず、将兵を我が子のように愛すると評判ですが。
「まあそうだね、武士っていうのはさあ、結局扇みたいなものなのよ。
要が大将、骨が物頭、総勢は紙ね、わかる?
どれが欠けても駄目ってことだね。だからさ、そうするのが当然なの」
―知仁勇を備え、寛大で柔軟だけど邪悪ではない性格だそうですね。
「やめろよ、照れるだろ。侍道に背かないようにしていただけだよ」
(※義光が書状でよく使っていた言葉は「侍道」。いまでいう武士道
と道義ではなく「常識的に考えて」みたいな意味)
―戦国という時代を振り返ってみていかがですか。
「そうねえ、この時代には神社や寺をぶちこわしたり、主君の恩義を無視したり、
親不孝だったりしたりね。あと贅沢三昧で金がなくなったら、税金重くしてって
いう。そういうDQNがいて滅びたりしたよね。
DQNっていうのは結局DQNだし、それをしかりつけない家臣もだめなのよ」
―ご自身はそういうことはなかったのですか?
「そりゃオレだって若い頃は天童や白鳥と戦ったりね、バカやって領民に
苦労かけちゃったからね。上杉との合戦では戦死者一杯だしたし、
そういうのは今になってみればすごく恥ずかしいよ」
―成功の秘訣は?
「どうだろうね。まあ神仏に助けられて、こうやって領地をおさめられている
わけだからね。そうはいってももう年だからさ、あとは死ぬしかないわけだよ。
さみしいよね、本音言うとさ。
で、もうここいらで恩返ししよっかな、って思うのね」
―恩返しとは?
「戦いで占領した土地からは、軍の給料とする以外はあと三年は年貢とらないよ。
その浮いたお金で寺社仏閣の整備、修復をしてくれればいいからさ」
―気前がいいですね。今日はありがとうございました。何か一言どうぞ。
「みんな、妹や家族は大事にしろよ!」
(※『最上記』、『奥羽永慶軍記』、『羽源記』、義光書状
などにある義光の発言や評価をまとめてみました)
690 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:59.37 ID:B0jTq1Kx
731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:27 ID:obqaIR0A
名将言行録から人間慌てると何を言うかわからん話。
1.蜂須賀家政家臣
蜂須賀家政の家臣何某は病気になって休みをとっていた。
病気とはいえたまには運動せんと…とでも思ったか、ある日家の近くをゆっくり
歩きまわったりしていたところ、そこにちょうど家政の駕籠が通りかかった。
何某が頭を下げていると家政が駕籠から降りてきて、
「お前病気って話だったけどなんの病気?」
何某ははっとして、これは俺が出歩いてるのを見て、
こいつ仮病で休みやがってと思われてるんじゃないか!?
えーと…えーと外出してても問題なさそうな病気…
「つ、つんぼです!」
ヤッチマッター!
そんなわけねえ!そんなわけねえー!
しかし家政はこれを聞いて「よく養生しろよ」とだけ言って帰ってしまった。
何某がこの失態を責められるのではと家で恐れおののいていると、
家政から漢方薬と見舞いの言葉が送られてきた
「顔色も悪いし痩せこけてるからこりゃ肝臓かなと思って聞いてみただけだ」
ほっとした何某はやがて快癒して出仕もできるようになった。
これはとっさに嘘の病名を言ったことを気に病んで治るのが
遅くなってはいかんという家政の心遣いだったという。
家政は常々人に「武士は情あるを以て好しとす」と語っていたそうな。
691 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:56:54.68 ID:B0jTq1Kx
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:59 ID:obqaIR0A
2.黒田如水家臣
聚楽第に諸大名が伺候していた当時、黒田家では賭博はご法度だった。
ところがお分かりと思うが禁じられていてもやる奴はやるということで
黒田家の家臣桂菊右衛門はその夜博打で大勝ちして、羽織に包んだ戦利品
片手にほくほくと朝帰りの家路を辿っていた。
ところがはっと気が付く、ありゃこの道は大殿が仕事に出る時に通る道では
なかったか。
鉢合わせになったりしたら嫌だなあ…そう思いながら進んでいると、
悪い予感は当たるもので、角を曲がった所でばったり如水と会ってしまった!
ここで何某慌てたのなんのって、思わずこう叫んだ
「それがしっ、博打の帰りではございません!」
ヤッチマッター!
