前スレ終わりごろのムード ・読書会やってみてもいいんじゃないか ・やりたいねえ ・脱線していろいろな話が出るのもこのスレならではだし ざっくばらんに平行進行で混ぜていこうぜ ・英語文献読むのもいい ・外語文献なら短いものにするか、よほど代表的なものにするなどしよう クラウスの既訳物読みながら、クラウスの短い英語論文読んでみるとかとっつきよくしよう ・ちょうど永瀬のルイス分析言及があったが、フリードの縮小再生産なので Art and Objecthoodに入ってるルイス論とかどうよ
フリードのルイス論は二万円するのか 高いな
画集の古書ってそんなもの 重要なエッセイが入っていればなおさら
Art and Objecthoodは手頃だからいいかもな
じゃあとりあえずそのルイス論ということに決めたらいいんじゃないかな
>Art and Objecthood とりあえず俺は持ってないのでこれから購入することになるといううつけものなんだが。 必読だろうし、この機会に買おうっと。
画集買うならエルダーフィールドの方がいいよ
13 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/12(水) 17:52:28
読書会やるなら読書会用wikiを作ってはどうだろう それだと実際に行けない人でも参加できるし、継続的にフォローできるし
実際に行けないって……やるとしたらスレでだろう。 まとめやある程度じっくり書くために、wikiかどうかはともかく 何か場所をサブに設置した方がいいというのはあるが、 そういうのは読書会の進行次第で後から決めた方がいいと思う。先にやると大体企画倒れになる。
普通に勘違いしてた、スンマセン
16 :
sage :2008/11/12(水) 18:29:17
wikiいいなぁ。その辺の注訳とか、
日英の文章問わず、本か雑誌か問わず
このカタログにあの人のテキストのってるよ!と纏まったガイドラインみたいな項目があると良い
「マチスとピカソ」に、イヴ=アラン ボアが書いてるとか
Jeff WallのカタログにThierry de Duveが書いてる(日本語版もあったかもphaidon)
http://www.phaidon.com/Default.aspx/Web/jeff-wall-9780714839516 今更、ながら批評空間や、モダニズムのハードコアの目次など転載
クラウスのピカソ論、モダニズムと反復とかも書いておいて
主要な著者をインデックス化して、その著書一覧が大体わかるようなガイドをwikiで作って頂けると助かる
あと、噂話でちょろっと聞いた話なんだけど、80年頃にミニコミみたい体裁で
川俣正とかが、デューヴの「レディメイドと抽象」の部分訳をして本を作っていたとか聞いたことあるけど
誰か知ってる?
>>16 >80年頃にミニコミみたい体裁で
>川俣正とかが、デューヴの「レディメイドと抽象」の部分訳をして本を作っていたとか
聞いたことないなぁ。
「レディメイドと抽象」の訳なら『批評空間』II-9(1996.4)、II-10(1996.6)で松浦寿夫訳があったけど。
岡崎が1988-89年にやってた雑誌『FRAME』(3号で終了)は日本でのジジェク初邦訳の媒体でもあり、
ド・デューヴが載っていても不思議ではないかもしれないけど、
この雑誌は目次がわからんし、ネットでもよくわからない。んで、レア本化してる。
この二つの話が混ざってできた勘違い? かと思うが。
歳いってる人だとそういう雑誌を知ってる人もいるのかな。
>>17 そのwiki、俺も編集に加わってるが(っていうか書誌リストもまとめた)、
書誌文献を列記、整理するのとは違って、読書ゼミみたいのだと、
ある程度ゆる〜くやって、後からまとめもするかも? ぐらいの気負いでいたほうがいいと思うよ。
川俣を師と仰いでるブログの人かな なんだっけ?スーパーフラット2がどうのみたいな
>>20 いまざっとNT-Xのブログ検索してみたが、ド・デューヴやレディメイドで引っかかる記事なかったよ
>>19 そうだね
続くかわからんしゆるくでいいと思う
>>23 真偽はともかく特定作業はかわいそうだし微妙だからやめようとしかw
26 :
19 :2008/11/12(水) 19:06:25
>>18 >批評空間や、モダニズムのハードコアの目次など転載
批評空間目次については、目次リストをupして浅田スレにURL置いといたから、
どうしても知りたければそっちでも。
主要著者・著書一覧は意外に暗黙に共有されてるが、
さあ読もう、というのが欠落しがちなので、インデクス化はむしろやらなくてもいいよーな。
地味に読む、酷すぎるものでなければスチューピッド・クエスチョンも受け容れて
みんなであれこれ意見出し合って言い合える進行の方が実は大変だしね。
>>25 ま、そうだねw
俺も石岡乙と言われたことあるよw
フリードのルイス論ってエピグラフがマルクスだな
いろんな石岡が何人もいるな
石岡被害者連w
石岡は集合無意識
フォースとか使えそうだな
>>29 The forming of the senses is a labor of the entire history of the world down to the present.
--Karl Marx
経哲草稿からの引用みたい
>>35 ざっと目を通したけど、ハイデガーの存在と時間とかルイス論とかも出てきて面白そうだね
こういう流れなら福住とか出ても荒れにくいはず
'Cleaning is mysterious, since it is the labour that erases itself if it is successful.' - Jeff Wall
はてなみてたら杉田俊介とか栗原裕一郎とかも割と昔からふるやんに言及してんだな(逆に最近はないけど) ちょっと意外だった 流れぶった切ってスマソ
絵画を知らない奴にとって気軽に読めるのが良かった 杉田とか栗原って典型的な「編集」タイプだろ
昔から画材や道具を触ったこともない文学の人が妙に画家や音楽家に妙に憧れがあって そういうところで需要と供給と文体と基本教養が一致するのが ふるやんと文系の人の関係で ガチで絵を描いてる人や美術の研究の人から見ると少し中途半端だと思われるのが ふるやんなんじゃ?
43 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/12(水) 21:23:15
どうせお前らリアルで駒場本郷で顔合わせてんだから、そこでやればいいだろ。 実はねらーなんです、って皆で一斉にいえばいいだけの話www
駒場の奴はいないとみた
一人くらいいるんじゃねえの
いないって 43=45はいつも同じ調子でここを揶揄してるけど飽きた
甲斐義明ってどうなの? RHにも村上隆論を書いているようだが
>>47 上の書評に限って言えば、フリードの写真論が「これは写真である」という自同律に陥っているという批判は
当たっているとしても、それをすぐさま写真の美的共同体の問題にスライドしてゆくオチのつけかたはどうかと
思う。
>>48 なるほど。
俺はせっかく掲げたカラーフィールド・ペインティングへの言及が駄目だと思ったな
というかそもそも駒場は美術系が弱いと思う
ポルケについて書いてるエントリの方がマシだな
>>49 ミース建築の迷宮性を考慮すればunfurledをフリードが引いた理由もわかりそうなもんだけど、
甲斐はそれこそリテラルにしか読めてないから「「液体性」との類比をするならば、むしろunfurled
よりさかのぼるveilのシリーズのほうがしっくりくる。」とか言い出す。
そもそもルイスはミースの迷宮性を全く体現してないと思うけどな
甲斐は松岡新一郎ばりに翻訳に専念すれば食える
>>54 「unfurledsの経験は目まいを起こさせるものになりうる。傾斜した細流(rivulets)―振動する、鋭い色彩がここでも決定的な
わけであるが― は、それまでよりも徹底的に、絵画平面を開示する。あたかも我々は、最初の印づけを見ながら、初めて空虚
を見せられるかのようである。手を加えられていないキャンヴァスの、目をくらませるような虚ろさ(blankness)は、目を追い払う
と同時に、目を包み込む。それは、平面の表面の上に我々が記した最小限の印の背後に開示する無限の深淵、あるいは、
もし芸術と人生の両方における無数の慣習(convention)が、我々の芸術の行く末を制限しないのならば開示するであろう
無限の深淵のごとくである。」
>>56 それってバルセロナパビリオンのガラスには当てはまるかもしれないけどさ
お知らせ: ここはモダニズムのハーコア熟読系限定スレになりました。 黒瀬やRHの話題をしたい人は即退場願います。 現代美術のアクチュアリティーに興味がある人もここではお呼びではありません。
いやいや、甲斐はRHだし アクチュアリティー話もしてるって
お知らせ: ここはモダニズムのハーコア熟読系限定スレになりました。 黒瀬やRHの話題をしたい人は即退場願います。 現代美術のアクチュアリティーに興味がある人もここではお呼びではありません。
43=58 お前は小鳥動画貼ってた奴だろw
RHの甲斐村上論は正直長いだけで何も核心ついてない印象
フリード貼ったのは俺だが、福住話もするべきとさんざん言っているんだが 的外れな荒らしはよしてよ 特定の話題をウザイといって拒否る流れはろくでもない
>>62 趣味判断があまりにも保守的だよな
なんか爺臭い
居場所のなくなった、チンポ・石屋系が吠えてるなw
「福住話」という呼称で定着していることにワロタw
全部石岡のせい
現代美術のアクチュアリティーって具体的に何なの? ジェフ・ウォール話でも駄目か
>>68 単なるイチャモンでしょ
俺は福住話も抑圧すべきじゃないと思うが
何かと日本の現代美術の話をウザがる人がいたから、
そいつを腐しているつもりなのだろう
福住話→って良く分かんないだけど、どういう話題があるの?普通に話題が判らない、限界芸術の話だっけ 現代美術のアクチュアリティー→池田の話じゃないか? モダニズムのハーコア熟読系の石岡もいるな。。。
「。。。」とか、露骨に自己主張するのはよしなよ
議論を強要する奴がいたからな。
前スレでは福住・チンポの流れで荒れたんだよな 煽りじゃなくてちゃんとした議論なら良いと思うけど
福住って浜トリについてなんか書いてるの?
全否定したんじゃなかったっけ
>>75 前回の浜トリではちゃんと書いたのは俺だけみたいなビデオが張られてたような
そうなのか 福住ってBANKARTで食ってるのにな なんか微妙だなそれは
「市民芸術論的転回━━クリティカルな視点から見た「横浜トリエンナーレ2005」」
福住話もいいんだが、福住の○○がだめ、という話をしてもしょうがない気がする。 俺は福住よく読んでないからうまく言えないけどさ。
福住ってもしかして反エリート気取りなのか
>>81 フルヤンの○○がだめって話はけっこう続くよ
ようは代替モデルが見あたらないからではないかな
某板でも晒されていたが、福住は、博士課程以前の学歴、どこにも公表していないらしい 話題になるため名前のある雑誌とくれば見境いなくくだらない文を書き、 (自らの批判対象となる権威メディアに寄生という大矛盾)、 そんで「評論家の話は聞き飽きた」って言いながら自分のことを「美術評論家」だろ。 なにがしたいって、結局早く大学の教員になって安定したいって事だけ。 見すかされていることに気づけないのが、痛い。ライター風情が虚勢張った、たちの悪いのだと思う。 こう書くとあれだが、別に私怨とかはねえよ。 まあ思想も学識もなく「思い入れ」だけで突っ走ろうとしたから、今回とりかえしのつかない怪我をしたと
目当ての大学教員から遠ざかっちゃったね
「限界芸術」とかいうなら、そんな議論解釈によってはモダニズム黎明からあるんだし。 学問的呈示の努力をすっ飛ばすことこそ限界を超えるカタルシス、みたいな考えでは、テロだって犯罪だって 当人がそういえばなんだって「芸術」になりうる。 福住=底抜けのバカ
そもそもこのスレでは、福住自体知らない奴も多いように思うが。 だから前スレでも機能しなかったんだろ
せっかく読書会スレになりかけてるのに
ふくじゅみ 終了w
モリスに軌道修正w
読書会スレになっても良いと思うんだ。だけど 本買って読んでる、以前に、図書館で借りて読んだ、書店で立ち読みした 持ってたけど売った、英語があまり堪能ではない、色々あるだろうし 本も案外何時までも買いやすく店頭にあるもんでもないので 敷居は低めにたのんます。。石岡より
ルイスね
いつもモーリス・スミスって言いそうになる
>>91 じゃあ、英語文献と邦訳文献の平行で進める?
>>35 こういうPDFで公開されてるものなら誰でも印刷すれ手に入るよね
98 :
91 :2008/11/13(木) 00:32:16
そういう方が良いかも コストパフォーマンスでかい発見や研究に繋がる方がいい 高価でレアな文献開拓より、 ある程度普及してる文献から、考えつかない発見が導けそうなものの法が吉。 正攻法で難しいことだと思うけど、そういうものの方が良いな
石岡先生のウェブ公開授業はここでよかったですか?
>>99 ピヨピヨ(石岡先生のウェブ公開授業は、ここですよ)
____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚((●)) ((●))゚o \ ほんとはモダニズムのハーコア熟読でやりたいんだお… | (__人__) | \ ` ⌒´ /
散歩ネタ専用のスレッドが欲しいな
そんなスレいるか?
比較的入手困難なレジメも部分的にスキャンして、アップローダーやストレージ にあげておいて、読むのも良いなぁ
鶴見俊輔の「限界芸術」は、初版の方の本でさらっと読んだ程度でなんだか あれって、サブカルチャー論の風呂敷を広げたは良いが、後半、鶴見自身 収集つかなくなって、メモや表みたいのだけあがって、まとめみたい物はなかったはず? (増販したもので、まとまってるのか?) 21世紀の、「限界芸術」をいうなら、鶴見版の「限界芸術」をある程度まとめて定義して 今の「限界芸術」とやらの枠組みを提出しないとなぁ 大体サブカルチャー論に落ちるのは想像つくけど、想像以上の見解があればな しかし、案外そういう見解は図像解析とか見る楽しみより、社会構造とかカルスタ的なものになりがちだろうな 福住話って、なかなか良くわからないんですが鶴見俊輔の「限界芸術」を思い出すと 大体、そういうこと想像出来るなぁ
>>104 それでもいいと思うね。
っていうか俺は結構p2pでクラウスの英語ペーパー持ってたりするんだが…。
>>91 >高価でレアな文献開拓より
何を言ってるか何を。Art and Objecthoodはレアじゃないだろ。
Morris Louis(1970)とごっちゃにしてない? 読書会用に選ばれてるのは前者だぞ。
ただ、
>敷居は低めに
これは考慮した方がいいのかな…。考慮したいという気持ちと、
自分で買わないようなやつに渡しても参加なんかするのか? という気持ちも。
俺、『モダニズムのハード・コア』スキャン済みだったりするんだが。
定期的に荒らしてるやつがいるけど、 モダニズムのハードコアとRH、黒瀬が無縁だという発想は気が狂ってるか馬鹿だ。 スタインバーグって岡崎、クラウス、黒瀬あたりでも重要視されたりしているわけでね。 フリードはまた違うじゃないか、と思われるかもしれないが、 フリード読むといっても、読んで考えた上で各人が その立場に同意するかっていったらまた別だろ。 「モダニズムのハードコア熟読系」なる言葉をとりあえず使ってきたわけだが、 国内派閥に単に一対一対応すると思ったら大間違いで、いろんなかたちがあるだろう。 フリードとは異なる立場のを読みたいという意味で言ってるのなら、 代案出せばいいわけで、理由を言えば、納得して参加したがる人ぐらい促せるだろう。 それをしないで煽る馬鹿は荒らし認定でいいと思う。
フリード上手く行ったらスタインバーグとかも読みたいね。 この前散らかってる部屋で本探してたら、美術手帖で翻訳された「他の価値基準」のコピーが出てきて驚いた。 すっかり忘れてた。林道郎のフリード、ボア、クラウスの解説のコピーも出てきた。 美術手帖がこんなに頑張ってた時期もあったんだなあって感じ。
>>108 >「他の価値基準」邦訳
あったねー、林卓行訳のだね。
俺はちょうど林道郎の連載シリーズの時期にBTを完全にノーチェックしてたんで、
89-90年代にあった「クリティカル・ リーディング」コーナーぐらいしか持ってないな。
たしかクラウスのポロック論だったかな、かなり昔に訳されてる。
今回のユリイカピカソ特集を読み、70年代末にスタインバーグ「哲学的な娼窟」
が訳されていたのを知ってびっくりしたな。
スタインバーグはクラウスの師匠筋だったか
モーリス・ルイスだったら単なる読解に終わらずに、作品を見に行けるし、 11月中だから英語を読むモチベーションにもなる
Art and Objecthoodが見つからない! 見つかる前に本のなかで死にそう。 いきなり変な本やカタログが出てきて驚く。マン・レイ展のカタログなんて買ってたのか・・・
>>107 22 :わたしはダリ?名無しさん?:2008/11/03(月) 20:13:17
大畑恵里 えりぃ エリィ エリイ
自分のブスな面を見てゲロを吐くド変態女
貧弱なカラダを使ってミューズ(笑)ぶっている
早くこの世から消えるのが望ましい
23 :わたしはダリ?名無しさん?:2008/11/10(月) 17:12:55
古谷スレでちょっとそういう議論があった
嫌ってる奴もいるけど
改謬乙 22 名前: わたしはダリ?名無しさん? Mail: 投稿日: 2008/11/10(月) 17:07:32 でもここでもアート的議論ができないなら アート版は無くなって良いよな 期待age 23 名前: わたしはダリ?名無しさん? Mail: sage 投稿日: 2008/11/10(月) 17:12:55 古谷スレでちょっとそういう議論があった 嫌ってる奴もいるけど
フリードは、Shape as Formが重要 フルヤンが無視している変形キャンヴァスがテーマ
来週の四谷がなにげに楽しみだぜ。 ユーモアの弱度 ――ドゥルーズ、デリダ、バルトと絵画 千葉雅也 ― ラウシェンバーグ:差分の布置 平倉圭 ― 神話論理とヴァーチャルな自然物 ――ロラン・バルトを中心に 福嶋亮大
●ぼくが「ユリイカ」の11月号に書いているピカソについてのテキスト(「ギターと仮面とコンストラクション」)は、学問的な実証性という意味ではほとんどいい加減だけど、 とにかく、(非常に充実したものではあるが)分析的キュビズムの行き詰まりのなかにいる時に、それを打破するような立体的なコンストラクションがふっと出て来てしまう、 その時のビカソの素晴らしい跳躍力というか、ジャンプする瞬間の感覚こそを捉えたい(つまり、自分も追体験したい)と思って書いた。 それは、追いつめられてどうにも動けなくなった時に、ふいにくるっと方向を変えて(無意識のうちに変えていて)、それまで、実現出来なかったというだけでなく、 想像すらすることの出来なかったことが、何故か突然に出来てしまった、という、実際に作品をつくっている人ならば、一度や二度は経験したことのあるだろう、あの瞬間のことだ。 だからそれは、ジャンプというよりも、サッカーで複数の相手に取り囲まれたプレーヤーが、ふいにあり得ないやり方でディフェンスをかわしてしまった時の、そのあり得ない動きのようなものだと言うべきかもしれない。 その、あり得ない動きが生成される瞬間こそを、分析的に捉えようとしたのだった。
昔、モダニズムのハーコアで読んで今書庫の何処から出すか状態なんですが フリードの「芸術と客体性」の「演劇性」って言葉ってやや無理があるというか そもそも、展覧会とか美術館のフレームの下、美術作品らしく演劇的にならない作品なんてない のだけど、それでもフリードが言いたいカロとジャッドの言いたいことを考えると 作品が作品らしく見える、台座のようなもの、美術館のようなものや、プレゼンの仕方みたいのがある 他方それに、あまりそれに頼らない作品の在り方もある。だいたいそういう話に思うのですが そういうコンテクストを使う作品というと、昔は彫刻や絵画が基本的に多かったのだけど 最近、ふと思うのは、劇団やパフォーマンスの人が、時に、舞台が台座に見えたり 演劇が美術作品かのように見えるシーケンスをつかって、演劇が美術的?タームを持ってくる ことで反演劇的に見える時間や舞台のある仕組みを、考えてる人、又は、そのように見える 人が居るなぁって思うことがあります。 といっても、そんなに演劇は見ていないのですがちょろちょろ NHKやyoutubeで見た程度だけど、チェルフィッチュとか康本雅子を見て感じることがありました 多分、青年団以降の人の流れのはず あと、四谷にいた橋本聡の展示?パフォーマンス?も、そう感じる時があった。 チラ見とか、偶々そう感じたってことが多いのですが。 演劇やパフォーマンスが主体の人でも「反演劇的」みたなルールを使う人が 何か居るなぁ?みたいな
>>102 わたしはダリ?名無しさん?:2008/11/13(木) 02:27:07
散歩ネタ専用のスレッドが欲しいな
【無名アーティストの】ぶらりひとり旅【WildLife】
タイトルok?!
ネタスレ専用かよww 自然ウォッチングと古谷ウォッチングで日を明かすわけですね、わかります。 まあ、このスレで散歩ネタやるぐらいなら、別館建てたほうがいいかもね。
ok?! 牧場!?
>>117 >>118 フリード読本の流れになってるのに、黒瀬とか木村を無理やりねじ込もうとしてるのは何なんだ
もしかして本n
「仲間に入れてくれよー」
>>107 岡崎はラウシェンバーグ好きそうだね
意外だった
フリードの演劇性ってのは、基本的にはハプニングやイベントを腐す用語だと思う なぜかミニマル叩きに使ったのが不思議なだけで
古谷と関係ない展開を、古谷個人名スレで。って、正確には掲示板のルールに違反している。 そんなことにさえ気付かないとは、やはり学究の徒は社会性がないんだなw
荒らしの口ぶりのトーンも判明してきたから、もう誰も釣られねーよ
違反は違反なんだけどね。まあいいのか、実社会じゃ役立たずなんだし。
>>126 でも
>>118 のいう
>カロとジャッドの言いたいことを考えると
>作品が作品らしく見える、台座のようなもの、美術館のようなものや、プレゼンの仕方みたいの
というのも、なるほどと思ったな。
岡崎もこだわる、カロの彫刻の台座問題とか。
フリードをよく読んでないので思い切り俺が間違ってるかもしれないが。
つ 「フリードのシアトリカリティについて(事もあろうに)実際の舞台作品にまで言及する古谷」 「永瀬-古谷のルイスへの視角とフリードのルイス論のつながり」 古谷とフリードってどこが関係ないの? 死ねよ。 この馬鹿に調子に乗らせてもしょうがないから、スルーで行くか・・。 荒らしが来ると、stupid questionへの対応もある程度放棄せざるをえなくなるな。区別が難しくなるし。
古谷も散々ここでだめだめ云われ、揚げ句ほったらかしでスレを乗っ取られるとか こいつらやりたい放題だな。ある意味で下品かとw
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 ↑十分削除要請範囲。それでもいいが、この流れにしてからお前らROMってる人間もふくめ かなり排除したことだけは認識しとけよ。過疎ってから後悔しろ
古谷は古谷であってルイスではない件
荒らしてるやつは何が気に入らないの?
文学板にでも古谷スレ立てて、そこで思う存分鳥とか散歩やればいい
Art and Objecthoodがどうしても見つからない。代わりに林道郎や小西信之が書いてるセゾンアートプログラムが見つかった。
>>139 それって阿部宏慈が『絵画における真理』についての論文ものっけてる号かな。
あの号だけ欲しかったが、いつの間にか入手を忘れていた。
>>141 そう、意外にいろんな所に書いてるね。できたらそれらをまとめて本にしてほしいんだけど。
上田高弘だって本出せるのに。
>>142 それは載ってないね。尾崎信一郎のフリード論も載ってたりする。第七号ね。
マジレスすると、ああ、例の荒らしかと思ったら即、 一行単位でのNG word登録して、自分の見てるログから消しちゃうのが一番いいよ。 荒らしにレスor言及する行為って大体、 「自分は気にならないが、他の住人が見てるし、一言言っておかないと」って動機でやっちゃうから。 一定数が自分の見てるビューアから抹消しちゃってるという信頼を維持できれば、そうした心労もなくなる。 荒らしの言うスレ違いという批判はすでに穴があるんだから、これ以上言うこともないだろうし。
145 :
144 :2008/11/13(木) 22:13:59
↑ もちろん、144,145両方とも即、行単位でのNGword登録推奨。 こういうことでいちいちストレスを作るのが最も、この手のテキスト読解にとって障害になるから。 まあ、それを狙った妨害工作なんだろうけどね。
146 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/13(木) 22:14:07
?
147 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/13(木) 22:16:35
146=まちがいた 素朴な疑問なんだけど、もしこのスレで斬新な問題点とか、新たな認識とか常識とか出てきたとして。 それを自分の論文とかに書く人はここにいるのかしら?
フリードや、クラウスぐらい、フルヤンも基本的にある程度、読んでるだろう 美術系の人でフルヤンの作品や文章など少しでも触れる人にはある程度共有してる 素養みたいのがあると思うが 文学とか哲学とか別の流れでフルヤンに触れる方には、実はフリードとかオクトーバーの人って あんまり判って無くてスレ違いと言われるんじゃないか? やっぱ、ガイドラインみたいのwikiで作って、参考文献、人物紹介、 話題をつくる目的(読書会とか、話題項目とか、)ある程度作った方が良いと思う 2chだから敬称略だけど、石岡、黒瀬、木村、池田、平倉、福住、、などなど 若い人で、いいとこ面白い話題もあるので、あんま自作自演、本人乙とか 気にかける必要もなく、誰が書こうと魅力的な話題なら、それはそれで良いじゃないか? このスレを見てる人がどのくらい居るか知らないけど、あんまり狭い世界で叩き合いも何だし ある程度共有してる話題もあると思う。そういう共有してることがそれぞれどのくらい重要視してるか わからないけど、もっと外の世界に通じそうな話題になるように、項目が増えていくと良いなと思う
>>147 2chがソースの論文って見たこと無いね
>>148 >文学とか哲学とか別の流れでフルヤンに触れる方には、実はフリードとかオクトーバーの人って
>あんまり判って無くてスレ違いと言われるんじゃないか?
たぶんそうなんだろうね。
総括的な丁寧なレスをしてくれて助かるよ。
wikiにするかは作業量的にちょっと留保するにしても、
スレテンプレのガイド的なものは必要かもしれないな。
>>149 こういっちゃなんだが、
>>147 は偽装してるだけで
>>140 で挙げられてる荒らしと同一人物だと思う。
スレで考察を書こうとする時点で、人からアイデアもってかれてもいいや、って覚悟はあるだろうし、
ブログもってる人なら別に転載ぐらいしてもいいと思うけどね。
あと、「誰が書こうが、論文としてきっちり出るのならそれは望ましいことだ」と思うんだが。少なくとも俺はそうだ。
153 :
148 :2008/11/13(木) 22:26:51
嫌いでも良いんだよ。そもそも読んでるから嫌いなんだし 読む以前に、フルヤンは読まれる環境と、自分の考えと合わないと判断して 答えてる。 それ以前に、全くどういう環境で必要として読まれてるか、フルヤンが何故 そう答えるのか?全くわかってない人が居る方が、ある程度、問題かと
154 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/13(木) 22:30:45
>>152 違うよ。信じて。
君の覚悟はわかった。
マイケル・フリード「芸術と客体性」、川田都樹子、藤枝晃雄訳、『モダニズムのハード・コア』 『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、pp.66-99.
