前スレの話題 ・『残菊物語』から溝口健二の特異性 ・写真研究会周辺 ・カルスタ ex)北野圭介、フレドリック・ジェイムソン、吉本光宏 ・ハリウッド、帝国、スピルバーグ ・映画美学校周辺 ・小沢遼子 ・コンテンポラリー・ダンスのほうへ ・藤井仁子、加藤幹郎 ・黒沢清との距離の取り方 ・エリセ「lifeline」 ・亡霊としてのカーネル・サンダース ・東×黒瀬対談@GEISAI ・『それぞれのシネマ』 ・葛生とか藤原とかシネフィル ・蓮實批判、可能性としての岡崎、古谷を総括 ・クリント・イーストウッド 上記以外はときどきマティス、セザンヌ、土屋、平倉、石岡、福嶋、樫村
同調を嫌うわりに、実際には同調できるかどうかが評価基準なんだと思った
>>5 ありがたい
そういえば半年ぐらい前の過去スレではそういう論点まとめ作業やってたね
書き出してみると映画ばっかだなw やっぱ美術批評のほうはmixiへ移行したのか
移行してるの? 美術の話がまとめられていないだけでしょう
じゃあ美術
レポートplz
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/index.html [川村記念美術館 企画・監修/淡交社/2940円]
展覧会を記念して刊行される、ロスコの代表作約100点を収録した日本で初の本格的作品集。
生前のロスコを知る美術史家ドリー・アシュトンへのインタヴュー、テート・モダンでロスコ展を担当した学芸員アヒム・ボルヒャルト=ヒューム氏と、同館が収蔵するシーグラム壁画を研究・調査した修復家チームによる論文にくわえ、
村田真氏による評伝、加治屋健司、林道郎両氏による論考、年表・参考文献など、最新情報を反映したロスコ論と資料を収録し、ロスコ芸術の全貌に迫ります。
>美術 セザンヌ主義をマジめざしてがんばれって話もあった
いや、ひと通り目を通したんだが 美術関係は点では提示されてるけど、 展開できてない感じだったのでスルーした オレの視点の問題なら申し訳ない
>>11 そこは重要だね
古谷は具象画やるといいって話とか
藤実、岡崎、浅田らの70-80年代の美術状況の変遷理解をある程度対照したあとで 古谷の2007/4/15日記を読むと、中盤にあるニューペインティング云々の理解が馬鹿みたいな話なんだが・・・・ >それまでは、新しいスタイルは、それ以前のものを批判し乗り越えることによって >(本当に乗り越えられたかどうかはともかく、何かしらそれを正当化する「言い訳=言説」があった上で) >はじめて価値として(美術史的に、美術の「専門家」たちの集団によって)承認された 単線的美術史観にはまりこんでるのは誰より古谷だろ もう、「はぁ!?」の連続みたいな記事だ
>>12 シンプルな「古谷への路線提示」として出てくる話が多いので、点になることが多いんだろうね
古谷処方箋以外の話はあまり出ないな
最終的に言説=言い訳だからね
でも古谷の写真日記は誰かが企画を持ちかけるべきだ pgあたり
古谷の美術史観って、高校の美術部室に転がってるような美術出版社の美術教科書に 漠然とした時代感と単純な図式をミックスして、 あとは同時代感覚で「国内の作家をいろいろ足運んで見てきました」っていう屈託が混ざってるだけで、 言ってることは学部2年生でも言えそうなことだね・・・
それ文学もそうだろ…… 映画が一番体系的に観てると思う
高校時代の思い出を読むと、もともとは美術好きじゃなくて映画好きみたいだし、映像学科に進んでいれば道が開けてたはず
>>19 文学にいたっては、文学史の学部生向け教科書程度の理解も怪しいし、
美術史理解よりもっと酷いと思う
うまく言えないがそうだな・・・
"批評空間の座談会「だけ」を読んで形成された文学史&古典の理解"って感じ
映画にかんしてが一番マシってのは同意
>>20 そういう可能世界古谷の話しをしても、人生ゲーム@古谷 のトークにしかならんから、この際もういい
>>22 時々そういう話にしないと荒れますw
経験則から明らか
>>23 俺はそろそろ古谷処方箋をまとめてテンプレとして掲げてあげたい気持ちがw
一応、スレ民の古谷愛の結晶なんだから
画家を天職だと思いこんでいるのが不幸だと思う。
古谷さん@可能世界のループ構造
天職というよりも、ちょうどいい二足の草鞋として使い込んでる印象が強い・・・
腹括って川部経由で映像作家になるといいよ
アキレスと亀の画家みたいな売文業
やけに自己主張が強くてネガなことを言うが批評家としての仕事はできない、 目利きっぷりを誇示したがるがしかし自己主張が強くて目利きに徹しきれない、 作家・制作の側にあることを売りにするがしかし製作の動因に足ることをいえない、 そんな古谷は「上記のような古谷」をプレゼンして人間古谷へのファンを作るのみ、か・・・
だって世俗的には大成功したアート系ブロガーだもの
作品「フルヤン」の作家として成功したんだね
>>10 加治屋、地道に仕事してんのな
つーか、アンフォルムの翻訳は来月出版されるんだろうか
加治屋ブログには2009年4月刊行予定ってあったけど
>作家・制作の側にあることを売りにするがしかし製作の動因に足ることをいえない でも池田将や川部良太が接近を図るぐらいには有用なのでは?
>>33 月曜社サイトに情報が出ないから遅れたのかもね
ロスコに時間割いたとか
有用じゃなくても、俺が若手作家で、ツテがない初期条件なら、 自分の作品を目に留めてくれる人には、これチャンスとばかりにどんどんアクセスするが? 当たり前の発想だと思うんだがな 古谷だって、たにあらただったか峯村敏明だったかと会ってただろう で、古谷にとってたにや峯村が有用かというと、別にそういうもんじゃないだろう シネフィルから嫌われるかも云々の心配が、もし古谷にあるとしても、 その心配の半分は「仕事回してもらえないかも」があると思うんだがな
その場合どっちが仕事回さないの?
月曜社、ご時勢を鑑みて、イタリア現代思想に思いっきり舵きってそう アンフォルムと青土社の岡崎新刊が来れば美術界隈も盛り上がりそうなんだけど
>>39 映画絡みの方?
ユリイカとかって詳しく知らんけど、編集者が推すか執筆側リーダーが紹介するんだよね
執筆側リーダーは映画批評界隈だと、そこそこのシネフィル中堅あたりが占めてるんだろうと思う
nobodyは樋口編集だったか梅本編集だったかよく覚えてないが、
あの雑誌の仕事の回し方は元カイエ派や梅本の学生たちといった、友達絡みだね
古谷はここらへんには疎遠なので、映芸、ユリイカなどになってるわけだが、編集者から推されてるのかな
で、そっちの仕事が減少あるいは止まるのを憂慮してるんじゃないかとは思う。
池田将・川部良太/古谷 でいうと、他方が一方に仕事あげるというよりは持ちつ持たれつ
前者にとっては名前を売るチャンスになるし、ひょっとしたら古谷を挟んで他領域に接点作れるかもしれない
後者にとっては古谷の名を売るチャンスにもなるし、「新自主映画を語る論客」として肩書きになるかもしれない
他領域間だと隙間になるから、両者にとって利益になりやすいよ
なるほど
そこでこう、俺は、「新たな隙間、楽しい隙間、海外文学」はいかがですかと一声かけたいなと 隙間が生じるのは不可避だし、あちこちにあるから、どうせなら面白い隙間利用をしてほしいからね
>>40 月曜社の小林浩は結構前からのイタリア現代思想好きだから、時勢ってほどでもないと思うよ
彼は「ポストデリダ時代としての英米独仏伊」みたいな舵取りだね
廣瀬純の新著は南米の社会運動なんだし
>>44 保坂と抵触するのを最も恐れているんじゃないかな
>>46 なるほど……
あ、いやどうなんだろ、すごーーく遠目に見たらさ
保坂ってコツコツ海外物を読んでる人ではあるわけで・・・
古谷にその身振りがないってのは不思議なくらいなんだがな
中原・阿部・青山・福永・保坂・・・・と適当に作家並べてもさ、
たぶん古谷が一番海外小説読んでないでしょ
少なくとも、言及量で言ったら一番少ないよね
単純に身についてしまった「読まない/あまり読んできてない」ってクセなんじゃないかな
>>37 結構面白いなこのブログ
いいこと言ってる
藤井のディスカッションを読んでなるほどと思ったが
ttp://genbaken.com/genbaken/minutes0807special_06.html 70年代のもの派と80年代後半〜90年代のさわらぎ・楠見の美術手帖時代の間にあって
80年代前半の美術動向は資料がマイナーなメディアに散在していて、
いまからだとアクセスが難しいし、隠蔽されてるような非認知状態にあるのはそのためだろう、
といったことが語られている
これは単純にいうと、美術手帖のバックナンバーを追いかけても把握できないってことだ
古谷にとっての80年代前半が、テレビメディアや芸能界、映画関係のエピソードばかりなのは
70-80年代の国内美術の動きを追えなかったからでもあるんだろうな
「現代美術の最前線」カタログを見てると、
コンセプチュアルやジャッド以後の側面がそれなりに明白になってるはずなのに、
なぜか古谷の場合「商業的にでっち上げられたニューペインティングに抵抗してモダニズム」
などということになってしまっている
そして、その線において藤枝信者になってしまったのだろう
一周遅れみたいなかたちになってたのかな
藤枝の最盛期は70年代なのにな あと古谷は松浦寿夫の書き物を忌避していると思う 彼が美術手帖で紹介していた理論も含めて
むしろ松浦寿夫に言及してるひとのほうが少なくない?
80年代のアートリーディングはすごいよ
1980.09-10 現代絵画と現象学 ロベール・クライン 訳=永澤峻 1980.11-12 ニューヨークのモンドリアン ジョセフ・マシェック 訳=梅田一穂 1981.01-03 「イコール無限」-クレーを読む ヌベール・ダミッシュ 訳=松枝到 1981.04-05 理想都市 アンドレ・シャステル 訳=松浦寿夫 1981.06-07,09 風の花嫁-ココシュカの「嵐」 イラスラフ・レシュコ 訳=斉藤泰嘉 1981.10-1982.01 画家のテクスト-マチスへ ジャン=クロード・レーベンシュテイン 訳=松浦寿夫 1982.04-05 ニューマンと主題の問題 ルーロフ・ロウ 訳=松枝到 1982.06 ヴァン・ゴッホの象徴主義 ヤン・ビヤウオストキ 訳=本江邦夫 1982.09 アトリエ考-モンドリアンをめぐって ナンシー・ジョスリン・トロイ 訳=五十殿利治 1982.11-12 抽象美術の生成-1939 メイヤー・シャピロ 訳=太田泰人 1983.02-03 絵を読む-プッサンをめぐって ルイ・マラン 訳=岡村多佳夫 1983.04-05 キュビズムと色彩 ドラ・ヴァリエ 訳=永澤峻 1983.06-09 組織された感覚の論理-セザンヌ晩年の作品をめぐって ローレンス・ガウイング 訳=松浦寿夫 1983.10-12 性・シンボル・衣裳・社会主義 エリック・ボブスバウム 訳=松枝到 1984.02,04 ラウシェンバーグ、具体化されたイメージ ロザリンド・クラウス 訳=石田和子 1984.05-08 小説「タトリン!」 ガイ・ダベンポート 訳=篠田達美 1984.09-10 視覚芸術の記号論のために ウンベルト・エーコ 訳=篠原資明 1984.11-12 イコノロジーの生成1 ウィリアム・S・ヘクシャ 訳=佐川美智子 1985.01-02 三木富雄のメタモルフォーゼ 秋田由利 1985.03 運動の表象、表象の運動-イタリア未来派をめぐって 松浦寿夫
"現代美術の最前線"って懐かしいな、 俺はパレルゴンで藤井本人から手渡しでもらった覚えがあるよ。 恐ろしく青臭かったような気がする。 作家で残ってるのは、黒川、岡崎、松浦、伊藤(誠)、関口? そんな感じかな、 全体にインスタレーション的で、明らかに違うのは、 菅を批判してる黒川ぐらいで、それだって彫刻を目指していたわけで、 ちなみに、このころの松浦って、s/sの影響下の仕事だし、 絵画って云えるような作品を制作している人って載ってないのではないかな。 もしかしたら、松井永樹とかも出ていたかもしれないけど、 筆触べたべたの新表現主義風の仕事だったような、 というか、この人って、古谷に近いと思うけどな。
不思議なのは、今から比べれば格段に充実したテクストがあったはずなのに、 なんでロクな議論が残されていないのかってことだな。
ちゃんと読んだのが岡崎ぐらいだったのかも
>>52 たしかリオタール、クラウス、ダミッシュ、レーベンシュタイン、マランが松浦によって訳されていたよね
アンソロ単行本出してもいいはずの富があった
>>53 それそれ
みんな忘れてるor知らないけど、エーコ『開かれた作品』(篠原訳)にしたって
その頃の美術手帖連載翻訳なんだよな
>>54 青臭いってのはたしかにあるね
今見ても、藤井の言葉はやたらとフレーズに引っ張られてて、
まあ美術作家にもしばしばおきることだが、意味わかって使ってるのかな、
って雰囲気が無きにもしあらず
でも当時において頑張ってたってのはあったんだろうね
>>56 藤井の証言だとこうなってるけど、これは議論の成果やその土壌の明確化
というのとはかなり違うものっぽいな
>[当時の国内の美術作品の多様な動向をめぐる]言説自体は、
>市原さんや秋田さんの言説とかたくさんあったと思いますよ。
>現場のメディア、田村画廊やルナミ画廊の展評誌だとか、
>北澤さんも深く関わっていた『象』や『象通信』など市原さんも関わっていたけれど、
>作家やギャラリストもよく読んでいたし。(...)しかしいずれもマイナーなメディアでしかなかった。
批評空間と比べるのもなんだけど、翻訳出ました、はい、次出ました、
みたいに流れていって、個々の論が正確に吸収されたり吟味されることもなく、
漠然と過ぎ去った翻訳論文がむちゃくちゃ多かったのでは…。
リオタール、マラン、ダミッシュの翻訳の乏しさや、
リオタールの美学の主著がいまだに未訳なのは偶然じゃないのかもしれない。
まあド・マンも未訳主著があったりするから酷いんだけどさ。
>>54 >全体にインスタレーション的で、
白黒が主の図版だったからしっかりpdfは見てないけど、たしかにそんな感じだね
古谷の日記での述懐によれば、岡崎が絵画作品を発表し始めるのは91年ごろだったか
反もの派的な潮流以後の動向という感じで、彫刻とインスタレーションが目立ってるように思う
絵画が主ではない動きだったのかもしれないけど、当時の動きはよく出てるのかな
一つのメルクマールとしての70年代末〜80年代初頭というのもあるのかなってね
ちなみにマチスの切り紙作品展なんかも80年代初頭にあった気がする
あと、(岡崎はブルース・ナウマンの方を高く評価するけど)ボイスがあの頃妙に大人気だったよね
>>62 行けそうにないんだけど、こりゃ図録だけでも買うべきかな
別に『スペースカウボーイ』は観なくてもよくないか? 箸休めか
批判前提かよw
だからアキレスと亀の画家みたいだなあと
今、「視ることのアレゴリー」のコピーが手元にあって見直したてるだが、 95年までに美術手帖等の雑誌に松浦寿夫が寄稿した論文が列挙されてるんだけれど、 膨大な量なんだな。年間ペースで見てもちょっと尋常じゃないくらい。
俺はそのへんの読者だったので、古谷の沈黙から色々考えてしまう
永瀬は家族関係の記事が増えたからどうだろう
「視ることのアレゴリー」展か、懐かしいな とはいえ95年のその企画展には足を運んでないんだが、 90年代末において松浦・岡崎・中村などをはじめとした絵画作家を まとめて図版で見るときには代表的なカタログだった 人から借りて何度も試すがめつ読んだな 西武美術館で開催されたものだったが、 その館長の難波英夫が岡崎軽井沢展の企画責任者だったね 80-90年代の美術展動向と松浦翻訳・執筆・他の諸媒体(アールヴィヴァンとか・・?) のつながりってよく知らないんだけど、 やっぱりその頃の西武美術館の国外のもののまとまった企画は力があったの? キーファー展なんかもその頃のものだよね
「ボードレールから阿部良雄・松浦寿夫・土屋誠一まで」とかw
そうねw 永瀬はそれこそ椹木・浅田のバイアスが強すぎるし、 やや不正確にも感じる箇所が多いし、 岡崎/浅田のモダニズム云々の言い方には一定の立場の差もあるのが見えなくなるし、 あと、70s、80s、90sの言説史・企画展史・海外へのリアクション関係も曖昧だし、 「ボードレールから阿部良雄・松浦寿夫・土屋誠一まで」あたりでまとまった歴史的な展望は必要なんじゃないかな 岡崎も付け加えて、彼の時代的な背景も示しておきたいし それが即、理論的な射程を開くことがないにしてもこういうことはやっておかないとやばいと思う 加治屋ブログの英米圏アンソロジーや針生一郎、中原佑介への言及見て思い出したんだけどねw
加治屋のこれは予告だろう >日本の現代美術に関して行っている共同研究
>>76 アクティヴな効果も持ちそうだし、何か出てくれればいいなあ、と切望するよ
>Art Since 1900 [2005] の韓国語訳を見つけました
なんて文章もあったが、いいなあ韓国…
日韓を往復することで加治屋は結構おもしろいカンを養ってる気がするね
「ボードレールから阿部良雄・松浦寿夫・土屋誠一まで」あたり+岡崎 あとはできれば高階秀爾の再評価&総括とかあったら、戦後言説はかなり見晴らしがよくなるかもしれない
Art Since 1900の翻訳は切に希望してます!
アンフォルム組がそのまま担当すればおk
「日本の現代アートをみる」を読んで、岡崎・松浦が指摘してたように、 高階は本当に「国民絵画」の創設を欲しているのかもと思った
保守本流だな
>>81 新装版『絵画の準備を』4章p.196にそんな指摘があったな
批評空間10号の岡崎が触れている狩野派/琳派の話なんかもある意味でこの話で、
名指せない構成の趣味的なバランスやその差異化ゲームが進行し、
構築的に線と色彩をコントロールする狩野派に対して琳派が「通好み」と日本ではしばしばされるが、
実際は琳派は狩野派の幼稚化であり・・・と。
抽象表現主義から琳派に行くと大体ろくなものにならない、と痛烈にいってる。
後段で触れられている小林秀雄的な名指せないものを指差すレトリックとして趣味の共同体が
骨董業界みたいに成立し、しかしそこでは「みんなわかってる」みたいな了解が繰り返されるばかり、
というのもこれにつながってるんだろう。
この受動的な趣味の「構成」の問題が、言文一致における俗語革命=国民文学・国語の形成と
論理的にほぼ重なるってことでやってるのが、『絵画の準備を』4章なんだと思う。
古谷について言うと、シネフィル的言辞ってのは、
まさにこの意味での小林秀雄主義に近いんだし、
>>6 でも言われてるような了解の一致を信じ、「映画のユートピア」「絵画のユートピア」を切望してる人でしょう。
古谷が70-80年代の後で、藤枝・蓮実的な排他的原理主義に向かったのは、
岡崎みたいな議論水準、あるいは岡崎を含む70年代以後の総括水準からすると、単なる反動なんじゃないかな
映画批評じゃ蓮実言説が跋扈してたから、あたかも「最先端」みたいな恐るべき錯覚が生まれただけで
うん、古谷のことなんだけど、
>>6 が言ってるのは
人からの同調は外圧として嫌悪するのに、作品が自分に同調しなくてはならない、みたいな願望を持ってるってことでしょう。
これって、古谷の身体構成に対して、共同体的な一致を作品にまず求めてる、みたいな感じだと思ってさ。
古谷が富と権力を得たら危険かもしれんなw
10号の座談は何かと立ち止まってしまう箇所が多いんだけど、 浅田は「どうしてもシンボライズできない何か、穴としてのリアルなもの、ラカン的な「リアルなもの」が 強くせりあがってきてて、ジジェクならばそれをヒッチコックに見るし、 リンチのツインピークスだってそのリメイクだとも言える」と言ってる。 これに蓮実流ヒッチコック=サスペンスシステムを持ち込み、 かつ精神分析経由でそのシステム記述を自己目的化している路線なのが古谷なんじゃないかな。 こう考えると、黒沢清・リンチ・「何か」・「リアリティ」・蓮実的サスペンス・精神分析 が 全部一つの関心のもとで集結しそうだし。
>>87 他領域での、あるいはロジックを変装しただけの蓮実-小林になるだけだけど、困る存在になるだろうなw
3/16エントリについてるはてスタの一人にwasebun2009ってのがいるな 名前に引っかかったので、調べてみると、 早稲田大学公認文芸サークル「早稲田文芸会」の二〇〇九年度幹事長 笠井康平 って人だった。 サークル誌は文芸フリマにも出してるらしいけど、こういう層にとってのスターが古谷ってことなんだろうね。
でもリアルなものについての浅田の考えも実際は大差ないのかも
>>91 そう。意地悪く言えば蓮実の裏側をやってるようにも見えるし。
浅田はここで柄谷の物自体/仮象のロジックも含めて、ある意味で同じ歩調をとってて、
古谷はその論のとどまり方を悪しきかたちで体現しているとも言える。
(ただ、物自体があるがゆえに仮象は批判もされるし、確定記述を産出し漸進的に展開するとする
柄谷と比べると、古谷は記述放棄のために物自体を見せびらかすレトリックになってるが。)
こういうロジックが、ある意味柄谷-蓮実-浅田で共通してて、妙に止まってるのと、
古谷の駄目さ加減が変に同期してる気がする。
カントの欠点かもな
ちょっと空気に緊張感が増してきたんでどうでもいいネタ 批評空間10号のちょっと面白い話: ・ヒュイッセンが訳されてた。なぜか表記は「アンドレアス・ハイセン」・・ 論文はAndreas Huyssen, ≪Anselm Kiefer : The Terror of History, the Temptation of Myth≫, October, no.48, Spring 1989 ・田中純は本号で論文投稿でデビュー 浅田「ドイツから田中純氏の投稿も飛び込んできて、ほとんど自然発生的に[芸術特集のような] このような特集が出来上がったのはうれしい驚きだった」(編集後記p.274) 浅田「[ラカンのリアルな裂け目は]この号で田中純という人が 書いているリベスキンドの建築にもつながるでしょう」(座談発言p.29) 「という人」とは、隔世感のある言い回しだなあ
>>93 俺はどうも柄谷カントはぴんとこないなあ
なんでカントなんだろうとか思ってしまう
浅田、岡崎、大澤も含めて何となく歩調を合わせてるのも不思議だし
そのくせ、ヘーゲルによるカント批判やそれを重視したアドルノはさっぱり省みられないし、
異様に分厚い新カント派の土壌(最広義ではハイデガーやフッサールまで入れてもいいはずだし)を
全然省みないしさ。ヘーゲルを語る口調も単純すぎるし、なんだこのカントって思っちゃう。
>>90 たしかに、創作過程で何かに苦しんでる人にとっては、ああいう文章は喜ばれる
>>96 共感するってのはあるだろうしね、わからんでもない
「すべてを放り出して何かに取り組むことが素晴らしいんだ」っていう、まあガス抜きとしては必要だろうな そこで「俺、すげー!」で終わっちゃイカンが
>>99 人文科学/自然科学の両方にまたがるがゆえに、
ハイデガー〜レヴィナス〜デリダでは言葉のステータスが
(バディウが『哲学入門』で批判するような意味で)あまりに強くなりすぎてしまうことに警戒がある、みたいな?
哲学蔑視があるからね たまに乱入してくるやつと浅田のマインドはけっこう近い
蔑視ほどでもないとは思うが、妙に軽く扱いすぎるなあ、とはしばしば思うね システム論的なシニシズムとの親和性や、「のちの東である」みたいな側面もかなり強いし
歴史を求め、共同体を求め
>>88 古谷システムの整理、明晰すぎw
小説でいえば岡田利規「三月の5日間」と
松浦寿輝の小説群もこのシステムでおkじゃないかな
座談を読んでないから何とも言えないけど、浅田の発言が理解できない それってそのまま言ってたの?
おまいら土屋誠一はちょっと過大評価しすぎ。 哲学思想の素養もあまり無いのが文にも出てるし、立ち位置もこの人あんまはっきりしてないよ。 文章切れ悪いし。
確かに過剰に期待してる感はなきにしもあらずだな
木村覚・福住廉・土屋誠一のなかでは一番いい
今は写真のほうに重心置いてるんだっけか
俺は平倉・土屋・石岡の三連複だ。異論は認める。
木村って謎だよな 確か本郷でヘーゲルで博士号取ってる しかし批評となるとこれが(ry 地頭かなり良い筈なのに 使い分けが下手なのか?
世界が狭すぎやしないか?
