信長の野望で過大過小されている武将〜家臣限定〜

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601名無し曰く、
>>597
四国で元親に勝った事あるのって本山親茂しかいないからな。
長宗我部が強すぎたのか、それとも他が弱すぎたのか
602名無し曰く、:2013/05/04(土) 05:58:17.06 ID:y4giiM1U
>>594
宮田光次(? - 1578年)
神子田正治(? - 1587年)
尾藤知宣(? - 1590年)
戸田勝隆(? - 1594年)
603名無し曰く、:2013/05/05(日) 01:19:04.89 ID:XB1+HR+t
信長も、義龍亡き後はその息子、六角、朝倉、三好の残党
ライバルってほどの強烈な相手は近畿にはいないな。しいていえば邪魔な存在は
本願寺ぐらいか。長慶が万全で生きていれば面白かったのに
604名無し曰く、:2013/05/05(日) 07:08:33.03 ID:jkOaLDWW
石山本願寺は戦国史上最強クラスだけどな
605名無し曰く、:2013/05/05(日) 12:23:32.91 ID:NY0AQws0
>>604
やっぱり織田最高の武将は佐久間信盛だよな。
606名無し曰く、:2013/05/06(月) 04:13:22.39 ID:bLGt8XD/
佐久間信盛って当時の地位的には丹羽や柴田クラスぐらの地位はあったの?
607名無し曰く、:2013/05/06(月) 09:09:56.82 ID:mGP1ZQDB
彼らより遥かに上。
織田分国6カ国か七か国のあらゆる国に与力がいたから総勢2万くらいの動員力があったと思われ、本願寺攻めの
最大の功績者。
ただ大身すぎたため、織田譜代格粛清で中央集権狙った信長に根拠なしのいちゃもん&いいがかりつけられて改易された。
光秀が本能寺起こす伏線にもなった出来事
608レス代行、広告付きVer:2013/05/06(月) 15:10:13.75 ID:pb8zVsme
丹羽さんは尾張時代同格だった勝家信盛とは
司令官としてかなり差がついて置いていかれてたみたいね。


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609名無し曰く、:2013/05/06(月) 17:13:26.14 ID:PI52I+N1
中央集権なんかできたのかな。
まぁ、何百人も全国に殿様がいたこと自体の方がすごいのかな。
こんな国他にあるの?
610名無し曰く、:2013/05/06(月) 23:24:48.33 ID:2IZk6rhS
>>607
与力は家臣じゃないから=力が強いとは言えん
つうか力が強かったら信盛が反旗翻して終わりだろ

>>608
そうとは言えない
所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな
佐久間も畿内制覇の軍に任命されたのは立派だが
所詮原田が死んだ後の臨時要員。佐久間が多くの与力を集め実働したのもたった2年だけ。
逆に丹羽は伊賀攻めで織田信雄、四国攻めで織田信孝の補佐を歴任。
現当主の弟で総帥の息子の補佐をやったのは丹羽だけ。あと地位が逆だが秀吉も。

はっきりいって次期当主層である織田信忠、織田信雄、織田信孝、あと織田秀勝。
こいつらと全く繋がりのなかった明智光秀、柴田勝家、佐久間信盛等々は
織田家の匙加減ですぐポイできる非常にやわっちい権力しかない。だから信盛はクビにされ光秀は謀叛を起こした
611名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:45:46.43 ID:G4uTqnXR
>>610
あいかわらずお前は馬鹿だな
そもそも織田家臣団(つうか他大名も大体そうだが)直轄地なんてなくて皆与力制だから
与力の大きさ=石高、知行地だろうがw
>>所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな
根拠なし
>>佐久間も畿内制覇の軍に任命されたのは立派だが
>>所詮原田が死んだ後の臨時要員。佐久間が多くの与力を集め実働したのもたった2年だけ。
その前から最も大身なのは佐久間だろうがw近江に派遣された七将のうちでも最も大身だったし
浅井朝倉戦でトップ4のうち坂井と森が殺されて佐久間より上の石高の奴なんていねーよタコw
>>逆に丹羽は伊賀攻めで織田信雄、四国攻めで織田信孝の補佐を歴任。
総大将にもなれず信長の次男三男の副将格(しかもその中で特別な地位にいたわけでもないことが丹羽家記からもわかる)
>>現当主の弟で総帥の息子の補佐をやったのは丹羽だけ。あと地位が逆だが秀吉も。
滝川や川尻も雑魚の森も補佐やりまくってるじゃねぇかw
つうか別所攻めとか松永攻めとか次期当主格にあたる信忠の補佐役なんて皆やってるじゃねぇかクズ
612名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:50:48.70 ID:ZFtmy0IN
佐久間は織田家トップの実力者であり織田分国中に大軍を持った名将だったが
信長はいちゃもんつけまくって改易したんだよな
この頃の織田では安藤、水野、丹羽氏次など根拠もなく功臣たちを無理矢理改易する慣習が行われ中央集権化をしようとしたら
それに危機感もった光秀が自国を召し上げられて信長を襲撃して殺した。
613名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:54:54.25 ID:G4uTqnXR
丹羽みたいなゴミみたいな貫高しか持たずろくな戦功なし。実力0の雑魚を佐久間より上とか頭逝ってるな
補佐役なんて皆やってるっつーの
信忠の補佐だった若手馬周りの連中はどんだけ有能なんだよ
614名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:57:21.80 ID:ZFtmy0IN
はっきりいって三方が原の織田軍のメンバーは織田で相当大身な連中で、
一部隊しか送らなかったのではなく、正面から大軍で臨んで大敗したのが実情
佐久間平手滝川水野林前田弟で2万にはなるだろうし
615名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:57:52.87 ID:G4uTqnXR
それを正面からガチで破った信玄の采配はやはり神レベル
616名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:59:53.80 ID:djeWJtHD
与力の大きさが石高知行地wwww
初めて聞いたわそんな珍説w
つうか佐久間の場合その与力である保田に嫌気さされて、最終的にそれが信長折檻に繋がるんだが
この事実をもってしてもおまえは佐久間が「あらゆる国に与力がいた」「総勢2万の巨大勢力」とでも言うのか?w
ちなみに保田は佐久間氏が養子に出すほど縁の深い家だからな?w
お得意の捏造で「従わないショボイ与力がいただけ」とかぬかすなよ?w

>>>>所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな

根拠おおありじゃんw
別所攻めも松永攻めも参加していないのは有力格では柴田くらいのもんw
羽柴、明智、丹羽、滝川、信雄信孝兄弟、みんな参加している
ちなみに天正6年の荒木村重討伐では前田佐々不破などなど北国勢も動員され
しかも信長直々に討伐隊を編成するという非常に大規模な軍事行動にも拘らず
柴田の名前がどこにもないという不遇っぷり。畿内制覇の軍事行動に全く参加させてもらえず
北国で一揆衆を殺しまくる作業のどこが優遇なのか、是非聞かせていただきたいw

>>浅井朝倉戦でトップ4のうち坂井と森が殺されて佐久間より上の石高はいない

与力含めての石高は直轄領ではないので論外だし、そもそも時期が異なる

>>総大将にもなれず信長の次男三男の副将格

信長が手塩にかけた息子を預けるにたる存在だと思われていただけ。
つうか総大将かどうかは関係ない。要は信長がどう思っていたかが重要
いくら総大将でも勝家みたいに武功にもならん一揆勢の掃討だのをやらされるために寒い北陸に飛ばされるよりはマシ

>>滝川や川尻も雑魚の森も補佐やりまくってるじゃねぇかw

川尻と森は全然補佐できてないじゃん
川尻は信長の言うこと聞いてるだけで信忠に何も言ってない、信長書状でも
「俺が信忠に言い聞かせる」とまで言われる有様。森なんか自由気ままに先行してるしただ信忠とグルになって暴れてるだけ。
滝川が信忠の補佐したのはわからんでもないが、それとて明確なのは武田征伐くらいのもんだな
617名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:02:29.43 ID:djeWJtHD
自演なんてしなくていいからさっさと答えろよw
信長の天下統一事業の一環である畿内制覇にロクすっぽ参加させてもらえず
北陸で義勇兵レベルの一向衆の掃討ばかりおしつけられていた柴田が
信長から確かな権力を与えられていたという根拠をなw

所詮地方の雑魚信玄を持ち上げるために無理やり佐久間を持ち上げているだけの
アスペルガーだがらしい手前勝手なオレオレ理論だから
そんなことできないくらいは、わかっているけどなw
618名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:42:00.33 ID:G4uTqnXR
>>与力の大きさが石高知行地wwww 初めて聞いたわそんな珍説w
そもそも織田家臣団(つうか他大名も大体そうだが)直轄地なんてなくて皆与力制だから
与力の大きさ=石高、知行地だろうがw
直轄地で一人の武将にまとまった領地与えるなんて支配体制誰に認めてるんだよアホ
与力が貫高じゃなかったら知行高を示すものなしなんぞ存在しねーよクス
>>つうか佐久間の場合その与力である保田に嫌気さされて、最終的にそれが信長折檻に繋がるんだが
ソースは?
>>別所攻めも松永攻めも参加していないのは有力格では柴田くらいのもんw
>>羽柴、明智、丹羽、滝川、信雄信孝兄弟、みんな参加している
当たり前だろアホ。上杉謙信に大敗して戦力補充ができなくて普通に休止してたか加賀で戦ってただけろうがボォケ
>>ちなみに天正6年の荒木村重討伐では前田佐々不破などなど北国勢も動員され
そもそもそれって信長公記のデタラメ逸話で一次資料に書いてねーだろ
>>しかも信長直々に討伐隊を編成するという非常に大規模な軍事行動にも拘らず
敵は荒木だけじゃねーだろクズ
他の方面で戦ってた連中はこぞって不遇扱いになるなアホ
>>柴田の名前がどこにもないという不遇っぷり。畿内制覇の軍事行動に全く参加させてもらえず
畿内制覇の軍事行動なんてたいした難易度じゃねーだろ
そもそもたいした国力の敵もいないし留守居兵もなしにして総がかりで攻め込む必要がない
>>北国で一揆衆を殺しまくる作業のどこが優遇なのか
最も手ごわい上杉軍相手にしてたのが柴田。
>>与力含めての石高は直轄領ではない
そもそも直轄領だけでいったら家臣団なんて皆無に近いだろ
基本皆与力制(頼子より親制)でより親の軍団長に信長の与力つけてただけなのが織田軍
>>信長が手塩にかけた息子を預けるにたる存在だと思われていただけ
根拠なし。つうか副将なんて3人もいるしその中で特別な存在だったという事もなく、四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない
雑魚相手に副将任されただけなのが丹羽
>>要は信長がどう思っていたかが重要
信長の評価でいえば戦国最強の上杉軍相手のガチンこ戦闘柴田>>>>>>>>>>雑魚しかいない石高もしょぼい三好など味方も多くいる
城もしょぼい四国相手の副将格三人の中の一人でしかなく若狭数万石しかない丹羽
>>いくら総大将でも勝家みたいに武功にもならん一揆勢の掃討だのをやらされるために寒い北陸に飛ばされるよりは
一揆勢の掃討がなぜ武功にならないのか意味不明
長島一向一揆や本願寺の例みれば一揆勢の精強さが見て取れ、畿内の雑魚相手の戦より遥かに難しい仕事を任されたのが柴田
619名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:48:54.58 ID:G4uTqnXR
>>川尻と森は全然補佐できてないじゃん
具体的にどこができてないのか不明
>>川尻は信長の言うこと聞いてるだけで信忠に何も言ってない、
根拠なし。そもそも補佐なんだから助けるだけでいいし信忠に命令する必要なし
>>信長書状でも 「俺が信忠に言い聞かせる」とまで言われる有様。
それがなぜ補佐できてないことになるのか不明。補佐できててもより信長の意思を直接的に伝える必要があっただけ
>>森なんか自由気ままに先行してるしただ信忠とグルになって暴れてるだけ。
そんなら信忠が思った行動を実行に移してるから補佐しまくってるじゃねぇかタコ
>>滝川が信忠の補佐したのはわからんでもないが、それとて明確なのは武田征伐くらいのもんだな
別所攻め荒木攻め松永攻めなど援軍派遣の総大将信忠がとった時皆で補佐しまくってるじゃねぇかボォケ
>>信長の天下統一事業の一環である畿内制覇にロクすっぽ参加させてもらえず
畿内平定戦で柴田は参加しまくっている(三好討伐、浅井朝倉戦、長島侵攻戦など)浅井朝倉滅亡は
国力的に本願寺以外雑魚しか残ってないから次の敵本願寺と上杉に備えて頼りになる柴田を北陸に置いただけ。
>>北陸で義勇兵レベルの一向衆の掃討ばかりおしつけられていた柴田が
意味不明。長島一向宗や本願寺の例みれば一向宗の精強さはアホでもわかる
>>信長から確かな権力を与えられていたという根拠をなw
そりゃ簡単。織田家で最も大身だから。
>>所詮地方の雑魚信玄を持ち上げるために無理やり佐久間を持ち上げているだけの
信玄は最強家康にも織田軍最強の佐久間に平手滝川水野と大軍大破したし信長を滅亡寸前に追い込んだし
信長より遥かに実力上だろうね。後ひといきのところで病死して助かっただけだし
620名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:52:35.97 ID:ZFtmy0IN
日比野弥次郎・日比野孫一に陣夫銭の件で棚橋彦一郎の違乱に対して、
和田八郎に命じて1貫500文を納めるようにと決まったので
異議申し立てをしないようにせよという内容の書状を発給している。
この書状は織田信長御朱印の旨で裁許するようにと書かれているが
日比野は尾張、棚橋は美濃の人物でいずれも信忠領地の武将
結局、信長が裁断してるのか。
やっぱ信忠は無能だな。
621名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:18:16.38 ID:G4uTqnXR
そもそも丹羽って織田の一門衆だろ。
一門なのにろくな戦功もなく禄高もしょぼく若狭数万石で大将としての戦もなくどうでもいい四国攻めの副将格の3人のうちの一人。
よっぽど無能だったに違いない。そもそも信雄自体一門の癖ろくな戦功もないどころか
北畠に養子に出されて以来加増もほとんどされず伊賀攻めで大敗し信長に譴責された雑魚。
事実耶蘇会年報でも信孝は褒められてるが信雄は散々貶されている
こんなどうでもいい雑魚の補佐(うまく勤まったかどうかわからんが)やったからって何の能力の根拠になるかわかんねw
622名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:20:54.66 ID:ZFtmy0IN
武田討伐の責任者は川尻であり
信忠はただのお飾り。
信忠はよく贔屓目にみても滝川と同格レベル。
森や梶原はまったく相談もせず、どんどん進軍。
信長もあいつら軽率な行動の言い訳に力戦したとか言って
後から俺に訴訟してくるだろうと書いてる。
織田厨は信長書状すらまったく読んでないアホ
自分の願望信長像・信忠像を否定するレスを中層レッテル人格攻撃で排除してるだけ。
そして武田を捏造妄想曲解でまったく根拠ゼロの悪口中傷でっち上げで攻撃してきた歴史。
623名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:22:09.61 ID:ZFtmy0IN
信長が出陣を急いだのは
森ら若手が、信忠の指令を黙殺しまくって
勝手な行動するためだから、よっぽど信忠は人望も統率力も皆無だったのがわかるな。
バカ若殿信忠は無能過ぎて、
25歳になっても川尻が事実上の指揮官やってるくらいのボンクラw
追加保護者に滝川まで付けられるくらい信長は不安視していたが、
案の定、森や梶原は好き勝手やった挙句に信長に断罪されるどころか加増してもらったw
ハッキリ言って信忠イラネw
624名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:47:08.73 ID:djeWJtHD
>>618
本気でアホだなw
信長公記を否定するということは、おまえの大好きな佐久間の功績も否定するということだ
まあ村上に2回も負けた雑魚すぎる大名武田信玄を擁護するには
そんな天地をひっくり返すかのような矛盾も肯定しなけりゃいかんのだから、哀れ極まりないw

>>与力の大きさ=石高、知行地だろうがw

アホかおまえ
与力が在地領主なのは言うまでもないが、その与力が加勢するのは「信長」であって「佐久間」じゃない
「佐久間」に加勢するのは「信長の命令ありき」であって何もなしに従わない連中など戦力と呼ばん
事実同じ地方幹部クラスの柴田勝家は前田や佐々などたくさん与力を抱えているが
摂津で戦争が起こるたびに信長の下に行ってしまうからロクすっぽ戦力がない。

>>ソースは?

