1 :
わたしはダリ?名無しさん?:
美術はどう鑑賞するべきか?
美術を鑑賞する意味はなにか?
美術はなにを語るのか、批評とはなにか?
今、美術鑑賞が問われる!
3 :
1:2009/01/20(火) 18:57:36
>>2 大真面目です
美術を受け手として受容することの意味をみなさんに問いたい
とかく創作者側の考えや理念が強調される今、
鑑賞する側の態度について語るべきことがある
4 :
1:2009/01/20(火) 19:59:49
現代美術においては受け手の視座が重要ですし、
また評価の定まったものに対しても自分としての距離の取り方、自分の趣向の反映のさせ方
をわきまえないと凡庸に有名どころを押さえたコレクションしか成立しません
何かと問うよりも1の考えていることをまず書くべきと思うよ
漠然とし過ぎてるから具体的に、
>>1は何処で何をどう見てそんなこと感じたのよ?
7 :
1:2009/01/20(火) 20:51:10
いや要は「いい鑑賞者」ってなんなんだろうと
あと個性的な鑑賞者であるためにはどうしたらいいかということですね
特に現代美術を鑑賞するなかで、作品をどう考えたらいいのかなど悩んだので、鑑賞する側のあり方を皆さんに尋ねてみようとおもいました
8 :
1:2009/01/20(火) 21:02:28
芸術の至上性って鑑賞者の個性と相反しますよね
素晴らしい芸術だとその前ではただの礼賛者になるしかない
そして自分なりに分析してみても過去の積み上げられた研究の焼き直ししかできない
鑑賞を主体的な体験にするにはやはり莫大な知識がなければならないのか?
だとしたらろくに知識もなく展覧会にきている人は何だ?
芸術家はそんな鑑賞者に何をしてほしいのか?
分からなくなるのです
9 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/20(火) 21:38:38
ろくに知識のない私が通りますよ。
単純に、心にぐっときたものが好きです。
好きなアートは人それぞれ。
何が優れていて、何が優れていないかといったことは考えません。
作品との個人的な結びつきだけじゃ満足しないの?
11 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/20(火) 22:32:59
1は芸術の奴隷なのか。
12 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/20(火) 23:05:18
暇つぶし
13 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/20(火) 23:11:52
14 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/21(水) 06:17:23
美術板にも、稀にいい鑑賞者がいると思う。
それは絵画史における位置づけや図像学、色彩学、宗教的寓意などなどを語ってるやつではない。
それは、ふっと、自分の言葉でどう感じたかをもらしたやつ。
こういのがビンと響くときがある。
目からウロコが落ちるというか、「ああ、そういうことだったのか」と感動させられる。
あと創作者が何を思ったかなどもあまり関係ない。
描きあげ、世に出した瞬間から作品はひとり歩きする。
どう観るか、どう解釈するかは鑑賞者の自由。
15 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/21(水) 10:41:30
>>11 好き嫌いで芸術を判断するやつはただ蜜が甘いから群がる蜂と同じ
自立した見方を確立させるためのなにかがあるはず
16 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/21(水) 12:30:29
芸術品に基準があると思ってるなら間違い
基準は個人が環境と経験から設定するもの。
したがって、好き嫌いでものを見る人も、投機目的で物を見る人も
その見方に正誤があるべきも無く、根本的には大差ない。
17 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/21(水) 19:35:07
>>16 じゃあそうした受け入れ方の多様性ってなんなんでしょうか?
私が疑問なのはホモサピエンスにとって美術とは何かということです
美術の意義を美術を鑑賞する側から語っていただきたい
>>12 世の中夜勤帰りで朝から寝てる人だっているんだよ?
引っ越しの時ちゃんと挨拶行った?
顔合わせたら軽く会話するとかしてちゃんとコンタクト取り続けてる?
日頃からそういうコミニュケーションが取れてればいつ洗濯機を回していいのか
いつ静かにしなければならないのか
迷惑を掛けないように生活出来るはずなんだが
19 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/21(水) 22:04:23
>>17 まず、美術に絶対性はない。すべからく相対的なもの。
育った環境によって、薔薇の香りを悪臭と感じる人がいるように、
鑑賞者の立つ位置によって、同じ絵画を見ていようとも
一律な捉え方にはなり得ない。
人が育った環境によって、方向性は与えられるが、
それから後は経験による訓練が左右する。
人にとって美術とはなにか。
有っても無くても命に別状は無いもの。
20 :
可能性 ◆20f3Yr2q/o :2009/01/21(水) 22:25:35
です
おまいら、学校で良い点取りたかったら
教科書や教師の言ってる通りに答えとけw
自分の考えなんか間違っても言うんじゃないぞwww
22 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/26(月) 18:43:13
なんだ、1は大学の面接対策でもしたかったのか。
23 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/02/01(日) 12:02:48
>>19 じゃあそういう風に相対的に人々に受容されるっていうのはどういうこと?
作品を通じてそういう多様性の世界をつくれるってこと?
24 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/02/01(日) 13:44:21
25 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/02/03(火) 21:06:34
>>23 多様性とはちょっと違う。
グルメと同じ、単なる嗜好品だからね。
>>25 そういう楽しめればOKな見方の人って表象文化とかどうおもうん?