マイケル・フリード「モダニズムはいかに作動するのか T・J・クラークへの反論」、上田高弘訳、『モダニズムのハード・コア』 『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、pp.122-141.
マイケル・フリード「ミニマリズムとポップ以降の美術論」、杉山悦子訳、『モダニズムのハード・コア』 『批評空間』1995年臨時増刊号、太田出版、pp.156-159.
Michael Fried, Manet's modernism, or, The face of painting in the 1860s, University of Chicago Press, Chicago, 1996
Michael Fried, Courbet's realism, University of Chicago Press, Chicago, 1990.
Michael Fried, Absorption and theatricality: painting and beholder in the age of Diderot, University of California Press, Berkeley, 1980.
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/instantaneousness.html
157 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/13(木) 22:45:25
>>155 フリードの論点は、そういうことではないと思うんだけど。
ここの住人に任せてオレはROMるよ。
158 :
148 :2008/11/13(木) 22:56:39
>>16 >>30 >>41 >>70 >>91 >>98 >>100 >>101 >>104 >>105 >>118 >>119 >>148 >>153 自己申告すれば、この辺のコメントは僕が書いた。IDが残らない板なので
特に裏付ける物はないけど。僕が書いた。
一人の人が書いたにしても、石屋乙とか、黒瀬か?あらしの人か?みたいに言われるので
多分、書いてる人はみんなそういうことになってるんだろう。
古谷スレは以前からromってたんだけど、井戸端的に話題になっていて
勉強になること、興味の沸く話題もあったので、新しいスレッドになって書いてはみた
グリンバーグ批評っーのは記述が文学的というか、なかなか意味や特徴を読みにくい、
良い作品ってどういうものか?考えると尚更、結構素朴な言い方をしてる気がする。
クラウスは、それに反してブッチャケ気味というか、あからさまにやると...みたいな方法論で
フリードは、ある意味グリンバーグ直系なんだけど「演劇的」って言葉を引いてもイメージしづらい
あと、イヴ・アラン=ボワとかティエリー・ド・デューヴとか、その辺の人はいる
うーん、その辺の考えは、当時の作品の見方みたいものがあったんだろうけど
案外今だと、現代美術作品の作り方みたいに読まれてるところが、ちょっと問題あるかな?と思うことはあります。
159 :
140 :2008/11/13(木) 23:12:55
そっか。いろいろすまんかったな。
俺もネタレスをたまにやってるから、人のこと言えないんで、
ネタレスについては突っ込まないよ。(
>>99 とかね)
>>70 に関しては過去スレ流れからのズレで、
うん? これ誤解してるのか煽り誘導してるのかわかんね・・ ということで加えてしまったのと、
>>101 については、オクトーバー系はRH(特に黒瀬かな)、岡崎、古谷らが共有してる圏域なので、
分断されて党派的に読まれている風潮を一層誘導するように見えちゃってね。
>>119 については、スレ分派の話題もひょっとして誘導だったんかなあ、と邪推が進行してた。
とはいえ、
>>120 は俺だったりする。
ま、俺もレスの意味を取り違えて単発ネタやって間違って、やべ、ってなってることもある。
ともかく、明らかな荒らし、妨害じゃないならば、ネタレスok、ぐーたらいこうぜ、ってことで。
ピリピリするようなことじゃないしね。あと、フリード読書会進行とは別に
まったり適当に平行してもいいし、別の話題も全然いいはずだ。
160 :
140 :2008/11/13(木) 23:28:13
>グリンバーグ批評っーのは記述が文学的というか、なかなか意味や特徴を読みにくい、 >良い作品ってどういうものか?考えると尚更、結構素朴な言い方をしてる気がする。 >フリードは、ある意味グリンバーグ直系なんだけど「演劇的」って言葉を引いてもイメージしづらい 古谷はどうもそこが好きで、ついつい好感もっちゃうって感じだよね。 >作り方みたいに読まれてるところが そこは演繹的にやれることではないだろうけど、難しいところだね。
もうすでにピリピリしてるんだがww
テキストへの集中力に変換してくれとしかww
石岡が書き込んでないことがわかった
永瀬のは制作プロセスの分析になってないんだが
(関係ない話でお茶を濁す)
たまたま十川幸司の新刊読んでたら木本圭子の作品が表紙にあしらわれていたり、
あとがきで思考のヒントとなったと評されていた。
木本の作品ってなんだか最近見る気がするんだけども。
ttp://www.kimoto-k.com/imaginary_numbers.html ドローイングの系統から見ることもできるのかな、こういう描線って。
動画の方は単純に見てて面白いことは面白いのだが。
(Quicktimeをアップデートしてないと動画が見れないので注意)
十川の議論は芸術論には使えないんじゃないか
いや、そこは日記帳並みにどうでもいい言及なので、十川を持ってくるつもりは特に。
>>164 これはひどいな
単独シリーズの分析ならまだしも、
ルイスがヴェールの形態を持ち込むとか有り得ないだろ
18日ってフルヤンレクチャーと四谷レクチャーの両方があるね
フルヤン単独で向こうを張っててカッコいいじゃん
最初に取り上げるのはArt and ObjecthoodでFA?
例の永瀬によるルイス記事を読んでみた。
・色面形態の輪郭がズラされながらも重ねられる
・輪郭のズレが、見る際に色面重ねによる奥行き知覚の手がかりとなる
↓
・永瀬仮説(? なのかどうかは知らない)
1.「ルイスは絵画そのものではなく絵画のコードを描く」
2.「手がかりであったズレはよりリテラルに形態化されてさらに展開される」
↓
・結論
〈ヴェール〉シリーズの59年頃の作品、〈アンファールド〉シリーズ作品で用いられる形態はこうして選択された
・透明効果による奥行き→形態化によってコードをむきだしにする という推移があり、
〈アンファールド〉シリーズのあとで〈ストライプ〉シリーズが出てくる理由となる
仮説を裏付けているのは何なのかわからないが、
つないでいるのは「輪郭のズレの形態」と
「《アンビU》 から〈アンファールド〉シリーズへいたる長細い形態」が似てるってことだけなのかな。
※
2.「手がかりであったズレはよりリテラルに形態化されてさらに展開される」は、
「想像的なものからマテリアルなものへの移行」というふうに称賛されてるが、
(
ttp://d.hatena.ne.jp/eyck/20081107の5段落目 )
これって要するに、古谷が、一時岡崎が語ったコーリン・ロウのリテラル/フェノメナルに関する議論を
縮小再生産してフェノメナル一本槍になって、
フェノメナルな重なり合いさえ複雑化すれば素晴らしいみたいになってたが、
その逆をやってるってことか?
こういう議論は、「じゃあモンドリアンはむきだしのマテリアルが露呈してるとかいくらでも言えるんじゃないの?」
とか思ってしまうんだが…、どうなんだろ。
「いや、ルイスの作品変遷を補助線にして〈アンファールド〉シリーズ以後を見るという条件でのみ、そう見えるのであって
"作者の制作変動"がないとこの見方が成り立たない。これは作家論、
っていうか、ルイスという作家限定の身体論。俺はそれを追体験的に語っている」ってことなんかな。
>>171 とりあえずその本に入ってる「Morris Louis」って文章。30pぐらい。
あと、テキスト読みは、いま入手中〜持ってるけどどこに行ったかな〜今読んでる〜すでに読んだ などスタート地点がばらばらなので、号令とともに始まるというより、なんとなく開始すればいいと思う。 俺はまだ発注しただけなので届くのに時間かかりそう。 そのあいだ「芸術と客観性」邦訳でも読み直してみる。
趣旨はむしろルイス展に行くことだよ フリードの文章はそのサブテクスト だから英語がめんどうな人は川村に行くと良い
フルヤンはもう一度記号論を学び直すべきだと思う
今ルイス展いかなきゃ話にならないよな
マジか。じゃあ予定立てるかな。俺の住んでるところからだと片道2時間近くかかるんだがww
>>172 好意的に読むと抽象化された形態変換のコードを個々の作品の細部を徴候的手がかりとして読むみたいなことなのかな
とは思えるけど、その十分な説明がないので論理が弱い。
形をどんどん変換させていけばいいならどんな作家の作品でもその方法で分析できちゃうよね。
>>178 みんなそれくらいかかるよw
佐倉なんて辺鄙なとこ
>>178 陰口叩くよりはずっと生産的なんだから頑張れw
182 :
172 :2008/11/14(金) 10:22:04
>>179 二つ前のスレでたしか岡崎のノーテーションの議論になったけど、あれでいうと
X/ルイス作品全体/徴候的手がかりとして読む
みたいになってて、Xはすでに個々の作品ではなく、
ルイスと名前が冠された細部と形態変換と知覚の変化のプロセス って感じになってるみたいだね。
しかし、プロセスにしてはずいぶん単線的だし、
黒はどうなってるの、とか素朴な疑問もたくさん浮かぶし、
何より議論が弱くて
>「輪郭のズレの形態」と「《アンビU》 から〈アンファールド〉シリーズへいたる長細い形態」が似てるってことだけ
があまりに目に付いちゃう気がする。
183 :
178 :2008/11/14(金) 10:23:34
わかった、なんとか予定立ててみるよww 行けるやつはできるだけ行こう
>>182 黒は論理化できな外部性として唐突にあるみたいな感じかね
それは別としても全体的に思いつきの域を出ていない気がする
イラレで図版を作ってみたかったのかなとか・・
>>176 記号論なんてまともにやりだすと整理に追われて批評なんて出来なくなるようなイメージがあるんだけど具体的にどういう議論を指してるの?
186 :
172 :2008/11/14(金) 10:49:53
>>184 論理化できない外部にしてるかもしれないけど、
同時にそれは色面と混色による奥行き、空間性にとって、
黒が無やゼロ値(あるいは無限大)のごとき極点になるという色彩のロジックから由来してるんだろうね
(
ttp://d.hatena.ne.jp/eyck/20081106の3段落目を見る限りでは )。
しかし、そう考えると今度は、ゼロ値としての黒、黒による形態の配置がなんでああなるのか、
とかさらに疑問がわいてくるし、別のゼロ値である白orキャンバス地が
〈アンファールド〉シリーズで中心付近に大きくとられるようになる、という推移はなぜか、
または、白と黒では配置や形態との関係が大きく違うようだがなぜか、という疑問が出てくる。
まあ、思いつきは嫌いじゃないけど、いまいち本人も
どこまで・何を・どういう範囲で やろうとしてるのか自覚できてないんじゃないかとか思う。
>>185 176じゃないけど、言語や記号への認識が「偏見」どまりって匂いは古谷にはプンプンする。
俺は、記号論というか、言語論、言語に関する思想史的な基本、を最低限やっとけ、と思う。
>>185 だって文芸批評家なのに言語=外的なもの=文脈依存みたいな幼稚な発想なんだもの
そのくせラカンに依拠している
これは樫村の弊害と言わざるを得ない
彼はラカンを神経生理学と短絡させているから
柄谷行人を読むだけでもいいと思う
>>186 結局どうやって描かれたのかわからないということの周りをぐるぐると回ってる印象
「モーリス・ルイス 秘密の色層」企画側の意図に沿った従順なお客さんというか
>>188 >言語=外的なもの=文脈依存みたいな幼稚な発想
シネフィル上がりの俺から見ると、まさに蓮実派の病。
蓮実派の大半が頭悪いのも、こういうところで思考停止してるからなんだ。
いくら探しても本は見つからないが、川村のルイス展はすでに行った。 やっぱ2時間ぐらいは掛かっちゃうね。
フリードについて「身体的にぴったりくるからすげえ」、 クラウスについて「頭はいいのかもしれないけど気に入らない」とか言ってるからドツボだよな。 この場合、クラウスに対しては漠然と自分の身体で抵抗してればいい、 フリードに対しては共感的に振り待ってればいい、ってところに落ち込むのは目に見えてるし、 ・フリード、クラウスに対して理論的に抵抗する ・理論化と経験(身体、臨床)の往復関係をどう考えるか が全面的に思考停止になる。 理論=からごころに対して 共感と俺俺言うて自分を特権化してればいくらでも逃げれる。 理論→経験 経験→文芸的記述 と二重底のように展開させていくらでも底なしになれる。 実は、記述のフェイズというかモードというかを移行させて誤魔化してるだけっていう。 移行でごまかすんじゃない抵抗が何より必要なのに。
>>190 内面の発見とか読んだらあんな議論はできないよ
脳の話とイメージの話を立て直さないとヤバイ
もうだめかもわからんが
フルヤン理論だと、保坂の感覚的物言いと共感しつつ、 保坂が素朴を装いながら駆使している言語技術には届かない。 だからこそ脅威にならず飼い慣らせる
196 :
193 :2008/11/14(金) 11:23:02
>>195 二重底は、さらに 文芸的記述→でも本当は表象不可能だから・・・
と展開するので、感覚的物言い・文章すら最終的には「外的なもの」にされて逃避は続行される。
穿った意見のように思われるかもしれないが、たぶんこう移行するよ。
フランス現代思想系もそんな感じだ
198 :
193 :2008/11/14(金) 11:32:18
そうは思わないな。仏現代思想は、あれはあれで理論闘争あるだろう。 古谷のようなあり方はむしろ小林秀雄主義とでも言ったほうがいい。
>>198 ナンシーとかブランショとか面白いと思う?
197も曖昧な偏見はよくない
201 :
193 :2008/11/14(金) 11:43:15
>>199 うーんうーん・・w そんなに面白くないね。ちらっと読んだ程度だけど。
「ハイデガー以降の系譜」ってことで見るしかない性格もあるし、あのへんは。
浅田の判断に追随してるの? ブランショについては現代詩手帖が良い特集組んでたし、 ナンシーは感覚論と脱構築を両方引き受けている人。 デリダの触覚とかオススメ
203 :
193 :2008/11/14(金) 11:50:06
>>202 いや、ブランショは割といいんだけど、
デリダの後で今読むとちょっと既視感があって、あんまり手が伸びてないだけ。
ナンシーについては、どうなんだろうな。
無為の共同体読んで、共同性や友愛の扱いに(まあブランショ絡みだけど)
あんまり興味がわかなかったんだ。
ナンシーについては最近出てるヘーゲル論方面になんとなく興味持ってるんだが。
結局、俺の好みでしかない判断も多くを占めてると思うが。
204 :
193 :2008/11/14(金) 11:51:56
まあ、
>>198 で言おうとしてたのは、仏思想は理論闘争、理論化の問題の回避をしてるわけじゃない、ってことね。
古谷は回避するためのロジックが張り巡らされてる気がして。
だからそれって浅田が批評空間でさんざん揶揄していた系譜でしょう。
207 :
193 :2008/11/14(金) 11:57:58
>>205 いや、そうじゃないよ。浅田はヘーゲル論そのものを無視するし、
ハイデガー以降系譜を軽視しすぎでしょ。私はハイデガー以降系譜にはこだわりがあるよ。
ただ、デリダの方に釣られてしまうので、ナンシーにはあんまり興味もってないみたいな感じ。
この二人は部分的には絡み合ってるけども。
>>201 で「「ハイデガー以降の系譜」ってことで見るしかない性格もあるし」
って言ったのは、出来事を持ち込むから、ある意味で似たような
表象不可能性の使い方をしていて記述回避にも一見見えるかもしれないし、
その意味で似たようなものに見えるかもしれないけどね、っていう意味合い。
これを、正確に「似てない」と言う説明はしんどいな・・
シンプルにド・マンでおk
確かにデリダのほうが面白いわな
デリダは美術が苦手だから間接的アプローチだし、 記述が自律しすぎているから弟子たちが苦労している
211 :
193 :2008/11/14(金) 12:13:48
>>210 そういう苦労感は感じるね。
バディウが『世紀』で舞台作品をまさに再現前の問題だといい、
仮面という言葉を使いながら論じてたけど、
(デリダが言いそうなことをいいながら)デリダより議論が後退してるようにも感じ、
しかしデリダはこういうことやらなかったんだよなあ、と感じて困ったりした。
デリダの議論の射程と、デリダがやらなかったけどもやれること、ってのは一旦分けて、
その後で吟味しなおして、もう一度やり直す、みたいな手続きが必要になるのかな、と思う。
ならしろいろさんはぜひ四谷で質問するべきだ 次回は思想の話が多いわけだし あなたにも回避がありそう
213 :
193 :2008/11/14(金) 12:23:01
>あなたにも回避がありそう そうね。それは否定できないな。 四谷の今回ので興味がもてるのは千葉雅也だけど、 あんまり俺の関心とかぶんないなあ。
批評空間に昔フリードのデリダ批判が載ってたね たしか盲者の記憶について
215 :
193 :2008/11/14(金) 12:29:05
Fried「二つのレアリスムの間に:デリダからマネへ」(天野知香訳)、批評空間II-7(1995.10)か。 これ読んだことないや。
言語なんてものだってフルヤンの関心をひかないわけだ 回避の構造w
苦手の克服よりは得意なことをのびのびとやるべき まあゆとり教育の理念だったわけだが
>>214 原題は"Between Realisms"ってタイトルの論文で、Critical Inquiryに寄稿されたものみたいね。
『Manet's Modernism』(1998)に入ってるようだ。
このスレ自体文脈依存という事に気づけない皮肉
ただちに荒らしが沸いてきてるなww
本当にここ2,3人のキャッチボールスレになっちゃったね。あまりこの流れが好きではないから しばらくここは見ない
2,3人のキャッチボールっておまい・・ チム○○でスレに人が沸いた時以外、ここってずっとそうじゃなかったか? 自分で変えようとはしないで人任せなのが泣けるわ・・ 大体その手のキャッチボールは短期で終了して雑談に戻ったり話題変更しちゃう流れなのに。
古谷を単にダシに使ってるだけじゃん。ROMってる人皆そう思ってるよ。 所詮2chの無法性に甘んじているねらーども
グリーンバーギアンとかオクトーバーにしか現代美術の学問性を求められない。 これを果たして研究などというのかな。
戦後現代美術=アメリカ 井の中の蛙 せいぜい頑張ってね
もうどこから突っ込んでいいんだ
もともとこのスレでのモダニズムのハードコア熟読系ってのは古谷を揶揄するときに持ち出された言葉
>>225 の一行目は古谷への揶揄としてそのまま通用する
グリーンバーギアンであることが古谷の限界でもあると散々突っ込まれてる
学者の集まりだろ、ライター予備軍だろ、本人乙、特定作業、
もうどこから見ても荒らしのテンプレです、本当にありがとうございました
2chである限り必ず荒れるし、それが古谷とかにも2chだからという言い訳を与える きちんと議論したいなら他に場所作ったほうがいいかもね
>>228 他スレに移ったら、それを契機に今度は
美術館賞板の荒らしテンプレに切り替わって粘着されるだろうし、同様の末路になるだろう。
とはいえ2ch発で2chから移動した場所は、大体ヲチ行為をされて、荒らされる傾向にある。
今の時点で荒れているので、この見込みはかなり高い。
そこも荒れるだろうが管理権限とアクセス禁止による遮断で潰すことになるんじゃないかな。
対処法は 違う場所+管理者権限強化+ある程度セキュリティ機能のあるツール使用 とかになる
たかが一レスでそんな潔癖な だいたい文脈依存がだめという論理自体がおかしいだろ あらゆる文脈がないなら芸術も存在しないし
「メディアを操る大人ども」とか吠える商業バンドのように、 文脈自立のポーズはけっこう文脈的に受けやすい。 フルヤンも、編集者のような、文脈を読むことで食ってる連中の絶大な支持を集めている。
気弱なハイジャック問題ですね
弱虫のハイジャックだった これは言い得て妙
いろんな話題が混ざりながらスレ進行すればいいのに、ってスレ冒頭から言われてるのに、
間があいても古谷話とか文芸話をしようとする人が現れないあたりに
>>224 の言う「ROMってる人」なんて存在しないんじゃないかって疑いが濃くなるな。
本当に古谷の話したいのなら、打てる手はいくらでもあるんだし、やっぱ荒らしか。
それか、よほど受身体勢の他力本願人間か。
複数の色の組み合わせに関して何も言ってないから古谷の色彩理論はピンと来ないんだよな
>>235 11/14のエントリーの記事の話って、
>>172 で指摘されてる古谷の話とつなげると、
色彩を見ることは諸色彩間のフェノメナルな作用抜きに色彩を同定することはできない、ということだよね。
永瀬とここで明確に対立してて、「コード」などというものは経験において外的にしか存在しない、
しかも色彩のフェノメナルな作用は想起によってもたどれない、ってなってる。
おっしゃるように、これをやりだすと、色彩Aと色彩Bとの関係、とか、
そういう話がどんどんできなくなってしまうんじゃないか。
(色彩の)経験と言語の間で絶えずフレーム問題のごときものが生じていて、先に進めなくなってる。
言語を敵対視しすぎなんだよね 慣習的コードを一気に片付けたつもりになってるのが良くない
まあ、言語というか、何て言うんだろうね・・・ ゼロフェノミナルな色彩値(永瀬的にはコード)とでもいうか・・ そういうものは排除しようとしてるね。 こうなると、「絶えずフレーム問題のごときものが生じていて、先に進めなくな」る事態は、 作品がどういう色彩を使っているかを実はどうでもいいものにしてしまうんじゃないかな。 古谷の作品の色彩使用の乏しさの原因にもなってる。 「そこにフェノメナルな作用があるんだよ!」に立脚すれば、作品が粗末でもよくなっちゃう。 これって、作品の組織化をどう高めていくかってのをどんどん遠ざけていく見方になるような。 だって、どこにでも・どんな筆触・色面にもフェノメナルな作用はあるんだから。 「そこにフェノメナルな作用がある」→ただただ眩惑される→一種の、経験プロセスの停止?みたいな感じ 作品の側でどこまで片をつけるか、どうするのか、ってのが思い切り消えるような・・
>>238 古谷の絵の特徴をうまく言い当てているじゃんw
壁のしみを見ていてもフレームは揺らぐんだよな
俺は昔フレーム問題的をたとえに出しながら蓮実を三層でまとめた文章を戯れに書いたことあってね。
その第一層のフレーム問題頓挫プロセスと古谷のあの記事はやたら似てるんだな。
蓮実においては「ショットに目がくらんで」みたいなのが、古谷の今回のフェノメナルに相当する。
蓮実だと、ショット間関係網(第二層)やプロットとの往復関係の捏造(第三層)を確保しながら
第一層の挫折をうまく解消するんだけど、古谷だともっと単純になってるんじゃないかな。
>>239 まあ、壁のしみと作品が同じになるというのはそのとおりだなw
(ちなみに、フレーム問題って言ったのは、古谷の言うフレームではなくて、人工知能問題の方ね。 経験によってコード=言語の輪郭を動揺させるって意味では、構図はダブるのだが))
古谷的にはきっと、このフレーム問題的なプロセスの頓挫が、 経験の基点であるかのごとき生々しさがあり、ここにとどまることが大事なのだ! って感じなんだろうけど、これは実は停滞の引き金そのものになってしまうというか…。 「何でもいいからフレーム問題が生じればよくなっちゃう」というか・・・。 実は大間違いなんじゃないかなあ。
はっきり言ってフルヤンにとっては散歩の経験の方が切実だろ
>>243 散歩中の知覚プロセスだと、作品としての境界が不定形だし、作品の境位を問わなくていいしね。
自分の身体がつねに軸になるし。
うつろいゆく散歩中の感覚。何のかたちにも残らず、残ることが問われず、
ゆえに最もすばらしいと。それが大好きなんだろうな。
岡崎のノーテーションの話にしてもいわゆる「作品」ではないものに
波及していく論理になっているとはいえ、それがノーテーションである以上、
何らかの記述・記録による媒介作用を重視してるんだが、
古谷にいたってはそうしたものは外的なものとして単に排除されてしまうのかも。
フルヤン理論は新しい自然美の見方として考えるとよい 芸術ではなくて
展開された場における散歩w
みんなのいうとおりだと思うね。 フリードが気を揉んで批判しようとしていた演劇性って、そういうものだったんじゃないかな。 フリード自身、けっこう直観的なままだけれども。
いやいや、散歩するだけで恩寵経験が得られるでしょう。
249 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/15(土) 10:54:27
え、お金ひろうとか?
>>249 そこで現実界に触れる
フルヤンは基本、想像界オンリーの人
象徴界は無し
想像界/現実界だけって、ある意味サルトル並に単純になってるって気がするな。 サルトルだからといって馬鹿にする気はないが(ちょっと前の浅田はサルトルをジュネ化して重視してた気がする)、 古谷のやり方だと後退もいいところだと思う
252 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/15(土) 17:37:49
90年ごろはカラタニもサルトルを持ち上げたよ。
書き込みの時間が集中しているところをみると、 少数の人達がほとんどを書いているということになるのかね。
俺は誰かが書き込んでるときに応答してる そういう人が多いんじゃね
だろ?ww
257 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/16(日) 01:42:08
しかし、ネタはないな。
前に荒らしが書いていったのは当たっているよ。ルイスネタとか英語の読書会にしようってのが 結果的に排他主義と化して見事にこうして過疎化した
バブルがはじけたってこった。
よくわからん新人の名前までが出まくってた時点がバブルの最高潮だったんだな
午後から喫茶店で、18日の阿佐ヶ谷美術専門学校(
http://www.asabi.ac.jp/ )でのレクチャーの構想を考えていた。
だいたいの流れは決まった。今回の主なテーマは、何かを「見る」という時、それを、その都度、見る度に見るしかない、
ということ(今、ここで立ち上がっている知覚-感覚としての「見る」こと、ベンヤミン的に言えば「アウラ」)と、しかし同時に、
何かを見るといことは、常に以前に見た何かの反復として見るしかないということ(さっき見た野良猫は、昨日も見た猫と同じ猫だ
、というような、記憶に関わり同一性-イメージを捉えることとしての(反復的イメージを)「見る」こと、デリダ的な現前性への批判?)