信長公記、以上終わり
信長公記の一方的な否定は歴史家の誰もやっていない、すなわちおまえの妄想

>>敵は荒木だけじゃねーだろクズ

当たり前だろボケ、おまえはそんなこともわからんのかw

>>他の方面で戦ってた連中はこぞって不遇扱いになるなアホ

その通りだぞ、今更何を言ってるんだおまえ。
荒木村重や神保長住なんて完全に使い捨てだからな
旧朝倉家臣の連中も一向一揆の盾や捨て石にされて終わり。
他の大名とドンパチやりあうという重大な責任があるのに
戦力は勝手に引き抜かれ、用済みなら追放されの役割が優遇だと思ってんのか?w
625名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:00:47.70 ID:djeWJtHD
>>最も手ごわい上杉軍相手にしてたのが柴田。

その上杉軍を相手にしている最中に
同僚の羽柴秀吉に戦線離脱されるという足の引っ張りを受けたにもかかわらず
その秀吉は大した咎めを受けるどころか別方面軍の総大将格にされる優遇人事をされて
骨折り損のくたびれもうけをモロにやっていましたよねw

>>根拠なし。つうか副将なんて3人もいるしその中で特別な存在だったという事もなく、四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない

四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない雑魚相手にするだけで、軍功扱いされて重用されるんだぞ。
これほど楽で堅実な仕事なんてないぞ?しかも次期織田家当主候補の息子の前でだからな、織田家中からの評価も上がる

>>信長の評価でいえば戦国最強の上杉軍相手のガチンこ戦闘柴田>>>>>>>>>>(以下略)

上杉謙信という強大な相手に捨て石同然の防波堤の役割を任され
下に組み込まれた信長の可愛い子飼いは与力をさせながら、信長が戦争になるとすぐに引き戻され
挙句味方から壮絶な足引っ張りを受けたのになんの御咎めもないどころか、そいつが重用されるという
思いっきり侮辱的な行為をされている柴田が「信用されている(キリッ」

>>畿内平定戦で柴田は参加しまくっている(三好討伐、浅井朝倉戦、長島侵攻戦など)浅井朝倉滅亡

信長の領地が畿内にしかないんだから当たり前
つうかその戦いですら柴田軍は中核にない。挙句光秀や秀吉と違い
昨日まで一向一揆衆がウヨウヨいた越前をいきなり任されるという投げ槍っぷり
他の連中は悠々と畿内に領地を貰って過ごしてるのに自分だけ北陸とかいうド田舎のそれも強大な敵との前線にいるという悲しさ

>>意味不明。長島一向宗や本願寺の例みれば一向宗の精強さはアホでもわかる

そんな精強な相手をロクな保証もないまま相手され続けるという酷使状態
こんなタダ働き同然の扱いで優遇とか気がくるっているんだろうなw

>>そりゃ簡単。織田家で最も大身だから。

全然大身じゃねーじゃんよwもうちょっとまともな答え言えよw
領地ですら織田一門以下の扱いで、中央から遠ざけられまくってる人間が大身w
秀吉の方が織田家の扱いでもよほど上じゃねーかw

>>長島一向一揆や本願寺の例みれば一揆勢の精強さが見て取れ、畿内の雑魚相手の戦より遥かに難しい仕事を任されたのが柴田

はるかに難しい仕事を捨て石同然で任されて、用が済んだらポイ
簡単な仕事を任されて、そんな簡単なことができれば重用されまくる

基地外はこれで前者の方が優遇されていると思うらしいw
626名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:20:14.16 ID:djeWJtHD
>>619
>>具体的にどこができてないのか不明

信長→川尻の書状で信長は「信忠には俺から言っておく」と書かれている
監督の川尻なんてアテにならんと言わんがごとく自分が全部采配取り仕切っている。
これで補佐とかちゃんちゃらおかしいし川尻が采配した形跡もゼロ
ただ一緒に付添しただけ。森は信長に名指しで独断専行否定されててほとんど論外。

>>根拠なし。そもそも補佐なんだから助けるだけでいいし信忠に命令する必要なし

助けてすらいない。主要な城を落としたわけでもなければ、勝頼を追い詰めたわけでもない
ほとんど付き添い同然で蚊帳の外状態だったわけだがw

>>それがなぜ補佐できてないことになるのか不明。補佐できててもより信長の意思を直接的に伝える必要があっただけ

信長が直接信忠に言い分を伝えるなら間の川尻なんて不要。しかも軍功もほぼなし。
助けている以前にただの付き添い。川尻が軍を率いたり采配を取った形跡もなし

>>別所攻め荒木攻め松永攻めなど援軍派遣の総大将信忠がとった時皆で補佐しまくってるじゃねぇかボォケ

ただ命令を聞いてその通りに実行するのを補佐とは言わん。家臣と主君の関係として当然の事。

>>621
>>事実耶蘇会年報でも信孝は褒められてるが信雄は散々貶されている

「信雄=暗愚」説って耶蘇会年報を書いていたキリシタン教徒が
ロクに情報の精査もしないまま「安土城を焼いたのは信雄、あいつはアホ」って
ムック本のように書き立てただけじゃんwそこ以外に「信雄=暗愚」説は全く出てこないどころか、
フロイスに至っては小牧の信雄を「あいつはあくどい」とまで書簡に残すなどもう滅茶苦茶

そもそも安土城放火は兼見卿記など信頼できる一次史料で「領民の略奪」だと書かれているんだから
信雄暗愚説などただの濡れ布以下でしかないわけだがw
627名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:24:22.28 ID:djeWJtHD
>>622>>623
部下が暴走するも何も信忠が焚き付けてるじゃんよw
信忠は森や梶原を怒るどころか4月には武功に対する感状まで出しちゃう始末
3月には一緒に信濃高遠城を攻めて1日足らずでこれを落としてしまう上機嫌っぷりを発揮

信長書状で信長が既に森梶原に苦言を呈しているのに
これで森や梶原が信忠も無視してたら誰が彼らを許すんだよw
軍令違反で打ち首で終わりw
628名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:27:24.88 ID:djeWJtHD
大体武田信玄みたいな雑魚が強いとかアホにもほどがあるw
信玄が無傷で勝てたのは今川氏真(統率10、武勇6、知略8)だけw
村上義清(統率89、武勇92、知略71)に寡兵で2回も負けるなど負け戦だらけの人生
数でゴリ押しするしか能がなく、逆境を覆すどころか逆境そのものを経験していない
雑魚信玄は統率30、武勇3、知略39あたりが妥当
629名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:29:54.17 ID:djeWJtHD
哀れ基地外らしい末路w
630名無し曰く、:2013/05/07(火) 04:23:54.08 ID:q0Ctc4HA
今までのやり方じゃスレ違いになってダメだから、部下を取り上げて焚きつけようって、
何が武田厨をそこまで掻き立てるのか
631名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:41:01.86 ID:G4uTqnXR
>>信長公記を否定するということは、おまえの大好きな佐久間の功績も否定するということだ
佐久間の功責は一次資料でも確認できるので信長公記を擁護する根拠にはならない
>>まあ村上に2回も負けた雑魚すぎる大名武田信玄を擁護するには
村上は1.4倍程度の兵力比にもかかわらず信玄相手に天嶮によりながら負けまくり信濃を思いっきりたたき出されてる
>>与力が在地領主なのは言うまでもないが、その与力が加勢するのは「信長」であって「佐久間」じゃない
そんなん他の織田家の武将達も同じ。つうか直轄地を大量に認めるなんて統治織田家の武将に誰も信長は認めてないし他の諸大名でも同じ。
やってるのはよっぽど統治形態のぬるいハリボテ大名くらい。
>>「佐久間」に加勢するのは「信長の命令ありき」であって何もなしに従わない連中など戦力と呼ばん
根拠なし。そもそも与力はある軍事命令を遂行させるためにつけられたのだから、その軍事命令上では与力の大将に従わなければ与力の意味がない。単に援軍としてよこせばいいだけ
>>事実同じ地方幹部クラスの柴田勝家は前田や佐々などたくさん与力を抱えているが
>>摂津で戦争が起こるたびに信長の下に行ってしまうから
摂津で戦争が起こるたびにって荒木攻めや松永攻めの援軍として一時期赴いただけだし他の時期はずっと北陸に張り付いてるだけボォケ
>>信長公記、以上終わり
信長公記は一次資料じゃない。
>>信長公記の一方的な否定は歴史家の誰もやっていない、すなわちおまえの妄想
信長公記が誤りが多く単なる軍記。一次資料扱いしてるのはお前だけ
>>当たり前だろボケ、おまえはそんなこともわからんのかw
だから信長分国家の諸大名総動員してなんで他の大名相手の部下を0にして松永や荒木ごとき雑魚を攻める必要あるって話だろうがボォケ
>>その通りだぞ、今更何を言ってるんだおまえ。
つまり荒木攻めの時期などに対別所毛利で中国に張り付き援軍としての責務を負わなかった秀吉が雑魚と。
>>荒木村重や神保長住なんて完全に使い捨てだからな
根拠なし。そもそも荒木松永なんて国力的にもへぼく大軍よこすほどの相手でもない
>>旧朝倉家臣の連中も一向一揆の盾や捨て石にされて終わり。
なんで柴田の話から旧朝倉家臣の連中にすりかわるんだ?つうか織田家の武将でもその時期松永荒木攻めに動員されず他の大名の相手してた奴なんていくらでもいるじゃんよ
>> 他の大名とドンパチやりあうという重大な責任があるのに
だから国中留守にして松永荒木戦に戦力総動員する必要がどこにあるんだって話しだろうがボォケ
>>戦力は勝手に引き抜かれ、用済みなら追放されの役割が優遇だと思ってんのか?
そりゃ信長は非道な人間だからな。佐久間の同時期に追放された丹羽水野林安藤あたりも同じようにいちゃもんつけられて改易、切腹させられてるしな
>>その上杉軍を相手にしている最中に 同僚の羽柴秀吉に戦線離脱されるという足の引っ張りを受けたにもかかわらず
>>その秀吉は大した咎めを受けるどころか別方面軍の総大将格にされる優遇人事をされて
上杉相手に秀吉が行っても雑魚すぎて無駄だと思ったんじゃね。毛利相手に熊見川で大敗した上に別所相手に信忠の援軍貰いまくってなんとか2年かけて兵糧攻めで落としただけだし。
秀吉は木下で早くから高い身分だったのが一次資料でわかるし一門優遇の織田家でえこひいきされてたんだろ。丹羽は一門なのに雑魚石高だったから丹羽よりはまだ調略に長けてたのかもしれないな
>>四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない雑魚相手にするだけで、軍功扱いされて重用されるんだぞ。
軍功っつうか雑魚相手の楽な仕事しか任されないから能力しょぼくくねって話しだろ。しかも副将格3人のうちの一人で、阿波を与えられる予定って話も眉唾ものだしな
>>これほど楽で堅実な仕事なんてないぞ?しかも次期織田家当主候補の息子の前でだからな、織田家中からの評価も上がる
信孝が時期当主候補なわけねーだろクズw信忠が生きてるのになぜ信孝に当主回って来るんだよアホ
632名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:41:23.56 ID:G4uTqnXR
>>上杉謙信という強大な相手に捨て石同然の防波堤の役割を任され
捨石ってなんだよアホw強大な敵に雑魚わざわざぶつける必要なんてないわアホ
松永荒木みたいな雑魚国力の相手に派遣するほうがよっぽど雑魚でいいわ(長期持久戦で簡単に落ちる)
>>下に組み込まれた信長の可愛い子飼いは与力をさせながら、信長が戦争になるとすぐに引き戻され
そりゃ謙信死んで越後が御館の乱で不穏になりだしたから一時的にひっこぬいただけだろ
佐々長縄も神保長住も長連龍も御館の乱の隙に北陸に派遣されて上杉相手の火事場ドロ戦の手助けをしてるし
>>挙句味方から壮絶な足引っ張りを受けたのになんの御咎めもないどころか、そいつが重用されるという
そりゃ相手が謙信だから仕方ないと思ったんじゃね。秀吉は織田一門格だからえこ贔屓されてたんだろうし
>>思いっきり侮辱的な行為をされている柴田が「信用されている(キリッ」
そら強敵上杉相手させられてるんだから相当な信頼だろ
>>信長の領地が畿内にしかないんだから当たり前
だから畿内平定戦に参加してるって話だろうが。
>>つうかその戦いですら柴田軍は中核にない。挙句光秀や秀吉と違い
近江6将の内の一人やってるだろ
>>昨日まで一向一揆衆がウヨウヨいた越前をいきなり任されるという投げ槍っぷり
越前は57万石もある大国だし朝倉旧臣が統治に失敗した後なのできわめて重要な任務だろ
>>他の連中は悠々と畿内に領地を貰って過ごしてるのに自分だけ北陸とかいうド田舎のそれも強大な敵との前線にいるという悲しさ
悠々と畿内に領地もらってすごすなんて軍事的な重要な役割もらって達成しなくてはならない家臣としては全く信頼されてない証拠。
畿内なんて味方が一番多いんだからわざわざ有能な武将残す意味がないしお前の妄想どおりだと中国攻めの矢面に出された秀吉とかは超絶無能になるなw
>>そんな精強な相手をロクな保証もないまま相手され続けるという酷使状態 こんなタダ働き同然の扱いで優遇とか気がくるっているんだろうなw
アホかw無能な武将に任せたら織田家が傾くだろうがw
>>全然大身じゃねーじゃんよwもうちょっとまともな答え言えよw
どこがだ?
>>領地ですら織田一門以下の扱いで、中央から遠ざけられまくってる人間が大身w
ですらってなんだ。一門格は優遇される身分だろアホ。
しかも加賀能登越中半国越前飛騨で150万石くらいになるから光秀よりも遥かに上だろ。
>>秀吉の方が織田家の扱いでもよほど上じゃねーか
秀吉は織田一門だし秀吉は寝返った南条宇喜多草刈など中国の国人を除けば播磨但馬因幡長浜で勝家の方が石高上じゃね
四国にいたのはそれこそ秀吉家臣とは到底言えない三好残党だし
>>はるかに難しい仕事を捨て石同然で任されて、用が済んだらポイ
柴田はすてられてなんていないし佐久間は無理矢理中央集権のダシにされただけだろ
難しい仕事を無能な部下に任せてうまくいくわけねぇし
>>簡単な仕事を任されて、そんな簡単なことができれば重用されまくる
ようは信長はえこひいきが激しく、個人的感情で動く人間だったってことだろ。谷口もそう書いてるし
>>基地外はこれで前者の方が優遇されていると思うらしい
しょぼい仕事しか任されない人間を有能とはいわん。会社でいえば無能な親類にはしょぼい仕事しか任されずしかし解雇されないが
有能な叩き上げ部下は重要な仕事任されるが簡単に首切られるというだけ。前者が滝川柴田佐久間。後者が織田親類集秀吉丹羽。
633名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:50:59.35 ID:G4uTqnXR
>>信長→川尻の書状で信長は「信忠には俺から言っておく」と書かれている
お前の書いた文章は信長が準備して出陣日が決まったら上申するように命じてる2/15の話であり
まだ織田軍は出陣すらしてない時だからだから信忠が信長の意向を無視して進軍開始してる証拠にすらならない開戦前に強がり言ってても開戦したらなw
その後、信忠は森や梶原の進撃を統制出来ず失敗してるだけだし、 信長が進軍上進を許可したりする書状もあるし、
このことは2/23や3/1の信長書状でたびたび森や梶原の進軍に信長が言及してる事実からわかる。むしろ信長の耳に森らの勝手な行動をチクってただけだろw
>>これで補佐とかちゃんちゃらおかしいし川尻が采配した形跡もゼロ
一次資料見る限り川尻は信忠を軽んじて自分が采配している
>>ただ一緒に付添しただけ。森は信長に名指しで独断専行否定されててほとんど論外。
そもそもお前のあげた書状そのものが信忠に対する独断専行じゃね。信忠に対して信長が直接いわなければならない程信忠が信長の命令無視して任務遂行
しかも信忠の補佐の武将も信忠の命令無視して行動してるから相当信忠が無能だったのは間違いない

信長公記なんて捏造軍記は一次史料じゃねぇよカス
3/1書状を歪曲解釈して気持ち悪いんだよお前。
信長は総司令官の川尻へ宛てて
俺が出陣するまでに伝い城を築き終えよ、これは信忠や他の者もやること。厳命である。
4日後には俺も出陣する。不注意な戦をせず、軍記も違反するな、弱敵と侮るな。
森と梶原の勝手な行動をお前らの言上で聞いたので、俺から申し聞かせた。
勝手な行動はあとで俺が来た時に訴訟するつもりだからだ。
このように命令を聞かないのは俺がまだ進発してないからだ。
信忠が堅く申しても意に沿わない事は沙汰の限りであるので、このことは俺が進発したら
異議を言わせないから、お前らも固く陣を守り、あとからの俺の仕置きを待て。
高遠を焼いた件はしかるべくことだ。すべて相談してから計略しろ。
信忠や滝川や水野信之や水野忠重らの陣所の申告のこと聞き届ける。しかしそこより先へ出るな。
だいたい高遠攻めに信忠が参加してたかあやしいけどな。
高遠を燃やした報告は川尻だし、そのころの信忠は
滝川や水野信之や水野忠重と一緒にいたとしか思えないし
3/3に出された信長の信忠への書状では穴山がついに謀反したので勝頼が北へ逃げたので
(徳川と北条がついに動き出し駿河が挟撃を受ける可能性が発生したので穴山がついに決断)
お前らの大嶋(下伊那)から飯島(上伊那)への陣換を許可するがそれより先は一切進軍すんな。だもんな。
3/5の信忠→坪内宛の高遠での戦功感状は原本なしで寛永諸家系図 伝坪内利定に収録されてる写しだけで
坪内家が先祖の戦功を捏造してるだけだし。信忠が後方の安全地帯にいたとしか思えん。
634名無し曰く、:2013/05/07(火) 10:41:37.25 ID:G4uTqnXR
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。
俺が一次史料を書いてあげよう。

大分県でも観測された浅間山超噴火が14日。

2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候 
能々見合候て 発足之日限可申上候 
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。

2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)

2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。

上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)
635名無し曰く、:2013/05/07(火) 10:42:16.13 ID:G4uTqnXR
3/1の信長→川尻
26日の書状読んだわ。21日に命じた俺が出馬する前までの伝城作りの件、
25日に返信がきたが、信忠やそのほかの者に申し聞かせたそうだな。
今後もその調子でこのことに集中して油断すんな。
俺は5日に出馬し、やがてお前らに会うので、それをもって討ち果たすのだ。
その意はたびたび申し聞かせているはずだ。少しも進軍してはならない弱敵と侮るんじゃない。
森と梶原が言うことを聞かないようで曲事だ。若き者ゆえ俺に訴訟する気だろ。
俺がまだ進発してないのだ。信忠に固く申し付け候はぬ話である。
これにつき俺が進発した時に異議に及ぶこと許さない。とにかく固く守れ。
高遠の町を燃やしたのはよくやった。信忠・滝川・小川・水野・高橋の陣の前進設営について
聞き届けてやろう。しかしそこから先へは進むんじゃねぇぞ。

3/3信長→信忠
29日の注進が今日届いた。穴山が謀反したので勝頼が甲州北へ逃亡したとか。
穴山が内々に申していた話が実儀となったようだ。
よって陣を大嶋から飯嶋へ移すのも是非もない。しかしそれ以上はす・す・む・な・!
俺がちかじか出陣し手間なく討ち果たすんだから。これは川尻にも言ってある。

3/5の信忠→坪内(偽書状写しの可能性あり)
高遠城陥落の際しての坪内への感状

3/8の信長→柴田
5日に安土を出陣して今日は犬山。2/28に勝頼が居城を焼いて山奥へ逃亡したので
先手には甲州へ討ち出させた。信忠も同じように甲州だ。
俺が出馬する意味なくなったけど連々と関東見物を望んでいたことだしな。

3/13の信長→柴田・佐々・前田・不破 武田を滅ぼしたぞ。

3/17の信長→松井
穴山の忠節のおかげで、俺が出馬すると。日限から路地まで色を立つべきよし(一揆蜂起させた)
あちこちに風聞させてくれた小山田が滝川と心を合わせて14日に勝頼を討った。
典厩も小諸城で出羽守が忠節してくれたので首が到来〜長いので略〜
このことを秀吉へも伝えよ。