>>26 興味ないか知らないかのどちらかじゃないの
28 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/02/04(水) 22:00:58
表象文化=野暮
29 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/02/05(木) 22:21:11
観光です。
30 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/05/01(金) 21:14:52
久しぶりにageますが、これはやはり面白いテーマ
ちゃんと騙れ
芸術に絶対性は無いってほんとかな?
例えば「和風」っていうけど江戸時代の人は和風とか考えてなかったよね。
洋風が入ってきて初めて「和風」って思ったんだよね。
だから「和風」は相対的なんだね。
でも洋風なものを見ても違和感オンリーではなくて、やっぱり美しいとか良いと感じるね。
相対的なものの中に普遍性が入り込んでるのかな?
フランス料理はおいしいじゃん。でもイモムシ焼いて食うのは勘弁だな。
これは相対的なおいしさなのかな?
32 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/05/02(土) 23:04:33
私は鑑賞する側に求められるものを知りたいなぁ。
私は美術関係に関して全くの素人だけど、個展とかにたまに招待される。
制作者へのリスペクトを込めて自分が感じたことや好きなところについて
自分なりの感想を伝えるけど、比較論や指摘はできないな〜。
やっぱりある程度そのジャンルについて勉強してから行くべき?
素人くさい疑問や質問も割とフツーにしちゃうんだけど、失礼だったりするのかな?
鑑賞する側に求められるもの=金
至極単純。
34 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/06/11(木) 02:57:15
まほみは
はでなことするなというふうに
あやふやに
いってお
あやふやに
35 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/06/12(金) 23:03:55
あたしの部屋
美術を鑑賞してきた部屋に
みえないんですっがががががががあ
ここ10年でもーむちゃくちゃーーーーーー
36 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/06/27(土) 06:27:15
糞スレかと思ったら、意外に良スレじゃないか
37 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/06/27(土) 12:57:48
過去の美術作品を鑑賞するときは、その作品の作られた歴史的な背景や美術史の流れとかの知識が必要なのでは?
でも現代の作品だったら、その時の自分の感じるままに楽しめばいい気がする。
まあ作品にもよるかもしれないけど。
38 :
1:2009/07/02(木) 12:45:31
よい鑑賞者じゃない鑑賞者(知識がなかったり、ノリで見たりする人)と美術品の関係って何なのか
39 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/02(木) 17:37:17
偏見、固定観念を捨てて子供のような状態で見るのがいいと思うね。
有名か巨匠かマイナーか、油、日本画、アクリルテンペラ、西洋、東洋
とか一切関係なく、いいか悪いかだけなんだよな美術は。
うまい下手より感情や美的感覚に訴えるかが重要だな。
芸術を体系付けて、学問として考えるのは専門家だけでいい。
その専門家も本来は偏見を持った見方は捨てるべきだと思うが。
40 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/03(金) 17:03:51
自分は作る側だけど、「美術って分からないから・・・」って言葉を聞いた時がちょっと悲しいかな。
美術自体に興味が無い場合はともかく。
見る側になるとやっぱりどこか正しい知識が必要で専門的な批評ができなくてはならないっていう
脅迫観念が出てくるのかな。
好き嫌い、上手い下手、なんとなく感じたことを言う、作者の意図を考えてみる、
他の作家との比較、美術史の文脈から、とかどんな視点から見てもらっても
別にかまわないと思うけどな。
分からないなら分からないでその作品に対してはただ単に何も感じなかったってことだし。
鑑賞者はこうあるべき、とか考えないで好きに楽しんで見てもらえればそれでいいと思う。
そのほうが色んな意見も出てきて面白いんじゃないかと。
41 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/03(金) 18:48:53
>>40 >好きに楽しんで見てもらえればそれでいいと思う。
そういう人の役割が気になるんだよね。批判家とか買う富豪とかの役割は注目されてると思うんだけど。
> そのほうが色んな意見も出てきて面白いんじゃないかと。
まあ的外れになっちゃうと思うけどね…
42 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 01:30:46
先日、関西某所で「没後10年・正井和行展」を見たんだが
複数の作品の月の部分全てにスポットライトが当ててあってビックリした
繊細な日本画なのに・・・、こんな展示あり?
ほとんどが大分県立芸術会館からの貸出だったけど
大分でもこんな展示法なのかな?
43 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 01:54:48
>>41 的外れ、とか気にしなくてもいいんじゃないかと思う。
確かに、批評家が文章書いたりコレクターが作品買ったりすることで美術の重要性は増すし、
それが作家にとっての制作活動の支えにもなると思う。
でも、作品は見た人がそこで何かを感じるって部分が大事な気がする。
気軽に見て楽しむ人が増えれば美術はもっと身近なものになるだろうし
作家の活動の場も広がると思う。
巨匠の名画だって見て楽しむ人がたくさんいるからこそ今でも価値が認められてる
って部分もあるだろうし。
気軽に美術を見る人が増えれば美術館の収益が上がってさらに良い展示やコレクションができるだろうし
作家側も見てくれる人、感想を伝えてくれる人がいるだけでも励みになると思う。
こうあるべき、と決め付けて鑑賞者を限定することのほうが危険な気がするなぁ。
44 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 02:03:34
>>42 あんまり鑑賞方法を限定しないでほしいよな…
45 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 17:27:34
>>44 作家の許可を得ているならともかく
奇をてらった展示は失礼な話だと思う
46 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 22:40:24
じゃあ素人の感想を大量に集めて解析したら面白いと思う?
