856 :
名無し曰く、:
ユスケール・ファタノー
(1768年〜1841年)
シトリーヌ侯爵(1809年)
フランスの軍人。ヤキュウール町出身。
「追突ディボウ」ことサトゥーシェ・ディボウと同年・同郷である。
顔つきも体つきも人並み優れていたが、ディボウの陰に隠れて
あまり目立たなかった。ディボウに誘われて軍に入隊。ディボウと
二人三脚で下士官まで昇進する。革命が起きるとこれを支持、
ディボウと革命戦争に従軍彼と同じくイタリア遠征軍に参加した。
イタリアでの彼はディボウと違って参謀長のベルティエの元に配属され、
情報収集・密偵・潜入などの任務に従事する。彼はハンサムであり
体格も良かったので不向きな任務と思われたが、敵軍の妨害を
受けることなくオーストリア軍の情報を送り続けた。
フランスの軍服を着てオーストリア軍の中に混ざっていても誰も
気に留めないほど彼の存在感の消し方はずば抜けていた。
イタリア遠征後はベルティエとともにエジプトへ向かう。
ここでも彼の役目は密偵として情報収集することだった。度々反乱を
起こすエジプト人の情報を逐一報告していたが、捕まったエジプト人は
「フランス人など見ていない」と口を揃えて言った。
ブリュメール18日のクーデタのためボナパルト将軍と少数の
側近がエジプトを脱出したが、その中にファタノーも混ざっていた。
ボナパルトから誘われたわけでもベルティエから指示を受けたわけでも
ないが、誰も気にしなかった。クーデター後はシトリーヌ伯爵を自称して
欧州各地を飛び回り、王党派の会合、各国の社交界に潜入した。
優れた外見とあまり名前を覚えてもらえなったため、
怪しまれることも無く任務を果たした。
帝政期は引き続きベルティエ元帥の下で活動。時には敵軍の歩哨や
偵察部隊を少数の兵で襲うなどの活躍も見せたこともあった。
友人のディボウが侯爵位を受けた後、ベルティエが気まぐれで
「同年で同郷のファタノーも侯爵にしてはどうか」と皇帝に
言ったため、これが実現した。実際彼は休むことなく働き続けて
功績を挙げ続けたため、特に不釣合いなことではなかった。
こうして、かつて任務で自称していたシトリーヌ伯爵がそのまま
シトリーヌ侯爵になった。
857 :
名無し曰く、:2008/06/18(水) 11:30:27 ID:9qrumCmO
ファタノーは普通の常識人だったが、その任務ゆえか、天性のものか
人に名前を覚えられることが少なかった。彼はシャブリのワインを
愛飲していた。瓶をつかんでラッパ飲みするのが特に好きだった。
その愛飲振りから「シトリーヌ・ド・シャブリ」という銘柄が特別に一度だけ
作られた。が、本人が独占したので皇帝ですら飲めなかったという。
ロシア遠征では、ロシア各地に潜入・情報収集に当たる。
後衛のネイ元帥の部隊にコサック騎兵の襲撃を事前に知らせたりもした。
また、落伍者を装って相手の銃を奪い一転攻勢に出るなど勇敢に戦った。
ドイツ戦役では情報収集の傍ら、破壊工作や後方撹乱に従事する。
無人の馬車を敵総司令官という危険な領域に向け加速して追突させ
混乱を引き起こすなど活躍を見せる。続くフランス戦役では
敵指揮官達の寝所に忍び込み、片っ端からシャブリのワインボトルを
口に突っ込んで回り体調を崩させるなど地味に広く混乱を引き起こす。
(連合軍の指揮官達がこの時期、朝起きると原因不明の酩酊に
度々陥ったことが彼らの回想録で多く記されている)
皇帝がエルバ島に流された後は友人ディボウとともにルイ18世に
登用される。社交界にも出入りできる優秀な情報員は王党派にとっても
貴重な人材だった。皇帝がエルバ島から戻ってくると国王の元から
去っていったが国王は気づかなかった。
100日戦役では連合軍の大砲をこっそり向きを変えて同士討ち
させるなど潜入工作を行っていたが、劣勢を覆すには至らなかった。
2度目の王政復古では多くの高位軍人が追放されたが彼は
友人のディボウと違って何故か咎められる事は無かった。ルイ18世の
崩御とともに引退。ディボウと故郷のヤキュウール町で暮らした。
機密の暴露に満ちた回想録を書いたが、それを読んだのはディボウの
息子ニッペイナール・ディボウだけだった。1840年のナポレオンの帰還を
見届けてから死去。
社交界で浮名を流したことは数え切れないが、うっかり結婚し忘れたらしい。
民明書房刊『ナポレオン・侯爵達の物語』より