如水はその場ではなにも聞かなかったように通り過ぎたが、桂は後悔した。
あんなことを言ったらそりゃあバレるに決まってる。俺はもう切腹だ。
家でふさぎこんでいると事情を知った朋輩も、そりゃお前切腹だよと
沈痛な表情で見舞いに訪れる。
もちろん明日の命も知れぬとあっては金どころではなく、戦利品の包みは
その辺に放置され中身も確かめないままであったが、
当の如水はそれを聞いて大笑いし「よしよし勝ったか、まあ勝ったところで
打ち止めにしておけ、いいことの後は悪いことがあるぞ。
今朝みたいなアホなことを言い出すのも法度を恐れるあまりのこと、
そんなに大事と思うなら今度からどんな法度も破らぬようにすることだ。
今回は許すがその内身代を擦り切らせたなんて話を聞いたら今度こそ
罰を与えるぞ。
とにかく博打に限らず無駄遣いしたりして擦り切らないように気をつけろ」
如水はこの調子で世知に長けて、落ち度があっても厳罰に処すことはなく
相手に非を悟らせ機会を与えたので非常に仕えやすかったそうだ。
殿様っていうのはフォローも上手じゃなきゃいけないんですね。
692 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:57:44.88 ID:B0jTq1Kx
526 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/25(木) 00:23:55 ID:PyeGt8Rf
政宗の国風六首
政宗が朝鮮出兵のおり、幼い頃からの近臣であった原田宗時が対馬で病没した
友とも言える宗時の死に、政宗は和歌六首を贈った
夏衣 きつつなれにし みなれども 別るる秋の 程ぞ物うき
虫の音も 涙催す 夕ま暮 淋しき床の 起臥はうし
哀れげに 思うにつれぬ 世の習い 馴れにし夢の 別れをぞする
みるからに 猶哀れそう 筆の跡 今より後の 形見ならまし
誰とても ついには行かん 道なれど 先立つ人の 身ぞ哀れなる
吹き払う 嵐にもろき 萩の花 誰しも今や 猶まさるらん
上から順に頭の一文字を取ると「なむあみだぶ」となる
DQNと言われまくっている政宗であるが、こんなセンチな面もあるのだ
以下余談
原田家は跡継ぎがおらず、桑折家からの養子・宗資を迎えることで名跡を残した
その原田宗資と茂庭綱元・香の前の娘おつた(一説には政宗の落胤)の子が
伊達騒動で有名な原田甲斐である
おつたが本当に政宗の娘であるならば、原田甲斐は
原田宗時の義理の孫であり、
茂庭綱元の義理の孫であり、
なおかつ政宗の孫という、かなりややこしい血筋となる
693 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:58:21.95 ID:B0jTq1Kx
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg
朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。
長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。
驚いた清正は兎に角話しを聞いた。
長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」
清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」
長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」
おろおろするのを見かねた清正は
「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」
っと幸長の義父となる事を長政に告げた。
幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。
其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。
翌日二人は揃って清正邸に赴いた。
長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。
知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。
お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」
幸「よろしくお願いします、父上」
清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」
その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。
幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。
帰国した幸長は大いに成長していた。
清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。
長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。
幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた豊家に思い入れようはあまりない。
しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。
それは清正から学んだ忠義の姿勢である。
いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。彼は清正と並び称される事が誇りだった。
しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。
この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。
↓死因
清正「お主、童貞だな」
幸長「どどど童貞ちゃうわ」
清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」
幸長「ごくりっ…」
694 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:00.05 ID:B0jTq1Kx
705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/24(月) 22:26:49 ID:kk5WKUU7
黒田如水が、福岡城を築城していた頃
建築現場から、木材が盗まれるという事件が頻発した。それがあまりに続き、工事の進捗にまで
影響をし始めた。それを聞いた如水の命で張り込みが行われ、やがてそれが功を奏し犯人を逮捕できた。
大工の一人だった。
報告を受けた如水は、その場に大工や左官どもを集めておくように、と言い、捕縛された