誤解されてるけど、自分が興味があるのは鑑賞とは何かなんです。
創り手のモチベーションは純粋な創作意欲、時代の影響、売れセン狙いとか分析されてるけど
それ以上に美術の受容のされ方って多様じゃない?
批評する奴、買う奴、鑑賞する奴、それぞれの中にも色々な立場の人がいるっしょ
47 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 23:30:58
面白いんじゃね?
48 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/04(土) 23:46:38
>>46 46は1かな?
鑑賞とは何か、と聞かれるとちょっと抽象的すぎて答えづらいかな…。
良スレだとは思うけど。
ちなみに46はどんな鑑賞者??
展覧会の好みとか、作品にもよるかもしれないけど実際に鑑賞するときに
こんな視点から見ることが多い、とか何かある?
49 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/05(日) 15:31:57
>>48 1だよ〜
作り手のメッセージを受けとる側の作用って何なんだろうってことさ。単純に記号ってわけでもないだろうし。まあ記号論とか知らないんだが。
自分は、趣味で美術館に行く程度なんだが、うーん、どう見るかというと、たとえば、エミリーウングワレー(だっけ?)だと
大地を撮影した航空写真や地形図のようにも見えるし、砂粒ひとつひとつをクローズアップしてるようにも見えて、巨視性から微視性まで内包されてる広がりのある作品だなあ、あとは抽象なのか具体なのかとかそこらへんにも遊びがあるね
とか自分なりに考えて、カタログの解説とか見て似てる考察とかあるとニヨニヨしたりするのが好き
50 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/05(日) 15:54:39
ただ、そうして遊んでたら本格的な批評や表象文化学なる学問が気になりだし、
ガチガチのコンセプチュアルアートでは人より深く解釈しようと焦るし
装飾的な日本画や工芸は楽しめなくなり
ってときにスレを立てた
で一時放置してたのは、所詮、文学でいうテキスト論みたいな話にしかならないかなあと思ったから。受け手と送り手のコミュニケーションですみたいな
51 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/05(日) 16:08:52
で、考えたのがモチベーションの問題でさ
作る奴と見る奴のコミュニケーションとかいうけど、見る方はそんなに気張ってる奴いないじゃん?って問題
この作品を作ったのは私ですっていう奴はいるけど、この作品を鑑賞したのは私ですなんて奴はいないでしょ
強いて言えば、ピカソ研究の権威であられる○○氏みたいな奴との間じゃないと
コミュニケーションとはとても言えないと思ったんです。
だいたい研究者にしても見解で割れて多様性や複数性があるだろうし
一つの作品からそんなに色々と立ち上がってくるってどういうことなのか、みたいな
まあそれもコミュニケーション不全を楽しんでるんだ!とか言われたらそれまでな気もするけど
52 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/06(月) 01:21:54
>>49 自分も似てるかも。
コンセプトを読み解いたり、今までは考えもしなかったことに面白さを感じたりするのが楽しくて
主に現代アートを見に行くことが多い。
日本画とか工芸みたいな伝統的な美術もやっぱり同じような視点で見てしまうわけだが
ちょっと違うのかなと感じたりもする…。
あと個人的な考えだけど、
研究者や評論家は、作品そのものについて述べることが目的、と言うよりは、その前にまず
美術や歴史、その他のことに関して自分なりの立場や見解なんかを持っていて
それを主張するために特定の作品を利用している、という面が強いのかなと思う。
だから一つの作品に対しての見方もその作品の位置づけ方もまったく異なるのではないかと。
ただ、そこまで明確な立場も主張の必要性も無い一般鑑賞者とはやっぱり相容れないのかな…。
たくさん作品を見てるうちに鑑賞力?みたいなものが伸びてきた気がする
最初の頃はどの作品見ても???って感じで何が面白いのかよくわかんなかったけど
だんだんと色々考えられるようになってきた
54 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/09(木) 11:59:42
>>52 研究者は科学的でなく権威主義、肩書主義だから、ときどき疑うこともある。
55 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/17(金) 17:29:35
展覧会について研究してる学者とかいないのかな
または、「展覧会」自体をテーマに据えてる現代美術家とか
美術館学なんて散々やられてる分野じゃん
何言ってんの?
57 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/23(木) 11:27:10
>>56 だから教えて教えてしてるんでしょ
論文やその手の本もあげられないくせに非生産的なレスはやめてもらえないかなあ?
それとも美術館学って言葉だけ聞きかじっていい気になってる感じ?
58 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/23(木) 11:33:55
>>56 散々やられてる分野ならさぞ資料もおありでしょうからどんどん紹介して下さいね
スレタイに見合うものに限ってたのみますよ。観者ね、あくまで、テーマは。
インスタレーションとか空間芸術とかそういうことではないから
59 :
私はダリ。妻はガラ。:2009/07/23(木) 20:46:04
話が理屈っぽくて、読むのが嫌になっちゃいました、このスレ。
60 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/28(火) 14:37:31
つまり素人の印象批評でピカソだモネだとキャアキャア騒がれてる状況って何?って話なんだろ?
