【テクモの黒歴史】
・昭和40年代以前、福岡県の銀行員だった社長・柿原が手下を引き連れて上京。
警備保証会社「帝国管財」を設立。
当時の警備員・ボディガードがどんな経歴・風体のお兄さん方か推して知るべし。
横浜のヤクザの中村(後のナムコ社長)と、都内の遊技場・賭場の利権をめぐり対立。
敗北し、千葉へ追いやられる。
・昭和50年代、インベーダーブームから続いてコンピューターゲームが注目を浴びるや、
遊戯施設や娯楽機械、パチンコ屋が主なシノギだった柿原はソフト開発部門を立ち上げる。
大卒の若い社員たちはアクションゲームの名作を生み出す。
社名を帝国管財からテーカンに変更。
・昭和50年代後半、ファミコンブーム。ここで名作を連発し一躍有名になる。
社名をテクモに変更。当時開発をしていた人間がのちに作る作品としては「風来のシレン」が有名。
・平成序盤、スーファミ時代に著しいヒット不作に陥り開発部廃止が真剣に検討される。
柿原は開発部員たちを一人ひとり社長室に呼び出し真剣の日本刀を握らせて、
「それ、人が殺せるよ。常に殺気を持ち給えよォ〜?」と言って「気合」を入れていた。
↑ 〜し給えよは口癖
またこの前後、アメリカで会社役員をやっていたMAX中村(司)を副社長として招聘した。
・スーファミ時代中盤、のちに問題を起こす板垣が入社。
最初に関わったゲームはSFC『キャプテン翼V』。
・スーファミ時代終盤、権謀術数で係長になったチーフプログラマー板垣は、
MAX中村の命令で鬼の粛清を行わされる。人材判別まで任された板垣は次第に増長。
スーパースターフォースの元開発部員などは1人を除いて全員クビにされた。
開発以外でも半数の社員が消えた。
・プレステ&サターン時代到来。すっかり社長&副社長の懐刀となった板垣は、
「忍者龍剣伝をバーチャみたいな3D対戦格闘ゲームにする」という一見無謀な企画書を社長に直提出。
板垣はテクモでは前例のない30そこそこの若さで課長(プロデューサー)に急遽昇進。
これがデドアラの始まり。テクモの終わりの始まりでもある。
以後、板垣はあらゆるワガママを社長に直接聞いてもらえるようになり、
先輩の開発幹部(MFや刻命館のP)や、最古参の取締役すらないがしろにしていく。
あらゆる部署のあらゆる業務に口を挟み、少しでも気に入らない人間を次々とイビリ消した。
柿原の入院→死去時期と、MAX中村の退社と、板垣の追放が同時期なのは偶然ではない。