3/27の信長→木曽 本領安堵ならびに加増

天変地異を天皇の神威とか吹聴してたくらいだからなー 当時の人々は迷信とか盲信してたし将軍足利義持の時代に対馬へ朝鮮軍が攻めてきた時も
軍神が現れたとか出雲大社から神功皇后?のような女武者が活躍したとか根も葉もない話がガチで信じられて、さすが神国だとか言われたからなw
ちなみに敗走した朝鮮は、日本がキレたらビビって日本を攻める気持ちなんて無かったんだよ!実は背後に中国軍が2万の船で来てたけど台風で全部沈んだとかデタラメ吐いてるw
636名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:12:51.39 ID:G4uTqnXR
>>助けてすらいない。主要な城を落としたわけでもなければ、勝頼を追い詰めたわけでもない ほとんど付き添い同然で蚊帳の外状態だったわけだがw
>>634-635のように信長の命令川尻が直接受けて信忠に申し聞かせるよう重ねて書いてるし信忠の軽挙を抑えて慎重に進軍しろ、つなぎの城を作れと重ね重ねかいてる
>>信長が直接信忠に言い分を伝えるなら間の川尻なんて不要。しかも軍功もほぼなし。
そら川尻が実質的総大将で信長が命令受けて信忠に申し聞かせてただけだろ。軍功も糞も川尻は信忠軍団にあって遊軍として各地に転戦してるし武田攻めの総責任者として責務果たしている
>>助けている以前にただの付き添い。川尻が軍を率いたり采配を取った形跡もなし
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ。
>>ただ命令を聞いてその通りに実行するのを補佐とは言わん。家臣と主君の関係として当然の事。
んで丹羽がそれとは違う関係だったというソースは?
>>「信雄=暗愚」説って耶蘇会年報を書いていたキリシタン教徒がロクに情報の精査もしないまま「安土城を焼いたのは信雄、あいつはアホ」って
>>ムック本のように書き立てただけじゃんwそこ以外に「信雄=暗愚」説は全く出てこないどころか
本能寺前の信雄も散々貶められている
>>フロイスに至っては小牧の信雄を「あいつはあくどい」とまで書簡に残すなどもう滅茶苦茶
そんな記述あったか?そもそもフロイス自体キリシタン迫害前は秀吉マンセー視点で記述している(長島桑名浜田松ヶ島戸木など全く落ちていない段階で
伊勢一国とったとか秀吉の諸大名あて捏造誇大喧伝がそのまま事実かのように記述されてるし長久手の戦いは家康が城主に偽りの降伏させたとか捏造しまくっている)
>>部下が暴走するも何も信忠が焚き付けてるじゃんよw
2/23森や梶原が談合せずに進軍したとのこと3/1にも彼らが言うこと聞かないとか信長→川尻で書いてる
>>信忠は森や梶原を怒るどころか4月には武功に対する感状まで出しちゃう始末
それがなんなんだ?
>>3月には一緒に信濃高遠城を攻めて1日足らずでこれを落としてしまう上機嫌っぷりを発揮
相手は1000そこそこだし味方が圧倒的に多いからなんとかなっただけだろ
>>信長書状で信長が既に森梶原に苦言を呈してい
森や梶原は好き勝手やった挙句に信長に断罪されるどころか加増してもらったw
ハッキリ言って信忠イラネw
>>これで森や梶原が信忠も無視してたら誰が彼らを許すんだよw 軍令違反で打ち首で終わりw
意味不明。信長が森や団がいうこときかないと書いてるにもかかわらず断罪もされず加増されてる
いかに信忠が単なる従軍者の一人にすぎず信長から信頼を得ていない根拠といえる
637名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:17:16.46 ID:G4uTqnXR
>>628
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
638名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:21:35.51 ID:G4uTqnXR
信長の功績は捏造だらけ

信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
639名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:22:06.33 ID:G4uTqnXR
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
640名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:25:39.31 ID:G4uTqnXR
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に 織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の
感状から第二次のみは史実確認が取れる。 信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる
今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)らが織田方として存在している。天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったがすでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんwそもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友をさらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
641名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:26:28.52 ID:G4uTqnXR
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。
642名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:32:53.00 ID:G4uTqnXR
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡
蘇原郷を扶助してる。 あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反
を食い止めようとしてる。 そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。 3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙信長から御加勢依頼がきて 徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり立ち上がっただけに過ぎんのに信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
643名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:42:36.31 ID:G4uTqnXR
公記の加賀出兵記述は目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)とその子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では太田に金を払って書いてもらえなかっただろうからそういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかでぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって池田家に献上してるし大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。 龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候 殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候 可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候 聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候 北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候 吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
 七月廿八日 光佐(花押) 一色駿河守殿 真木嶋玄蕃頭殿
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝 滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長 根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
細野って公記が六角義賢の弟の六角義弼や六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
644名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:43:24.72 ID:G4uTqnXR
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
645名無し曰く、:2013/05/07(火) 13:37:46.20 ID:djeWJtHD
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
646名無し曰く、:2013/05/07(火) 13:58:18.09 ID:djeWJtHD
>>そんなん他の織田家の武将達も同じ。つうか直轄地を大量に認めるなんて統治織田家の武将に誰も信長は認めてないし

だから他の織田家武将達も基盤は貧弱だと言ってるだろ
柴田はポイポイ戦力引き抜かれるし佐久間は与力に苦言を呈されて最終的に追放された。
他の織田家武将達と同じように佐久間の基盤も貧弱で脆いものだったというだけ。

>>摂津で戦争が起こるたびにって荒木攻めや松永攻めの援軍として一時期赴いただけだし他の時期はずっと北陸に張り付いてるだけボォケ

柴田が越前に任命されてからほとんど引き抜かれてるじゃんよw
まともに戦力揃った戦いなんて手取川くらいじゃんw
結局柴田は天正8年に能登加賀の制圧に向かうがこの時すら与力の記述が全くない。

>>一門優遇の織田家でえこひいきされてたんだろ

それを「優遇されている」というんだろ。羽柴や丹羽は優遇されて、
柴田は上杉を押しつけられるほど冷遇されていた。何か間違っているか?w

>>軍功っつうか雑魚相手の楽な仕事しか任されないから能力しょぼくくねって話しだろ。

おまえがどう思うかなんて関係ない。信長がどう思っていたかだろ。
強敵上杉の捨て石にされるか、100%勝てる軍役を任されるか、どちらが重きを置かれていたかなんて誰でもわかる

>>信孝が時期当主候補なわけねーだろクズw信忠が生きてるのになぜ信孝に当主回って来るんだよアホ

丹羽は信雄も信孝も両方唾つけてるから信忠が死んだら回ってくるし
そもそも丹羽は信忠とも協力関係だしな。信忠が死のうが生きようが
次期を支える織田一門を助けたことがどれだけ影響力が高いかバカ以外ならわかるだろ
647名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:10:55.05 ID:djeWJtHD
>>捨石ってなんだよアホw強大な敵に雑魚わざわざぶつける必要なんてないわアホ

強大な敵に強大な味方が殺されたらどうするんだよアホw
そいつが死んだら織田家の運営に関わるような奴を敵対勢力の掃討なんかに使うかよw
神保や荒木遠山のようなどうでもいい奴に防波堤をさせて、最後の重要な役割は斎藤、秀吉、信忠のような重要人物に
功績をおいしく取らせるのが、信長のやり口じゃんよw柴田は最後まで死ななかったから功績にありつけただけw

>>松永荒木みたいな雑魚国力の相手に派遣するほうがよっぽど雑魚でいいわ(長期持久戦で簡単に落ちる)

普通にやれば功績ゲットなんだから信長が重要だと考えている人間に任せるに決まってるじゃんw
これほど後継者の地固めするのに最高の相手はいねーだろ。あとは強大な敵にも一応出陣させて恩を売っておけばいいだけ。
まあこの時点の織田家なんて国力が余所の10倍は軽くあるから、どんな敵でも国力的には雑魚みたいなもんだしなw
あの上杉ですら織田の5分の1くらいしかないし。

>>そりゃ相手が謙信だから仕方ないと思ったんじゃね。秀吉は織田一門格だからえこ贔屓されてたんだろうし

つまりその程度で済まされるほど秀吉は優遇され勝家は冷遇されていたということ
勝家の敗戦なんて予想通りだったってことだろw完全な捨て石じゃんw

>>そら強敵上杉相手させられてるんだから相当な信頼だろ

面倒な仕事を押しつけられた挙句与力をバンバン引き抜かれて、負けたら領地ポイの可能性まである仕事が「信用されている」ね
おまえ追放された原田一族や佐久間も優遇されていた、みたいに考えてそうだなマヌケだからw

>>近江6将の内の一人やってるだろ だから畿内平定戦に参加してるって話だろうが。

その時は多少なりとも信用されていただけ。越前なんかに入れられた時点で勝家の命運は終わった
そもそも勝家なんて年齢的に織田信忠の補佐なんてできないからなw
子供がいるわけでもねーのに重用したところで途中で死んでまうしな。
648名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:26:11.85 ID:djeWJtHD
>>越前は57万石もある大国だし朝倉旧臣が統治に失敗した後なのできわめて重要な任務だろ

ともすれば朝倉旧臣の二の舞になってぶっ殺されるかもしれないのに信頼性w
こいつが死んでも大したことねーやって思われていた証左じゃねーかw

>>悠々と畿内に領地もらってすごすなんて軍事的な重要な役割もらって達成しなくてはならない家臣としては全く信頼されてない証拠。

畿内の連中はいざというときに信長の手足として動く必要があるんだから信長からすれば信頼しまくってるだろ。
織田家一門が自ら率いるときに離反の可能性がある家臣を側に置いておくわけがないだろ

>>お前の妄想どおりだと中国攻めの矢面に出された秀吉とかは超絶無能になるな

無能か有能かは関係ない。信長に信頼されていたかどうかだろ。
んで中国攻めの矢面に立たされた秀吉が完全に信頼されていたかどうかといえばNO
最も、秀吉が中国攻めの矢面に立たされたのは手取川の戦線離脱による懲罰任務だから
この一例だけを指して「全く信頼されていなかった」と言い切るのは無理があるがな

>>アホかw無能な武将に任せたら織田家が傾くだろうがw

この時点の他を圧倒できる国力を持つ織田家がそうそう傾くわけねーだろ。
信長もその可能性は熟知していて前田や佐々不破など柴田の与力を削りまくっている。
万が一柴田が戦死しても死ぬのは柴田直属の部隊だけになるようになw
最も原田の場合は死の間際に明智松永水野と与力を巻き込みまくって本当にヤバい状態になってしまったがw

>>どこがだ?しかも加賀能登越中半国越前飛騨で150万石くらいになるから

ほとんど直轄地じゃねーじゃんよw大半は与力の領土じゃねーかw
与力の領土がアテにならんのは寝返りの連鎖を生みまくった賤ヶ岳の戦いで証明されまくってるじゃんよw

>>秀吉は織田一門だし秀吉は寝返った南条宇喜多草刈など中国の国人を除けば播磨但馬因幡長浜で勝家の方が石高上じゃね

おまえの理屈で言えば与力も戦力に入るんだから南条や宇喜多なんかは秀吉の戦力だろ。
与力が戦力にならんという俺の理屈なら柴田の与力である前田佐々不破などは柴田の戦力にならんから
どっちにしろ秀吉の方がよほど上。つうか信長の息子貰って織田一門になってる時点で思いっきり好待遇じゃんかよw

>>柴田はすてられてなんていないし佐久間は無理矢理中央集権のダシにされただけだろ

柴田が捨てられなかったのは加賀や能登を分捕って織田家に貢献したからだろタコw
その功績ですら「天下に面目を施した」と「やって当然のことをやったまで」と佐久間への折檻状で信長に断じられ
羽柴明智池田の軍功よりも下位の評価を貰っているじゃんw

>>ようは信長はえこひいきが激しく、個人的感情で動く人間だったってことだろ。谷口もそう書いてるし

依怙贔屓が激しいのは当たり前だ。いくら有能だからってすぐ寝返られるような人間を要職につけてどうする。
あの徳川家康と以後の将軍が築いた幕藩体制だって依怙贔屓の典型だろ。加藤や福島のような外様はつまらん理由ですぐ改易されたのに
鳥居や榊原のような譜代大名は何かにつけて「先祖の功績」で存続されまくっているしなw
649名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:42:26.81 ID:djeWJtHD
>>会社でいえば無能な親類にはしょぼい仕事しか任されずしかし解雇されないが 有能な叩き上げ部下は重要な仕事任されるが簡単に首切られるというだけ。

おまえ社会のこと何もわかってないんだな、ニート丸出しじゃんw
日本屈指の会社であるトヨタ自動車(TOYOTAグループ)は創業者から相談役に至るまで
全てが始祖である豊田佐吉の親族一門で構成されている。最初からどいつが会社の中核を任されるか決まりきっているわけ。
当時の織田家ひいては武家も全く同じパターン。仕事を任されつつも規定の出世ルートを辿るのが織田一門や丹羽羽柴池田など。
仕事を任されるがいつクビになるかもわからんし責任も大きいのが柴田佐久間原田など。どっちが有能でどっちが無能かなど断じれるわけもないが、前者の方が明らかに信用されているだけ

>>このことは2/23や3/1の信長書状でたびたび森や梶原の進軍に信長が言及してる事実からわかる。むしろ信長の耳に森らの勝手な行動をチクってただけだろw

勝手な行動をチクっていたのは川尻だろ、信忠は一緒になって攻めまくっているじゃんw

>>一次資料見る限り川尻は信忠を軽んじて自分が采配している

一次史料でも采配した形跡は全くのゼロ。高遠城攻撃にも参加した形跡はなく
勝頼を追い詰めたのも川尻ではない。森や梶原については言うまでもない。

>>信忠に対して信長が直接いわなければならない程信忠が信長の命令無視して任務遂行しかも信忠の補佐の武将も信忠の命令無視して行動してるから

滝川は信忠の命令守っているし織田長益は信忠の命令で木曽義昌を助けてるわけだが
川尻だけがせっせと信長のご機嫌伺いして、それを信長に見透かされて「俺から言っておくから」と体よくはぐらかされている。

>>3/1書状を歪曲解釈して気持ち悪いんだよお前。

結局城を築き終わる前に武田勝頼はボロクズに敗走した挙句自刃して
信長は3/8の書状で「関東見物」とまで書きだして武田の「属平均」に「出馬」する必要なしとまで書いてるじゃんw
おまえこそ3月8日の書状を無視して捏造歪曲しているだけの屑だろw
感状の現本がないと言い出したらほとんどの感状が捏造になるしなw

