将星録・烈風伝を語ってみるスレ その3

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それじゃ適当にいきます。

加古黒[かこぐろ] 
藤堂高虎の愛馬。

百段[ひゃくだん] 
森長可の愛馬。長可の居城兼山城の石段百段を一気に駆け上ることのできた名馬という。

御手杵[おてぎね]
蜻蛉切・日本号とならんで天下三名槍の一つといわれる。
もとは結城晴朝の愛槍で、のち川越藩主松平家が所有していたが、戦災で焼失した。
名前の由来は鞘が手杵の形に似ていたからという。

癬丸[あざまる]
盲目になった平氏の武将悪七兵衛景清が所持していたという太刀。
持ち主に祟りをなすと言われており、熱田大宮司の千秋季光は加納口の戦いで戦死、
次の持ち主陰山掃部助は戦で両目を次々に潰され、その次に持ち主となった丹羽長秀も眼病に悩ませられたという。

飛竜丸[ひりゅうまる]
長宗我部家伝来の太刀。伯耆安綱の作。明治期には樺山資紀が所有
していたが、日露戦争後、東郷平八郎に贈ったという。

八町念仏[はっちょうねんぶつ]
鈴木重朝の佩刀。備前長船守光作。水戸徳川家に仕えた重朝の子孫に
代々伝わったが、明治後、岩崎男爵家が買い取った。

波潜[なみくぐり]
小早川隆景の佩刀。三条宗近作。

無布施経真長[ふせないきょう・さねなが]
備前真長二尺五寸三分の太刀。松平忠輝所有。無布施経とは袈裟斬りに
した刀の異名で、忠輝が信州川中島城主時代、家士の服部半之丞を
抜き打ちで袈裟斬りにしたためこう呼ばれる。

竜造寺国次[りゅうぞうじ・くにつぐ]
竜造寺隆信の佩刀。相州国次作。島津家臣川上忠堅が沖田畷の合戦で
隆信を討ち取った功によって与えられ、子孫に伝えられた。

浅井一文字[あざい・いちもんじ]
浅井長政の佩刀。豊臣期には淀殿が、父の形見として所有していた。
大坂落城後は尾張徳川家、将軍家、加賀前田家、柳沢吉保と伝わり、
明治期に日清戦争の戦勝記念として当時所有者であった柳沢家の旧臣
から山県有朋へ贈られた。大正12年の関東大震災で焼失。

新身国行[あらみ・くにゆき]
出雲尼子家に伝わる刀。尼子家最後の当主勝久は天正5年、播州上月城
が毛利軍に落とされた時、山中鹿之介にそれまでの労を謝し、この刀を
与えたという。鹿之介が毛利に殺された時この刀も奪われ、のち
毛利輝元から豊臣秀吉に献上された。大坂落城の際に焼失。

末期行光[まつご・ゆきみつ]
織田信忠の短刀。天正10年6月2日、明智軍に二条城を襲われた信忠は
討死する直前に嫡子三法師丸(秀信)にこれを与え、前田玄以に託して
岐阜へ逃がした。

虎御前[とらごぜん]
竹中半兵衛重治の佩刀。備前元重作。近江虎御前山の戦いで半兵衛が
功を挙げた時、秀吉がこれを与えた。
80転載:2007/03/22(木) 08:06:35 ID:Wz9W6tNj
鶴丸国永[つるまる・くになが]
五条国永作。はじめ安達貞泰が所持。安達一族が霜月騒動で滅ぼされた
際に北条貞時が入手した。一説に、貞時はこの刀欲しさに貞泰の墓を
暴いたという。のちに織田信長が御牧景則に与え、景則の子信景が
関ヶ原敗戦で没落すると諸家を経て仙台伊達家に渡り、明治34年、
同家から明治天皇へ献上された。

一期一振吉光[いちごひとふり・よしみつ]
短刀の名手であった藤四郎吉光が一生に一振りしか作らなかったという
太刀。毛利家から豊臣秀吉に献上され、秀吉はこれを「一之箱」に納めて
秘蔵した。のちに豊臣秀頼が明石全登に与え、大坂落城後は尾張徳川家
へ渡り、文久3年に同家から朝廷へ献上された。ちなみに『骨喰』は
作風が吉光と大きく異なるため、別人の作であると言われている。