>>106 ・思想の教養がない
・立ち位置がはっきしりてない
・文章の切れが悪い
こんなのを評価基準にしてどうすんの
↑スルーしとくべき?
べき
フワッとした議論が進行中です
今アメリカでブイブイ言わせてる若手美術批評家って誰ですか?
クラウスの弟子筋じゃね?
例えば誰?
120 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/19(木) 01:10:04
http://www.youtube.com/watch?v=5imHkP7IyGI http://video.msn.com/video.aspx?vid=ec59d125-c75a-48a0-a32d-cdb397ae6217 (コメント欄に、サイバーパトロールしている警察関係者が多いですが、無視してください。)
職務質問は任意である。拒まれた以上、継続することはできない。 なぜなら、令状がない(憲法35条)からである。にもかかわらず、この連中は継続し、
国民の自由を侵害している。
まず第一に、拳銃を持っている最初の女は「どういう関係の方?(警察の上層部の方?)」というニュアンスで聞いている。あたかも、一般の国民が警察に
抗弁するのはおかしいとでも言う感じである。しかし、国民主権国家である以上、警察は国民の奉仕者(憲法15条)であり、この拳銃を持っている馬
鹿女の勘違いは憲法違反である。
次に、名前をしつこく聞き、強要行為を行っている。「私たちは名乗っているから、あなたも名乗りなさい」というが、警察官は権力を行使する以上、そ
の真正を証明・担保するためにも名乗る必要があるのに対し、一般人には何らその義務はない。にもかかわらず、強要行為(刑法193条 公
務員職権濫用)を行っている。
また、拳銃を持っている村上は「肖像権がある」などといって、投稿者の撮影行為という正当な権利の行使を侵害している。なぜなら、かかる不利益
処分・即時強制等が法に違反する恐れがあるとき、それを裁判で明らかにしなければならないが、これは映像の証拠があって初めてその裁判作用が
正確になせる。したがって、投稿者の撮影行為は裁判資料のための正当業務といえ、これを「肖像権」(そもそも、何の法にも判例にも明示されていな
い)なるものをもって、撮影者の行為を手でふさぎ、やめさせようとするのは、 職権濫用(刑法193条 公務員職権濫用)に該当する。撮影されるのが嫌
なら、警察官を辞めろ。
拳銃を持っている村上は感情的になり、「ゴルァ」と投稿者を脅迫(刑法195条 特別公務員陵虐)している。拳銃を持っている者に感情的にな
られたら、これほど恐ろしいことはない。
卑しくも司法警察職員なら、法治国家である以上、率先して法律を遵守しなければならないだろう。にもかかわらず、この連中は法律を無視するどころか、
犯罪行為を働いている。
123 :
88 :2009/03/19(木) 01:55:03
>>104 >小説でいえば岡田利規「三月の5日間」と
>松浦寿輝の小説群もこのシステムでおkじゃないかな
そっかあ。俺はその小説を読んでないけど、たしかに近い構造の作品はあるだろうね。
蓮実のシステムってのは宙吊りによる遅延と無底の到来を持ち込む一つの洗練形態なので、
おおまかに敷衍すればある程度の通用性はあると思うよ。
あと、付言すると、「リアリティ」は前スレ末尾で仮説した「こうなったらいいかも」の路線で
うまく展開できれば、上記のシステムからは抜け出れる可能性がある。
ただ、古谷はそこまでやらずに済ましてしまう見込みが高いな……
>>123 >前スレ末尾で仮説した「こうなったらいいかも」の路線
映画論の話ですか?
125 :
88 :2009/03/19(木) 02:09:07
>>105 柄谷が「理念」と歴史の話をしているところが中盤にあって、
あの時期(今もかな)よく話してたカントの統整的理念と構成的理念の差異を語り、
統整的理念はいわば物自体であり、構成的理念は仮象でありとして、
そういう意味では物自体が歴史であり、歴史とは理論的理性の外部にあって、
歴史の終焉というような議論そのものを包摂する射程になる、みたいな話をしてる。
それを受けて浅田が、それこそが本来の唯物論だし、冷戦以後の歴史の回帰は
実証主義的な意味でもヘーゲル的な意味でもなく(終焉じゃなくて開始ですみたいな意味じゃないってことだろうな)、
物自体的な歴史が露呈することなんだ、と言い、
その物自体はラカンの「リアルなもの」に近いのでは、と言って続くのが
>>88 の箇所。
多少要約したが、ほぼそういうくだりだよ。(p.28)
70-80年代はリアルなものを括弧にくくって表層の記号のゲームをやったが、
それが飽和すると同時に、シンボライズできないリアルなものをめぐる感覚が非常に広範にせりあがってきたのでは、と言ってる。
ただし、その浅田の発言の直後、岡崎は一撃で
「美術なんてまさに末期的で、あからさまにおぞましい、
自分の肉体を解剖してるのを見せるようなグロテスクなものが流行してますよ。
(…)結局、18世紀的な啓蒙精神に寄生しているだけなんで水。
これを「おぞましい、正視に堪えない」って拒絶すると、反対にこっちが
啓蒙が進んでない未開な精神の持ち主であるってことになってしまうから、
啓蒙の徒であるキュレーターは「いい、わるい」の判断を停止して、
とりあえずそれを認めざるをえなくなってしまうという仕掛けで、
こんなものを物自体と呼ばれてはかないませんよ。」
と、それ自体トリックとして要請されてるんじゃないのと、痛烈に返してるけどな。
俺はこの岡崎の留保の方が面白い。
ちなみに、この座談「芸術の理念と<日本>」だけなら柄谷の『シンポジウムI』(太田出版、1994)に入ってる。
浅田はThe Return of the Realというフレーズに反応してただけじゃないかね
127 :
88 :2009/03/19(木) 02:11:07
>>124 前スレ912-924の箇所で最後のあたりに言ったことね
128 :
88 :2009/03/19(木) 02:13:45
>>126 しかしおそらく、ハードコアの座談でのアブジェクションへのこだわりをみせる発言や、
ダムタイプのS/Nへの高評価、作品におけるセクシュアリティへの読解の仕方からして、
この種の「リアルなもの」と連動している浅田の一貫した発想でもあると思う。
911のときに浅田がボードリヤールやシュトックハウゼンを引いたとき、この側面が結構鮮明だった気がした。
前川修は優秀な紹介屋さんですよ
林的勤勉さがあるし、彼のHPにいろいろ抜粋邦訳があったりと、ああいう人は大事
写真のキーワードってどう?
悪いがそれは読んでない。 クラウスやベンヤミンを引いて議論してた『痕跡の光学』読もうかなあ、とは思ってるが・・
ブログ読むとマンガが好きみたいだよな
>>134 石岡のことか。邪気眼的なバトルものが90年代末以来、少年漫画で隆盛してるけど、
俺は水商売などの情動労働めいた刺激快楽のサービス部門化が進行してるだけじゃね、
ぐらいに恬淡と見てるなあ。石岡のこだわり、論じようという姿勢は
どういう層をターゲットにしてるのか、どういう論にするつもりなのかいまいちわからん。
どう考えても前川修
あと、どうでもいいことを言うと、邪気眼系統で超能力漫画化してる『呪街』とか、 壮大なSF展開をしつつある『ナチュン』とか、 あるいはオタク論、社会学的ネット論を取り混ぜたようになだれ込んでいった 漫画版『日本沈没』を石岡は論じる気はないのかな、とふと思った。
>>136 そっちか。学生を相手にしている中で興味がわいてきてるみたいな感じだね。
『20世紀少年』言及とか。
石岡は刺激快楽上等だろう シューティングゲームとか言ってるぐらいだから
別に刺激快楽であること自体を批判してもしょうがないんだけど、 岡崎的には、それこそが「趣味」になっちゃうからさ、政治的にどうよ、と思ったり思わなかったり。
ゲームってだけで左翼的にはアウトだろうな
漫画にシネフィルみたいな人はいるのか?
いや、そうでもないし(ヴィリリオ的にはアウトになりやすそうだが)、 言ってしまえば、ニコニコとか2cとかってゲームみたいなインタラクションなんだし、 別にゲームを無下に馬鹿にすることはできないと思うが。 あり方次第じゃないですかね。 しかし前川ブログはすごいな。どんだけ勉強してるんだっていう充実振り。 面白そうなフレーズ、本紹介がごろごろしてる。 前川、北野、堀、石岡は絡むと面白そうだね。前川もゲーム論関心もってるし。
左翼がみんなヒップホップに行くのが謎 渋谷望とか佐々木中とか
>>143 知るかぎりおらんような・・・
いしかわじゅんと夏目の技法的言及が強いていえば一番近い、とかその程度じゃないですかね
でも、コマにおける表情や時間とか、その水準の議論読んだことない
宮本大人の論を見ても、そういう種類のはなかったような
伊藤は映画理論に弱いことを手塚本で漏らしてたな
映画理論との近似は昔やられて不毛展開になったからダメー みたいな雰囲気もあるんだろうけど、
前川レベルの人がやるとなるとすごい面白い漫画論になるんじゃないの
とはいえ、俺は岡崎の議論は漫画論に転用できると思い続けているが
金沢美大の紀要でユベルマンつかってうめず論やってる人の論文を数年前に見て、
なんだこりゃと急いでコピーした記憶があるが、どこにいったんだろうあれ(記憶が混ざってるかもしれないが)
半魚文庫?
>>145 陣野俊史を忘れないでください
あと、酒井隆史や高祖岩三郎の雑踏好み、都市好みもほとんど同じ系統だと思うよ
>>149 でも一応フランス暴動とパリ郊外の移民待遇を考え、
それを「ナマなかたちで歌うラップ・フランセ」ってことで一冊本を書いてるような人だから
左翼っぽい流れではあるんじゃないかなーと。
>>146 >岡崎の議論は漫画論に転用
石岡は違うの?
まあ、VOLと絡むような人ではないし、「ラップにおける政治性とは何か」と論じるような感じではないね
Jラップなんて八割は右翼だけどな
>>145 ぶっちゃけると、民衆と制作のなまなましい連携ってのが
新左翼以来ずっとあるからでしょう。鶴見俊輔のカルスタでの大人気とかもあるし。
スガは50年代の労働詩について高評価が続くのを「気持ちはわかりますけど、
知識人のやましい良心とは違うんですかそれは」と留保置いたりしてるけど
(『現代思想』2007年12月臨時増刊号「戦後民衆精神史」のやつ)、
スガが懸念してる、昔から左翼にある「プロレタリアートを表象しよう」みたいなモラル感覚は根強いわけで、
ネグリのマルチチュードにしたって旧来的なプロレタリアート(古典的には「自然」みたいなものになる)
として読まれやすかったように思う。
少なくとも旧左翼が無邪気にネグリを語りだすとき、その危険はかなりあった。
俺が思い出すのは荒岱介がいきなりネグり派になったときだったけど。
マルチチュードをそうじゃないかたちで多数的産出性みたいにうまく論じられないかなあ、と思ってるんだが。
『芸術とマルチチュード』は積んだままだからそうなってるのか知らんけど。
岡崎はそういう感じじゃないな
>>157 >鶴見俊輔のカルスタでの大人気
福住廉の本にインタビューあるようだけどどうなんだろう
>>160 クラブカルチャーが893のシノギだからじゃないか
下部構造の問題だろう
>>159 福住はまったく読んでないから知らん
ただ、『限界芸術論』は、60年代初頭に刊行されたとはいえ、
60年代末以降、左翼の挫折のあとで「運動は民衆のなかから作れなかったことにあった。
民衆文化のなかでやるべき」という思潮において読まれた本ではあるのは間違いないと思う。
岡崎が限界芸術論を特異的に面白がってるのは俺は好きだけど、
言説史的には、70年代初頭以来の第1次民俗学ブームと呼応して人気だった本であり、
鶴見はカルスタに接収されている現状があるのを忘れちゃ駄目だとは思うね。
カルスタとVOLのような国際左翼ネットワークは別物かな?
>>162 訂正 運動は→運動の失敗は
>>161 やくざ問題はパチンコ、芸能界の背景もろもろを通してずぅっとあるよねえ・・・
在日問題も背後にあるからすごく根深い
>>152 石岡は微妙に逸れてる気がする。彼の関心の方が出てるような。
少なくとも岡崎理論の主要核心のもろもろを原理的にコンパクトに、
漫画論にインストールしなおすような面倒なことまではやってないような。
>>132 懐かしいな、学部生のとき、授業で原文読んだw
精神分析やフェミニズムみたいな理論も視野に入ってたような記憶が…
写真論を学ぶうえでの入門書や用語集としていい本だったと思う
邦訳を集めるだけでもけっこう色々出来るよな 英語力もたいていは言い訳
飲酒フラグ回収余裕でした
だよね、web上にうpのも考えるとけっこう見過ごされてるの多そうだし 少し前のスレで検討されてた邦訳の書誌っぽいの作ろうって流れはどうなったんだろ
この「参与」がダンスなんだろう >普遍妥当性の要求をともなう直感的判断を下すことは、判断者が「参与」の状態に身を置くことであり、
>>171 あの前後はたぶん殆ど一人でやりとりしてるから触れないほうがいいと思う
読書会するか?みたいな時かね? 2ちゃんのスレだから文献リストの方がうまくいきそう
国内の雑誌に掲載されたマイケル・フリードの翻訳 ・「表象・再現の表象・再現―クールベ『アトリエ』の中心グループについて」船倉正憲訳 スティーヴン・J・グリーンブラッド『寓意と表象・再現』、法政大学出版局、1994 ・「芸術と客体性」、川田都樹子・藤枝晃雄訳 ・「モダニズムはいかにして作動するのか…T・J・クラークへの反論」、上田高弘訳 ・「ミニマリズムとポップ以降の美術論」、杉山悦子訳 以上、浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハード・コア』、太田出版、1995 ・「二つのレアリスムの間に デリダからマネへ」天野知香訳 『批評空間』第U期7号、太田出版、1995 ・「ディスカッション」、有木宏二訳 『ファンタン=ラトゥール展カタログ』、宇都宮美術館、1998 ・「カラヴァッジョ考」、+西山晶子訳 岡田温司編『カラヴァッジョ鑑』、人文書院、2001 ・「ロラン・バルトのプンクトゥム」、城丸美香訳 『photographers' gallery press no.6』、photographers' gallery、2007
ゴメンなさい、ミスしちゃいました 「カラヴァッジョ考」は岡田温司+西山晶子訳です 「ディスカッション」のみ直接確認してません
芸術論特集としての批評空間10号を見た立場から言うと、
10号って実質的にハードコアの下準備になった側面があり、
ハードコアの巻頭座談に柄谷がいて、「前回同様、門外漢の僕は聞き手側で介入するよ」と言ってる意味でも、
10号座談の継続って感じなんだろうな。
10号座談では浅田がド・デューヴについて触れていて、
文脈としては
>>125 での
>70-80年代はリアルなものを括弧にくくって表層の記号のゲームをやったが
が、芸術という固有名をめぐるノミナリズムとしての芸術動向、のアウトラインとして使われている。
「モダニズムはいかにして作動するのか」と「ミニマリズムとポップ以降の美術論」が訳された背景・理由はこういうものだと思う:
10号での上田批判の際に、フリードによるディドロ研究と
フリードの批評活動(ミニマルアート批判としての「芸術と客体性」)がフリード自身において接続しているものして提起されてて、
上田が無駄に細かく「別でしょ」と書き、「しかしながら接続しているとも言えるのかもしれない」などと
ぐちゃぐちゃ言ってて、浅田が、論旨が混乱してて批判になってないし、
接続しているとみなした方が適切でしょう。何より、「ミニマリズムとポップ以降の美術論」での発言は
彼自身そう回想して認めているものじゃないですか、というふうに返したのね。
そういうわけで、その二文章の訳出は、フリードの足跡を明確にするため、って選出なんだろうと思う。
>「表象・再現の表象・再現―クールベ『アトリエ』の中心グループについて」
これは知らなかったな。グリーンブラットといえばイギリスの新歴史主義派の総帥で、
シェイクスピア研究者だけど、フリードとつながる文脈があるのか。
ブラッ「ド」じゃなくて、ブラッ「ト」だったと思うよ。Stephen J. Greenblatt。
その翻訳はマジで最低ですよ 読めたもんじゃない
ミス連発ですね。すみません。 「表象・再現の表象・再現」は1980年の英文学会の年次大会で発表された講演?みたいです。
船倉正憲訳がですか。 おお、こいつ悪訳で世評の高いベルサーニ『ホモセクシュアルとは』の訳者じゃないか。 船倉訳のものって読んだことないけど、酷そうだねぇ。
ド・マンなど色々入ってる好著 訳し直して欲しい
Representation of Representationって感じのタイトルなんだろうけど、
80年代初頭の訳語が定まってない訳語じゃあるまいし…と真っ先に思ってしまうな。
原文はこれみたい。
"Representing Representation: On the Central Group in Courbet's Studio,"
『Allegory and Representation: Selected Papers from the English Institute, 1979-80』
ed. Stephen J. Greenblatt (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1981): 94-127.
Rpt. in Art in America 69 (Sept. 1981): 127-33, 168- 73.
こんなフリード著作リストが転がってた(pdf)
ttp://humctr.jhu.edu/Faculty_CV/FriedCV06.pdf
>The Next Bend in the Road(poem) ポエム!?
写真論は本になったよな
カフカについての詩とかだったよな、詩集 あの写真論、シカゴ・トリビューンで 2008年度の最高の美術書に選ばれたとか でもいつもどおりの誤読上等な没入と演劇性だったような いや、好きなんだけどね、マイケルw
>>182 ポール・ド・マン 「パスカルの説得の寓意」
ジョエル・ファインマン(Joel Fineman) 「寓意的な欲望の構造/構造の寓意的な欲望」
ロバート・M・ダーリング(Robert M. Darling) 「地獄の腹部における虚偽と消化」
マイケル・フリード 「表象・再現の表象・再現 クールベの『アトリエ』の中心グループについて」
ヒュー・ケナー(Hugh Kenner) 「洞窟のフクロネズミ」
レオ・ベルサーニ 「表象・再現とその不満」
マイケル・ホルクウィスト(Michael Holquist) 「表象・再現の政略」
面白そうな論集じゃないの。船倉訳でさえなければ読まれていただろうに…
他に積んだままのフリード本が多いから、写真論を手に取るのはしばらく後になりそうだ
調べてみたら、何冊も詩集出してるみたいだね たまに雑誌?に詩を寄稿してるようだし
ヘボいけどね
フリードに関してしゃべれる引き出しがないので脱線 何の不幸か、青山真治スレ、青山ブログをざっと読んでしまったんだが、 うん…やっぱ古谷には相対的に好感持てるわ、頑張れよ古谷、お前にはまだ可能性あるんだから と言いたくなった。葛生と青山はもう言説としてカウントする気にもなれないわ。 青山の文章を批評家として持ち上げる井上正昭とか理解しがたいよ。 そんだけ停滞してるんだろうな、この世界…
酷さを例証してみるべき。じゃないと先に進まないぜ
マジすか。それ手間かかるしログ消費きつい上に、成果が見込めるのか怪しいような…。 蓮實のロジックを解体した方が早いんじゃないかしら。 問題の一つには、青山・葛生の言及してる作品をさほど見てないから、 文章だけを独立的に読む手しかなくなって、「いかに論になってない駄文であるか」を示すことになってしまう。 つまり、前批判的なレベルの問題ではなかろうかと。 また、青山・葛生の悪癖は、結構やわらいだかたちで多少古谷にも続いているので (癒しになってるとか、優越を誇示するためのレトリックとかもろもろ)、 このスレでやってた古谷悪癖を酷くさせてより不毛にしたのが青山・葛生のケースって感じ。
いちおう確認だけしておきたいんだけど、 青山・葛生の映画についてはどう考えてるの?
まとめて言ってないことでいうと、反感解除戦術とか前スレで言ったけど、 あのメンタリティの背景をまとめればいいのかな。 蓮實スレでここのスレの人っぽい人が「なんで映画批評家ってそんな性格悪い人が多いの」と尋ねてたけど、 裏を返せば、「なぜ"性格悪そうに見える文章"を書く流れになってしまうのか」だよね。 俺が長年感じてきた、シネフィルが多く持ってる特徴は以下の要素がある。 1a 努力しない、特に理論的な研鑽、勉強をしない 1b そのための言い訳を配備する 2a 自分の関心、問題設定と向き合って、ああでもないこうでもないと距離を変えて何度も再考し、 自己吟味したり漸進的に持続的な議論をする姿勢がない 2b そこで、すでに共有されている語彙、言語風習にどっぷり浸かり続ける 3a 以上の要素から、偏狭さとドグマティズムが暗に陽に肥大する 3b その合意を共有していない相手に対しては、理由1aにより、 攻撃的な身振りか、予め同じ価値観に統合されることを見越した「啓蒙」 (という名の相手からの同化要求)や、パージすることになる。 このへんかな。要素の編制は人によるけど、「偏狭」「無知」「努力放棄」が強くなっちゃう感じ。 で、青山・葛生はその中で「小粋に」フレーズを貼って喜んでるみたいな。
それなりに使命感を持ってパージしてるんだろうね
>>196 葛生作品は「吉野葛」見てないからコメントできないよ
青山作品には、2001年ぐらいに飽き飽きして、もう見なくなった。
まあ、見ないでいるのもまずいな、と思って、
「エリエリ」と「サッドヴァケイション」はとりあえず今度見ようと思ってるが。
なんで青山作品から離れたかっていうと:
「Helpless」でも「冷たい血」でも、
なんか「ほら、要素出しましたよ」って感じの印象を受けてしょうがなかった。
Helplessでの自殺する幽霊にしても、「これ、もっと動かせない?」とか、
白痴の女にしても「単に付き添ってるだけで、プロット関与がつまらない」とか、
狂った父親がインターナショナルを鼻歌歌っても「ほら、政治的でしょ、出しました」って印象がどうも強くて…。
しかも、ちょろっと出てきてるだけで、歴史性や世代差の隔たりがうまく展開して迫ってくるものにもならない。
この側面でなら「アカルイミライ」の方が面白かったな。
「冷たい血」は、自殺する男女と、それを"止めない"中年男、という構図だったと思うけど、
止めない側を描く・撮る関係というか、距離感がどうもセンチメンタルというか、気持ち悪くてね…。
そして、「○○、出しました」みたいな匂いが強い。
「エンバーミング」もそうだったな、死体防腐処理、ほら、"映画"の隠喩だよね? みたいなのにすごく頼ってる。
何より「青山なんかもう見ないでおこう」と決めたのは「路地へ」と
「すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために」を見たとき。
画面の構成とか要素だけ、「ゴダールの○○やりたかったんですぅ」
「ストローブの「歴史の授業」と同じフィクスショットやりたかったんですぅ」みたいなものばかりあって、
しかしゴダールなりストローブなりがテキストや歴史的素材を
いかに活用し、作品内に持ち込むかという意味では、後退の印象しかなかった。
なまじ一見似てるだけにはるかにタチが悪い。
それらを見たとき、「こいつは一生コンセプトや問題設定の模索もしないで、
ファン心理むき出しに国内言説の隙間狙いでやってくんだろうな」と結論して、捨ててしまったな…。
>>193 いや、だから別に青山って批評家じゃないんだろ?
批評界隈って他からむりやり自分の領域に引きずり込んでおいて「おまえダメだよ」って貶めて排除していく、みたいな手癖が目立つ。
古谷がここのスレに切れたときも、確かまったく同じこと言ってたけど。批評っていう手段とそれを好む人種との関連に興味あるわ。
>>200 青山は批評を切り離しにくい作家だと思うよ
あと古谷のキレ方は批評そのものに対してではないだろ 古谷も批評家なんだし
>>197 を補足すると
・すんごいプライド高い
・何かにつけて、「知らない」ことを極度に恐れる
・まあたぶん不安の反映なんだろうけどね、あのセクトっぷりは
かなあ。なんでもかんでも知ってる必要なんかないんだから、変な恐怖だなと思うんだけど。
知らないのを恐れてることの裏返しが、シネフィルがよく使う「教養」ってフレーズ。
誰々には教養が足りない、と嘲笑するのが好きな人が多い。
逆に言うと、嘲笑されることに怯えてたり、他人の承認が気にかかるんだろうね…。
だから友達同士ですぐ喧嘩、罵倒が頻出する。
で、こう書くと、まあ俺のこの一連の書き込み自体が、
「まさにお前さんもそうだろう」となってしまうので、
>>195 で言ったように、議論としての成果が見込めないならやらないほうがいいんじゃないかな、と……。
古谷が制度の枠組みに過剰反応するのは、シネフィルの裏返しなんだろう
このスレで松浦寿夫を迂回する古谷についての指摘があったけど、
岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展と、それをめぐる対談
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20070721 批評家としての松浦は、自分たちと敵対するかのように存在する
過剰に知的/非=知的な言説に対し、「防衛」を放棄することによって、
双方の「緊張感」が減少することの可能性を模索している、というのが古谷の理解らしい。
で、その結果、批評家としての松浦のたたずまいに
「遊戯的自由」を見出して困惑してるっぽいんだけれど、
素朴な印象に留まらず、「反感解除戦術」の問題にうまく接続できないかなと思った。
古谷はリヴェットの遊戯にも違和感を見せていたな たぶん遊戯って形容した瞬間、たいして褒めてないと思う
>>200 >別に青山って批評家じゃないんだろ?
