【文芸誌】古谷利裕の偽日記5【常連】

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1わたしはダリ?名無しさん?
美術作家・批評家の古谷利裕について語りましょう。
古谷の単著が出ました。
『世界へと滲み出す脳――感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社、2008.7)
岡崎乾二郎、平倉圭、四谷アートステュディウム、石岡良治、『artitoc』、module、
林道郎、松浦寿夫、宮川淳、松岡新一郎、
『Review House』、photographer's galleryおよび『photographer's gallery press』、
蓮實重彦、保坂和志、樫村晴香。
『October』派やロザリンド・クラウスなど諸論者から、
英米仏の映画・芸術・文学の理論・研究・批評・動向まで。
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/(08/05/31(土)〜)
ttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(08/05/30(金)以来、更新停止中)

過去スレ(美術鑑賞板)
【本が】古谷利裕の偽日記3【出るよ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1210727674/
【ラノベも】古谷利裕の偽日記2【よりぬき批評】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1159206551/
【美術家の】古谷利裕の偽日記【よりぬき批評】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1104207341/

過去スレ(哲学板)
【男もすなる】古谷利裕の偽日記【日記なるもの】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1078673801/
【日記なるもの】古谷利裕の偽日記2【だと思う】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1087452000/
2わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 05:39:22
美術作家・批評家の古谷利裕について語りましょう。
古谷の単著が出ました。
『世界へと滲み出す脳――感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社、2008.7)
岡崎乾二郎、平倉圭、四谷アートステュディウム、石岡良治、『artitoc』、module、
林道郎、松浦寿夫、宮川淳、松岡新一郎、
『Review House』、photographer's galleryおよび『photographer's gallery press』、
蓮實重彦、保坂和志、樫村晴香。
『October』派やロザリンド・クラウスなど諸論者から、
英米仏の映画・芸術・文学の理論・研究・批評・動向まで。
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/(08/05/31(土)〜)
ttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(08/05/30(金)以来、更新停止中)

過去スレ(美術鑑賞板)
【本が】古谷利裕の偽日記3【出るよ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1210727674/
【ラノベも】古谷利裕の偽日記2【よりぬき批評】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1159206551/
【美術家の】古谷利裕の偽日記【よりぬき批評】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1104207341/

過去スレ(哲学板)
【男もすなる】古谷利裕の偽日記【日記なるもの】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1078673801/
【日記なるもの】古谷利裕の偽日記2【だと思う】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1087452000/

訂正
過去スレ(前スレ)
【樫村保坂と岡崎】古谷利裕の偽日記4【試行錯誤】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1222617034/
3わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 05:55:30
・・・誰もレスつけない。
これじゃ即死判定食らっちゃうよ
4わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:15:16
5わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:20:33
さっそくだけど、

>抽象表現主義で最もマティス的なのは、60年代はじめくらいまでという限定付きでだけど、フランケンサーラーだと思う。

この意味がまったくわからん。
「抽象表現主義で最も好きなのは」の言い替えでしかないだろ
6わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:23:01
>>4
あー、ごめん。2をリンクしたつもりが>>1の反復してたね
7わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:24:53
>>6

>>1には4スレ目が貼ってなかったから訂正したんじゃないの?
8わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:25:49
それと、板最速スレで即死を恐れてもしょうがないと思った
9わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:34:34
偽日記で誰か作家の小説をまとめて読んでるときは、
必ず原稿依頼されていることに気付いた件
10わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:35:39
>>7
いや、2のリンクのあとに4スレ目を追加したつもりだったんだけど、
誤ってコピペ反復になってたんだ。だから>>4のリンク集が抜けてるのにきづいてなかた
11わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:35:57
ふるやん見てる〜?
12わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:36:29
いま、勢い198とかあるんだが、冗談みたいに見えちゃうw
13わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:37:09
>>10
まあいまさらいいけど、4スレ目ってのは「前スレ」のことね
1はどっちみち不備だったからあれでいいんだぜ
14わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:37:14
4スレ目のラスト勢いは97か。異様な速度だったねえ
15わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:37:47
俺のマシンでは340.686だがw
16わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:38:02
ふるやん降臨まだ〜?
17わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:38:53
じゃあ前スレの質問を繰り返すか
石岡って林派じゃないの?
18わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:41:33
いま380だ
19わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:42:34
>>18
院生時代にはつながってないんじゃない?
そういう形跡感じなかった。
そのあとで四谷経由・岡崎経由で林あたりと親交ありそうだけど
20わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:44:02
ちがった。>>17へのレス
21わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:46:22
でも近藤・加治屋とはリンクあるだろ
22わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 06:51:04
いつごろからはしらないけど、親交ぐらいならあるんじゃないの
それを派閥というのなら、石岡は浅田派とも言えると思うんだけど。
人脈ってそんなに大きいの?
23わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:03:07
前スレではその二人が林の圏域で物を書いているという分析があったから
24わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:04:08
ああ、そっか。そういう流れだと、
無下に人脈話やめようよ とも言えないし、石岡もなのかなあ という声も出るよね
25わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:06:34
>>22
だってみんな浅田から仕事もらうんだろ?
黒瀬の浅田磯崎詣でもその一環
26わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:09:15
ロバート・モリス論ならそれっぽいかなあと
27わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:14:12
>>25
浅田経由が大きいのは媒体によると思う