との関係についてを、主に小説とホラー映画をみながら検討してゆくという形になると思う。この両者は常に混じり合っている
のだけど、混じり合うことで、どちらでもない第三の「見えない何か」を見るということを発生させる。
262 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/16(日) 13:13:10
四谷の方がおもしろそうだ
フルヤンの場合、アイディアを全部書いちゃってるから
結果的にバルトの第三の意味みたいなことになるのか
早見尭は、これがうまくいったら非常勤採用を検討するのだろうか
早見って阿佐ヶ谷の専任講師なんだっけ。このへんの人脈を最近チェックしてないからもうわかんなくなっちゃったな
リアルフルヤンは人間不信っぽいからどうなるんだろう
268 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/16(日) 19:23:26
専門の学生はアホばっかだろうしな
まあ、楽天的に言いたいこと言えばいいと思うが。 相手の空気読んだらやりたいことやれないだろうし。
フルヤンも最近は個人叩きを自重しちゃってるよな 昔は気楽に色々な人に論評してたというのに
友人の今澤が講師なんだっけ?
早見ってブログやってたよな。 URLを忘れてしまったが。
2人・・・3人は居るか
>>274 総数はともかく、数時間内のタイムスパンで考えると
3スレ目〜5スレ目の頃から大体そんなもんだ・・・と思う。
俺には
>>258 が上の荒らしと似た程度のタイプに見えてしまう。
ここのスレが 大人数+話題豊富+一定の追い込みの効いたレス の組み合わせに
なったことはこの数ヶ月一度も無いはずで、
荒れた前スレの一瞬、大人数っぽくなっただけだろう。
ハードルは下がったがレス内容はあのときガクンと落ちたし、微妙な面が目立つから、
あの一時を基準にしてどうするんだという感じ。
微妙に過疎ったり唐突に盛り上がったり、いきなり論点が出たり、
かと思えば数日止まったり、ってのがこのスレらしいと思うんだけどな。
それにもっと過疎ってるスレぐらい2chには山ほどあるわけで…
極端な過疎スレと比べてるんじゃないんだけど、ここは割とレス進行あるほうだよ。
前スレで唐突に漱石の話になったけど、そういう話題提起も別に誰も非難してないんだし、
過去スレでもそういうふうにいきなりはじまってる論点がいくつかある
11/16のエントリー記事、つまらなくはないんだけど、いかにも古谷的に半端だなあ。 参照指示をしておきながらしかし、その対象は文章では可視化されない、という構造は コウガイビルのエントリーのときだってあったわけで、 あのエントリーは、(それまで見聞きしていない人にとっては)コウガイビルを ぐぐるなりして画像を見ないことには、「なんだか知らんが、気色悪いのか」 という感触で読むしかなく、その関係自体が気色悪さの構造とダブり、奇妙な相乗効果があり、 さらにその当て所のなさと、話者と場所の関係付けがぐにゃぐにゃしてるのが絡むということになってた。 これは同時に短い文章で書かれる怪談の構造でもあって、 そうした説話怪談に怪談特有の類型形象が出やすいのもその理由に拠るんだと私は思ってる。 2chの怪談創作(らしい)の「師匠シリーズ」にある「人形」なんてそういうのをうまく利用していて、 ・市松人形という誰でも視覚的に想像できる対象 +・一抹人形を脳裏に浮かぶことが、怪談内容の人形の消失と連動する ということになってる。 そもそも、怪談というのはある種のそういう可視化想像の閾値を ゆらゆらとまたぐような感触を目指してるものがあると思うね。 しかし、 >象的な「意味」(あるいは「言語」そのもの)というよりもずっと感覚的だ とか、こんな単純な話はいただけない。 お前は一体これまで小説をどう読んできたんだと小一時間問い詰めたい。 小説には、可視的に想像しないにもかかわらず、ある種の距離感でもって 「感触」みたいなもので濃厚さを感じることがしばしばあるはずだろう。 この地点まで遡って「描写と感触」で議論すればいいはずだろう。 「○○の作品にはそれがあった」で終わらせるんじゃなくて、こういうのは書き出しの文章でやること。 そうすれば、言葉 「と」 フェノメナルな作用 の間を何度も往復して 「どう迫ってくるのか」を記述することになるわけで、それやんないと意味ない。(と、思うんだが)
ナラティヴが生み出すイメージについて全く考えてないよな
女がいる意味がわかんねーで箪笥を押してしまったら怪談じゃなくてお笑いになるのか 壁と箪笥の隙間を一ミリ以下にするのって難しそうだけど (壁とか箪笥とかってそんなに精度よく作ってないだろうから)
1ミリってのが現代的なんだろうな 昔なら尺寸だから
それってJホラーの基本じゃね?
フルヤンはお笑いに興味ありそうだな
>>277 せっかく「イメージ」とか言い換えたのに、色彩や感触同様の
一過的で瞬時的な単位しか扱えていないという罠。
これではなぜナラティブなものと付き合ってるのかわからん。
ついには小説も絵画論なみに単純化してきたということなのかな。
JJみたいなもんでしょ
JJって女性誌の?
280の言う「それ」って何さしてるんだ
1ミリとかかね
ちょこっと日本ホラー映画を見てる俺なんかは ナラティブってよりショットレベルの見せ方やギミック志向強いよね って意味かとおもた
フルヤンには植草甚一のような心の広さがない
確かにね JJに失礼だった
異質なものへの耐性が低すぎるよな
洋書も読まないしな
アントワーヌ・ベルマン『他者という試練』を読むべき
ベルマンいいよね。ベンヤミン的翻訳論が締めになるところは 理論的にもうちょっとがんばって欲しかったが。 ただ、翻訳と他者性、ロマン主義に関する本とかあんまりでないし十分貴重。 植草甚一って、お勧めの本ある? 読んだことないや
>>295 ありがとう。でもなんだか理論的に刺激があるような感じではないな。
60-70年代の一つの思潮とか、そんな感じで読んでみようかな。
松岡書評でもタイムリーにもソンタグと関連付けられてるし。
そりゃそうさ ある意味似たスタンスのアカデミシャンといえば、由良君美かな
>>296 確かに全く理論的ではないからそこは期待できない
やたらといろんなことを知ってるおじさんという感じだけど読むと面白い
>>297 由良もまあ雑学的ではあるんだが、
サンボリスムとオカルティズムを結びつけた昔の雑文なんかは好きだったな。
文脈というものの大事さがわかるよな
ブログもある種の文脈だよな ああいう昔のコラムってブログの元祖かも
302 :
299 :2008/11/17(月) 19:00:53
90年代末にたしか福田和也がサンボリズムとヴァーグナー主義、神話模造の接点 についてこだわってて、最終的にはオタク文化になる、と言っていたが、 あの種の議論は暗に東のデータベース的云々、虚構模写説云々の下地になってる。 で、東-大塚の言う自然主義リアリズム/まんがアニメ的リアリズムってのは、 文学史的に言えば自然主義とサンボリスムになるんだと思う。 (ただ、自然主義の登場はジャーナリズムの登場と同期してるので、 単純な素朴模写説でできてるはずがなく、東は大塚の自然主義理解の甘さをそっくりそのまま継承してるのだが)。 サンボリスムをどう考えるか、ってレベルまで持っていけば面白くなるはずなのにな。 ベルマンだってノヴァーリスの百科全書コンセプトには「知的置換可能性=翻訳=詩」みたいな構想まであって、 こう考えると大塚以降の語彙で見ないほうが面白くなる問題がたくさん転がってるし。
ベルマンだって → ベルマンが言うように
とっととデリダの散種が出ていれば良かった
>>304 英訳・仏原書もっていながらろくに読んでない俺はおのれを恥らうばかり
これまた蓮實が散種のマラルメ論を腐してるんだよな 序文がノヴァーリス論
>>307 どうせまたリシャールを盾に使うとか、そういう蓮実の「趣味」的に「許しがたい」とかそんなレベルだろう。
からごころ批判にはまるような人への餌にしかならんような腐し方という。
そういうレベルの議論への抑止力としては、たしかに訳されていてほしかった。
青山真治の評論て読む価値ある?
ないと思うよ
村上隆について語ってください お願いします
バブル崩壊で涙目
漠然と言われても困る どういう傾向の意見が聞きたいのかによるでしょう
じゃあ真剣にこう聞きたいんだけど、結構ここ、批評家に対して否定的な意見多いじゃん。 (ごめん、荒らしでは決してないよ) 総合的に一番評価できる批評家って誰なのずばり。それ知りたい
番組の内容とはまったく関係なく、序盤に移ってたディプティックみたいなのは へえ、悪くないじゃない、と思った。ただ、右側の絵が別に花でなくてもいいし、 さらには村上絵でなくてもいいので、手法が好みだったという感じなのだが。 永瀬的な感じ。左側にあるのは色彩のコードをストライプ状にしてあって、 かつ縦横で糸のように縒り合わされている、といったような。
>>315 日本に関しては何も言わないけど岡崎じゃね
>>315 あえて言えば、批評が死に体化しつつあり、各領域のドグマや議論の硬直とともに
その中から一歩も出ない傾向がふしぶしに散見され、
しかしそのような惨状にもかかわらず、そんなものは気にする必要はないよ、
という楽天的な気分の方が強いかな俺は。
中堅〜高齢世代の硬直が酷くて、若年層もその中に巻き込まれすぎだから、
誰がいいかというと否定的な答えにならざるを得ないという。
岡崎は好きだけど。でもこう岡崎一本釣り的な言い回しも微妙で。
俺は英米の美術批評には素人だから、国内で、とか言われたら岡崎しか積極的な興味がわかない。
あとここで評価高いのは林道郎かな
30代以下だと誰?
>>319 だね。岡崎評価の意味とは違うけど、ああいう人がいるのは大事と。
>>320 むりやり30代以下をピックアップしなければならないというのがそもそもなあ。
加治屋、近藤、黒瀬などは名は挙がってるが、それぞれに
美術研究に特化、東以降の批評系譜に特化 な面が強く、
いまの時点ではなんとも って答えになる
20-30歳代なんて普通そういう段階なんだから、即戦力を期待するのは無理。
ましてやアカデミズムの下地が弱い日本で。
(だからこそ加治屋、近藤らは一旦研究で、って感じなのかもしれないが)
福住さんがいるよ
>>323 荒らす気だろ?w
近藤は批評真っ向から否定とみた
>批評真っ向から否定 思考と成果の関係のつけ方としてそういう選択もまたありだから、それはそれで嫌いではないけどね。 「批評としてどうですか」とか言われたらそりゃ難色を示すが。
326 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/17(月) 23:37:08
つーか、コンドウとかカジヤは30半ば。留学組は年齢があがってしまうから。
博論提出するのって大体30代前半だからね。博論出して間もない人間が、 たとえ批評関心があったとしても、そういう文章で世に出てるかっていうと、まあ普通そんなやつはいない。 あと、批評家といっても世間では批評家とみなされない専門家、でも面白い人ってのもいるしね。 カルロ・ギンズブルグとか中井久夫とか十川幸司とか。 まあ、作品や各領域言説史に踏み込んでいくタイプじゃないし、作品読解は大して…ってことがある。 そういうのを含めると、「批評家」といってもいろいろすぎるんだよな。
329 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/17(月) 23:47:08
ユリイカ緊急特集「批評のアンチエイジング」
最近は緊急特集ってないよねw
そうなるとやっぱり平倉・石岡ってところじゃないの?
そこまでして注目株探しをすることもないと思うけど、石岡の今後には期待してる。
「誰が有望か」なんて話は先物取引のごとき言葉にしかならないからな
相場師気取りでしゃべっても面白いことにならんと思う
>>315 は「批評家に対して否定的な意見」といってるけど、
叩きをやりたいってよりは、かこつけて別のことを言ってる面もあるわけで。
それぞれの各論点に対して、どう考えるかの方が面白い
誰がいい悪いと一面的には決めつけられないということだね。 林道郎はしかし、炭坑社の「森山大道」論はお世辞にも面白いとは言えなかった
18日は阿佐美でフルヤン、四谷で平倉・千葉・福嶋のレクチャーだね。 うまくいけばハシゴも可能のようだ。
>>334 研究者は面白いことを自らに禁欲してしまう傾向があるんだと思う。
林は翻訳・紹介、まとまった本の刊行、に是非とも蓄積を発揮していただきたい、というタイプ。 俺としては「批評家」というのとは違う感じかな。でも、そういう人は日本では稀有。
ドミニク・チェンって完全に消えた?
会社を興したんじゃなかったっけか
>>338 SITE ZERO2号は、チェンが特集を主導してるんだがw
あんまり読んでないけど割と面白そうな紙面だったよ。
彼はICC研究員になって以後は、割と印象違うな。
村上とかかわってた頃は特にいい印象もなかったんだが。
ドミニク・チェンはコンサル色が強すぎてどうも苦手だ
コンサル起業・・金融恐慌・・ガクブル
2,3年ぐらい前かな、チェンがレッシグについて書いたのを見たときは たしかにケッとか思ったけども。 チェンは終刊直前の10+1、48号-50号で「プロクロニスト・マニフェステーション」 って連載をやってて、俺は第1回を斜め読みしただけだけど、 情報環境ー生態論(ベイトソン経由)ー集団製作プログラム ってあたりで考えてるようではあった。 国内のリファレンスをほとんど使わないで思考してるのがちょっと好ましいって感じだけど、 東派から社会反映論の色を薄くしたようなものかね。 メタな設計思想にどうも傾きがちな性格もあるようだけど。 SITE ZERO2号で翻訳されたラッシュ、ベンクラーはチェンが連載で注に挙げてた英語文献。
福住のような胡乱な議論よりは、ドミニク・チェンのほうが見込みがある
研究職の方へ逝かないって、もったいなさすぎないか?>チェン まあ他人の人生だが
でも実際問題研究は無理だろう
チェンって、色々な人と絡んでいる割に孤立しているような印象があった 方向性が専門的すぎて四ツ谷の連中のように、同世代の同志と徒党を組めないような。 美術批評と情報環境の橋渡しも一人で切り開くには困難だったろうし、 見切りをつけたんだろうね
>>345 学振もらってるから、ポストは狙ってると見て間違いない。と思うが。
まあ、ふらふらやってきたつけが回ってきて、アカポス手にしてないんじゃないかなあ、とか推測。
何気にチェンにはブログがあって、現在のプロフィール載ってたりするよ。
俺は何かの拍子でふと見つけて、え、何この高橋悠治を抜粋英訳してるブログ・・変わった人いるなあ、
と思ってプロフ見たらチェンでびっくりしたという。
俺からして、第一声が「この人生きてたんだ!」だったから酷いものなんだが。
たぶんチェンは悠治が好きなんだろうね。
SITE ZERO2号に悠治の文章があったのはチェンが依頼したんだろうと思う。
>>347 そういう孤立感はあった感じがするね。
しかも傍目にはポピュラーな派閥・言説(たとえば村上とかレッシグとか)に
半端に媚うってるようにすら見えるという微妙な不幸もあったし。
当時の主張が今と比べて実はそんなに違っていないのかもしれないが、
とりあえず3,4年以上前はすごく印象悪かったな俺のなかで。
性格的に割とあっちいったりこっちいったりな人なのかも
どうも日本の学芸員には暗黙の縛りが多いのではないか チェンもそれに引きずられたっぽい ずばり単著出していればだいぶ違う展開になってたでしょう
>>351 チェンが学芸員的な仕事をやってるかどうかはよくわかんないんだけど、
ICCのHIVEを設計したのは彼みたいだね。
ブログは数ヶ月前には普通に見れたんだけど、今は修理中らしく見れなかった。
たしかドゥボールに関してつらつら書いていたような記憶があるんだが。
deriveってブログなんだが、もうブログ名からしてシチュアシオニスト用語。
大して長文のエントリーとかなかったんで、わざわざ見るようなサイトじゃないけどね。
肩書きには2003年以降、ICC研究員とあるけど、なんか情報系の論文とかも多い人でね。 こいつ、学芸員やってんのかな? という気持ちがあったのだ。 なお、テヴォーとかヴィリリオの翻訳もやってた青山勝(1967-)も たしかICC研究員を2000年前後にやってて写真研究会にも所属してるけど、 今は岡山大学の教授になってる。
>ずばり単著出していればだいぶ違う展開 あるある。 濱野智史ですら単著出せてるんだから、チェンが出せてもいいはずで。 まあ、今はまだ(チェンのあの年齢にもかかわらず)博士課程在籍中みたいだけど。
ぶっちゃけさー、外国籍だと大学職は難しいとか 見えないところでそういう時代錯誤な慣習があるんじゃないの? だとしたら絶対的な不可抗力であきらめざるをえないわな... 俺がチェンだったらフランスで平穏な暮らししたいおw
俺もよく知らないけど、あんのかなーそういうの、という気持ちにはなるね、チェンのプロフ見てると
その代わりあからさまに富裕層だろ
そこはよくわからんが、NPO法人Creative Commons Japan理事やってて貧乏てことはないだろうなw
でも美術作品について特に面白いことを言ってないよ
プロフ見ると、親が外交官か何かなと思ったことはある。 そういえば近藤もWebのプロフィールで「ベルギー生れ」となっている。 裕福な匂いがする あまり下世話な事書くと、また過疎るかな。
逆に貧困層って誰?
一夜にしてドミニク・チェンのまとまった情報が書き込まれててちょっと笑った チェンは活動の幅がハンパないな。二人いるんじゃないか?
>>360 たしかに作品読解で面白いと思ったことがまったくない
>>355 濱野本、参考文献が池田信夫とかで笑った
368 :
276 :2008/11/18(火) 08:59:25
>>367 ほんとだ。とりあえず書籍版の宇宙人好き云々あたりも含めてじっくり読み直してみる。
うまく返答できるかどうかはまだわかんないけど。
>>368 といっても強情に言語を主題化しないつもりみたいだから、いっそ阿佐美に行ってしまえw
>>368 阿佐美に行かなくてもふるやんに直接メールとかして議論した方が良いんじゃないの
それからやりとりを公開するとかでも遅くない、と思う
371 :
276 :2008/11/18(火) 10:49:35
阿佐美に行くつもりはない。 メールねぇ…。メールって、返答要求が明確になっちゃうし、情も入っちゃうからね。 ここでレスするならば、古谷も適度に相手にしなくて済むし、 こっちも逐一フォローせずに多少乱暴なことも言えるという良さもあるような。 まあ、ここでレスしたら古谷が表立って「〜〜の箇所の見立てには不満があって、 むしろこれこれといいたかった」といった補足・説明はできなくなるから、 向こうにフラストレーションがたまりそうだけど。 つまり、古谷にはこっちが無責任に見えてしょうがなくなる、と構図になりうる。 その上このスレでは「こっちの意見は議論としてカウントするな」と言ってるわけで、 この文脈でこの主張は予防線に見えちゃうだろうし。 互いに適度に無関心と無理解でいるには、ここでやった方がいような気がするんだが・・
276自身が批評家になるつもりがないならそれでいいと思うよ
視覚イメージだと真理が主題化されないみたいな発想なのはどうかと思う
四谷に対しても同じスタンス?というかレクチャーに興味なさそうだね 単に俺と同様引きこもりなのかもしれないが
>桜金造の怖い話は、その大筋において「幽霊好き系」であるものの、その最も中核的な部分において「宇宙人好き系」的なものへと反転する。この交錯こそがスリリングなのだ。 スリリングじゃねえよ、ぜんぜん
フルヤン自身が幽霊も宇宙人もナメてかかってるよな ぼくのすきな柿の木に恐怖が宿るとか考えてなさげ
377 :
276 :2008/11/18(火) 15:41:53
一応、5/18(誤:5/16)日記と11/17エントリーを対照して読んでるが、無駄に苛苛する…。 幽霊系=A、宇宙人系=B ってことで以後は略記することにしよう。 A: 想像界 B: 象徴界 A: 「その場その場であらわれる齟齬、矛盾、亀裂」の形象化、多様性 B: 作家各々にとって特異的だが、解釈体系的なに全てが回収され、形象は仮象 となってるわけだが、A=差延、B=意味作用の全体論的な統合 で済ませば、 これを 視覚vs.言語 にする必要がそもそもない。 ● また、Bの解釈体系=真理 と言われているが、ハイデガー〜ラカンだと、 濃厚にA=真理じゃん。ターミノロジーが混乱してて疲れる。 しかもB=作家による個体性がある、とされているようだから、 Bは大文字の他者ですらないし、B=真理とわざわざ言ってはかえって議論がぐちゃぐちゃにならないか。 ● また、Bの真理=体系は、分析過程、読解過程によって見出されるとされているが、 その読解結果が同一になるという保証は確保されないわけで、同一であるという前提がまずおかしい。 読解をなめすぎ。読解によってこそ、Aのごとき多様性が産出されるという契機をあらかじめ排除してる。 これだと、最初から優劣付けられた出来レースになるという印象だ。 さらには、ラカンの想像界/象徴界を、そのまま視覚/言語に当てはめる発想も割と問題。 はじめから答えが出ている優劣付けのためだけに三界説をチープに持ち出してきているように思われる。
378 :
276 :2008/11/18(火) 15:57:47
>5/18(誤:5/16)
逆だった。5/16(誤:5/18)ね。
さて、続き
●
>[Bの作品は]直接的に理解することは難しい。(5/16)
これは暗に、Aは直接的だと言ってるわけだが、
フェノメナルな作用をそれとして経験の中で構成したり、プロセスを経るのは
感覚器官は異なれど読解過程に近しい構造をとるので、それを「直接的」と評するのは、
視聴覚器官による記号聴取は「直接的」で、言語記号を介した読解は「間接的」と優劣付けているのと同じになる。
(第一、岡崎がフェノメナルと言い出したときには、ほとんど差延のアナロジーで言ってたはずなんだが)
おそらく古谷は感覚器官/言語という対立に溺れている。
器官的な差異にかかわらず、言語読解の際にも視聴覚的な聴取に近いプロセスは生じうる。
>>276 ではそれを「小説には、可視的に想像しないにもかかわらず、ある種の距離感でもって
「感触」みたいなもので濃厚さを感じることがしばしばある」というふうに言ったわけだが、
こうした局面は小説にかぎった話ではなく、
可視的対象/想像という媒介ではないが、論理的な構成の取れた文章を読解によって変形させるときには
論理構成をそれこそ彫刻かなにかのように、ものをつかむように、とらえ、そのうえで
パイをこねたり布地の一部分を引っ張るような作業は起きる。
どうも古谷は論理構成の往復作業を固定的で同一的なものにしかならない
と考えているようだが、そんなはずがないだろう。
こうした古谷の発想は、可視的対象はもてないまま、おぼろげながら組織化するという局面を
あらかじめ排除していることに由来している。
組織化→あらかじめある体系にあんるだけだからダメー ってなわけだ。
そして対比的に、差延のうちにある、フェノメナルなうつろいをうつろうだけに放置することが賛美される。
ここでは、目的論的ではなく、書いているうちに・考えているうちに変容するような組織化というものが無い。
フルヤンはラカンの図式をお手軽に使いすぎてる そのわりにクラウスを批判するからよくわからん
380 :
276 :2008/11/18(火) 16:13:56
訂正 組織化→あらかじめある体系になるだけだからダメー ● >「壁とタンスの隙間」という、あくまで具体的、視覚的なイメージが、 >「一ミリの幅の女」というフェノメナルな場には位置を持てない「概念」を感覚化する。(11/17) 「一ミリの幅の女」という対象は可視的な対象をもたない、ゆえにフェノメナルな場にない、 と言っているようだが、これは古谷の論旨がさらに混乱している。 A=フェノメナルな作用、には可視的とは言いがたい局面が最初からあるはずで、 色彩Aを見るときにフェノメナルに受けて映じられる色彩B、C、C・・・などが 連鎖的に生じたとして、それぞれが同定的な対象をもつかというとそうではなく、 可視性の手前のような感触が生じるはずだろう。 では、なぜ「一ミリの幅の女」にかぎっては「概念」などと言われるか。言葉だから同定できるから、に尽きる。 色彩だって指差し同定できますし、精緻にカラーコードで名指すことも出来ます、以上。 結局、視覚=同定不能 言語=同定範囲内にとどまるだけ と あらかじめ古谷のなかで決まっているからこんな変な一文が出てくる。 視覚にも言語にも 同定的対象/同定できない局面 がある、んだから、まず前提がおかしい。 ● ちょっと視点を変えて言ってみよう。俺が市松人形の例を出したから、 「一ミリの幅の女」は対象への可視的想像が抑止されるから違うんだ、と言い返しているようだが、 可視的想像の閾値(想像するにあたっての障害度)は変動することが 怪談の成立基盤になってるんじゃないの、という話の範囲内に収まると思う。 この場合、言葉による怪談と視覚による怪談の違いははたして重要だろうか。 黒沢清の「蜘蛛の瞳」では子供部屋から亡き娘が出てきたり、墓標のような標柱が出てきたりするが、 これは象徴的な「暗示」(隠喩)ではなくて、可視/不可視の閾値を往復しているようにも見える。 あるいは、映像のすぐれた幽霊描写の時点で、なんらかのそうした操作「として読む」することはできるのでは。 そう、こうした発想自体、俺の「分析-読解過程」の所産なわけだが、古谷の読解とは同一ではない話になるわけだ。
381 :
276 :2008/11/18(火) 16:16:41
なんかもう言うことなくなったし、重複的で冗長になってきた気がするからこれで返答おしまい。
>>379 しかも根底にあるのは「思い込み」「偏見」のごとき対立であるから手に負えないっていうね。
経験そのものが貧弱なんじゃないの、とか言ってやりたくなる。
382 :
276 :2008/11/18(火) 16:22:48
自己レスで補足 >A=差延、B=意味作用の全体論的な統合 で済ませば、 全体論的ではない組織化、それこそ視聴覚や記憶のスパンに根ざした層構成をさせて、 別々に作動する構造の集合みたいに見えちゃえば、 A/Bではすまない意味作用の関係網を見出すこともできると思う。 そして、そんなものは読者によって単独的にというか、経験構成の技法でもって 無理やりに(当人的には切実だったりするが)見出されることになる。 こうした射程で考えると、古谷のA/B対立は、 読解を構成することから逃避するための方便に見える。 ちなみに、俺が言葉の怪談をどこか好きなのは、 形成している層があんまり多くないからって感じ。 古谷が桜金造の作品を好きなのもそのシンプルさってのもあるんじゃないかね。
383 :
276 :2008/11/18(火) 16:44:49
要は、小説家の彼女に結び付けたいだけだろ? リンチはともかく、シャマランとかミシェル・ゴンドリーとかカイリー・ミノーグとか www 体系が唐突過ぎて受け売りとしか思えん 飛び魚とかカバの話の「そのひと」だろ?
保坂と磯崎と彼女を持ち上げてれば食っていける
385 :
276 :2008/11/18(火) 17:31:28
偽者か?