別にそんなの何でもないだろ。ただ知識のない人たちの社会があるってだけでしょ?
飲み屋で小泉竹中のせいで不況だどうの言ってるやつらの意味は何か?って言ってるようなもんじゃん
61 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/28(火) 14:58:28
参加型アートは単に双方向性をテーマにしてるだけじゃん。
パッと見て面白いもの単にマスに媚びてるだけだろ?中間小説みたいに。
それ以外にマスが美術を動かすファクターとして機能するとしたら、来場者数だとか知名度とかだろうけど、そういうのに対する分析はもはや社会学の域だろ
メディアがどれだけ広告ぶったかとか関連書籍の数だとか、そんなもんに作用されてる程度だから。パトロンみたいに見る側として美術に作用するなんてありえないよ^^
62 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/07/29(水) 00:11:20
>>60 これすごく思います。芸術家の名前だけで作品判断しないでほしい。ピカソ=すごいみたいな認識に囚われてる人が少なからずいるよね。
むしろ日本にある(借りてくる)作品ってどこがいいのか分からない作品多いし。
問題の一つは作品の見方を知らない人が多いことかと。
現代アートとか抽象になるとよけいに分からなくなるけど、作品は偶然とかでできてるわけじゃないんだし。
構図、色彩、表現(マチエーユ)、彫塑ならムーブメント、マッス、ポロポーションとか、
そういったものを考えて芸術家は手を入れてて、そのことを見る側も知ってなければいけないと思う。
そしてそれらがあることで作品に及ぼす効果、作者の意図、表現の難しさなども知っているべき。
そう言う自分もまだ勉強中だから人様に面と向かって説教できないけど、ここで吐き出させてください…。
63 :
1:2009/07/31(金) 12:07:25
どうぞどうぞガンガン語っちゃってください
60、61も自分なんでw人がおらんのです
あと、ここまとめができてるのな。びっくりした
以下そこについてたコメント
j0hn 2009年07月06日 14:04:05
国立新美術館のみにいったけどオーストラリアの白人ってグロテスクだなぁ、と思ったな→ 「エミリーウングワレー(だっけ?)」 (白人に「教育」されるまえの時代の作品がちよっとだけあってそれがよかった)
jtw 2009年07月06日 16:02:45
じーっと見ていたくなるのが自分にとっての良い作品。良し悪しなんて良く分からん。真贋なんてさらにわからん。
nanahusi 2009年07月06日 20:01:20
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6778264。芸術品の鑑賞、真贋の問題を哲学的見地から解説した動画です。面白いです
toriatori 2009年07月07日 02:37:18
美術の授業で「鑑賞」があって、教科書の絵を見て感想を書かされた。その感想には正解があった。そんなことを思い出した。
uta-2007 2009年07月07日 09:22:58
美術史や批評史の教養を抜くと、好き嫌いの印象論しか残らんよな。Web時代で、「○○の○○が好き!」と表明することに若干の意義は出てきたかも
64 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/08/07(金) 02:59:56
65 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/08/10(月) 00:04:25
バリ島大好き画家、大角拓央に聞いてみよう☆
66 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/08/13(木) 11:19:49
お前らバカすぎてもうやだ
芸術デザイン板行けば?
語るのが好きな人たくさんいるみたいだから
結論から言うと「鑑賞とは、表現にバックグラウンドを与えるものである」と思う。個人的には。
>>1 のいう「美術」の定義が解らんけど、音楽や文学に対立するものとして「視覚的な表現」全般を言うとしよう
絵画、彫刻、建築、陶芸・ガラス、家具、服飾
装丁、紙面広告、テレビCF、PV、家電デザイン、
映画、アニメ、CG、マンガ、フィギュア、ゲーム etc
これらの違いは何か?
たとえば、
・美術館に飾られるポップアートと広告の違いは何か
・インタラクティブアートとゲームの違いは何か
・彫刻と食玩フィギュアの違いは何か
背景に思想を持つか否か、実用か否か、商用か否か、いろいろな意見があると思うけど
自分は、それらひっくるめて「表現を受け取める側の集団の属性」で分類されるんだろうと思う。
「表現を受け止める側」はいろんな呼ばれ方をするだろう
鑑賞者・利用者・消費者・コミュニティ・マーケット...etc
いずれにせよ、表現者は彼ら受け手に向けてメッセージを発信するわけだから
表現は受け手とコミュニケーション可能な形態で行われなければならない。
つまり表現は受け手のコンテキスト(社会的・歴史的文脈)を包含しなければ成立しない、ということで
結局
>>50 のテキスト論の話になっちゃうと思う。
だから「鑑賞とは、表現にバックグラウンドを与えるものである」と思うわけです。
で、
“表現だけじゃなくて、その表現を乗せるための社会的コンテキスト(バックグラウンド)をつくることこそがアートだ!”