古谷が新潮で書いたのは浅田・矢野つながりだけど。

石岡がユリイカ寄稿したのはおそらく岡崎経由だから浅田経由とは直接関係ない
岡崎ーユリイカのつながりは、遠因としては浅田による「批評空間」連載が利いてるだろうが、
石岡寄稿となると、岡崎からだと思う

岡崎・田中純が『建築文化』『10+1』などで寄稿していたのも浅田ルートと関係しない。
浅田ってこのへんであまり書いたことない。

黒瀬の磯崎・浅田コネは、磯崎インタヴューを実現させるために、
浅田に仲介を頼んだ、という順序で考えていた。
まあ、浅田から仕事をもらう結果につながるかもしれないけど、
いま浅田からの推薦が利くのって新潮以外にあるのかな・・
28わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:22:33
石岡はくまのプーさんにも書いてるぜ
これはあんまり岡崎と関係なさそう
29わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:26:18
いや、そうじゃなくて、ユリイカスタッフとのつながりがその頃できてたってことだと思うよ。
さかのぼれば、これは別スタッフ(ユリイカじゃない)だろうけど、
もうちょっと前の現代思想の帝国第2弾でジジェクのレヴューを訳してる。

で、そのしばらく前に岡崎がよくユリイカにのる流れがあったから、
岡崎がユリイカスタッフに推薦したか、石岡に「何か書いてみる?」というふうに薦めたんじゃない?
30わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:32:41
そのへんは推測でしかないだろうけどな
ていうか俺が知りたかったのは美術論の文脈だったんだが
>レファレンスによって美術史を 「埋め立て」
ってのは石岡もやってそうじゃん
31わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:41:17
美術史の読み替えがちょっと不十分ってことか。

これはたしかに難しいね
32わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 07:44:58
それはわからないけど、果たして平倉っぽいのか近藤っぽいのか
若手だとどうしても不明な点が多くなる
33わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 11:09:48
文章が硬いけど平倉に近いんじゃないの
34わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 13:51:01
思いっきり気にしていることが分かったね
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081008

わざわざ美術手帖の岡崎にも言及してるし
35わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 13:55:57
「書かれたものと書かせたこと」の範疇で押さえちゃってるのか……
古谷理論は完成しちゃってるようだね
36わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:36:53
日記でここが言及されてるのを見てとんで来た。
石屋さんはまだですか?
37わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:38:19
あと、散歩じゃ駄目だって言われてるのに散歩の話にしちゃ駄目だろ
生活スタイルを変えるつもりがない、というか、俺は俺でしかないという自同律
38わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:39:56
岡崎の無重力って、
もともとはラウシェンバーグとかカロの仕掛けの説明なのに、
妙に内面化してないか?
39石屋:2008/10/09(木) 14:41:01
これからの季節、高尾山がおすすめだよ。散歩コース。平地を歩くのとは違うものを感じると思う。
近所のコンビニでおむすび買って、ペットボトルにお茶を入れて持って行くといいよ。
(高尾山口駅の近くのファミリーマートは、弁当等を扱っていないため。飲み物の自販も観光地値段で、
1本180円とかになっているため)

高尾山口駅にウォーキングマップ(無料)が置いてあるよ。
石屋自身、9月に1回登ってきた。今週末も行くつもり(天気次第だけれど)。

それから、はてなのメールアドレスの@(アットマーク)を、
[アットマーク] とか、☆ などの記号に置きかえて、その下に

*メールを下さる方は、[アットマーク] ☆(まあ、すきな記号でいいんだけれど)
を@に置きかえて下さい。

等の文面を添えておくとといいよ。
Webサイト上のメールアドレスを自働収集するソフトが、多くの迷惑メールの原因だと思う。
だから迷惑メールは、不特定多数にいっているということで、気にすることはないと思います。
(大切なひとからのメールは、ルールを作って仕分けしてますか?)
※送る側も件名を明快に

少々、上目線m(__)m
40わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:44:18
前スレで言われていた、小説話法的上演と関係するんじゃないかな。
それによってイメージは錯綜し、ときにはヴィヴィッドに提示されはするが、
石屋があのレスで言ったのは、それだと語りえないものをどう絡ませていくのかが消えちゃうと。
これは、表象不可能性を何気ない日常にもある、と言う
古谷にとっては納得するところの大きい指摘になるんだろう。