言語経験がショボいおかげでそのへんの作家に愛されてるんだぜ? まともに対峙したら葛藤が発生するから、断固として感覚的物言いに滞留wするはず
388 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/18(火) 18:35:11
>>379 バカなのかな
その矛盾に気がつかないのって。
389 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/18(火) 18:37:41
ダイドータマキ? ダダ星人かとおもったけどね。
というか、幽霊が神経症で宇宙人が統合失調症といいたいんじゃね? どうせ樫村の体質論で整理してるだろうから。
なんでしろいろは作品分析やらずに批評の批評ばっかやってんの? それとも書きためてんの? ぜひ読みたいから何かアップしてくれ
今日の四谷は東スレの興味をひいている
古谷って絶対デリダ理解できてないよね?
そりゃそうよ デリダはからごころの徹底だもの
で、レクチャーはどうだったの?
397 :
276 :2008/11/19(水) 00:50:34
>>391 古谷批評の批評になってしまったのは、返答の便宜上。
特に書きためてないんで、大体ブリコラージュ的に書くことが多い。
ちょっと思い返すと、
>>380 は乱暴というか、古谷の読解プロセスを無視してた。
>では、なぜ「一ミリの幅の女」にかぎっては「概念」などと言われるか。言葉だから同定できるから、に尽きる。
というよりは、おそらくここの前提に
「小説・文芸によるものを読むときは、視覚的な想像をつねにしている。意識的であるか否かはともかく」
というのがあって、その読解ゆえに、「一ミリの幅の女」が穴のように効果的なものになってる、
みたいな感じなんだろうな。
ただ、それなら最初に「言葉による物語を読むとはどういう作業なのだろう。
はたしてつねに視覚的に処理しているのだろうか。
僕は「一ミリの幅の女」という語句の箇所でハッとしてしまうのだが、おそらくそれは
無意識のうちに視覚的対象をなんらかのかたちで想定しながら読んでいるからだ」
とか書いた方がいい気がする。
さらには、言葉によるものを読むってそもそも何だろう、って
問いにしてじっくりやっていったほうが古谷の資質とも合うんじゃないかな。
398 :
276 :2008/11/19(水) 00:58:57
>>390 逆じゃないかな。
古谷にとっては宇宙人系より幽霊系が偉大。
宇宙人系は謎=真理の内容が顕現する解釈体系で、からごころ。神経症か境界例に近い。
一方、幽霊系は想像界を通して現実界がふしぶしに到来する。
これは統合失調症(分裂病)で、差異=フェノミナルな作用のうつろいの中にあれ、ってなってる。
オカルト板のスレにあってもおかしくなさそうな文w
400 :
276 :2008/11/19(水) 01:19:20
>>399 例に挙げてる高橋洋の映画って見てないからなんともいえないけど、
宇宙人系と言ってるのは、背景にオカルティックな世界像があり、
それを経由してはじめて宇宙人が宇宙人として畏怖の対象になるとか、そういうのを暗に前提にしてるんだろうね。
たぶん陰謀論もこっちに含まれる。
対して、幽霊は、とりあえず何か回帰してくればいいんだよ! 的なシンプルさがあるとする、みたいな感じ。
401 :
276 :2008/11/19(水) 01:21:09
ざっくばらんに古谷の念頭にある手触りらしきものを要約すればするほど、 別に半端にラカンを使う必要ないだろ、むしろ使うことで議論が閉塞してんじゃないの、とか思えてくるという・・
患者「隙間に女がいるんです」 医者「どんな女?」 患者「とにかくいるんです」 医者「絵で説明してくれる?」 患者「…」 というわけで頼んだよ古谷君
403 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/19(水) 02:03:34
結局スレ民は四谷にも阿佐ヶ谷にも行ってないのか
宇宙人の方が偉大だけど、幽霊の方が肌に合うという感じでは
幽霊VS宇宙人ってもともと清水崇から来てるのかな 観た人いる?
フルヤンとレクチャー後歓談したひとはいないのかな?
いてもここには書き込まないんじゃない? 古谷自身見てるスレで書いたらいろいろまずいじゃん
Art and Objecthood入手したお でもルイス展いかないとだめなのかお・・・
Art and Objecthoodよりむしろルイス展のほうが大事
そんなの参加できる人あんまりいないお
明日行くぜい 今日くらい天気良かったら公園も散策したいなあ
ルイス展が主ってことは、「ルイスについて議論・分析をするのが主」 ってことなの? そうでもないとテキスト読みもルイス分析もただひたすらgdgdになりそうなんだが。
明日は少し寒そうですね。でも楽しんできてね。
>>411 >>413 そんな堅いことではない。地方にいる人とかはしょうがないし。
20年ぶりだから無理しても行ったほうがいいけど。いい美術館だし。
ここでやるのはあくまでも読書会でしょう、たぶん。
>20年ぶりだから無理しても行ったほうがいいけど。いい美術館だし。 そう言われるとつらいお いってくるお
418 :
276 :2008/11/19(水) 19:13:47
>では、なぜ「一ミリの幅の女」にかぎっては「概念」などと言われるか。言葉だから同定できるから、に尽きる。
>色彩だって指差し同定できますし、精緻にカラーコードで名指すことも出来ます、以上。
これは
なぜ「一ミリの幅の女」にかぎっては「概念」などと言われるか。
→古谷にとっておそらく、そのイメージは言葉であることに由来していて、
言葉だから同定可能で、「概念」という浮上の仕方をしている って意味で言ったの。
その意味で
>>397 二段落目で補足しておいた。
さらに言うと、なんでそういう浮上の仕方をするか、というと、
「1ミリ」(人間の側面)と「女」(性別は特にどうでもいいので「人」でもいい) がある種の矛盾をおこし、
一つの視覚的イメージとして結実しがたいって感じちゃうからなんじゃないかな。
両立できない多義性が詰まってるってわけだろう。
フェノメナルな作用の源泉となるユニットになるというふうにとらえたんじゃないかと。
11/19エントリー自体は、レクチャーメモだから直接の返答じゃないんだけど、
>「かたち(イメージ)」は、感覚的な過剰を縮減して得られるというよりは、感覚的な過剰から「創造」される。
ってのは、ルーマン的「複雑性の縮減」じゃなくて、見る・読む側が変形するという飛躍があるってことだろうね。
だからこそ、そこに読者による組織化が入り込むはずで、そこで面白くしてもいいはずでは、と。
これは
>>378 >>382 とかで言ったしもういいや。
>幽霊(的イメージ)は、このようにしてふたたび現実的な認知のなかに場所をみつけ、顕在化する
これは、そうしたユニット、変形によって(記憶に)定着した形象が、
別の細部を見ているときにまた回帰しますよって話だね。
原理的にはそうだけど、こういうのは具体的に、古谷の身体を経て、
何かの作品読解というかたちでやらないと、それ自体は「そうだね」で済んじゃうんで、別に返答する気にはならないな。
>あくまで「それ(脳?)自身」のメカニズムに従って現れるので、幽霊は私の意識にとっては常に唐突にやってくる
これは、構成者による意識を超えるものがあるってことだけど、
もちろんそういうものを含めての話で、作品経験でそういう契機がなかったら、人は論じないものだと思うよ。
419 :
276 :2008/11/19(水) 19:26:05
だが、そういう契機を「脳自身」とか言ってしまうのはちょっと軽率すぎるし、
直接的にマトリクスを名指せると思っていそうで微妙。続く文で
>私の意識にとっては常に「外部」からやってくる
とあるが、「自分にとっては意識に回収できない出来事めいてる」ってぐらいで済ませばいいと思う。
自分の読解手法とその無意識的な蓄積と、
それらとの格闘や予期せぬ回帰、出現のなかで作品にこだわり、読解する、と言えばいいんじゃないかな。
だからこそ、
>>382 で「単独的にというか、経験構成の技法でもって無理やりに
(当人的には切実だったりするが)見出される」と言ってるわけで、その上で
作品と自分にとって大事な読解と往復すればいいんじゃないかと。
古谷は、すいっと自分の感慨に入って、しかも戻ってこないまま単純になってることが多すぎる。
当人的には「これが生々しく、直接的って感じがするんだよ!」ということなのだろうが、それは隘路。
作品と自分の読みとの間で試行錯誤視したら、あんなにシンプルになるはずがない。
>「私の身体(脳)のメカニズム」そのものが、「物」のように明確な密度と強度をもって、私の外側から到来するようにあらわれる。
ここは、そういう自分の読解・構成的な蓄積や技法に、(時には自分の書いたものすらも含めて)
他人のように不意に出くわしちゃうって局面だろうね。
なんか、俺のコメントが十川の言う臨床/理論の往復関係にどんどん似てきたな。
古谷はきっとシンパシーを得そうだから読んでみればいいのに。
このスレ見たら読むでしょ
なんだか衒学化してきたな
>幽霊は、私の意思や都合によってあらわれるのではなく、あくまで「それ(脳?)自身」のメカニズムに従って現れるので ここで「脳」のせいにしちゃだめだろってのが結論だあね。作品がどうでもよくなっちゃうからね。
>>421 衒学を嫌うあまりショボい感覚論になるよりはマシじゃね
>>422 岡崎が作品自律派だとしたらフルヤンは脳内自律派か
面白いね
今日川村に行けば住人と会えるのか よし決めた行くぞ
>>424 そこの差異はもうちょっと踏み込んで考えると面白くなるかもね。
岡崎は古谷のようにフェノメナルな作用の渦に嵌る方向には向かわないし、
作品の自律的空間を古谷とはまた違う位置に置いてる。
岡崎の言う自律ってグリーンバーグとかとは違うんじゃないの
そう。かなり違う。
429 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/20(木) 17:35:53
84 :わたしはダリ?名無しさん?:2008/11/03(月) 14:50:28 岡崎シンパ キモスキ&必死すぎwww この人の話し方って、新興宗教の教祖みたいでキモイ 目とかいっちゃってるし 教祖様を崇めるニートを引き寄せ 美術関係者にガン無視される駄作をムリヤリ誉めさせる この点において岡崎は長けているのかな。
4・5スレ目で岡崎の自律性の扱いについては少し言われたね。 あれ以上指摘するとなると、論じるのが難しいな
古谷の言う作品の自律性って、消去法で導き出すものだよな。 〜〜は外的であり、間接的である、として消していく。 その結果残るもの=直接的なもの=作品の自律性 となるわけだ。 だからフェノメナル一本槍になるし、記述や論理的な構成を拒むうつろうものになる。 そしてそれを支えるのは「私の脳」にされてしまう。 したがって、作品の自律性は見者の自律性に接続される。 他方、岡崎はそもそも消去法的に自律性を置かない。 「架空の場所」といったトポスは設定されるが、外的/内的、間接的/直接的の境界を その場所が再画定するといった作用をもつ。(作用は事後的に検出される) したがって、直接/間接といった弁別問題にならずに済む。 こんな差かな
432 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/20(木) 18:20:36
新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教新興宗教
岡崎の言う自律性ってバックミンスター・フラーみたいなもんでしょ 古谷は興味ないだろうね
>>433 発明家だもんな
ラウシェンバーグとかああいうの
>>434 E.A.T.のビリー・クルーヴァーとかね
フラーの固有名に頼りすぎ 「みたいなもん」と言っても側面しだいでしょ 結局岡崎は、生態的に外部空間を無視して生態圏を作る=自立してるから、 フラーは、コンテクスチュアリズムとは異なっていて良い、って話 ラウシェンバーグ評価はまた別じゃないの 「みたいなもん」「ああいうの」「発明家」とかフレーズばかりが踊っててわけがわからん
だってフラーって言えば十分でしょ
たしかに従来の素材とは異なるものを導入する人たちを取り上げている でもそれは、有用性(機能)や技法が露出するからでしょ 発明家だ、建築家だ、技術屋だ、と言って片をつけちゃうと、 「『芸術の設計』ではPC万歳みたいになっていたが、BT8月号は補完になってて良かった」 とかこのスレで妙に合意されていたのは一体何だったんだと思えてくる まるでこのスレでは「岡崎=発明家」言説万歳になってるかのようだ
フラー、の一言ですむのなら、8月号では 彫刻の話も色彩の話も、イメージの話も必要ないんじゃない? 「だってフラーとあれは関係ないよね。フラーは彫刻じゃないし」ってなる 固有名に頼ってて思考停止してる言い訳じゃないの?
大本のアイデアはフラーであって彫刻も色彩の話もそれに尾ひれがついたようなもん 思考停止してるのはどっちだろう
美術評論家、福住 廉氏の著書『今日の限界芸術』をBankART出版から発刊します。
福住氏は、「見ること・書くこと」に対して、勇気を与えてくれる現代の若き獅子です。
ほどよくリラックスした文体、それでいて骨太の構造的な構成は、数多くのファンを魅了
してやまない存在となっています。またこの3年間、BankARTスクールの美術批評
ゼミでも講師をお願いしています。
福住氏の初めての著書の出版を記念して、「『今日の限界芸術』の出版を祝う会」
を下記のとおり開催します。皆様、お誘い合わせの上、是非ご参加ください。
■『今日の限界芸術』の出版を祝う会
日時 2008年11月26日(水) 19:00-21:00
会場 BankART Mini(BankART Studio NYK)
横浜市中区海岸通3-9 045-663-4677(電話)
参加費 5,000円
ご予約
[email protected] 045-663-2813(FAX)
※必ずご予約ください。
タダでもいらねえよ、そんな本。この前BankART行ったら置いてあったが。
ブックオフに持っていけば50円くらいにはなるかもよ
>>440 いや、その「大本のアイデアはフラーであって」の箇所をじっくり言わないでいると
説明を固有名で済ますだけのことになるわけで、それを固有名に頼ってるって言ってるんだよ
思考停止というのが嫌なら、説明停止でもいいよ
フラー、ラウシェンバーグ、クルーヴァー、の羅列だけでは
「ブラックマウンテンカレッジ」という共通性、方向性はあるけど、それだけだと羅列になっちゃう
そこんところをじっくり言わないと、結局名前出して(説明が)終わりにならないか
「思考はしてるが説明はしないが、わかれよ」みたいに言われても、無茶だ
>>442 まったくだ
<福住氏は、「見ること・書くこと」に対して 作品の造形なんかについて語ってるのを見た事がない訳だが。他人を 攻撃しているイメージしかないし、ファンがいるなんて初耳だな。
芸デ板に早速あった。コピペ まあ売れんだろ 456 名前:ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη :2008/11/20(木) 22:35:13 インチキ批評家 福住廉(笑) 誰が買うか馬鹿w 美術批評家、福住廉の初単著、Chim↑Pomの卯城竜太との対談も収録 2008年11月下旬に、気鋭の美術批評家・福住廉が初の単著『今日の限界芸術』を発売する。 内容は、連続企画展『21世紀の限界芸術論』で発表してきたテキストのほか、これまで様々 な媒体に書いてきた批評を一冊の本にまとめたものだ。Chim↑Pomの卯城竜太との対談など、 今日の現代アートを知るためには彼の著書を読まずにはいられないだろう。
読まずにいられます
攻撃的で辛らつな文章ってなぜか業界人受けするんだよな
>今日の現代アートを知るためには彼の著書を読まずにはいられないだろう。 頭の悪そうな文章だな
福住って美術好きじゃないよね。
美術ゴロ
>>440 フラーとカロは違うづら
フラードームは転がるづら、カロは転がらないづら
ルイス展はどうだったの?
アトリエ再現が面白かった 狭すぎw
>>452 たぶんカロ的な文法を超えようとするとフラーが出てくる
_,,, _/::o・ァ チュンチュン ∈ミ;;;ノ,ノ ヽヽ
つまり、色彩とは、けっして誰とも共有できない不確定なものでありながら (私が見た青とあなたが見た青が同じ青かどうかは分からない)、 しかしそれとまったく同時に色彩はそれ自体記号として機能もし(青信号では進む)、 さらに言えばアッシジのジョットの青、といえば、 やはりそれを見たことのあるだれもが「あの青」を想起し、それについて様々に議論が可能になる (その議論はもちろんどれも一致しないかもしれないが、そもそも議論が可能である、 ということは、「アッシジのジョットの青」について、皆が一定の同定可能な想起をしていること を裏打ちする)、という事態が起こりうるということで、このような複雑な状況は、 絵画を考えるときにはけして外せないポイントだと思える。
松岡新一郎さんって何歳くらいの人なの? 今松岡訳の本読んでるんだけど経歴がくわしく書かれてなかった
しろうと東スレで大暴れだな
しろいろの間違いw
フルヤン、やっとルイス展行ったか。フルヤン大絶賛のルイス展は30日までなので、まだ行ってない人は はやく行ったほうがいいよ。フルヤンみたいに佐倉駅で一時間も無駄にしないように、無料送迎バスの時間は 事前にチェックしておくように。ホームページに載ってます。特に平日は本数少ないので要注意。
>ルイスの作品はそれくらい、あらゆる文脈から切り離されて唐突に「そこ」にあるかのようなのだ。 またかよw
アン「フィー」ルド?
>ルイスの作品はそれくらい、あらゆる文脈から切り離されて唐突に「そこ」にあるかのようなのだ。 正直評論家としてどうなのこれ...
お、リバプールですかw
フルヤンは評論家じゃなくて自分語りが売りの人
あと、フルヤン今は絵画好きじゃないのかとw
また岡崎の二枚組にいやみを言っとるw
実際には岡崎が嫌いってことをとっとと周知するべきじゃね
フレームによる区切りをリテラルに読解するあたり、馬脚が出ている フェノメナル云々言い続けたフルヤンが岡崎に対してだけは過度にリテラルに読解するとか 一時の東が浅田にズレた怨念を向けていたのに似たものを感じる
そうだよねえ、なんで二枚組にあんなリテラルにこだわるのか分からない
偽日記を始める前になんかあったっぽいじゃん おそらくマルチプルの作家と揉めた
フルヤンは発想を変えるつもりがまったくないよ >そもそも、常に変化や発展を求めないとやっていけないというのは、端的に言って「弱さ」のあらわれであって、 >それってつまり「資本主義」の都合に踊らされている(資本主義の病理に侵されている)というだけことなのではないかと、最近つくづく思う。
もう芸だとわりきって硬直万歳になってきた気配すら漂う
>>472 マジレスすると、発想が貧弱で、手持ち引き出しを更新しないでそれにしがみつくからじゃないかな
だから二枚組批判にすがりつくし、フェノメナルの話だけに突入する
頭の悪さと自分の論から距離をとることが苦手なんだろう
言語観がお粗末なのも字面しか読めないところに起因してるんじゃないか
まるで図式的なラカンの拝借といい、それ自体が硬直してると自分で気づけない
特定資本の都合で踊らされるのと、そこから距離を取ったつもりで資本主義に囚われるのは同じ。
四谷は今こそフルヤンを呼ぶべき
ZERO THUMBNAILに入ってるような単品は別の作られ方してるんだよね 二枚組批判に熱中するあまりそれらを論ずるのを捨象するフルヤン
いやいや、岡崎的には全部一緒でしょ
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081022 >それぞれのフレームの縦横の長さが黄金比によって関係づけられ、展開されている。ということはつまり、フレームの形が「先にある」ということだ。
この批判の調子はルイスのアンファールドシリーズのplate4などには適用されないのか
筆触とカンバス外形がまったくの無関係にすることができるとしないと、こんな評価軸成り立たない
中村一美、ルイスにいたるまで無関係どころか、フレームに頼ってる面だってあるような気がする
批評の一貫性が捨てられてるから岡崎批判に粘着してるように思えてならない
古谷=福住ですね、 分かります
>>481 そう、岡崎的には一緒
だが、フルヤンの考える岡崎像では二枚組批判に固執するあまり
単品作品を論じることもできない
フルヤン自身が二枚組にとらわれて岡崎を読解してるんじゃないかな
おまえが書き飛ばす書評は資本主義の都合ではないのかと
どう考えても古谷は一貫して岡崎アンチでしょ
>>485 「資本」と「資本主義」をちゃんと区別してなさげ
大自然から天才が沸いてくるんじゃないのw で、柿の木が熟するようにして作品が生まれるのさ
>>484 だらしない絵画マニアがどうの、みたいなドローイング評があったような記憶
>>489 俺の人生レベルで一貫させているからおk
>>491 よくいる、粘着アンチが売りもののブロガーですね、わかります
残念ながら、岡崎に対しては粘着ブロガーそのものだろう
バンフ展見てないから類似性の有無は知らないが、ZERO THUMBNAIL所収単品や 南天子に出品されてた単品はドローイングではなくペインティング 単品: 「絵画マニアに淫している」→フルヤンの淫したマニア披瀝の開始 二枚組: 「二枚組はフレームがリテラルだからだめ」→リテラルにしか読まないフルヤンの開始 こうですか、わかりません><
黒瀬がフルヤンに嫌味の一つもいいたくなるのは当然だわな・・・
古谷はアニオタ未満ってことだ
なあ古谷君 頼むからなんか面白いことを書いてくれ はてなダイアリーって高学歴ワープアの恨み言ばっかしじゃねえかw
このスレもそうだろ あと古谷は高学歴か?
このスレって古谷の限界指摘は的確なんだが それ以上のことをやろうとした途端に話題変更か叩きが起きて失速する それゆえ古谷が岡崎粘着ブロガーなのと同様に、このスレも古谷粘着スレになってる どうやら古株のうち1,2人からしてそこから踏み出す気はなさそうだし このスレずっとこのままだろうな たまに面白いことを言う人もいたが、その数人が消えたらただの叩きスレに戻りそう
俺の予想 何人かは別の場所で物書きやってる
あなたが物書きやってるんじゃない?
岡崎がROMってるだろなんて話もあったなw
めっそうもないですよ
それはスレと書き手の自意識が肥大しただけなんじゃないかな お偉方から注目されるほどカッコイイ自分 みたいな 2ちゃんじゃよくある妄想 たぶん「○○も認める〜〜」みたいな承認効果に弱いへたれなんでしょう
本人乙とか誰々が書き込んでそうとか、そういうのやめないか?
>>500 はたぶんここの古株で、ことあるごとにそういう切り返ししてるから
いくら506が呼びかけたって変わらないよ
最近はコテハンのひと? のヲチまでやってるんだろうね
>>507 わりい
ヲチが目的じゃなくて、ここが不毛でも仕方ないだろうというニュアンス
あと俺は誰々認定とか興味なし
もうちょっと言うと、 499の懸念だと、まるでこのスレ自体が頑張らないといけないみたいだけど、 それは違うんじゃないかと
たまたまがんばってる人がいたら話が進む スレの魅力なんてそんなもの 今まではそのたまたまな人がいたんじゃないかな あなたががんばりたくないのはわかりました ×「このスレ自体が」 ○「俺が」 個々人の問題なのにスレに拡大するのはよくない
2ちゃんねるで論文とか書く人はいないよ
どこの議論スレだってそれは言えること 面白い議論スレ=論文がそこから出たスレなの? そんなの見たことない
今日はいつになく岡崎派が派手に暗躍してるな
514 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/22(土) 23:22:38
岡崎派w ハーコア熟読系、先端系、造形系、あとなんだっけ?
平倉系
岡崎シューレ
それって実体があるの?
たとえばイッテン・シューレやベッヒャー・シューレのように、 理論的特異性といくらかの動員力を持つような学派は、 いまの日本には存在しない希ガス。
古谷が樫村派なのはわかるけど、岡崎派っていなさそうな気がする。
521 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/23(日) 00:42:04
フルヤンにはアンチ岡崎派として戦ってほしい。
誰と戦うの?
ここ見て修正してるw 実際のルイスは迷いまくってるのに、なぜ画家のフルヤンが気付かないのだろうか
524 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/23(日) 02:50:12
四谷のシリーズにしても結局外から呼んでるわけで、あのあたりを岡崎派とはくくれないしね
純粋岡崎派はBゼミ系の中にあるとみてる あとは四谷の岡崎ゼミの連中とか
ここ読んで修正とか言い訳に終始してないで、もう絵〜描けよ古谷くん 実生活では彼女も出来て充実してるんだったら、描かない理由探しはもういいだろう〜
今は本気じゃないっぽい >ぼくにとって、というか、少なくとも絵画に本気ではまりこんでいった頃のぼくにとって、「絵画」とはつまり他でもない「この感じ」のことだったのだ。
>>523 柄谷行人は永遠に正しいと言った鎌田を思い出す
≫526 もう「描けない」から執着するしかないんだよ ここの人達も爾り
>>526 ほんと最近そう思うわ。
「偽日記は10年がかりの「やってみた」作品であり、ネットで孤独に試行錯誤する挑戦であった、
今、そのスタイルに固執することもないし、毎日つけることを目的にしてはかえってなまる。
したがって、僕は新たなステージに乗り出す」
とかやっちまうのもカッコイイじゃないかと。
文壇内にポジションを作るためにやった日記じゃないとはいえ、
そういう交遊関係も生まれたのだし、さらに新たな歩みに向かう一つの手立てとして
「今度は毎日ではないかたちで言葉や制作でじっくりやってみようと思う」とかいいじゃん。
古谷は意固地にならない方がいいと思う。
無理だって 頑固じゃないと資本主義に負けちゃうから
ダメ古谷に誘導するのは、誰にとっても得はないので、俺は古谷をいい方向に励ます人間になろうと思うw
なら理論じゃなくていいからまず岩波の赤を読めと言いたいw
≫529 ここのヒトタチテ絵描きいるの? いないのかと あと最近、ともかにもそう言われました あ、ぼく本人じゃありませんけど
>>534 ともかって誰やねん
まあ、このスレには絵描きはいないと思うよ
制作についてあんまり言葉が出ないからっていう根拠も微妙だけど
よかったねフルヤンw みんな君のこと好きだってさ でも君は人を嫌うことでモチベーションを保てるんだよな?
励ます人間になると言った舌の根も乾かないで言うが。
>>523 の言うように実際にルイスも迷ってるんじゃないの、
っていうのもなるほどと思うけど、それはさておきとすると、
>ルイスの作品は、極めて正確で、きっぱりしていて、迷いがないように見える
とか、これって、岡崎について10/22&23エントリーとかで暗に
「(外的な・よそよそしい)二枚組の制作手法から演繹されてるんだろ」とか言いたげな古谷だが、
これだって「迷いがないように見える」の一側面である可能性だってあるよね。
じゃあなんで岡崎だと外的な演繹にされて、ルイスだと個人の確信みたいなものになるのか。
こんなの区別できるか? とか古谷は悩むべき。
もちろんそうした区別はかなり追い込んでいくと可能かもしれない。
が、今の古谷の評の時点では好みによるえこひいきによるものとして見られても文句言えないはずだ。
怨念と図式的な裁断にいたる文章へのモチベーションとしては、事実そうなってる気はするが、 そのモチベーションじゃ制作できないはずなので、励ますのも一興
ルイスは50年代半ばに色々と迷いながら作っているし、川村にもその時期の作品が来ている。実作者なのにそれに気付かない人はちょっとどうなんだろう?