いや、これは単純に間違ってるよ。
彼の映画に関する文章は、映画批評においては批評として認知されてるし、
蓮實や井上など、多くの人間が青山を批評家として扱ってる。
青山当人の意識としても批評書いてるってものだったよ。
彼は作家と批評家、両方やってる人なわけです。
>>202 >あと古谷のキレ方は批評そのものに対してではないだろ
>>195 で「結構やわらいだかたちで」古谷につながってる、
>>197 で「要素の編制は人によ」って違ってくる、と書いたのはその差で、
要素で見ると近いものはあるけど、古谷はまったく似ているってほどの近さではない。
んーー、何か暗黙に、「作家青山が批評に対してキレる」、
そして同様に「作家古谷も青山のように批評に対してキレる と類推されている」
って読まれたみたいだけど、そうじゃなくて、
青山は批評家として、作品を、作家を、罵倒したり嫌味を言うような言説を垂れ流してるんです。
悪質さは結構弱まってるけど、そういう、「こうやってれば批評になるんだ」みたいな発想は、
古谷にも結構つながってると思うよ。
これはさすがに嘘だろう 論理的におかしい >岡崎乾二郎という画家が、その類い稀なセンスによって、とても広い幅の色彩やテクスチャーを自在に使えるということは、勿論凄いことだし、驚くべきことなのだが、 >それは同時に、狭い幅のなかだけでは充分に豊かな表情を作ることが出来ないということでもある。
>>204 そうだとは思う。
そして、それを気にかけてしまうのは、古谷の歩みがまだ進展途中だからだろうね。
俺はシネフィル動向をあまりにも気にしなくなってしまったので、
古谷の屈託は懐かしいものが。(「こんな話題を提起しておいて何言うんだ手前は」と突っ込まれそうだが。申し訳ない。)
シネフィル、特に蓮實の影響下にあるひとたち、 もっといえば制作する側の人間の「罵倒としての批評」という現象には 単純に疑問符つきで興味がある。青山真治然り、山本寛然り。
>>205 >「遊戯的自由」を見出して困惑してるっぽいんだけれど、
>素朴な印象に留まらず、「反感解除戦術」の問題にうまく接続できないかなと思った。
なんかすげえ難しい出題をされた気がしてきたw
ちょっとしばらく考えて見るわそれ
>>211 ぼんやり考えてみたけど難しくってさw
よろしく頼むわ
>>210 うーん、シネフィル言説を潜ってきた人間にとってはもう「興味を消し去ってくださいw」とか
つい言いたくなりますがね、古くはフランスのカイエ初期の批評言説の作り方と興行性との関連ですよ。
トリュフォーが昔カイエでフランス映画の墓堀人と呼ばれたとき、
トリュフォーのみならず彼らの周りの若き批評家たち(ゴダールとかいろいろ含む)は
好みの作家、作品を賞賛し、評価しない作家に悪罵を突きつけるような振る舞いが生まれた。
論立てってよりも修辞性がやたら強かったし、まあアジビラみたいな面もあったわけだ。
あの頃からだね、趣味の派閥闘争の傾向があるのは。
で、蓮実・山田宏一あたりが60年代末から近いことを持ち込んだと。
興行性というのは、上映や特集などを支援する動きと絡んでることが原因。
蓮實も企画上映には関与しているし、80年代以後の映画の動きにちょくちょく関与してる。
で、まあ宣伝マンみたいになったんだけどね。
ここで再び修辞性がやたらと強くなり、賛辞と推奨の振る舞いが強化される。
で、議論として練りこんでなかった人たちが多数生まれ、
「俺のこのこだわりのモヤモヤはどう論じれば・・・」という状態になったというか。
人から問われても説明とか、論として提示とかできなくなってた人が多くなっちゃったのね。
それだと理解されないし、(蓮実がまた人を馬鹿にするような挑発を頻繁にしていたこともあって)
馬鹿にされちゃうのを怖がるわけだ。そうなると、その裏返しとして、
修辞に満ちた罵倒やパージ、派閥闘争みたいになっていき、
しかし議論としては何いってるのかボンヤリした、極度に困った状況になったの。
ヌルイ奴は罵倒しないと駄目でしょ、みたいな使命感があるよな
>>206 書いてた長文レスが間違って消えた・・
泣けてきたな、まあいいや
とりあえず、当該日記をざっと見たが、「遊戯」「箱庭」を修辞のレベルで使ってて駄目だ。
もともと遊戯ってのは、ニーチェのSpurであったり、デリダのjeu, jeux(戯れ/作動)の訳語だろう。
少なくとも80年代の意味では。ただし、この理解が古谷に限らず、実は全然共有されていない。
浅田が
>>125 でいうような「表層の記号のゲーム」としての「遊戯」vsリアルなもの
って理解に古谷がなってしまってるんだろう。典型的な疎外論的理解であって、
そもそもjeuxってのは回帰したり多義性を消し去れない差延なんだから、それ自体、リアルなものの運動と似てるわけよ。
箱庭って言い方も、ラカン的な「リアルなもの」との対比で言ってるんでしょう。自我心理学みたいだねっていう。
で、それら語彙を古谷が使っている根拠は思うに、印象じゃないのかな。
上演や作品舞台というものでもって作品を成立させるものや、その二重性、
といったモチーフをどう論じるかって発想がないんだと思う。
要するに上演を「よそよそしいフレーム」として見ちゃってるわけだ。
で、古谷に対してはリヴェットの上演はこれこれとして面白さがあり、と突付けば実質的に反論になると思う。
ちょっとまあ、俺は最近リヴェットから離れてるし、引き出しが今ないからストレートに古谷批判はできないけど。
赤坂大輔はリヴェットの上演のモチーフはロッセリーニ由来だと言ってるけれど、この発想は面白いと思う。
さらにいうと、ストローブらにもつながるような、巨大な「映画と上演」というモチーフがある。
赤坂以外にはここに関心を持ってる人は見当たらないが、かなり重要になるはず。
>>215 罵倒すれば状況がよくなるかって言うと、全然そうならないで、単に書き手の鬱憤が晴れるだけっていうね・・
ライターの記事と差を付けるために罵倒を入れてるんだろうか
監督による「罵倒としての批評」は 創造する側としての優位性を意識してる っていうのはやっぱ単純すぎるかな
ああ、選民気分を高める効果や、"俺たちは「一般人の映画好き」とは違うんだぜ〜?"感は たしかにシネフィルには付きまとってるよ。 うーん、一昔前の柄谷信者の選民気分が、一番近いかな。批評近辺の悪習で類比すると。 ライターと差をつけるというのを狙うといった戦術的な発想以前に、 もっと実存的にしがらみがある感じだと思うよ。 「俺は聖なる映画の味方であり、断じて屈しない!」みたいなノリ。 で、攻撃文章を書くのを信奉して、しかも他の文章を読んできた蓄積のないままに来ました、みたいな。 当人は深刻なつもりのようなんだが、傍から見ると、映画批評ほど能天気な世界はないと思う。
>>219 いや、蓮実批評の語彙にべったりになって甘えれば、青山のスタイルになるから。
青山の言説には、作家ゆえに新たに追加されたものってあんまりないよ。
むしろ吉田喜重の方が作家としての特性を発揮した面白い論をやるわ。
しいて言えば、蓮実・浅田らが「作家」にとった曖昧な姿勢・風習が、
青山のような振る舞いをさらに野放し状態にしてしまったという面はあるが。
蓮実なんて酷いもんで、「無責任こそが作家です」「支離滅裂で強弁が作家です」というふうにしてしまったからね。
この結果、作家肩書きを持つものが批評家業をやるとダブルで悪習が加速するということになったんだろう。
古谷が既存言説の悪しき反映であるように、
青山は「悪慣習に便乗した身振り」が集大成のようにかたまってるところがある。
浅田・蓮実のあと、作家肩書きが実に都合よく使えるってことが、
古谷をはじめとして悪しきかたちで歴然とした気がするな。
現状では、誰からも表立っては批判されないんだよ。
>>125 の岡崎の切り返しの構図と似てるけどw
広報資料とは違うことを言って欲しいとは思う。批判を封じる人も実際に多い。 けど罵倒はな…
吉田喜重は奇妙だよね。映画あんま観ないらしいし。自分で論理を構築してる感じがする。
作家で言うと森敦に近いのか
俺は初期カイエがそういった言葉しか持てなかったのは、しょうがないとは思う。 だって、言葉がろくにないところから突如として演出とは何か、とか切り出した時代だったからね。 それに、ゴダールの映画引用や一見国内のシネフィルに似た口調は、 実は蓮実以降のシネフィル風習とは違いがあり、それはすごく見えにくいが、明らかに違うものがある。 ゴダールはカイエの作家主義政策を、やはりあれは「政策(politique)」であり、政治性としてあったんだ、 いま作家主義は一般化したが、政策とは何かってことが新たに考えなきゃいけない、と言うし (ここで止まってるけどね)、ゴダールの引用する映画も、蓮実敵映画史的教養のコードよりも、 ぶっちゃけゴダール個人のこだわりが強い。 しかし、時代的にちょうど並行性があるから、蓮実と同じように錯視されちゃう。 あとゴダールにも、時代的な個人的な限界みたいなのもあるからね。 こういう微細な、重要な差異があるんだけど、蓮実にかぶれると、 あたかも蓮実が最先端で正統で、ゴダールと並んでるかのような、決定的な誤解をしてしまう。
批評ではリヴェットが一番嫌な奴だったようだ
吉田は面白いよ。 画面やショットの作り方が蓮実経由の美学だとピンとこないものになってるから、 葛生がやるように、それに合致するタイプの、 しばしば初期の松竹(だったかな)時代のプログラムピクチャーばかりが褒められる傾向にあるが、 コンセプチュアルに、「ひょっとして吉田の模索はこういうものだったのか・・?」と 考え直してみると、面白いものがある。 ジャンル映画に対して関心が薄い作家だし、コンセプトから作れてる面もあるし。 対極なのが、いわば鈴木清順なんだけど、黒沢清の停滞は、 類比するとある時期以降の清順の駄目なところに似てるのかな、と思わなくもない。
>>224 ある意味で、吉田は反転した小津って感じ。
>>222 広報や商業的拘束ではできないことをやる、ってのが批評の一役割であることはたしかだし、
この視点は大事なんだけど、今の映画批評の大半はわけもわからず罵倒や選民気分みたになってるだけっていうか・・・
何らかの余白、空白みたいな機能は必要なんだけど、
一見余白のように見えて(蓮実のカギカッコつきの「詐欺師」性とかね)、
実はびっしりしがらみで包囲されちゃってるという。
美術も一緒
吉田喜重に宮川淳が持ちえた可能性を感じるんだよね、何か間違ってるような気もするけどw
そうなんだろうけど、言説として機能するのでは・・・?という希望はまだ感じる。 映画批評だと、言説が機能しないのではないかという絶望感があるよ。 逆に考えると、制作/読解・経験/言説 という界面が極度に鮮明になった領域ではあるので、 現在の言説慣習を崩せたときは、その分立ち直りもスムーズになるかも・・・と幻想も抱いたりはするが。 でも、浅田がたまにいう「ここまで絶望的な状況だと、かえって新しいものが出てくると思うんです」 の語りと変わらんような気がしてくるな。
>>231 実際同級生だよね、宮川とは。
吉田はサルトル・ブランショは結構こだわってるようだから、
系譜的にも宮川と重なる面もあるよ。
>>205 への返答に向けて、少しずつ、偽日記的に書いてみるか
>サイズによる「縛り」をキツくすることで、サイズやフレームを「乗り越える(はみ出す)」
>運動性そのものが、とてもわかりやすく顕在化されており、
これは、要するに、岡崎作品は筆触が少ない方がいいのでは、っていう話だな。
フレームと筆触のサイズ・量の比率でいったら「ZERO THUMBNAIL」のは、筆触がデカいから。
筆触量が増える→フレーム内部の比重や、マルチプルの境界線の機能が強くなる
って見なしてるみたいだけど、そうかなあ? 腑に落ちん。
古谷は「形態/ヴォイドの関係性が消えて筆触が自己展開して、生々しく動き出す」
というふうに言いたいようだが――浅田じみた形容をすると「ウミウシのごとく大きな筆触が動く」みたいな――
これは、筆触というオブジェクトをまず措定して、そこから運動が発生すべき、
という古谷の単に好みだと思う。
さて、そもそも「ZERO THUMBNAIL」の小品群は
そのようにディプティックと対照的な経験過程なのかというと、俺は疑問。
キャンバスサイズが落ちてる分、筆触一つで画面を占めかけていたりするから、
なんていうかな、「筆触」の振幅がもっと変わってるんだな。
後景/前景/事物という書き分けがあるとしたら、それらがすべて筆触の分化において成立している、みたいな。
で、質的に全然違う役割がある筆触が混ざり合ってる気がする。これはこれで面白い。
ま、古谷はそういう分析ができないから「技」とレッテル張りして、済ませるんだね。画家にしては眼が駄目だな。
色に対するアプローチが貧しいよ
二段落目の松浦・林のズレ云々はどうでもいいや。
あれは「ズレを見出す僕」アピールかと思ってしまう。
このスレでたとえばシネフィルはこれこれで、と言っても、
シネフィルという単語、罵倒という単語、はともに使いながら、やはりズレが出たり、
いくら説明しても同じ理解にはならないことぐらいあるし、
むしろそれが面白いわけだし、だからこそ説明するわけで。
何をわざわざ古谷はアピールしてるのかと。
松浦にとっての「翻訳」や「関数」はこのようだ、林にとっての「翻訳」や「関数」はこのようだ、
とまるで考えもしてないふうだから言及の意味が消えて、自己アピール嫌疑が強すぎ。
>>235 岡崎だと、形態/量/色彩 みたいな非両立的次元の同時共存としての画布、
ってのをまず最初に考えるけど、古谷はまず一次元にすることに傾くでしょ。
ルイス展のときの色彩の語り方なんて、
複数次元を統合するメタ次元=「色彩」があり、すべてを包含する みたいなあほな話だった。
要するに、そういう絡み合いを考えられない程度の頭であり、経験であり、身体なんでしょう。
同時にそういうのがあるってことに対して粘り強く接する体力がなさすぎ。
「ZERO THUMBNAIL」の小品群は色彩としても面白いね。 しかし語るのが難しいな。。。。。。 ほぼ同系色だけで一枚できてるのに、形態差や筆触間関係を強く意識するときもあれば、 ある筆触には、「面」としてパっと見えてきたり、色を濃厚に感じさせたりする。 あのクリームみたいなのったりしてる筆触があるもんだから、 余計に色の振幅がすごいよねキャンバス地が透けて見えるような薄塗りのときは、 また不思議な力を得ているし・・・。 ま、これら筆触操作はディプティックでもふんだんに展開されてるわけだが。 虫眼鏡で定点固定して見たら、近いのかな、「ZERO THUMBNAIL」はw
>>202 >あと古谷のキレ方は批評そのものに対してではないだろ
200にループだな。キレたのは批評ではなくて手癖。
>古谷も批評家なんだし
古谷の扱いは難しいけど、俺の中では古谷は文体の人間だと思ってる。
たんに作品、作家を論じてるってところを見たらもちろん批評にカテゴライズされるんだろうが、世界に対しての切り開き方を見れば「文体」がしっくりくる。
だから俺としては、このスレvs古谷っていうのは、批評vs文体、くらいにしか捉えてないんだな。
古谷の「互いにそれぞれの道を進みましょう」みたいな発言は、そのへんの自覚はあるんじゃないかな、「文体」じゃなくて他の言葉を使うだろうけど。
三段落目 >今回の岡崎氏の小品シリーズは、岡崎氏の作品にいつもある、 >(それ自体、罠であると同時に誘惑の身振りでもある)高度に防衛的な構えが >撤廃されているという感じがある。きわめて素朴に「きれいな絵」として観ることが出来る。 なんだ、バンフ展のときと同じ話か。古谷の同一化してて楽しい、って心境告白でしょこれは。 俺はマルチプルを不自然とも、「ZERO THUMBNAIL」を素朴でシンプルだとも思わない。 >[松浦の林への応答は]それは否定的というのではなく、林氏の肯定的発言に対して、それにはのらずに、 >ちょっとはぐらかす、みたいな身振りとしてあった。これはたんに、 >作家と親しい友人であることからのテレなのかもしれないが。 そもそも松浦が古谷の上記のような発想をしてるとも限らないので、何言ってるのって感じ。 というか、第三段落は林の言ってることの要約だったのか? スムーズに、自分の所見から人の振る舞いへとくっつけてて酷いぞこれ。
>>207 今そこで君がやったことが、まさに批評に引きずり込んでいくってことなんだけど、ある人間から批評の枠内で取り扱える言説を掻き集めてきて、
それが蓄積されてあるていどの像になったら貶めていくような、見てても「あー、そっちに持ってくか、で、そうやって落とすかー……」っていう、俺としては違和感があるんだけど、それとも俺は批評と匿名掲示板の特性を取り違えてるんだろうか。
批評ではなくて匿名掲示板における議論の手癖か?
あと前スレの >「罠」ってのが人から押し付けられたもの、みたいなニュアンス感じちゃうんだよ。 現状の言説と必ずしも隔たっていない自分の思考や言葉の欠陥のことを罠と言ってるのなら、 古谷が「何をどう言っても……」って言い出したときは、いい言葉だと思ったんだけど、君はまったく反対に捉えていたようだな。 だけど、自分の持つ思考や言葉では太刀打ち出来ないような、とてつもない物語が現前してきたときには、懼然として「何をどう言っても…」って感覚を覚えん? もちろん君のような解釈だってありえるわkだが、どうして一気にそっちへ向かっていくのか、限定させるのかは看過できない。 そのあと「気に入らないやつ、むかつく。批判、むかつく」と、古谷の心情を語ってみせるわけだが、まぁ飛躍もいいとこだよな。 なんだか、恣意的としか思えないし、文章の流れが明らかにぎこちなくて、これが武装解除ってやつ? 「みんなで古谷叩きしましょうねー」ってパフォーマンス? それを萌芽として議論に入っていきたいの? だとしたら一部の人間にとっては逆効果だと思うよ。 このスレで古谷を観察する、ロムってる人がこのスレを観察する、って三部構造があって、ロムってる人がはるかに多いわけだから。 で、書き込む人とロムる人との間には隔たりがあるわけだから。
>>240 まず、あなたの言ってることが「青山は批評家ではない」を前提にしてるのが腑に落ちないんだが…。
彼は批評家であると自他ともに認め、認められているんですが。
InterCommunicationでやってた「実感について」シリーズは、
ちょっと読んでないからなんともいえないってのと、
たしかに画面との距離感をめぐる発想はあることはあるんだが
(作家としての彼の特性が出てる文章はたぶんこれだろうけど)、
それ以外が青山の文章の8割ぐらいなんでね。
この流れはさすがに無視できない。まず整理する必要があると思うんだ。 とりあえず「青山は批評家ではない」という前提からはじめましょうか。
>>241 「まったく反対」でもないだろう。
>人から押し付けられたもの、みたいなニュアンス感じちゃうんだよ。
>現状の言説と必ずしも隔たっていない自分の思考や言葉の欠陥のことを罠と言ってるのなら、
>自分にとっての壁であり、他人事じゃないはずなのに、
>押しのけるべき他人事みたいに言ってるように読めてしまう。
と、そのとき書いたが、古谷につねにあるのは妙に足早な「分割」だ。
いま話してる「ZERO THUMBNAIL」もそうだよね。「ZERO THUMBNAIL」シリーズは
>無防備な無邪気さ
であり、普段の作品は
>(それ自体、罠であると同時に誘惑の身振りでもある)高度に防衛的な構え
とされてしまうわけだ。俺はそうした二分の仕方自体に疑問を感じる。
同様に、そのイーストウッド論らしい思索の日記のときにも罠だと言ってるわけだが、
古谷が罠と呼び指すとき、罠とそれ以外を分割して、分けられるというふうな気軽さをつねに感じる。
「他人事みたいに」といったのは、そういうものを指して言ってるんだよ。
たしかに、言説、思考のあり方について、限界を感じるときに「罠」と評することはあるよ。
第一、俺自身がこの呼び名を使わないかたちでシネフィルの風習についてそう言ってるような面があるわけだし。
>ロムってる人がはるかに多いわけだから。
「ロム住人を代表する」はつねに反証不可能なレトリックになるよ。
証拠もなくいくらでも言える言葉になるだろう。
うーん、とりあえず打ち止めという理解でよいのかな?
>>244 >たしかに、言説、思考のあり方について、限界を感じるときに「罠」と評することはあるよ。
>第一、俺自身がこの呼び名を使わないかたちでシネフィルの風習についてそう言ってるような面があるわけだし。
について、付言すると、だからこそ、前スレ913で
>俺自身蓮実からの距離をいいながらも、蓮実に(蓮実を鋭利にまとめるというかたちであれ)引きずられているように、
といったわけで、継承しつつ開く射程のなかで相対化しつつ組み替える、
というかたちにならざるをえないところがあるんだよ。
まあ、蓮実の議論や言説の経由じたいを捨てる、という経路もあるが、そうじゃないやり方をすると、ということだが。
だからこそ、古谷の「分割」や形容を割り振る修辞性には疑問がある。
「ZERO THUMBNAIL」について古谷は、分析的な姿勢をすぐに放棄して、ペタっと「技」と言葉を割り振ってしまう。
「罠」をいうときにも、同じ癖が出てきている気がしてね。
>懼然として「何をどう言っても…」って感覚
は否定しないし、それはものを考え、作品を考えるときにはつきものだけど、
その感覚を「罠だ」と書いて、そこで終える、となってはまずいでしょう。
「これは古谷の批評文での箇所じゃないのだからそこまで疑ってもキリがない。
日記は彼の率直な感覚が記されているのだから、過剰に突っ込んだり非難するのはやりすぎ」
と言い出せば崩れちゃうんだけど。
>自分の持つ思考や言葉では太刀打ち出来ないような、とてつもない物語が現前してきたときには、懼然として「何をどう言っても…」って感覚を覚えん?