で、あの石屋レスは 語りえない体感→表象(語り) という過程で考えていて、
>>35の言う 書かせているもの→書かれたもの になってるわけね。
一種のモデル論なんじゃないかな。モデル/作品で、
モデルは制作をうながす、表象不可能性のともなうものになってると。

岡崎に関しては、これまでレスで言われていたように、無視している・嫌ってるというより、
岡崎の代弁者みたいに見られるかもっていう懸念があって、
読んでも書かないでいたのかな、ということを今回の日記で感じた。
まあ、岡崎に毎回言及しなきゃいけないわけじゃないんだし、古谷が古谷なりにいけばいいんじゃないかと。

今回の日記でとりわけ石屋レスに虚をつかれた様子なのは、
おそらく古谷自身、自分の描写によって自分が自分の描いたイメージにひきずられる恐れのようなものを
割と感じていて、そこを突かれる思いをしたからなんだろうね。
>まあ、それを安易にイメージとして語り過ぎる傾向がある、というのは事実かもしれないけど。
この箇所には特にそれを感じた。
41わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:49:22
つうか石屋はリアルの友人だろw
42わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:50:45
>>40
それよりも、あの特集は古谷が好きじゃない現代アートに触れてるからじゃない?
43わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:52:46
あの特集は面白かったな。またやってほしい。
44わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:53:17
石岡にかんしては、今は鯖の都合で見れないみたいだけど、
http://correlative.org/exhibition/spiritual/intro3.html
これとか読むと、体系志向がわりとあると思う。
でも文章が読みにくすぎ。そこはなんとかするべき。
45わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:54:22
芸術の設計だと、
コンピュータの話で始まってたのに現代作品に触れてなかったから、
美術手帖の特集はよかったと思う。
46わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:55:21
>>38
いや、あれはラウシェンバーグやカロの制作方法についてのみというより、
前々スレで引用された石岡テキストの「架空の空間」や、
岡崎自身がこだわってる自律性・自律系の論旨だと思う。
だからp.80でフラー、ブラック・マウンテン・カレッジの話が出てる。

二つ以上の諸事物の複数の力の関数=重力 で
          複数の力の並存・均衡=無重力 なので、
古谷の言う重力=「現実界との接点」としちゃうのは、やや論旨が違うと思う。
重力=外部じゃないのだから。
これはおそらく、作品=内部/外部=重力 にしちゃってるんじゃないかな。
岡崎のやり方は、関数という意味では重力・無重力の扱いに差はないと思う。
47わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:55:29
あ、でも芸術の設計にはリヒター批判みたいなのはあったか。古谷とは文脈が違うような気がしたけど。
48わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:56:41
>>46
フラーの影響を受けた作家たちが、
そういう構造の作品を作ったという事実は決定的なんじゃない?
たぶん古谷はこれ以後の美術史を遮断している。
49わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:57:32
まあ現実界って不可能性の「穴」だから、
重力とは全然違うよな
50わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:58:24
むしろ岡崎の言う無重力のほうが現実界に触れている
51わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 14:59:15
>>42
まあ、たしかに古谷はラウシェンバーグに対する評価がよくわかんないね。
岡崎はかなりこだわっているんだけど。

たとえば古谷はかつて浅田・岡崎・多木座談について
キーファーをラウシェンバーグの手法の延長と評している岡崎に共感していたが、
なんか「ばかばかしいキッチュ」みたいな意味合いでラウシェンバーグを扱っていたようで、
絵画表面→ミクスト・メディアへと逸脱 みたいな意味合いで見ているのかと思った。
岡崎の扱いはクラウスおよびスタインバーグ経由で、さらに論立てを変形してる感じなのでかなり違う。
52わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:01:16
>>48
うん、乱暴にまとめると、岡崎はフラー以後としてのラウシェンバーグ以後、
というのを強く意識し、問題設定にも反映させてるけど、
古谷はそう見えない、およびこうした岡崎をどう考えてるのかがわかんない、って感じはするね。
53わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:03:53
>>52
そこは単純に藤枝史観なんじゃないかなあ
岡崎の映画もきっと美術と切り離して観てただろうし
54わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:08:23
>>53
>岡崎の映画
「回想のウィトゲンシュタイン」のこと?
55わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:14:39
>>39
これはスパムメール防止策としてはやっておくべき。
言われて気づいたけど、あのままのアドレス表示だとスパムが多くて往生する。
56わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:17:20
>>54
そう。美術に映像は邪道だと思ってる古谷と違って、
岡崎はあの映画で絵画や彫刻についても考えていると思うんだ。
57わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:21:05
>>37
石屋レスは散歩自体が駄目だって話じゃないから、古谷は引用したんだろうと思うよ。
石屋は生活スタイルを変えろと言ってるのともまた違う感じだしね。