大工の元に駆けつけた。そして大工や左官達の前に犯人を引き出すと、いきなりこれを、
罵倒し始めた。
「この材木泥棒め!お前は泥棒などして恥ずかしいとは思わぬのか?大うつけが!」
そして扇子で犯人の頭をぴしゃりと叩き、「恥を知る頭もないか」と罵った。
やがて大工や左官達に振り返り、「よいか皆のもの、この男は盗人である!その罪により打ち首といたす!」
そしてこの男は一旦、石牢に入れられた。
そして数ヶ月がたった。
あの犯人は、そのまま石牢に入れられていた。如水から、刑執行の命令が無いのだ。
もしや大殿はあの罪人の事をお忘れになっているのでは?そう思った家臣達は、如水に尋ねた。
「どうでしょう、明日にでもあの罪人を打ち首になされては…?」
「ばかもの!」如水が怒鳴った「お前達は命の大切さを知らぬのか!?」
殿が打ち首にせよと言ったのではないか、そう思い唖然とする家臣たちに如水は
「よいか、大将たる者、理非賞罰の心構えがなくてはならぬ。お前達は、あの時大工を集めたのは
見せしめのためだと思っておろう。それはその通りじゃ。大工達を戒めるため、あの場に集めた。
…が、犯人を殺すかどうか、これは別じゃ。人間は、誰しも何かの役に立つ。だが、盗まれた
材木に衣服を着せても、あの犯人の大工と同じ役に立とうか?出来まい。
かように、人の命とは大切なものだ。みだりにこれを奪ってはならぬ。
お前達は、人の上に立つ者達だ。最初に盗まれた時、『再び罪を犯せば次は無い』、そう知らしめ、
同じ事を繰り返さぬようすることが役目であろう。
それを、何度も盗まれていながら、捕まえたから首を斬る。これではあまりに浅はかであろう。
あの犯人を放って置いたのは、お前達の誰かがこのことに気がついて、防犯を徹底できなかった
自分達も悪い。このたびだけは許してやってほしい。そう言いに来ないかと、それを待って
いたからなのじゃ。
よいか、この事をどうか、よく考えて欲しい。そしてあの犯人は、今回だけは許してやるのだ。
『この次は無いぞ?』と言ってな。」
治世を為す者は、罪を犯したものを憎む前に、その罪を犯させてしまった自らを省みよ。
そんな事を伝えた、黒田如水のお話
695 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:50.56 ID:B0jTq1Kx
611 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 18:45:23 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ一)
人使いが巧く、「名人久太郎」と呼ばれた秀政。戦場でも彼はその才能を発揮していた。
合戦での陣中の夜間、特に風雨の強い時などは
「陣泥棒」と言う、武具や糧秣を盗む盗賊が
いて、当時の武将達は常に警戒していた。だが
秀政の陣では「陣泥棒」にやられる事が無かった。
秀政は見張りの兵達に、こう申し付けていた。
「今宵は風雨が強く、泥棒には絶好の機会だ。もし
『陣泥棒』が来なくても、わしがスキを見て泥棒に
入るので、気をつけておけよ。」
大将にこう言われては、厳しく警戒せざるを得ない。
秀政はこうして「陣泥棒」を防いだのである。
612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 19:19:38 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ二)
秀政が秀吉の配下として九州平定戦に従軍していた時の話である。
秀政は城を攻めていた。城方から勇敢にも
討って出てきた、敵兵五十人ほどを生け捕り
にした。秀政の前に引き出された敵兵達は、
見せしめの処刑を覚悟した。
秀政は敵兵達に言った「九州に来てから城攻め
ばかり。攻めた城はどこも一日で落城し、わし
は次々と行軍せねばならず、本当にきついのだ。
そこでお前達に頼みがある。このまま城に帰って、
せめて後三日は持ちこたえてくれないか?対陣して
いれば軍を動かさずに済むからな。」
と言って敵兵全員を解放した。すぐさま城に逃げ
帰った兵達は、とても敵う相手ではないと悟り、
城方は即座に降伏した。「名人久太郎」の面目躍如である。
もっとも、秀政は本当に休みたかったのかもしれないが…
615 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 21:22:55 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(政務編)
ある時、堀家では論争が起きた。それは
「荷駄を運ぶ際、荷駄の数を決める勘定役と、
荷駄を運ぶ担ぎ役とではどちらが偉いか?」
と言うものであった。現代風に言えば経理担当
と現場担当どちらが大変か?と言う感じである。
これを聞いた秀政は勘定役、担ぎ役の双方を集めこう言った。
「わしはかつて、蔵入り奉行(経理担当)をして
いたので、勘定役の苦労はわかる。だが担ぎ役は
したことが無いゆえ、今からやってみる。荷駄を
用意してくれ。」と言って荷駄を用意させ、自ら
荷駄を担いで小高い山を乗り越えた。
そこで一緒に着いてきた勘定役と担ぎ役の双方に言った。
「わしも戦で鍛えたゆえ、荷駄ごときと思っていたが、
間違いだった。ここに運ぶまでにヘトヘトになってしまった。
担ぎ役達には、いつもこの様な苦労をさせていたのだな。
本当にありがたい。これで勘定役も荷駄を運ぶ苦労がわかったで
あろう。お互いが苦労をいたわれば良いのではないか。」
勘定役、担ぎ役の双方は秀政の体を張った説得に感動し、和解した。
以後論争は無くなり、家中の団結は一層強くなったのである。
696 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:00:45.98 ID:B0jTq1Kx
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:46:08 ID:uUJ+sXDV
加藤嘉明の家臣に、河村権七という者がいた。
彼は関ヶ原でも大功をたてた者であったが、生来頑固であり、あるとき、
嘉明と行き違いで口論となり、腹立ちのあまり加藤家を出奔することにした。
が、出奔した後「あいつは他の家に、今より良い条件で仕えるために出奔したのだ。不忠者だ」などと
言われるのも片腹痛い。そこで、書置きを残した。
「この度お暇を頂くのは、他家に仕えるためではない。例え放浪の身になっても、
加藤家以外に仕える事はない。今後加藤家に大事があったときには、何処にいようと掛けつける。」
そうして、出て行った。これを知った嘉明は渋い顔をしたが、そのままほおって置いた。
14年の時が過ぎ、大阪の陣となる。
この時、豊臣恩顧の大名の多くは、江戸に留守居として抑留された。無論嘉明もそうなった。
そしてこんな噂が流れた。江戸に抑留された大名達は皆、改易されるのではないか?