ということに対しては、そのレスでは、その「反対」のことを言ったのではなく、
その感覚について、「罠」と古谷が言うときに独特の気軽さがあって、それを疑問に思うという話だ、と「反論」してるんだが。
嫌味が多くて付き合うのが大変なんだが
(「これが武装解除ってやつ?」については明らかに嫌味だろ。
あのレスを当人が見たら、反感が増すだけで武装解除になるわけないのだから。
つねに全方向的に、ましてや手がかりもない「こんなROM人もいるかも」という予測も含めて、
恣意的に感じさせないことを言うことは不可能なのだから。
つまり、武装解除をつねに多方向にやるなんて無理。)
>「気に入らないやつ、むかつく。批判、むかつく」
については、始終日記で古谷はむかつく、と言ってたりするんだが
まあそれを見過ごすのは「飛躍もいいとこだよな」。「なんだか、恣意的としか思えない」。
>>240 の大前提は「青山は批評家ではない」および
「批評家ではない人の言葉は別の対応法が要求される」だろう。
で、前者が自明ではない、と俺は言ってる。
説明不足で語弊がありそうなので、
>>249 の
>については、始終日記で古谷はむかつく、と言ってたりするんだが
について補足
「罠」と呼び指すときの気軽さ、分割の姿勢 と
「むかつく」という心情的形容 は単に飛躍してるんじゃなくて
(そりゃ反発を感じたという
>>241 個人の気持ちを考えると、酷い言い回しだったかなとは反省したけど・・・)、
分割し、それを遠ざけられるという身振りを、心情的な言い回しで乱暴に噛み砕いた説明として言ったんだ。
いや、オレ
>>205 なんだけど、
あの書き込みが発端で起こった事態でしょ。
だから静観しないでみた次第。
挑発するつもりはもちろんないんだ。
ここまで書いてみると、結局
>>238 での
>だから俺としては、このスレvs古谷っていうのは、批評vs文体、くらいにしか捉えてないんだな。
この構図自体の問題なんだろう。
批評と文体は対立しない、という立場を俺は取るし、
むしろ「文体である」が逃げ道になるやばさを、それこそ
「いつ・どういうときに形容詞で文章をとめるかが生死を分かつ」というふうに危うく考えてるんだよ。
乱暴に酷い言い方をすると、古谷は自らが培った文体に足をとられ、罠に嵌ってるんじゃないですかってことだ。
もとい、静観しなかった次第。
明言するのは無粋だと思うけど、途中で合いの手入れたのも
>>205 。
>>243 それは
>青山の文章を批評家として持ち上げる井上正昭とか理解しがたいよ。
を受けてのことだよ。
俺は青山についてなんも知らんから。とりあえずユリイカは見たけど。
ラストの海はあれほど作り物の海はないと思った。あと確か頭の悪そうな青年が出てくるけど、たぶんか彼は相当頭いいんだろうなっていう、役柄の先の人間性が透けてしまっていて、これでよしとする人なんだろうな青山って、で興味なくして終わった。
この程度で喜んでる人なんだろうなって
>>251 あ、そうだったの。
ちょっと文意がつかみにくい。
>あの書き込みが発端で
あの書き込み=
前スレ870のことか、
11月ぐらいのスレと古谷の間の不和のことか、どっちだろ。
あの書き込み=
>>205 ここで提示した問題を展開してくれた結果、
こういう事態になった程度の意味。
>>243 >確か頭の悪そうな青年が出てくるけど
最後にバスから追い出される斉藤陽一郎のことかな
なんていうかなあ、青山の作品に出てくる「人物」って、
論にするの難しいんだけど、そのとおり、「透けてみえる」んだよね・・・。
心象をそのまま仮託してるっていうかな・・・
そして、そういう人物間で視線がつながる、みたいな印象を覚えてしまって、
ものすごく甘い世界という印象が・・・・
>>244 どうしてこういう場を君が信じてるのかに興味があるらしいんだな。
君ほどの経験の持ち主が、なぜここで発言することを価値ありとするのか。快楽が先行すると言われたらそれまでだけど。ただほんとに不思議に思う。
3/17のぶんは中身が濃すぎて、古谷の人生を左右させるような事項を、あまりにさらっと言い過ぎてて、読みながら笑うしかなかったよ。
ほんとに何者だよって。で、最後はやっぱり、どうしてこんなところに居るんだろうって思う
これには「うん」といっていいのか。
もういいや頷いてしまおうw
それも含めて
>>240 以降の流れが、
>>205 でオレが提示した(つもり)の問題を
図らずも顕在化させたのかなと。
>>256 なるほど。つまり、
>で、その結果、批評家としての松浦のたたずまいに
>「遊戯的自由」を見出して困惑してるっぽいんだけれど、
>素朴な印象に留まらず、「反感解除戦術」の問題にうまく接続できないかなと思った。
ここからつながってるわけね。うーん・・・・
うんとね、反感解除ってのは、石岡ブログ記事や北野圭介の本の書き方について
言及したのが話題に出したきっかけなんだけど、北野本についてちょっと分析的に言うと:
この本『映像論序説』では、シネフィル(に限ったことではないが、理論的論考に関して不慣れな読者層)
が読むことを想定してかしないでか、簡単に言うと「一緒に悩もう」って感じなんだ。
理論から演繹されたような作品を語る言葉は慎むべきではあり、
しかしながら理論を読む中でつながるものがあり…と、
いわば、ジレンマを上演してるというか。それを介して、読者は「まったくそうだな、俺も悩む」
みたいにノってくる作用を見越してるんだと思う。
だから、思うに、
>>238 での古谷の「文体」って効果と似てる問題なんじゃないかな。
擬似的に追体験する上演手法を使うことで、「こんなもの、学者の言葉だっ」みたいなパージを防ぐ。
つまり、俺がそもそも批評と文体を対立にさせないというのはそういう問題があるわけで、
これは、語られているコンセプトと、語り方の形式の対なんじゃないの、と。
>>258 信じてる、と言われると困惑するけども……そうか傍目にはそう見えるのか。
俺は「飲み話の放言」みたいな気分だった。にしては、時間使いすぎだし、そう見られるだろうなあ・・・。
>3/17のぶんは中身が濃すぎて、
なんかずいぶん褒められてるけどもw、
うーん、単純に映画批評をくぐって、ある程度相対化して、ここらへんが焦点では・・?
と思案した挙句、はた、と映画批評の現状がどうなってるのか見てみたりしたら、
「自分にとってつながる論点までいけてる人がいなくて、
寂しさを通り越して絶望の淵に立ったような気分になった」というのと、
映画批評や映画見てる人とちょろっと話したりしたら、
「全くこちらの言葉が通じない。いかに丁寧に説明しても、
(とりあえずこう呼ぶとして)蓮実パラダイムのなかでしか応答されない」というケースに多々出くわし、
この業界に(文章を読むというかたちも含めて)接するのが、馬鹿馬鹿しさを通り越したような気分になってな。
したがって、こういう場所で、思考途中の発想をぽい、ぽいっと、投擲して済ますみたいな、
結果的に議論介入しないスタイルになっているのだが。
とりあえず俺は映画批評にほとんどアタッチしたことのないアマチュアだ。
実際問題、最近映画関連以外ばかり読んでる人間だよ。
>>259 まあ、
>>257 の「心象をそのまま仮託してるっていうか」とか、我ながら無理やり言ってるから、
うまい言葉がうかばないものなので、気にせずに。
今ユリイカを見返したら、もうちょっとうまい言葉を出せるかもしれないけども。
ただ、ゴダールを挙げて言うと、視線の不一致・非対称、関係の非対称、
といった溝、亀裂をいかに問うかというのが結構いろんなレベルで模索されてるんだけど
(むろん、限界というか、これこれができてはいない、とかあるけど)、
そのセンスが青山には感じないんだ。すごく基本的な感度において、ゴダールの良さと対立してるという印象で・・・。
>>261 から続けて、
>>205 で言及された
2007-07-21エントリー第4段落(「松浦氏は、」〜の段落)だが・・・・
うーーーーん、なんか釈然としないなここ。
まず、防衛←→遊戯的自由 という対立が納得できない。
あと、これは岡崎の悩みというよりも、松浦の悩みに見える。
「現代美術の最前線」内の座談でも近いこと言ってたし。
さて、
防衛1. 「知的に仕組まれたものを「読み解く」ことが作品の経験」への抵抗
防衛2. 作品=自己表現っていう知性排除型の作品観 への抵抗 (って感じかな)
1が対象にしてるのは、メディウムが透明にされてコントロールされ、またそのように読まれるってことだから、
先の北野の件で言うと、経験/理論になってるものが、
経験/読解、経験/媒質観 って感じなんだろう。後者に還元できませんよっていう。
(経験をこのように語るスタイルをよくとるのは、岡崎よりも松浦の方が顕著じゃないかな…。
岡崎は還元してるわけではないがもっと複雑な感じがする)
2は前批判的なレベルだね。ただし、1への抵抗がしばしば2に転落するから、
2に転落しないためにも、じゃあ同時に知的な言説と関わるのか、と。
「還元的ではないが構築としてつねにすでにある」「それらは経験と読解としてある」とか、
両義的なエレメントにすれば、いけるでしょ、これは。
で、岡崎の論旨は、とりあえずこういう1,2への措置として読めることは事実だ。
さて、ここからが問題なのだが・・・・・
さて、このようなあり方を「防衛」と古谷は語るが、
これは先ほどの「罠」と同じ・・・いや、同じじゃないな、もっとやばいか・・・
古谷らしいかなりまずい形容だと思う。
松浦の発言らしいあたりに戻すと、これは
作品 〜 経験 〜 言葉 〜 制作 という連鎖を
納得できる関係としてどのように構想できるかってことじゃないかな。
「敵」と言ってるのは納得できないあり方のタイプのことだよね。
古谷は「敵」という言葉から「防衛」という言葉を手繰りだし、
さらにはおそらく「鎧」にちかいイメージをおこない、外的/内的=鎧/本体
の二分法を持ち込んでる気配があるが、その発想の展開の仕方がすでにまずいと思う。
第一、「こうやって作品を作れば受け手の反応をコントロールできる、戦略」みたいな話じゃないでしょこれ。
作品と言語/経験の関係性をどう考えるかってことなんじゃないの。
ということは、同時に、作品の経験とはどのようにありえて、どういう作品を作るかっていう
作家としての基本的な模索の話。それが同時に
美術史に関する思考とも交差するわけだし、まあ当然といえば当然のことだよね。
で、岡崎は筆触なり交換可能性なり、スケールを超えて照応関係が成立したり、
変形作用をどう展開させるか、とか、素材感に頼らずより展開するか、とかを選んだ。
>>234 >>236-237 で言ったように俺は、ディプティクとZERO THUMBNAILは対立していないととらえている。
よって、前者を防衛的身振り、後者を素朴な本体、というのは納得しない。
これは古谷の好みで分けてるだけだと思う。古谷には後者が「自然」に感じるってだけでしょう・・・
いいかげんに寝なくてはならないので
>>205 の
>「反感解除戦術」の問題にうまく接続できないか
に戻ってとりあえずまとめると、
北野本をめぐって言ったのは、
【文章を人に提起するとき】に、広範に読ませ、わがことのように理解してほしい、
あるいはそうすることによって間口を広げたい、と思うとき、
これこれ(
>>261 )という語り方があるんじゃないかな、って話。
岡崎の足取りと、作品 〜 経験 〜 言葉 〜 制作 という連鎖云々で言うと、
>「還元的ではないが構築としてつねにすでにある」「それらは経験と読解としてある」とか、両義的なエレメント
ってのは北野のジレンマを引き起こしてるもの、
理論と経験の間にあるものに通底してるものだろうと思う。
まあ、矛盾はしてない。
>>261 で言ったのは文章などを人に見せるときの戦術ね。
古谷による松浦の発言要旨は、文章発表の戦術というよりは、
基本的な構想のことじゃないかと。
で、岡崎は媒質(絵画や彫刻)をメッセージのための透明な器みたいなものにはしてないよね。
ここで、彼が図像を用いるときの二極性(漫画になるか、図像使わないか、に振れる)
をどう問うかになるんだろうけど・・・
俺はディプティク/ZERO THUMBNAIL間よりも、こっちの方が気になる。
ここまで丁寧に整理してくれるとは思わなかった。ありがとう。
図像をめぐる岡崎の二極性にこだわってしまうのも、おそらく俺の体質なんだろうけどな。 バザン的な写真の存在論の立場――記録であるがゆえに変形不可能性を湛える対象の実在性みたいな話 ――と、エイゼンシュテインらを嚆矢とする編集・合成を可能とする立場を、 北野はそれぞれリアリズム/フォルマリズムとして語ってるんだけど、 ここは北野自身留保を置いて悩んでるように、容易に切れない。 フォルマリスティックな展開を可能にするのが実在への直観である、みたいな考察も可能になるし、 かなり絡み合ってるんだろう。 で、なんで岡崎の図像使用/図像不使用の問題にこだわるかっていうと、 この「対象」性への対応としてある意味で真逆だとして、 ある意味で(同様にコントロールされているという意味で)同じだとして、見えるからなんだな。 ここは意外にゴダールのモンタージュ論とも交差するんだけど、 彼はフォルマリスティックな、つまり断片と断片の突合せというアプローチを、 リアリズムゆえに発想している。そして、抽象を (たぶん、ロッセリーニの美術観からの影響だろうが)作品内で挿入することがない。 描くこと/撮ること/、画像or画布として提示すること/映像として提示すること において、リアリズムの基盤はどういうプロセスにあるんだろう、って思っちゃうわけだ。 だから、前スレでリアリティについて古谷の一貫した線らしき関心があるのを見たときは、 結構古谷を見直したな。この問題は面白くなると思う。
第5段落(「●話のなかでひとつ〜」)〜第6段落は別の意味で引っかかるな・・・・ まず、松浦の発言が本当にそういうものなのか気になるのだが (古谷は無意識に自分の好みに沿った箇所で再構成する癖があるし)、 色彩の存在感、力は示差的的なパラディグムの媒介をあまり受けない、と古谷は言う。 俺は松浦のパラディグマティックな論をまとめて読んだ記憶がないので、 とりあえず古谷理解による松浦ということにするが、 ここまでなら俺も古谷の立場には同意できる。ただし、 >今、見えているその色の支配力が極めて強い。 ここの取り扱い方で古谷の発想とはまったく違う。 いわば、「今」「見えている」その色、という同定が最初から困難な錯時性のなかにあると思う。 作品外の色彩をめぐるパラディグマティックな関係ではなく、 作品内の諸色彩のパラディグマティックな関係や、 一つの筆触のなかにすらある色彩/量感/形態の多元的絡み合いがつねに作動している。 >目を外したとたんに印象は曖昧になり、 と古谷は言うが、別の意味で、見ながらして「曖昧」なはずだ。 むしろ目を外したときに到来する曖昧さによって、事後的に、 「見ていたときは曖昧ではなかった」と偽装効果が生じるだけじゃないか。 その後の、形態に対して色彩がより本源的、みたいな序列も納得できない。 要するに離散的/継起的を当てはめて、後者を優位に置く発想なんだろうが、 こんなことはそうそう容易に言えることではないと思う。 そもそも色彩と形態は簡単に分けられる側面なのだろうか? 形態が形態として見えてくる過程に色彩が不可欠だったり、 色彩が色彩として見えてくる過程に形態が不可欠だったり、もっと厄介な同時共存性があるんじゃないかな。
で、この厄介さは、言語においても出てくるので、 上記厄介さがあるから言語のアナロジーは不適切、などとは言えない。 古谷の言ってるのは「作品外の色彩をめぐるパラディグマティックな関係」からだと間違うのでは、 という疑義と、それを音声中心主義で「書き言葉/音声」の対立に仕立て上げ、 音声なら言語のアナロジーと関係ない、と無理なつなげ方をしている。 >どう関係づけることが出来るのか >(...)(あるいは、出来ないのか)。 >(...)どのように混じり合うのだろうか。 こそが、言葉と接してても出てきますけどね、俺は。 いきなりリズムにかき乱されて内容読めなくなったり、原語を手繰り始めたり、 構文上のつながり無視していきなり関係付けが見えてきたり。 あるいは見えなくなったり、言葉の意味が四散して混乱したり。 古谷には言葉がそういうものにならないんだね・・・ としか言いようがないな。
>>200 ,240-241
批評界隈を実体化しすぎてないか?
古谷が実体化している対立を受け入れすぎているような気がする
批評=足を引っ張るみたいな蔑称になってる
批評=別称という誤解との接触は避けられないのか
たぶんそういう人が古谷のファンになる 風の旅人さんとか
>>200 ,238,240-241と
>>205 ,251は別の人だったのかな。
明らかに口調が違って別っぽかったが詮索するのもどうかな、と思い、
どっちだろうと対応できるように、それぞれきっちり相手にしたんだけど。
>>249 での
>
>>240 の大前提は「青山は批評家ではない」および
>「批評家ではない人の言葉は別の対応法が要求される」だろう。
>で、前者が自明ではない、と俺は言ってる。
でとりあえず書かなかった後者についての意見は、結局
>>264 で書いたようなもので、
いわば、後者の立場をとらない、としている。
>>272 古谷の拙速な対立作成を何度かにわたって言及したけど、
古谷のファンはしばしば古谷よりも拙速で慎重さのない思考に嵌ってるように思う。
古谷でもそこまで酷くないのに…と感じてしまうな。
彼の文章が、読者の思考の対立をより拙速なものへと、後押しする作用があるのだとすると、
(
>>238 で言うような「批評/文体」だとか。古谷はここまで露骨に言ってないのだし)
それこそ古谷の「文体」には問題が多々あり、と言わざるをえない。
>>275 風の旅人編集長がブログで浅田とすれ違ったとき&その回顧でも、どうかという感じのことをもらしてたな。
ttp://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20051216 ttp://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20051222 ttp://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20051223 >「言葉」だけの論争というのは、実質がないという気がしたのです。
>浅田さんとのやり取りは、同じ場で対話を行う意思を持った二人であるのもかかわらず、
>「言葉」と「言葉」がぶつかるのではなく、別々の線路の上で話しが展開していきます。
>普通、こういうのは、噛み合わないというのでしょうが、私は、ここまで違うのに、
>なにゆえにこの場で接点が生じているのだという不可思議な思いを持ちながら
>(だから、愉快犯にやられたという感覚にもなってしまうのですが)、妙な手応えもありました。
古谷がスレについて「フレームが違う」と言い出したときの言い回しとそっくりで(08/12/01エントリー)、
>「オマエには読解力がないから、オレの書いていることのニュアンスがわからないのだ、
>オレとオマエは頭の出来が違うのだ」みたいな表現で恫喝され、
この箇所は、古谷の08/11/30のキレ方と似ている。
被害者意識で対立を作り出し、相手と自分を割り振る発想がそっくり。
所詮似たもの同士なんだろうな。
古谷は自分の感覚からものを語っていて、それは素晴らしいんだが、柔軟性がなさすぎ
たしかにいいところはあるんだよね 好感がないわけではないし だからこそ、硬直した対立を持ち出すときに アチャーってなっちゃうな
自分が変われないと決めつけすぎている 実際には刻々と変化しているわけで、「俺はこういう人間」という言葉に囚われていると思う
282 :
205 :2009/03/20(金) 15:28:34
匿名掲示板でこういう整理するのはアレかもしれないけど、
>>200 ,238,240-241,258と
>>205 ,243,245,248,251,253,256,259.260,267は別。
いや、錯綜させて申し訳ない。
すまんw レス特定まがいのことを自らさせてしまって。
>>259 後半で別人だと名言してるようなものだな、と
>>276 書いた後に気づいた。
作品とその記述、議論という問題をめぐってしばしば自明のものとされがちな諸前提
(経験/理論とか、文体/批評だとか、個人的経験/論理だとか…)
のもとで不毛なことになりがちであり、その構図が「顕在化」(
>>259 での言葉)したのでは、という話だったね。
両義的で微妙な問題としてあるのであって、これを単純な対立にしちゃいけない、
というのが(個々のケースに対する戦術はひとまず措いて)まず重要なんじゃないかな。
一番大事といえば大事だが、いちいちテンプレのように明言することでもないだろう、と思っていたのだが…
別に俺はこのスレで追体験惹起的な語りは使ってないけど、
あれはあれで語る言葉や文字数に大幅な制約を加えるものだし、かえって身動きが取れなくなることもある。
また、単純に書き出すコスト(=手間)が大きくなるからな。
ここでスレ民を相手に反感解除策をとる必要はないだろう、
ものを読み作品を考えてきてるならわかってるでしょ、ってことでその手法は取ってないわけだ。
そういえば、前スレで黒瀬・東対談について触れたとき、
自己言及って言葉の使い方にやけにバイアスがかかってて、納得できないって言ったけど(725)。
>>266 末尾→
>>268 の吟味の推移や
>>252 で言ったような、文体運用の吟味や、具体的な検討でもって対置する発想が、
いわば自己言及なのであって、たとえば、
批評をする→文体の選択を悩む
作品を作る→作品がつねに関わる媒質をどうするのか悩む
これらの過程がなくなることはないし、それについて考えるからこそ、
新たにどのような立て方をするかと試行錯誤もできる。
だから、自己言及=閉塞 ってのは、リヴェット日記の時の
遊戯=あらかじめ全体が措定されているなかでのお遊び
と同様、実はろくにものを考えていない意味だと思うね。
東らが何を懸念しているかは察しがつく。
映画でいえば、70-80年代に流行しまくった「映画引用」の潮流などだろう。
「目配せ」みたいなレベルで、引用とはそもそも何か、どのような掘り下げ方があるか、
と問われることなく通用してしまった時期があった。
(オタク作品の「これは○○の引用だね」みたいな語りへとその後合流したように思うが。)
そして、東も含めて、実のところこの問題を放置し、無自覚なんだろうと思う。
だから、ゴダールとストローブが正しい/正しくない翻案(引用・上演)、などと対立にされてしまったりする。
結局、ウチとソトのイメージ対立にそって「自己言及」を理解した連中が多すぎた。
ウチのなかに閉じこもって閉塞してるってわけだ。
そもそもそのような内外の境界を揺らがせる作用から考えることだってできたはずだったのに。
青山の「路地へ」の甘さもほとんどこの種の問題に由来してて、
恐るべきことに青山界隈の批評家が皆そろって、こうした論点を発想できていない。
蓮実的シネフィルの最大の弱点の一つだろうな。
カメラを向ければ世界の豊かさが現れるわけですね
古谷のイーストウッド評がどういうものになるか興味あるんだぜ
286はたまに現れる一行レスくんだろ 答えは返ってこないぜ
イーストウッドって、蓮見さんも大好きだったよね。
松浦さんと丹生谷さんも
オマエらどう考えても 時間の無駄 何この異常な長レスの嵐 こういう時間、現実のほうでどんだけ有効活用できるか マジで考え時だぞ。これ忠告な。
暇つぶしだから問題なし
スレでもって一つのブログを数人で運営しながらたまにおしゃべり、たまに意見交換、 たまに議論っぽいやりとりをしてる、ぐらいに考えれば、こんなもんじゃないかと 古谷がそんだけ愛されてるってことにしておこう
295 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/21(土) 22:30:11
岡崎先生から古谷へなんかコメントすればいいのにな 俺のブリーフを洗濯してくれとか
岡崎はトランクスで古谷がブリーフというイメージ
古谷って、ネットアイドルみたいだな。
298 :
295 :2009/03/21(土) 22:45:47
>>296 自演だとか言う人がいるから三時間以上あけてくれ
やだよ 認定厨とかどうでもいい
300 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/21(土) 23:49:19
300☆
チンポム批判も栗原じゃな……
批判してないとおもわれ
304 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/22(日) 10:26:19
思い思われ。
305 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/22(日) 12:59:14
そういう雑誌って執筆者が読むんだろ
みんなのオススメのオナホを教えて下さい
チンポムかな
うまいなw
309 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/22(日) 15:27:21
/iヽ /'i\ / ヽヽ,---,// ヽ i /、,, 、,,\ ) ヽ/ (●) (●) ヽ / /ヽ__ノ⌒>、ノ⌒'\ |\( ( \___/i二i >> | \ ヽ ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/ ヽ i i i;;;;;;;;;;;ヽ ヽ__ノー\ ヽ_i二i_)_ /~/~i::::::::::::::ヽ___/_ノ i i /::::::::::::::::::::::::::ノ ヽ__,⌒)::::::::::::::::/ ⌒ ー----'ヽ ヽ ヽ ,へ> > i '--、 ヽ_⌒)
ドラえもん黒歴史のガチャ子か
変ドラか しばし閲覧したな
ェェ;;;;;;;ェェ
>>271 >しかし、ストイキツァ氏が注目するのは、カラッチらとの対話ではなく、
>ティツィアーノの《殉教者聖ペテロの死》(1526-1530年、焼失)をソースとした可能性である。
>カラヴァッジョはティツィアーノの空間を圧縮する。天使からマタイに、
>殉教の褒賞である〈棕櫚〉がほとんど手渡されようとしている緊張こそをカラヴァッジョは表現している。
>ここでの表象のパラドクスは、死による消失の瞬間にのみ棕櫚の授与が起こるということである。
>ストイキツァ氏はここに、バロック的二重性への譲歩ではなく、
>現実のさまざまなレベルを圧縮する最初の経験を読み取るのである。
この「圧縮」というのは、ダニエル・アラスも使ってたけれど、
何か参照すべき元ネタのようなものがあるの?
特にテクニカルタームってわけでもない空間分析では?
「ニコラ・ド・スタールはセザンヌの数平方センチメートルから生まれた」と同じロジックという理解でおk?
それとは全然違うじゃん
カラヴァッジョはティッツアーノを圧縮する セザンヌはニコラ・ド・スタールを圧縮する
報告者の荒川徹の用語法ではなかろうか
>近接絵画史を研究していると、ユディットはサロメであると考えざるを得ないのです。 >多くのタブローが、当の人物はユディットでもありサロメでもあるという事実の上で機能しています。 >したがってこの問題は、タブローのなかでこれらの人物が「圧縮」condensationされている理由を理解することなのです。 ダニエル・アラン「モナリザの秘密」(吉田典子訳)ではこういう感じ ストイキツァの場合とは文脈が異なるけれど、美術史家ふたりが使ってるから気になった
condensation ってふつうは「凝縮」と訳すだろ
アラスって読んだことなかったな 気がつけば少しずつ訳でてるんだね 今度買ってみよう
ふと『GS』のバックナンバー数冊を安く手に入れてしまって読んでるんだが、 古谷ってGS言及あったかな、と思ってブログ検索かけたら 割とたくさんA-Thingsでの個展レヴューが出てきた。 古谷はA-Thingsなら結構足を運んでるみたいだね。 GSにはvol.5にファル・フォスターやクレーリーが訳されててちょっとびっくりした。
訂正 ハル・フォスター クレーリーって80年代中盤にはZONEの編集顧問やってたとか、紹介されてて、へえ、と思った
326 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/23(月) 19:03:15
ミ・д・,,ミ
>>317 カラヴァッジョはティッツアーノを圧縮する
セザンヌはニコラ・ド・スタールを圧縮する
西洋美術史の人たち100人の前で大声でこう言えばいい、フルボッコにされるから
映画(イーストウッド評)も文学(まとまった作家論)も、今の古谷にとっては「お仕事」でしかない。 今の古谷の感情を動かすのは、とにかくダンス(神村恵)。
329 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/23(月) 22:45:22
>>1 英米美術雑誌『October』『Grey Room』やその国内導入(林)、
通りすがりで悪いんだが、林は別にOctoberとかGrey Room導入してない訳だが。
特にGrey Room ソースは?