俺は生活スタイル以外のペース配分やら長期的持続性とか、そういうのがほしいな…。

今回の石屋言及でわかったのは、「古谷の耳に届く言葉じゃないと、古谷は動揺しない」ということだな。
石屋の言ってることって古谷の発想と同じなんだから、古谷は動揺するという。
うーん、地頭ゆえなのかわかんないけど、自分と前提が共有されてない人の話はわかんないのか、
あるいは、自分とイメージという実存的関係を突かれたから特に動揺したのか・・・。
まあいいか。
58わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:22:20
>>57
このスレは古谷を動揺させるためでも誹謗するためにあるのでもないんだから別に良いと思う。
59わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:27:21
>>56
>美術に映像は邪道だと思ってる
古谷の書籍の方でも、いわば対偶の「映像に美術は邪道だと思ってる」側面が出てるよね。
映画と絵画の交差についての章で。
ショットの規定の中で見ちゃうから、実際に絵画を前にするのと違っててフェノメナルな可能性が狭められる、とか、
スクリーンの表面に、(岡崎が写真について一時言ってたような)一旦均質化されちゃう、とか。

岡崎については、彼の中でイメージの問題として、
映像も美術も言葉も往復してるように思う。
一旦、素材操作のレベルで考えるのと 一旦それを括弧に括って「イメージ」として往復性を出す。
しかしこの「イメージ」というのは、不可視な・・・古谷で言うと
「感触」が立体構造になってるようなもので、そこで古谷の言うイメージとは大きく違っている。

岡崎と古谷の領域横断性の差異で重要なのは、素材帰着性をどこにおくかと、
「イメージ」をどう扱ってるか、あたりにあるように思うね。
60わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:28:59
>>58
まあ、そりゃそうなんだけど、将来性に疑問が・・とも言われている古谷自身に
アプローチをするには(このスレからのアプローチからはともかく)、
思ったより硬直してそうで、やりづらそうだと思ったってことね。
61わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:30:04
>>59
岡崎は日本のアーティストには珍しい発明家タイプってことか
だからアメリカの芸術が好きなんだろう
62わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:31:12
>>60
保坂や樫村って「無謬」の人じゃね?
その圏域に入ったからもう無理なんじゃないかな
63わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:32:56
>>61
行為の連鎖の中にある作品、みたいな発想を立てるのはうまいね。
建築と彫刻の間でいろいろ試行錯誤したからなんだろうけど。
64わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:34:30
古谷は泰西名画の人なんだろうな
65わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 15:36:55
>>64
保守的かつ、自律性を作品ジャンル&手法に見出して、
これこれなら普遍性を獲得できる、みたいに流れちゃう、って意味でかな。

昔はもうちょっと違う発想、メディウムとしての経路への不可避な不安、
みたいなことを言ってたんだけど、最近言わなくなってきてるから困る
66わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 16:32:08
保坂が意図的にうpしていないこの対談が重要そうだな

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20021210
>(樫村氏の文章を読んだことがないという人には、「現代思想」1997年11月号の保坂和志との対談『自閉症・言語・存在』か、同じく「現代思想」97年2月号の『言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確信のメカニズム』を読まれることをお勧めしたい。
>特に個人的には、保坂氏との対談(『自閉症・言語・存在』)で、自閉症者がいかに「愛」とも「感情移入」とも無縁に存在しているかを語る部分に強く感銘を受けた。
67わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 16:35:49
古谷は自分を自閉症的な存在になぞらえすぎる傾向がある
しかもイメージを介しているから、
まさに想像的同一化になってしまってる気がする
本来なら感情移入を拒む自閉症への感情移入ってやつ
68わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 17:47:25
>>49-50
諸力が衝突し合ってできるブランクスペース、みたいに読み替えると、
無重力はむしろ不可能性ともまた違う、一種の空所って感じがするね。
ただ、そうなると、古谷の言うのとは逆になっちゃうし、
また、現実界と無重力の違いの方が際立ってくるな。

やっぱりあの論旨は現実界から敷衍して読むと間違うのでは。
69わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 17:55:52
>>66
その対談、保坂のエッセー集『言葉の外へ』に入ってるよ
70わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/09(木) 19:29:27
>>9
必要がないと読まない

しーっw
71わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 02:06:50
>>39
遠足のお子様と定年退職爺さんの大群が好きならいいけど
俺はいいやって感じ
72わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 06:27:14
>遠足のお子様と定年退職爺さん
1号路はそうだね。6号路を歩いてごらん。
ttp://www.takaotozan.co.jp/cource/index.htm
73わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:19:39
フルヤンの散歩スタイルで山歩きはヤバイ
小規模な遭難を日常に持ち込んでるんだろうから
74わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:21:24
微妙に対話成立してるっぽい
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081009