月影[つきかげ]
荒木村重愛用の槍。無銘ながら越中郷義弘作といわれ、筑後久留米の
有馬家に仕えた村重の子孫が、藩主に献上した。

令剣盛光[れいけん・もりみつ]
備前長船盛光作。播州赤松家伝来の太刀。

面影[おもかげ]
来国行三尺三寸の大太刀。もとは北条高時の武将長崎為基の佩刀。
豊臣秀吉が入手して関白秀次に譲り、秀次が重臣の木村重茲に与えた。
刀身に顔がはっきりと写ることから面影と名付けられた。秀次が自尽
したとき、重茲は懐妊していた妻に「生まれた子が男児ならばこの刀を
与えよ」と言い残して追い腹を切ったという。この子が木村重成という
説があるが、重成がこの刀を佩いていた記録はなく、江戸初期には
池田輝政が所有していた。

大波国俊[おおなみ・くにとし]
木村重成の佩刀。無銘ながら来国俊の作と言われ、重成が13歳で元服
したとき、徳川家康がその祝いに贈った。大坂夏の陣で討死の覚悟を
決めた重成は、この刀を義兄に形見として贈ったという。

凌藤四郎[しのぎ・とうしろう]
藤四郎吉光作の短刀。管領細川家から諸家を経て豊臣秀吉の手に渡り、
秀吉の死後遺物として伊達政宗に贈られた。徳川期になると政宗は
これを深く秘蔵し、毎年元旦にだけ差すことにしていた。噂を聞いた
将軍家光がこれを所望したときも、「これは太閤の形見だから」と言って
拒絶したほどである。政宗は晩年、嗣子忠宗に「余の死後この刀を
将軍に献上し、代わりに禁止されている仙台城の増築を願い出れば
きっと許可されるだろう」と予言した。忠宗がその通りにすると、程なく
増築の許可がおりた。

敦賀正宗[つるが・まさむね]
相州正宗作の刀。越前敦賀城主大谷吉継(吉隆?)が所持していたため
こう呼ばれる。その死後、越前松平家、さらに薩摩の島津家に渡った。

実休光忠[じっきゅう・みつただ]
備前光忠の太刀。もとは三雲定持のものだったが、三好実休(義賢)が
入手し、その戦死後、畠山高政が織田信長に献上した。本能寺の変の
際、信長はこれを持って奮戦したと言われており、変後発見されたとき
刃に18ヶ所の切り込みがあったという。後に豊臣秀吉は信長の形見
として、これを焼き直させたが、大坂落城後の行方は不明である。
81転載:2007/03/22(木) 08:07:10 ID:Wz9W6tNj
これでおしまい。

安宅一乱記[あたぎいちらんき] 水軍書
安宅水軍の戦法と歴史を記した書。

前田慶次道中日記
知識書
京で減封の命を受け、米沢へ向かう道中で執筆。米沢に到着するまでの一六日間に、
各地の様子や、慶次本人が詠んだ俳句・和歌・漢詩なども記されており、
文芸にも秀でた面をみせている。

和剤局方
医術書
薬剤について記した書物、家康所持。

明徳記[めいとくき] 軍記物語
明徳の乱を主題にした室町時代の軍記物。作者は未詳だが、足利義満の
側近の人物と推定されている。文学的・史料的価値も高い。

陸奥話記[むつわき] 軍記物語
平安中期の軍記物。作者不明。前九年の役のありさまが記されている。

将門記[しょうもんき] 軍記物語
平将門の乱を描いた軍記物。作者不明。

満済准后日記[まんさいじゅんごうにっき] 知識書
醍醐寺座主三宝院満済の日記。満済は将軍足利義満・義持・義教の
護持僧をつとめ、その信任を得て幕政に深く関与した人物で、重臣会議
の構成員でもあった。守護大名の抗争や幕閣政治の機密事項などが
記されており、室町中期の最重要資料である。

神皇正統記[じんのうしょうとうき] 知識書
南北朝時代の武将北畠親房の著書。独自の思想と歴史観で南朝の正統性
を説く一方、建武新政の失政を批判するなど、単なる歴史書でなく
優れた政治論書でもある。幕末の志士や近代天皇制イデオロギーの形成
にも大きな影響を与えた。

鎗の鞘[やりのさや] 茶入
肩衝茶入。古瀬戸茶入の中でも最高の名器と言われる。豊臣秀吉が
石川備前守に与え、のち三井家、松平不昧(松江藩主)へと伝わった。
細身の姿が鎗の鞘に似ていることから秀吉が銘名した。
 (石川備前守とは、石川貞清のこと・・・だと思います)

柴の戸[しばのと] 花入
湖[みずうみ] 茶碗
利休七哲の一人、瀬田掃部頭正忠所有の茶器。柴の戸は正忠が死の直前
に作ったもの、湖は大きな平高麗茶碗で利休の銘名と言われている。