つうか信長公記にこの下りは全くないから、おまえの指摘すべて的外れだけどなw
650名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:27:23.45 ID:G4uTqnXR
>>だから他の織田家武将達も基盤は貧弱だと言ってるだろ
>>柴田はポイポイ戦力引き抜かれるし佐久間は与力に苦言を呈されて最終的に追放された。
>>他の織田家武将達と同じように佐久間の基盤も貧弱で脆いものだったというだけ
基盤がどうとかどうでもいい。信長の評価基準が禄高の大きさしかないのだからそれが大きい佐久間は単純に評価されてたのがわかるだけ
>>柴田が越前に任命されてからほとんど引き抜かれてるじゃんよw
いつといつの事だ?松永攻めと荒木攻め以外にはほとんど引き抜かれてねぇよボォケ
>>まともに戦力揃った戦いなんて手取川くらいじゃんw
御館の乱の後北陸には佐々長縄・神保長住・斉藤新吾・長連龍らが派遣されたし
享禄以来年代記や末森記前編利家武功覚書によれば45000の兵力で北陸侵攻開始している
>>結局柴田は天正8年に能登加賀の制圧に向かうがこの時すら与力の記述が全くない。
上記史料により45000の兵力+佐々長縄・神保・長・斉藤ら飛騨口別働隊で御館の乱や新発田の乱で疲弊しきった上杉相手に火事場泥棒戦をやっているのが北陸侵攻軍
>>それを「優遇されている」というんだろ。羽柴や丹羽は優遇されて、
丹羽なんか一門の癖に全く優遇されてねーし羽柴も中国地方に左遷されており冷遇されまくっている
二人とも一門で優遇されるべき身分にありながら冷遇されまくったのが実体
>>柴田は上杉を押しつけられるほど冷遇されていた。何か間違っているか?w
どこが冷遇なのか不明
>>おまえがどう思うかなんて関係ない。信長がどう思っていたかだろ。
>>強敵上杉の捨て石にされるか、100%勝てる軍役を任されるか、どちらが重きを置かれていたかなんて誰でもわかる
そりゃ部下として有能で信頼されてる武将には雑魚相手ではなく強者相手にぶつけるというだけ。事実謙信出兵時織田家オールスターメンバーで向かってるし
謙信死んで上杉が自爆したら他の連中を他方面に回す余裕ができたというだけ
>>丹羽は信雄も信孝も両方唾つけてるから信忠が死んだら回ってくるし
なんで信忠が死んだ後のことが想定に上がるのか意味不明。信忠は実際生きてるし信雄信孝以外にも候補なんていっぱいいる
>>そもそも丹羽は信忠とも協力関係だしな。信忠が死のうが生きようが次期を支える織田一門を助けたことがどれだけ影響力が高いかバカ以外ならわかるだろ
意味不明。協力関係って何だ?信忠指揮の戦に参加したことをもって協力関係にあるとするなら皆協力関係だろボケ
毛利秀頼とか日根野とか川尻団とかみんな協力関係じゃんよ。北条氏政ですら協力したから協力関係だなw
651名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:07.94 ID:G4uTqnXR
>>強大な敵に強大な味方が殺されたらどうするんだよアホw
強敵に雑魚ぶつけたらそこが思いっきり敵に切り取られて敵が強大になって手におえなくなるだけ。
弱的なら雑魚ぶつけても数を生かした持久戦で倒せるし実際そうやって多くの敵を倒してきた。強敵に強者をぶつければ敵の振興食い止められる可能性高く
信長はいつもそうやってきた(志賀の陣や三方が原、手取川、長篠など)
>>そいつが死んだら織田家の運営に関わるような奴を敵対勢力の掃討なんかに使うかよw
つまり秀吉は毛利の最前線に立たされてたから雑魚だったと。
>>神保や荒木遠山のようなどうでもいい奴に防波堤をさせて
意味不明。防波堤ってなんだ?神保が北陸に派遣されたのは越中国人の調略のためだし(神保の活躍で越中国人らが多く寝返っている)
荒木は佐久間の本願寺攻め総大将取られただろ。佐久間軍団の中で協力して本願寺らと戦ってただけ。
>>最後の重要な役割は斎藤、秀吉、信忠のような重要人物に
秀吉は播磨に派遣されて危険地域思いっきり出されて案の状熊見川で大敗している。斉藤が重要な役割ってなんだ?
信忠も武田攻め荒木攻め松永攻めなど転進してるじゃんよ。不慮の事故で死んだら元も子もねーしお前の言うとおりなら京か安土で政務だけやらせとけばいいなw
>>功績をおいしく取らせるのが、信長のやり口じゃんよw柴田は最後まで死ななかったから功績にありつけただけw
意味不明。丹波には光秀播磨には秀吉北陸には柴田と最初から強大の軍団送りまくっている。つうかお前の大好きな佐久間譴責状で彼らの活躍を褒めてる文書(信長公記の偽書の可能性高いが)
がちゃんとあり、そこには信忠や丹羽なんて名前すらあがってねーじゃん
>>普通にやれば功績ゲットなんだから信長が重要だと考えている人間に任せるに決まってるじゃんw
そんな味方の分国のど真中で孤立無援で抗戦してる雑魚国力の相手なんて雑魚武将でせめても長期持久戦+物量で落ちる(事実信貴山城はさっさと落ちてる)
>>これほど後継者の地固めするのに最高の相手はいねーだろ。あとは強大な敵にも一応出陣させて恩を売っておけばいいだけ。
意味がわからん。後継者の地固めなら最初から出陣させないか後方支援してればいいだけ。
>>まあこの時点の織田家なんて国力が余所の10倍は軽くあるから、どんな敵でも国力的には雑魚みたいなもんだしなw
少なくとも織田分国のど真中で雑魚国力で抗戦してる松永荒木より国力そこそこある北陸で柴田+オールスターメンバー蹴散らした上杉の方が遥かに難敵。
御館の乱や新発田の乱で疲弊しきったとはいえ、信長はこの期に乗じて斉藤神保長佐々長縄ら派遣して越中能登での勢力回復狙って実際御館の乱の後の頃には北陸国衆らが多く寝返りだすんだから。
>>あの上杉ですら織田の5分の1くらいしかないし。
上杉はもっとすくなくね
>>つまりその程度で済まされるほど秀吉は優遇され勝家は冷遇されていたということ
そりゃ一門だから優遇されてたんじゃね。まあお前の論理だと対毛利の前線に置かれたから冷遇されたとも解釈できるが。
>>勝家の敗戦なんて予想通りだったってことだろw完全な捨て石じゃん
根拠は?敗戦がわかってるなら最初から退却して越前あたりで迎撃すりゃいいだけだろ。いくら上杉といえど本国からの距離があれば長期間同じ戦線にはりつくのは容易じゃないだろうし
ほかに敵もいるし
>>面倒な仕事を押しつけられた挙句与力をバンバン引き抜かれて、負けたら領地ポイの可能性まである仕事が「信用されている」ね
そりゃ織田家の武将であり家臣は信長や織田のために働くだから困難な任務まかされてるってことは信頼されてる証拠だろうね
つうか勝家は与力を引き抜かれるどころか佐久間ら大軍をわざわざ摂津から引っこ抜いて北陸戦線にあててるわけだが。
652名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:37.73 ID:G4uTqnXR
>>おまえ追放された原田一族や佐久間も優遇されていた、みたいに考えてそうだなマヌケだからw
そりゃ優遇されてたからこそ7か国に及ぶ広範な領土得たわけだし最も織田分国中で強大な軍事力持ってたんだから佐久間も柴田も原田も相当優遇されてた証拠。
丹羽なんて佐久間譴責状で名前すらあがってないしな
>>その時は多少なりとも信用されていただけ。越前なんかに入れられた時点で勝家の命運は終わった
意味不明。信長がそう思ってたという史料だせよアホ。
>>そもそも勝家なんて年齢的に織田信忠の補佐なんてできないからなw
そんな老害の武将を使わなければならない程織田家のほかの連中が無能なんだろ
>>子供がいるわけでもねーのに重用したところで途中で死んでまうしな。
そんな年寄りでも重用され大封もらったんだから織田家ではトップと評価されてた証拠。
光秀だって丹波のしょぼい領土と赤井や波多野など雑魚相手の戦任されただけの上にあっさり領土召し上げて左遷されてたしな
>>ともすれば朝倉旧臣の二の舞になってぶっ殺されるかもしれないのに信頼性w
>>こいつが死んでも大したことねーやって思われていた証左じゃねーかw
雑魚や無能にやらせたらもう一回越前が一揆に支配されて上杉あたりと結託されたら織田家は滅亡まっしぐらだろアホ
>>畿内の連中はいざというときに信長の手足として動く必要があるんだから信長からすれば信頼しまくってるだろ。
いざという時しか出番なしの上に織田分国のど真中で敵もろくにいない地域でのうのうと過ごすなんて武将としてはよほど無能なんだろ
戦闘経験も全くつめないし領土も広がらないし誰でもできる雑魚相手の戦に有能な武将残す理由がない
>>織田家一門が自ら率いるときに離反の可能性がある家臣を側に置いておくわけがないだろ
光秀は信長は裏切ったが、畿内に置かれていたし荒木も松永も置かれてたじゃん
>>んで中国攻めの矢面に立たされた秀吉が完全に信頼されていたかどうかといえばNO
根拠は?
>>最も、秀吉が中国攻めの矢面に立たされたのは手取川の戦線離脱による懲罰任務だから
そもそも秀吉による中国経略なんて天正3年頃から行われている(小寺や別所や赤松らと接触して信長に拝謁するよう取り計らったりしてるのが
別所記などでわかる)
>>この一例だけを指して「全く信頼されていなかった」と言い切るのは無理があるがな
信頼されていない武将には敵地との最前線で信頼されてる武将には畿内に置いたという論理なら秀吉は信頼全くされてないことになるな
>>この時点の他を圧倒できる国力を持つ織田家がそうそう傾くわけねーだろ。
傾くってのはより厄介で膠着が続いたりするって意味な。実際謙信に負けた時期は毛利が中国地方に出張ってくるし光秀も赤井に負けるし
播磨でも毛利軍に呼応して反旗翻すし松永荒木別所と離反も続くしかなり厄介な状況が生まれることにはなる
>>信長もその可能性は熟知していて前田や佐々不破など柴田の与力を削りまくっている。
松永攻めと荒木攻めの時くらいしか抜いていない。前田家記の末森記前編利家武功覚書によれば前田や佐々は天正6年から45000の大軍で柴田軍の中で北陸経略にあたった
と書いてるし享禄以来年代記でも45000で北陸侵攻したと書いてる。つうか信長公記もこの数字だろ
>>万が一柴田が戦死しても死ぬのは柴田直属の部隊だけになるようになw
最初から負けるつもりなら領土放棄して越前か近江まで引き上げてそこで防衛すりゃいいだけだろうがボォケ
>>最も原田の場合は死の間際に明智松永水野と与力を巻き込みまくって本当にヤバい状態になってしまったが
大阪方面軍司令官で最も大身で信長から信頼されてたんだから当たり前だろアホ
653名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:58.58 ID:G4uTqnXR
>>ほとんど直轄地じゃねーじゃんよw大半は与力の領土じゃねーかw
んなもん柴田に限らん。羽柴も明智も滝川もお前の好きな信忠も同じ。つうか他の大名も同じ(寄子寄親制で寄親の大名に与力として
家臣がくっついているだけ。)
>>おまえの理屈で言えば与力も戦力に入るんだから南条や宇喜多なんかは秀吉の戦力だろ。
南条や宇喜多はたまたまラッキーで寝返っただけだし秀吉が自力で切り取ったものでもなく信長から与えられたものでもないし
本能寺前時点でいえば柴田にとっての新発田や鮎川みたいなもんじゃね
本能寺後はじかに秀吉に援軍送ったりしてるが
>>与力が戦力にならんという俺の理屈なら柴田の与力である前田佐々不破などは柴田の戦力にならんから
そんなら秀吉与力の秀長宮部前野蜂須賀河波衆長浜衆播磨衆の小寺赤松但馬衆の山名なども全く戦力にならないから直轄地皆無だなw
>>どっちにしろ秀吉の方がよほど上。つうか信長の息子貰って織田一門になってる時点で思いっきり好待遇じゃんかよ
織田一門だからエコ贔屓されたんだろ。好き嫌いで判断するのが信長だからな。そもそも秀吉なんて一次資料でもかなり高い身分で領土安堵状出してるし
信長公記でもすでに一軍の指揮官だし姓からして木下だし一門だから優遇されただけじゃねw
>>柴田が捨てられなかったのは加賀や能登を分捕って織田家に貢献したからだろタコw
だから信頼されてるってことだろうがアホ
>>その功績ですら「天下に面目を施した」と「やって当然のことをやったまで」と佐久間への折檻状で信長に断じられ
なんで天下に面目を施すことがやって当然のことをやったという解釈になるのか不明
やって当たり前のことやっても天下に面目なんて施せるわけがない
>>羽柴明智池田の軍功よりも下位の評価を貰っているじゃんw
信長の評価基準がデタラメすぎるだけだろw
中国戦線なんてもともと赤松・山名・小寺・別所など信長に拝謁して織田分国だったのが
秀吉の失態で播磨国衆らがこぞって寝返って毛利軍に熊見川で大敗し、上月城の尼子残党も見捨てる事になり、窮地だったのが
毛利の兵站の長さを理由にしたヘタレ退却と、たびたび来た信忠ら大軍の援軍と、南条宇喜多草刈ら毛利方国人の一斉離反で助かっただけだし数か国比類なしとか捏造乙としかいいようがないし
池田も柴田に比べりゃ何もやってないし明智も第一に評価されるほどのことはやってない。
そもそもその文書自体信長公記にしかでてこないので後世の偽作の可能性高いがw
654名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:41:30.09 ID:G4uTqnXR
>>全てが始祖である豊田佐吉の親族一門で構成されている。最初からどいつが会社の中核を任されるか決まりきっているわけ。
>>当時の織田家ひいては武家も全く同じパターン。仕事を任されつつも規定の出世ルートを辿るのが織田一門や丹羽羽柴池田など。
>>仕事を任されるがいつクビになるかもわからんし責任も大きいのが柴田佐久間原田など。どっちが有能でどっちが無能かなど断じれるわけもないが、前者の方が明らかに信用されているだけ
コネや縁故で入った無能にはしょぼい仕事が与えられ、叩き上げの有能な武将には責任大きい期待度高い仕事が与えられるのが会社。
前者が丹羽羽柴織田一門、後者が柴田佐久間滝川。
>>勝手な行動をチクっていたのは川尻だろ、信忠は一緒になって攻めまくっているじゃんw
信長→川尻で信忠の軽挙つつしむよう書いてる
>>一次史料でも采配した形跡は全くのゼロ。高遠城攻撃にも参加した形跡はなく
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ
川尻は自分が信長代行として信忠を率いて命令したが信忠は川尻信長のいうこときかず無視して勇んでいっただけ。
>>勝頼を追い詰めたのも川尻ではない。森や梶原については言うまでもない。
根拠なし。川尻が信長とじきにやりとりしてつなぎの城の築城など軍事命令を受け取って動いてたんだから武田攻めの総大将は川尻で滝川信忠が補佐。
その証拠に川尻は甲斐一国(一部除き)を加増されている
>>滝川は信忠の命令守っているし織田長益は信忠の命令で木曽義昌を助けてるわけだが
そんな史料あったか?
>>川尻だけがせっせと信長のご機嫌伺いして、それを信長に見透かされて「俺から言っておくから」と体よくはぐらかされている。
信長の機嫌伺いも糞も信長がじきじきに川尻に命令に当たる軍令出して信忠を従わせようとしてるんだから見透かすも糞もない
>>結局城を築き終わる前に武田勝頼はボロクズに敗走した挙句自刃して
抗戦したのが仁科1000程度だけだからな
655名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:44:03.62 ID:G4uTqnXR
>>信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいから
>>638-644のように捏造ばっかされてるし信長マンセー記述(信長に「歯向かうものは滅びるのだ、とか)書いてるしどうみても軍記。
656名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:29:12.45 ID:djeWJtHD
>>650
>>基盤がどうとかどうでもいい。信長の評価基準が禄高の大きさしかないのだからそれが大きい佐久間は単純に評価されてたのがわかるだけ

禄高の大きさなんてそれこそアテにならん、佐久間のように全部没収されたら終わりだしな
要地に領土を貰ったり、織田一門と縁戚やコネを作っておけば、例えどんなことになっても優遇される

>>いつといつの事だ?松永攻めと荒木攻め以外にはほとんど引き抜かれてねぇよボォケ

荒木攻めなんてほとんど本願寺毛利攻め兼任だしかなりの長期間だろうが
事実雑賀攻めでも越前衆は参加しているし一番重要な時期に引っこ抜かれてるじゃん

>>御館の乱の後北陸には佐々長縄・神保長住・斉藤新吾・長連龍らが派遣されたし

神保と斎藤は柴田の与力ですらねーだろ、信忠与力をぶち込むことで柴田の功績をおいしく戴かれてるじゃん

>>45000の兵力で北陸侵攻開始している
>>つうか信長公記もこの数字だろ

嘘つくな、信長公記の勝家による北陸功績は天正五年の「柴田北国相働くの事」
天正八年の「能登・加賀両国、柴田一篇に申し付くるの事」があるがいずれも兵数記載なんてされてねーだろ
末森記って江戸時代の史料だから、それこそアテにならんし、そもそも
織田軍による北陸制圧の後半は、織田信忠旗下の家臣も参加しているから45000の兵力が全て柴田の指示で動いていたかどうかも眉唾じゃん

>>丹羽なんか一門の癖に全く優遇されてねーし羽柴も中国地方に左遷されており冷遇されまくっている

中国地方に左遷されたと言いながら、北陸なんぞに飛ばされた柴田は優遇か
相変わらずマンセー思考のおめでたい頭でなによりだw

>>そりゃ部下として有能で信頼されてる武将には雑魚相手ではなく強者相手にぶつけるというだけ。事実謙信出兵時織田家オールスターメンバーで向かってるし

どこがオールスターだよ適当な解釈で捏造してんじゃねーよボケw
織田信忠含む織田一門は全く介在してないし明智光秀や池田恒興すらいない
森、佐久間、永岡などもおらずただ手の空いた奴をとりあえず連れて行っただけで
やる気のない秀吉が勝手に帰還してるほど纏まりの欠いた集団じゃんw

>>謙信死んで上杉が自爆したら他の連中を他方面に回す余裕ができたというだけ

勝手に殺すなや、雑賀攻めとかでも謙信生きてるのに普通に不破光治とか参戦してるじゃんよ
謙信が出てきてちょっと雲行き怪しい時だけ与力が協力してくれているだけで基本は全部柴田の役回りじゃんよ
そのために一族の柴田義宣あたりがぶっ殺されたりしてるし冷遇極まりない

>>なんで信忠が死んだ後のことが想定に上がるのか意味不明。信忠は実際生きてるし信雄信孝以外にも候補なんていっぱいいる

よっぽどのことがない限り家督は年長者からだアホ、ただえさえ正室腹の息子が存在しねーんだしな

>>毛利秀頼とか日根野とか川尻団とかみんな協力関係じゃんよ。北条氏政ですら協力したから協力関係だなw

協力関係だってのは距離が近く従軍して補佐している関係ってことだ。川尻と団は協力関係と言っていいがな
北条氏政なんて織田に協力して分捕ってやった上野を、なぜか織田家臣の滝川に領地取られて恩賞なしの時点で信長からどう思われてるか察せよw
657名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:30:57.40 ID:djeWJtHD
>>655
太田は織田家に属する人間なんだから信長を讃えるのは当たり前だタコw
つうかおまえの理屈なら先祖主君を持ち上げただけで偽書軍記になるのだから
世の中の史料の大半は捏造軍記だなww先祖主君を讃えない史料なんてまずないしw
658名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:49:33.99 ID:djeWJtHD
>>信長はいつもそうやってきた(志賀の陣や三方が原、手取川、長篠など)

適当な妄想こくなタコ
志賀の陣は信長自ら駆けずり回っているし三方が原や長篠なぞそれこそ体のいい捨て石じゃねーかw
三方が原の敗戦後は家康の高天神救援要請を悉く無視してるし、思いっきり使いっ走りだろうが

>>つまり秀吉は毛利の最前線に立たされてたから雑魚だったと。

雑魚かどうかは評価基準にない、要するに信長に重用されてない奴が任務につく
つまり信長にはさほど信頼されていない。実際に勝家も雑魚じゃねーだろ
雑魚は村上みたいな弱小に2回も敗れた武田信玄だけで十分だカス

>>意味不明。防波堤ってなんだ?神保が北陸に派遣されたのは越中国人の調略のためだし

直接敵の攻撃にさらされたり敵の影響を受ける地位にあるってことだろ
事実神保は最後に越中から追い立てられている。「用済みだからおまえの領地はないよ」ってばかりに織田軍も気にしてない

>>秀吉は播磨に派遣されて危険地域思いっきり出されて案の状熊見川で大敗している。斉藤が重要な役割ってなんだ?

熊見川って撤退する敵を追い散らしただけの戦いだし上月城見捨ててまで撤退してこいと信長からある程度は目をかけられていたじゃん
半ば懲罰に近いものではあったが信忠から援助受けたりちゃんと任務やらしてもらっている。
斎藤は途中から柴田がやってる北陸制圧に参加してるじゃんよ

>>不慮の事故で死んだら元も子もねーしお前の言うとおりなら京か安土で政務だけやらせとけばいいなw

そんなので死ぬような無能には到底家督継がせられないってことだろ、戦国時代なんだから当然

>>そこには信忠や丹羽なんて名前すらあがってねーじゃん

信忠は息子なんだから当たり前だろ、あの書状は同僚の功績を指して「おまえは働いていない」という叱責なんだからな
「名前が上がっていないから不働き」なんて言うのはバカだけ、つうか丹羽が不働きだったら佐久間と一緒に追放されているだろカス

>>そんな味方の分国のど真中で孤立無援で抗戦してる雑魚国力の相手なんて雑魚武将でせめても長期持久戦+物量で落ちる(事実信貴山城はさっさと落ちてる)

どこを攻めているから雑魚とか全く関係なし、ただ信長に信頼されているだけw
雑魚は村上みたいな弱小に2回も負けた武田信玄だけで十分。織田家で言うなら松永に2回も負けたようなもんだからなw

>>意味がわからん。後継者の地固めなら最初から出陣させないか後方支援してればいいだけ

そんな無能は家督継げない、それで家督継げるのはおまえみたいなニートだけ

>>蹴散らした上杉の方が遥かに難敵。

難敵に正面からぶちあてられた挙句功績を横取りされかけた柴田は冷遇、以上証明終了

>>敗戦がわかってるなら最初から退却して越前あたりで迎撃すりゃいいだけだろ。

領土を損ないたくなかったんじゃねーの?