っていうのが今のアーティストだろう。
すると、表現者と受け手が共謀してコンテキストを作ることになる。
そして「アート」は限られた人たちの間でしか流通できない表現になって、
>>1 が悩む羽目になるんだろう。
えーと、これまでのスレの内容、ほとんど読ませて戴いておりません。
「鑑賞するとはどういうことか?」←幻影を経験する事です。
ドビュッシーは海へ行っても泳ぎもしないで、雲をずっと眺めている少年でした。
単純な言い方をすれば、その幻影を体験する前に行動を始める性質は、実業家には
向いていても、芸術には向かない(ありえない)のではないかと思う。
セザンヌ擦れでは・・・、『自分はセザンヌの芸術を知っている』とする人は、
ある種の共通の幻影を経験していないだろうか?
(セザンヌの眩暈を発展させたようなものを、まったく感じの違う岸田劉生の絵から
感じたことがある。「こいつは何かやりやがったな」と思って、しばらく絵の前を
離れられなかった。)
レオナルドしかり、光琳しかり、何らかの神秘体験、幻影の経験を経てから、
私はその芸術を理解した事にしている。
(昔のモナリザのスレより)
中世の神秘主義者は、世界に神と自分だけが残っても、
「世界は同じままだ」と体験した。
会社のエレベーターを社長と一緒に乗ってしまった時、
世界には自分と社長だけだと感じて緊張する。
恋愛で自分と相手だけの世界を体感する。(高揚期)
そうゆうもの・・・・。
個人的な神秘体験だが、白昼夢を見たことがある。
空中に、モナリザのような鋭いまなざしでこちらを見て、微笑みかけている
白っぽい『顔』が浮かんでいる。(自分から抜け出した魂なのか??)
それに向かって私は笑いながらも、(とても緊張していて)
「分かった、分かった、分かった。」 と、三度答えた。
しかし、後から何が分かったのかさっぱり分からなくなった。
意識を自分の回りに俯瞰させる。
瞑想すと・・・、「アルキメデス」を連想した。
ああ、質量に関係するのか・・、
質量は変わらないからか・・・。
***********************************************************
枯山水の庭を『ぼうっと眺める』必要があるのは、何の為だろうか?
>>70 の言わんとされてるところは、
より正確には「作り手の経験した幻影を追体験する」という意味ですか?
>>51 >作る奴と見る奴のコミュニケーションとかいうけど、見る方はそんなに気張ってる奴いないじゃん?って問題
でも見る者に気張ることを要求するのがアートでしょ
唯一例外は印象派のみと思う
74 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/08/14(金) 23:08:51
↑視野と許容範囲が狭い。
>>72 違うよ。
ピカソは、アフリカの彫刻を知って、アフリカの仮面を作る職人になった訳じゃない。
その時ピカソが『アフリカの美術そのもの』を製作しなかった理由は、
(アフリカ美術への)観賞力が足りなかったから、だろうか?
文章を読む事で言ったら、
@国語の現代文の読解
A読書後の感想文
@とAどっちが美術鑑賞だと思う?
>>68 作品の定義の仕方がおかしい、と言うかね、モノを考える上での
《主語》と《目的語》を取り違えている。誰が鑑賞するの?
作品は、完成した物としての品格を持っているから、それ自体がリナックス
みたいに変化して行ったりしないよ。
作品だけ残って、人類すべていなくなったら美術の進展も無い。
『論理』は、自分の知ってる範囲で理屈を捏ねる事ではなくて、
世界の果てから、もう一方の果てまでを想定して、特に《前提条件》を読み取って、
仮説を立てたりして作るもの。(誰にでも分かるように説明する事)
前提条件が変われば、始めから作り直し。
前提条件が読み取れない人には、説明しっぱなし。
池田満寿夫は『偶然性』に任せて銅版画を制作したけど、
彼が'60年代に賞を取ったもの、もれなく原型的イメージでもある。
(深層心理学のユングね)
「違うよ」と言ったけども、私が見た幻影、あなたが見た幻影、
同じものだって事は十分あり得る。理由は、同じ人類だから。
その時は、「ああ、同じだったね。」違ったら、「違ったね。」
で、おしまい。
形や色が様々なタイル張りの模様をぼうっと見ているのと同じだよ。
良い作品というのは、こちらを遊んでくれるもの。
77 :
73:2009/08/15(土) 00:05:34
78 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/08/15(土) 09:46:27
だ・か・ら、木炭画家・大角拓央に聞いてみよう☆
参加型の作品、見に行った人が作品に何か残して行く類のものは、[車のハンドルの
遊びの部分]だと思った方が『鑑賞するとはどういうことか?』に行きつくと思う。
>>46 普通の人ばかり100人集まっても『普遍』にたどり着かない。
道を行く人の中に『車イスに乗った人』が一人通り掛かると、『バリアフリー』という
発想が生まれる。そのバリアフリーが『普遍』になる。
普遍に至るには、必ず『特殊』が必要。
琳派のころの数寄者、今の世の中でも名前の通っている画廊には、それなりの
目利きの客がいるはず。そういう人たちがいなければ美術なんて無いと思う。
もう一つ、最近よく考える事は美術家が心理学などの成果を余り取り込まない事。
フランス料理の一流の料理人と話をしてみると、実に頭がよくて、(制作中)常に科学的思考を