正確に言えば90年代クラウス、フォスター「視覚論」辺りな訳で。今の新しい論客とか作家(の寄稿対象)としてはむしろスルーしてるんでは
ブクロー辺りも追ってないでしょ。
このスレのレス数が増えてるのを見るたびにうんざりする 古谷なんてどうでもいいし、ここの議論も全然おもしろくない
>>330 俺も去年の夏ぐらいから〜古谷スレで暇つぶしで遊んできたが、飽きたのでもう来ない
真面目な人達のジャマはしないよ
>>329 Octoberの後続としてのGrey Roomと、クラウスを紹介したこともある林を、テンプレ用に便宜的に整理したって程度だろ。
目くじら立てるほどのことじゃなくないか。
>>327 100人の西洋美術史家の前で大声で言うつもりは毛頭ないw
でも漠然とした理解で書き込んだのは認める
こちらに間違いがあれば指摘して訂正してもらえると嬉しい
・・・うわ、くぁwせdrftgyふじこlp) 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥というのは本当ですなw ご指摘に感謝するとともに謹んでお詫びします
>>322 たしかに、シェママ編の辞典読むと、仏英ともにcondensationで、圧縮の訳語が定訳だね。
表象の構成要素を、無意識が凝縮する機制のこと。
>>338 で、ストイキッツァは単に空間が短縮している話だろう
なるほど、
>>319 のアラスの文面はフロイト経由、
ストイキッツァの話(
>>313 )は、カラヴァッジョはティッツアーノの空間構成を
緊張状態において過負荷をかけてできている、という論立てなわけだね。
アルノー・デプレシャン スルー?
342 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/25(水) 01:28:48
馬鹿しかいない、このスレ
A Christmas Taleは評判いいよね
あ、こんなの出たらしいよ ユルギス・バルトルシャイティス『異形のロマネスク――石に刻まれた中世の奇想』馬杉宗夫訳、講談社、09年3月、1800円 西野嘉章『西洋美術書誌考』東京大学出版会、09年1月、8800円 『ゲーテ形態学論集 植物篇』木村直司:編訳、ちくま学芸文庫、09年3月
月曜社からのコピペですか
有益情報ならコピペ歓迎!
数日間ほぼ3人で回してる 急に人が減って過疎スレ化してるのは何で?
WBCの影響w
古谷への興味の減退 日記の内容にも触れないことから明らか
352 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/25(水) 23:58:18
>>334 内海聖史に絵画を語らせてダメでしょう。
353 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/26(木) 00:01:30
千葉正也ってのもよくわからない。 皆、目先の面白さに走りすぎているような。 退屈さに耐えないと見えてこないものもあると思うけど、
354 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/26(木) 00:35:37
<皆、目先の面白さに走りすぎているような。 古谷以外で名前が挙がるのは殆どそうだろw
>ぼくは本を読むのがおそろしく遅いのだった。しばらくは気が抜けない。 取り組むべきことがとりあえず見つかってるからいいじゃん 取り組むべきことが見つからないのは金がないより辛いでろ
<皆、目先の面白さに走りすぎているような。 絵画を語るシンポジウムの場にそういう作家がいても当然いいけど、 それに対しての対抗馬がいないと有益な議論はできなさそう。
ここが誰のスレだと思っているんですか そこで古谷さんですよ
古谷さん参加しても会田誠座談会の二の舞じゃ。。。 まあ今回は司会土屋がいるからなんとかなるかもしれんが、
古谷さんを引き立てる会にすればしゃべってくれるよ
石岡ブログ更新まだぁ?
ここは古谷さんのスレですよ 古谷さんの日記の更新です
はい。 古谷の『愛』について。 >>愛とは他者のイメージというだけではなく、他者のイメージと他者の言葉だったのだ。
古谷以外のネタもまあありでしょ
「革命の諸要素」の所在を尋ねるレスが樫村スレにあったのを思い出したw
樫村なら妻子。保坂なら猫w 古谷に語るべき対象はあるのか?
ゴダールの話でしょう 古谷さんじゃない
ハァ?
散歩が対象
散歩love
恵タン
たしかに恵タンだ エロスに目覚めた利裕 >出来ればクロッキー帳をもっていって、ダンスの間ずっとクロッキーさせて欲しいと、すごく思った。 >この動きを、ただ見るのではなく、描くという行為を通じて把握したい。いや、把握という言い方は何かを支配する感じなので良くなくて、 >そこで起こっていることの流れというか波動を、線を引くという行為を通じてこちら側にも引き込ませて欲しい、という感じだろうか。
恵タンからイメージはもらえても、言葉はもらえてないのだろう 狂おしいな
言葉は罠だから今が幸せ
絵画を語るシンポだってよw
福居の練習場って売名目的すぎてキモスギ 写真も対して良くないクセに
現場研っておもろいの?
情報vs猫か……
裸で札持つならマネークリップか、せめて輪ゴムで縛っとけよ 金ないくせになんでこういうところが…
>本棚から久々に「GS」(ゴダール・スペシャル)を取り出してパラパラみていたら、樫村晴香の文章(「革命の諸要素」)が載っていて、
俺の
>>324 や樫村スレのレス読んだのか…。
「『革命の諸要素』」はGS版じゃないとどこが挿入文章なのかわかんないよな。
初出媒体もまるで明記してないし、あのアップの仕方はちょっと酷い。
そういえば、この前昔の松浦寿夫の文章をちら見してふと思ったんだけど、 先日のスレでは「古谷は松浦の論考や翻訳の作ったものを無視しているのでは」という意見があったが、 俺は古谷を知ったばかりの頃、露骨に松浦影響の濃い人だと思ったんだ。 『モデルニテ3x3』でモデルニテ云々の物言いとかが、古谷のモダニズム云々につながってるのかと思って。 最近は初期偽日記ほどモダニズムモダニズム言わなくなったけどね。 これって藤枝からの影響とみなした方が整合するの?
藤枝の影響は、描いている絵に露骨に出ている ただの情報じゃなくて身についてるw
せめて絵の方も松浦になってればまだしもよかったのになあ
松浦は理屈としてしか受け付けなかったんじゃないの
まあ、蓮實論法が身につきながらも、言説としては 樫村好みになってるような屈折みたいなものなのかな。 久しぶりに70年代の柄谷対談集などを読んでいて、蓮實との対談を見て、 ああいかにも蓮實が言いそうなことだな、うへぇ、と思ったものだが(デリダよりバタイユを重視するとか・・)、 あれだけ蓮實に入れあげながらも樫村に魅かれるってのが古谷なんだろう。 もはやドゥルーズ越しでつながってるとすら思えない不思議な関心だし。 強いて言えば、大半のシネフィルよりは興味深いわけだが。 「『革命の諸要素』」は、樫村論法に馴染めないのもあって、俺にはちょっとピンと来なかった。 ハイデガー-ラカンなのかね、樫村は。
普通にアルチュセールだろう
>>379 俺もあれは、ちょっとイラッとしたw
なんか心配する気がなくなるというか
>>387 いつか小金を落とすネタが来るんじゃないかな
>>385 >あれだけ蓮實に入れあげながらも
いつごろ?古谷はあんまり蓮實っぽくないと思う
その頃の方が頭良かったんじゃないか?
>>391 知的緊張はこの頃の方がマシだったという気はする
緊張の無さが金も落とさせる
身辺雑記の描写性/先行言説への自覚的参照と異議申し立て/作品と思考 などのバランスとしてはこの頃の方が好きだったな。 ただ、いまはいまで別のアプローチにもこだわってるようだから、まあいいか、とは思うが。 しかしずいぶんどうでもいい日記文のサイトになったもんだ。
色々な人を批判していたから緊張があったのか
映画論では黒沢清の影響の方が強いと思う
しっかりアニメを見ないで、ウテナ、エヴァですませようとしたことの呪い。
「80-90年代の批評言説とそれを強いたものを再考した上で、僕は何を考えるか」 みたいな意識はある程度あったんだろうと思う。 いまはそういう関心がなくなって、言説との関係が非常にネガティブかつ性急な図式の元での遮断になりやすくなっている。 ま、理論を「貧しき抽象である。言葉との関係を生きることが真に言語的である」は 70年代蓮実の主張だから、いまにいたるまで蓮実を悪しきかたちで引きずっているともいえるわけだが。
いつもの君か しっかり見てるのは誰よ
>>399 古谷には言葉とのなまなましい関係という問題がそもそもない
>>397 というか、映画の時空間や人の動作の見方を黒沢清映画から学んだという感じ。
ただし、観察力とは別に、図式の使い方や概念の基本前提は蓮実準拠になっていることがしばしば。
>>402 そう?401と合わせて考えると、物語批判とかぜんぜんないでしょ
>>401 そうなんだよな。蓮實が志賀直哉はすごい、言語と動物的に戯れている、
と言うようなあの視角は古谷にはなぜか無い。
あと、蓮實は作者の性格・人格と、作品を厳格に分けて、後者を
「言葉(記号)が不意に顔をみせるただなかに向かい、それをいかに語るか・・」
とかいうんだけど、古谷にはこういうところが無いよね。
割とさらっと指差したりする。
小説観・エッセイ観は、"趣味的には"蓮實人脈と意外とかぶるのに(松浦、金井、丹生谷)、
読解の基本前提は蓮実とは全然違ってて、どっちかというと丹生谷影響が濃い感じがする。
>>403 たしかに物語批判は全然無いね。
批評言説としての蓮実をコンパクトにまとめると、その大部分が古谷とあんまり関係なくなるかもしれない。
図式といったのは、作品の読み解きが主目的に転じ、
他方のこれこれは作品外のイデオロギーであり、虚構であり、虚構を支える「制度」の機能である、
といった蓮実の身振りなどのことで、甘くなったかたちで古谷に伝播してると思う。
感性教育としての蓮実みたいな印象を受けるんだよね、古谷見てると。
フリクリ絶賛したところに古谷の柔らかなハードコアがあると思われ
電脳コイルじゃないの?
>『フリクリ』は、何度観てもその度に凄いと感じる奇跡的な傑作だと思う。 >この作品は、アニメ好きの人たちには有名なのだと思うけど、 >一般的には、例えば、宮崎駿や大友克洋や押井守、 >あるいは『エヴァンゲリオン』程には観られて(知られて)はいないと思うのだが、 >それは何とももったいない話だ。 >ぼくは『エヴァンゲリオン』よりも(あるいは『オネアミスの翼』よりも)、 >『フリクリ』の方が圧倒的に凄いと思うのだけど。 この評価は尋常じゃないような
>理論を「貧しき抽象である。言葉との関係を生きることが真に言語的である」 これどういう意味よ?誰か頭いいやつ説明してくれ
411 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/27(金) 21:38:43
412 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/27(金) 21:46:20
>>410 分からないのは
経験不足
経験は教えられない
413 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/27(金) 21:47:11
経験の条件なら 教えられるけど
>>410 「これどういう意味よ?」と聞くとき、別に
理論で発言してないけど、そういう「これどういう意味よ?」のほうが
理論よりガチで言語だよね、ってことじゃない?
石岡はマニアよのう
フリクリを絶賛しても、アニメについてゼンゼン知らないし、時間と暇はいくらでもあるのに知ろうという努力もしてないみたいだし。 それで自分の狭い範囲でそれらしく断言しても端から見れば文芸評論的スノッブな放言。 古谷さんは、作品を作る上で技術に興味ない人。 自分の感覚とジャンルの文脈や歴史だけで押し切ろうとする悪しき意味で文芸評論的。 その作品がいかに作られたかに関心がなく、いかにその作品を語るかに興味がいっている。 有り余る時間と比較して興味の幅は、驚くほど狭く、まったく趣味人的でもない。 分野としては、サイエンスもスキルもビジネスも能力値はほとんどゼロ。アートの一部にリソースを注ぎ込む。 強いていえば、「街のラーメン屋の主人」的な孤独な探求者だが、それにしては同世代の文芸評論を読みすぎている。色目が仇になっている。 文芸評論によってエネルギーを供給されているという点で、本質は文人だと思う。 あとは、自分の身体感覚の探求という意味では、オタク的。 前者と後者は水と油のような関係でこれまで緊張が保たれてきたが、今後の展開次第ではどちらかに偏ると思う。 資質的には、オタクのほうだろうが、今後文芸評論を書くというなら、前者に舵を切る可能性もある。 僕的には、オタク路線でいったほうが面白いと思う。ひとまず樫村読むのやめて深夜アニメを視聴することから始めていけばかなり面白いところまで行くと思う。
サイエンスでは、知覚心理学と脳科学をやってみるといいかも。あと社会科学全般も。 スキルとしては、商業イラストを描けるようになれば経済的にいいかも。あと語学。 アートとしては、漫画を作ると面白いかも。自主映画も撮ってみたら? 兎に角大きなお世話だけど、今の文芸評論路線だともう得るものがない。 文芸評論って要は、趣味と視点、基準、歴史観の把握だから、自分の趣味など理想を把握したら収穫逓減期に入る。それをビジネスにするなら別だけど。 このジャンルで読者として美味しいところはすでに食べている。あとはコスト・リターン比が小さくなってゆく。樫村のドゥルーズ理解に対する古谷的批判とかやればできるだろうけど、労力の割には面白くない仕事だし。 批評界の趨勢は、出版と大学を中心とした文芸からネットとオタクを相手とした路線へと舵が切られつつある。純文学とその批評を中心とした文芸は今後立ち行かなくなる。社会の気 として「言葉による真摯な実践と理解」は相手にされないし、やる気分の人もいなくなる。もっと快楽に素直に開きなった実践と批評、あるいは非モテなどドメスティックな階級闘争やポ ショントークのどちらかが主流になっていくと思われる。実際、中原昌也などアンチオタクの人ですら真面目なインテリ路線には興味がなくなっている。東浩紀のような頭のいい批評家ももうこれまでの韜晦な文芸路線は捨てているのが現状。
おまえさんが何度目かの芸術終焉論にはまってるだけ
芸術がまだあると思い込む不思議。
いつものブンゲー君じゃないの?
脳科学君はアニメにこだわりすぎ
アニメにこだわってはいない。 所詮娯楽だし。
すべてがエンタメになるってのは粗雑すぎる いかにも日本人的な発想だ
粗雑で何が悪いか。
問い「批評とは何でしょうか?食えるのですか?」 答え「食えません。批評とは何か。難しい問いですが、簡単にいうと、サイエンスやアートについてのステートメントの集合のことです」 問い「その心は?」 答え「愛です、とあずまんがいってます」
日本は文化的なものを軽視する国だからなあ フランスではレビストロース賞ができるのに
文化を軽視する糞な国でしょ オタクと脳科学で突っ走ろうとしている
古谷は、「日本」批判をきちんとすべき 日本という場所が強いる悪循環をアートの問題として分析、記述する仕事は 古谷の視点でこそ可能になると思う スガとかやってるけど、古谷のパンチ力が欲しい 自然(ジネン)をいかに脱構築し、自由へと向かうか。 今でこそ問われている主題だ
おまいら より複雑なざわざわ(ヘレン・フランケンサーラー)について語ってください
前に古谷の文章が貼られてたから、それ持ってくるといいよ
とにかく日本的自然をいかに批判するか、という姿勢からはじめないと。 日本という悪い場所を脱構築すること以外に批評の再生はない。
>>431 それはいいんだが、脳科学とオタクしかないっていう発想はもっと糞
じゃ再録 線と色彩、画布へ滲み込む絵具/ヘレン・フランケンサーラーをめぐって 二〇〇五年の一〇月に、府中市美術館の「ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」という展覧会で「アーデン」(一九六一年)という作品を観て以来、ずっとフランケンサーラーのことが気になっている。 とにかく、この「アーデン」という作品の前に立つと、からだじゅうの様々な感覚が、ざわざわと波だちはじめるのだった。 ぼくはそれを「目」によって見ているのだが、目から入った感覚が、体中の様々な感覚と直接結びついて、波立ち、動き出す。 目が見ているのは、キャンバスに滲み込む絵の具のつくり出す、色彩の多様なニュアンス(と、その揺れ)であり、色彩そのものが発するリズムや響きであり、絵具の流れがかたちづくる形態や「動き」の感覚であり、 そして物質としての絵具が物質としてのキャンバスにしみ込んでゆく感触の様々なニュアンスであるのだが、それら全てが同時に、あるいは、次々と切り替わりつつ断続的に感覚にもたらされることで、からだの芯を掴まれ、ぐらぐらと揺すられるような感じになる。 (しかし図版で観る限り、彼女の良い仕事はほとんど五〇年代から六〇年代始めに限られている。ここでフランケンサーラーの作品と言うとき、それは彼女のその時期の作品を意味する。)
ヘレン・フランケンサーラーは、下地をつくっていない生の綿布に絵具を滲み混ませて描く技法を発明した、抽象表現主義の代表的な女性画家で、 この技法は、抽象表現主義の「感性」を代表すると言ってもいいものだと言える。 実際、五三年に彼女のアトリエを訪れたモーリス・ルイスとケネス・ノーランドは、そこでほとんど啓示といってよいような衝撃を受けたと語っている。 しかしフランケンサーラーは、ポロックやニューマン、ロスコのように、一目でそれと分かる確固としたスタイルを確立したわけではないし、 彼女から啓示を受け、ほとんど同様の手法を使って作品をつくったモーリス・ルイスほどは、形式的に厳密ではない。 紋切り型を恐れずにあえて繰り返すが、彼女は「感性」として突出しているのだ。ルイスは、「フランケンサーラーは、ポロックと私にとっての可能性の懸橋であった」と語っている。 当時、ポロックの仕事は圧倒的に突出していたが、その仕事の進み行きはあまりにも独自のものであり、つまりポロック自身の特徴と密接に結びつくものだった。 ポロックは明らかに、色彩の感覚において劣っていて、その自らの欠点を克服する彼ならではの道筋のなかで、あの独自の作品を生み出していった。 それは、絵画を理解する者が観れば誰にでも、他に例をみないほどにユニークで、かつ間違いなく強い力をもった作品だと分かるもので、当時の先鋭的な画家なら誰でも、自身の感覚を揺さぶられ、何かしらの影響を受けざるを得ないようなものだった。 しかし同時に、それはあまりにもポロック自身と結びついたものでもあり、圧倒的な貧しさとともにあるものでもあった。そこには色彩がほとんど存在しないのだから。
(中略) モーリス・ルイスが、絵具を画布に滲み込ませる時、そこで要請されているのは、画布と絵具という二層が一体となって、画布=絵具となることで、色彩の非物質的なあらわれを実現させることであった。 しかしフランケンサーラーにおいて重要なのはそのことではない。重要なのは、絵具が布に滲み込むという物質的な作用の感触であり、それによって生まれる独自の触感であろう。 それは純粋な色彩(視覚)の作用ではなく、どこまでが触覚的でどこまでが視覚的なものなのか、もはや区別がつかなくなるような不純な色彩の経験であろう。 そして、画家の手(技術)が作品を構築するというより、絵具と画布との物質的な関係に、その作品の重要な部分を任せてしまう、という感覚だと思われる。 フランケンサーラーは、きわめて無防備に、世界の感触へと身を預けてしまうことが出来るのだ。
再び「アーデン」に戻ろう。フランケンサーラーの作品の多くは、それでも造形的な要素が多分にあり、抽象化されているとはいえ、明らかに風景が描かれているという感触がある。 造形的というのはつまり、フレームとの関係によって、ある色彩や形態が配置されている余地が幾分かは残されているということだ。 しかし「アーデン」はそうではない。ここには風景を想起させるような空間は成立していないし、 フレームとの関係で生まれる、造形的なリズム感や視覚的なバランスが考慮されているとも思えない。 実際に画面に筆を入れる前に、手近にある紙に試し描きをしたその痕跡がそのまま巨大化して目の前にあるかのように、 ただ、ずるずるっと引き摺られた、緑やオレンジや焦げ茶色の絵具の塊が、ウンチのような形でそこにあり、その塊のエッジからは、絵具が画布に滲みこんでできたシミがひろがっている。 画面全体がひとつの連続性をもった空間として成立していないから、まず最初に、個々の絵具(色彩)の塊とその染みこみの感触こそが、目にはいってくる。
しかしその絵具の塊が、ずるずるっと引き摺られる時の動きの感じは決して単調ではなく、 一つ一つのウンチの塊は全て異なる種類の動きの感覚を観る者に想起させる(そしてその色彩もまた、それぞれに非常に微妙で多用な異なるニュアンスを含む)。 この、質の異なる動きの感覚が、観る者の身体をざわざわさせるのだ。 そしてその動きの感覚は、フレームとの関係によって配置されているのではないから、 観る者がそこに距離を設定し、パースペクティブを打立てるより先に(つまり、身構えるよりも先に)、じかに、そのざわざわが懐にすっと入り込んでしまうのを感じざるを得ない。 そして、複数の異なる動きの感覚が、無媒介に重ねられていることで、観る者の身体の内でも、複数の感覚が響き合って干渉し合い、より複雑なざわざわが生成される。
神村恵についても同じ事を書きそうだ 相手が「女」ってことで、妙な意識が生まれている
いちおう画家が、今、絵を描く動機だと明言してるんだぜ? ひやかしじゃなく、神村恵は「ざわざわ」だろ
だなw
古谷ファンの女性が行ってやれよ
恵タンじゃないと意味ないのだった
newフルヤン誕生には欠かせないピース それが恵タン
「ちょっと絵描かせてくれない?」って口説き文句としてはアレだな
こうなったら写真日記コラムしかないだろ
踊りたい
踊ろいた
煽るなよw でも正解だな。 ヘタな評論書いてるより、ともかく画家が絵を描きたいのは悪いことじゃない。
画家としては諦めた方がいいころじゃないかな
みんな古谷にどうなってほしいんだい? ん?
映像作家 けっこうマジで
映像作家に2票。
ネオフルヤン
454 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 01:02:38
上田の絵って写真でみるかぎり、 フルヤンが自分に厳しくなったみたいな感じだな。 フルヤンの欲望が上田に転移してしまったということかな、
フルヤンよりはずっと筋がいいでしょう
456 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 02:41:31
フルヤって、 緩さを趣味のよさだと思ってるようなところがあるみたいで痛い。
勉強しなければ枠に縛られないで済む、みたいな発想
実際のところ、画家としての古谷さんの画力…というか実力は、そちらの世界ではどのぐらいに査定されてるんですか? たとえば「中の下」ぐらいとか?
下の上
いや、下の中ぐらいだろw
ごくたまに売れるから下の上にした
フルヤとかナガセとか、 状況のひどさみたいなことを書いてるけど、 だからといって、あの絵のまずさが正当化されるというものではない。
全くの素人がすみません。 大きさにもよると思いますが、古谷さんの絵の相場っていくらぐらいなんでしょうか? 20〜30万ぐらいとか? 安過ぎますか?
藤枝の犠牲者という結論が出ています
>>463 相場よりやや高めにしていると本人が書いているから、その結果それぐらいの値段w
>>463 君はブログのファンか?
もしかして買おうとしてる?ww
投機目的なら止めた方がいいw 上がらないよ?
まあ、あがらないだろう。
しかし、藤枝がフルヤの絵を褒めるなんてことはありえない。
みつを路線しかないな
絵の素人が古谷の文章に惹かれるということはあり得る
すでに、みつをという気がしないでもない。
写真と文章で何冊でも書けるよ
どんなにくだらない作品でも、 文章をいっぱい書いて、 騒ぎをおこせばアートとして認められるって、 デュシャンのやったことだよね。
デュシャンに対する誤解が甚だしい
古谷がこの先生きのこるには
路上で店広げて、客のイメージを赤や黄色でチョチョッと放射線で描いてみせたり、滲ませてみせたり、で、ひと言「ざわざわを信じろ!」とか「フレームに捕らわれるな!」とか入れて1枚900円で売る。
原稿用紙一枚数千円の収入で食ってるから似たようなもんだ
極めて、俳画にちかい絵をかいてるし、 怪しげな文章かいてるし、 なかよきことはうつくしきことなり、
原稿書くのに1ヶ月かけてるから、25枚書いても¥25.000にしかならない 路上アーティストなら一日5人に売れたとして¥4.500 悪くない
>>480 原稿料が千円ってことはないだろw
良くて7〜8万の収入と見た。
でも路上で描いてたら、俺も描いてもらいに行くかもw
月産50枚ぐらいでしょ で、一枚2000から3000円ぐらいの稿料
それで、DVDを借りたり、本をかったり、芝居をみたり、できるの?