そんな嘉明の江戸屋敷に、汚い身なりをした修験者が現れた。
「どうか殿にお目通りを」河村権七であった。
嘉明は驚き、対面した。「加藤家改易の噂を聞き、いても立ってもいられず参上いたしました。」
「…よく来た。書置きのとおりにいたしたな。」
嘉明はそれを喜び、河村を、元のように八百石で召抱える、戻って来い。と言った。
最初権七は恐縮したが、ついにこれに応じた。
「よし…。ではこちらに来い。」
嘉明は権七を、屋敷の一室に連れ出した。その部屋には、紫の布に覆われた、山のようなものがあった。
これはなんだろうと、権七が不思議な顔をしていると、嘉明は家臣に命じその布を取らせた。
その下には、莫大な金銀があった。
「権七、お前の俸禄じゃ。」
権七は混乱した。たった今八百石で仕えるとは言ったが、それが何故このような大金になるのか。
すると、その布を取った家臣が言った。
「これは河村殿が、『見聞の旅』に出ている間の俸禄を、殿の仰せで積み立てておいたものです。
14年分で一万一千二百石。どうぞお納めなされ。」
「お前は14年前、言ったな」唖然とする権七に、嘉明は語りかけた
「他家には仕えぬ。わしの一大事には駆けつける。お前の忠心を思えば、わしにはおぬしの俸禄を、
横領することなど出来なかった。そして今、その通りにしてくれた。
権七、またこの嘉明に、力を貸してくれ。」
権七はただただ、感涙にむせんでいた。
大阪の陣の後、会津四十万石に加増された加藤家において、河村権七は良く、嘉明を支えたという。
697 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:42:37.83 ID:B0jTq1Kx
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/18(火) 18:06:45 ID:vu+4blV7
彦根城の人柱
慶長八年(1603)、家康の命により築城の始まった彦根城。工事は順調に進んだが、
天守の築造にいたってとたんに進捗が滞った。どうやっても上手く行かないのだ。
これに、工事関係者は「人柱を用いるべきではないか?」
と、ささやき始めた。この声は藩主、井伊直継にまで達したが、直継は
「人柱など立てても、工事が進むわけではない。人命を無駄にしてはならぬ。」
と、それを認めなかった。しかし、工事は遅々として進まない。
責任者の普請奉行は、深く悩んだ。自宅でも工事の事ばかり考えていた。
どうすればこれを打開できるか…
父の悩む姿に、その娘、お菊が、思いつめた顔で言った
「父上様、私を人柱にしてください!」
唖然とする父、そして母。だがお菊は言う、
「父上はいつもおっしゃっているではないですか、殿様がお困りの時は、
命を捨ててご奉公しなければならない、と。」
「だが、それは…」
「今こそわたくしが、殿様のお役に立てるときではございませんか。
そのために投げ出す命なら、本望でございます!」
娘に説得され、翌日普請奉行は直継にこれを進言した。
「なんと…」
直継はしばらく考え、言った
「お主の娘の忠心、感じ入った。このとおり、礼を申す。」
主君であるにもかかわらず、直継は普請奉行に深々と頭を下げた。
お菊は、人柱となることになった。
数日後、白装束に着替えたお菊は、白木の箱に入り、埋められた。
「殿様のお役に立ってまいります。」
それが最後の言葉だった。
普請奉行は、娘が埋められるところを見ることが出来なかったと言う。
お菊の埋められた数日後、天守は無事、天守代にすえられた。工事は成功した。
直継から、普請奉行の元に書状が届いた。
お前達には、この工事の事で特に礼を言いたいので、内儀と一緒に屋敷に来て欲しい、と。
夫婦二人、御前にまかり出た。平伏していると、直継が入ってきた。「顔を上げよ」視線を上に上げると
「あっ!」
「父上様!母上様!」、お菊がいた。
「わしはな」
仰天している普請奉行夫婦に、直継は言う
「最初から、人柱などするつもりはなかったのじゃ。だが工事の者達はもはや、
人柱をしないと納得できないようであった。だからお主の娘を埋めると見せかけ、
こっそり空の箱と取り替えたのだ。みな、人柱があったと思い、
おかげで工事は順調に進んだ。黙っていてすまなかった。礼を申す。」
普請奉行は涙を止める事ができず、ただただ体を震わせながら平伏していた、と言う。
698 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:00.99 ID:B0jTq1Kx
520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/17(月) 10:02:38 ID:YhqBQFKz
遊郭と家康
駿府の城下町に遊郭ができ、徳川家の旗本御家人に大人気となった。
家康は内心御家人の遊蕩を苦々しく思ったが、遊郭が城下町の繁栄に貢献してい
ることもあり、特に取り締まりはしなかった。
しかし、家康が遊郭を放任したことで、御家人の中には遊郭の借金で首が回らなく
なる阿呆が出る始末。
そこである作戦を考えた。
ある時駿府町奉行から、
「上様が遊郭の遊女の踊りを御覧になりたいので、上様の御前で選りすぐりの遊
女による踊りを披露せよ。」とお達しがあった。
数日後遊女たちは家康の御前で見事な踊りを披露し、家康は遊女一人一人に菓子
を自ら与えるほどの上機嫌ぶり。
そして、遊郭に帰ろうとする彼女たちに町奉行はこう言った。
「上様はそなたたちの魅力にメロメロになられたそうだ。そなたたちの内から上
様のお側仕えに何人か召し出されると思うので、その準備だけはしておれよ。
但し、この話は内密にな。」
この話を聞いてすっかり有頂天になった遊女たちは、早速客の御家人たちにその話
を自慢した。
それを聞いた御家人たちは、
「こんなに口が軽い遊女たちが上様のお側仕えになれば、俺たちの遊蕩も洗いざ
らい上様にばれるに違いない。」とすっかりブルッてしまい、その日を境に御家
人の遊郭通いはピタッとなくなりましたとさ。
(名将言行録)
699 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:53.31 ID:B0jTq1Kx
457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 16:39:35 ID:JUL2/4z8
大阪冬の陣が始まろうという頃
杉野右馬允の家臣に山本才助という者がいたが、その才介の召し使っている老女に、
この年18になる、三之助という者がいた。この若者が、主人が出陣するのなら、
自分も是非連れて行って欲しいと、そう言って来た。
才介は「年老いた母がいるのだ、国元に居ろ」と言ったが、その母も
