【PC】信長の野望・革新スレ 81【専用】

このエントリーをはてなブックマークに追加
510名無し曰く、
君たちは偉そうだけど、本当の歴史をどこまで知ってるのだろう?
過去にさんざん僕を馬鹿にしてくれたけど色々勉強したので論破しに来た。
本能寺の変の真犯人が黒田官兵衛は間違ってたようだ。

まずこれを見て欲しい。
http://video.google.com/videoplay?docid=3191043469565067131
・39:00〜44:50のところ
能という古くからある古典芸能にヒントがあった。
能は渡来人の秦氏だった。
信長の野望でも政治能力の高い武田家臣の大久保長安は秦氏だった。
大久保長安をググってみれば父方は大蔵という姓である事が分かる。
動画で本名が秦氏の能の人が名乗ってるのと同じ大蔵である。
秦氏=大蔵なのだ。
そしてその後の衝撃の発言「武田信玄=秦氏」
一瞬驚くが、歴史詳しい人ならこれが信じられる歴史的事実がある。
武田信玄による武田信虎追放である。
今まで信玄は父親を追放する酷いやっちゃと言われてきたが
武田信玄が秦氏なら説明が付くことになる。
しかしなぜ山の中の甲斐なのか?それは甲州金があるからだ。
信長の野望で甲斐の特産品は何か?金じゃないか。だから甲斐なんだよ。
金を採掘するために山にトンネルを掘るのを
城攻めに応用したのが山本勘助の土竜攻めなわけだ。
そして武田信玄の最大の敵は誰だ?大河でやった通り上杉謙信だ。
謙信は支配欲が無く、熱心な仏教徒で生涯女人を禁じたほどの男が
なぜ武田信玄とは川中島であんなに死闘を繰り広げたのか。
それは仏教の毘沙門天の天命を受けて武田=湯田屋を倒すためだったんだよ。
宗教戦争だったからどっちも絶対に負けられなかったし決着も付かなかったのだ。
負けた時点でその宗教は終わりという事になる。
今のエルサレムで湯田屋イスラエルvsイスラムパレスチナと同じなわけだ。

この背景を理解したら次にいこう。
・同じ動画の1:12.40〜1:19.35
部落問題も湯田屋が分かると全部分かってくる。
実は非差別部落は湯田屋のエリート集団だったが、徳川が差別して今も残ってる。
武家政治が始まったのは源氏平氏からで、源氏も平氏も湯田屋である。
その武家政治がずっと続いてたのに徳川で終わった。
そもそも幕府を開くのには源氏の血(=湯田屋の血)が必要なのに
家康にはそんな血は流れてないから、湯田屋が作った武家政治が
徳川家に乗っ取られてしまったわけだ。徳川で終わったのも必然だったわけだ。
源氏、平氏、秦氏・・・なぜ彼らには「氏」が付くのかも湯田屋を通じて分かった。
江戸時代に徳川に抑えられてた湯田屋だが、幕末の動乱から明治維新では
毛利と島津の湯田屋血統を持つ薩長同盟が倒幕して明治時代が幕を開けた。
当初薩長同盟は無理と言われてたが、土佐の坂本竜馬が間を持ったのは有名である。
この土佐、今の四国がとても重要な場所である。
なぜ四国の坂本という一人の男が巨大勢力の薩摩と長州を結べたかは後で説明する。
その薩長同盟が自力だけで幕府軍を倒せるわけがない。戦力差は相当なものだった。
なぜ薩長同盟が幕府軍に勝てたか?
それは長崎のグラバー邸で南蛮人の湯田屋商人から海外の最新兵器を買ったからだ。
このとき倒幕だけならず天皇もすり替わってる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
そして↓の下から1/4くらいのところに家系図が3つあるので見て欲しい。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4-1.html
これを見れば分かる通り今の日本の象徴は長州の毛利家と薩摩の島津家の末裔である。
現天皇(今上天皇)が島津で、皇太子(広飲み屋・浩宮)が毛利である。
511名無し曰く、:2007/12/20(木) 23:06:40 ID:fgk4PjUj
ここまで理解したら本題に入ろう。
動画の途中にも出てきた足利義昭は織田信長のおかげで15代将軍になったわけだ。
なのに義昭は本願寺顕如らと信長包囲網を敷いて信長と戦ってる。
そして信長に負け追放されたわけだ。
信長と義昭は最初仲間だったのになぜ戦ったのか?
信長は自分の傀儡の将軍を置きたい。義昭は権力を得たいので手を結んだが
無神論者で自分が神の信長と、源氏の血を引く湯田屋の義昭が上手く手を結んで
日本を支配できるわけがなかろう。決別したのは必然だったのだ。
ちなみに打倒信長に手を貸した本願寺顕如の正室は武田信玄の正室三条夫人の実妹である。
そしてこの信長vs足利幕府の決別がもたらした悲劇が「本能寺の変」である。
実行犯とされる明智光秀は織田家の中で四国担当だった。
それも実力行使ではなく、話し合いによる政策をとってた人物である。
比叡山を楽しいそうに焼き払った人物がなぜ四国には温和政策だったのか?
動画の1;08.18〜35秒のところを見て欲しい。
剣山をはじめ四国は彼らにとって特別な場所だったからである。
義昭が死んだ祖谷という町を調べてみると剣山がある。祖谷=剣山だから神聖な地だったのだ。
四国東部で絶大な力を持った三好長慶は本名が源氏で徳島生まれ。
四国南部の長宗我部は本名が秦氏。全部グーグルに載ってる。
上で述べた土佐出身の坂本竜馬が薩長を結べたのも湯田屋の総本山の四国の実力者だったからだ。
幕末の薩摩−土佐−長州も
戦国の足利−光秀−細川−三好−長宗我部−毛利−島津−本願寺−武田−今川−北条も
これらみんな湯田屋で繋がってたわけだ。
この湯田屋連合に敵対する勢力はバラバラだったから応仁の乱から戦国時代まで
あんな長期に渡る泥沼の戦争が続いてたのだ。
もし織田信長や上杉謙信などが同盟して早い時期に関ヶ原をしてたら歴史は変わってただろう。
本題に戻る「本能寺の変の黒幕は誰?」
朝廷説?僧侶説?徳川説?秀吉説?黒田官兵衛説?バカおっしゃい。
答えは「湯田屋」だったんだよ。

お前らが馬鹿にした男が日本の歴史で一番の難儀とされた問題をヒモ解いたんだよ。参ったか。
そしてその支配は今も変わらない。世界の成り立ちを知らない者は↓これでも見るがいい。
http://video.google.com/videoplay?docid=6122301316446344460