>>勝家は与力を引き抜かれるどころか佐久間ら大軍をわざわざ摂津から引っこ抜いて北陸戦線にあててるわけだが。

佐久間って摂津戦線にいなかっただろ、元々勝家と同列任務だ
659名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:04:17.46 ID:djeWJtHD
>>丹羽なんて佐久間譴責状で名前すらあがってないしな

いちいち膨大な織田家臣の名前を挙げるのを面倒くさがっただけ
つうか名前挙がらない=信頼されないなら織田家臣の大半は信頼されてないことになるし不働きだというのなら佐久間と一緒に丹羽も追放されているだけ

>>意味不明。信長がそう思ってたという史料だせよアホ。

勝家を重用したいのなら摂津戦線でも任せればよかっただけ。上洛直後から重用されていた重臣で
以後畿内方面に参加できなかったのは勝家だけ、丹羽も秀吉も佐久間でさえ畿内で戦えたのに柴田は一切戦えず

>>そんな老害の武将を使わなければならない程織田家のほかの連中が無能なんだろ

根拠なしの妄想乙、役に立つんなら使うだけ。信頼されてるかどうかは別

>>そんな年寄りでも重用され大封もらったんだから織田家ではトップと評価されてた証拠。

その大封は勝家とほとんど縁のない与力の領土、勝家が統括できていたかも怪しい代物

>>光秀だって丹波のしょぼい領土と赤井や波多野など雑魚相手の戦任されただけの上にあっさり領土召し上げて左遷されてたしな

後世の創作にして妄想乙

>>雑魚や無能にやらせたらもう一回越前が一揆に支配されて上杉あたりと結託されたら織田家は滅亡まっしぐらだろアホ

この当時の織田軍が越前失ったところで滅亡なんてまずない、つうか越前は朝倉旧臣がぶっ殺されまくった時に一度失ってるが
盛大に大軍を派遣して更地同然の如く敵対勢力を葬って終わったじゃんw

>>戦闘経験も全くつめないし領土も広がらないし誰でもできる雑魚相手の戦に有能な武将残す理由がない

戦争がほとんど終わっているのに戦闘経験積ませるとかアホ乙wまあ松永荒木別所攻めで十分に戦争経験積む機会があったのはあれだがなw

>>光秀は信長は裏切ったが、畿内に置かれていたし荒木も松永も置かれてたじゃん

信長は寝返ると思っていなかったんだろ

>>根拠は?そもそも秀吉による中国経略なんて天正3年頃から行われている(小寺や別所や赤松らと接触して信長に拝謁するよう取り計らったりしてるのが別所記などでわかる)

関係を取り持つことと実際に前線に赴くことは全然ちげーよks

>>信頼されていない武将には敵地との最前線で信頼されてる武将には畿内に置いたという論理なら秀吉は信頼全くされてないことになるな

実際大して信用されてないでしょ、秀吉が厚遇されているのは信長の息子が秀吉の養子に行ったからで

>>傾くってのはより厄介で膠着が続いたりするって意味な。松永荒木別所と離反も続くしかなり厄介な状況が生まれることにはなる

その程度の傾きでどのみち織田家が崩壊するわけねーから一過性のもんにすぎん
そんなの信長あたりが直属率いて軍を出せばすぐに終わるし実際松永は瞬殺じゃん

>>最初から負けるつもりなら領土放棄して越前か近江まで引き上げてそこで防衛すりゃいいだけだろうがボォケ

自領付近で戦争しかけるとか馬鹿のやることだボケ。なんで敵と戦うだけで領地を疲弊させなきゃならんのだアホ

>>大阪方面軍司令官で最も大身で信長から信頼されてたんだから当たり前だろアホ

全部薄氷の権力じゃねーかw実際原田死んだ後一族はあっさりポイされてしまうくらいに落ちぶれたわけだしな
660名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:08:45.78 ID:djeWJtHD
>>んなもん柴田に限らん。羽柴も明智も滝川もお前の好きな信忠も同じ。つうか他の大名も同じ

信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
人の言ってることも理解できんのかアスペ野郎

>>なんで天下に面目を施すことがやって当然のことをやったという解釈になるのか不明

「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ

>>織田一門だからエコ贔屓されたんだろ。好き嫌いで判断するのが信長だからな。

その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w

>>信長の評価基準がデタラメすぎるだけだろw

根拠なしの妄想乙
661名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:17:28.21 ID:djeWJtHD
>>コネや縁故で入った無能にはしょぼい仕事が与えられ、叩き上げの有能な武将には責任大きい期待度高い仕事が与えられるのが会社。

TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
そんな社会の仕組みも知らないニート君が会社を例に出しても馬鹿にされるだけw

>>信長→川尻で信忠の軽挙つつしむよう書いてる

で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
しかも信長が後から「武田を平定」するのに「出馬」不要と書状で伝えている。

>>>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ

で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
すぐ高遠城を攻めて甲斐にまで突っ込んでるわけだが。

>>川尻は自分が信長代行として信忠を率いて命令したが信忠は川尻信長のいうこときかず無視して勇んでいっただけ

誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ

>>根拠なし。川尻が信長とじきにやりとりしてつなぎの城の築城など軍事命令を受け取って動いてたんだから武田攻めの総大将は川尻で滝川信忠が補佐

武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
「不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候」の書状を出したのはおまえだぞ?w

>>そんな史料あったか?

滝川は信長書状で散々言われているし長益は信長公記にあるだろ

>>信長の機嫌伺いも糞も信長がじきじきに川尻に命令に当たる軍令出して信忠を従わせようとしてるんだから見透かすも糞もない

で誰1人川尻の命令聞かずに攻めまくっているわけだが

>>抗戦したのが仁科1000程度だけだからな

で川尻は結果的にほとんど何もせずに終わったって話じゃん
662名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:27:36.98 ID:G4uTqnXR
>>禄高の大きさなんてそれこそアテにならん、佐久間のように全部没収されたら終わりだしな
だったら織田家臣団の序列なんて妄想でしかはかれねーなボケ
>>要地に領土を貰ったり、織田一門と縁戚やコネを作っておけば、例えどんなことになっても優遇される
そんな優遇されるべき一門の地位にいながら冷遇されまくりハナクソみたいな土地しかもらえなかったのが丹羽
>>荒木攻めなんてほとんど本願寺毛利攻め兼任だしかなりの長期間だろうが
なんで遠方にいる毛利攻めと佐久間が担当してる本願寺攻めといっしょくたになるんだ?
>>事実雑賀攻めでも越前衆は参加しているし一番重要な時期に引っこ抜かれてるじゃん
なんで手取川前の時期ほんの一時行われた雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
謙信死後御館の乱や新発田の乱で弱りきったから周辺国にまわす余裕できただけだろ
>>神保と斎藤は柴田の与力ですらねーだろ、信忠与力をぶち込むことで柴田の功績をおいしく戴かれてるじゃん
なんで柴田の手助けを行ったのに「柴田の手柄をとられた」という歪曲解釈になるのか不明。
柴田の与力の佐々前田らが多方面に出兵したから柴田の功責を水ましするつもりだったとでもいうのかよアホ
>>末森記って江戸時代の史料だから、それこそアテにならんし
根拠は?末森記否定なら末森合戦の史料なんてそもそも存在しないし、そもそも前田家の家記だし一次資料の享禄以来年代記にも同じ数字が書かれてるし
長家家譜も同じ数字だったはず
織田軍による北陸制圧の後半は、織田信忠旗下の家臣も参加しているから45000の兵力が全て柴田の指示で動いていたかどうかも眉唾じゃん
>>中国地方に左遷されたと言いながら、北陸なんぞに飛ばされた柴田は優遇か
いや、そもそもお前に話を合わせたんだがね
>>どこがオールスターだよ適当な解釈で捏造してんじゃねーよボケw
長家家譜(織田側) そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容には信長本隊 佐久間信盛軍団 (浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団 (氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
>>織田信忠含む織田一門は全く介在してないし明智光秀や池田恒興すらいない
でも圧倒的に大軍が投入されてるしな。織田家中核の柴田+その他大勢で軽く4万は超える
>>森、佐久間、永岡などもおらずただ手の空いた奴をとりあえず連れて行っただけで
なんで丹羽柴田前田佐々羽柴長稲葉堀蜂谷金森長谷川らの手があくんだよボケ
>>やる気のない秀吉が勝手に帰還してるほど纏まりの欠いた集団じゃんw
秀吉はビビリまくって逃げただけじゃんw謙信相手では戦死するのが目にみえてるからな
>>勝手に殺すなや、雑賀攻めとかでも謙信生きてるのに普通に不破光治とか参戦してるじゃんよ
なんで謙信生前一月か二月で終了した雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
>>謙信が出てきてちょっと雲行き怪しい時だけ与力が協力してくれているだけで基本は全部柴田の役回りじゃんよ
柴田は美濃とか他地域にも与力がいまくるからな。長島侵攻戦でも大量の柴田軍団が投入されてるし。
>>そのために一族の柴田義宣あたりがぶっ殺されたりしてるし冷遇極まりない
それだけ信長から寡兵でも戦えるって評価されてたんじゃね
>>よっぽどのことがない限り家督は年長者からだアホ、ただえさえ正室腹の息子が存在しねーんだしな
ならとっくに北畠や神戸から復姓させとるわw
>>協力関係だってのは距離が近く従軍して補佐している関係ってことだ。川尻と団は協力関係と言っていいがな
んで丹羽と信雄らの関係は信忠と彼らの関係とどう違うんだ?
>>北条氏政なんて織田に協力して分捕ってやった上野を、なぜか織田家臣の滝川に領地取られて恩賞なしの時点で信長からどう思われてるか察せよw
だから協力関係だったことにかわりはないだろw信忠と協力関係だった奴なんてごまんといるじゃん
663名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:34:22.36 ID:Gno+jI19
>>656
例の人にいちいち返答するのはやめておけよ
スレを埋められるだけだ
664名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:41:43.05 ID:G4uTqnXR
>>いちいち膨大な織田家臣の名前を挙げるのを面倒くさがっただけ
根拠なし。雑魚だしろくな功責もないから名前挙げなかっただけ。
>>つうか名前挙がらない=信頼されないなら織田家臣の大半は信頼されてないことになるし不働きだというのなら佐久間と一緒に丹羽も追放されているだけ
いや雑魚でもイエスマンなら政務に使えるし、忠誠が篤ければおいとける
>>勝家を重用したいのなら摂津戦線でも任せればよかっただけ
なんで摂津戦線が最重要戦線とか他方面の武将は重用じゃなくなるんだよボォケw
秀吉なんて摂津に出向かせてもらってないから冷遇しまくりだなw摂津なんて長期持久戦で落ちるから将の資質問われんから雑魚で十分だわw
>>上洛直後から重用されていた重臣で 以後畿内方面に参加できなかったのは勝家だけ、丹羽も秀吉も佐久間でさえ畿内で戦えたのに柴田は一切戦えず
そりゃ最強上杉の相手や一揆の風土が強い越前加賀支配を任されてたからな。柴田は対浅井朝倉で戦いまくってるじゃねぇかタコ
浅井朝倉もいない雑魚しかいない畿内でそんな強い武将投入する意味がない
>>根拠なしの妄想乙、役に立つんなら使うだけ。信頼されてるかどうかは別
年寄りでも危険な戦線&強敵上杉相手に投入されてるんだから織田家内では実力評価されてた証拠
>>その大封は勝家とほとんど縁のない与力の領土、勝家が統括できていたかも怪しい代物
そんなもん他の連中も同じ。つうか他の大名も頼子より親制だから一緒
>>後世の創作にして妄想乙
はっ?常識だろ。何いってんだ?
>>この当時の織田軍が越前失ったところで滅亡なんてまずない、つうか越前は朝倉旧臣がぶっ殺されまくった時に一度失ってるが
>>盛大に大軍を派遣して更地同然の如く敵対勢力を葬って終わったじゃんw
そりゃ上杉や毛利ら周辺大名との連携も取れてない時期だしな。謙信が手取川で、赤井が丹波、毛利が播磨戦線で勝利重ねる時期はかなり織田家は窮地だったし
謙信生きてたらかなり危ない。播磨の諸将や畿内でも不穏な動きあるしな
>>戦争がほとんど終わっているのに戦闘経験積ませるとかアホ乙wまあ松永荒木別所攻めで十分に戦争経験積む機会があったのはあれだがなw
まだ四国中国北陸関東東北九州とたくさんのこってるだろアホ
>>信長は寝返ると思っていなかったんだろ
つまり信長の信頼は正確さ0の妄想と
>>関係を取り持つことと実際に前線に赴くことは全然ちげーよks
だから「経略は。」
>>その程度の傾きでどのみち織田家が崩壊するわけねーから一過性のもんにすぎん
武田勝頼毛利輝元本願寺顕如荒木村重上杉謙信松永別所赤井と一度に結託したらとんでもないことになる。
史実では毛利がありえないくらいヘタレて出兵約束反故にしたり謙信赤井直正と名将の病死や別所荒木松永の離反時期の齟齬でうまくいかなかったがな
>>そんなの信長あたりが直属率いて軍を出せばすぐに終わるし実際松永は瞬殺じゃん
そりゃいっぺんの全員が離反しなかったし毛利もなかなか出兵しないし謙信も病没したし直正も病死したからな
>>自領付近で戦争しかけるとか馬鹿のやることだボケ。なんで敵と戦うだけで領地を疲弊させなきゃならんのだアホ
だったら余計に前線に名将おいて敵を頑強に食い止められる状況作る必要あるって話だろアホ
>>全部薄氷の権力じゃねーかw実際原田死んだ後一族はあっさりポイされてしまうくらいに落ちぶれたわけだしな
薄氷であれ大身は大身。分国中にかなりの大軍がいるわけだしな
そもそも信長の権力自体薄氷だしな
665名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:55:13.11 ID:G4uTqnXR
>>信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
何も違わない>>634-635よく読めよアホ。信長の命令で何もかもやっててただの傀儡にすぎないのが信忠
>>同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
同僚じゃねぇよカス 与力制はある軍事命令内では与力の大将の命令内で動かないといけないのが実際(手取川の時なんか
あれだけオールスターメンバーいるのに柴田が大将の権力持ってなかったら到底軍として機能しないし信長がいないとおかしいことになる)
>>「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
意味がわからん。なんでそれがやるべきことをやった、なんだ?
>>軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ
単に担当戦線が違うしその時期加賀や越中を中々突っ切れずにいたからどうしても地味に見えたってだけじゃね

>>その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
>>おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w
意味不明。どこがどう受け継がれたんだ?
>>根拠なしの妄想乙
根拠なら書いてる>>653の下部
>>TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
デタラメ乙。有能な若手には大変な仕事任せるのが普通。つうか無能な武将にやらせても失敗に終わるだけなので意味がない
>>というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
無能な連中に大変な仕事任せたら業務こなせず会社が潰れて終了
>>で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
そりゃ単に信忠がアホってだけの話だろ。川尻は必至に信長の機嫌伺ってるが信忠が無視したからな
>>で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
信忠は信長からじきじきにいわれても無視するアホだからな
>>誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ
一応信長が命令出した撤退用のつなぎの城は作ったんじゃないのか?
>>武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
そりゃアホばっかりだから信長の命令も川尻の命令も無視したんじゃね
666名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:56:38.74 ID:G4uTqnXR
>>657
まあなんにせ>>638->>644をよめばデタラメばっか書いてるのが自明なわけで。
667名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:02:51.16 ID:G4uTqnXR
天正9年1月1日 在国諸將の参賀を停む、又馬場を安土城の北に築く
天正9年1月3日信長、武田勝頼の、遠江高天神城を赴援せんとするを聞き、信忠をして、尾張清洲城に出陣せしめ、水野忠守、同忠重等を遣して、遠江横須賀城を守らしむ、
天正9年1月9日信長、鯨肉を献ず
天正9年1月15日信長、三毬打を安土城に行ふ、又北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗す、
1月25日信長、河内安井清右衛門に其屋敷を安堵せしめ、諸役を免除し、之に禁制を掲ぐ、
天正9年2月6日宮女及び立入隆佐等を安土に遣し、練香を信長に賜ひ、調馬の事を命ぜらる、信長、之を奉ず、
天正9年2月11日信長、綸旨等の旨に任せ、四府駕輿丁藤本三郎左衞門尉の諸役を免除す、
天正9年2月20日信長、入京して、本能寺に館す、
天正9年2月23日耶蘇会宣教師バリニヤーニ、黒奴を連行して信長に謁す、
天正9年2月24日柴田勝家、上京して、信長に謁し、太刀、黄金等を進む、信長、其越前、加賀を平定するの功を賞す、
天正9年2月28日信長、馬埒を禁裏東門外に構へ、諸將をして騎乗せしむ、之を叡覧あらせられ、信長に勅書及び御衣を賜ふ、
天正9年2月29日信長、紀伊熊野新宮神主堀内新次郎に知行分同社領の地を安堵せしむ、
天正9年3月1日 前右大臣織田信長を、左大臣に任ぜんとす、尋で、信長、譲位の叡慮を奉じて後に之を拝すべきことを奏請す、譲位を延引あらせらる、
天正9年3月5日信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、
天正9年3月5日信長、長岡藤孝をして、所領丹後を諸給人に宛行はしめ、余分は藤孝の直務と為さしむ、
天正9年3月6日本願寺光佐(顕如)の請に依り、紀伊雑賀に在る同寺坊官赦免の命を諸国に下すべき旨を信長に命ぜらる、尋で、信長、之を奉ずるに依り、光佐、御禮金を献ず、
3/18勝頼が佐竹の斡旋で信長と同盟を結ぶ風説が伝わる
天正9年3月20日三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、信長に帰属せしむ、
天正9年3月24日信長、佐々成政、神保長住をして、越中小井手城を赴援せしめ、又不破光治、前田利家等の諸將を遣し、之を援けしむ、是日、上杉景勝等、兵を班す、
天正9年3月25日信長、矢部善七郎、猪子兵介をして、山城勝龍寺城を守らしむ
天正9年3月28畠山氏の遺臣長連龍、信長の援に拠り、温井景隆等を能登七尾城に攻めて、之を降す、是日、信長、菅屋長頼を遣して、之を守らしむ、
天正9年4月1日吉田兼和、松井友閑に頼り、吉田社修理のことを信長に請
天正9年4月8日信長、筒井順慶をして、歓進猿楽を大和木寺に張行せしむ、
天正9年4月10日信長、近江竹生島に詣し、帰城す、其侍女等の恣に同国桑實寺に詣するを怒り、之を出さしむ、同寺僧、之を庇護するに依り、併せて、之を殺す、
天正9年4月12日信長、越前溝口定勝(秀勝)に所領を宛行ふ、
天正9年4月13日信長、長谷川秀一、野々村幸久に所領を宛行ふ
天正9年4月16日若狭高浜城逸見昌経歿す、是日、信長、其所領を武田元明、溝口定勝(秀勝)に頒ち與ふ、
天正9年4月20日信長、堀秀政をして、和泉國中に指出を徴せしむ、槙尾寺、之に応ぜざるに依り、是日、秀政、兵を率ゐて、之を囲む、僧徒、退散す、尋で、信長、同寺を火かしむ、
天正9年4月20日信長、森蘭丸(長定)に近江に於て所領を宛行ふ、
天正9年4月25日越前溝口定勝(秀勝、)高麗鷹を信長に進む、
天正9年6月5日北條氏政、信長に馬を遺る
天正9年6月15日信長、筒井順慶に大和吐田村を宛行ふ、是日、順慶、信長に之を謝す、
天正9年6月16日信長、越後新発田城新発田重家の款を通ずることを越中の某に報じ、之と海上の連絡を計らしむ
天正9年6月28日信長、眞桑瓜を献ず、
天正9年6月28日近衞前久、信長の命に依り、島津義久をして、豊後大友義統と講和せしむ、是日、義久、太刀、馬を前久に遺り、之を謝す、
668名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:22.91 ID:G4uTqnXR
天正10年1月6日信長、鯨肉を献ず、之を廷臣に頒ち賜ふ
正10年1月10日備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印状を請ひて、駿河守に與ふ、
天正10年1月15日信長、三毬打を行ひ、又騎乗す、近衞前久、之に会す
天正10年1月16日信長、佐久間信盛の遺子正勝を召出して、信忠に仕へしむ
天正10年1月21日羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ、
天正10年1月22日信長、狩獲せる鶴を献ず
天正10年1月23日一向宗徒紀伊鈴木孫一、養父の仇土橋平次を撃たんとし、援を信長に請ふ、信長、族左兵衞佐某をして、之を同国雑賀に赴援せしめ、平次を斬る、是日、本願寺光壽(教如)をして、信長と和融せしめらる
正10年1月25日大神宮神主等、両宮を造替せんことを信長に請ふ、是日、信長、銭三千貫を寄進し、平井久右衞門、上部貞永を奉行と為す、尋で、織田信忠をして、岐阜城に蓄ふる銭を検して、造替の用途に備へしむ、
天正10年1月29日信長、尾張の暦師の訴に依り、陰陽頭土御門久脩を招きて、閏月の有無を糺決せしむ、
天正10年2月2日信濃木曽義昌、美濃苗木城苗木久兵衞に頼り、武田勝頼に背きて、信長に通ず、是日、勝頼、之を撃たんとし、諏訪上原に出陣し、諸將をして、国境を守らしむ、
正10年2月3日信長、諸將の甲斐侵入の進路を定め、親ら織田信忠等と共に美濃より、徳川家康をして駿河より、北條氏政をして関東より、金森長近をして飛騨より進ましむ
天正10年2月9日信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停めて、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ、
天正10年2月21日信長、織田信忠及び瀧川一益、川尻秀隆をして、信濃高遠城攻略の為め付城を築き、守備を厳にせしむ
天正10年2月28日信長、妙心寺をして、法度を犯す者は、寺法に拠りて、処分せしむ
天正10年3月5日信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、
天正10年3月6日信長、美濃呂久川に著す、仁科盛信の首級を実検し、之を長良川に梟せしむ、尋で、岐阜城に著す、
天正10年3月9日石清水八幡宮法楽和歌御会を行ひ、信長の戦捷を祈らせらる、
天正10年3月10日諸社寺をして、信長の戦捷を祈らしむ、
天正10年3月14日信長、信濃波合に著陣し、武田勝頼父子の首級を実検す、明日、同国飯田に移り、之を梟す、3/11誠仁親王、千返楽を奏し、信長の戦捷を祈らせらる
天正10年3月16日武田信豊、信濃小諸城下曽根信恒に頼る、信恒、信豊を殺し、是日、首級を信長に同国飯田に進む
3月19日信長、信濃飯田より同国上諏訪に陣を移す、徳川家康、来会す、明日、木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君、来り謁す、信長、之に旧領を安堵せしめ、義昌に信濃安曇、筑摩の二郡を加増す、又諏訪社、同上坊、南方村、甲斐川口郷等に禁制を掲ぐ
天正10年3月19日信長、信忠をして、甲信両国を守らしめ、東海道より帰国せんとす、是日、徳川家康、道路の普請等を為さしむ、
天正10年3月21日北條氏政、信長に物を遺りて、戦捷を賀す
天正10年3月22日左中弁萬里小路充房を甲斐に下し、宸翰を信長父子に賜ひて、之を犒はせらる
天正10年3月22日信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送る、是日、之を梟せしむ、
天正10年3月23日信長、上野及び信濃二郡を瀧川一益に與へ、関東に鎮せしむ、尋で、一益、上野箕輪城より同国厩橋城に移る
天正10年3月24日信長、従軍の將士に兵糧を頒ち與ふ
天正10年3月26日信長、信忠の戦功を賞して、物を與へ、家督を譲るべきことを約す、尋で、信忠、之を謝す、
天正10年3月26日北條氏政、信長の飼馬料として、米千俵を信濃諏訪に輸す
天正10年3月28日北條氏政、信長の、好を厚くせんことを伊豆三島社に立願す、
天正10年3月29日信長、甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井、水内、更科、埴科四郡を森長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団景春に、同金山城を森長定に與ふ、
天正10年3月是月信長、甲信両国の法度を定む、又信濃の金鑿をして、速に還住し、採掘に努めしむ、
天正10年4月2日信長、帰国せんとし、信濃諏訪を発し、甲斐台原に到る、北條氏政、狩獲せる雉を進む、
669名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:45.44 ID:G4uTqnXR
4月2日信長の將森長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ
4月3信長、甲府に到り、武田氏の館址に陣す、北條氏政、馬、鷹を贈る
4月3日信長、甲斐仏師原郷等に禁制を掲ぐ
4月10日信長、穴山信君に甲斐の本知分を安堵せしめ、河尻秀隆に宛行ふ地と境界を立て、領知せしむ
4月21日信長、甲府を発し、是日、安土に凱旋
5月1日上杉景勝、信長の兵と戦はんとし、佐竹義重と旧交を修す
5月7日信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、之に讃岐を與へ、三好康長に阿波を與ふ、
5月17日信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
5月21日信長、徳川家康等をして、京都、大坂、奈良及び堺等を遊覧せしむ
5月22日伊達輝宗、信長に馬を贈る
5月29日信長、津田信益、蒲生賢秀等をして、安土城を守らしめ、近臣数十人と共に入京し、本能寺に館す
5月29日越後新発田城新発田重家、信長と通謀し、芦名盛隆も亦、信長に款を通ず、是日、盛隆の將金上盛備、瀧川一益に違約せざることを陳ず、
また信長死後ですら隠岐清家の義子経清、織田信長に属せんとし、事成らずして、清家を誘殺す、
伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、輝元の援を乞ひ、数通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る、
と信長という名前が史料にあがっている。実権が信長にあったのは明らか
670名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:13:37.60 ID:/Bn1jav9
あぼーんだらけになったぞばかやろうw
671名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:43:49.02 ID:gmZOupGE
柴田勝家は過小評価されてると思う
戦闘系パラメータもそうだが、政治力も後継争いとかの根回しは下手だったが、国を治めるという意味では名君の範疇だし