「武家に奉公している者は、戦の時は主人の共をして出陣するものです。私の事は心配せずに、銅か息子の願いを聞いてください。」
そう頼むので、従軍する事となった。
そして大阪に着き、合戦が始まった。大阪城から数百丁の鉄砲が、一斉に放たれた。
とたん三之助は、
逃げた。
初めての戦場と大量の鉄砲の音、緊張と恐怖でわけがわからなくなり、戦場から逃走したのだ。
故郷の屋敷に、ボロボロの姿で現れた三之助を見た母親は驚いた。
「もしや、ご主人が討ち死になさったかい!?」
「いいや、ご主人にはなんにもなかったけど、大阪城からの鉄砲の音を聞いて、天地が崩れるかと思って一目散にここを目指して逃げてきた。途中で金がなくなり、乞食をしながらやっと帰りついた」と、答えた。
母は最初の驚きが過ぎると、だんだん腹が立ってきた。
「お前のような者とは親子の縁を切る!これが今生の別れだ!」と、金を渡して屋敷を追い出した。
大阪冬の陣は、和議が成った。
杉野軍も国許に戻った。さて、母に追い出されて十日後、あの三之助がまた屋敷に戻ってきた。
母はまた彼を叱り飛ばし、追い出そうとしたが、屋敷に帰っていた山本才介がそれを聞きつけ、三之助を呼んだ。
「お前はどうして逃げたのだ?」
銃の音で怖くなって逃げた。その顛末を正直に話した。「追い出されたけど、どこにも行く所はありません。お手打ちも覚悟の上で戻ってきました。」
山本才介は何も言わず、三之助を元のように召抱えた。
さて、和議は壊れ、夏の陣が起こる。杉野家も出陣が決まった。
三之助はまた、従軍を願い出た。「また鉄砲が鳴るぞ?」才介は笑って言った、母も今度は強く反対したが、三之助は真剣だった。才介は、従軍を許した。
天王子、岡山での最後の決戦、山本才介と三之助、そしてもう一人の従者は、
城に引き上げようとしていた敵の騎馬武者三人に追いつき、攻撃を仕掛けようとした。
しかし城内から鉄砲を撃ちかけられ、従者が腰を撃たれ、斃れた。
残るは、才介と三之助の二人だけである。才介は勇敢に騎馬武者に向かっていったが
ついに取り逃がしそうになった。その時、
三之助の猟銃が放った弾が、騎馬武者の一人に当たり、落馬させた。
山本才介はその首を取り、見事、手柄を上げた。
冬に逃げた三之助が、それを許した恩に報い、夏に主人に手柄を上げさせた。そんなお話。
700 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:46:29.25 ID:B0jTq1Kx
758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 23:01:24 ID:e7FJPJ0G
島津家と猫の関係。
島津義弘は朝鮮出兵の際、猫の瞳孔で時刻を知るため七匹の猫を
従軍させた。朝鮮の島津家中では籠に猫を入れて背負っていたそうだ。
そのうち五匹は死んでしまったが、二匹は生き延びて帰国した。
その一匹は黄色と白の毛色で、義弘の二男・久保はこの猫をヤスと名付け、
とてもかわいがっていた。久保は二十一歳で陣没してしまうが、
そのあとも地元ではこの毛色の猫をヤスと呼ぶようになったという。
この猫の供養のため、鹿児島には猫猫神社があり、ヤスと同じ毛色の
猫がえがかれた絵馬がある。毎年時の記念日には時計業者が
神社を訪れるという。猫の健康にも御利益があるとか。
_ , -、 , -、,っ
<´ 3ヽ、 ∧,,∧ rl ε> < 3 ) ∧,,∧ / ⌒>
∠、・_,つノ c'(__,)っ (_c、_l ,_>っ ∠、・_,、つ c(´=ω=`)っ と、__,>
788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/24(金) 16:42:35 ID:h6k95Dc3
鯉を食った話
まだ家康が岡崎にいた頃、家康は城中の池に、3匹の鯉を大事に飼っていた。
ところがある日、一番大きな鯉が消えうせていた。家康が番人に問いただすと、
家臣の鈴木久三郎という者が、殿から拝領したのだといってこの鯉を調理させ、
さらに同僚達を呼んで織田信長から送られた酒と一緒に平らげてしまった、ということであった。
なんと言うやつだ!鈴木を成敗する!怒った家康は長刀を握り締め、鈴木を呼びつけた。
御前に現れた彼は大小を後ろに投げ捨て、平伏し、言った。
「恐れ入った事をいたしました。しかし魚鳥のため人の命をお取りなさるとは、なんと愚かな。
殿の事を見損なっておりました。さあ、ご存分に!」
と、家康の前に首を差し出した。
このとき家康は気がついた。つい先日、城の堀で魚を盗った徒士と、禁猟地で鳥を撃った
家士がいて、近く処刑するつもりで捕らえさせてあった。
鈴木は、命をかけてそのことに対する諫言をしているのだ。
家康は手に持った長刀を放り出すと
「久三郎、一命を許す」
と言って、奥に引っ込んでしまった。先に捕まった二人の家士も許された。
なんとも家康らしいお話。
701 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:48:49.11 ID:B0jTq1Kx
455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/13(月) 00:46:19 ID:/AzWYN/d
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、休伯は軍役に
関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。
しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。彼の領地、館林の開拓を
やってくれないか?と。
館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、冬の強風(からっ風)で
火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に慢性的に悩まさ、農民達も多くが貧窮していた。
特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。
「これは、大変な事業になります」
この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを説明し、
それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。
休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。
永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と呼ばれる土地で、