している事が分かる。『火加減』と俗に言ってしまうけど、『焼く物の体積と火力の関係』
のことで、それが長い年月をかけて、しっかりと理解されている。
ttp://www.umamikyo.gr.jp/knowledge/component.html どういう工程で、上記のような『グルタミン酸』が素材から出てくるのか、
スラスラと答える事も出来る。
そういう、料理人と話をしていると日本の料理がどれだけ進展したか実感できるし、
彼らが、『美味い・まずい』を【ごまかせない世界】に居ることが分かる。
美術の世界は、その誤魔化しが割と利いて、『眉つば』っていうのが結構、
(大家として)名前が通っていたりもします。(そこが面白いのかもしれないけど)
『グルタミン酸』に当たるものは、心理学上の発見の類、だという事です。
上質の絵具が良い絵画の材料だと、思いたい人は思えば良い。
>>77 『人類とは?』って、たまにヒマな時に考えてみると良いと思う。
作品の受け取り手である人類には歴史家もいる、文学者もいる、科学もある。
歴史家が絵画を見て発見した事に、なるほどと、頷かされる事もある。
>>14 彼のレスが一番良いと思う。
82 :
1:2009/08/30(日) 00:05:36
ご無沙汰です
結構伸ばしてくれましたねありがとうございます
今は忙しいのでレス近々読ませていただきます
美術鑑賞版のスレッドは、そんなに早くは沈まないから、数か月後でも
2〜3年後でも見られるよ。
>>80 芸術の効能は『味の素』みたいに単純に喜ばれるものばかりでもない。
自分が池田満寿夫が好きな理由=『女性と子供にやさしい原型的イメージ』だから。
そういうものは、世の中に実に少ない。
原型的イメージは、文学では起承転結の『転』、物語(あるいは社会)を大きく変えてしまうだけの
強力な力がある。
日本には『女性は満月を見てはいけない』という言い伝えがある。
・鏑木清方の日本画では、美女は満月から顔をそむけて描かれる。
・芝居では、満月が舞台に出た後で、これまで喜劇だった内容が悲劇になる。
・日本画でもろに満月を眺めている女性は、かぐや姫か紫式部のような特別な女性のみ。
ET(スティーブン・スピルバーグ)での原型的イメージは、テーマ音楽が流れ、自転車が
宙を舞うシーン。人間が住む町から、UFOが停めてある山へ向かう事が象徴に繋がる。
(映画の前半、体も小さくてグロテスクな宇宙人は人間社会で虐げられている。)
(後半では、立場が逆転し、人間の力を圧倒している。)
トランプの大富豪における『革命』のような力は、やり方によって、毒にも薬にもなる。
池田満寿夫の'60年代、ベネチアビエンナーレ・グランプリ作品は、どれも、
それぞれの小世界において、『ETのクライマックス・シーン』になっている。
だから、楽しいに決まっている。
84 :
1:2009/09/01(火) 02:14:24
まずご無沙汰の理由から書きますと
ミュージアム学について書いてくれた人がいたんで調べたら
ミュージアムは本質的に教育施設なわけで、展示によって客に多様な見方を…なんて自分の考えは根本からズレてたのかなと思ったんです
正統な研究成果を人々に伝える啓蒙施設ってのがミュージアムの本質なんだなあと
現代美術においてどこまで妥当かってのもあるけど
なんかそれ知って萎えちゃって放置してたんだ
あのさ、『学』なら当たり前じゃない?
86 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/02(水) 21:28:51
学問ならそういうわwてこと?
87 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/06(日) 06:54:38
あくまで答えにならんことを前提に他のスレでも見かけたけどArtというものは詰まる所、作品と鑑賞者との関係性に名前をつけただけだと思う。
他の方のレスでも触れてたけど何かを見て美しいと思った所で、その美しいという感想自体はArtではなく、同様に作品自体もArtでもない。
解りづらいかもしれんけど鑑賞者若しくは制作者でもいいけど、作品との間に生まれた関係性についてArtという概念が生まれたのだと思う。
概念が生まれると今度は概念自体が勝手に独り歩きして美術やArtという絶対的なモノがあるかのように錯覚するけど、んなもんはないわなと思う。
制作者と鑑賞者の違いは相対的なものだと感じているか絶対的なものだと感じるかの違いだけだと思うけど、
それはとんでもない違いなんだろう。
君は正しい僕も正しいって事なんだろう。
88 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/06(日) 13:02:13
>鑑賞者との関係性
便利な言葉だがちょいと便利に使いすぎじゃないだろうか。
例えば日本では富士山は和歌に絵画に繰り返し描かれて来たモチーフであるわけだけれども、
それはまず富士を見て感動するという率直で強い感動の裏づけがあって成されたものに違いない。
現代でも初日の出を見に人が集まるということには動機として古来の心情に近しいものがあるのは間違いない。
でここで問題になるのはそれぞれが富士を見て「感動した」という時、
それがどこまで収束性をもっているのかということだ。関係をいえば
この場合鑑賞者は「富士を見に来た人」であり、作品は「富士」に当たる。
その「感動した」はそれぞれに“完全に一致”するものといえるのか?