「まとまった作家論」は50枚に2ヶ月かかった。 ちなみに原稿料の下限は 『ユリイカ』で千円。 『映画芸術』『文藝』が2千円。
ろくに髪も洗わないようだから風呂なしアパートだな 家賃3-4万円?
そんなにやすいんだ、 でもフルヤンって人気者でしょ? 単行本だって、あっちこっちに置いてあったし、 一般的には、藤枝やサワラギより人気ありそうじゃん。
>>484 新潮とか文學界はもう少しもらえるのでは
>>488 確かに
しかし『文藝』だから50枚書かせてもらえるので、作家でもないのに『新潮』『文學界』で50はない
古谷なら書評で4〜5枚ってとこだろう
「書かせてもらえる」か そんなもんなんだろうな 出版社が欲しいのは売れる新人作家で、評論家じゃない 新人作家に太鼓モチが欲しい程度のことだ
文壇的価値観に乗るかどうかがすべて 古谷はそこに引っかかっただけでもすごい
>>490 だからこそ古谷に作家デビューを促してる編集者が居そう
>>492 言語に不信感が強すぎるから、文章だけだとすぐ枯渇すると思う
みつをというのは必ずしも揶揄ではない
しかし、絵はもうどうにもならないだろう。
そこで映像作家ですよ
機材をかえるか?
安い機材の方がいいと思う
だから、その安い機材をかえるのかと。
今撮影しているデジカメ写真でも映像作家を名乗ることは出来ます
あと、スタッフをあつめられるかな、
もちろん一人で撮影 劇映画じゃなくてドキュメンタリーがいい
古谷の描写には自分以外の人間がいないから、物語を作るのは無理ですよ
性格的にスタッフワークは、いちばん向いてないだろうからな
ちょっとした違和感で怒りが沸いてくるみたいだし、怖いよ
その怒りを私小説にすればすごいかも。 古谷には、ぜひ漫画を描いてほしい。 映画もスタッフワークだし。 あるいは、アニメ制作。 広い意味で絵の追求なら、漫画やアニメを無視できないと思う。 教養の重力から解放されて深夜アニメとエロゲの模写からはじめよう。 セザンヌやマティスの追及も重要だが、それだけでは飽きる。 散歩しているヒマがあれば、画力アップをしよう。 古谷氏の発奮に期待。中年の危機を超えていけ。
>>505 お前さんは脳科学とか言わなければそこそこ面白いんだから気をつけろよな
そもそも、絵がかけない奴にマンガはかけんだろう。 だから、アニメはだめだって、
508 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 18:45:29
原稿書きが適職なんだよ、きっと。
あの映画のことは嫌っているみたいだけど、 ずぼしだったのかな。
小林聡子は人妻だぞ、 気を付けろよ。
懐かしい名前を出すと、古谷には、照れと抑制を知ってる武邑光裕、とでもいうべき資質があるよな。 本人は柄谷の神秘主義もどきのつもりかもしれんが・・
いや、俺も大して武邑読んでないからなんとも言えんけど。。 80年代にちょっと知られたオカルティスト系ライターだよ。 八幡書店主宰者といえばオカルトマニアにはわかるだろうか。 『GS』や『WAVE』なんかにも首突っ込んでた。インターコミュニケーションでも執筆してたんだったかな。 ペヨトル系でよく書いてた、エセ思想系の山師だな…。 山形が『バロウズ本』(pdfでも配布されてる)の終わりごろである程度きちっと叩いてるから、 あれだけ読んで「ああ、なるほど馬鹿か」と納得すればよろし。(なお、俺はXXXじゃないぞ) 浅田も田中との対談で「東京大学が武邑を教授として招くなんて冗談じゃないね、 あんなサイバーオカルティストなんぞを大学に入れる必要は無い。まさに"最悪のポストモダン化"というべき現象だ」 とか言ってたが、実にそのとおりだと思う。 ソーカル騒動は思想的にはつまらないんだけど、 武邑レベルの馬鹿が跋扈していた光景を知ってる年長者には「ああいう騒動ぐらい起きてくれないと困るよな」 って気持ちもあったのかな、とは思ったね。あんまり肩入れする必要も無かろうと思うが。。 ちなみに四方田犬彦による由良公美本を読んでいたら、 70年代由良ゼミのドイツ表現主義関連でゼミを仕切ってたやつだと言及されてて驚いた記憶がある。 あと、さすがに古谷もそこまで馬鹿ではないのだが、託宣を語るような神がかり的なところあるかもしれないな、とふと思い、 武邑にとってのバロウズの構図を、ひっくり返してひねったら古谷にとって樫村に近いのかな、と冗談交じりに思いついた。
いや、そういう情報じゃなくて…
古谷にとってのオカルティズムや神秘がどういう危うさかってこと? それは難しいからなんともいえないw 俺は夢とか鏡像にこだわる古谷は好きだよ。 自分でもよくわかってないフレーズをべらべら使うようなところも無いわけではないが、武邑よりはるかにまともだし。
じゃあオカルト好きじゃんw 武邑は金の稼ぎ方が不透明だから嫌われてるわけで
いや、鏡像だからオカルトだ言い出したら、現象学の自己内部感覚の議論はオカルトにされてしまう。 河本英夫が現象学的な議論を蘇生させて再開してるが、そもそもこの種の問題は身体と技術をやると避けられない。 夢に関しては、カフカ経由で剰余に関心を持つとああなるんじゃないかな。 結局は論立て次第。 柄谷もどきのつもりだろうといったのは、占星術や暦によるメタな先取り的規定を発想する仕方が似てるって意味ね。 まあ、これさえも黒沢清経由で体得した気がするが。
武邑が嫌われるのは、人脈だの稼ぎ方だのじゃなくて、単にどうしようもないことしか言わないからだよ。 自分でもわけわかめなままに未来のビジョンを誇大妄想的に語るだけとか、 半可通むきだしで難解ぶった(その実、単に無内容で論旨もぐだぐだなはったりだらけ)文章しか書けないからだ。
それだと樫村も一緒になるw
521 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 19:46:44
古谷でも文章で金稼げるんだから 古谷にダメだししてるあなたがお手本みせてあげたら?
このスレがその手本だよ!
ダメ出しか、これ? 言ってしまえば、"「オカルティスト古谷」ってのをふと思い浮かべた"ってだけなんだが あと、「稼げるからやれ」ってアホだろ 古谷の数年に及ぶ日記活動の先行投資とかもあるんだし、時間投資の問題がある そしてそもそもモチベーションに「金稼ぐために批評」という発想がまったくわからん あなたが稼ぎになるか有名になるかどうかにしか批評に関心がないのはわかったけど、どうでもいいよ俺は
実際に古谷は金を稼ぐための批評になってるけども
しかし、フルヤの文章って空気のように希薄だとおもう。
オカルトっていっても、この人何も知らないじゃん。 それ以前に正統的な歴史も科学も知らないわけでさ、 オカルトや神秘主義以前のハナシだと思う。 宇宙人とか反重力とかアトランティスとかムー的な素養とは まったく遠いところにいて、判断のための知識もない人だと 思う。 実際は、科学も歴史も知らないけど、「オカルトとは人間の 認識において○○である」とか断言するタイプ。 セザンヌやマティスを理解することで代償は大きいよ。 近代主義というか形式主義というかそういうのってやっぱ、 ある種のゲームであって、囲いの外を見ないことによって 成立するわけでさ。 いざ囲いを取っ払って自己サバイバルという状況では、 数理能力とか社会科学とか漫画画力とかもっと広い範囲のスキルが必要になってくる。 そういう時代において彼ほど反時代的な振る舞いもなくて。 そこが萌えポイントなんでしょう、要するに。 彼の存在こそまさにオカルト。
527 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:13:29
>>523 ヒスりなさんな(笑)
わたしはそこまで告白しろとはいっていない
528 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:15:23
>>525 そこがいいんだろ
なんとなくクリスタルで
囲いの外? もっと具体的に言くださいな。
>>526 お前のモダニズム敵視もいいかげんすぎて意図が分からん
アニメも具体的になんか語ってみればいいのに
531 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:20:17
黒瀬? プキュリラ? ラ? w
>近代主義というか形式主義というかそういうのってやっぱ、 >ある種のゲームであって、 これを、まず立証してみないとね、
533 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:22:33
古谷は結婚とか興味あるのかな
希薄というのは正しいよ。 正確には、文章が体をなしていない。 しかしその反面、微妙な感覚的なニュアンスを捉えているともいえてさ。 日記文学としては評価は高いでござるよ。 将来まとめて出版されてもおかしくない。 前提として、思うに、古谷は文章を書くのに向いてない。 資質からいえば、明らかに身体感覚をベースとして判断をするタイプで、 言語や記号、理論といったものによって生が規定されるような性格では ないでしょう。 理論をあれこれ読むけれど、ただの分類としてしか把握してないと思う。 つまり、幽霊大好きと宇宙人大好きという例のアレに端的に集約されていると思うけど、 結局幽霊=想像界、宇宙人=象徴界、というラカンの置き換えでしかなくて、 理論を分類のツールとしてのみ理解している良き例だろう。 それを検証したり、体系として整合をとったりはしないから。 このような姿勢の自然な延長に、今の彼のレーベンがあるわけでさ。 文章作法ひとつとってもいかに彼が樫村やラカンから遠いかがわかる。
>>532 立証?
思想に立証責任はないよ。
形式主義を理解すれば、それがゲームだと分かる。
ジャンケンの構造と一緒。
536 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:27:54
古谷ー樫村の関係が 気に入らないひとが 張り付いてま酢ね(笑)
いつもの人は、芸術に正統性を認めないという発言だけを繰り返す しかも実際に作品をどう語るのかを示さない アニメや漫画と言うが、その内実もない
マルクスやアルチュセールと対決していた初期樫村は重要だった
「状況において何がいまアクチュアルか」探しをする行為自体、 1930年代ぐらいから世界的に出現していた「大衆=自然」とする論の中に収まるところがあるんだがな。 文学問題だと俗語革命になるし、岡崎で言えば民族固有性の創出の差異化ゲームになる。 当然、フォーマリズムよりもはるかに昔からあるし、 生々しい○○を具体的に語ることで全体性が獲得されるのだ、という構図そのものがずっとあるものだ。 カルスタは60年代までの知識人/大衆の構図だと、具体性が消えるよねってことで、 堅実に向かったかのように見えて実際は単に上記構図に無自覚にはまったんだろう。 つまり、 >数理能力とか社会科学とか漫画画力とかもっと広い範囲のスキルが必要になってくる。 >そういう時代において彼ほど反時代的な振る舞いもなくて。 という要望とお前さんが言う「文学的」云々はまったく同じものだ。
もうちょっと整理して語ってくれ
541 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:40:01
頭いいやつって掃いて捨てるほどいるよな おれ頭わるいし 頭わるいひとコースで 頑張ろうと思います 頭がいい=ファンダメンタル厨 なのだろうけどね アカポスゲットには 放蕩は禁物w
ガイド的に言うと、スガの言文一致をめぐる議論は単に文学史的狩猟じゃなくて、 固有性を亡霊のように追い回す運動として読めるし、 岡崎の国民画をめぐる議論や明治以来の絵画史理解と連動している。 平たく言うと、「1930年代問題」みたいなのがずっとあるんだよねってこと。 スガって割と誤解されてる人で、あんまり読まれてないんだ。 ちなみに岡崎が岸田劉生や高村光太郎を語る議論は、言文一致の議論とほぼ即応している。 古谷はたぶんグリーンバーグ的絵画自律性からその後「現代美術化」して、出来レースになった、 といったやたら身勝手な理解をしているようだが、岡崎の考えでは そもそも20世紀初頭以来の構図だということになり、絵画に逃げればなんとかなるというものではない。
やっぱり、古谷氏の行き詰まりは、絵画の限界を超えつつあるという点にあると思うんだよね。 絵画っていうのは、すでに終わったジャンルで、具象抽象と前世紀にやり尽くされている。 無論社会の変化に応じたり、細部の検証などやることはそれなりにある。 でも全体としてドラクエでいえばレベル60は超えているわけよ。それ以上レベル上げしてもゲーム内では 意味がないっていう。あとは趣味というか自己満足の問題になる。 古谷氏は絵画というか絵を描くのが好きな人。自己満足でも耐えられる人。 でもやっぱりどこかで社会とアクティブに交流したり人類に貢献したりしたいという欲望は残存しているよね。 それが絵画というメディアが答えてくれていないんじゃないかな。 そこが憂鬱の種。 となると、現状突破は、メディアを変えることでしょう。 高度に発達した現代絵画は日本の商業アニメと見分けがつかない。 そういう意味では、ここに可能性がある。 アニメじたいも終わりを迎えつつあるジャンルだと思うけど、アニメの抽象はまだやられていないし、それど ころか批評的な作品もない。 彼にとってはいい狩場になると思うんだよね。 あと自己表現の場としては漫画だろう。漫画の可能性は小説よりも大きい。 以上がアートの構造改革だとすると、それに応じて知識の増強もここらで必要になってくる。 今のところ文芸評論の知識はそれなりにあるみたいだけど、今後の言論をやっていくには、 社会科学の基礎と数学、分析哲学、歴史政治学、産業技術とその下地としての応用科学やサブカル全般は 必須になってくるし、ここで差がついてくるようになると思うんだよね。 純文学はもう端的に娯楽として成立しないから、今後文芸評論のパイは小さくなる。 逆に、論理パズル的な快楽を生む社会や世界についての評論とかは読まれてゆくと思う。 単に新書以上専門書未満の体系的知識を与えるものもね。 状況を重視する必要はないし、セザンヌやマティスは重要だが、絵画に退屈を感じるときはきっとあると思う。 そんなときにはこのレスに従うときっとよいことあるよ。たぶん。
>>543 俺が言うのもなんだが、もうちっとまともに論立てをしながら言え。
形容詞プッシュと誇大妄想的宣伝文句にしか見えない。
そろそろ武邑とお前を呼びたくなってくるw
石岡がそれに近くないか?
スレ民って、鬱屈した奴が多いな、 さすがフルヤスレだ。
イベントには絶対行かないからね
>>546 シネフィルみたいに、「生々しく」「感動して」能天気に浮かれてりゃいいってもんでもないだろう。
認識におけるペシミズム、行為にオプティミズム、という箴言を知れ。
>アニメの抽象はまだやられていないし、それど >ころか批評的な作品もない。 >彼にとってはいい狩場になると思うんだよね。 >あと自己表現の場としては漫画だろう。漫画の可能性は小説よりも大きい。 君、 なにか、自動化というか、離陸しちまってないか、
>>547 俺なんかには、そもそもイベントと聞けばいきなり行きたがるノリの方がわからんけど、
何か、突如人生が激変する啓示でも求めてるの?
ものを考えたり経験したりするきっかけにイベントしかない可哀相な人が多いのかな
もはやファインアートは成立不可能になっている。 自己満足でしかない、という。 俺は、芸術は動機と結果が重要という立場で、 社会から見捨てられたジャンルは、結局趣味の活動になると思う。 そもそも芸術という概念じたい誰かの脳内概念でしかなく、 キャンパスと絵の具を組み合わせる作業とその感覚的判断だけでしょ、要するに。 それに文脈や歴史を入れると、アートになったり、ならなかったりするけど、 そういう言説ゲームの無意味さというのは、すでに常識でしょう。 結局応用大脳生理学の自分の脳を被験者とする素人実験なわけでさ、 その探求は自分の脳のシステム設計を知ることと、快楽を与えることに寄与している。 ファインアートの存立不可能性は、実にハイデガー的主題でさ。 ハイデガーというのは、芸術を建築と捉えた。つまり工学なんだよね。 西洋の知識人のファイナルウエポンが辿りついた認識が、これだった。 もうここで芸術は終わった。西洋の知識人は退廃していった。「素粒子」を読めば分かる。 これまで文化と信じられていたものは、最終的には、ただの西洋人の趣味、妄想だった、と。 そして極東に輸入された妄想が、古谷氏という形で実を結んだ。 それはたしかに一個の妄想、趣味だが、もはや恐竜のように貴重。 古谷さんのブラッシュストロークには、西洋近代芸術の真髄が込められているんだ。
553 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:56:34
>>543 なんど話しかけても
同じ内容をリピート
しているドラクエの
村人のようだなw
>>550 ダンスは見ないと駄目
神村恵の絵を描きたいとか、突如人生が激変してるだろw
だいたいなんで美術は駄目でアニメがいいのかがまったくわからん
556 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 20:58:01
古谷のための村であり 村人だからな
>>556 都合良く曲解しすぎw
村人はあんたのことだよ
結局西洋人という種族が、実に傲慢だったというオチだと思う。 堕落の始まりは、ゲーテかベートーベンか知らないけど、そこらへんから話がおかしくなった。 ダビンチとかモーツァルトだともっとシンプルで。要は技術の問題でしょ。 テクノロジーでしかない、と。 それが近代も下ると、ますます文脈や歴史の重力が大きくなっていくんだよね。 最終的には、狂人のようなテクストや絵画が生まれた。 それらを退廃芸術と見るか、特殊化の果てのティラノサウルスと見るかは歴史観の問題。 でもダビンチやモーツァルトとはまったく遠いところまで行ってしまった。 で、今日び21世紀。 周りを見渡すと、漫画やアニメばかり。ファインアートはろくに見れない。 でも漫画やアニメをじっくり見てみると、案外馬鹿にできなかったりするんだ、これが。 ダビンチやモーツァルトにむしろ近い。 技術を磨いて、結果を出す。 ことほどさように、極東において人類の表現はひとつの極相を迎えつつある。 一回転してもとの鞘に戻った。出戻り娘の恥ずかしさはあるにせよ、これも成熟のあり方として まあいいんじゃない、と。
きめえw 黒瀬に一蹴されてこいや
560 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:12:05
>>554 古谷ってクラウスのフリード批判をどう受け止めたひとなんですか?
フリードが依拠した演劇的主体と非演劇的主体という対比と
ポップアートが主題化した主体の脱中心化と再中心化の過程が本質的に一緒じゃないか
とクラウスは指摘したわけですよね
562 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:16:23
564 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:19:54
フリードが絶対に認めないような ポップアートのロジックに フリードは依拠してしまっているじゃん ていうのがクラウスの批判だったでしょう
いかに芸術がくだらないものか、という認識は古谷氏も持っていると思うんだ。 そこがほかの凡百のアーティストとの決定的な差異だ。 芸術を信頼しているものと信じていないもの。 言説ゲームとして批評家が苦し紛れに捏造した文脈、歴史観を基準としたパターンマッチング。 これが芸術の実相だった。 ただの腹の探り合い。ビジネスマンの処世とむしろ近い。やっていることの形式はね。 これは明らかに馬鹿げていて、学生ならまだしも、人生50年、という覚悟を持つ人は耐えがたい。 真剣に表現、批評をやる人は、どこかでこの観念と見切りをつける。 じゃ、言説ゲームではない絵画や文芸評論はどうあるべきか。 これは、歴史観や文脈を批判する立場がひとつ。柄谷がやったことでしょう。 もうひとつは、現実の社会や人間に向かうという立場。これは東浩紀がやっている。 絵画は、山下清的に自分の好きな絵を描くか、自分の理想を極めるというアプローチしかないと思う。 もともと絵画って、ダビンチとか見ればわかるが、広告という手段でかなかったんだよね。 いかに女性を女性らしく、男性を男性らしく、あるいはキリストを柔和に描けるか、というお題に 職人が答え、競い合う場だった。 それがいつしか絵のイロハも知らないようなヒマな文芸評論家の言説ゲームに巻き込まれ、芸術という 位置づけをされた。 そのせいでどんどん絵画は、意味不明なゲーム、何でもありになった。 結局大衆には見捨てられ、絵画制作者もビジネスマン的になった。 これを大逆転するには、もはや一切の言説を無視して、趣味的にやるしかない。 古谷さんはこれを真剣にやっている。偉いよ、まったく。
566 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:20:59
568 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:24:31
>>565 古谷氏から古谷さんへ
近づけたね
フルヤンに
今日もすこしだけ
おやすみ
長文君はまず岡崎を読めよ
しかしその果てに何があるか? 絵画が芸術ではないなら、ケーキ職人、街のこだわりラーメン屋の未来とそう違いはない。 今までが異常だった。 社会を変える、というか何かデカイことをするなら、今は、漫画やアニメだろう。 それもすでに力を失いつつある。
571 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:26:15
572 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:30:30
>>570 お前はビッグトゥモロウでいいから出てくんな
岡崎は読んだよ。何いっているのかよく分からなかった。 ただ数学基礎論からの発想という形式面はわかった。 この手の業界って、文章じたいがわかりにくい。 魔法使いだね。しかし寄る年波でさ。 美術というものを徹底的に分析しようという意思、意欲がないね。 アメリカではやっているのだろうけど。 時は金なり。得る知識と伸ばすスキルはほかに山ほどある。 このテクストはそのストレスの発散さ。技術の進歩に乾杯。 しかし「素粒子」はいい劇画だよ。衰弱さがよく描けている。
574 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:33:01
>>560 自己レスだけど
フリード それじゃあんた宗教だよ とクラウスは言っていたわけです
575 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:35:16
濱野の生成論とか それこそ…
主体の脱中心化はもっと昔からある
>>549 ん?
日本語で頼む。
古谷がアニメには向かないということ?
いや、そんなことない。
仮にも美大出でしょう。
「ほしのこえ」とタメを張ることは無理でも、結構面白いラインには行けると思う。
古谷氏における樫村問題の最終解決。
アニメがうってつけのように感じるんだよね。
>>574 宗教は、フリード、クラウスお前らの存在だよ、っていう批判はあった?
580 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:37:35
>>576 双子あるいは複製は
文学の主題だよね
ドッペルゲンガ
581 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:39:05
582 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:41:30
ひどい流れだな(笑)
双子、複製は文学の主題じゃないよ、別に。 ミステリとか双子は、トリックのために出しているだけ。 あとは双子のギャグとか。 それを勝手に文芸評論屋が意味付けして、主題とかいっているだけ。 実相は、もっとシンプルでさ。 複製、クローンは、属性でしょ。綾波とか。 人外の孤独、という萌えはSFでは昔からあってね。 結局純文プロパーには見えてないのよ。見栄ばかりはってて。 一度娯楽小説を書いてみ。蓮実重彦の言説がいかに適当かがよく分かる。
なんかちょっとほほえましいぞw
この人日曜日に活性化するんだよ
586 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:46:27
>>583 はぁ…
フロイトが
無気味感を文学の主題と言ってますが
ウンハイムリッヒといったほうが
批評オタクのひとには
通りがいいのかな
蓮實が一次ソースかw
>>586 フロイトねえ。
「フロイト、擬似科学」で検索してみ。
588 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:53:41
古井由吉の世界では重量反転しまくるからな 古井由吉は疑似科学w
脳科学君はフロイトは駄目でもDSM-IVならおk
このひと漫画アニメ言うだけで、どの作品とか一切言わないし東浩紀亜流のオタク文化論だろう
591 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 21:57:02
せめてどのアニメとか言うならまだしも
脳科学君が食いついたのは古谷の書名に原因がある
僕は、批評というものは、もっとシンプルに、文化、社会、思想、生活などを政治的立場から自由に議論していくものだと規定している。 しかし批評雑誌を読むと、近代以降の文学や歴史といったものが取り上げられ、漫画やゲーム、技術といったより 意味のある出来事に与えられるページ数は今でも少ないんだよね。 ネットを見ると面白いことに、この勢力は反転していて、いかに批評業界が特種人種向けに囲われているかがよくわかる。 それも文化でしょう。しかし批評の堕落を俺はそこに見る。 結局今後批評というものは変容していくでしょう。 もっと才能のある人らが既存の批評とは別にもっとまともな批評をしていくことになるでしょうね。 それは古谷さんも場合によってはそうなるかもしれない。 今は既存文壇とのあいだで揺れている。 でも古谷さんのスタンスは明らかに言説ゲームに呆れているほうだ。 文脈や歴史といったものの無意味さというもの、いや正確には、業界を超えた文脈、歴史の価値の大切さが わかるようになってきつつある。それはネットのおかげだね。 もはや批評家というのは、それぞれがスタンドアローンで活動していく時代なんじゃないか。 意味不明な言葉遊びの擬似科学的言説ゲームという名の権力ゲームから批評は解放されるべきだし、 大衆によってそれは不可避だろう。
なにこのゆるやかなカオスっぷりw
597 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 22:05:48
身の程知らず が被害妄想にw
批評、それは未来の想像であり創造であるのだが、凡人連中によってただの言葉遊びと化している。 それもそうだ。絵画や文学には未来はないのだから。 話会う必要はないし、意見を調整しても何も変わらない。 社会というものともっとダイレクトに結びつき、状況が言語化され、対立や過程が見えるような批評。 そして言語化によって大衆の精神労働の手間を省き、コンパクトに社会を圧縮する。 主婦やサラリーマンも片手間に読め、社会と彼らの関係を理解してもらう。 すべての人がメタプレイヤーになればゲームのルールも変わるだろう。少なくとも騙される人は少なくなる。 これほど喜ばしいことはない。 ベンヤミンだか何だかの意味不明な議論は大衆は望まないし、インテリもとっとと自己欺瞞から目を覚ます べきである。知的オサレ、中二病でしかないということに。 社会の価値を創造すること。これを置いては批評の活路は開かれない。
599 :
ビッグトゥモロウ石岡 :2009/03/29(日) 22:13:38
社会を変える というか なんかデカいことやりたい
さすがに石岡のわけないw
インテリ全滅とかあり得ないので
はっきりいってもうロートル化しているのよ、既存批評屋は。 ネットや若い世代では、もっと融通が効いて、今は勢力が小さいけど、そのうちこっちが主流になる。 そのときになってはじめて俺のいっていることが分かるでしょうね。 趨勢はそうなんだよね。潮目が見える人はいつだって少数派。でも臨界点を見極める目こそ批評の 目でしょう。柄谷もそういっている。 ベンヤミンだか何だかの知識量を競うことから降りるなら今のうち。 時間は有限。原書で最新の海外の議論を必死にフォローする時間があれば、悪いことはいわない、 ミステリ読んどけ、社会科学やっとけ、政治家の名前覚えとけ、数学やっとけ、漫画とゲームやっとけ。 言論という場の変容。これが意味するところはデカイ。
古谷もこのスレ読んで爆笑必至だなwww
それ全部お前の趣味やん
既存の批評のロートル化を示したいなら、あんた自身が、 >ミステリ読んどけ、社会科学やっとけ、政治家の名前覚えとけ、数学やっとけ、漫画とゲームやっとけ。 という批評を実践するべき
十年遅れの山形浩生という印象しかない
言論をリングに喩える。観客がいる。 批評は客商売ではないが、客がいないと社会的に再生産されない。 二十年前、観客は左翼崩れの文学ファンだった。 今、観客は、オタクだ。いや正確には、文学芸術ファンとオタクとが半分ずつといったところか。 これが傾向ね。 さて対策を検討しましょう。 簡単です。オタクが増化し、文学芸術ファンが減っていく。 既存の批評雑誌は、そのまま残ったファン相手に商売をするでしょう。 しかしネットがある。 ここの動向が批評の中心となる。批評の意味としては当然だ。 するとその動向を無視できなくなる。出版文化は最終的にはネットを受け入れる。 ここで批評の潮目が変わる。 金の流れが変わるのだ。 それによって本物だけが生き残る。金目当ての連中は別のところへ行くからだ。 無料でネットで批評を発表するのは、頭のいいオタクばかりだ。 ここに希望がある。 非モテという言葉が生まれたのも、そういうところだった。
>>605 おれにはその時間はない。他にやることはあるからだ。
ただし微力ながらもそれに貢献しているし、今後いろいろ余裕ができたときにやるつもり。
そのために今のうちに流れを正規化しないと。
転叫院とかいう馬鹿の信者か
>>608 つかお前具体的には何も論じてないだろ
オタク消費者でしかない
>>609 彼のどこが馬鹿だと思う?