被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある
金山から分けてもらうことにした。
初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。「ほら、無理なことだ」と。
しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。
事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏についていた館林赤井氏は、
上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。事業主体が、消滅してしまったのだ。
休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。
その時である
館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」
資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、自分達のために
働いていることを、いつしか理解していたのだ。ここに彼らの活動は、地域事業となった。
住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。
この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。
これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。
防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。
この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、現在の
太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という長大な用水路を開発。
さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る「下休伯堀」を開発。
休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が供給されるようになった。
堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。
休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。
天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、天正六年八月二十九日、
数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。
領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の祠を神社とし、
篤く弔った。この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。
時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は県指定史跡とされた。
戦国の、戦わなかった英雄のお話。
702 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:50:40.09 ID:B0jTq1Kx
180 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 22:02:49 ID:bg+5s1AL
レスをくれた皆さん、ありがとうございます。
稚拙な長文ですが、読んで頂ければ光栄です。芋鍋
徳川四天王の一人、井伊直政の次男である井伊直孝の若き頃の逸話である。
直孝は父同様、その才覚を徳川家康に見込まれ、若くして
周囲に一目置かれる存在となっていた。政務に勤しむ直孝に、ある老臣が声をかけた。
「直孝、お主の様な若者が仕事に励んでいるのは嬉しい。わし
たちも励みになる。そなたを見込んで話すが、実は我々年寄り
連中が集まり、二月(ふたつき)に一度、合議をしておる。
どうだ、お主も来ないか?」聞けば、参加する者たちは徳川家古参の、歴戦の武将達だった。
直孝に否やがあろうはずも無く、喜んで参加を希望した。
181 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 22:46:21 ID:bg+5s1AL
さて、その日がやって来た。直孝にしてみれば、憧憬の的であった
武将達が集まり、ざっくばらんに語り合っている贅沢な酒宴だ。
ある者は手柄を立てた時の話、ある者は戦の仕様を考証し、ある者は
名高い武将と戦った時の思い出を語っている。一つ一つの話に直孝は
感銘を受けていた。宴もたけなわとなった頃、大鍋が運ばれてきた。鍋の中には、よく
煮えた芋が入っていた。皆が思い思いに椀に取り分け、黙々と食べは
じめた。芋の入った椀が直孝にも廻って来た。一口食べた直孝は驚い
た。まったく味が無いのだ。それどころか、まるで泥を食べたような
土臭さであった。思わず直孝は言った。
「申し訳ございませぬ。この芋は、私には少々味が足りぬ様でござい
ます。塩か醤油はございませぬか?」すると老臣は箸を置き、直孝に向き直ってこう言った。
「実はお主を誘ったのは、この芋鍋を食べて欲しかったからじゃ。」
182 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 23:24:37 ID:bg+5s1AL
老臣は続けた。「家康公の若き頃は、我らは毎日このような味も無い芋鍋を
食べていた。そして今も徳川家のために働いてくれる足軽達、
田畑を耕す農民達の中には、この芋鍋すら満足に食えぬ者もいる。
我らはその事を決して忘れぬよう、こうして集い、芋鍋を皆で食べているのだ。」
さらに老臣は続けた「これからはお主のような若者が、徳川家の政事の中心となる
であろう。だからこそ、お主に伝えたかった。我らの手柄や戦
の仕様、ましてや、もうこの世におらぬ武将の話などでは無い。
この芋鍋の味を決して忘れてくれるなよ。」
直孝は芋をたいらげると、老臣達に深々と頭を下げ、言った。
「この味、生涯忘れませぬ。」
他の徳川四天王をはじめ、徳川創業の功臣の二代目が次々と冷遇
粛清されていく中、直孝は幕府の信任厚く、彦根藩主そして大老と
出世し、後に名君として歴史に名を残す事となる。