しかし重力を外傷ってのはない
75わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:24:40
俺も『精神分析の四基本概念』を取り出して、何か返してみようかな。
ラカン暦は古谷のほうが長そうだけども。
76わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:41:43
本当のことを言うと、古谷はラカンの三界説に乗っからない方がいいはず。
だって身体感覚と脳がベースの発想だから。
もともと樫村晴香がそのへんちゃんと展開しないまま、
樫村愛子の活動が目立つようになったのも原因かもしれない。
思えば樫村晴香は妻のことを考えてラカン理論の解体を差し控えたのかも。

絵画論には頑固なまでに象徴界の問題を持ち込まないようにしてるのも不自然。
77わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:43:48
ラカンは実験心理学との切断に心を配った人だから、
象徴拒否のフルヤンとは相性が悪い。
78わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:44:29
さらにいうと、ラカンを三界説から読むのは、見晴らしはいいが、
いろいろ見失うものがあるのではないか、とも思う

ラカンにおけるメディウムの経路とか、そういうのを探っていった方が面白いんじゃないかな
79わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:49:11
鏡とか?
そういうのは昔、赤間がやってたな
80わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:55:39
小説論にも絵画論にもラカンは使わないつもりだろうしね
81わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 08:58:05
超懐かしいw 『ラカンあるいは小説の視線』でやってたっけ。あれ読み通してないなあ。

ただ、最近デリダ派からラカンの想像界に対して介入してる論文もあってね。
まず想像界での他者の視線のインストール、となってる論旨を、
鏡像段階論の元ネタになったメルロポンティからたどり直しながら、読み替えられてた。
アルチュセールの「主体からの呼びかけ」にしたって、
この他者の視線のインストールからの議論で、結局同じことになってるんだよね。

岡崎だと、他なるものの到来をどこに位置づけてるかよくわかんないけど、
「ドアはつねに開かれている」では、主体内部の作用として他なるもの貫入がある、みたいになってる感じなのかな。

まあ、いずれにせよ、ラカンの三界についてそのまんま乗らないほうがいい気がする
82わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:00:13
お前デリダ派になると元気良くなるな
古谷はデリダ好きじゃなさそうじゃん
83わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:01:45
>>80
思うに、ウテナといい、ホラー映画といい、リンチといい、
ある種のオタク性というか・・・・特定の、古谷がこれはラカンでいこう、
と思わせる何かに対してのみラカンを使ってるね。

重力の湯本論文のオタク批判がラカンを使ったものだったように、
ある欲望形態、回帰・反復の形態に特にラカンを使ってる感がある。
あと、説話作品限定で使ってるっぽい。
84わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:04:20
いや、想像界と象徴界の扱いって、ドゥルーズからいってもデリダからいっても
了承しがたくなるはずだと思ってね。ドゥルーズガタリの現在でも美馬論文が
ある程度ラカンと共通しながら、大幅に違ってる面について整理してたけど(特に想像界と象徴界の混ざり方に)。
古谷がラカンの三界をそのまんま乗るのってどうなんだろうなと思って。

別にデリダから行けばいいってものじゃないし、迂遠に感じられるだろうから隘路かもしれないね。
85わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:06:02
というか、デリダは造形芸術と相性が悪すぎる
やっぱりテクストの哲学者でしょう
86わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:26:03
それはそのとおりで、かなり換骨奪胎しないと無理。

でも、芸術の設計の序文見てると、あれはかなりエクリチュールの話になってて、濃厚にデリダだよ。
反復可能性のある同じもの性としての「技術」ってなってて(p.23)。
そして技術に与えられる構造の同一性は、構造それ自体によってではなく、
外的参照物(序文の文脈ではノーテーション)によって補われていると。

で、
作品 / 技術
事物 / 技術
道具 / 技術
となってて、
その技術を再獲得(再固有化)するための手がかりにノーテーションが挙げられ(p.22)、
事物 / 技術 /ノーテーション
となるけど、
即座に、ノーテーション自体、道具なのだと言われる(p.23)。
ここで、
ノーテーション / 技術
となって同位置にくるわけだけど、ここでいう「技術」は、デリダで言えば、
差延とか意味作用とかにほとんど同じになってる。

道具 / 機能
というのは、道具=テクストで、機能は読みによる決定 と同じ関係にあるってことになってる。
だから、デリダはいかにも一見テクストの議論の閉域にあるように見えるけれども、
機能の一義性、多義性、みたいなかたちで岡崎は相当テクストの議論の成果を持ち込んでると思う。