RHの2号って売れてないらしいよ。
そもそも売れてる雑誌なんかないよ
程度にもよるけど。創刊号が意外と売れたらしいんだが、今回期待よりは全然だってよ
どの筋の情報よ?
値段上がったしあの内容じゃ買う気まではしないな
広島の件が有ったからじゃ? FとKが書いてる
そんなことが理由で買うかどうか決めるかよw むしろ値段だろ。
>>539 そうそう、だけれども、その鈍さがフルヤンの持ち味なんだよ、
鈍さゆえに、文字数がかさんだり、回りくどくなったり、言い直しが発生したり、
作品を捨てるだけでルイス先生になれるって気がついたwんだからあと一歩だよ なあ古谷君 絵って良く燃えそうだな 布とか木枠とか
今時、焚き火なんかしたらつかまるよ。 ましてや、絵の具には合成樹脂が含まるわけで、とんでもないよ。
また半角厨か
椎名誠はよく焚き火してるよ
カキくって、アエンで、 モム
南浅川の河原でどうかな、って 最近は人家が増えてるみたいだから通報されてしまうかな
554 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/23(日) 23:00:26
正直「表象」だとか「site zero」だとかも、どんくらい売れてんだって話。
ストライプとか余白とかいわれると、ガックリくるな。
なんかもう文章書くのがやめられなくなってそうだな 無駄に饒舌だし、内容うっすいし、それでも書くのがアイデンティティになってそう こうなってはどんな忠告も意味がなさげ
site zero なんてどこで売ってんだよって感じだよな 俺は持ってるけど。
ジュンク本店でSITE ZEROは買えたが、 林さんのレクチャーシリーズが返品されていたらしく、もう無かった。 どこで売ってるんだろあのしリーズ
美術館の売店でよく見るよ
美術館売店はすっかり盲点だった
>岩波の赤 青にはアウグスティヌス「告白」があったかな ABCで、樫村氏に自由意志について質問していたひとがいたけれど、、、
古谷が三界説使っているのを見てると、 大澤-東-宮台の構図から一歩も出てない気がする(斎藤はよく知らんからなんとなくはずした) 象徴界:大きな物語・グランドセオリー、全体性 が機能不全 →想像界と現実界の短絡が生じる これを地で行ってる 大澤-東-宮台だと象徴界の扱いの根拠には 「第三者の審級の理想→虚構 云々と移行したため」「技術環境の変貌」 とかになるんだが、古谷の場合「言語は外的で所詮大文字の他者だから」。 想像界の扱いで東-宮台だとシミュラクルの乱立、複雑性の縮減(神経回路の形成によるパターン認知) などに相当する部分が古谷だと「フェノメナルな多様性」「パターン同定不能なゆらめき」。 結局、ものすごく国内批評の文脈に共犯的な議論だよね。 そのくせこの三人に抵抗してるようだから困る。
>>563 これいいねw
古谷理論をコンパクトにまとめている
三界論的に言えば、古谷の中にも象徴界があって、 「文脈依存はイカン→にもかかわらず文脈依存的」だとかにも現れてる。 また、想像界だけだと他者の扱いをどうするかってのが出てくるが、 ここでは古谷の心的空間における「作家たち」の位置が重要。 「ルイスは媒介なき大文字の他者の真理」 :死んでるしアメリカの文脈もわからないし、 さらには過去の古谷の自己像を介して純粋化が進行 「岡崎は大文字の他者を媒介しているので反論対象」 :生きてるし活動し現在の文脈形成してるし、 さらには近過去の古谷が岡崎に影響されてるし、反感対象化が進行 想像界と現実界の短絡、媒介項の排除志向により、 他者がナルシシズムとより接近することになった。 その結果、純粋化された賞賛と、アクティングアウトに近い反感が表裏一体に生じている。 この意味で見ると、ルイス評と岡崎評は表裏一体のコインと見るべき。 どちらもそこで現前しているのは古谷なのである。 多数性・多様性が簡単に単一性に反転してしまうというジジェク/グロイス的問題 を考慮する必要がある。多様性の称揚にいたっているはずのフェノミナル一元論は、 結果的に似たような作品読解を繰り返しになっている惨状に気づけないトリックとなっている。 作品読解に分け入らず、同じことばかり言ってることに気づけと。
要約すると、作家論・作品論として見るべきところは少ない(文章量との比で言ってもそう)。 古谷個人内の心的風景の描写とそれによる自我の安定 という軸で必要とされているのであって、古谷はそうした作業に突進している。 おそらく日記を書く動機付けがそういうレベルの世界になっているのだろう。 だから幼稚なことも平気で言うし、このレベルにとどまるかぎりもう成長も何もないだろう。 処方箋は ・自分-日記書く がループとなって古谷の自我がパターン形成の手段となっているが 記述のモードをもっと考え直すべき ・自分を日記的文体で説得にかかるスタンスで書くかぎり、 作品読解はあまくなりばかりなので、それこそ古谷自身の「パターン形成」から脱すべき たとえば二枚組批判パターンとか。 とかなんとか
ふと思ったんだけど、古谷はいま山形浩生のCUTでやってた小説評なんかを読んだらいいのでは あれも日記っぽくはある、だけど、すげーカラっとしてるよね しかもパラレルにいろいろ交錯してるかたちになってる 小説を別の空間に置き換えるような力もある いま古谷に足りないのはああいうズケズケした乗り込み方と、フトコロなんじゃないかと思った 98年にすでに残雪に注目してたり、 『アウステルリッツ』が出た直後にゼーバルトに戦慄していたり、 最近山形を読み直してびびった。総合的にはすごくカンのいい人なんだろう。
>>561 新宿の紀伊国屋。発売後ダッシュで買いに行った
林道郎のやつならおれは新宿のジュンクで最近買ったな。 いまでも全部揃ってると思うよ。
RHが売れていないってどんだけ期待してるんだよw
ちゃんと制作もしてるんだと言うところがフルヤンのかわいいところだなw
ラカンもちゃんと研究してると言うところもねw
しかし困った時には引用だなw 親に言い付ける子供か?
お前ら言い返してみろよ!という訳か やれやれ面倒だ… 「僕はカキコしましぇん」 と言ってたのに、これではしてるのと一緒だぞフルヤンw 偽日記の読者は、日記とこのスレを交互に読めば二倍楽しめるじゃないか やられた… か?
最近はこのスレとの交換日記になってる
ここが一番かわいい 中上とかルーセルも読んでるよ! >それは、よせてはかえす波の動きのようなものであり、風によって、ある木から別の木へと、葉の揺れや葉擦れの音が移動してゆく動きのようなものでもあり、 >中上健次が「伊勢物語」から抽出したイメージ、舌をもったしゃれこうべがひたすら意味のない経文を喋り続けているというイージに近い。 >象徴界そのものの稼働とは、具体的な作品で言えば、レーモン・ルーセルの小説の感触に近いように思う。
577 :
563 :2008/11/25(火) 09:44:31
>ラカンの言う象徴界は、いわゆる「大きな物語」とか「理念」とかとはまったく関係がない。 まあ、大澤-東的な意味そのままで三界を使ってるなんてさすがに思ってないわけで。 社会学的な機能として変形したジジェクが大澤・東では挟まれてる。 古谷の場合は諸知覚の局面・媒質に関する三分類みたいに入ってて、 しかしながら議論としては同型性があるんじゃないの、ってことなんだが。 ただ、象徴界とルーセルをつなげるのはどうなんだろう。 かつて東・大澤はデータベースを「象徴界の新たなタイプへの変化」と語ったが、 データベース的/シミュラクラ的二重体みたいなのがルーセルなんじゃないかと思うんだが。 いや、俺ルーセル好きだから、古谷のこういうところ好きだけどね・・ で、象徴界から大文字の他者やその媒介としての対象aなどをとりあえず無視して、 現実界(無限とか名指しえない全体性とか)につなげるという意味では、 ルーセルの手法(プロセデ)は「無限」にいたってしまうと言ったフーコーの ルーセル論を念頭に置くとまあクリアではあるんだが。
578 :
563 :2008/11/25(火) 09:47:12
あ、データベース的/シミュラクラ的といっては無理か。 データベースでは無限へといたらないようになってるというのが東の議論だったから。 やっぱそうなるとフーコーのルーセル論みたいになって、 言語そのもの/現われとしての描写文 みたいな二重体の実現として見る感じかな。
ルーセルは保坂ブックフェアの時に買ったのかなw
580 :
563 :2008/11/25(火) 09:56:25
好きとはいえ、仏語をろくに読めない俺にはルーセルを論じるのはあまりに怖いんだけどね。 ほとんど原語によるアナグラムみたいな作品になってるわけで、 詩の音韻分析並みの読み方が要求されちゃうから。 古谷が素であれをその手法を含めて楽しんでいるとはちょっと意外なんだが…。 古谷の小説観からいってもずれてるし。
そういうのは石岡にまかせよう
582 :
563 :2008/11/25(火) 10:00:12
実際、以前にルーセル論書いてるね、石岡。結構面白かった。 しかし古谷は今回相当むかついたみたいだな・・・・w 引用するなとはいわないが、引用で文章終えるのはやめとけと。 あのあとに3分の1程度の量でもいいから、コメンタリーつけて「どう読んでいるのか」を示さないと。
辛いことがあったときに引用する樫村よりはマシ
584 :
563 :2008/11/25(火) 10:03:36
たしかに前の樫村引用の仕方より、例証みたいに出てきて 「ほら、ラカンのテクストの方はこうなってるだろ? もっと面白いじゃないか」 とやってるようだから、あの時よりはマシだね
ただ、例によって記号論を80年代文化と同一視して拒否しているみたいだからなあ
クリステヴァ批判か
単に80年代がトラウマなだけだと思う そもそも古谷自身の理論がクリステヴァ以上に単純なことになっているし
そこの80年代文化=記号論 への反感って流れがわからないんだけどw そんな反感あったの?
あんないっぱい引用ばかりされても読む気しねえよ
>>588 前に鴻上の演劇がネタに出たときとか、体が嫌がってたでしょw
偽日記を初期から読むと、80年代に対する怨念だらけ
なんか具体的に嫌なことがあったんだと思う
もともと高校で思想書を読むようなサブカル青年だったはずだし
まだ10代のころじゃん
>>591 フルヤンの良さも悪さも、判断が身体的な反応によって決まっているところだろ?
そこに80年代問題が関わっているはず
うーんそうなのかなあ 映画とか美術とかで言語論拒否になったままそのまんまなんじゃないかと思うが・・
80年代ってときにはもちろん絵画論を考えている インスタレーションを一律に拒否する姿勢は、 ほとんど藤枝晃雄とか上田高弘の受け売りに見える これは普通に考えればコンセプチュアルアート嫌いになるけど、 なぜか荒川修作は樫村のお気に入りだから叩かない
>>592 高校時代の体験と言えば相米慎二だろ
でもそれはいい思い出のはず
ある時期以後は微妙な思い出に変わったみたいじゃね
古谷の二枚組嫌悪は、ようするに岡崎のコンセプチュアルな部分を執拗に撃っているんだと思う
でも正確にはコンセプチュアルな手法というより、 それこそリテラルな読解というか、似て見えるだけで・・ 使い方全然ちゃうやんかと
しかし古谷の思惑としてはそうだろうというのは納得できるな。整合性がある。
『意味のメカニズム』についても、現在の古谷ならそんなに抵抗ないであろう指摘を 岡崎があの現代思想の特集での談話で言ってるけど、 それでもたしかにコンセプチュアル&その時期の荒川の再読解はされてない。 そう考えると、コンセプチュアル手法に似たものはパージ、嫌悪されているという線なんだろうな。
相米をいまの古谷の問題意識に照らして面白く再論する!とかもあってもいいのにねえ 別に馬鹿にするような作家ではないと思うぞ、相米は まあ、俺なんかは『ションベンライダー』のものすごい長まわしショットが好きなぐらいのシロートだが
要するにフルヤンは林道郎を読めばいい
「アンフィールド」発言は看過できないぞ
>>604 最近の林はコンセプチュアルアートの系譜を追っているから、
ちゃんと読めば偏見がなんとかなるかもしれないと思った
>>605 ああそういうことか
絵画シリーズしか読んでないかもね
607 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/25(火) 18:22:25
ばーか
こんな一言でスレストってどんだけw
解毒剤は林かー
フルヤンは林以外の人は意固地になって拒否ると見たね 特にこのスレで話題に挙がるような人たちだと駄目そうだ
611 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/26(水) 02:08:05
みんなモリス展、いったの?これからは寒いよな
住人がモリス展に行脚しようとしているいま、 古谷は余裕できたら思い切って、養老宿命反転地にでもいってみてはいかがだろう 反転地レビュー日記はたしかなかったよね?
モリス展はすでに行った。養老もいつか行ってみたいな。
614 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/26(水) 11:41:19
余裕ができたら三鷹天命反転住宅に入る予定
荒川荒川と言う古谷はギブソンを読まないのだろうか。 読んだ上での批判的追い込みでもいいし、面白くなるはずなんだが。 あと、日野晃とかさ。彼の出してる単著は読んでないが、フォーサイスとの絡みを見てる限り面白そうだ。 身体や感触というのであれば、ああいう構成力にまで持ち込んで考えてしまえばいいのに。
615さんが教師で古谷が生徒ならナントカに取り組みなさいって指図ができるだろうけど 教師と生徒の関係ではないのだから仕方がない 古谷って努力家でもなさそうだし 紙の本の反応が芳しくないこともヤル気の出ない一因かもだし 出ないなら仕方ないし
平日の川村美術館居心地良すぎるw あそこで働きたい
618 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/27(木) 01:55:29
立場上つまらなそうとは言わんだろ
620 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/27(木) 03:08:19
福永以外はしらないのだが
今日付け(26日)の日記で、ラカンで引っ張ったシリーズは終わりなのかな? 明日もまだ続くのか? それにしても、フルヤンは何かと握手したがってるのかな? 頑固なりにも、なにか以前と違う印象を感じるのだが… 歳をとったということなのか、私生活で何かあったのか…
裂け目≠ノしるし≠付けたいんだろw
>>622 おい!
ここでシモはやめてくれw
しかし彼女が出来たんなら、そういうことかもしれん
いいなあフルヤン
暖かそうな冬でw
>>621 確か以前の日記に
語れない(語らない)ものを持つ≠アとの重要性を書いてあった
それを持った?
以前、愛についてやたらと語ってたね
ふーん 羨ましくないけどね ウソだけどw しかしフルヤンにとって「愛」とは「転移」行動なんだろ? 恋人にかかわらず、母親(今日の日記)にも言えることだが
>>627 ありがとうフルヤンw
なんだ
言ってる事は1年前と変わってないじゃないか
そう言いたいのか?
フルヤン?
では、このスレを指してキレながら「こいつらは転移している」と言い放ったフルヤンの心は スレは愛に満ち溢れているということで。 いいのかそんなんで
●ちなみに、ぼくが岡崎乾二郎の二枚組の作品についてもつ疑問は、象徴的なもの-言語の次元では成立する、シニフィアンの 共時的な構造(パラディグマティックな構造)が、そのまま、視覚的な認知の次元でも成り立つと考えてもいいのだろうか、という疑問 としてある(簡単に視覚的認知といっても、それはとても複雑な組成で成り立っているのだから、それが全く作動しないと言って いるのではない)。それはあくまで「疑問」であり、つまり「そうだということにしてしまってよいのか分からない」ということで、否定 でもなければ批判でもない。「疑問」というのは保留であり、保留することによって一定の距離をとる(つまり、自分はそういう風 にはしない)ということで、「分からない」からこそ、ことあるごとに、それについて考えてしまう、ということでもあるのだ(考えるって いうのは、そういうことだ)。 少し理由が書かれだした
うーん ホントに交互に読むと面白いなあ〜 フルヤン明日は愛について書いてくれないかなあ 1年前と同じ見解なのか 愛(おそらく転移)を獲得した今とでは違うのか
>>622 『星のしるし』
柴崎友香:著
なるほどわかります
>(パラディグマティックな構造)が、そのまま、視覚的な認知の次元でも成り立つと考えてもいいのだろうか、という疑問 ここまでなら松浦寿夫のロジックでもあるわけで、 フルヤンはたしか松浦には賛意を示していたような気がしていたんだが。おいとか思った。
他人のロジックを使って結論だけ変えるパターンが多い
ただ、東のはまた別な文脈も濃厚なはずなんだけどな。 「他でもあり得た可能性」: 事後的な認識における収斂への切り返し、デリダ/ラカンからクリプキ的可能世界論へ接続 「誤配可能性」 : 差延を「メッセージの宛先問題」に再構成して扱ったときに出た局面 「確率論」 :意外にベイトソン〜ガタリの文脈がある
●年末になり、普段お会いする機会のない人と会う機会があったり、それがお酒の席だったりすると、酔った勢いでぽろっと出た 言葉などから、やはりこの人は「本当は(?)」こんな風に思っていたんだなあ、と分かったりして、普段は引きこもりがちな生活を 送っているぼくなどは、それはそれでとても面白いし楽しい。しかし一方で、だからこそその面白さや楽しさ(あるいは否応無く巻 き込まれるような面倒臭さや、かけられる圧力)に、「作品をつくること」が引っ張られてしまってはまずいという思いも、同時に 強く抱かざるを得ない。作品をつくるためには、やはり徹底して引きこもらないと(ライブ=生ものの場から撤退しないと)駄目 なのだと、改めて思わされる。逆に言えば、複数の次元のチャンネルを混同することさえしなければ、具体的な人間関係に 対して、それほど禁欲的になる必要もないのかなあ、とも思う。
>>638 これいつの日記?
どっちにしても、やはり古谷は形から入るんだなあ
制作の入り方まで…
樫村 保坂にあって自分に無いもの
それは家族、愛(転移の対象物)
樫村なら子供、保坂なら猫
だから自分にも対象物を
とかそういうことか
それこそフレームに囚われているぞw
普通に考えれば、もう画家は諦めているってことだよな
いや、90歳まで続けて熊谷守一になる予定
食生活からみて無理
死んでから有名になる予定
>>644 画家として、そこ(死んでから有名に)まで形から入るのかw
もうワイルドライフも限界でしゅ…
646 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/27(木) 15:28:24
メコスジと残滓に対する考察が足りない
☀
__ /l ・ェ・ヽ V |/ ヽ(m_UU)
649 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/27(木) 22:05:54
2004年ころの日記は映画のように書いていた 今読んでも面白いが 単著出した後の日記は ヒドい いいかげん仕切り直しだろ?
もう雪かもな 西東京バス運休の予感
>>649 日記的な身辺雑記そのものが落ちてきてるって感はたしかにある
思弁性と具体性のバランスが酷くなってきてるような
652 :
633 :2008/11/28(金) 05:51:41
>>635 人の言ってる・人が作った射程におもいっきりのっかかった上で
「そうかなあ」と呟くのみで終わり、みたいなところあるよね。
それさえしてればいい、みたいな甘えが見え見えなとっても低い目標設定しかない人だから
この人、先ないだろうな。これからも「そっかなあ」「違うかも」と付け足して終わりだろう。
あと、「〜〜にはそれがある」「この感触がいい・・」とか指差してor引用して終わり、
で満足するタイプなんだろうね。だから結局「マニア・好事家」でしかない。
フルヤン引き出しのなかの「好ましい感触集」がたまればそれで満足するんじゃないかな。
岡崎を絵画マニアだと言ったのはやっぱりフルヤンの自己イメージの方に帰してあげるべきで、
「マニア」の圏域で満足の閾値が成立してるのはフルヤン自身だろうと思う。
あと、「感触」云々いえば、指差せば済む論法と同期して、
「いや、揺れがある」論法が成立してる。これやってれば、いつまでも・何からも逃げれるね。
何にも論じなくていいし。いかに面白い身体論やその訓練方法、実践の誰々がいても、
フルヤンなら「いや、揺れがある」で自己アピールして、はい終了、って感じになるのが丸わかりだ。
で、「この感触」「いや、揺れがある」だけいってればいくらでも応用が利く。
何に対しても言えるんだから。フルヤンのそれ自体がメソッドだろ、とか言い返せるという懐疑はもたない阿呆のようだし。
基本的に自分の出してる言葉の雰囲気に酔いやすいタイプなんじゃないかなあ。
でなきゃ「この感触」「いや、揺れがある」の繰り返しばっかりやってて危ういと思わないはずがない。
作家であることがエクスキューズになっちゃ拙いよな
>>652 その事に、自分でも気付いてきたから山を降りたくなってきたのかもね。
岡崎と握手してもいいよ。的な?
たぶん文芸論集だな >これから年末にかけてやらなければならない、ひたすらストレスが溜まる用事があって、今のところそれは順調なペースで進んでいる。全体の四分の一くらいが終わった。 >このままのペースでつづけられればいいと思う(この用事をずっとやっているので、雨の日でもストレス解消のために散歩にゆく)。
これなんだよ 以前には無かった感じ イヤだけど生活のために「やらなければならない」なら やめちまえよ 書くな 描け
657 :
633 :2008/11/28(金) 09:39:11
残雪読んだことは、フルヤン的閉塞から抜けるチャンスとしてはいいと思ったけどね。 まあ、残雪って身の回りの村=世界みたいな作家ではあるから、ちょっと困るが。
お前ら低脳とはなに話してもムダ! と身辺雑記に引き籠もられてしまった これでまた対話が断絶された じゃあそろそろ読書でもするか
わざとキモイ日常を誇張して、柴崎彼女説をやんわりと否定してるのではないかと勘ぐってしまう。 柿をぶら下げるのもうさんくさい。まるで買い物ではなく採集したみたいだ。やっとマジ偽日記になったのか?
今日の日記は久々に面白かった 2004年頃の感じが戻ってきたのだった
そろそろ一ミリの女が現れるぞ お前ら油断するな
662 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/28(金) 23:46:15
お前ら結局、貧乏ネタが好きなだけだろ。
663 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/28(金) 23:55:59
想像してみてください ■あなたが某国の指導者だったらどうします?■ ・オリンピックも終わり、景気もピークを過ぎた ・ふとみると、繁栄する沿岸部と貧困にあえぐ農村部の格差。社会不満の増大 ・永らく続いた一人っ子政策のために数千万人〜1億人の無国籍の子たち ・戸籍があっても6〜7億人は餓えに苦しむ。一触即発の国内不安 ■そのとき隣国が■ ・なんと世界第二位の経済大国が、「この者は19歳11月である」という公証さえ持参 すればいくらでも●国籍をあげます●、という法律を通した! ・国籍には参政権がもれなくついてくる!輪転機を回して5000万枚の年齢公証を 印刷するだけで、隣国を合法的に●支配下に置くことが可能●となった!軍隊全く動かさず 血を一滴を流すこともなく! ・しかも、隣国では、自国農村部の10年分くらいの生活保護費が毎月貰える! ■あなたが指導者ならどうする?■ <選択肢A> 輪転機ぶん回して、5000万枚の年齢公証出して、農村部の貧民を フェリーに満載して隣国に送り込む <選択肢B> なにもしない。農村部の貧民が暴動が起こすのを座して待つ
664 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/29(土) 00:25:31
雑誌でよむとフルヤンはランディにちかい感触をもってるな。
665 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/29(土) 02:08:25
紙媒体の古谷は総じてツマンネ。なんでなのかは知らんが。
笑われる前に笑わせないといけない不安と無縁に暮らして来たから 芸を磨く動機がないのかな 自分の商売道具(書物)の整理整頓をしないってのは軽い驚きなのだった そこが気楽そうで羨ましいと思ったこともあった けれども実態はどれだけ気楽なのか知る由もないのだった
ようはキャンヴァスも言語の側になっちまうといいたいわけ? >これらのことは、すべて言語とは別の原理によって把握された同一性(と、そこからこぼれ落ちるもの)であって、言語的な認識による影響がまったくないとは言えないものの、それとは別に、切り離されて作動している。 >目の端に一瞬よぎったものとして把握される「犬」という視覚的な「イメージ(かたち)」は、 >言語として、例えば、狼、猫、人、テーブルなどという語との示差的関係(シニフィアンの共時的な構造)によって決定されるシニフィエ(概念)としての「犬」とは、その把握のされ方がことなる。 >(おそらく、視覚的な認知は、かなりの割合で生物学的な次元で決定されており、フーコーの言うような、エピステーメーから受ける影響は比較的に少ないと思う。 >いや勿論、まったく影響されないはずはないのだが、一時、なんでもエピステーメーとかいって相対化する人文学的傾向があって、 >それに対する反発が強くのこってしまっているので、つい、こういう一言を付け加えたくなってしまうのだった。)
668 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/29(土) 12:18:25
フルヤンはロスジェネ論壇で貧乏アーティストとしての主張を展開すべき
>>667 その抜粋だけパっと見ると、
はいはい うつろう視聴覚 vs 言語 だね
としか思わん。で? と突っ込みたい
この対比をマーキングしてれば古谷は満足なのかね
このジャンルを築き、その第一人者(教祖)に 「揺れてますかー!」 「え〜、揺れていれば何でも出来る! 何だコノヤロー!」
どうしても言葉では言い表せないことがあると
さて、ぎりぎりにルイスでも見に行ってみるか
なんで二枚組だとシニフィアンになるのかマジ分からん フルヤンだってアリモノの絵の具とか画材を買ってるわけで、 それは「社会的文脈」に巻き込まれた「商品」だし、「記号」ではないのか? そこから自由になってるつもりなだけじゃね?
>>674 筆触・形態を何らかの単位に使ってる、措定してる、って印象から言ってるだけだろうな。
フルヤンの頭じゃ、キャンバス内に似た筆触が無ければ、
単位として使った上での変換、連鎖が無い→シニフィアンの共時的構造じゃありません
とか脊髄反射してくれるだろう。
類似・同一形態ではない形態操作でさえなければ「あれは違う」とか切れるとでも本気で思ってるのかね。
そこまで考えてないんだろう。阿呆としか言いようがない。
たぶん、
・直感的に「岡崎の手法は人為的(感覚に対してよそよししい)手法を使っている」と決め込む
・それは筆触の使い方に表れている。形態が先行して筆触で埋めてるのでは?
これでは原初的で生々しくて直接的な「筆触の顕現」がでませーん
→・そうだ、岡崎はシニフィアンと同じなんだ! 言語だ言語!