あるいは単に“相対的”な感動に終始するのか?
あるいは鑑賞者が「何一つ感じるところは無かった」と言う時、それは正当な感想といえるか?
こう言う風に自然に即して考えれば少なくとも問題ははっきりしてくるだろう。
美術・芸術を語る場合にしばしば一般人が我知らずつまづいてしまうのは
それが人の手によって作られた作為的・恣意的なものだ、という前提を無意識に作ってしまうことだ。
そういう場合もあろうがそうでない場合もあるという可能性を我知らず逃がしてしまう。
だから作品の作為・恣意の部分を探ろうとして、それに何らかの感想を持った時点で満足してしまう。
なんか書いてて疲れてきた…
凡庸に流れておしまいなさい。
料理をやってる人たちの世界と、美術の世界の違いっていうのは、
ガラさん辺りからレスが欲しかった。
(差違は価値である)美術の鑑賞力の違いっていうのも、その人たちの価値だ。
作品の受け取り手は『人類』だと言っても、そんな内容はスルー。
>>88 『作品』定義しないで答えが出せるなら出してみて。
一個の事例を説明したいが為に、歴史まで取り除いてしまってないかな?
90 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/06(日) 21:24:28
>>88 87です。少し不思議に思ったのですが、何故鑑賞者との関係性という言葉を論じる時に収束性という言葉を論じてしまうのでしょうか?
2つの言葉は全く違う意味を持つと思いますし、逆説として比較しているようにも読み取れませんでした。
貴方の視点からの作品の完結とはどの時点を意味しているのでしょうか。
71 について
演歌をやってる若い人がTVで『北島三郎』に対面したとき、
ものすごく緊張していた。
彼が、その時『北島三郎』に見ているものは、『自分の将来』であり、
『進むべき道』であり、『自分の完成した姿』とも言えるのだろう。
私は、北島三郎にあってもあまり緊張しない。
見出すものは、『普通のおじさん』である。
わたしは演歌に興味がないから。
>>7 >>あと個性的な鑑賞者であるためにはどうしたらいいかということですね
⇒自分の気になるものをとことん気にして行くこと。
そうすると、辞典をペラペラとめくって行くだけで、探しているものは自分の
手元にやってくる。『偶然』と呼んでも良いけど、自然よりも人間に近い偶然。
>>83 これから選挙に行こうと思ったとき、『変容の象徴』について書き続けている。
(この時まだ、民主党は圧勝していない。)
気になったものを探求していくと、味方をしてくれる『偶然』がある。
タイトルを自分の問題或いは一般的な問題として捉えると、陥りやすい事として鑑賞するということを観念的に捉えてしまう事が網膜を騙してしまっている事が多いと思う。
それは作家にもいえる事なのだけど制作が肉体的な手作業である以上、観念から自分の予想を超える物が生まれるということはないわけで、それは即停滞に繋がる。
現在の多くの作家が意識的、無意識的に拘わらず 大きな停滞の中にいるわけだけど結局愚直に自分と向かい合い手作業を通して物質と関わり続けていく事でしか抜け出せる道は無いと思う。
翻って自分が鑑賞者になった時、ずいぶん前から作品の質をそれほど重要視していない自分がいて、
それよりもその作家にとって新しい領域で何かを掴み取る制作が行われたのかどうか精神的な活動を主眼においていることに気がついた。
独善的かとも思うけどそれほどズレていないんじゃないかなとも思う。
93 :
1:2009/09/13(日) 16:47:42
ちょっと自分の問題意識と似た話を東浩紀がしていたんで報告
東浩紀が対談集で萌えアニメとか広告はもう解釈学が通用するようなシリアスな受け手の態度を前提に批評するより、社会学っぽくやった方がよくね?
て言ってました
で、自分は美術も見方決まっててるけど、一般人に与える影響は様々なわけでそうした方の分析もすべきなんじゃね?
って考えてたんだ〜ときづきました
>>93 今の美術業界が開かれた商業主義に徹していたら社会学的な切り口からでも問題ないと思いますが、
現状では難しいのでは無いでしょうか?
というより本来は開かれている分野なのにそれに気づかれていないという事が一番の問題だと思いますし悲しい事だと思います。
96 :
1:2010/06/03(木) 12:34:10
久しぶりに書き込むけど、美術を鑑賞する層要は、買ったり研究したりじゃなく単に美術館に行く層てどう位置づけるべき奴らなのかな?
そんなもん暇つぶし以外のなにものでもない
98 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/04(金) 00:11:19
下らんスレ
99 :
真紅の稲妻 ◆RAIDEN/jf2 :2010/06/04(金) 00:45:04
話の進歩の無さは「他人をバカにする態度」に原因があるように思えます。
念の為に言っておくと、欧米で美術館へ来た人に「どうして美術館へ来たのか?」
アンケートを取ると、一番多い回答は「(理由は無いけど)ぶらぶら立ち寄っただけ」
です。
ぶらぶら立ち寄っただけの人たちが、美術館にとって最も重要な顧客であり、それを理解できていない
(特にバブル期に造ったような)日本の美術館は「人が入らない」とぼやいています。
>>正統な研究成果を人々に伝える啓蒙施設ってのがミュージアムの本質なんだなあと
(↑理解できたのではなかったのか?)