彼が名君となりえたのは、芋鍋の味を忘れなかったからかもしれない。
〜終わり〜
703 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 05:30:30.31 ID:ioP/d/y0
革新じゃ福島正則の統率が101とかおかしな事になってる
704 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 06:16:41.49 ID:j2kPB8GR
革新は能力値一、二割増しなんでしょ。
だから、福島は80〜90ぐらいとなる。
昔と一緒。
705 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:33:15.42 ID:B0jTq1Kx
372 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/18(木) 10:05:13 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜智将半兵衛その人〜
智将として名高い竹中半兵衛。もちろん戦国の当時
でも、その評判は高かった。特に半兵衛の陣立ては
素晴らしく、他の武将の陣立てにも積極的に助言した。
だがあまりに口を出しすぎるので、半兵衛の助言を疎
ましく思う者も居た。
ある時、「今日こそ半兵衛に口出しさせるか!」と
息巻く武将がいた。そこに訪れた半兵衛、陣立てを
見るなりこう言った。
「なんとも素晴らしい陣立てですね。感服いたした。」
と、その武将を褒め称えた。半兵衛に褒められて悪い気
はしない。すっかり和気あいあいとなった頃、半兵衛は
言った。「ここを少し変えて見ましょう。もっと良い
陣形になりますよ。」と言った。気を良くしていた武将
は言われるまま、陣立てを変えてしまった。後になって
その武将は「しまった、半兵衛にしてやられたわ。」
と笑いながらぼやいた。
374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 10:22:57 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜武人半兵衛その人〜
半兵衛は時折、手足をぶらぶらさせる癖があった。
秀吉や他の武将、果ては客人の面前でも、その癖
を直そうとはしなかった。
ある時、その癖を見咎めた武将が「無礼であろう!」
と怒った。だが半兵衛は平然と答えた。
「これはいつ敵に襲われても、すぐに身動きが出来る
様に備えているのです。もしその時、手足が痺れて動作
が遅れれば、大事となりますから。」
わずか十六人の手勢で、稲葉山城を落とした武人の言葉
に「さすがは半兵衛殿。武士とはかくあるべし。」
と、怒った武将もこれに納得した
706 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:33:57.49 ID:B0jTq1Kx
「亭主を呼べぇ!!」
三河吉田の旅籠亭主・彦兵衛が、大声で呼ぶ客の部屋へ向かうと、薄汚い若侍の前に
たくさんの餅が広がっていた。
給仕に当った女中に聞くと、侍は好物だからと餅を山ほど注文したがその餅の出し方が
気に入らぬと言って、皿をひっくり返したのだと言う。
若侍「客に出すのに、雑な山盛りにして出すとは何だ?普通ならば、漆塗りの盆に丁寧
に積み上げて、持って来るものだろう?!最初から出し直せ!!」
十八から店を預かり二十年目の彦兵衛、慣れたもので皿に三つほど餅を乗せ直すと、
「それは失礼致しました。しかしこの餅の盛付けは、三河ではお武家様のための盛付け
で、『城持ち』と『白い餅』を掛けて、山のように大きい城の城主になれるように、との私ど
ものせめてもの心遣いでございます。どうかお納めください。」
と言って若侍に勧めた。
「そうか、そんな謂われが・・・それは済まなんだ。では、喜んでいただこう。」
以外にも若侍はあっさり納得して、餅をガツガツと食い始めた。
その様子に長年のカンからピンと来た彦兵衛は若侍に話しかけた。
「ところでお侍さん、 ・・・金が無いんでしょう?事情だけでも話してみませんかね?」
顔を青くして餅をむさぼる手を止めた若侍は、少ししてポツリポツリと語り出した。
401 名前:出世の白餅(二)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:03 ID:cg67r90c
若侍の名は、与右衛門。 近江の出だが、浅井家の滅亡で職を失い、旧浅井家臣の間をフラフラしていたが長続きせず、いっそ浅井家に勝った織田家か徳川家に仕官しようと美濃・三河まで出てきたが、うまく行かず路銀が尽きてしまった。
どうせ死ぬなら、好物を満足行くまで食って・・・と考えてこの旅籠に入ったのだそうな。
「お前様、近江と言えば私の生国。他人事とは思えませんよ!」ホロリ…
などと騒ぎを聞きつけてやって来た自分の女房まで言い出すので、
仏心のわいた彦兵衛、タダ食いを許してやった上に、
「こういう時は、思い切って一から出直すのが良いものです。親御さんも心配しておられるでしょう。一度、故郷に帰って親孝行されてはいかがです?」
と、助言まで与えてやった。
するとこの若侍・与右衛門、
「承知した。ついては、路銀を五分ばかりお借りしたい。必ず、出世してお返しいたす。」
などと再び調子に乗り出した。
人の良い彦兵衛もこの言葉にはあきれ果てたが、要望の倍の路銀をくれてやった。
「このご恩は必ず・・・必ずっ・・・・・・!!」相変わらず台詞は立派に、与右衛門は去った。
女中「これで良かったんですかねえ・・・」
彦兵衛「なに、こんな世の中だ。当てにしないで待てばいいのさ」
707 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:35:16.26 ID:B0jTq1Kx
402 名前:出世の白餅(三)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:46 ID:cg67r90c
「何だ、あいつら・・・」その日、三河吉田の町は凍りついた。
やって来た大名行列の侍たちが、あまりにも異様な面体の者ばかりだったからだ。
顔中、刀傷が這っている者。指が欠けた者。鉄砲の撃ち過ぎで顔半面にヤケド跡がある者。
いかなる闘争を潜り抜けたか、独眼・隻腕の者までいる。
面体も荒々しい侍たちが一斉に頭をさげると、行列の真ん中の籠から、大男が現れた。
この男も、身なりこそ絹の羽織に黄金造りの太刀と重そうな皮袋とたいそう立派だが、
顔中に傷跡が残り、右手の薬指・小指が半分しか無い。この男が大名だろうか。
大名とおぼしき大男は、まっすぐにあの彦兵衛の旅籠に向かった。