こんな泥縄的発想プロセスだろう。
で、筆触と形態の関係がかなり違うルイスが聖典化され、崇められたと。
あと、直感的に「二枚組みだから人為的」っていう発想プロセスもある だがねフルヤン、あなたが一枚絵であることは「人為的なもの」にたまたま馴染んでるだけだとは思わないのかね? 二枚組のフレームと筆触の関係をさまざま吟味しつつ、 一枚絵のおけるフレームと筆触の相互関係を是々非々に切って言ってるのなら、 フルヤンの立場も理解できなくはない。だが現状では、単に二枚組だけが人為的だと言ってるのと同じだ。 そのためこのスレではこうした懐疑から何度もこう言われる。 「お前は一枚絵好きなだけだろ」と。そりゃそうだ、 一枚絵であることもまたリテラルにフレームに関わる可能性を 捨象してるのならばそういわれるのも当然。 結局、「二枚組は人為的でリテラルな気がする」の直感にしがみついて天下取った気持ちになってるだけだろう。
俺からすると、岡崎は絵画の人為性を解き放って、そこから感覚に至る路線だと思うんだが
古谷のように考えるなら、文学や映画ははじめから絶望的ってことになる
>>677 フェノメナル云々言うくせに、目の前の字面や筆触からどう離脱するかとか、
プロセス上の必然として一旦距離をとるかとか、そういうのがフルヤンはやたら弱い。
だから、全然フェノメナルといっても発展しない。
感覚的にもしょぼいのか、極度に恐れてるんだろうな。
流動だとか流れだとかそれこそ硬直した比喩形象が出るだけ。
しかもそれで満足してしまう体たらく。
で、こういう目の前にあるものに異様に引っ張られる面で言うと、
二枚組=リテラル説は、「絵を見てると境界線の額縁が毎回目に入ってくる」
とかその程度のフルヤンの実感が大きいんじゃねえの、とか思わないでもない
オールオーバー万歳ってことになるのかね? 結局のところ古谷って藤枝信者だろ
681 :
675 :2008/11/30(日) 10:48:27
>>680 まぎわらしかったので注記
>類似・同一形態ではない形態操作でさえなければ「あれは違う」とか切れるとでも
ここで言った、「あれ」は岡崎および岡崎手法のことね。
「類似・同一形態ではない形態操作」とは、
後の一行で言った「筆触と形態の関係がかなり違うルイス」につながってる。
で、岡崎とは違う形態と筆触の関係は、オールオーバーがもう典型的に違うので、
オールオーバーをはじめとする手法群でいいと思う。
結局、「筆触の顕現」(として見出されるもの)が表れると崇拝する、というドツボになってるので、
それに反する岡崎が嫌いでしょうがないんじゃないかなあ。
古谷のルイス評は謎みたいなもんだろう。なんであんなに迷い無ものにされるのかと。
きっと、「一回的な顕現」ってことになってるからじゃないかと。
あまりにも頭が悪い議論で萎える。
で、こんな発想で制作なんかできるはずもないんだが。
自分で描いて→おお、なんという筆触の現れ!(ジーン)→繰り返し
になって、どう作るかという発想が死滅する。で、実際にそうなってるんじゃないの?
>>681 フルヤンの絵は抽象である必然性がないから、
柿の絵などを本気で描いた方が、セザンヌに近づくのではないかと思った
ま、古谷が言ってることも一理あるんだがな
どのへん? 生物学的に云々とか?
685 :
675 :2008/11/30(日) 11:26:22
>>682 制作して考え直した方がいいとは思うね。
多様なる揺れの純粋知覚、みたいなところで考えたら絶対その先が無くなり、
一過的に瞬間瞬間が美学化されるだけになる。
制作ってそんなフィクショナルな局面でやっていけないはずなのだから。
具象画だろうと人物画だろうと風景画だろうといいから、とりあえず本気で描いて
頭を冷やした方がいいとは思う。
>>683 でも、あれは人為的でこっちが生々しいって区分は最終的にはきわめて相対的なものになると思うよ。
あと、習慣の差に帰着する可能性もある。
キャンバス地を枠から剥がして浮遊させる手法をシュポール/シュルファスなんかがやってたけど、
これだってフルヤン的には「筆触と画布の関係をリテラルにやってるだけ」と突っ込める。
このようにあらゆる手法をリテラルだと言うことはできる。相対的にはどこにでも検出できるから。
そういう、言えばいくらでも言えることを岡崎に見出してるだけって気がするけどなあ。
そこは単に藤枝が好きって事で終了でしょう 現代美術の不満を褒めているのだから
藤枝の執拗な岡崎叩きと論旨がほぼ一緒だし
>>686 古谷のまとめが単純すぎるというのは同意なんだけど、岡崎の作品ってやろうと思えば全ての細部が言葉で
言えてしまうので面白みがないという古谷の気持ちも理解できる
本当に言えるか?
うーん、その言えてしまう感を、「岡崎読解マニュアル」といちいち石岡岡崎読解を揶揄して言ってるんだろうね。 だけど、本当に言えてしまうのかしら、という疑問もある。 黄金比でまとまるかのような錯覚を与える三枚組にしても正直よくわかんないんだよね俺は。 もしかして筆触一つ一つの中にも2:3:1、3:4:1みたいな屈曲比でもばらばらにあんのか?とか。 しかも三枚間の余白の大きさが変だし、大画面を想定して三枚それぞれの内部構図が落ち着くわけでもないし。 あと、個々の形態がやたら魅力的になってることをフルヤンは 「超絶技巧」と半ば疑問に思っていそうな評をしてるが、別の読み方無いのかなとか。 あの魅力的な筆触は一体考えればいいのかわからない
そういうわかりづらい部分を突っ込んで考えるんなら意味があるんだと思うけど 論じるじゃなくていつのまにか論じさせられているというような石岡的状況に陥りがちってこと はあると思うね だから熱心なフォロワーになるかフルヤンみたいに意地張って反発するかの二択になりやすい
だから俺なんかは石岡への反感的自意識で岡崎を評してる段階から出てないって感じがするんだよね。 もっと面白い、よくわかんない、限界というべきなのかもっと探れるのかも曖昧な、箇所っていっぱいあると思う。 フルヤン自身が石岡に引っ張られてるんじゃーん、とか突っ込みたくなる
石岡の文章はそれほどマニュアル的ではないよ
うん、まずもってマニュアルとして見立て、マニュアルの悪さを強化してるのはフルヤン自身 お前は何を批判しているんだ、という感バリバリ。 「岡崎批判マニュアル」をせっせと作るフルヤンに言われたくねえ
というのも、一枚絵にも当てはまるような記述だから。 論じさせられているってのもなんか違和感あるぜ
フルヤンって石岡に敵意があったのか? そんな大物じゃないし、古谷の方が格上だろw
>>697 ああ、なるほど。
そういえば、絵の読解だけでもないよね石岡。
>>698 偽日記HPでの「岡崎に関するテキスト」で石岡の名を消す努力をしてたり、
軽井沢展での石岡読解に引っ張られまくりな過去を考えると、
石岡個人や石岡の他の論文にはそんなにこだわりが無くても、
「フルヤンの中の石岡像」は妙に病深く染み付いて反感の動因になってる気はする
>>700 なるほどねw
古谷的には多摩美シンポで石岡を片付けたんだと思ってた
樫村の楳図論が載ったユリイカって、石岡も書いてたし
でも古谷の方がイメージを画像という意味に閉じこめている罠w
>今度はイメージの擁護を始めるというような ここか >岡崎氏は、それはぼくの考えとは違うと言い、イメージとは、 >それを具体的に読み込もうとするより前にある、それが読み込むに値するものだ >(ひとつの「全体」を形づくっているものだ)という確信、あるいは予感のようなものだ、と言う。 >つまり、目の前にあるものが、たんに絵の具で汚れた画布ではなく、 >何かしらの意味を読みとり得る、何かしらの秩序によってつくられた制作物=作品である、 >という確信が直感的に与えられるからこそ、その作品を見るのであって、 >そこで与えられる「それが一つの意味のある全体である」という直感がイメージなのだという訳だ。 古谷による要約だからどこに古谷の願望が混ざっていてもおかしくはないから油断できないけど、 美術手帖8月号でやってた詩と色彩をイメージで関係付けるような 岡崎のイメージ論は、言語そのものではないにしても、 もろもろの言語的ナルモノを横断しているものだし、フルヤンのような視聴覚は言語と違う〜 みたいな話にはとても帰着しがたいと思う。 あと、確信は同時に「ドアはいつも開いている」(『現代思想』2003年6月臨時増刊号) でも言われているような、主体による契機の話でもあって、 多様なるフェノミナルな作用の渦というより、ある種の読解のジャンプを促すものだと思う。 フルヤンは幸せな錯覚に浸ってるだけで、岡崎と違うと思う
石岡も最終的にはそこに行き着く予定だったんだと思うが、手際が悪かった
60歳ぐらいまで「男の子」でいてほしいものですね
あれだね〜、こんどASABIでレクチャーするときは、レクチャーのあと そこの学生に気軽に話しかけてみるといいよ 先生も穏和でよさそうなひとだっし、先生にひとことかけて、、 このあと皆さん時間あるようでしたら、どこかでお茶でも飲みませんか みたいなかんじで。 あのあと授業がなかったなら、「ここでよかったらどうぞ」になるかも、 外から呼んだ講師(古谷氏)が、そういうふうに声かけてくれると 先生もそして学生もうれしいかも 外から講師を呼ぶ場合って、先生も学生もそれとなく気をつかう ところがあって、こちらからはひきとめずらいけれども、、ってなってる 場合もあるから
708 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/11/30(日) 19:13:11
古谷「あの…お茶でも」 生徒「チラッ」 古谷「ニコッ」 生徒「ふん」
やっぱりここのスレ民は浜トリじゃなくてモーリス・ルイスに行くのかw
両方行ったけどね
浜トリなんてろくなもんじゃねえ
でもああいう場所でこそ判断力が磨かれるぜ
まあね 99%のゴミの中から1%の良品を見つけられたら疲れも吹っ飛ぶ ある意味修行だな
今回は日本人が駄目すぎた
>>712 たしかにそういうところあるねw
目利きにとどまらないで、じっくり考える時間がなかったりするから大変だけど
とりあえずルイス展行ってきたよ。最終日ということでカタログ買えなかった。
が、無料バスの運転手のおっちゃんからルイス展ポスターもらった。
まあ15作しか展示されてなかったわけだし、いつか洋書でごついルイス画集でも買って補完するか。
エルダーフィールドのを買うといい
それって前にも名前出てたけど都内にある洋書画集屋なの?
マティス研究の重鎮だろ
編纂者のことだったのか とんでもない誤解をしていたようだ
このスレって思想に興味あっても美術史に疎いよな
まあ俺が無知なだけなんだがな。無知を恥じて林のレクチャーシリーズを売店で買ってきた
現代アート系はPHAIDONの安い画集で色々読むべき
しかし15作しかないからちょっと錯覚するけど、 ストライプシリーズは230作とか、アンファールドシリーズは120作とか作ってるんだろ。 あの数っていろんな意味で異常だね。 普通飽きるだろうに。しかも2,3年間で。
古谷が言うほど感覚的には制作してないってことさ
あと、じっくり見て永瀬が何をやりたかったのかはわかったね。 要するにストライプシリーズから見るとヴェールシリーズとストライプシリーズは対極に見える、 そしてストライプシリーズから逆算してアンファールドシリーズを間におき、 フォルムの操作、見出し方がどう推移したかというストーリーにしたかったんだろうね。 だけど、永瀬が言うようなストライプ=色彩コードの露呈というのは無理があると思う。 色彩コードをやりたい人間がたらしこみのごときキャンバス地と筆触の非分離的な方向に向かうとは思えん。 あと、ストライプシリーズでのストライプとほぼ同量のサイズで近くに余白があることを無視していると思う。 あれはアンファールドシリーズの巨大余白のコンパクト化とでも見た方がつながりそうだ。
カタログは写真があんまり良くないから買わなくていいよ
写真撮影の違いで見た目がかなり違いそうだよね HPで見た印象とはかなり違ったよ 見出すことが可能な形態の複雑さで言ったらヴェールシリーズが一番複雑にやってる アンファールドシリーズは余白空間にそれを想起させたかったのかねえ
>>724 感覚的とか言い出したら、あのサイズであることの不可解さとか消えるよね。
あのアトリエにアンファールドシリーズとか入らない。
ということは確実に下絵ありきで部分的に書いてたってことだろう。
左右でそれぞれ斜めにして垂らしたりして。
下絵はないでしょう 制作プロセスオンリーでひたすら作業していたんだろう
とりあえず斜め読みで済ましてた古谷によるルイス評を読み直したが
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081121 これはいろいろ駄目だと思う。
ルイス=色彩画家と古谷は言うが、これはヴェールドシリーズのことだとして、
色面の重なりで紡錘形だったり縦長の帯状のフォルムが見えたり、
と同時に近接視すると色面の地がざらっと見えてくるということになってるのを、
色彩は同定不能〜 だなんて単純な話に収まるわけがない。
フォルムに見えたり面に見えたり面を阻害するエッジみたいなのが地にあったり
というのが絡んでるだけだろう。
アンファールドシリーズについての
>これだけ巨大なフレームがこのような状態にある時、
>(図版ではなく、実物を目の前にする時)一望できるフレーム全体というものが]
>ほとんど問題ではなくなり、ただ、今観ている部分(の色彩、色彩と色彩の対比や響き、
>色彩と余白との関係)のみが、その都度問題になってくる。
>フレームの両端にある二つの色彩の流れの束は、
>(例えば岡崎乾二郎の二枚組のようには)フレームによって明確には区切られてないので、
これはほとんど酷い評だと思うんだがどうなんだろうか。
・距離引けば一望できるっちゅうねん
・っていうか距離の操作をルイス狙ってない?
・たまたま見た視界空間を自明視するって何よ
・岡崎の額はリテラルで、人体から類比して作られた真ん中余白サイズ決定はリテラルじゃないとでも言うのかよ
・フレームの間に余白が広大に広がり、それこそ「ルイスのようにリテラル」ですらない三枚組はもっとすごいですね、とか平気で返せるわな
もう、考えていること少なすぎ。結論ありきの論点先取分析だろう。
ほんとにこいつは画家なのか
同じ事は永瀬にも言える 絵を描いてる(た?)奴の分析とはとうてい思えない
>>729 下絵ないのかなあ。アンファールドシリーズは、
右パーツ習作、左パーツ習作、真ん中余白サイズ(下辺の長さ)決定 ってのをやって、
さ、後はばらばらに描くべ、って感じでやったかと思ったよ。
ヴェールドシリーズ→ヴェールシリーズ 誤字った
>>732 抽象表現主義以降って下絵ない人多いぜ
じゃないとあんな数描けない
>>734 そっかーたしかにね。作品数考えると、習作と本番という区別がないという感がありまくるしね。
描いて描いて、飽きるようにして見方が変わって、それで推移していったんだろうな。
じゃあ、鉛筆で書いた大まかな構想、ぐらいあったのかね、ぐらいの話にしておく。
しかしその構想は作品のたびに作られたというよりもシリーズ単位で存在してるぐらいの大まかさで。
ないって そこでいい加減な推論に固執したらだめでしょ
ないのか。しかしよくあんな狭い部屋で描くもんだね。
あきらかに引きこもりだろうな
ストライプシリーズは巻いて保存していたというぐらいだから、 アンファールドシリーズも意外に巻きながら描いてたのかねえ、とか思ったり。
しかも完成状態を確認すらしてないだろう 古谷が言うフレームの揺れとかいちいち反芻してないよ
確認すらしてないってのはたしかにそんな感じだな 古谷の言うフレームの揺れは明らかに彼が見出したいものだと思う。 というか、フレームの揺れを狙って描いたらああなるか? という疑問の方が強いぞ
ルイスがすごいのはそういうところだと思う
ただ、ヴェールシリーズが第一層の下層色面をまず置いて、 その上に何色もの面をかぶせていき…という縦型重層化とでもいう方向だとすると、 アンファールドシリーズはサイズの巨大化によって第一層に近いものが置かれている感はある。 そこで、距離や角度の違いから見出されるフォルムの差 → フレームごとに見える筆触と余白の相互干渉の差 みたいに対応させて考えたいのが古谷なんだろうが、 それは違うんじゃないかな。ただ、あのサイズの巨大さと左右散らばりは ヴェールシリーズとの対比でどう考えられるのかは難しい。 まあフレームじゃないのは確かだろうな。 古谷は第一層=画布全体 個々の層=視界フレーム にしたいんだろうけど、 そういう整合的な秩序は無い気がする。
アメリカ人ならではの大ざっぱなダイナミズムがもっと必要だ
『世界へと滲み出す脳――感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社、2008.7) 図書館へのリクエストのしかた まず ☆世界へと滲み出す脳 古谷利裕 青土社 上、☆より右を紙にメモる。 次に ジブンが利用できる図書館のてきとうな窓口に行く、 (できればあまりいじわるそうでないひとをえらぶ) 以下やりとり(実例1)―― 「すいません、この本探してるんですけど」と丁重に 上をメモした紙をみせる (図書館のひと検索中) 「あ、ウチにはありませんね」 「そうですか、うーん、他の図書館からこちらの図書館に 取寄せることってできますか」 (図書館のひと) 「あ、ちょっと調べてみます。・・・・・・ この本ならまだ新刊ですね。 こちらのリクエストカードに必要事項を記載してください」
※「現代思想」、「ユリイカ」を毎号、購入しているような 規模の図書館なら、いけるかも。近所の図書館はイケた。 察するに、まだ著者の名前が知られていないだけで、 青土社から出ているというのは、図書館のような公的施設の 選書としてはOKが出やすいんじゃないかな ? (カネがなくとも、そういうひとにはそうした 方法があるってことをいいたいので、上はひとつの例です)
図書館で読むくらいでちょうどいい感じ
ホントに売れてないみたいだから、買ってやろうよ
せめてここの民ぐらいはw
>>741 結果的なフレームの揺れ≠ヘ確かに魅力的だが、それに頭の8割を囚われていたらもう揺れ≠体現は出来ない訳で
古谷に、狙わないで描くことは不可能
言い訳(の予告)として、もう一人の自分でも出現させない限りは…
おや〜?
みんなフルヤンの絵観たことあるの?
分裂する自分の予告編が出た以上は、堂々と反論にカキコんでくる可能性もあるのだった
分裂する自分の予告編が出た以上は、堂々と反論にカキコんでくる可能性もあるのだった 覚えてないのも都合がいいw
今は九州に在住なので、直に観るチャンスはなかなかないのだが、8月に大分アートプラザでやったグループ展 「零のゼロ2008」は観たよ 面白かった そういえば8月の日記にやたら書いてあった、ベタ褒めの大阪万博公園の「みんぱく」 あそこは確かに面白い場所だけど、大阪一見さんが知ってるような所ではないよ 察するに 「あの街の今は」 の、その人だね? どう? 分裂したフルヤン?
ちっ…違うよ!
754 :
トシちゃん親衛隊 隊長 :2008/12/01(月) 06:37:08
トシちゃん毎晩ボコボコだなw 匿名で叩くやつなんて無視すればいいのに。 本売れてないんですか? 本のタイトルが少しまずかったかな? 滲み出す脳とかさ。 ブリーフから滲み出す下痢ベンみたいで 食欲がなくなる
>>754 隊長隊長あのね
一方的にボコッてる訳じゃないのよ
ちゃんとやり返してくるの
フルヤン男の子だから
今日(30日)の日記は面白いよ〜
また長い1日になりそうな…
>言葉によってすべてを把捉したいと思っている人、というか、たんに「言葉」が一番偉いと思っている人は、 >「言葉では把捉できないことがある」というような話をすると、すぐ神秘主義だとか「詩に逃げる」とかバカげたことを言い出すのだけど、全然そんなことじゃない。 開口これかよ! いや、そういう対立じゃないってんだろ。 こういう論法で叩いてると古谷が推測しているところがもうすでに終わってるわ。
がっかりだよ
四谷のレクチャー行ったんだな
古谷の馬鹿さ加減が今回露呈しちゃってるじゃないか。 仕方ないから古谷の頭でもわかるようにスレで言われていた論旨を明確にしてみよう。 「言葉」云々で言われていたことの議論はいくつかある ・からごころ vs やまとごころ の対立に立脚した上での古谷はからごころ忌避だろという主線 これは文字通りとると、「からごころ批判だろ」と言われているときに起こっているのは 情緒性や情動のパージに見えるが(古谷だけだと思うがこんな誤解は)そうではなく、 言葉を否定的媒介にして見出される情動、情緒 という枠組みそのものへの疑義だ。 よって、言い換えると、対立ではないかたちでそれはあるのだと言ってるのと同じだし、 対立のかたちでこれを考える古谷はつねに「言葉"ではなく"情緒」という論法をとってしまう。 そうした発想が危ぶまれているということだ。 あとはその副産物として、「したがって、その情緒は言葉では掬い取れない、散文的再現しか許されないのだ」 といったドグマが生じている。本当にそうか? と問いただしているのだと。 ・さらにはなぜこうした本居批判的文脈が80年代以来の批評で出てきたか。 間違いなく、60-70年代の疎外論への批判、土着・「生の声」といった議論の枠への吟味からだ。 ちなみに柄谷・スガではデリダにおけるこうした直接/間接という扱いにひそむ形而上学への批判が一度交叉している。 古谷は思想史的には60年代アングラの言語の絵画論に沿った、認知論をまとった反復に見えるという側面があるわけだ。 ・媒質・知覚との三分類として三界論を用いることへの疑義 これは各論として出てきたが、まあラカン読解をどう展開するか等の問題を除くと上記の項目と同じだ。 ・岡崎をシニフィアンの共時的構造と言い放つのを「それってお前言語嫌いって先行判断あるだろ」と突っ込まれる背景 相対的差異や習慣に基づく差異としてしか見出されないような、 それゆえ実はオプチュニズムにあっさり転がるような、 間接/直接の差など、本当に分析言語にできるのかという疑義がある。 さらには言語観の貧しさが起因している。つまり、返答第一行目がまさに批判対象の言説そのままだ。 いいかげんにしてくれお前は20代のはしゃぐガキか。
オプチュニズム→オポチュニズム まあ場当たりのご都合主義のことだね。 習慣と自我の痙攣の結果はこうした言説スタイルにすぐなる。
ここまで阿呆な発言を平気で古谷がしてくるのを見ると、 2003,4年ごろは比較的マシに見えたのも、結局は他人の意見の要約の結果、 古谷自身もマシに見える効果が生じていたってだけなんだなとつくづく思うわ。 あれだ、ニコニコのMAD職人みたいなものだ。素材は借り物っていう。 で、自分の関心を語ったとたんこのざまだ。 どんだけ「批評シーンウォッチャー」でしかなく、知的膂力も経験も素朴だったのかが見えやすくなったな。 作家は自我が貧弱な人が多く、理論的言説をやる人間は自説に固執しがちという傾向がある。 どちらにしても2流において顕著に出てくる欠点だが、 古谷は作家としても批評家としても駄目すぎる。 その結果、この二つともがスパイラルをなして最悪のことになってるようだ。 馬鹿みたいなことしか言えず、作品論をやってもセンチメンタルになるばかりで思考も発想も足りない、 そんな人間は一体何者だというのだろうか。
描くときの画材とか技術とか、そういう問題にも記号的認識が介入してるじゃんって話なのに 実践は感覚じゃないだろw
あと、「メタ言語は存在しない」っていう逆説をからごころ叩きに使うのは馬鹿すぐる
>>762 そういう理論/実践という対立で言ってないのにね。
頭固いのは古谷のほうだよ。どんだけ頭でっかちなんだと言ってやりたい。
馬鹿で頭でっかちで作家振る舞いって、逃げ道のオンパレードの糞だぜ。
しかし、馬鹿だ馬鹿だ、ああ、先なさそうだなこいつ、ため息、とか繰り返してきたが、 ここまで馬鹿だと思ったのは今回がはじめてだな。本当にどうしようもない
ついでに先日の「男の子」云々にも突っ込んでおこう。 こういう主張はジェンダー的差異を本質主義化しかねない、ほとんどセクシストぎりぎりの発言だ。 すっこんでろよ、性差別主義者、と言っておこう。 フェミニズムとかろくにかじってもないだろうお前。 女性性を本源性みたいに固有化するのって、かなり罠なんだぜ。 男の子とかいわずに、「自己言及や自分の関心を棚上げして 状況分析を浪々と語るような人ってつまんないよね」とでも言えばいいんだよ。 実際そういうことは言えるんだから。 思考の理論的道具立てみたいなものに振り回されすぎなんだよ。 永瀬のルイス評のときにも思ったことだが(ちょっとデータベース論と似てるし)。 思考、理論的言説から自由かのような語りをしているが何のこっちゃない、 古谷自身が最も中途半端に理論的言説に振り回されてるってことに少しは気づけ。
俺はもう最初の段落を読み終えることも放棄するぐらいにうんざりしたんで、 後段のどうしようもなさは、任せたw
むしろ「女の子」だろw いや女の子にわるいか 何なんだお前のヒステリーは?
樫村晴香がエキゾティシズムに毒されていて、 それで肯定されちゃったのがまずいんだと思う
>なにかを「すること」は常に「具体的」なことだ。 そこには技術が満ちているだろうに……
この人は放っておくとすべてを「言語対感覚」で処理してしまうから、技術の問題を舐めていると言った方がいいんじゃないか
>>748 >結果的なフレームの揺れ≠ヘ確かに魅力的だが、それに頭の8割を囚われていたらもう揺れ≠体現は出来ない
そこはちょっと俺は別のことを考えていて、観察(経験)の理論負荷性(関心による負荷性)
というのはあるだろうから、ルイスはそうじゃないんじゃないかなあ、という視点が出てくること自体は
特に悪いことじゃないと思うんだよね。その議論が面白かったならば。
でも、古谷のあの評は面白くもないんだもの。すっごい単純なことを見出してるだけでしょう。
ルイスを必死で古谷なりに我有化すべく、ものすごく(良い意味で)奇妙な議論に発展し、
これまでの古谷の論立てがさらに変貌するかのごときジャンプまでしていて、
「これはルイス評としては不適格だが内容は面白い」となっているのなら、俺は許すな。
でも、あれってそういうレベルですらない。
単にこれまでと同じ議論で、しかも見たいもの見て癒されてるだけ。
それじゃあ突っ込まれてもしょうがない。
古谷本は装幀のドローイングがキモ過ぎる この人の絵は売れないだろう
774 :
748 :2008/12/01(月) 10:57:18
>>771 古谷の今の惨状って、なんで岡崎が技術の議論になったのかのわかりやすい陰画的な例示だと思うよ。
フェノメナルなもの一辺倒をもともと志向もしてない岡崎だが、
岡崎は口頭では経験の非同一性にすぐ言及するし、個体差がものすごくあることを言う。
だけど、それを単に言うだけだと泥沼みたいな単純な議論に悪循環するってのも見抜いてたんだと思うんだよね。
あと、岡崎は技術を言うが、別に知覚の動揺、非一致みたいなものを排除しているというよりは、
「すでに織り込み済み」というふうに扱っているのだと見たほうがわかりやすいと思う。
まあ、古谷はどうせ「岡崎の言う技術なんてよそよそしいからごころだよ! 作用をコントロールするやばいものだよ!」
とか見なして嫌ってるんだろうがね。
映画はかなり安易にシニフィアンで処理しているくせに
いや! みんな騙されるな! こいつ「分裂して自己批判」というオチかもしれないw だってまんまコレ自分のことじゃん?