ちなみに俺は彼のファンでもないしアンチでもないが。
>>610 なぜ俺が論じてないってことがお前に分かるのか不思議だけど。
いずれにせよ、それいうなら、おまえもそうじゃんってことで終了。
>>611 あんたにも言えるが、紙媒体の力を侮りすぎている。
古谷にも言えるがブロガーに共通の欠点だ。
やべえ バカが移るw
615 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 22:45:08
最後に ベンヤミンは sentenceに流れる時間のベクトル、その一方通行性、その線形性に 暴力を看取したわけです。 合法ならば正義 正義ならば合法 ベンヤミンはお前みたいなヒヒョーオタクではないですよ それだけ
>>613 紙媒体の力って何?
>>615 ところで「ベクトル」って理解しているの?
すでに文章が体をなしてない。それこそ一方通行の暴力だよ。
617 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 22:50:35
618 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 22:53:51
>>617 頭が良すぎると
居場所がみつからない
過去の天才たちが
抱えてきた困難だよね
諦めなかった奴だけが
残るのは才能有無以前の
残るための条件
古谷みればわかる
619 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 22:58:06
おやはや(笑)
>>612 アニメや漫画やミステリを具体的に語るとどうなるのか、
このスレで示してないでしょ
モダニズムを言語ゲームとして一括否定しているけど、
セザンヌやマティスの「どこ」がまずいのか言わないし
>女性に「箱好き」が多いのは知っている。 私男だけど箱好きですよ
622 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 23:07:31
箱好きって何?
そんなことより「知っている」という断言はどうかと
624 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/29(日) 23:14:44
絵画は死んだ 文学は死んだ これからは アニメだ マンガだ と いう言い分も分からないではないが 絵画や文学の臨界を 経験したうえでの 死刑宣告 とは到底思えないんだよね 批評の枠組みを拝借してることへの負い目かな
ちゃんと知ってる人は死刑宣告なんかしないでしょう
堀由樹子にダメ出ししたあと反省したのは色々分かってるなw >10やった行為に対して、すかさず、それを否定する8くらいの行為を重ねないと安心できない、という感じ。 これを実演している
堀由樹子って、親父が彫刻をつくってる人かな、
他人への否定的評価がいつも自分に跳ね返るのは見事としか
>>628 自分に対して言いきかせるためにかいてるのでしょう。
本来、日記ってそういうものだと思うし、
なんといっても、読むのは自分と大文字の他者ぐらいのものだから、、、
>他人への否定的評価がいつも自分に跳ね返るのは見事としか 本当に気持ち悪いくらい見事だよな 他人への肯定的評価がすべて自分語りの偉い小説家がいたけど 私は自分を隠すというところから文学生活を始めたって言ってたけど
>>628 >>631 こういう無駄な意味で(論旨が進展しないという意味で)
古谷は自己認識だけはやたらと的確なのが・・・w
結局、私語りのなかをぐるぐるぐるぐる回ってるな
浅田スレの議論こっちに持ってきてくださいよ
あそこだと英仏雑誌の動向をのんびり話し合えそうだから、あっちで言ってたんだけどね。
向こうだとすべてが浅田の功績になってしまう
いや、浅田の功績にすることもないだろうし、そのつもりもないよ。
思想の問題にしたいなら向こうだろうけどな
「組立」−アート/インフラストラクチャー− 体裁/A3裏表4ツ折り 執筆者 上田和彦「芸術の価値形態」 上山和樹「コスプレへの監禁ではなく、素材化の自由を」 永瀬恭一「言語の爆発的失敗 東浩紀から吉本隆明『マス・イメージ論』への遡行」 配布場所/「組立」上田和彦×永瀬恭一展の会期中に会場photographers’ galleryで配布
あと石岡が中原昌也論を書いたようだ
石岡の名前を出す人は決まって一行なのは何で?
おまえも一行だな
古谷一行といえば浅井理恵だな
組立のイベントのちらし、筆触とかいってフラゴナールとかが大きく出てるw セザンヌがあるのははわかるけど、なんでフラゴナールww
このスレで、あんまり神村恵 神村恵と言ったから、28日のエントリーでは小林聡子。29日のエントリーでは(懐かしの)柴崎友香を出してきたんだな
股先生が言うところの「ポスト・ムラカミの日本文学」にしか興味なさそう
フルヤンは何千円ぐらい落としたんだろ
あのさー 黒瀬なんかにありがちな、きわめて底の浅い仮説だと思うんだけども。 批評言説の場がネットに移るとか、あと海外の現代美術はもう見なくていいですみたいな本気で言ってるのは 氏ねよ。 バブルはじけたとか出版不況とか、新聞読んでりゃ誰でも分かる事から帰納して、 「いつの時代も先見の明は少数派」とかw そんな事本気で思ってる時点で遅れてんだろ。馬鹿じゃねえの? いつの時代もイージーな言説から早々消えてくってね。
そいつが来る日曜に言うべき
まあ駄々っ子の凡例のような発想ではあるな
黒瀬はあそこまで馬鹿じゃないだろう
福居ブログの厨二病臭が凄すぎるなw
あいつあれで30代中盤なんだっけ 馬鹿にもほどがあるよな あれでNTT出版の編集が勤まるんだから世も末だ
俺みたいに、写真家福居、編集者福居も知らないでいた人間が あるとき自分のブログ記事を福居ブログで紹介されて、なんだ学生のページかな、などと知り始めた人もいるんだろうな
あれは中二というよりチラシの裏というべきでしょう
NTT出版じゃなくてたしかNHK出版でしょ だからNHKのある渋谷で撮った写真が多くうpされるわけで しかし30代とは思えないよね そこらの学生のブログのノリでしょう
NHKの方だったか。記憶違いだったかな。 しかし本当に30代とは思えん… 人のブログとケンカとか滅多にやってないけど、数年前の山田大輔(だったかな? 日芸あたりの写真の人) とやりあったときのログを見るとうけるよ 馬鹿な学生が手近な批評だけ読んで威張ってるって感じの返答だった 山田もあきれて相手にしてなかった、という感じだったと思う
659 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/31(火) 14:11:48
>>658 おかげで
あなたみたいなひとにも認知されてるわけです
あなたのセンスデータベースに登録完了
尚一度登録されたセンスデータは消去不可能となります
ご注意ください
そんな目くじら立てるようなブログとは思わないが…
国立科学博物館はユルくて面白いよフルヤン 風邪が治ったら行って来るといいよ
>近いうちに科学博物館には絶対生きたいと思った。 俺も生きてる実感ねえな…
<人のブログとケンカとか滅多にやってないけど、数年前の山田大輔(だったかな? 日芸あたりの写真の人) とやりあったときのログを見るとうけるよ 昔見た。2ちゃん語使いまくってたな。しかし福居って、正社員なのか?なんとかプラッツっての、 平日の午後にものすごい量うpされるんだけど。そんだけ見てる俺も俺だがw あの頻度会社のパソコンではやれね〜だろ。 山形タイプの超人事務処理能力があるとも思えんし。
巡回サイト貼ってるだけだろ あとは写真
福居は多分、検索ログに引っかけて人おびき寄せる目的でやってるんだと思う。<なんとかプラッツ しかしそこまでしても写真が良くなければ意味がない。
巡回サイト貼ってるだけでも勤務時間中にそんな事されてたら雇用側はたまったもんではない。 いずれにしろ少しおかしいw
そんなにしてまで叩く面白さがわからない この程度の逸脱はおかしいうちには入らない
叩いてはいないんじゃね 多分ここにいる人達の中にはブログの文を福居に勝手に貼られてたりする人が多いと思う。 あれ結構カチンとくんのさ。こっちの本意も大して分からずやってるから
なるほど でもフルヤンのように見守りたい対象ではないなあ 永瀬だって相当微妙だし、年齢と痛さは関係ないでしょう
670 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/31(火) 18:11:30
1970年前後に制作された、造形作家による これだけで映像作品集めても文脈広すぎて展覧会としてはむずかしい気がする
むしろ余裕じゃね?
674 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/03/31(火) 21:09:12
いや・・・普通に福居も大人げないという読了感だが?
たま〜に福居かその周辺の人がいる気がする
>>668 みんなブログやってんの?
だったらここに貼ってくれ
批判は一切しないことを約束する
俺以外はしらんが
すぐ自演呼ばわりされるんですけどね でも気にしないようにしよう
ちなみに俺は池田と石岡にされたことがあります
>アンチスペクタクルな展示の仕方が素晴らしいと思った。 さっそく『アンチ・スペクタクル/沸騰する映像文化の考古学』読書の成果が出たね
なんじゃそりゃ
フルヤン最近よく風邪で寝込むよな 寄る年波には勝てないんだから、そろそろ生活改善を薦めるよ
まずは調理器具
100円ショップへ
科学博物館に行くのではなくて、科学を勉強したほうがいい。
まずは博物館行って興味持つことから
で、興味もって終わるんだよな大抵
絵ばかりやっていると絵に興味なくなるから。 科学とかプログラミングとか漫画描きとか違う体験をすることで、 セザンヌ、マティス、ラカン、樫村などの文化圏に対するモチベーションも復活する。 古谷さんは、粘着質的というか、ずっと同じことのまわりをまわっているタイプ。 ブログ始めたときと何か変わっている?
文章が変わってないか?
水曜でもこの人出てくるんだな
ヴィデオ展ってどうなんだろう?レポよろ
それに電脳コイルを誉めているようでは話にならんよ。 あれは失敗作であり、それ以外の何者でもない。 いかに古谷がアニメについて知らないかが浮き彫りになった事態だった。 空間が描けている、と古谷はいうが、他のアニメは金がないから描けないんだよ。 そういうことをなーんも知らないで断言する。 恐ろしいことだ。
>>692 お前が作品を語ったレスがないからわからんよ
そういうのはいくらでも言える
じゃああの時期おすすめはどれよ?
アクエリオン
ビデオ展とかそういうのよく見てられるな 空しくないのか
だってさ >連続講演会などを含めてかなり充実した企画で、同時代の絵画・彫刻・パフォーマンスなどとの関係を重視したキュレーションによって、映像作品に対する先入観を問い直すものとなっています。
>>688 古谷も、お前にだけは「粘着質」って言われたくないだろww
古谷スレに粘着しとるお前も同じだろが
アクエリオンっていったけど?
アクエリオンはねえよ
はい、素人。
こんなのがあったので足しておいた ● 「日本文化とセクシュアリティー」(松浦理英子との対談)、『ジェンダー・コレクション:性と性差のあいだ アサヒワンテーママガジン36』朝日新聞社、1994.7
誤爆った・・・
>>692 アクエリオンは失敗作な上に、キショいヲタ作品で、それ以外のなにものでもないよ。
ド素人君。
千葉正也と千葉雅也は別人だったのか。 紛らわしいな。
失敗作というのは間違いで、 パチンコによってなぜかおっさんが見るようになり、マクロスFにつながった。 変な復活を遂げたけれど、コイル以上に懐古的なアニメ。
>>692 アクエリ…ww
話になんねぇ
合体しとけww
な?
日曜日くんは結局、言いっぱで反論は出来ないんだよな 言わなきゃいいのに
今週末は花見にもってこいだろう
フルヤンは完全に食から来る体力低下じゃねえか……
スノッブスレきもちわる
来た日曜w 仕事終わったのか?
中原スレにもいたw
デジカメのデータぐらいPC経由で退避させればいいのに……
または普通に安くなったメモカを買うか。
716 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/03(金) 15:13:17
ギャラリー持ったの?
古谷は色の作家だから、日本の商業アニメに興味ないと思う。 日本の商業アニメって、色が駄目なんだよね。 線は実験が許されないからしかたないけど、色は水準以下。 セルアニメの頃なら、色は安っぽいのがむしろ売りだった。 でもなまじ技術で幅が広がると、色のセンスの無さが悪いほうに出てる。 光の使い方とかぜんぶだめ。 なまじアート的で、オタクの良さ、安っぽさが消えている。 こういう観点から古谷には耐えがたいんでしょ。 この人色の作家だから。 ただ、アニメのほうがセザンヌより可能性はある。可能性だけだけど。
718 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/03(金) 17:10:36
明日、犬とpgどちらに行くべき? この奇妙な平行性を、 偶然だと言って済ませることは 私にはできそうもないんだぜ eyck
>>717 前に、ジブリの緑が受け付けないとか言ってたね
ポニョは大丈夫だったようだが
その程度なのかも
中西夏之の黄緑もダメ
古谷は自主アニメやるべき。 オカザキ理論でどこまで通じるか。 ファインアートからの刺客。 ザ・フルヤトシノリ!
トシヒロでしょ
(ノ∀`) アチャー
なんでアニメやらないか不思議。 セザンヌにならいてなおそれ=セザンヌを超えていくにはそれしかないのに。 セザンヌはいま?
独自に活動する土屋誠一氏を除いて、若手研究者の活動の場として四谷アート・ステュディウムは 機能している。近畿大学の東京コミュニティカレッジという中間的な形態を持つ四谷アート・ステュディウム は、半ば意図的にアカデミーの制度の狭間に立ちながら、外部で育った若手研究者のビビッドな部分を 掬いとることに成功している。ただし、不思議な事に実制作者として内部で学んでいったアーティストを 自立させることには相対的に苦戦している事実は指摘すべきだろう(京都造形芸術大学と対照的だ)。 学内賞制度「マエストロ・グワント」はむしろ大賞を逸した人の活動が目立つ。
こんな領域にビビッドな才能なんていねーよ
>外部で育った若手研究者のビビッドな部分を掬いとることに成功している。 オブラートに包んでうまく言ってるが、要するに外部から招聘してるってことじゃないかw
土屋とか四ツ谷周辺とか、年齢的にも業績面でも相当追い詰められてるよな。 こいつらこの先どうやって生きてくの?
アカポス
追い詰められてるのか? 土屋とか超余裕そう
725は土屋を潰す気か? よけいなことしてんじゃねえよクソヤロウども
意図的に省かれている石岡に対しても思うところがありそう
勘ぐりすぎかもしれないが、永瀬といい古谷といい、妙な陰湿さは何なんだろうな こういうときこそミーハー性を発揮して、「おもしれー」ってノリが大事じゃないのかよ、と
美術手帖関係の話もわざと書いてないんだろう
なるほど、上田とダチらしいからな マジ陰険、陰湿 自分が無視されてるとでも?自意識過剰だな永瀬は
上田高弘?それなら陰険なのもわかる
土屋擁護の凶暴レスは一体......kの前もあったし 誰かなぁ
739 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/04(土) 04:41:27
>>732 土屋なんてのはどいでもいいが
古谷ー黒瀬を対立させてなにがしたいんだ
この2ちゃん脳は
誰だろね
>>738 こういうこと言ってる人が関係者なんじゃね
でも特定にはうんざり
いいかげんに四谷しねよ
743 :
認定くん :2009/04/04(土) 04:46:26
土屋本人だろw 古谷とか黒瀬で遊んでないで 批評家どもは 才能ない批評家に 退場勧告だして ちったぁ身の回り キレイにしとけよ 臭くてたまらんぜ
永瀬の見立てでは四谷終了のお知らせ
浅田のチャート式の影響なのかな
批評屋に才能を求めるのは酷だよね。 才能があったら批評なんてやんないし。 「素粒子」を読むと批評屋がいかに退廃しているかわかる。 なーんもそこにはない。すべて虚構。
土曜日に乙です
748 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/04(土) 14:54:55
なに値打ちこいてんねん おまえらなんぞ屑や 運命が食い残した滓や 運命の唾にまみれた ナメクジや 怒るでしかし
批評屋は駄目駄目。スノッブくさい。 アニメに来ないでほしい。 来るなら、まずその暑苦しい洋服脱いで来なさいな。
黒瀬が嫌いなのか?
常連さんが浅田スレに行ってしまったからなあ 彼は煽りを潔癖なまでに嫌うのが残念だ 気にせず書き込めばいいのに
組立行ってきた。
レポよろ
メルヘンチックなドローウィングは展示しないほうがよかったかもしれない。
>>729 マジレスすると、美術評論やっててもアカポスにはつけないよ。
表象の連中が肩書きだけ美術評論名乗っているケースはともかく、
職業的な美術評論家がアカポスについたケースは
サワラギ以後誰もいない。
>>756 木村は美学出身のアカデミシャンだし
ダンスが専門だろ
BTで書いてるだけで「職業的な美術評論家」じゃないジャン
もう少し言うと、アカポスはそこまで厳格なものではない ただしフルヤンの場合は厳しいだろう
>>758 問題なのは学歴よりも専門領域と活動実態
さしあたり「職業的な美術評論家」の条件は
・現代美術を専門領域としていること、
・学会誌や紀要ではなく商業媒体を中心に書いていること
じゃないの?
この条件なら、土屋はあてはまるけど木村は当てはまらないはず
木村のダンス評論は、あくまでも美術手帖の評論賞がきっかけだから、 彼が美術評論家じゃないとすると、美術ライターぐらいしか残らなくなります
<マジレスすると、美術評論やっててもアカポスにはつけないよ。 博士満期以上の学歴プラス著書があれば、美大にはそういう人いる。女子美とか多摩美 美大の先生はかなりイレギュラー 芸大先端の面子みれば分かる、伊藤木幡とか。 椹木は学部卒だからかなり特殊、例外。 ただ博士まで行って業績も考慮だろうな、やっぱ。 土屋もそっちなら可能性あるんじゃないの。多摩美修士止まりはかなりネックだろうけど
つまりイレギュラー枠でしょ なんでそこまでアカポスを神聖視するのかわかりません
>ただ博士まで行って業績も考慮だろうな、やっぱ。 これじゃ普通の人文社会系のアカポスと同じじゃん 美術評論なんて、博士まで行った連中が論文書く合間の 筆安めでしかないってことか >なんでそこまでアカポスを神聖視するのかわかりません ほかに安定した職が考えられないからじゃないの?
神聖視ってのはアカポス獲得条件のことね 学生を教えられるかどうかがすべてだと思うんだが
樫村や古谷は、絶対にアカポスが無理そうでしょ? でも保坂は大丈夫そう そういう違いが重要だと思う
保坂はアカポスなんか必要としてないじゃん ステータスでも年収でも 大半のアカポス組を上回ってるし でもアカポスの声がかかるのもこういう人なんだろうね
もちろんそういう意味 純粋な研究者は一部の大学以外では意味がないので、 それ以外の能力が重要
組立どうだったんだろうな
>ステータスでも年収でも 村上春樹のこき下ろし方から推すと余裕なさそうだけど
小説論の人というイメージが強くなってきてるから、アカポスもいいんじゃないか
772 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 16:59:48
>>770 金銭的な余裕がなくなると
普段であれば気にならなかったことが
気になってきたりするものだ
犬の鳴き声だとかテレビの電子音とかに
いちいちイラつかされたりする
しかしそういうことを書きとめたところで
小説的な細部とはならないのだ
貧乏ゆすりみたいな文体がいつのまにか身についてしまっていたのだった
>フレームを超えて神経に障る。 この芸を極めれば笑えるようになる
774 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 17:21:58
村上春樹て嫌われてるけど 本人は全然気にしてないだろうな
大学経営はどこも今後半端なく厳しくなるから、アカポスの雇用安定とか今までの基準当てはまらない マーチがTVタレントみたいなのを教授として迎える時代だもの
芥川の「歯車」みたいな小説なら書けるかな
777 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 17:34:42
春樹は衝突のさせ方があざといから嫌われるんだろうな 〈彼女の死〉ー〈6922本めの煙草〉 とか 〈壁〉ー〈卵〉
778 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 17:53:22
「坊ちゃん」の喧嘩場面に 主人公の正義漢が赤シャツの手下に卵を投げつけるところがあるけど はるきちは絶対意識してたはず
779 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 18:11:41
どうでもいいことを
780 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/05(日) 18:34:23
>>775 美術評論よりマンガ評論のほうが
アカポスが有望なのは間違いない
ここ数年に限っても、夏目房之助、藤本由香里、
森川嘉一郎、宮本大人、伊藤剛がアカポスについた
オレも美術やめてマンガやろうかな
a
お、やっと規制解除されて約一ヶ月ぶりに書き込めるようになったみたいだ
アカポスとか業績とか言ってる時点で終わってるだろ
大学なしでもマンガは無くならないが、大学なしでは美術は無いかもね だからって、どうでもいいけどね どうでもよくない可哀相なひとたちもいるんだよね
大学なくても美術は続くに決まってるだろ
>>783 評論家をまともに続けるには大学教員でもやらないと
食えないんだよ。アカポスは重要。
副業でやってるのだって居るじゃん 年収2000万の山形とか
>大学なしでもマンガは無くならないが、大学なしでは美術は無いかもね 。 日本においてはそうかもしれない。 作家=学生。 批評家=教授。 大多数はゴッコ遊びみたいなもんだ。
>>786 言いたいことは分かるが、おまい研究じゃなくて評論やる為にそう考えてるなら甘えだ。
ギリギリで食いつないでお先真っ暗だけどバイトとかしてる作家は大勢いる。
まずアカポスで安定志向で評論汁とかだったら、評論すべきでない、ヤメトケ。
ファイン系の奴だって、ほとんどが院試をうけるわけだ、 ということは、皆できれば大学の先生になりたいとおもってるのだろ。 だから、批評家志望の奴が郵政、ごめん、赤ポス、、アカポスに憧れても、べつに構わないというもんだろう。
高卒だから知らねーから 大学教師=真理のみを語る身体 って根拠なく信じてたけど(いやあ恥ずかしい)
今は、大学の先生も仕事が忙しいから、副業は難しいという状況だが、
とはいえ、批評や評論活動と全く無関係な職業について、 日銭を稼ぎながら批評やるよりはマシだろう。
組立のトーク、ちゃんと千円払ったのか?
