戦国武将多田野

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822名無し曰く、
衛致 定遠(えいち ていえん)
(175〜250)

 後漢末〜三国時代の人物。字は定遠。遼東の出身。
遼東半島の立教村で生まれる。少年のころから見た目もよく
体力にも秀でていたので、村長の韓督から反董卓連合軍に
加わるように勧められ、公孫瓚の軍に身を投じた。
 烏桓族との戦いで頭角を現す。後に劉備に仕える
趙雲とも親しかった。公孫瓚滅亡後は袁紹に招かれ、
断ろうとしたが強引な勧誘でやむなく従った。
 顔良が討たれた後、兵の一部を預かり官渡の戦いでは
勇戦する。戦後、袁家の内紛でなぜか存在を忘れられ、
衛致は巻き込まれないうちに混乱に乗じて下野する。
 在野時代は得意武器の尺八棒の修行、また勉学に励み、
経理・算術にも通じるようになった。
建安8年(203年)獄堂山の山賊宣忠理を退治して曹操の
眼に留まる。能力ある人材を求めていた曹操の強引な
勧誘で配下に加わった。

 曹操配下で烏桓族・鮮卑族との戦いに従事、晩年の郭嘉から
戦略について学ぶ。袁家の滅亡後は反乱・山賊・対異民族戦を
主な役目として北部国境地帯を転戦する。赤壁の敗報は
万里の長城からはるか北、北匈奴との戦いで聞いた。
 赤壁後、曹操軍の主力が馬超をはじめとする関中の軍閥と
戦っているときは西羌の軍と相対して馬超との連携を阻止して
味方の勝利に貢献する。その後、主力が漢中方面で劉備軍と
戦っている間、西域方面の氐・西羌・月氏の平定を成し遂げた。
曹操は「何故か目立たないがどこかで活躍している」と評した。
たまには主戦線で目立った活躍をさせようと漢中争奪戦に
参加させた途端、諸葛亮の計略で男色であるという噂を流される。
衛致にはそのような嗜好はないのだが、猜疑心の強い曹操は
信じてしまい、周りの諸将もあまり近づかなくなった。
このため曹操の陣中に居づらくなった衛致は曹操の陣を抜け出し
蜀の地へ逃亡する。
823名無し曰く、:2008/06/10(火) 19:26:58 ID:XefN97oo
 蜀では永安の馬尾論山の山賊房余魅を退治して旧知の
超雲の推挙を受ける。先の計略のこともあってか諸葛亮も
彼を推挙、劉備の強引な勧誘もあって配下になる。
蜀では主に南蛮の押さえとして活躍、諸葛亮の南蛮征伐にも
従軍、さらに諸葛量の命を受け吐蕃方面へも進軍。
毎年の朝貢を約束させ、北伐の諸葛亮を大いに助けた。
さらに南蛮奥深くの平定を命ぜられ雲南よりさらに南へ
進軍し、貢物、志願兵を蜀に供給し続けた。
これらの蛮族が自発的に貢物を贈るようになり、南蛮運営が
軌道に乗ってから間もなく諸葛亮が死去してしまう。旧知の趙雲も
既に亡くなっており、劉備に仕えた途端に南蛮の地へ
来たため成都にはわずか数日の滞在しかしておらず、その名を
知るものは誰も居なかった。成都では「衛致 定遠って誰?」と
なってしまい、そのまま忘れ去られた。

 今までの人生経験から自分が存在ごと忘れ去られたと
悟った衛致はそのまま下野。戦火の少ないと思われた交趾へ
行ったが、当時の交趾では士徽の反乱が起きていた。
衛致は乱に乗じて暴れまわっていた手威火(でいび)山の
山賊殷務を退治した。これが呉将呂岱の目に留まり彼の推挙を受ける。
孫権の強引な勧誘もあって配下となった。
呂岱とともに交州の反乱を鎮圧。引き続き扶南国・林邑を宣撫工作で
貢物を献上させることに成功。さらに海南島・台湾方面の探索も
行ったが、帰還した衛致を待っていたのは後継者争いの混乱だった。
しかし、建業で衛致を知るものは皇帝孫権以外誰もおらず
巻き込まれずにすんだ。衛致は密かに呉を脱して魏に亡命した。
824名無し曰く、:2008/06/10(火) 19:28:01 ID:XefN97oo
 余生を郷里で送ろうとしたが、郷里へ向かう途中の下北沢を
荒らしまわっていた山賊の弁通を退治したことから司馬懿の
目に留まり、皇帝曹芳の強引な勧誘もあって再び魏に仕えた。
このころになるとかつての彼の同僚はほとんど死去し、また生き残って
いる者も中央で全く無名な衛致を覚えているものはいなかった。
 衛致は再び遼東方面の対異民族戦線を任された。
扶余・勿吉・挹婁・鮮卑に対して多くの勝利を収めた。が、
異民族の中にはかつて戦った衛致の名を覚えているものはいなかった。
248年ころ引退して故郷の遼東に隠棲。250年死去。
故郷の遼東にもなぜか彼の名を知る者はいなかった。
丁重に葬られたがどういうわけか彼の名はあまり覚えられなかった。

 衛致は武勇に優れ数多くの功績を立てながら不思議なほど目立たなかった。
彼の特徴としては、強引な勧誘に弱いことであった。しかしながら
かえって数々の主君に仕え、多くの功績を挙げた。
官渡の戦い以降主戦線の中原では戦っていないため、名前を知られることは
なかったが逆に多くの群雄からの警戒や遺恨とも無縁であった。
対異民族戦に長けていたため、中原の戦いに集中するためにも
彼のような人材はどこの国でも登用したがったことは彼にとって
幸いした。前述の通り無名のため、内部分裂が起きても巻き込まれず、
身の安全を保つことが容易であった。
彼は男色家ではないが、女性に囲まれるよりは屈強な兵士と
一緒にいるほうが落ち着いていたという。
 得物の尺八棒を舐めるのが癖だった。

民明書房刊『中国マイナー武将列伝』より