>>776 自分は理論的道具立てを使いながら、それと無縁であるかのような二枚舌というか、
馬鹿ゆえの自己観察の不徹底さがものすごいよね
>>777 まあ、「それってスレの論旨を叩いてるんじゃなくて、お前さんの妄想自体の言及だ」
という構造にはなってる。しょーもないレベルで。
(岡崎の)技術論は予めからごころなんですけどね >双方は根本的に「別のこと」ではあるが、「別」であり、あくまで独立しつづけながらも、互いに影響し合うだろう >(双方を媒介するのが「技術」だと言えばなんとなく通りがよいけど、通りが良過ぎて嘘臭い感じがする、その関係はもっと不確定なもののように思う)。
「アーティスト」の前に「自称」って入れるのを忘れてるぞ 酒飲んで書いてるだろ?
ぶっちゃけ古谷は笑われるの怖いでしょ
>>780 実践が記述であるようなものだってあるだろうに。
記述といえば演繹的で自動的に出てくるとでも思ってるのかね・・
無理やりな跳躍、恣意的と言われるかもしれないし全体に責任は取れないが
何かを描き出そうとするような記述だってあるよ
同様に、技術といっても、超越論的に規定するようなものとは限らない。
もっとあやふやなものとして考えることもできるだろう。
なんで自分でそう発想できず、そうに決まってる! みたいに思い込むんだろう。
やっぱ大澤・東的なメタ視線に基づく社会学的論立てだけが記述だとでも思ってるんじゃない?
>>563 の繰り返しだよ。古谷は大澤は駄目だと常々思うみたいに言ってるが、
古谷自身ああいった思考のあり方しか発想できてないんだろう。
どう見ても同属嫌悪です、本当にありがとうございました。
石岡の岡崎解説を崩せていない >単一名詞によるタイトルや無題は、しばしば画面を一つの表象に収斂させる傾向を持つが、岡崎のセンテンスによるタイトルは、絵画と言語という二つの表象系列をいったん切り離す。 >だが画面とタイトルという相異なるパラディグムは不意に遭遇する。この出会いはまさにタイトルの複雑な構造によって可能になるのであり、画面及びタイトルに生起する出来事を名指しているのである。
社会学的発想と絡むけど、古谷ってメタにすぐに結論を先取りするような感じがすごくあるんだよね。 それが論点先取の分析にもなってる。 たとえば11/21のルイス評で古谷はこう書く。 >(とはいえ、ルイスの色彩とはつまり「マグナ」の色彩のことで、マグナがなければルイスの色彩はあり得ないのだが、 >しかし、マグナがあれば誰でもがルイスになれるわけではなく、ルイスの作品=色彩を実現出来たのはルイスだけだった。) これ、ルイスによるマグナの使い方がどうなっているのかをじっくりじっくり読み、分析し、考えた後で言うべきことだよね。 しかも、じっくり分析した過程さえ示せば、そう付言する必要もないぐらいのものだ。 しかし、このフレーズを先に書きたがる。言いたがる。評によるイメージ形成をしたがる。 メタに最初から位置づけしたがる。作品にじっくり漬かり、さまざまな疑問や発想をそこに投げかけてみることもせずに。 そして迷いなく断言するわけだ、そりゃ迷いなんか生じるはずもない。はじめから悩んでないんだから。 古谷自身が理論的道具立てに、その範囲も理由もわけもわからず振り回され、 古谷の言う意味で「記述」的になってるように思えることが本当にしばしばある。 「男の子」云々だってそうだ、そういう簡単に俯瞰できてまとまるフレーズを使いすぎる。 そうやってこいつは不安から、作品から、自分の関心にとっての他者性となるものから、目をそむけ続けている。 本当に、作家としても下の下の感覚に思えてしょうがない。 使い勝手の良い、悩みもなく判断された上のフレーズを連発して出てくる作用って、 「気持ちよくなること」「酔っ払うこと」「出会いのただなかにあるような気分になること」とかだぜ。 まさに"技術的"に古谷はそう中毒化してるんじゃないの。
偽日記の面白さってそういうところだったんじゃないの だから本になってみんな覚めた
いや、俺は岡崎やもろもろと格闘しようとしている意気込みとかを買いたかったから、 そういうのは悪癖だと思ってたよ。しかし悪癖しか無かったようだ、というのが最近の結論だな。
だって偽日記やる前は美術嫌いになりかかってたみたいだし、当時の偏見は十年後も健在。 端的に言って映画日記を書くことで救われた人でしょう。
やっぱ古谷自身の自己実現、自己救済かぁ。 その線で理解した方がすっきりするよね。 …本当に閉鎖的だな
>>782 笑われるのが怖くないのならここまで幼稚なキレ方しねーよ、と即座に突っ込めてしまうからなあ
やってることと自己イメージが思い切りズレてる。まあ鈍感で馬鹿なんだろうな。
20代中盤ぐらいなら、しょうがねえ馬鹿だなあ、 〜〜とか読んでちょっと発想変えた方がいいよ、とか思えるし、言えるんだけど、 四十過ぎの硬直したこのオッサンにはそういう希望も持てない。 古谷の伸びしろってもうかなり無さそうだなあ
モーリス・ルイスから学ぶべきなのはそういうところなんだが
期せずして次スレタイが決まったかもしれん 【幼稚な発言】古谷俊裕の偽日記8【もうだめぽ】 次スレはともかく、ここまで古谷は馬脚を現してしまったことだし、 総合(勉強会-読書会-意見交換会)スレは別に立てた方がいいかもしれないという気になってきたよ。 過疎スレ進行でもレス少なめでもいいじゃないかと思えてきた。 古谷に言及しても発展性もないし、もう駄目さ加減が出すぎてしまったのだもの。 古谷スレは継続でもいいし、「また古谷が変なこといってるよ」とか俺も書きにくるかも知れんけどw、 なんか分離して片方がまったり進行になった方がいろいろいいんじゃないか
>>792 そこは大いに同意。たしかにルイスってあの年齢ですごい変貌してるね
絵画論については藤枝で自己形成したまんまなんでしょう
>>795 一旦自分に染み付き、シミのように血肉化したものを自分で自己吟味し、変身するような経験がないのかねえ
作家ってそういうところのカン、可塑性こそが問われるはずだろう。
もちろん変に相対主義的になっても困るけど、そのさじ加減、あり方を自分で作ることこそ作家の地の力が出たりするわけで。
>>796 変わったら負けって発言が多すぎるから、絶対に頑固だろう
画家としては有象無象なのに、文章で食えてしまっているから無理
頑固と硬直を履き違えておりますよ古谷は。 だって、自己吟味の上での徹底的な変身をしても、変わらないものだってあるわけでさ、 そんな無意識みたいなものはそう変わらん。 人間、何でも自分で自分をコントロールできないんだから。 岡崎だってそういうことは言ってるよ、 ビデオ作品、彫刻、絵画、建築とやってきて、簡単に整合しないふうにがんばったものだが、 恐ろしいことにマチスの切り紙作品を持ってきたら、ぴったり統合できるような感じだ、 ああ困ったもんだなあ、とか。 人間、特異性のレベルではそう変われないわけで、 そこを意志的に変わるまい変わるまいって、何かおかしいと思うぞ。 逆に言えば、自分が変わりやすいってことをよく知ってて、怯えまくってるんじゃない? そうだとすると、論点先取的な軽薄さ、理論的装置や修辞に振り回されっぱなしなのとつながるけど、 古谷の身体や経験がすごく貧弱なんじゃないか。 だからこそ、しがみつく。
>>798 やっぱそのねじれって不幸だと思うよ。
しかも記述/実践とか言葉/感覚とか、ドグマを強化すらしている構造になってるんだから。
自分の身体、身体的経験の可塑性というものがこの人にはぜんぜんないんだよな。 そういう感覚ゆえの自己懐疑というものがあってしかるべきだし、 作家であり批評的言説をやってるとこれに絶対浸るはずなんだが。岡崎にはそんな感じあるし。 古谷の場合、作家であることと批評家であることの関係が致命的に狂ってると思う
旧偽日記自体が作品だったんじゃないの
それは同意したくなる気もするが(ああいうものができるんだというインパクト的な意味で)、 福田和也の「批評は作品」をもっとねじれて悪化させたかたちだと思う。
偽日記というサイト自体が、 古谷が嫌っているインスタレーション作家に多いタイプの作品だと思う。 身辺雑記から、感覚やら記憶の問題を引き出して展示する。
映画に向ける関心も、ダグラス・ゴードンなどによく見られるパターンだ。
そういう視点であのサイトを眺めると、椎名林檎が好きみたいな初期の日記はけっこう面白かった
人前で喋る訓練をして阿佐美の専任狙えばいいんじゃないの? とはいえ画業で学生に舐められるかな
ドローイングそのものはどうでも良くて、あのサイトが体現している古谷利裕の精神の「かたち」、そこにファンは惹き付けられたはず。
要するに、本の出版とはてなへの完全移行が失敗だったとみる
はてなへ移行して仲俣化した
文章で食ってくには大澤みたいに紋切り型を量産したほうが都合がいいんじゃないの?
>>810 はてなのエントリー方式に移行して以前のような持続がなくなった
だから紋切り型を量産しているよ
813 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:23:17
黒瀬や平倉みたいに ブログは業務連絡の場 として割り切ればいいのに。 へんに出し惜しみするから叩かれる
むしろ仕事を貰う場だな。ブログ経由で仕事入ってきたりするからやめられない。 仲俣と同じだな。
>>813 黒瀬、平倉パターンも宣伝しかしてない感じで嫌だけどね
>>815 古谷よりは作家として見込みあるんじゃないの
こいつらは変な理論嫌悪もないし
817 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:32:51
柴崎友香のスレにまで火付けてまわるなよw 二人はすでに燃え上がっているのだから。 愛の炎で
でもフルヤンの絵を買う人もいるか
>>817 それ本当かよ?
わざわざ髪の毛も洗わないとか書いてるのはフェイク?
821 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:35:57
古谷観たことある? 水木しげるに描かせた スナフキンみたいな容貌だから 髪とか洗わないでも違和感ない
もう豊崎や大森みたいになっちゃえばいいじゃん
なってる
826 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:41:03
一時期青山真治周辺と格闘してた記憶がある
>>822 それでも売れないよりはいいんじゃね?
保坂とか小金持った文芸関係者が買ってやればいい
828 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:44:42
偽日記で青山真治の映画を批評したら青山から「ゼロへぇーだ」とか 言われた件ねw
>>823 電話が壊れたっていうのは彼女への連絡だったのか?
だから蓮實圏域について口をつぐむのかw
831 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:48:18
>>823 こんなボクでもトモカちゃんはスキみたい…
アピってるだけ
そういえば柴崎スレに
古谷らしきコテがいたな
これが目撃情報か 374 名前: 吾輩は名無しである Mail: sage 投稿日: 2008/11/28(金) 11:26:17 11月3日だったか 中野成樹が東急目黒線の車内でやる演劇が面白そうだから観に行った 「あっ友香さまw」 と、声をかけようと思ったがツレがいたのでやめた あれが古谷だったのか そういえば前に、横浜の野毛山動物公園に中野の演劇を観に行った時にも二人で来ていた あれも古谷? 古谷の顔わかんないけど、なんかチューリップハットみたいなの被った痩せた男だった
>>831 コテってこれ?
297 名前:(o^v^o) ◇m0yPyqc5MQ [] 投稿日:2007/08/18(土) 19:07:55
ねーねー
友香ちゃんの短編で「ショートカット」てあるじゃん
あれね当初は250枚だったの200枚編集者にボツにされて
短編50枚になったんだってさーw
編集者が「これいらないでしょ」て云って200枚返されたって。
編集者ひどすっwww
で
友香ちゃんも、いらないのか、て納得したんだって。
友香天然っww
834 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:52:31
柴崎スレの270 324あたりから類推するに 古谷確定
835 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:55:39
>>833 それそれw
結婚するために上京とかw
出版を機に親密にとかw
836 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 14:57:59
それはないだろ
しかし2ちゃんとは言えあんな気持ち悪い文章書くかねw
838 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 15:02:14
古谷にダメ出ししてるひと やるんなら 自分のブログで 古谷名指しでやってくれ
なんで?
840 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 15:09:58
匿名の批判にも応答する古谷くんてステキ という図式になるだけだから
もうずっとそういう趣旨の流れだよ
>>833 そいつ文学板全般に出没してる(してた)コテだろ、別に古谷の嗜好とかぶらないし
てか批判どうこう以前にゴシップ根性丸出しの下品なレスが増えたな
そういう作戦
844 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 15:21:55
古谷は柴崎と チューしたのかな ねぇ チュー したの?
845 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 16:13:51
くだらねーこと書くな
古谷自身が私生活を垂れ流してるから時々こうなる
>>842 俺もさすがにそれ
>>833 はないと思う
そんなこと書かれて付き合う女いないだろw
もしそれがフルヤンなら本物の分裂症だぞ
俺達の手には負えない
これもどうかと >何年も前に人からいただいたハンテンは、冬の間じゅう部屋にいる時はほとんどずっと羽織っているので、さすがにもうボロボロで、ところどころ破けてなかの綿が露出してしまっている。
>>848 清貧を強調するのは確かにどうかと思うが、ヒステリックな持論に酔うよりはまだ可愛げがある
保坂や磯崎や柴崎との日常を書いた日記には秀作(コウガイビル、ウニの寿司、トビウオ…)もあるし、読んでても和める
(例の1oの女≠フ出所も多分この辺だろうが、そもそも怪談を解説しちゃうのがフルヤンセンスの野暮なところ ネタを話した人は必ずしも解説してほしいとは限らないんだよフルヤン♪)
もうワイルドである必要もないし 日記を続けるならこの辺にヒントがあるのでは?
ゴシップが書かれるなんて随分有名になったもんだ
>>849 だからそういうシフトを敷いてるでしょ
あんたはかなり信者寄りなのだからそのまま古谷の文芸批評を賞味するべき
>>849 敢えて古谷の表現の中でマシなところを探そうとしたら、身辺雑記しかなかったということだろ
私小説作家になればいいんじゃ?
芸術家を芸人にたとえるのは三島の葉隠入門とか野坂の三島伝とかが念頭にあったからなんだけど わけのわからないたとえでなんか言われてもそりゃ困るよなー 自分の好きなものを古谷に読まれてまた日記で適当なことを言われたくないし なんかもうROM専に戻ろうって感じ
その過剰反応はちょっと古谷に似てね?
856 :
854 :2008/12/01(月) 22:26:44
>>855 似てるかもしれない
年恰好が似てるみたいだし無職だし
磯崎とか保坂とか柴崎とかが好きなところが大きく違うけど
磯崎の小説は文藝賞を取ったのを一本読んだけど
保坂のはどれも四十字以上読めない
俺が訊くなって感じが激しくするんだけど保坂先生って文章うまいの?って
空気を読まずに訊きたい
柴崎のは本の中身より表紙絵のほうがまさっていそうだ
日本の現代小説に付き合えるフルヤンは凄いよ
×日本の現代小説に付き合える ○日本の現代小説にしか付き合えない
>>858 まあ資質の問題はともかくとして奇特な人だよね
保坂派に珍重されるはずだわ
860 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/01(月) 22:50:28
小説てよくわからないよ どこからが小説ではないのか
ひとり、おしゃべりさんがいますね、連投、自演までして
862 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 00:00:43
まあ過疎ってるよりいいんじゃね?
>>828 当時は青山よりは頭良さそう(しかし言い方が足りない)な印象だったが、
地が出てみると、似たもの同士だったという結論
>>809-811 これならはてな以前の方がまだよかったわ、とは思う。
議論の持続性も無くなってるし(っていうか、アーカイブまで作って保存してるくせに議論の継続性がもともと弱すぎる)、
散漫に印象を書くだけになってるし、
ものを読まなくなってきてる。
> 古谷にダメ出ししてるひと やるんなら 自分のブログで 古谷名指しでやってくれ > 同意見 それはダメを出しているそのひとのためでもある
そうかもね。このスレはゴシップ的だったり感想的だったりに古谷をいじってわいわい
やっていった方がいいかもね。
というわけで
>>793 の意見交換方面は別スレ化した方がいいんじゃないかと思うんだが。
追い出しというより積極的にそっちの方が面白そうだと思う。
861は柴崎ファンか? ひきこもりだから連投はよくするけど自演はしたことない なんか書けば古谷が日記で反応してくれるのだから自演までして 話し相手がいるふりをする必要がない
>>867 861は、たぶん
>>857-860 の間のやりとりを自演だと思ったんじゃないかな。
レスの間の分数と調子から考えて。このスレは自演はそんなにない気がする。
ここはふとしたタイミングでレスがつくからありえない話ではない
保坂派と言うと怒る人がいるみたいだ
870 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 00:34:15
そういえば、昔、村上隆の作品よりも弟子の作品に反応したようなことを書いてたし、 大道珠貴の小説に反応したりとか、結構、えぐいもの好みだよな。
>>870 チェルフィッチュを「きちんとできた、しかしゴミ」と酷評してる浅田と古谷は戦ってほしいものだ。
作りこまれていることと内容やアクチュアリティとのバランスを重視する浅田と比べると、
古谷はちょっとバランスが変なんだよな。だから現代日本文学ばかり追いかけてるんだろうけど。
古谷のダメだしはここの方がいいよw
>>804-806 >>808 のあたりの偽日記とは何だったのかって話は面白いね。
俺は映画批評と風景描写日記の平行ってのが昔、面白かったところだった。
批評言説中心で絞って更新を減らしてレベルを上げていってほしかったが。
なぜかフィリップス・ゴンザレス・トレスを思い出した。
あれを日記にしてネット公開して、テキストサイト風味にしたら… 似てないか。何か違うな
874 :
866 :2008/12/02(火) 00:44:12
>>872 いや、駄目だしのために別スレは要らんけど、ルイスの話とか、
岡崎以後の議論として石岡のこの論文このへんがこれこれだね、とかそんな話をするとか。
古谷は自律性の議論でも別にぱっとしてるわけでもないので、
そろそろ対比としても要らないかなあ、とか思って
議論スレは他に作った方がいいと思う ここだと駄目出しの勢いにかき消される
レスの付きかたみると、正直ここに居る人数かなり少ないと思うから、 別スレとか無謀な気がするんだが
877 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 00:51:27
フェリックス・ゴンザレス・トレス
878 :
866 :2008/12/02(火) 00:51:39
>>876 そこがすげえ微妙な問題。
人が少なくてももつ勉強会的スレってのはあるけど、
ここの人ってそういうタイプじゃないんだよね。
だから古谷言及の流れにまぎれてた方がやりやすかった。
別スレを(過疎スレ覚悟、細々とでも)維持できないという予感はわかる。
だけど、もう本当に古谷言及しても(古谷が)しょうもない・・ というのがなあ。
>>877 すんませんすんません(ry
恥ずかしいこと言ってしまった
>>808 の言いたいこととは違うけど、古谷への転移を喚起させる手法だったと思うんだよね、あの日記って。
その古谷がスレを転移だとキレて言い放つのは、
自分のやってることをわかってないってことだと思う。まあ、いつものことだが。
(そもそも転移ゼロの人間など原理的にいないので、「転移だ!」
の一言では批判にもならないというレベルがあるのだが、
斎藤・東的な議論しか知らないのならあんなことしか言えないのはしょうがない)
881 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 01:33:50
最近みんな斎藤、東の論調に乗るようになってんだよな。二コ動とか。アニメとか。
そういえば12/1の笑わせる云々の記事は、どこへの返答なのかと一瞬悩んだが、
>>666 の1〜2行目へのレスだったんだな。
「笑わせる芸」は「笑わせる主体」が先行してるから駄目です! からごころです!
真にすばらしいのは「天然」の本源性です! ってことか。
無自覚に暴れればすばらしくなれるって理屈かな。楽でいいな。
>>881 結局、ネット環境論評をすることによって、
現状抵抗的であるかのように見えて、実は現状即応的であるだけっていう。
レム・コールハースの現状論みたいなもんだよ。
現状への「シニカルな処世術」。
古谷は表面上それに抵抗してるようでありながら、
無為無策になり、同じような発想しかできておらず、似たもの同士。相互補完的な役回り。
>>881 ポストモダンな議論と相性がいいからね
何か言ったような気になるんだろう
885 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 01:48:20
しかしとんちんかんなマッピングをしたがる永瀬とか マルキスト風情を気取る上田に比べると 圧倒的に転移したくなるのはフルヤン。その陽性的な無防備さをふくめて。
>>881 あと、寂しいんだろうと思う。ネット内の評判・反応を求めてああなってるんじゃないかな。
柄谷・浅田の悪いところは「デリダ、ドゥルーズが死んでやる気がなくなった」とか言い放つところにあって、
お前らは高度経済成長と奇妙に同期してた追いつき追い越せの動機付けでしか批評がなかったのか、
とか突っ込みたくなるし、そんな発言にうんうんうなづく浅田と相当腐ってるんだが、
東も結局この二人の子供たちで、反応ありきの世界になってるんじゃないかな。
現状即応すればアクチュアルっていう勘違い。むしろ長期的にはどんどん駄目になっていくのに。
キャラクターだな
>>885 転移向きだったっていうのはわかるよ。俺もそういう古谷は好きだったし
だけど議論なり何なりの成果がないとやっぱり駄目だしね・・・
889 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 01:55:43
いや浅田は投瓶通信だし、カラヤンは未来の読者に向けて書くと一貫して言ってる。
市場との乖離に対する逃げ口上ではあれ、批評家の飯種がニコ動なんて時代じゃ、
撤退したくもなるっていう。
>>885 上田?
ちょっと距離を置いて考えてみる。 ・古谷の偽日記はインスタレーションともつながる作品とも見なせた ・また古谷のキャラクターもあいまって転移を促進するところがあった ・ネット環境においてこの転移の効果は大きく、保坂から好まれたのも関係してるかもしれない ・だが、だからこそ、転移促進が避けられない手法にも乗り出すべきでは ・批評言説として持続する偽日記があった ・もともと議論や試行錯誤の持続性、自己更新性が弱かったが、はてな移行でさらに悪化した ・毎日日記の日記では持続性の媒体的要求が弱くなるのは必定なので、 日記という枠を放棄し、新たなチャレンジ、勉強や議論のやり方も必要では ・もはや仕事上、はてなでやることから逃れられなくなってる ・地の頭の酷さがどんどん露呈してきて、チャレンジ推奨も駄目かも、という気分に ・ex.社会学的言説を嫌ってるのに同じ発想しかできないといった限界が酷くなってる こんな感じになった
>>889 上田和彦のことだと思われる。組立に参加してる人。
893 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:03:01
894 :
886 :2008/12/02(火) 02:04:28
>>889 >いや浅田は投瓶通信だし、カラヤンは未来の読者に向けて書くと一貫して言ってる。
そこはよくわかるし、勝手に試行錯誤する姿勢をとる柄谷は、
(議論の内容を措いても)いいと思うんだが、
座談会などで漏らすああいう口調は最低だと思うってことね。
東近辺の酷さと比べちゃいかんよって言いたいのはわかるよ。
895 :
891 :2008/12/02(火) 02:07:13
訂正 転移促進が避けられない手法→転移促進を避ける手法 要するに記述のモードに対してより寛容であれと。 古谷の頭では「寛容→散文」という対応関係に縛られてて、 文面の雰囲気が寛容であれば頭が柔らかいと思ってる節がある。 それは逆で、寛容ってそんなことじゃないだろうと。
>>893 たしかに転移ではないかも。
古谷だと、情動関係に関するタームが転移しか持ってないんじゃないかな。
ラカンの弟子筋・近辺の人らが言語論的展開の後で情動などを持ち込んで発展させた動きを全く知らないようだし、
というか斉藤・東タームの中で埋もれてるようだし。
897 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:12:27
まあでも岡崎含め作家ってある程度ミーハーじゃないとね。 そういう意味でもフルヤンはきびしい。
898 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:13:42
>>893 文体からして柄谷系のメンタリティを感じてたが、この筆触はいったい。
以前、岡崎がコメントしてたよね、ブログの方に。
そうそう。古谷って自分をミーハーだと思いたがってるけど、全然そうじゃないっていう。酷いもんですよ。
900 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:21:22
いまやブログ継続への強迫があるのみで、ライター稼業でさえ通常業務として こなす資料読込み・舶来ネタの仕入れetcをサボっている。 まあもともと自転車操業的にパクリor転移を繰り返してきたわけだが、 この期に及んで自己目的化した唯我独尊ともなれば目も当てられない。 はてな移行後のアクセス数はおそらく急降下のはず。
単に、読むもの・勉強すること、もすごく減ってきてるよね。 残雪だってじっくり論じちゃってもいいじゃないか。カフカと絡めるとかさ。 結局、このスレにやきもきしてるのって、そういうサボりの結果なんじゃないかな。 って、読書会企画をそっちのけで古谷駄目出しへとサボってる俺たちが言えたことではないんだけどさ・・
お互いに頑張らないと
903 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:42:32
893の絵もサボってるな。ほほえましい。
904 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:45:53
正直、池田のキャラがつかめないのだが。。。
>>904 このエントリーのこと? どこに引っかかったんだろう
ttp://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html 美術館機能についてはたしかmodule時代にも池田はたしか書いてたなあと思い出した。
アメリカの美術館行ってたんだっけな。
Youtubeに美術館的なアーカイブの機能がある、というのは別に新たな視点でもないし、
というか違法性問題も含めてUBUについても触れた方がいいんじゃないかと思うんだが。
落としどころが大澤-東になってそうなのが困るな。
岡崎のような距離をとれないのだろうか。
908 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:55:59
熟読系の末裔
909 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 02:59:14
クリスマスデートでフルヤンと柴崎がいく予定
>>904 黒瀬をはじめとして、なんとなくネット論に流れているってことではないかと。
ネットを論じること自体はいいんだけど、
「抵抗の拠点をマジでやると、美術館やら美術史やらインスティチューションを全部用意して包囲する
といった山村工作部隊並みのことが必要とされる」とかつて絶望すれすれに語った岡崎みたいなのが欲しいな。
単に現状即応的な議論はもう要らん。
東-大澤的な社会学をベースにするとどうしても現状即応的な議論になるよ
>>911 だからそこから距離をとるべきなんだけどね。
ネットを論じるときに考える引き出しを大澤-東にしか持ってないってことなんだろうと思う。
もうちょっとじっくり迂回すればいいのに。
岡崎の弟子ってなんかこういうのが多いのかな。古谷より頭いいけど、
議論文脈において現状即応的な感じ。
ポモの弟子だとそうなっちゃう
914 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 03:18:27
熟読系とポモは共存可能なのか?