一般的な美術館の客を否定したら、美術館学も成り立たないだろうし、複数のレスから読み取れる事は、
そう言った『ごく普通の』美術館の客より、自分が高尚な者だと思っていないか?と言うこと。
>>75で言った @国語の現代文の読解 も出来ずに停滞しています。
100 :
1:2010/06/05(土) 23:07:08
>>98 俺もそう思った
「美術館に見に行くこと」を特別視しすぎた気がする
「鑑賞」の定義は別にどうでもいい話だったかもな
なんつうかどこの分野にもいる「ちょっと目の肥えた部外者」みたい奴らに興味があったのかも
101 :
1:2010/06/05(土) 23:18:30
>>99 なんか学校に例えるとわかりやすいような気
啓蒙という本来の美術館の意義から考えると、美術館は魅力的な教師みたいなスタンスがベストなのかなあ
一般客の取り込みのためにたまにする変なプロモーションは予備校教師の演劇がかったパフォーマンスで
来てる客の態度の多様性のおもしろさは要は
途中送信すまない
要はバカな奴からできる奴まで混在している学級の面白さと似ていると
一般人は娯楽のひとつとして美術館に行くわけでしょ。
でも他にも娯楽はあるわけで、球場でも映画館でも水族館でも図書館でもなく美術館に行く人は
何を求めて行くんだろうか。
人それぞれ
だよね☆
つまり「美術を鑑賞するとはどういうことか?」という問いが漠然としている
上でも言われてる通り美術館は一応、啓蒙のための場所なんだよ。
水族館とか動物園とかもそう。だからこそ国が金出したりしてるわけだし。
だから美術関係の教養をつけに来ている、ということに
変な企画展とかビエンナーレとかギャラリーに個展見に行くとかはむしろ映画館に映画を見に行く感じに近いかもしれないけど
基本はやっぱ教えをこいに行ってるわけでしょう。現代美術も美術館でやるようなのは評価がある程度定まっているものばかしだし。
>>107>>108 そうですね
日本の動物園にコアラがやってくると、動物園で一生懸命生態を観察して、
本国のオーストラリアより研究が進んだんです。その研究成果を受けて我々が
『コアラ』という動物を正確に理解する場が動物園。
50年前の日本人より、我々の方が正確にコアラを理解している。
江戸時代にも見世物小屋と本草学があったけど、もしも両者が一体になっていれば、
現在の博物館と基本的に同じです。
(
>>68だから、表現(作品)にバックグラウンドを与えるものは寧ろ研究だろうと思う。)
(あと、AからA´みたいに変化して行くのは鑑賞する側の「人々」「人類」。)
国立新美術館は最初は展示場だけで計画されていたから、学芸員がいない所へは
絵画の貸し出しも出来ないとフランスから言われた。それで学芸員だけは置くことに
決めた。ある意味当たり前で、作品と研究が一体になっているから美術館です。
>>103 勝手に娯楽だと位置づけると、また話がゼロに戻る。
110 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/07(月) 19:24:36
ウチの近くの美術館には、そばの公園でウォーキングした帰りに
休憩しにくる人や、暇で毎日座ってる人や、ママ友とベビーカー
押して来て、子供が泣いてもほったらかしでおしゃべりしてるのとか、
美術うんちく語る相手を求めて徘徊するじじいとか、
空調があるからやって来て時間をつぶす輩とか、
お友達がサークルの作品を並べてるので来てみたとかのオバサン
とかがいっぱいいる。
玉石混交ですね
112 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/08(火) 04:21:05
このスレは哲学に近いね
>>110 先ず人が入ってくれる事が大切な事で、そこで揚げているものでは美術館学の原理・原則は
崩れていません。マナーとしても、大声とベビーカーくらいしか問題は無いと思います。
300億円も掛けて造った最近の美術館に託児所も無いなら、行政に問題があるとも思います。
重要な点は
>>108の言う『美術館に教えをこいに行く』というのが浸透していない事。
学芸員がいて、最新の研究で裏付けされた品を展示しているのが美術館なので、現代美術などで
見方が分からないものはどんどん質問すれば良いと思います。
>>104 『人それぞれ』とうのは
>>75 @対象がコアラならコアラだときちんと伝わってから、
A人それぞれ、です。だから、社会全体でもこのスレッドでも、同じ事が起こっている訳です。
@表現(言葉)がきちんと理解されてから、A反応があることで、スレも前進するので。
×揚げている ⇒ ○掲げている
115 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/20(日) 13:23:23
>>103 すべてを理屈で割り切ろうとしてはいかんがな。パンテーを集めて悦に入る人
もおる。単に好きか、あるいは他のことより少しは好きだから美術館に行くん
だろう。
無意味なスレ
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
118 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/21(月) 08:45:17
119 :
わたしはダリ?名無しさん?:2010/06/22(火) 13:21:45
どうでもいいよ
ひとそれぞれなんて建前で、
結局小林秀雄や青山次郎の言うことに平伏してるんだろ