たとえば美術手帖08月号の彫刻に関する「これはXである」とつなげるとわかりやすい。
X / 技術 /ノーテーション(彫刻作品)
ってなってるわけね、この場合。
作品はこの場合、ノーテーションとなり、ミメーシスのモデルであるところのXを指しているってことになる。
技術とは、ここにおいてはXの同一性を確保するものになっている。
こうしてみると、テクストの話ってことで片付かなくなると思うよ。
87わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:29:05
あれはアリストテレスやハイデガーの話じゃね
もちろんその読者としてのデリダを使うのはアリだろうけど
88わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:30:44
そこでね、おそらく古谷は岡崎理論の文字性に対して警戒を持ってるがゆえに、
身体論、生態的な身体、というのを持ち込んだり、樫村ラカンにさまよったりしてるんだろうけど、
はたしてそれでは抵抗になるのか、という疑問がある。
別の隘路に吸い込まれちゃうんじゃないかなあ、と。

これは漠然とした印象なので、どういう意味で? と言われると答えられないんだけど。
89わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:33:32
>>87
どうだろう、どのへんの論の進行にアリストテレスやハイデガー、それぞれを感じた?
俺が間違ってるのは十分ありうるけど、岡崎の理論ってテクストの議論として読めるところがすごく多いよ。

だからこそ、岡崎の言う「イメージ」の把握が重要になるって感じかなあ。
あれはいわゆる視覚的なものという意味では全然なくなってるし。
90わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:36:38
ベタに読めば存在と時間の道具性の議論かなと
>>88
その通りだと思う

そういや岡崎はエコノミメーシスをよく持ち出す
91わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:56:57
>>228
>存在と時間の道具性の議論かなと
うーん、ハイデガーの道具的存在者だと、いわば
道具 / 機能
においては(テクストor文字 / 意味に相当する)、
道具は一義的に機能が規定されてて、ゆえに
ひとまとまりの道具連関は場所を持つ、というふうになると思うんだよね。
で、固有の場所を持つ、とか言われてるし。

岡崎の議論では、もっと不安定で・・いわば多義的にものとして
機能が見出されてしまうということにしていて、
ゆえに構造が同一性を確保する(p.26)としているんじゃないかな。
そして、構造は事物から見出されたりノーテーションから見出されたり(ともに読解による決定)していると。
92わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:58:23
まあでも、このへんはまだ俺も明晰に整理できてないな。
射程を広げて掘り下げると、かなり厄介な議論になると思う
93わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 09:59:00
いや、だからデリダも経由してると言ってるじゃん
大筋でその通りだと思うし
94わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 10:00:48
そっか。たぶんデリダ自身の意味の扱いがすでにハイデガー越しの継承な掘り返しなので、
ハイデガーを出されたのは大事だと思い、なんとなく悪戦苦闘して書いてみたんだ
95わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 10:01:34
あらためて思うに、この企画は批評家不在を打開するためなんだろうな

http://www.artstudium.org/infomation/2008/09/1011.htm


批評(創造)の現在シリーズ
批評・創造の切れ味は、見通しのきかぬ任意の点にあえて立ち止り、なおその地点が含まれるはずの時空の全体を見通し(構築し)、あるいは見通した上でそこに道を開く、つまりは現在という時空を切り裂く鮮やかさにこそ示される。
偏見と誹られようと、批評家(創作家と同様に)はこうしたリスクを引き受け率先して、その偏向を代行する。
なぜならば批評はいつも、こうした突発性としてしか遂行されえない、一つの事件であるからである。

■日時/講師
第1回…………
10月21日(火)18:30−21:30
講師=伊藤亜紗/上崎千/柳澤田実

第2回…………
11月4日(火)18:30−21:30
講師=池田剛介/黒瀬陽平/沢山遼

第3回…………
11月18日(火)18:30−21:30
講師=千葉雅也/平倉圭/福嶋亮大

第4回…………
11月30日(日)17:00−20:00
講師=福永信/松井茂/水無田気流
96わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 10:03:19
なんらかのパースペクティブを引きたいってのはあっての企画なんだろうとは思うね
97わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 10:05:21
時間作ってみるか
98わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 12:47:17
ノーテーションってのは直訳すると記譜法とかだが、
この場合どういう定義で使ってるの?
99わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 14:48:54
岡崎が序文で使ってる意味合いを文章で抜粋すると:

「表現形式と技術過程のつながりを読み取るために、本書は特に、
それぞれの表現形式がいかに記録され伝達されているかという、
ジャンルそれぞれの記録、記述方法(ノーテーション)に注目する(注)

 注 あえて単語を探せばノーテーション=記譜法となるが、
 この本では広く図面、構想図なども含まれる」(p.14)