岡崎自身は焦って議論文脈の選択を現状即応させなかったんだけど、
それは作家として振舞うがゆえに時評とかレヴューとかを避けれていたという面がある
(古谷は作家の癖にそこに持ちこたえることもできずに時評とかレヴューを
>>900 の言うように「自転車操業的にパクリor転移」して保ってたという酷いことになっていた)。
池田だって制作もやってる人だし、即応に焦る必要なんてないだろう。
なんでこうなるかというと、やっぱ東を突き動かしている
「反応が欲しい・ネット評判が気になる」という衝動ゆえなのかな。
世代論とか、こういう傾向がネットで促進されたとか、そんな感じなのかね・・・
こうなると、ブログやるという選択そのものがこの衝動への入り口になってきつつあるのか。
熟読系という用語がすでにあやふやなカテゴリーなので、 熟読系、ポモ云々と言ってもしょうがない気がするが
80年代のドゥルージアン(丹生谷松浦)の台頭って、古谷を見てると、 結局疎外論みたいなレベルで流行ったのかなと思えてくるな。蓮実だってそんなもんだし。 からごころ/やまとごころの対立に溺れた人がすごく出てしまった。 それを批判する柄谷は同時に形式化を語る人だったから、 これがまた東-大澤的にメタな状況論へとつながってしまった。 本当はメタな形式化でもなく、かつ からごころ/やまとごころ枠でもないものが必要になるはずだったのに。 斉藤が[顔=固有名=名指し得ない全体性=文脈]で本を書いたのが彼のデビューなんだが、 こういうレベルでの固有性の扱いは80年代以来の批評にとって 人を元気付ける効果でもあるのだろうか。 単に 固有名ばんざーい になることがやばいって発想から、 媒体や手続きを不可欠とするという意味で岡崎がたとえば技術論をやりだすわけだが、 古谷にはこういう流れがまったく見えてないのだろう。
919 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 09:12:35
「モダニズムのハードコア」を熟読するロザリンドクラウスw
なんでネットに対応するとダメみたいな流れになってんの? 馬鹿じゃね? まるで古谷がインスタレーションを全部片付けたかのように、 ニコ動やらYoutubeも片付けた気になるから極めて危険と見た。 媒体の徹底操作なしには批判もありえんよ
古谷が12/1日記でいろいろ言ってるな。 人間関係や柴崎云々など俺はどうでもいいことなので真偽すら関心がない。 「それに対して「それはちょっと違うんだ」ということがこちらからは言えないということのもどかしさ」 についてはたしかにそうだろうし、同情もするし、罪悪感もあるけど、 気になったのは、「お互いに言葉がまったく通じてない」 「考えていることの「フレーム」がそもそもまったく違う」で済まされてしまうこと。 結論の「そもそも最初から話が通じる相手ではなかった」はそこから派生してるので、 この結論部よりはこの発想が根なんだろうな。 「今後はお互いに干渉せずに、それぞれ勝手に自分の仕事をしましょう」 後半はその通りでもあって、そうだね、スレ分岐するかね、とか思うが、 前者は何が「干渉」だったのか、よく考えるとおかしい。 2chのスレで批判されることが干渉だというのは異様だ。 古谷がスレを読み、応答し、スレがそれに返す、という流れにあって、 古谷への批判が出ることが「干渉」だと言われるのなら、 ・そもそもスレに応答しない方が賢明 ・批判されるのは古谷にとっては干渉になるのか(何々嫁も批判だと考えて) というふうに思う。 最後に「対処の方法」として日記に書いたとある。 だけど、なぜ対処が必要とされるのだろう? 書いてないけど、 「自分の読者がこのスレ見て自分に悪印象をもってほしくない」とかなんじゃないの。 あるいは「通常は応答しないものであるスレに、一旦応答してしまった以上、 スレによる古谷像が一定の妥当性があると見なされやすくなるから、それを回避したい」とか。 「それぞれ勝手に自分の仕事」があり、それをやろうと言うのならば、 それこそ対処する必要がないような…。 まあ、批判なんか古谷に関係ないんじゃないかな。 「考えていることの「フレーム」がそもそもまったく違う」から批判は無効らしいし。 対処の必要もないでしょう。
スレ民は、ポストモダニズムは下らないからモダニズムで、っていう発想に対して無防備すぎるでしょう。
>>920 ネット論をやること自体を責めてる人がどこにいるの?
問題は、どうするか・(このネットの動向の中で)どういう目的でどういうことをするか、
というのを全く欠落した議論になっている大澤-東の議論では、
単に状況に合わせているような面があり、それになってはまずい、と言ってるんだよ。
インスタレーションの例で言うと、インスタレーションの作品群を解説して、
状況はこうなってます、諸傾向はこれで、その理由はこれです、って話をしてあなたは喜ぶのか。
大澤-東が一体ネットをどう「媒体の徹底操作」してるっていうの。
もちろん、まだブログで草案を書いただけの話だからどうなるかわからないけど、そうなると困るね、って話でしょ。
そして、そうじゃないのなら望ましいことで、嬉しい話だよ。
>>923 >まだブログで草案を書いただけの話
どこの?
状況の理解からしか始まらないんですぜ
もう少し言おう。現状即応から距離を取るってのは、まさにフルヤンのやり方です。 「社会的文脈」から身を引くスタイル。
>>923 >インスタレーションの例で言うと、インスタレーションの作品群を解説して、
>状況はこうなってます、諸傾向はこれで、その理由はこれです、って話
923さん自身がそうした状況に介入できるほど調べるつもりがあるのか。
その意志がないなら、単なる嘲笑になりますよ
>>924 池田のブログだよ、その話になる最初のレスで真っ先にURL紹介されてるじゃないか。
>>925 だから、抵抗の方法論なり何なりをどう考えるか、とか
大澤-東だと思いっきり抜かすポイントとかあるでしょ。
そういうものになればいいよね、ってわざわざログに書かれてるじゃん。
抵抗じゃなくて即応してるだけではまずい、ってことだよ。
抵抗といっても、インスタレーション駄目、絵画に戻る、とかそんなんじゃない。
ネットのアーカイブの中で一つの場所を作り、何かをやるってことはかなり大変だろうに。
現状即応にしたって郊外ショッピングモールとかH&Mユニクロとかどんだけ古い話に喜んでるんだよ
>>927 「社会学は糞」って要約できてしまう議論だから、安易に彼らを葬れてしまうのが疑問だ。
>>926 なるほど、東、濱野らがやってるニコニコ動画の話とかも「調べれば」いいんですね。わかりました。
介入なんかしてますか彼ら? 介入なしのレポと現状論が流行ってるって話をしてるんですが。
ネットで「意志があるの?」は泥沼になりやすいのをわかってますか?
「リアル充実しろ」と同じぐらい危険フレーズだよ。
意志があればいいの? 926にその意志があるの? 私が今意志あるよとだけ言えばすむ問題でもないでしょう?
何言ってるんですか。
そもそも抵抗しないとダメなの?なんで? もともと彼らの議論自体が現状即応でもなんでもないと思うので、 抵抗=「大澤-東」への反論へと矮小化されるんじゃないかな?
>>930 だってインスタレーションに対してはあんたほとんど古谷と同じ感想でしょ?
東は十分介入的だと思うが。 ネットの現状と彼の話って全然食い違ってるし。
フルヤンだってインスタレーション認めるときもあるよ
荒川修作の絵画は興味なさそうだしな 言葉が入ってるからw
>>931 そういうことは、現状即応でもなんでもないの根拠挙げてから言ってくださいよ。
東の言ってることって、これこれの傾向があります、たとえばグーグル体制です、
よって、これこれといった現象になります、この流れは不可避でしょう、
したがって抵抗といってもその中の一つの小さな物語になるだけなのです、という話にすぐならない?
そのくせ一つ一つの動向が理想的に進むことすら難しいこともいろいろ排除するよね。
たとえば、著作権法延長の流れ。それとコミケっていうのはどう考えても両立しない。
「たまたま成立している違法領域」になってるってだけだよ。
弁護士数が少ないとか、たまたま企業がお目こぼししてるからね。
それが、コミケで配布すれば未来の書籍のあり方を先取りしたかのように言う。
しかし、そんな未来の到来すら奪われつつあるのが現状でしょう。
こういう振る舞いが東にはやたら多いように思うんだが。
>>932 いちいち話題をそらすのがうまいね。
たとえばさ、それこそアーカイブとしてのYoutubeの機能を考えながら、
こういう場所でインスタレーションのようなことをやるなら、どういうことを発想するのか、
とかそんなんでもとりあえず池田の話はいいんだけどね。それだって介入でもあるし。
何も大げさなことを言ってるんじゃないんだけど。
>>936 俺の疑問は、東の真逆になってない?ってこと。
コミケ自体が糞だと思ってるっぽいから、そういう一蹴はたやすくできてしまうんだぜ
あの手のオタクコンテンツに可能性があると思った上で、その条件を探るぐらいはやるべきだろう。
そしてそのつもりがないなら、単に「興味がない」としてしまっていいと思うんだ。
俺が意志を問題にした理由。
>>937 池田の議論も含めて、シニシズム的なのは確かだろう。
だが抵抗がないっていう批判をするにもやり方に工夫が必要。
>コミケ自体が糞だと思ってる 推測の話はもうどうでもいいよ。 そんなこと言ったって「あなたがコミケをどう糞じゃないと思ってる」の提示にも何にもなりゃしない。 それをしないかぎり、あなたもそう疑われるね、とすぐ言い返される。 >あの手のオタクコンテンツに可能性があると思った上で これを議論しないで何言ってるの。大体、「あの手」でまとめちゃ玉石混交すぎるでしょう。 あと、東は個々の作品というより、「そうした創造性の生態系」みたいなかたちで評価しているわけだから、 何気にコンテンツで褒めてないってことがある。 私が言ったのは違法流通としての「隙間」でしか存在できないという限定性の話だ。 コミケがいいとか悪いとかの話ですらない。 youtubeだってUBUだって実情は隙間だよ。UBUは訴訟も受けてるし、結構危うくなってる。 「一方的に運営に消される」という事情の中、 たまたま残ってるものはある、って話になる。 もちろんCCみたいな運動もあるからそれだけじゃないけど。
しかしそういう態度って高踏派の典型じゃん
>>941 「どういう」態度?
作品を評価することもなく生態系で評価する東は高踏派の典型ではないの?
現状のきわどさを無視して理想的推移を語るのは高踏派の典型じゃないの?
手放しに絶賛するのは高踏派の典型じゃないの?
繰り返すようだが、ネット論自体を駄目だといったことはないし、
池田について「ネット論なんかやめろ」といったことも一度も言ってないんだが。
第一、ある種のトポスを作りながらって意味も含めると、岡崎なんかネット論をいくつもやってるわけで。
彼の90年代の美術館論にしたって、ネット論みたいな、CCの話みたいなところあるよ。
>>942 「現状追認」への批判が安直だからさ
単なる社会学批判なら、東みたいな人の議論と相互補完的になってしまうよ
やれやれ、抵抗の方法を説いてみせろよ、ですか。 どんだけしがみつくんだよお前ら。 社会学/社会学批判 そんなペアでぐるぐる回ってどうするの。 いずれにせよ、「安直じゃないこと」はあなたも何一つ言ってませんね。 あなたも十分安直なんじゃないですか?
実際問題としては「アニメとかニコ動」について、別の分析をしてみせるのが正解でしょ? 領域全体が下らないという裁断は簡単だけど、俺はあのへんの論壇からまともな議論が出る可能性も否定できないと思う。
結局、「なんでネットに対応するとダメみたいな流れ」だと勘違いした
>>920 がおかしいわけでしょう。
その間違いの話を訂正したことが、なんで
「お前は具体的でうまいネット論への批判の言葉を出してない」に摩り替わる。
媒体の徹底操作としてネットを論じる、介入も望ましい、それはそうだ、
ここまでなら別に対立にもなってない。
なのにお前の姿勢がどうだとかの話になんでなるんだ。
第一、人の姿勢を云々するそいつの姿勢はどうなんだ。お前もな、の一言で済むよこんなの。
>>945 >領域全体が下らないという裁断
誰がしたんだそんなこと。あと、
>まともな議論が出る可能性も否定できない
相場師的発言はもういいよ。
池田の話が面白くなる可能性だってある、推測に過ぎないと当初から言ってるように、
可能性ぐらいどこにでもあるよ。可能性がゼロって事態が、まずない話じゃないか。
2ちゃんでは肯定的な意見を出しても空しい
>>947 寛容ぶった「可能性はあるよね」なんて酷い肯定ばかりはつねに出てくるけどね。
そんな可能性はどこにでもある。
浅田は仕事らしいことをしてないが、浅田が仕事をする可能性があるように。
死ぬまでずっといえるねこんなことは。
そうなる可能性はある、の言葉はいつでもいつまでも言える。
で? としか言いようがない。
>>948 お前がどういうアニメをどういう理由ですきなのか言ってからにしろよ。
お前、アニメ嫌いなんだろ?
憶測とかどうでもいい。それに人が好きになるのって「アニメ」だなんて漠然とした領域なのか?
俺はパト2が割と好きだけど、押井の他の作品はパト2に比べれば落ちる、とかそんな判断だぞ。
>>950 それでいいじゃん
それなら東の押井論に対して具体的な反論が出来るというものだ。
>>951 自分の関心を語らない人間になんでそんな義務を押し付けられなきゃいけないんだよ。
お前、本当にアニメ嫌いなんだなあ。
>>952 ミーハーでいいんじゃないの?って話なんだが……
なんでそこまで東界隈を忌み嫌ってんの?
別に東界隈だからって嫌ってないけどなあ。 でも、押井ってオタクのシニシズムの先駆みたいなところあるよね。 ビューティフルドリーマーのメガネとか。 年代記の書き手としてすでに終わった祭りを回想録にする立場とか。 村上龍や宮台を思わせるような「貧しい私」みたいなのをすぐ見出したり、 その範囲で人形を語ったりするところとか。 東が惹かれているのは押井のああいうところに見えるから困る。 また、大塚の主体観ってあんな感じだと思うし、オタク論にはそういう基調が強いんじゃないかな。 パト2で俺が面白いのは常時背後にある戦争、ってモチーフがあるから。 その顕在化にすぎないわけね、あのテロリストは。 終わりようがない戦い、終わりようがない生死の奪い合い、 しかしそれを解消することもできないっていう。 これは弁証法のようにもつなげられるから、本当はもっとやりようがあると思う。 だからあのテロリストの個人的なドラマに向かっていくラストはつまらなかったな。 (いわゆる兵器や軍隊が出てくる)戦争/平時という発想じゃなくて、 つねにそこかしこにある戦争、みたいにモチーフを継続すればよかったのに、とか思う。
あと、押井のあの作画というか絵面の話もやっぱり話さなきゃいけないんだろうけど、 あれはあまり面白くない。かといって 「リアリズム描写だからアニメ特有じゃない」って東がやるような批判もつまらない。 それだと、萌え記号的なものの操作にアニメの固有性が特権化されちゃうから。 古谷もたしか言ってたけど、もののけ以後の宮崎アニメの背景自然風景について、 たしかに精緻でよくできているがどこかつまらない、と。 単に精緻であるようなものとは違う、何かの試みとかできないのかなあ、とか思うね。 しかし、それに見合う作品というのは浮かばないが、 アニメでやれることはもう出尽くしてる、とも思わないし。 アニメと背景なり絵面なりの可能性を、どういうかたちで展望できるだろう、とかたまに思うね。
それぐらい特定化してくれるならわかる 要するにオタク論が嫌だということだね 東の押井論は、先行世代である上野俊哉との確執を引きずっているんだよ でもそういうパーソナルな動機が批評の原動力になっていることは羨ましいと思う。東の世代だと他の人たちの方がシニカルだった
いや、もちろんそれこそオタク論だってやりようはあると思うんだよ。 マルチチュードに接続して具体的にいろいろ考えるとかだっていいと思うんだよ。 だけど、現在までのオタク論の系譜だと、それが阻まれる流れがあるんだよね。 たしかにね、上野俊哉との確執ゆえに、って感じあるね。 でも、上野も割りと素朴が議論が多いように思うので、 上野を越えてしかし、上野のモチーフを発展させたかのような、圧倒的な・・・ とかそんな余地も決してないわけじゃないと思うよ。 押井の隠された可能性はここ、とか言い張ってさw
ポストモダニズムの問題を回避するのは無理だと思うね ポモ=現状追認という通念も含めてなんとかするべき 仲正じゃないけど
黒瀬?w
そこに入れるべきはポモというよりはローティの人気とかいう感じがする。 あとは、公共性と言説の切断とか。 大文字の芸術はないとか (別にそれはジャンル的に規定できることじゃないし、それこそ技術として語る岡崎のように広げた方がいい。 表象学会で岡崎が表象文化論について疑問として言ってたのは、そういう感じの鋭い視線だったと思う)。 東の二層論は一定の説得性はある。 しかし、分断を肯定することが根深く絡む説得性であるように思う。 仲正じゃないけど、彼が金沢大学医学部の地味に細かく面倒くさい問題にタッチしてるように、 ああいうのは大事なんじゃないかなあ、とは思うね。
本人乙はもうどうでもいい
ところで、ポモ=現状追認という通念 って誰のことだろう ポモと言ってる対象もまた曖昧すぎてわからない
なんだか古谷の今日の日記すらどうでもいいことになってしまったな
オラもしばらくこのスレッドから離れてるだ イ為日記@ハテナもしばらく見ないことにす
966 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 13:26:18
結局、池田や黒瀬が熟読系を相対化できているのは確か
>>2 ちゃんの古谷スレが酷いことになってる(月曜の午前中から! どんだけ暇な人たち!)。
こういう捨てゼリフはどうかと思うがな。おまえだって長々とブログを毎日更新してるだろって感じ。
それこそ小学生並みの発言だ。反論するならもっと理性的にやれよ。
ある種、最低な人がここのスレに多いってのはあるんだよな もたれかかって引きずりおろすことばかりしてる人が多い きっと読書会も無理だろう 読書会って人にもたれかかって 誰か先鞭つけてくれないかなというノリでは決して進まない フリード読もうと言い出した人もかなりいい加減に言ったようだし 当番を割り振るという発想も一人目になるという発想も何もなかったようだし しかもテキストよりルイス展が主、だなんてすぐに目的もあやふやになった ここのスレ住人の限界はかなり明確になってしまってる 古谷はかなり駄目だが、このスレも……
969 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 14:03:27
いいタイミングだから美術批評スレぐらいの感じにしてもいいんじゃないの 四谷周辺を並べる形で
じゃあ勝手に立ててくるか。テンプレ的に、もたれかるのを防ぐ心得文でも作って。
しかし、
>>966 みたいな
空気を要約したみたいな発言ばっかりで埋もれるんだろうな…
つまるところ「ここは2ちゃんだからしょうがない」で 自分の振る舞いを肯定し続けているここの古株がいるかぎり変わらない 現スレ序盤はそうじゃない人もいるのかなという感じになりかけたが そういう人が来るかというとよくわかんない
>>968 じゃああんたが先頭きってやったらどうだ?
って言われるんだろ? わかりきってることだね。 ここで、何事かを先鞭つけて話した人がどうなったか知ってる? 特定作業、ブログやれ、茶化し、その連続だ またそれ?
いやいや、おれは茶化したことはないよ。 諦めて文句言う前に自分でやったらどうだということだ。 やってみて無駄だったら文句言えばいい。
>>499 の指摘した状況とまったく一緒だ
面白い人はもうここには来なくなってるんだろう。
で、結局何かまとまったこと言っても、それは〜〜の影響受けてるからだね、
あなたは〜〜なんだね、〜〜乙、〜〜は何かやれ、これの反復だ。
こういう流れがさも当然のようにあるスレに、先頭切ってやれとかよく言うよね。
もたれかかる対象がほしいんですぅ〜 と言ってるのと同じだろうそれは。
誰がウジにむらがられたいものか。
>>975 うーん、その言葉を信じたとしてもさ…
ここって、面倒な議論になるのをすごく回避する傾向があって、
面白くなりそうな流れになっても、すぐ消化されるって動きが多すぎるんだが………
もう3スレ分ぐらい眺めてて思うが、どうだろうこれは。
前にも、割と奇妙な感じでクワインの話とかになったよね 強引なアナロジーで、面白いところもあるように思ったけど 一人それはありかもというレスがついた以外には、 「お前さん哲学科だろ」「お前さん作品語るの苦手だろ」そんなんばっかり 「ヒュームだろ」→「根拠は?」→返答なし こんな知った風な一行レスばっかり なんだこれ
>>977 まあおれもここでまともな議論をするのは難しいかなと思わなくもないし、読書会の話が
出たときに実際そう言ったりしたのだが、シニカルになってばかりいてもしょうがないと思ってね。
やってみて駄目なら他でやればいいんじゃないかな。
まあねえ・・・・・ たしかにやる前から言うのはよそうよ、それ自体シニカルだよ、というのはわかるけど、 わかるけどさあ…、不誠実だって言いたくなるのもわかるけどさ、しかしなあ・・・・
mixiとかid制のとこでやれば?
いいね、mixi行く? それが一番いいだろうね。
まあ難しいところだな。古谷スレはとりあえず打ち止めにしたほうがいいのかね? あと、このスレにいるひともゴシップ好きやちゃかしたりする人ばかりじゃなくて 真面目に議論したい人も多いと、フルヤンも気づいてほしいね。 「月曜の午前中から! どんだけ暇な人たち!」と罵声を浴びせるだけじゃなくて。 そりゃひどいレスも多いから気持ちは分かるが。
mixiやったことありません
mixiならこのスレ以外の美術批評に興味在る人も普通に入ってきて健全な流れになるやも
マジレス *しょせん2ちゃん *芸能人でもないのに、「〜と付きあってる」などの書き込みはモラルを疑う
2ちゃんで古谷スレを続けるか知らんが、mixiでもやっていくということでいいんじゃないの? おれはmixiやってないけど。招待制もなくなるんでしょ?
浅田と赤プリに一泊して操を捨てれば、明るい将来が待っているお(男限定)
向こうだって相手を選ぶだろ
どうでもいい話なんだけど、批判的意見がすごい勢いで出て盛り上がることは「炎上」とは言わんよな。。 2chアンチスレにアンチ燃料が投下されたときにはよくあること。 強いて言うならば、アンチ祭りとかそういう現象。 炎上と言っちゃうと「古谷は2chスレを自分のブログのコメント欄のように一体感を感じていたのか」 とか絶対突付かれるのに。。 知りもしない単語を振りかざすのはやめようよ。
黒瀬とか池田はわりとイケメンの部類だから(あくまで部類な) 頑張って「そっち」開発すればいけんじゃねえ?w
で、古谷スレは立てない方向でいいの?
とりあえず立てないで、どうしても立てたい、話したい人がいれば、 勝手に立てるってことでいいんじゃない? 立ってたら気づくだろうし。数日間おいて立つかもしれないし、即立つかもしれないし。どっちでもいいや。 【まじめに】偽日記8【復活】 とかでもなんでもいいよ とりあえずコミュ見てみたかぎりだと、mixiのコミュにありがちなように 参加数は多いが話題進行は死んでて、たとえるならばかつての過疎スレ化していた古谷スレに近いというかw だからこのコミュ内で新トピ立てしようと思う。 のっとるとかそういう傲慢な発想はともかくとして、 このスレと同様、面白い・まじめな人がいないと自分も参加しにくいなあ、と 「待ち」の潜在数で面白い人も、まあ5人…ぐらいはいてほしいね。 知らない人とのやり取りになるかもしれないけど、丁寧にやってみるとか、 2ch的な乱暴なふるまいを制約されてしまうというのも、たまにはいいんじゃないかと。 あと、そうだな、別にこのスレから来たとか名乗んなくてもいいし、 来歴は基本的に(特にそのコミュの人には)伏せておこう。 ふと漏れてしまってもまあどうでもいいけど。 古谷のことは禁止フレーズにしよう。いままで古谷の話題をすることで甘えられたってこともあるしね。 mixiは大体、過疎進行が普通なので、別に焦んなきゃゆっくりやれるようにも思うし。
新トピは、俺がフリードのルイス論の箇所をまだ読んでないから、立てる立場にあるとは思えない。 ここを見た人の誰が立ててもいいけど、「Art and Objecthoodのルイス論を読んでみます」 といったトピでいいんじゃないかな。 まあ、即立てれる自信もないので、「ええい、じれったい。俺が立てる! すでにもう読んだ!」 という人がいればその人でもいいし。 あるいはみんななんとなく興味なくなって、トピ立たなかったな、スレは解散か… でも古谷スレにまた戻る気もないしなぁ って感じになるかもしれないが。 もちろんそうならない方が面白いけど、それはそれでしょうがないと考える。 俺は英文じゃないもので何か立ててみようかな…。 別にフリーっだけがよみたいわけでもないから、心境は複雑だ。
英語が苦手な人もいるから英文に限らなくてもいいと思う
まあ、あんまり返答を期待しないように覚悟することが大事かもね。 ここでも一行レスが多かったわけだし、向こうでもすぐに刺激的なレスがつくとは限らない。 それでもやるかどうかとなると、一種、ブログのような持続性を勝手にやる心得が必要になるが。 だが、潜在数、このスレに1〜3人はいそうな有為層を考えると、 まあ面白くなる可能性もないではない(いきなりブログを立てるよりは)、ぐらいの期待はできるかもしれない、とか。 正直、俺は『反美学』や『視覚論』など読み直していないものがあるので、 ちょっと読んでみたかったりする。 ま、すぐには何かの動きにならないだろうし、そういう性急な期待も捨てて、 あまり高望みせず、気を引き締めてみましょうか、と。 あと、メンバーが多すぎるので(所詮登録メンバーだしな)、ここの人なのかどうか全然わからないし、 古参メンバーのように偽装も容易なので、あまり気にせず参加してみればいいじゃないかなw
998 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 18:47:08
古谷怒ってるじゃん もうしつこいし つまんないから 止めて
『反美学』や『視覚論』なんかは俺も読み直してみたいな。 mixiでそういうのも出来たらいいかも。
1000 :
わたしはダリ?名無しさん? :2008/12/02(火) 20:11:32
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1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。