795 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/06(月) 12:03:34
そんな立ち入った「批評」を受ける義務は僕にはない 親が泣くぞ
796 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/06(月) 13:08:24
日頃から相手の気を惹くためならばどんなことでもする といった広告的な、いやらしい感情生活を送っている人の振る舞いはフレームを超えて神経に障るのだった
おれはおれが神経に障るぜw
古谷利裕・人生相談 『フレームに聞け!』
>>773 同意。
久々に聞いたフルヤンにしか言えないフレーズ。
このフレーズでいろんなものを斬っていけば売れっ子になれる。
永瀬も古谷も4月になってから飛ばしまくってるな
古谷は80年代的キャッチーなフレーズを嫌う傾向にあるが、実際には内在している事に気付いているので、たまに近親憎悪を引き起こす
80年代が身についてるんだと思う
自分を絶対的なフィルターにしているから、そうなって当然
もうこういう筆触論は飽きたな
806 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/06(月) 19:19:38
対談もこんな内容だったんだろか >筆触論
さすがに違うでしょ
聞きながらフルヤンが考えたことって書いてある
809 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/06(月) 22:03:37
美術犬は?
このスレに少なくとも一人はいる土屋期待派が書くべき
じゃあ私は黒瀬期待派
812 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/06(月) 22:29:29
土屋の文章は実際読むとすごい空疎だよ あれはレベル低い。
例挙げてよ
815 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/07(火) 00:51:56
土屋=何がやりたいのかよく分からない人のイメージ。 文章も薄いっていうか、印象残らない。
一度読んでみたいのでお勧めは?
びじゅつてちょうの評論賞だったかな?かなり前だけどバックナンバー図書館でみるといいと思うよ。>土屋
ふるやんよりは出来が良いと思うよ
BTのは絵画から写真へ移行する過程っぽい あれ以降pgのほうへ重心を傾けるわけだし 武蔵美のウォーホル論のほうがいいのでは 宮川淳・松浦の問題意識を継続してたはず
絵だけに固執しないのは重要じゃね?
岡崎みたいに?
文章について言うなら、古谷システムもすっかり完成された
単に私教養■足なせいだと思いますが ハイコ■テクストな単語が羅列されている ■屋さんの文章は読みにくいです。 文体として破綻している、と私には思え■■■■■ます。 ほとんど■■言及のような厭味をいうときにだけ文体が 一瞬ひきしまるのも整理的に受け付けないですね。
気持ち悪い
なんだと?
おまえらがやってることと同じだろうがw
セザンヌの身体vs古谷の身体
>>824 土屋のことはよく知らんからスルーだけど
批評全般への批判としてナットクするところがあるなあ
自分の使ってる言葉に対して批判の足りない批評家が多いよね
ハイコンクストな言葉が引き連れてくるイメージの拡がりが 有効に活用されているわけでもなければ 記述の曖昧さを助長しもするハイコンテクストな マジックワードの誘惑に抗おうともしない。 いやらしくも意図的な混同が散見されるように思います。 読み手を煙に巻いてふんぞり返っている、 目を疑いたくなるような批評がまかり通っている。 そう思うのは私に教養がないせいだけではないと思う。
ハイコンクスト! どこのドイツ語ですか? HIKONKUST!!
教養がないせいだったなw
だったね
そいつはどうかな!
これどうなんだろ ◎JUNKUトークセッション:廣瀬純×青山真治「運動と映画――『闘争のアサンブレア』をめぐって」 日時:2009年5月16日(土)18:30〜 会場:ジュンク堂書店新宿店8階喫茶コーナーにて。 料金:1,000円(1ドリンクつき) 定員:50名 受付:7Fカウンターにて。電話予約も承ります。TEL.03-5363-1300 内容:2009年、日本もついに「運動の年」を迎えた。日々のTVニュースは、闘う労働者の姿で溢れかえっている。 映画なんかにうつつを抜かしているときじゃない、オレたちは生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてるんだから。 ほんとうにそうか? 2009年の日本には映画など必要ないのか。 たしかに映画はプチブルの暇つぶしに過ぎないのかも知れない。 しかし、まさにそうだからこそ、映画には“来るべきプロレタリア”へと呼びかける力があるのではないだろうか。 そしてまた、だからこそ、『闘争のアサンブレア』に描かれるそれのようなラディカルな運動は、 つねに1本のフィルムに似た様相を見せるのではないだろうか。 「運動の年」にもかかわらずイーストウッドの新作にうつつを抜かすふたりによる対談。 廣瀬純+コレクティボ・シトゥアシオネス『闘争のアサンブレア』(月曜社)刊行記念。
つか逆じゃね? ■屋の批評はコンテクスト無くほぼ印象のみの知覚論だよ。 割ときっちり書いた奴でさえああ、デリダなんて全く理解してないと思う。 上澄みで固有名を軽く挙げてある感じ。数日前に初めて読みました的引用。
>>■屋の批評はコンテクスト無くほぼ印象のみの知覚論だよ。 それって、ようするに土■は■鹿ってことだろ?w なんで馬■が美術評論とかやってるのよ。
人柄 かな
馬鹿に美術評論やられても困るけれど きみみたいに横暴なひとに評論されるのも いろいろと迷惑なことが多いんだよね
>>837 んな事一言もいってない。
言葉が足りなくてすまない、別にそれはそれでいいと思う。
ただ、この人共感されにくい所がある。コンテクスト云々とは別に
その点、フルヤンは俺たちに好かれてるよなww
ハイコンテクストが駄目というのも東界隈のマジックワードなんだぜ
松浦寿夫展行ったひといる?
844 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/07(火) 23:23:28
>>842 マジックワードに召還されたイマージュに酔っ払った文体が悪いとも思わない
酔いどれ船ていうよりかか泥船だものあれは
東界隈の批評は、スノッブを締め出すことで、生き残りに賭けている。 ネット時代、トンデモアレルギーは多い。
精鋭はみんなスノッブだけどな お前も
いや、この領域(美術批評)に精鋭はいないでしょ。 多少なりとも頭があれば作るほうに回るし。 気が効く奴は、漫画やアニメを論じる。 それにしても古谷氏、幽霊論オモシロ。 数学基礎論というかモロにバディウそのもの。 古谷は、数学基礎論やるべきだ。
バデュウ信者うぜえ お前東スレで仲間見つけろ
石岡はどう見るの?
石岡は知らね 美術じたい終焉した。 ファインアートの視点、文脈、価値は発見されつくされた。 新しく語るべきことはほとんどない。 あってもコストパフォーマンスが悪すぎる。
お前馬鹿だな 終焉論はそいつの感性が終わってるだけ
この間アクエリオンすすめてフルボッコだったやん… 漫画やアニメを語るすべがない癖に無駄に煽るなよ
だって当時アクエリオンぐらいしかマシなのなかったからね。
じゃあ漫画は何よ? 美術を倒せるぐらいの逸品じゃないと説得力ないわ
漫画アニメもドラえもんで終わりだろ
欧米受けしないのに? 芸術終焉論ってつまりはアジア主義の一種か
美術を倒せるとか意味不明。 それなんてドラゴンボール?
>>851 こういう奴はジャンプバトル的発想だろう
アジア主義じゃなくて、目が覚めたってこと。 ファインアートなんてただの欧米の制度だから。
848はもう帰れよ、バカ丸出しなんだから
アニメや漫画をちゃんと見ている奴だったらまだしもね
「まとまった作家論」は阿部和重じゃなくて盟友、福永信だったんだなあ フルヤンにやられたな
864 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/08(水) 15:49:09
質問 みなさんは単行本のカバーはつけておく派ですか 外してしまっておく派ですか 外して捨ててしまう派ですか
865 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/08(水) 15:54:45
カバー邪魔だけど 裸で持ち歩いてると 傷むの早いよね 単行本を解体して ページをバラしてから読んだのって 小林秀雄だっけ?
青木淳悟。岡田利規。と、きて福永信。 媚びてない人選でいいんじゃない?
世界で懐妊し、世界を革命する―― イメージとともに世界へと滲み出した芸術家は、世界に何をもたらすのか。 ポップアートなどなんて古臭い芸術だ。 セザンヌ、マティス、ピカソの無限の可能性を信じ、錯乱するイメージと自己の身体の「運動」にすべてを賭ける。 古谷がやらねば、誰がやる。 時代を震撼させつづける現代芸術家渾身のブログ「無名アーティストのワイルド・ライフ」。 絶賛公開中。
どう媚びてないの?
>>862 まあそれなりに見てますけど。ただ最近は見てないですが。つまらないので。
>>864 カバーは捨てますよ。
本は情報を得る手段でしかないため。
>>868 まあそれなりに見てますけど。ただ最近は見てないですが。つまらないので。
アニメや漫画は楽しいですよ。自分が作る側に立つと。 最近のマスト文庫は、ちくま学芸文庫ですね。 ランダウの「物理学小教程」などラインナップがオモシロです。 古谷氏の福永信論期待大です。 もう文芸評論業界って古谷さんの独擅場では、と思う。 こんなにビビッドでファインなクリティークの可能な人っていまいないでしょ。 早くアニメ―ジュで批評してもらいたいものですね。
>>865 カバーつけたまま手垢がついたりして汚れたりしていくのも味があって良いものですね
最近の本だと、戸田ツトムがデザインしたデリダの『触覚、』とか
>>873 味ある?ただ汚いだけじゃね?
アイドル写真集や漫画なんかは綺麗にしておくけど、
本はなあ・・・・文字って読むものだし。
デリダの「触覚、」とか読んでみたいなあ。デリダってくだらないから。
くだらないもんはくだらない。 納税者として主張する権利はある。
一応答えておくけど、 義務を果たすから権利が得られるのではない 憲法読め それと、友達作れ、な?
友達はコストパフォーマンスが悪い。 そんな時間あれば勉強とスキルアップに使いたい。 時間は有限。さらに対数スケール。
879 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/08(水) 20:17:22
買った本は 部屋に戻ったらすぐに カバーごとゴミ箱に捨ててますね 邪魔なんで
電車で読んで、そのままシートに置き捨てるということはよくある。 タイムイズマネー。
フルヤンの文章が入試に使われる時代がくるとは
882 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/08(水) 22:10:25
古谷ー短大入試のラインはびっくりだよね 大妻といえば古谷に以前 辛く評された大澤信亮先生の根城だな
デブ福田の弟子か
石岡も教えてるんじゃなかったか
>質問 俺は買った本に名前をつけることにしている 「富裕層」とか「資本主義的な成果主義」とか「世界経済を熱く語る鬱陶しいおっさん」とか 表紙に書き込んでおくと喧嘩しない
886 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/08(水) 23:06:28
笑 久しぶりに脳虹本読み返すか
フッサール嫁古谷
あら? フルヤン有頂天だよww
889 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/09(木) 10:09:27
漢字問題だったりしてね
フルヤンの本は受験生必読書になったな
アキレスと亀で言うなら、ちょうど画商との付き合いがうまくなった頃合いなわけだw
我慢できずに(2日にわたって)報告しちゃうところが、古谷のカワイイところだがな おめでとう古谷
893をとりたかった それだけ
ヤクザ乙
古谷の情動観察ってオモシロ
トンデモ
トンデモ以前に数学知らないからこの人
898 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/09(木) 22:41:36
>>897 やけに古谷に対して
批判的だけど
小出しにしていないで
なにが気に食わないのか書いてごらん
かといって手放しで褒める人も少なかろう
「富裕層」とか「資本主義的な成果主義」とか「世界経済を熱く語る鬱陶しいおっさん」とか 陳腐な仮想敵をこしらえて闘ってる気分になってるのが著しく気に食わない 佐藤亜紀みたいにリアル敵をこしらえて業界の噛ませ犬の枠に自分から嵌ってくれ
901 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/09(木) 22:55:27
>>899 自意識のレベルでは
彼はあくまでも画家であり
文章で作家になろうとはしてないだろうから
日記と偽りながらダラダラと書いていられる
書くことをばかにしているのはどこのどちらさんですか?
という批判はできる
>>901 文芸誌の編集によって生かされている
これって古谷が嫌う「文脈」だよな
903 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/09(木) 23:05:33
>>902 古谷ももう42くらいでしょう
40越えると自然と清濁合わせ飲めるようになっていくのだと思います
>>903 ブログを見る限り、食器や調理器具ですら色々頑固すぎて健康を損ねていますぜ?
905 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/10(金) 00:05:33
>>904 死ぬまで無名アーティストでいろってのは酷だよ
>>905 ならワイルド気取るのはよして、もっとまともなもの食った方がよくね?
体壊す回数が増えすぎ
なんか流れがおかしいな・・
有名アーティストになるってたとえばどんな状況?
バブルの絶頂期に髑髏にダイアモンド貼り付けた作品を250億で売り出すこと
910 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/10(金) 10:39:45
ハーストの状況が「有名」であるというのなら、 「無名」のままで、というのが古谷の本望でしょう。 つまり「無名」という冠にも古谷のプレテクストが暗示されている。 「無名」であり「偽」であるというフレームをつねに温存している。 問題は粗食生活が酷かどうかではなく、態度決定にあるだろうに。 日記自体にモラトリアムの構造がある以上、このスレとの共犯関係は まぬがれないんだよ。
「無名」で有名な〜 ってことですね? わかります。
岡崎でさえ「アート界」では無名だからな
単に怠惰なので粗食とは言わないでしょう
村上隆がサクセスしたアーティストの象徴なのかな。 古谷さんのアートは、本格志向よ。 でも、自主アニメ作ってみると気晴らしになるんじゃないか。 具象を描いてみるとか。 ほんとこの人病的に同じことをしつづけているよね。
あんたのレスも病的
自主アニメか 一枚一枚手描きでやってたらすごいな つーか5秒くらいのを自分でやってみようかな
917 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/11(土) 01:44:20
病者の共同体m9( ´,_ゝ`)
病者の光学ですよ
いや古谷はもう生活費を得るための文章しかやらないだろうから
そのわりには無邪気に喜んでないか
だって↓なこと言ってるぜ >ぼくは、精密に構築された長大なフィクションというのがあまり得意ではない。 断れない事情というのを説明しといたほうがいいんじゃないの その小説の著者のために
得意でないどころか基本的には嫌悪してるよな
昨日はイヤミ言って今日は同情するけど 「在野の書評家」って 雇い主が銀行から借金して月給を払ってくれる身分と違うからなあ 雇い主がいないぶんだけ気楽ではあるが
フルヤンに指輪物語とペリー・ローダンと グイン・サーガと銀河英雄伝説とファイブスター物語を書評させよう
そういうの嫌いだからオタクになりきれないんでしょ
926 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/11(土) 03:03:10
927 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/11(土) 03:05:13
銀河英雄伝説くらいなら普通に見るだろ
みねえよ 長すぎ
星界の紋章でしょ、そこは。 結局古典的インテリなんだよね。古谷氏って。 ラフィールでオナニーできないわけだから。 ファイブスター物語、あれは駄目よ。 いまや純文は誰でも読めるが、SFを愉しむにはセンスと教養が要る。 そういう時代。 転さんが東大SF研だったのはつまりはそういうことでしょ。
>>929 古谷ってスレの反応見て日記でミスリードすることがあるよな(福永信の件とか)
だけどお前が示すワードは完全スルーなw
純文ww 言わねーよww
うわあこいつが転叫院とやらの信者だったのか 奴経由で「モダンアート」をわかったつもりでいたわけか
>いまや純文は誰でも読めるが、 今じゃなくて昔からだろ 天皇陛下から勲章貰った文士は大衆の味方だ >SFを愉しむにはセンスと教養が要る。 俺はSFを愉しめないからセンスと教養がないなんて悩んだりしない オタクになりたいとか東宮台の生徒になりたいとか思わない
ネットの物書きには理系オタク的な趣味で優位に立とうとする人が多いからねえ こういうのがスノッブ
935 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/11(土) 13:41:48
うんうん 話し相手がいないと人生は辛いよな
>>930 古谷氏が今、読んでいる純文の作家名とタイトルを言え。
937 :
930 :2009/04/11(土) 14:51:31
>>936 wはぁ?
なんだろうな?
最初は青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』かと思ったが、今日の日記を読むと
鹿島田真希の『白バラ四姉妹殺人事件』かと
違うかもしれないが、こんな感じでいい?
六000度の愛かと思った。 原爆が扱われてるから。
柴崎友香〜山崎ナオコーラ〜鹿島田真希 なんて分かりやすい流れなんだフルヤン
>>930 確かに古谷は情報を小出しにしてスレ民を試す時があるね。
ここの割合はだいたい美術5、文芸4、科学1。なのかな?
科学野郎は一人だからスレ民10人かよ!
知った上でのツッコミと気付けよ
じゃあノリツッコミで自己処理しとけ
ラジャ
さあ、スレも夕暮れ時だな。
サブタイどうしますかね
>既存の出版構造の中で、既に単著も出し安定した露出を見せるのが古谷利裕氏で、文芸批評を書く傍らで映画や美術に関するtxtも発表している。 俺からの候補はこれで 【安定した】古谷利裕の偽日記15【露出】
一度、科学くんにも伺いたいものだな 何かない科学くん?
950 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/11(土) 16:56:13
科学君っておれのこと? まあいいか。 【迫り来る】古谷の偽日記【脳科学】 これでいこうか。
却下だな 【迫り来る】古谷の偽日記【脳】 なら面白い
【ともかまき】古谷利裕の偽日記15【ぼくオナニー】 上品なのしか思いつかない ご免な古谷
>>952 お前が【カーボン】古谷利裕の偽日記11【だ簿ズ】名付けたろ?
この意味不明センス
でも純文よりSFのほうが敷居高いよね、今や。 純文は趣味さえ把握すれば、あとは応用だから最近読まなくなりつつある。 結局展開は高橋源一郎の初期作で終わったと思う。 今古谷さんが読んでいる偽史小説というのは、井上ひさしや佐藤亜紀ちゃんの領分でしょ。 歴史と現実が複雑に交差するという。 ちなみに俺もフィクション論というのは最近考えているんだよね。 ところでジブリの最新作は、「現代で芥川竜之介が探偵となって活躍するストーリー」なんだって。 思わず高橋源一郎の例の小説を思い起こしてしまったんだぜ?
>>954 ツリw
だよね?
一応ツッコんどいた方がいいのか?
サブタイは入試問題ネタにしてほしいってさ古谷が
あれ? 科学くんとSMバカは別人なのか?
SMは敷居高いよ
じゃあ 【安定した】古谷利裕の偽日記15【入試出題率】
>ところでジブリの最新作は へえええええ
SMバカ友達作れたじゃねえか、こんなとこだが・・
【短大入試】古谷利裕の偽日記15【文学部美術科】 意地悪過ぎかな?
不気味な沈滞マンション 。
画家と名乗りながら、画業をよそに文芸批評家としての足場をかためつつあるフルヤン、 しかし、この振る舞いを、戦略的迂回といわずになんといおう。
966 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/12(日) 01:12:46
戦略的迂回としての 平身低頭
中原昌也とどこかかぶる
田中秀巨がやってるみたいな経済評論も吹かしたらいいよ 文芸誌に載る文章を書くよりお金になりそうだ
経済以前に社会科学一般も知らないし、それを理解するだけの 簡単な数学も知らない。 ひたすら愚直にアートの中の二十世紀絵画の中の抽象を何十年も やりつづけている頑固職人だし。 それも良い。 そこで得た知見とイメージは文芸評論に応用され、広く支持されている。 「ひとつ、古谷さんに聞いてみよう」という本が出版されているだろう、20年後には。
抽象なんかやってねえって 古谷は抽象絵画を嫌っている
じゃあなんなのあのブラッシュは
静物画の一種だな
小説「スティルライフ」で文壇デビュー
抽象じゃなくて「象徴」です
何で勉強とか技術磨いたりとかないの、そういう展開 ほんとに十数年?ひとつのことしかやってない人ってはじめてみた。 この人粘着質タイプだなあ
A. 努力嫌いだから
自分が努力嫌いなのはいいんだけど、努力する人を皮相だと思ってるのはどうかと
この人の小説面白いだろうな。 「ぼくは散歩をしたのだった」 w
A. 努力嫌いだけど自己正当化には必死だから
A. 古谷を知らない人向けの一発芸としては大丈夫かもしれないけど作家の伸び代微妙
読んでいたのはたぶん奥泉の神器だと思うんだ
スレ立て頼みます 日曜ゆえ注意してね
【安定した】古谷利裕の偽日記15【入試出題率】
美術作家・批評家の古谷利裕について語りましょう。
古谷の単著が出ました。
『世界へと滲み出す脳――感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社、2008.7)
英米仏の映画・芸術・文学の理論・研究・批評に関する総合的な話題もOKです
美術領域:
英米美術雑誌『October』『Grey Room』やその国内導入(林)、
表象文化論学会の面々(田中、チェン、千葉、佐々木)、雑誌『SITE ZERO』、
UTCPなどの動向、写真研究会、photographer's galleryやその刊行雑誌の動きも含め、
岡崎乾二郎、彼が率いる四谷アートステュディウムと近辺の人々(石岡、平倉、有賀等々)や
雑誌『artitoc』およびサイト活動、
人脈が一部重複する批評誌『Review House』やその執筆人たち(黒瀬、伊藤、福嶋) まで幅広く
映画批評:
上述の平倉、石岡も交えつつ、若手批評家(赤坂、藤井)の活動、
表象文化論の層が関与するサイト「FLOWER WILD」をはじめとして様々に
書き込み人特定などの煽りはスルーしましょう。
荒らし行為や煽りが頻発していますので適宜スルーしましょう。
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/ (08/05/31(土)〜)
ttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html (08/05/30(金)以来、更新停止中)
前スレ
【ゲラ直し】古谷利裕の偽日記14【青ボールペン】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1237287609/
ETV特集「鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜」 (鶴見氏のこと苦手なのだけど、、)
新スレ頼みますよ…… テンプレはあと一つあるけど
鶴見俊輔、 限界芸術ってのは面白かったよ、現代美術って限界芸術になってたのかなって、感慨深いものがあったよ。
次スレ建てたから テンプレって何?
>>992 んなもん自分で読んで判断しろ
新書なんて1000円もしないんだから
現代美術のキーワードなら、BTでかなり前に特集があった。それがいいよ。 古本で売っていると思う。 まあ、全部スノッブインチキだから真剣に読む必要はないけどね。 キーワードなんて適当だし。
994 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/13(月) 15:55:20
>>990 俺も始めての構造主義とか読んで頭が良くなったよ
ラーメン屋のオヤジはなぜ食い逃げされるのかみたいな感じの題の新書と一緒に買った
995 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/13(月) 22:01:22
>>993 お前何に対してそういうコンプレックス出してんの?
BTスレ荒らしてたのも貴様だろうがw
暮沢どうのとかばればれなんだよW
脳内でやってろよ岡崎だって立派なインチキじゃねえかよ 藤枝にソース列挙されてばらされたろうが
パクリ岡崎信仰者は二度と巣から出てくんなよ?な? 知識がないからって吠えてんなニートが
996 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/13(月) 22:12:21
>>990 >>993 他のスレに激しくスレ違いな事、専門外分野への偏見に満ちた荒らしを行なう。
いい歳をして社会人たる努力を怠ってきた人間特有のモラルに欠けた言動の数々に辟易する、他スレの住人。
本当にいい加減にしてください。 不快です。
443 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 01:36:08
哲学板→古谷スレを経由して湧いてくるんだよね...、他スレにも。
美術なんて何も知らないんだからさっさと巣に帰ってほしい、マジで
444 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 01:39:27
批評を知ってたら感性が鈍いことにされちゃうのさ
446 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 01:44:13
>>445 海外動向はジャーナリストにやらせているじゃん
松井みどりとかああいう手合い
448 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 01:47:56
>>446 たのむから帰って・・・・
449 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 01:51:41
>>446 頭ごなしに偏見的だから、書き込まないで。貴方の知らない世界もあるんだからさ
997 :
わたしはダリ?名無しさん? :2009/04/13(月) 22:13:45
451 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 02:02:25
古谷スレは本当にどうにかならない物なんだろうか?
453 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 02:07:31
俺はこの板に滅多にこないけど、他板にいて古谷スレ宣伝されるのを見ると心底うんざりする
偏向した上で特定の議論がされてるのなら微笑ましいけど、そういうスレじゃ全然なくて、
議論は人頼みのやたらプライドの高い住人が多い
457 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 02:24:44
たしかに、そやね
458 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 02:33:22
>>451 乗り込めばいいじゃん
459 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/03(金) 02:37:32
>>457 >>458 なるほど、プライド高い
関係ないフリして引っかき回してももう無駄
元々ここ過疎ってるし 勝手にやってれば
531 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/11(土) 06:37:33
暮沢の解説ひどいな
これじゃ老アートは貧乏人とバカのためのアートって意味になる
532 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/11(土) 15:53:28
暮沢なんてそんなもんだろ
548 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/04/12(日) 17:29:26
暮沢は評論家なの?
キチガイ来る
>議論は人頼みのやたらプライドの高い住人が多い これは認めざるを得ないんじゃねお前ら
お前だろ
1001 :
1001 :
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