「こうして人は自分のもともと持ってなかった技術を習得し、忘れ、そして再獲得する。
それが技術を学ぶ、持つということである。

しかし自分がいまだ理解しなかったこと、自分の身体がいまだ行なったことのないことを
できるようになるためには、そしてそれを忘れず、何度でも思い起こしくり返すためには、手掛かりが必要である。
対象として持つことができないもの[引用者注 技術]をしっかり把握し、思い起こすための手掛かり。
ゆえに人は手掛かりを求め、それを記し、一種の外的な記憶として保存しようとする。
楽譜や図面、ダイヤグラム。あるいはいたずら書きのように見えるメモ、デッサン。覚え書き。
とらえがたく忘れやすい、つねに出来事として生起するだけで不安定な行為を、
記号化し記録する、こうした外的な記憶を作ることを、広くノーテーション(記譜)と呼んでおこう。
一般的にはノーテーションは音楽の楽譜(スコア)や建築の図面のような指示方法を指す。
しかし、この本では、そうした具体的な記譜のない場合にでも、
技術が習得、継承され反復するところには、必ず、構造としてのノーテーションがあると考える」(p.22)

「ノーテーション(記譜)は技術そのものではない。
それだけでは技術の不安定さを補う外的な補助的手段にすぎないが、
ノーテーション(記譜)によって、人は自分の行為をはじめて客体(オブジェクト)化し、
「技術」として「持つ」ことができるようになるとも言えるだろう。
行為そのものは持つことはできないが楽譜やメモなら持つことができるし、
そのつど起きる出来事がつねに同じものであると確認することもできるのだから。同一性を保証するもの。
ノーテーションは出来事、行為に内在する構造を把握させる。
いいかえればノーテーションによって、はじめて出来事に構造が与えられる。」(pp.22-23)
100わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 15:03:29
「ノーテーションは技術そのものではない。その手段、つまりそれ自身、道具の一種である。
しかし翻れば、この意味で、むしろすべての道具は事物として、それ自体が
ノーテーションの役を果たすことができるのだともいえる。
錆びたナイフはもはや道具としては使えないが、そのナイフの事物としての形態は、
ナイフがいかなる働きを持つのかをまさに客体的構造として示しているからである。

ゆえに人は錆びたナイフをモデルにして新しいナイフを作り出すことができる。
楽譜や図面も基本的には同じである。それらは
対象の構造的同一性を理解しやすくするために参照される、一つの外的な事物なのだ。
ゆえに、この本で使われるノーテーションという語の意味を突き詰めれば、
「技術に構造を与えるための外的な参照物」ということになるだろう。
「技術」とは出来事、行為における同一性の確保であり反復可能性の確保である。
そのつど差異として生成するだけの出来事を構造として把握し、
つねに同一の対象として客体(オブジェクト=物体)的に扱いうるということである。
この構造的同一性はいつでも、外的参照物によって補われている。」(p.23)

※ 抜粋2本目〜4本目は一つなぎの文章

「同じものの確保という意味で技術は、つねに認識に伴われている。
伝達[引用者注 技芸の伝承]の過程で現れるのはこの事実である。
そして認識は、そこで認識される対象の再生産、複製
という行為を前提(先取り)し、それに裏打ちされている。
ゆえに芸術作品を正しく鑑賞することは、必ず芸術作品を制作することに結びつく。

端的に人は、自分が語りなおせるものしか認識しない(あるいは自分がくり返し行なえるものしか認識しない)。
つまり人が「自分が出来る」とみなすことができる行為(技芸)は、
繰り返すことができること、教えることができる事柄だけである。」(pp.25-26)
101わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 15:15:39
「くり返し。再生産。同一なものを同一なものとするのは構造である。
構造は大きさを持たず、特定の時間と場に固定されない。
同一性として、そこで確保されるのは、あくまでも要素と要素の関係、順序、序列(order)である。
この関係さえ維持されれば個別な要素のそれぞれは置きかえ可能だ。
ゆえにそれは持ち運びできるし、他のものへ移しかえることができる。

制作とは、この関係を成立させることであり、認識とはこの関係を把握することだ。
同じ出来事が他の素材、他の人物たちによって、くりかえされる
(ゆえに比喩、比例は構造認識の出発点であったと言うことができる)。
ノーテーションによって記述されるのは、この構造であり、
言いかえれば構造を構造として規定するのはノーテーションである。
くり返せば、ノーテーションとは一つの外的な参照物、つまりそれ自身が一つの事物である。」(p.26)

※ 抜粋5本目〜6本目は一つながりの文章

序文1-2「ノーテーションと歴史」、1-3「プログラムと自由」でふたたび論じられるが、
>>86で取り上げている論立てはこの抜粋までの論旨なので、省略。
102わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 15:31:42
>>86
>道具 / 技術
は、文面に照らして訂正すると(p.20)
道具 / 働き[機能]