逆に本田忠勝とかなんでこんな高いんだ?って気がする
ていうか過去作ではもう少し普通の武将だった気がするけど、いつからかトップクラスの猛将になってた
672名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:59:59.76 ID:ZFtmy0IN
柴田は戦闘面はもう十分評価高いじゃん
政治知略はまあ同意
673名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:10:59.58 ID:nVoWiH7b
勝家は適正が不遇だな織田においては
武田か上杉に行ったほうが活躍出来る
674名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:16:35.46 ID:/hUYR0xN
勝家の適正はホントにずっと言われてるね
適正活かすの難しい
675名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:40:14.35 ID:B0jTq1Kx
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。


孝標日記(仮)

1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
 つーか俺には愛する妻もいるし。

2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
 俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。

3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
 俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
 これはかなり断り辛い。最悪。

4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
 それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。

5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。

6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
 つーかストーカーだろ完全に。
 1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い
676名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:41:10.64 ID:B0jTq1Kx
613 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:47:20.36 ID:IR7rRxeP0
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
 何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
 畜生、ハメられた。
 って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
 とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。

8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
 とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
 馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
 なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
 馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
 もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。

8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
 さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
 噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。

9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
 忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
 思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
 ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。

10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
  もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
  開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
  クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
  ヤケクソだ。

なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。


614 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:01:08.92 ID:EhN6dW4D0
頼長さんは保元の乱の時も、夜襲かけようぜ!ってノリノリの為朝さんに
「バーロー皇族同士の戦いでそんな姑息なマネができっかよ」と
謎のスポーツマンシップを発揮した挙げ句、相手方にさくっと夜襲かけられて
殺されたジェントルマンだからな。
677名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:43:15.38 ID:B0jTq1Kx
857 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 13:33:59 ID:ObMPUxG9
上田宗箇は常々こう自慢していたという。
上田「ワシは今まで金銀は見た事がない!」
ゲヒ殿、なんかいってやってくださいよ。といいたいがこれを聞けばこの人達はこう言っただろう。
前田利家「銭があれば世の中怖い物はないんじゃ!」
黒田如水「銭で兵を雇うんじゃ!」
徳川家康「銭があれば何でも出来るんじゃ!」

徳川家康は「ケチ」だと、フロイスにも書かれるほど有名だったが、もちろん趣味だってあった。
なんだか文章があってないと思うかも知れないが、実はその趣味が何と「へそくり」。
しかも鎧櫃の中にへそくりをため込んでいたのだ。
ある日、どこかの大名家(名誉の為、伏せる)の家臣が使いとしてやってきた。

使者「申し訳ありません。のっぴきならない理由がありまして、つまりその・・・・」
家康「何?」
使者「お金貸してください!」
家康は家臣に言って奥から鎧櫃を持ってこさせ、開けさせた。
使者はこれを見てビックリした。そりゃそうだ。中にはぎっしりと詰まったお金の山。
それもきちんといつここに入れたものかも書いてあった。つまり「へそくりの記録付き」。
そしてその使者はもう一つ驚いたものを見つけた。銭に書かれた記録の中には、
家康がまだ三河の小領主時代のものがあったのだ!
恐るべき「へそくり歴」である。
ちなみに、某大名家の使者はちゃんと家康からお金を借りる事が出来たそうである。

863 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 14:28:38 ID:ObMPUxG9
徳川家康の「ザ・へそくり術」
さて、>>857の続編とも言うべき、「家康のへそくり」の話。
家康はへそくりが好きだったのだが、どうやってへそくりをしたのかというと・・・・
勘定方「殿。今年度の収入はこのようになりました。お言いつけ通り兵糧用の米と換金の米を分け、
    銭の収入はこのようになりました。」
家康「決済する!」
そう、コイツも又、前田利家と同じく自分の勘定は自分で決済していたのである。
但し、利家の場合は例の「そろばん」まで用いて、本当に自分で計算までしていたが。
家康「この数字のキリがいいところまでは銭蔵に収めておけ、半端な銭はもってこい。」
勘定方「はっ!いつも通りにいたします。」
家康「それから奥向きで仕事をしている女房衆も呼んできてくれよ。」
こうして、奥から女性陣がやって来る。そうこうする内に、勘定の結果、「貫」の単位までは
銭蔵へ収められ、「匁」以下の端数の銭が持ち込まれた。
家康「これは、ワシの私的に使う銭(お小遣い)じゃ、数えておくれ。」
侍女「は〜い。」
こうして私的な銭が数えられた。そして・・・・・
家康「終わったか。では、鎧櫃へ入れよう。」
侍女「は〜い。」
こうしてへそくられた。
こうして貯められたへそくりでアッチコッチの大名にお金を貸した。
そして、味方を増やしてしまい、天下人になったのだ。
ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
678名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:45:03.25 ID:B0jTq1Kx
760 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/20(水) 18:29:20 ID:hPtFliDR
江戸時代末期、将軍徳川家定は台所で料理するのが好きだった。
これを見て松平春獄はこう言った。
春獄「男が台所にはいるとは、まったく芋将軍が。」
もしこの人が聞いたらこう言っただろう

( ●Д゚)「武将こそ台所に入りやがれ!バカ野郎!」

ご存知、仙台の不良老人、日本一のへそ曲がり、伊達政宗である。
この人は本当に多彩だった。武芸から芸事まで趣味のクラスター爆弾とも言うくらい
たくさんの趣味を持っていた。
この政宗が大好きだったのが、
「料理」
である。
なんでまた、と思わないように。
ちなみに細川幽斎も料理が得意だったが政宗の料理好きの原因はこれ。
→「兵糧研究」
簡単に言うと補給の問題を解決する為である。大きな軍隊を動かす政宗にとっては
若い頃から補給の問題に目を向けていたのである。
ところがこれにはまってしまった。
太平の世が来たときの目的はこれ。→「美食を極める。」
今度は今度でいろんな食材をどうするかという研究だったのである。
当然台所に入って自ら料理をした。
この結果、仙台は「美食の街」になってしまったのである。
政宗は常々こう言っていたそうである。

( ●Д゚)「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

ちなみに兵糧研究から「凍り豆腐」が美食研究から「ずんだ餅」が生まれたと言われている。
679名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:46:26.97 ID:B0jTq1Kx
814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/14(土) 23:43:58 ID:k+QIANcy
江戸城禁煙令
父親の影響か、徳川秀忠もかなりの健康マニアであったようだ。ただ、父親と違うのは、
家康は案外、他人の嗜好には立ち入らない人間だったが、秀忠はそうではない。
自分が良いと思うことは、満面の善意で、人にも勧める人間である。

そんなわけで江戸城内に、こんな命令が出された
『喫煙厳禁!』
当時既にタバコは、世の中にかなり広まっていた。
当然徳川家中にも、である。ニコチン中毒者がこういう時考える事。それは禁煙!
ではない。
当然、「隠れて吸う」である。

そんなわけで江戸城内の御番衆の湯飲み所は、いつのまにやら秘密の喫煙室と化していた。
さて、ニコチン患者達が今日も安らかにタバコを吸っていると、そこにひょっこり顔を出した人間がいた。
「よっ?なにやってんの?」
老中、土井利勝であった。
一同驚愕、大慌てで各々とっさにタバコ道具を隠す。なかにはキセルでやけどする人間までいる
有様であった。
しかし利勝騒がず、部屋の中に着座し、
「そなた達が今吸ってたもの、私にも振舞ってくだされ。」
などと言い出した。一同すっかり困り果てたが、何度も所望するのでしかたなく、
袖の中やひょうたんに隠したタバコやキセルを出し、利勝に差し出した。
彼はこれを二三服吸うと
「思いもかけず珍しいものを頂いた。ありがとう!」
そういって帰ろうとした、と、そこで振り向き、
「今日のことは私も一緒だから当然誰にも言わないけど、私に見つかるくらいだからここは危ないぞ。
上様がお嫌いなものなんだから、五月蝿いのに見つからないうちに、な。」
そこでこれ以降、湯飲み所での喫煙はピタリと無くなった、とのことである。
680名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:01.49 ID:B0jTq1Kx
727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/12(木) 01:49:45 ID:0gCb8Q/X
ある日、武田家に仕えたいという牢人がやって来た。
そこで重臣たちが面接すると、かなりの才人であることがわかった。
「こいつは掘り出し物だ。きっと御家の役に立つであろう。」
ということで彼らは信玄にこの牢人のことを話した。
「とても優秀な男です。なんとしても召抱えるべきです。」
「ふ〜ん、お前たちは皆同じ意見なのか?
そうか、じゃあ召抱える前にどんな男かこっそり見てみようか。
その男に食事を出してやれ。」
そして信玄は隣の部屋から男の食事している様子をチラッと見ると、
すぐに自分の部屋に戻った。
「どうですか、なかなかよさそうでしょう?」
「あの男は登用しない。」
「は?」
「あれは牢人じゃないな。牢人はあんな食い方はしない。
いいとこの大名の、しかもそれなりに地位のある家臣だろう。」
「なんですとっ!?」
驚いた重臣たちは牢人のところに素っ飛んで行き、締め上げた。
「おい貴様、よくも我らを謀ったな!どこの家中の者だ!」
「ひぃっ、わ、私は○○家の者です〜。」
その男は都周辺の大名の家来だった。信玄の推理通りだ。
重臣たちは恐縮しながら信玄のもとに戻ってきた。
「ハッハッハ、だから常々言ってるじゃないか。
全員が百点満点をつけるような人間にろくな奴はいない、ってな。」
681名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:59.62 ID:B0jTq1Kx
296 名前: 紙やすり(catv?)[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 19:01:00.91 ID:MlQXFf5i
>>235調べてたらこんなのがあったw

宇喜多中納言の略歴

1572年 岡山で誕生
1573年 近所の小川で泳いでいるところを家臣に目撃される。
1576年 旭川を泳いで渡る
1577年 大雨で水嵩の増した吉井川を渡っているところを領民に目撃される
1579年 児島湾横断に挑戦し成功する
1580年 岡山の燈籠崎から櫃石島、岩黒島、与島を経て宇多津へ遠泳する
1582年 瀬戸内海を泳いで東上し、本能寺の変を見物。即日泳いで帰郷する
1586年 前田家の姫君と結婚する。前田利家に挨拶するため、敦賀から金沢まで泳ぐ
1590年 小田原の役で伊勢から泳いで参戦
1592年 名護屋から釜山の近郊東莱まで泳ぐ
1597年 再度朝鮮へ泳いで渡る
1598年 朝鮮から泳いで帰国
1600年 関が原で敗北、大坂から泳いで薩摩に逃亡
1603年 島津忠恒によって徳川家康に引き渡される。大阪まで瀬戸内海を泳いで渡る
1606年 八丈島へ流罪が決まり、逃亡を恐れた幕府により、船で八丈島まで送られる
1614年 島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。徳川勢に苦汁をなめさせる
1615年 またも島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。敗北し泳いで八丈島へ逃亡

八丈島にいたらしいが、大坂や岡山での目撃証言や、
江戸城の御堀で泳いでいたのを目撃したという証言もある
1655年 八丈島で逝去。享年83
682名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:49:54.71 ID:B0jTq1Kx
伊達政宗が治めた領国は62万石

しかし、一説には江戸中期の実高は少なく見ても100万石
多く見ると150〜200万石程あった模様

ここまで実高を伸ばした背景には政宗の100万石への野望が
あったのかもしれない・・・

軍事ではなく内政で100万石に達した仙台藩
この大事業の陰に一人の浪人の存在が大きく関係している。

川村(孫兵衛)重吉(※しげよしorじゅうきちが一般的な読み方)

彼は関ヶ原の戦いで人生を大きく変えた人物である。

関ヶ原の戦い前夜

伊達政宗は会津の上杉景勝を抑える為に東北戦線に参加していた。
政宗は徳川家康から上杉景勝を抑えた見返りとして、葛西・大崎一揆時に
領地替えで没収された、米沢等を含めた50万石を与えられる約束を
されていた。

世に言う”100万石のお墨付き”である。

しかし当時、政宗30代中ごろの油の乗り切った時期・・・
未だ天下への夢は諦めていなかった。
また、世間から”狸”と評されている家康の話を鵜呑みにはしなかった。


( ●_ ̄)「家康殿はああは言っていたが、早々と石田方と決着が着くとは思えん」
     「所詮は紙切れでしかない約束事などに如何程の効力があろうか・・・」
( ●ー ̄)「ここは騒ぎに乗じて領国を拡大する好機と捉えるが吉!」
     「上杉を攻める準備の裏で南部領で一揆を扇動するかのう・・・」
政宗は上杉景勝をけん制する動きをしながら裏で南部領内に一揆を扇動したのであった。
また徳川方、石田方どちらに転んでもいい様に上杉にも和睦の使者を使わす動きを見せた。
683名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:50:50.87 ID:B0jTq1Kx
327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:06:14 ID:/evSTSPf
326つづき

しかし、政宗の読みとは裏腹に関ヶ原の戦いは1日で徳川方の勝利となる。
徳川方勝利の報を聞いた政宗はその場で落胆したという。

( ●_ ̄;)「わ、僅か1日で勝敗が決するとは・・・」
     「やはり天の時は政宗ではなく家康殿を選ばれたか・・・」

止む無く兵を岩出山へ引いた政宗であったが
この時、戦後の論功行賞に対しての策が浮んでいた。

( ●ー ̄)「このままで終わる政宗ではないわ!!」

その後、家康から会津の上杉を抑えた件に関して感状が届いた。
その感状の返答として政宗は以下の要求を家康に強請った。

「徳川家康 様へ
 この度の戦勝おめでとうございます。
 さて、これから論功行賞に移られると思いますが、
 私からこの度の上杉攻めに関しての恩賞をいくつか
 リクエストしたく思います。

 1.葛西・大崎一揆時に没収された米沢等の領地 50万石
 (これは既に確実ですが、念のために書きましたw)
 2.奥羽仕置時に太閤から没収された会津領   50万石
 3.関東or京近辺に領国が欲しいです。 20〜30万石
 
 あの強豪上杉を抑えたんですからこれくらい当然ですよね!!
 上杉を私が抑えていなければ今回の東軍の勝利はなかったと
 思いますよ!!
 政宗あっての徳川家だということをお忘れなく・・・
 家康様 期待してますNE!!