彦兵衛「こ、こんな七十過ぎた老いぼれの店に何の御用で・・・」
大名は金子がギッシリ入った皮袋を彦兵衛に渡すと、深々と頭を下げ、口を開いた。
「藤堂和泉守与右衛門高虎、彦兵衛殿の言葉に従い、郷里に帰って武者修行に励み、
縁あって故・大和大納言秀長公に拾われ、中国地方を東奔西走し、山崎・賤ヶ岳で戦い、
四国で命を拾い、九州を駆け抜け、大納言家の消滅後に独立して朝鮮へ渡って転戦し、関ヶ原で大谷隊の鉄砲に指を飛ばされ、
功により、伊予半国の大名となり、恩を返すべく参勤交代の途上、吉田に立ち寄りました。遅参の段、御免なれ!!」
「あ・・・あの餅好きの与右衛門さんかね?!」
「いかにも。彦兵衛殿のご恩を忘れず、今日まで励んで参りました。おお、そうだ。
旗、挙げい!!」
紺地に白い丸を三つ描いた旗印が高々とひるがえった。
「白丸が三つ・・・あっ、ウ、ウチの餅じゃないか!!」
「さよう。彦兵衛殿に教わりし『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印と致しました。」
高虎はその後も出世し、伊賀一国と伊勢八郡32万石の太守となり、寛永七年死去した。
高虎の遺命により、藤堂藩は参勤交代の際、三河吉田で宿泊するのが慣例となった。
708 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:35:56.64 ID:B0jTq1Kx
267 名前:小田原提灯(一)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:44:21 ID:z4nHQZyE
みなさんの家に提灯はありますか?え?みやげ物がホコリかぶってる?そうですか・・・
佐竹氏との戦に向かう北条家臣・山下民部は猛りに猛っていた。家老・松田憲秀の甥で、
謙信に「岩舟山に赤鬼の棲むと言いけるは、一体彼がことなるべし」とまで賞賛された、
松田康郷の騎馬隊に選ばれたからだ。
この抜擢に答えるべく、民部は旗指物を家中の勇者が良く使っている『提灯』にした。
それも、目立つように六個の提灯を連ねたものを。 「いざ、これにて功名せん!」
そんな民部を見て声をかけて来た男がいた。『地黄八幡』玉縄衆を代表する古兵、
その旗指物『七つ提灯』を関八州に知られる武辺隠れ無き老武者、三好孫太郎だった。
孫太郎「やあ。キミの旗指物には何か由来があるのかい?」
民部「別に何も・・・ただ、オレの心意気を示したかっただけです。」
−さすがに「あなたたちのマネです」とは言えない−
孫太郎「大道寺駿河守殿を知ってるかい?」家老の身で自ら先陣を切り、軍を鼓舞する
大武辺者・大道寺政繁は若者の憧れである。知らぬはずが無い。
「あの方の馬印は、『九つ提灯』だ。あれはね、大道寺殿が若い頃、敵将・本間近江守を
大格闘の末、討ち取る時に本間当人から武勇を称えられ、その勧めに従って造ったものさ。
オレは、天文15年の上杉との戦に初陣した。その時、一番槍の功名を立てて、氏康公に
感状をいただいた。感激したオレは、記念として旗指物に一つ提灯を差した。
以来、元亀2年に房州の海賊19人を討ち取るまで七度の手柄を立て、七つ提灯を差している。
268 名前:小田原提灯(二)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:45:10 ID:z4nHQZyE
さて、大道寺殿の提灯には、かつての強敵(とも)の想いが詰まっている。オレの提灯には、
自分自身の誇りが詰まっている。キミの提灯には、何が詰まっているんだい?
・・・出撃の時間だ、オッサンの長話につき合わせてゴメンな。」
それきり、山下民部と三好孫太郎が会うことは無かった。
合戦が始まると、佐竹の侍から
「我こそは、大石八郎!北条の衆、我と思わん者あれば、組んで勝負せん!」
と名乗る者が現れて、長刀を風車のごとく振り回し、北条の侍を寄せ付けなかった。
誰も近づけぬ鬼のような武者目がけて、突進する者が現れた。 山下民部だった。
馬ごと大石にブチ当たった民部は、馬から転げ落ちながらこの強兵を引きずりこみ、
(キミの提灯には・・・
大石を組み伏せ、太刀で斬りつけた。
・・・何が詰まっているんだい?)
「・・・・・・・・」
見事に大石の首を挙げた民部は、自分の旗指物を外すと提灯を五つ引きちぎって捨てた。
一つだけになった提灯を差し直すと、再び馬にまたがり駆け出した。(北条五代記)
今じゃシケたみやげ物の提灯に、男の見栄と誇りが詰まってた、そんな時代のお話。
709 :
名無し曰く、:
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 10:05:31 ID:xDDT8x00
いい話というか、すさまじい話。ちょいグロ注意
細川の血達磨
細川忠興の時代、ある牢人の兄弟が仕官を求めてきた。
「われら、事に及んで他人の出来ない事をして、お役に立って見せましょう。」
そう、きっぱりと答える二人を頼もしく思い、それぞれ召抱えた。
ある時江戸に大火事があり、細川屋敷にまで延焼した。
幸い、屋敷にあった大事な道具類は皆、避難させたが、どうした失態か、細川家に秘蔵された
達磨の掛け軸が、屋敷の中に置き忘れられていた。
忠興はこれを大変惜しんでいたが、ここでかの兄弟が、「御殿はまだ焼けておりませぬ。
この間に我らが取ってまいりましょう。」と言った。
忠興は喜んだが、しかしこれを心配もし、「まだ火が回っていなければ達磨の掛け軸を取って来い。
もし、もう火が回っていれば、かまわないから早々に戻って来い。」と言って、彼らを送り出した。
兄弟が御殿に駆けつけると、まさに今、火が燃え移らんとしていたところだったが、
「今ならまだ間に合う」
と、もうもうたる煙の中を入っていった。達磨の掛け軸は、無事に床の間にかかっていた。
急いで外し、羽織に包み、それを持って脱出しようとした、
が、一足遅く火が回り、兄弟はもはやなすすべなく、焼け死んだ。
火が静まる。
焼け跡から、彼ら兄弟の死骸も見つかった。それは、驚くべき物だった。
兄弟は、先ず、兄が弟に手をかけて首を討ち、喉を切り開いて内臓を引き出し、その体の中に
羽織でよく包んだ掛け軸を押し込んだ。
さらに兄は自分の腹を十文字にかっ斬り、弟の遺骸を自分の腹の中に押し込み、抱きかかえるようにして
死んでいた。
掛け軸を取り出してみると、よく羽織に包んであったためえには血糊の一滴もついてはいなかったが、
上下左右の隅が、少しずつ血に染まっていた。
忠興はこれに深く感銘を受け、血のしみた掛け軸をわざと修復せず、兄弟それぞれが
裃をつけこの掛け軸を守るさまを新たに描かせ、あわせて三幅一対の掛け軸とした。
この絵はいつともなく「細川の血達磨」と呼ばれるようになり、今も大切に秘蔵されていると言う。