                        伊達政宗」

この書状を見た家康は怒りを通り越して政宗に呆れた。

家康「政宗という男は・・・こんな要求受け入れられるわけないだろ・・・」
  「政宗が此度の上杉攻めの裏で南部領内の一揆を扇動したという
   疑惑が南部利直から書状できておるし・・・」
  「素直にしておれば米沢領50万石を拝領出来たものを・・・」

こうして政宗は米沢周辺50万石を家康から反故にされ代わりに
白石攻めで支配下に置いていた刈田領2万石のみの拝領となった。
この時点で仙台藩60万石・・・

その後、家康から申し訳ない程度で近江国(現:滋賀県)に1万石を拝領するに
留まった。
 
それからしばらくして・・・
政宗は京に向かう途中に家康から拝領した近江国の所領に立ち寄ることにした。
684名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:51:26.87 ID:B0jTq1Kx
328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:08:29 ID:/evSTSPf
326つづき

( ●_ ̄;)「確かに京周辺の所領だが・・・これ本当に1万石もあるのか?」
     「ワシにはどう見ても3千石しかないように思えるが・・・」

田畑を訝しげに見ていた政宗の目に一人の男が映った。
ないやら田畑を見て「あーでもない、こーでもない」と言わんばかりである。

( ●_ ̄)「その方、何をしておる?」
( ・∀・)「いえ、この土地やりようによっては石高を倍に出来るかな
      なんて考えてたんですよ」

( ●_ ̄)「何?この土地を倍にか?」
( ・∀・)「はい、そうです」

この男、早速政宗に土地改良の方法を説明し始めた。
あまりに斬新なやり方に政宗以下近習が驚きを隠せなかった。

( ●_ ̄;)「(これほどまでの男が何故浪人のような形を・・・)」
( ●_ ̄) 「お主、何故それほどの能力がありながら浪人のような形を
      しておるのだ?」
( ・∀・;)「いや〜、元々私は毛利家に御仕えしていたんですが
       関ヶ原の戦いで毛利家が120万石から36万石に減俸
       されまして・・・」

( ●_ ̄) 「それで浪人となったと・・・」
( ・∀・;)「はい・・・」

この時、政宗の脳裏に家康から”100万石のお墨付き”を反故にされた事が思い出された。

( ●_ ̄) 「(身から出た錆とはいえ、100万石を不意にしたのは痛かった)」
     「(これから大きな戦はないであろうし、軍事的に領土を増やすのは
      もう出来ない。しかし、内政的には増やすことは出来よう)」
     「(幸か不幸か、わが領国には未開拓の土地が山のようにある。それを
      開発できれば・・・)」

( ●ー ̄)「(100万石、いや200万石も夢ではない!!)」
( ●_ ̄)「お主、ワシに仕えぬか」
( ・∀・;)「え?伊達様にですか?」

( ●_ ̄)「ワシの領内には未開発の土地が山のようにある。これからは戦で領土を拡大する
      時代ではなく内政で領土を拡大する時代になろう。」
     「そちのように治水・土木に精通する人間が必要になる」
( ●ー ̄)「どうじゃ?ワシとともに100万石、いや200万石を自らの手で開拓してみぬか!」

男はしばらく考えた
( ・∀・;)「(毛利家ではそんなに重用されなかった私を
        必要としてくれる方がいたとは・・・)」
       「(これも何かの縁だ、この方の御仕えしよう)」

( ・∀・)「伊達様!若輩の身でありますが、宜しくお願い致します!」
( ●ー ̄)「うむ、宜しく頼むぞ」
( ●_ ̄)「ところで、そちの名を聞いていなかったな」
( ・∀・)「川村重吉(かわむらしげよし)と申します」
( ●ー ̄)「重吉、宜しく頼むぞ」¥
こうして川村重吉は伊達家に仕官することとなった。
その後の重吉の仕事振りに伊達家中は驚きを隠せなかった。
685名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:52:26.04 ID:B0jTq1Kx
329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:09:57 ID:/evSTSPf
326つづき

当時の仙台城下は湿地帯でおまけに広瀬川は谷川という状態だった為、
井戸水の確保に頭を悩ませていた政宗は重吉に・・・

( ●_ ̄;)「城下に井戸が掘れるようにならんかね?」

と相談した。これに対して重吉は・・・

( ・∀・)「簡単です。広瀬川の上流から支流を人工的に作って
       緩やかに水を流して町中を潤し、地中に水を浸透させればいいんです。」

と答える。
しかし、現在ほど治水・土木技術が発達していない当時この難事業は無理ではないか
と思われていたが、重吉はいとも簡単にこなしてしまう。
これが、現在の四ツ谷用水の基となった。
(この事業事態は伊達吉村まで引き継がれることになります。)

しかし、重吉とってもっとも難事業となったことがある。
北上川の治水工事です。

元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)の10年を費やす難事業となった。

重吉自身、工事費ねん出のため自ら借財、工事現場に泊り込み、
従事者達と汗を流し、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。

その結果、迫川と江合川を北上川に合流させ、
北上川本流を石巻湾に南下させる河川改修事業が成功。
この結果、三川が合流していた仙北平野の開発が進みました。
また仙台藩米のほかに盛岡・八戸藩米の川下しが開始され、
内陸水路が整備されて河口港石巻が成立された。

葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻に一躍米の集散地となり、
河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、
江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。
治水に伴って流域では三十三万石余の新田開発も行われ、
地域の発展に計り知れない恩恵をもたらした。
686名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:09.41 ID:B0jTq1Kx
330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:11:20 ID:/evSTSPf
326つづき

その後、重吉の活躍に対して政宗は1500石の領地を与えた。
しかし、重吉の家臣たちはこの政宗の褒美に憤慨した。

家臣1「殿はあれだけの大事業をなされたのに、
    政宗様はたった1500石程度の褒美とは・・・」
家臣2「殿があまりに不憫過ぎます・・・」

そうぼやく家臣に重吉は笑いながらこう言った。

( ・∀・)「この1500石と書かれている領地はまだ未開拓の土地。
      政宗様はこの土地好きなように開拓しろと書いている。
      我らの力を持ってすれば10倍いや、
      20倍にだって出来るではないか!!」

差し詰め、政宗は重吉に小切手を渡したといった感じであろうか。

重吉は貰った土地を開拓しながらも、さらに領内の治水・土木工事を
積極的に進めて行った。
北上川の工事完成後は石巻に住み、
慶安元年(1648年)、74歳で世を去る。
死の直前まで開拓現場に足を運んでいたようである。

それから335年後の昭和58年(1983年)8月1日・・・

宮城県の地元紙・河北新報社は、石巻市制施行50周年に当たり
港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため
宮城県石巻市の日和山公園内に川村孫兵衛重吉の銅像を建立、
石巻市民に寄贈した。

関ヶ原の戦いで浪人となった川村重吉・・・
歴史に”もしも”を持ち込んでは行けないが毛利家が重吉の才能を
分かっていたら、幕末の長州藩はどうなっていたのだろうか
等と考えてしまう。
687名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:44.17 ID:B0jTq1Kx
173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/02(月) 17:51:40 ID:jHcr0HH1
武田信玄の家臣に、原昌俊という武将がいた。
この昌俊は、辺見某と言う家の娘を、嫁とした。

この辺見某は合戦に追われ、家にいることがまれで、また、その妻も早くに死別し、
娘は屋敷で一人、さびしく留守をすることが多かった。
その家は上条の地蔵堂のほとりにあった。

結婚をして、この娘は昌俊に、深く愛された。娘もまた妻として夫を深く愛し、
新たな、あたたかい家庭を得た事を喜んだ。

が、妻は間もなく病に倒れ、必死の看病も空しく、はかなくも世を去った。
昌俊の嘆きは例えようも無いほどであった。

妻は死ぬ前に、法成地の地蔵堂の方に向かって手を合わせ、どうか願いをかなえてください、と、
地蔵の寳号を唱えながら死んだ。
そこで昌俊は妻を法成寺の後ろに墓をつくって葬り、自身もまた、妻が後世に導いてもらえるようにと
地蔵菩薩に帰依し、祈った。

妻の死から、100日を経た夜半の事である。
杖をつき、水晶の数珠を身につけた80歳ほどの老僧が、昌俊の家の戸をたたいた。
何事かと尋ねると、老僧は言う、「おぬしの妻が生き返ったので、連れてきた。」

昌俊は大いに驚き見ると、僧に、ぐったりとしているが確かに生きている妻が抱えられていた。
僧は言う。「自分は法成寺の内に住む者だが、今宵、堂より出でてみれば、塚が崩れ、この人が
倒れておった。何者かと尋ねれば、原昌俊の妻だと言う。よってここに連れて来たのだ。
良く、養生させるように。」
そしてかき消すようにいなくなった。
後で確認をしてみると、確かに妻を埋めた塚は崩れていたと言う。

さて、蘇った妻は、最初は呆然として、記憶なども欠落していたようだが、昌俊が粥などあたえ
看病しているうち、七日ほどたつと元のように戻った。
ただ、明るい場所を嫌うようになった。
ともかくも、元の幸せな生活が戻ってきた。翌年には子が生まれた。そして3年がたった。

妻は涙を流しながら、昌俊に言った。
「私は、この世の者ではありません。

あなたともう一度だけでも過ごしたくて、上条の地蔵菩薩にお願いをし、3年の間だけ、この世に
戻ってくる事を許されました。
その時間はもう、尽きようとしています。

子を残していくのはつらいですが、私の塚は壊さないで、良く弔ってください。どうか、
私のことを、忘れないでください。」

そして、消えた。

後で彼女の塚を見ると、崩れていたというのは幻で、草が茫々として生い茂っていた。
人々は不思議な事と囁きあい、この事を聞いた信玄は、法成寺の地蔵堂を改修し、
昌俊の妻の菩提を弔った。
そして昌俊はこれ以後、新たに妻を持つ事はなかった。

彼女の残した子は、成長した後、原隼人を名乗り、武田にその人ありと天下に名を響かせることになる。
688名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:54:38.44 ID:B0jTq1Kx
74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:20:50 ID:40yFsSUj
スレの流れを変えるには食い物ネタに限るな
ラスボスとふぐの話をとあるサイトよりコピペ

豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に
下関から海を渡っていった、しかし兵士が下関で獲れた
ふぐを内蔵ごと食べまくったせいで集団による食中毒死者を
大量に出してしまいました。
烈火の如く怒った秀吉により出されたのが「河豚食用禁止令」であり、
日本最初のふぐ食用取り締まり令だと言われている。
江戸期になるとあちこちの藩で禁令が出されるようになり、黒田藩や長州藩では河豚を食べ中毒死した場合はお家断絶と、
武士にとって最高の厳罰が設けられた。
しかし「河豚は食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれる河豚の味。
江戸時代の俳人・一茶や芭蕉も河豚をよんだ句がいくつかあり、そのうまさに魅かれて、さかんに河豚を食べている。
禁令をくぐって広く食用され、落語のネタや浮世絵の画材にされるなど愛されていた。
明治になってからも「河豚を食う物は拘留科料に処する」という禁令があった。


75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:22:14 ID:40yFsSUj
明治21、22年の頃、すでに伯爵になっていた伊藤博文が
下関の料亭「春帆桜」(明治28年日清講和条約の舞台)を訪問した際に、
あいにくその日はしけで魚がない、女将がその旨を申し上げると
「俺はよいが馬関(下関)に来て、魚がないとは…。」とやんわりと皮肉った。
女傑として名高い女将が、それではと意を決して禁令の河豚を出したところ、
「一身よく百味も相をととのえ」と絶賛し、「調理法さえ間違えなければこんなに美味い
ものを禁じるのは勿体ないことだ。」早速、時の山口県令・原保太郎に命じ、
「違警罪即決例」のふぐの条項を削除させるように働きかけたのが「ふぐ解禁令」である。
全国で最初にふぐ食が解禁されたのが山口県であったということも、
下関でふぐが盛んになっていった要因の一つであると言えよう。
しかし河豚食が解禁されたのは山口県だけで、合法的に全国で河豚を食すには、戦後を待たねばならなかった。
(東京都は、明治25年、兵庫県は大正7年、大阪府は昭和16年に解禁)河豚といえば山口といわれるようになったのは、
このような事情からと推察される。


94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 18:54:03 ID:D3V+kteZ
>>75
一方少し送れて昭和後期、下関に立ち寄られた時の天皇(昭和天皇)は
万が一を警戒した近習によって河豚を食べさせてもらえなかった。

しょんぼりと膳(河豚抜き)のものをつつく天皇陛下をよそに、同行の
政治家や役人は河豚の美味をかみ締めていた。

陛下、そんな一同を見渡して曰く。

「河豚には、毒があるのだぞ…」

滅多に我侭を言わず、美食家ではあられたが食事への不満を言わぬ事
で有名であった陛下ですら負け惜しみを言ってしまうほどに世の人を
魅了した魅惑の食材なのでした。
689名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:10.74 ID:B0jTq1Kx
785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 06:34:11 ID:Mkh9BYHf
最上義光、人生を語る

―義光公は無道に報いず、将兵を我が子のように愛すると評判ですが。
「まあそうだね、武士っていうのはさあ、結局扇みたいなものなのよ。
要が大将、骨が物頭、総勢は紙ね、わかる?
どれが欠けても駄目ってことだね。だからさ、そうするのが当然なの」

―知仁勇を備え、寛大で柔軟だけど邪悪ではない性格だそうですね。
「やめろよ、照れるだろ。侍道に背かないようにしていただけだよ」
(※義光が書状でよく使っていた言葉は「侍道」。いまでいう武士道
と道義ではなく「常識的に考えて」みたいな意味)

―戦国という時代を振り返ってみていかがですか。
「そうねえ、この時代には神社や寺をぶちこわしたり、主君の恩義を無視したり、
親不孝だったりしたりね。あと贅沢三昧で金がなくなったら、税金重くしてって
いう。そういうDQNがいて滅びたりしたよね。
DQNっていうのは結局DQNだし、それをしかりつけない家臣もだめなのよ」

―ご自身はそういうことはなかったのですか?
「そりゃオレだって若い頃は天童や白鳥と戦ったりね、バカやって領民に
苦労かけちゃったからね。上杉との合戦では戦死者一杯だしたし、
そういうのは今になってみればすごく恥ずかしいよ」

―成功の秘訣は?
「どうだろうね。まあ神仏に助けられて、こうやって領地をおさめられている
わけだからね。そうはいってももう年だからさ、あとは死ぬしかないわけだよ。
さみしいよね、本音言うとさ。
で、もうここいらで恩返ししよっかな、って思うのね」

―恩返しとは?
「戦いで占領した土地からは、軍の給料とする以外はあと三年は年貢とらないよ。
その浮いたお金で寺社仏閣の整備、修復をしてくれればいいからさ」

―気前がいいですね。今日はありがとうございました。何か一言どうぞ。
「みんな、妹や家族は大事にしろよ!」

(※『最上記』、『奥羽永慶軍記』、『羽源記』、義光書状
などにある義光の発言や評価をまとめてみました)
690名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:59.37 ID:B0jTq1Kx
731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:27 ID:obqaIR0A
名将言行録から人間慌てると何を言うかわからん話。

1.蜂須賀家政家臣
蜂須賀家政の家臣何某は病気になって休みをとっていた。
病気とはいえたまには運動せんと…とでも思ったか、ある日家の近くをゆっくり
歩きまわったりしていたところ、そこにちょうど家政の駕籠が通りかかった。
何某が頭を下げていると家政が駕籠から降りてきて、
「お前病気って話だったけどなんの病気?」
何某ははっとして、これは俺が出歩いてるのを見て、
こいつ仮病で休みやがってと思われてるんじゃないか!?
えーと…えーと外出してても問題なさそうな病気…
「つ、つんぼです!」
ヤッチマッター!
そんなわけねえ!そんなわけねえー!
しかし家政はこれを聞いて「よく養生しろよ」とだけ言って帰ってしまった。
何某がこの失態を責められるのではと家で恐れおののいていると、
家政から漢方薬と見舞いの言葉が送られてきた
「顔色も悪いし痩せこけてるからこりゃ肝臓かなと思って聞いてみただけだ」
ほっとした何某はやがて快癒して出仕もできるようになった。
これはとっさに嘘の病名を言ったことを気に病んで治るのが
遅くなってはいかんという家政の心遣いだったという。
家政は常々人に「武士は情あるを以て好しとす」と語っていたそうな。
691名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:56:54.68 ID:B0jTq1Kx
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:59 ID:obqaIR0A
2.黒田如水家臣
聚楽第に諸大名が伺候していた当時、黒田家では賭博はご法度だった。
ところがお分かりと思うが禁じられていてもやる奴はやるということで
黒田家の家臣桂菊右衛門はその夜博打で大勝ちして、羽織に包んだ戦利品
片手にほくほくと朝帰りの家路を辿っていた。
ところがはっと気が付く、ありゃこの道は大殿が仕事に出る時に通る道では
なかったか。
鉢合わせになったりしたら嫌だなあ…そう思いながら進んでいると、
悪い予感は当たるもので、角を曲がった所でばったり如水と会ってしまった!
ここで何某慌てたのなんのって、思わずこう叫んだ
「それがしっ、博打の帰りではございません!」
ヤッチマッター!
如水はその場ではなにも聞かなかったように通り過ぎたが、桂は後悔した。
あんなことを言ったらそりゃあバレるに決まってる。俺はもう切腹だ。
家でふさぎこんでいると事情を知った朋輩も、そりゃお前切腹だよと
沈痛な表情で見舞いに訪れる。
もちろん明日の命も知れぬとあっては金どころではなく、戦利品の包みは
その辺に放置され中身も確かめないままであったが、
当の如水はそれを聞いて大笑いし「よしよし勝ったか、まあ勝ったところで
打ち止めにしておけ、いいことの後は悪いことがあるぞ。
今朝みたいなアホなことを言い出すのも法度を恐れるあまりのこと、
そんなに大事と思うなら今度からどんな法度も破らぬようにすることだ。
今回は許すがその内身代を擦り切らせたなんて話を聞いたら今度こそ
罰を与えるぞ。
とにかく博打に限らず無駄遣いしたりして擦り切らないように気をつけろ」
如水はこの調子で世知に長けて、落ち度があっても厳罰に処すことはなく
相手に非を悟らせ機会を与えたので非常に仕えやすかったそうだ。

殿様っていうのはフォローも上手じゃなきゃいけないんですね。
692名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:57:44.88 ID:B0jTq1Kx
526 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/25(木) 00:23:55 ID:PyeGt8Rf
政宗の国風六首

政宗が朝鮮出兵のおり、幼い頃からの近臣であった原田宗時が対馬で病没した
友とも言える宗時の死に、政宗は和歌六首を贈った

夏衣 きつつなれにし みなれども 別るる秋の 程ぞ物うき
虫の音も 涙催す 夕ま暮 淋しき床の 起臥はうし
哀れげに 思うにつれぬ 世の習い 馴れにし夢の 別れをぞする
みるからに 猶哀れそう 筆の跡 今より後の 形見ならまし
誰とても ついには行かん 道なれど 先立つ人の 身ぞ哀れなる
吹き払う 嵐にもろき 萩の花 誰しも今や 猶まさるらん

上から順に頭の一文字を取ると「なむあみだぶ」となる
DQNと言われまくっている政宗であるが、こんなセンチな面もあるのだ


以下余談
原田家は跡継ぎがおらず、桑折家からの養子・宗資を迎えることで名跡を残した
その原田宗資と茂庭綱元・香の前の娘おつた(一説には政宗の落胤)の子が
伊達騒動で有名な原田甲斐である

おつたが本当に政宗の娘であるならば、原田甲斐は
原田宗時の義理の孫であり、
茂庭綱元の義理の孫であり、
なおかつ政宗の孫という、かなりややこしい血筋となる
693名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:58:21.95 ID:B0jTq1Kx
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg
朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。

長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。
驚いた清正は兎に角話しを聞いた。

長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」
清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」
長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」
おろおろするのを見かねた清正は
「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」
っと幸長の義父となる事を長政に告げた。
幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。
其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。
翌日二人は揃って清正邸に赴いた。
長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。
知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。
お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」
幸「よろしくお願いします、父上」
清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」

その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。
幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。

帰国した幸長は大いに成長していた。
清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。
長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。
幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた豊家に思い入れようはあまりない。
しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。
それは清正から学んだ忠義の姿勢である。

いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。彼は清正と並び称される事が誇りだった。

しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。
この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。


↓死因
清正「お主、童貞だな」
幸長「どどど童貞ちゃうわ」
清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」
幸長「ごくりっ…」
694名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:00.05 ID:B0jTq1Kx
705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/24(月) 22:26:49 ID:kk5WKUU7
黒田如水が、福岡城を築城していた頃

建築現場から、木材が盗まれるという事件が頻発した。それがあまりに続き、工事の進捗にまで
影響をし始めた。それを聞いた如水の命で張り込みが行われ、やがてそれが功を奏し犯人を逮捕できた。
大工の一人だった。

報告を受けた如水は、その場に大工や左官どもを集めておくように、と言い、捕縛された
大工の元に駆けつけた。そして大工や左官達の前に犯人を引き出すと、いきなりこれを、
罵倒し始めた。

「この材木泥棒め!お前は泥棒などして恥ずかしいとは思わぬのか?大うつけが!」
そして扇子で犯人の頭をぴしゃりと叩き、「恥を知る頭もないか」と罵った。

やがて大工や左官達に振り返り、「よいか皆のもの、この男は盗人である!その罪により打ち首といたす!」
そしてこの男は一旦、石牢に入れられた。


そして数ヶ月がたった。


あの犯人は、そのまま石牢に入れられていた。如水から、刑執行の命令が無いのだ。
もしや大殿はあの罪人の事をお忘れになっているのでは?そう思った家臣達は、如水に尋ねた。
「どうでしょう、明日にでもあの罪人を打ち首になされては…?」


「ばかもの!」如水が怒鳴った「お前達は命の大切さを知らぬのか!?」

殿が打ち首にせよと言ったのではないか、そう思い唖然とする家臣たちに如水は

「よいか、大将たる者、理非賞罰の心構えがなくてはならぬ。お前達は、あの時大工を集めたのは
見せしめのためだと思っておろう。それはその通りじゃ。大工達を戒めるため、あの場に集めた。

…が、犯人を殺すかどうか、これは別じゃ。人間は、誰しも何かの役に立つ。だが、盗まれた
材木に衣服を着せても、あの犯人の大工と同じ役に立とうか?出来まい。
かように、人の命とは大切なものだ。みだりにこれを奪ってはならぬ。

お前達は、人の上に立つ者達だ。最初に盗まれた時、『再び罪を犯せば次は無い』、そう知らしめ、
同じ事を繰り返さぬようすることが役目であろう。
それを、何度も盗まれていながら、捕まえたから首を斬る。これではあまりに浅はかであろう。
あの犯人を放って置いたのは、お前達の誰かがこのことに気がついて、防犯を徹底できなかった
自分達も悪い。このたびだけは許してやってほしい。そう言いに来ないかと、それを待って
いたからなのじゃ。

よいか、この事をどうか、よく考えて欲しい。そしてあの犯人は、今回だけは許してやるのだ。
『この次は無いぞ?』と言ってな。」


治世を為す者は、罪を犯したものを憎む前に、その罪を犯させてしまった自らを省みよ。
そんな事を伝えた、黒田如水のお話
695名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:50.56 ID:B0jTq1Kx
611 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 18:45:23 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ一)

人使いが巧く、「名人久太郎」と呼ばれた秀政。戦場でも彼はその才能を発揮していた。

合戦での陣中の夜間、特に風雨の強い時などは
「陣泥棒」と言う、武具や糧秣を盗む盗賊が
いて、当時の武将達は常に警戒していた。だが
秀政の陣では「陣泥棒」にやられる事が無かった。
秀政は見張りの兵達に、こう申し付けていた。
「今宵は風雨が強く、泥棒には絶好の機会だ。もし
『陣泥棒』が来なくても、わしがスキを見て泥棒に
入るので、気をつけておけよ。」
大将にこう言われては、厳しく警戒せざるを得ない。
秀政はこうして「陣泥棒」を防いだのである。

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 19:19:38 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ二)

秀政が秀吉の配下として九州平定戦に従軍していた時の話である。
秀政は城を攻めていた。城方から勇敢にも
討って出てきた、敵兵五十人ほどを生け捕り
にした。秀政の前に引き出された敵兵達は、
見せしめの処刑を覚悟した。
秀政は敵兵達に言った「九州に来てから城攻め
ばかり。攻めた城はどこも一日で落城し、わし
は次々と行軍せねばならず、本当にきついのだ。
そこでお前達に頼みがある。このまま城に帰って、
せめて後三日は持ちこたえてくれないか?対陣して
いれば軍を動かさずに済むからな。」
と言って敵兵全員を解放した。すぐさま城に逃げ
帰った兵達は、とても敵う相手ではないと悟り、
城方は即座に降伏した。「名人久太郎」の面目躍如である。
もっとも、秀政は本当に休みたかったのかもしれないが…

615 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 21:22:55 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(政務編)

ある時、堀家では論争が起きた。それは
「荷駄を運ぶ際、荷駄の数を決める勘定役と、
荷駄を運ぶ担ぎ役とではどちらが偉いか?」
と言うものであった。現代風に言えば経理担当
と現場担当どちらが大変か?と言う感じである。
これを聞いた秀政は勘定役、担ぎ役の双方を集めこう言った。
「わしはかつて、蔵入り奉行(経理担当)をして
いたので、勘定役の苦労はわかる。だが担ぎ役は
したことが無いゆえ、今からやってみる。荷駄を
用意してくれ。」と言って荷駄を用意させ、自ら
荷駄を担いで小高い山を乗り越えた。
そこで一緒に着いてきた勘定役と担ぎ役の双方に言った。
「わしも戦で鍛えたゆえ、荷駄ごときと思っていたが、
間違いだった。ここに運ぶまでにヘトヘトになってしまった。
担ぎ役達には、いつもこの様な苦労をさせていたのだな。
本当にありがたい。これで勘定役も荷駄を運ぶ苦労がわかったで
あろう。お互いが苦労をいたわれば良いのではないか。」
勘定役、担ぎ役の双方は秀政の体を張った説得に感動し、和解した。
以後論争は無くなり、家中の団結は一層強くなったのである。
696名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:00:45.98 ID:B0jTq1Kx
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:46:08 ID:uUJ+sXDV
加藤嘉明の家臣に、河村権七という者がいた。

彼は関ヶ原でも大功をたてた者であったが、生来頑固であり、あるとき、
嘉明と行き違いで口論となり、腹立ちのあまり加藤家を出奔することにした。
が、出奔した後「あいつは他の家に、今より良い条件で仕えるために出奔したのだ。不忠者だ」などと
言われるのも片腹痛い。そこで、書置きを残した。

「この度お暇を頂くのは、他家に仕えるためではない。例え放浪の身になっても、
加藤家以外に仕える事はない。今後加藤家に大事があったときには、何処にいようと掛けつける。」

そうして、出て行った。これを知った嘉明は渋い顔をしたが、そのままほおって置いた。

14年の時が過ぎ、大阪の陣となる。
この時、豊臣恩顧の大名の多くは、江戸に留守居として抑留された。無論嘉明もそうなった。
そしてこんな噂が流れた。江戸に抑留された大名達は皆、改易されるのではないか?

そんな嘉明の江戸屋敷に、汚い身なりをした修験者が現れた。
「どうか殿にお目通りを」河村権七であった。

嘉明は驚き、対面した。「加藤家改易の噂を聞き、いても立ってもいられず参上いたしました。」

「…よく来た。書置きのとおりにいたしたな。」

嘉明はそれを喜び、河村を、元のように八百石で召抱える、戻って来い。と言った。
最初権七は恐縮したが、ついにこれに応じた。


「よし…。ではこちらに来い。」

嘉明は権七を、屋敷の一室に連れ出した。その部屋には、紫の布に覆われた、山のようなものがあった。
これはなんだろうと、権七が不思議な顔をしていると、嘉明は家臣に命じその布を取らせた。
その下には、莫大な金銀があった。

「権七、お前の俸禄じゃ。」

権七は混乱した。たった今八百石で仕えるとは言ったが、それが何故このような大金になるのか。
すると、その布を取った家臣が言った。
「これは河村殿が、『見聞の旅』に出ている間の俸禄を、殿の仰せで積み立てておいたものです。
14年分で一万一千二百石。どうぞお納めなされ。」

「お前は14年前、言ったな」唖然とする権七に、嘉明は語りかけた

「他家には仕えぬ。わしの一大事には駆けつける。お前の忠心を思えば、わしにはおぬしの俸禄を、
横領することなど出来なかった。そして今、その通りにしてくれた。

権七、またこの嘉明に、力を貸してくれ。」

権七はただただ、感涙にむせんでいた。

大阪の陣の後、会津四十万石に加増された加藤家において、河村権七は良く、嘉明を支えたという。
697名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:42:37.83 ID:B0jTq1Kx
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/18(火) 18:06:45 ID:vu+4blV7
彦根城の人柱

慶長八年(1603)、家康の命により築城の始まった彦根城。工事は順調に進んだが、
天守の築造にいたってとたんに進捗が滞った。どうやっても上手く行かないのだ。
これに、工事関係者は「人柱を用いるべきではないか?」
と、ささやき始めた。この声は藩主、井伊直継にまで達したが、直継は

「人柱など立てても、工事が進むわけではない。人命を無駄にしてはならぬ。」

と、それを認めなかった。しかし、工事は遅々として進まない。
責任者の普請奉行は、深く悩んだ。自宅でも工事の事ばかり考えていた。
どうすればこれを打開できるか…
父の悩む姿に、その娘、お菊が、思いつめた顔で言った

「父上様、私を人柱にしてください!」

唖然とする父、そして母。だがお菊は言う、
「父上はいつもおっしゃっているではないですか、殿様がお困りの時は、
 命を捨ててご奉公しなければならない、と。」

「だが、それは…」

「今こそわたくしが、殿様のお役に立てるときではございませんか。
 そのために投げ出す命なら、本望でございます!」

娘に説得され、翌日普請奉行は直継にこれを進言した。
「なんと…」

直継はしばらく考え、言った
「お主の娘の忠心、感じ入った。このとおり、礼を申す。」

主君であるにもかかわらず、直継は普請奉行に深々と頭を下げた。
お菊は、人柱となることになった。

数日後、白装束に着替えたお菊は、白木の箱に入り、埋められた。
「殿様のお役に立ってまいります。」
それが最後の言葉だった。
普請奉行は、娘が埋められるところを見ることが出来なかったと言う。

お菊の埋められた数日後、天守は無事、天守代にすえられた。工事は成功した。

直継から、普請奉行の元に書状が届いた。
お前達には、この工事の事で特に礼を言いたいので、内儀と一緒に屋敷に来て欲しい、と。
夫婦二人、御前にまかり出た。平伏していると、直継が入ってきた。「顔を上げよ」視線を上に上げると

「あっ!」

「父上様!母上様!」、お菊がいた。

「わしはな」
仰天している普請奉行夫婦に、直継は言う
「最初から、人柱などするつもりはなかったのじゃ。だが工事の者達はもはや、
 人柱をしないと納得できないようであった。だからお主の娘を埋めると見せかけ、
 こっそり空の箱と取り替えたのだ。みな、人柱があったと思い、
 おかげで工事は順調に進んだ。黙っていてすまなかった。礼を申す。」

普請奉行は涙を止める事ができず、ただただ体を震わせながら平伏していた、と言う。
698名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:00.99 ID:B0jTq1Kx
520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/17(月) 10:02:38 ID:YhqBQFKz
遊郭と家康

駿府の城下町に遊郭ができ、徳川家の旗本御家人に大人気となった。
家康は内心御家人の遊蕩を苦々しく思ったが、遊郭が城下町の繁栄に貢献してい
ることもあり、特に取り締まりはしなかった。
しかし、家康が遊郭を放任したことで、御家人の中には遊郭の借金で首が回らなく
なる阿呆が出る始末。
そこである作戦を考えた。

ある時駿府町奉行から、
「上様が遊郭の遊女の踊りを御覧になりたいので、上様の御前で選りすぐりの遊
女による踊りを披露せよ。」とお達しがあった。
数日後遊女たちは家康の御前で見事な踊りを披露し、家康は遊女一人一人に菓子
を自ら与えるほどの上機嫌ぶり。
そして、遊郭に帰ろうとする彼女たちに町奉行はこう言った。
「上様はそなたたちの魅力にメロメロになられたそうだ。そなたたちの内から上
様のお側仕えに何人か召し出されると思うので、その準備だけはしておれよ。
但し、この話は内密にな。」
この話を聞いてすっかり有頂天になった遊女たちは、早速客の御家人たちにその話
を自慢した。

それを聞いた御家人たちは、
「こんなに口が軽い遊女たちが上様のお側仕えになれば、俺たちの遊蕩も洗いざ
らい上様にばれるに違いない。」とすっかりブルッてしまい、その日を境に御家
人の遊郭通いはピタッとなくなりましたとさ。
(名将言行録)
699名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:53.31 ID:B0jTq1Kx
457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 16:39:35 ID:JUL2/4z8
大阪冬の陣が始まろうという頃

杉野右馬允の家臣に山本才助という者がいたが、その才介の召し使っている老女に、
この年18になる、三之助という者がいた。この若者が、主人が出陣するのなら、
自分も是非連れて行って欲しいと、そう言って来た。

才介は「年老いた母がいるのだ、国元に居ろ」と言ったが、その母も

「武家に奉公している者は、戦の時は主人の共をして出陣するものです。私の事は心配せずに、銅か息子の願いを聞いてください。」

そう頼むので、従軍する事となった。
そして大阪に着き、合戦が始まった。大阪城から数百丁の鉄砲が、一斉に放たれた。
とたん三之助は、

逃げた。

初めての戦場と大量の鉄砲の音、緊張と恐怖でわけがわからなくなり、戦場から逃走したのだ。


故郷の屋敷に、ボロボロの姿で現れた三之助を見た母親は驚いた。
「もしや、ご主人が討ち死になさったかい!?」

「いいや、ご主人にはなんにもなかったけど、大阪城からの鉄砲の音を聞いて、天地が崩れるかと思って一目散にここを目指して逃げてきた。途中で金がなくなり、乞食をしながらやっと帰りついた」と、答えた。

母は最初の驚きが過ぎると、だんだん腹が立ってきた。
「お前のような者とは親子の縁を切る!これが今生の別れだ!」と、金を渡して屋敷を追い出した。

大阪冬の陣は、和議が成った。
杉野軍も国許に戻った。さて、母に追い出されて十日後、あの三之助がまた屋敷に戻ってきた。
母はまた彼を叱り飛ばし、追い出そうとしたが、屋敷に帰っていた山本才介がそれを聞きつけ、三之助を呼んだ。

「お前はどうして逃げたのだ?」

銃の音で怖くなって逃げた。その顛末を正直に話した。「追い出されたけど、どこにも行く所はありません。お手打ちも覚悟の上で戻ってきました。」

山本才介は何も言わず、三之助を元のように召抱えた。


さて、和議は壊れ、夏の陣が起こる。杉野家も出陣が決まった。

三之助はまた、従軍を願い出た。「また鉄砲が鳴るぞ?」才介は笑って言った、母も今度は強く反対したが、三之助は真剣だった。才介は、従軍を許した。


天王子、岡山での最後の決戦、山本才介と三之助、そしてもう一人の従者は、
城に引き上げようとしていた敵の騎馬武者三人に追いつき、攻撃を仕掛けようとした。
しかし城内から鉄砲を撃ちかけられ、従者が腰を撃たれ、斃れた。
残るは、才介と三之助の二人だけである。才介は勇敢に騎馬武者に向かっていったが
ついに取り逃がしそうになった。その時、

三之助の猟銃が放った弾が、騎馬武者の一人に当たり、落馬させた。

山本才介はその首を取り、見事、手柄を上げた。

冬に逃げた三之助が、それを許した恩に報い、夏に主人に手柄を上げさせた。そんなお話。
700名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:46:29.25 ID:B0jTq1Kx
758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 23:01:24 ID:e7FJPJ0G
島津家と猫の関係。
島津義弘は朝鮮出兵の際、猫の瞳孔で時刻を知るため七匹の猫を
従軍させた。朝鮮の島津家中では籠に猫を入れて背負っていたそうだ。
そのうち五匹は死んでしまったが、二匹は生き延びて帰国した。
その一匹は黄色と白の毛色で、義弘の二男・久保はこの猫をヤスと名付け、
とてもかわいがっていた。久保は二十一歳で陣没してしまうが、
そのあとも地元ではこの毛色の猫をヤスと呼ぶようになったという。
この猫の供養のため、鹿児島には猫猫神社があり、ヤスと同じ毛色の
猫がえがかれた絵馬がある。毎年時の記念日には時計業者が
神社を訪れるという。猫の健康にも御利益があるとか。

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788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/24(金) 16:42:35 ID:h6k95Dc3
鯉を食った話

まだ家康が岡崎にいた頃、家康は城中の池に、3匹の鯉を大事に飼っていた。

ところがある日、一番大きな鯉が消えうせていた。家康が番人に問いただすと、
家臣の鈴木久三郎という者が、殿から拝領したのだといってこの鯉を調理させ、
さらに同僚達を呼んで織田信長から送られた酒と一緒に平らげてしまった、ということであった。

なんと言うやつだ!鈴木を成敗する!怒った家康は長刀を握り締め、鈴木を呼びつけた。
御前に現れた彼は大小を後ろに投げ捨て、平伏し、言った。

「恐れ入った事をいたしました。しかし魚鳥のため人の命をお取りなさるとは、なんと愚かな。
殿の事を見損なっておりました。さあ、ご存分に!」

と、家康の前に首を差し出した。

このとき家康は気がついた。つい先日、城の堀で魚を盗った徒士と、禁猟地で鳥を撃った
家士がいて、近く処刑するつもりで捕らえさせてあった。
鈴木は、命をかけてそのことに対する諫言をしているのだ。

家康は手に持った長刀を放り出すと

「久三郎、一命を許す」

と言って、奥に引っ込んでしまった。先に捕まった二人の家士も許された。

なんとも家康らしいお話。