かな
103わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 16:06:00
>>100
たぶんジョージ・クブラーの『時のかたち』から影響受けてるんだろうね
http://artstudium.org/2006/session/about.htm
前に確か翻訳が出るって宣伝してたはずだけどどうしたんだろ
104わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 17:01:09
>>103
なるほど、そんな本があったのか。先史研究とか人類学の人かな。

事物の形態による自己再生産の過程とそれを媒介するもの、って感じみたいね。
この議論を補助線に使って強化したのかも。

関係ないけどルロワ=グーラン読みたくなった
105石屋:2008/10/10(金) 17:46:33
これをいったら身も蓋もないのだけれど、出会いだから、本とも。
しかるべき時にしかるべきタイミングで本と出合い、そして読書するということは、
その中を生きる体験なわけで、そんなのしょっちゅうあったら大変で・・・
(以前読んだ本が、年を経て読んでみたら違ったということがだから起こる)
たくさん本を読みはじめると、どうしてもそれ「生きる」のではなく
"情報"として処理する傾向が生まれてしまうと思う。(すくなくとも自分はそう)
本に書かれいることの参照項は、日々の暮らしのなかにあるがゆえに、
日々の暮らしが充実?(なんか他にいいようがあるね、苦笑)していないと
自身の経験からくる感情の強度を読書の最中に絡めていくことが困難に
なっていくかもしれないし、そうでないかもしれない、、いまはわからない、汗。
むろん読書も上に書いたように体験なので、読書をキチンとすることによって、
それが日々に暮らしをより確かなものへ、生きることへ、と環流してくると思う。
すなわち生と読書とが循環し合い、相互を高めていくということですが。

多読の困難は、ひとりの人間がいちどに大勢の人と、キチンと付き合うのは
難しいことに似ていると思う。たくさん本を読むというのは、大勢の生身の
人間とつきあう似た困難とそれと同等の歓びがあり、、
106石屋:2008/10/10(金) 17:48:05
フルヤさんはとてつもなくよい感性を持っているというか、感度が
普通の人(これも他にいいようが、、普通のひとなんていないから、汗)より
高いように感じます。だから、おそらく抽象的な記述に長々つきあうと
ぐったりするはずで、もっと具体的な記述、いわゆる小説的描写と散歩とを
往還することで生きる感じを得たい、実感を得たいと思っている。
(うん、なんか文章ヘンだな、ワンスッテプ抜かしてる、笑)
いや、そんな矮小なレベルではない。
自分よりも世界を支援するために戦っている。
世界を支援することがそのままみずからの生の実感に直結しているとでもいえばいいか。
(メディアに接する度合いと散歩の度合いとは、ある程度比例するのかもしれません。
むろん、そうでないときもあるんだけれど、バランスを取っているということだから
意識的か無意識的に(意識的も無意識的も一緒なわけだけど)。とにもかくにも
自分でもコントロールがきかないすぐれた感性が。
いや、メディアに接する度合いとかそういんでなくて、とにかく歩くことに
憑かれているのだ。(ってご本人も仰っていたか、汗)
センチな意識をからっぽにしたい(さっき意識と無意識とは一緒といっておきながら、汗)、
そして、世界をより強くしたい、、あるく、あるく、あるーっくぅーーーー、失敬。
夢(ほんとうの意味での夢)にかたちをあたえたい。
 といったようなことをフルヤさんの日記の一部を拝読して感じました。
(つねに言葉は「感じ」を裏切るものだけれども)
107石屋:2008/10/10(金) 17:49:10
フルヤさんが、小説に多大の敬意を払っているから、そのことがフルヤの書く物に
溢れているから書評の仕事が来るわけで、、うーん、なんだかナイーブになってきたら
このへんにしときます。(応援してます。近々本買います、、ってこんだけ偉そうな
ことを書いておきながら、まだ『世界へと滲み出す脳』を読んでいない自分って
なーんて不埒、笑)

で、このスレにおられるかたは知識レベルは、石屋よりずっーと優秀なはずで、
本を読んで勉強をするというよりもあとは気持ちの問題だと思います。
まっすぐ伝えるために、どうやって批評言語を屈折させていくかだと。
あくまで力点は前者で、伝わる人にむかって屈折させる必要はないのだろうけれど、、
いるのは切実さだけで。ただ切実ゆえに屈折は深くなるのでありましょう。

(むろん、すべて上のことばは石屋自身に突き刺さっているか・くるわけです)
108石屋:2008/10/10(金) 17:56:12
小島信夫の『うるわしき日々』、ひと月かけて丸々一冊書き写してみました。
普段あまり活字に接しないのですが、なんかすこし元気になりました。
(不眠症で、軽く衰弱していたので、なんとはなしに写経?してみました)
内容は時系列にして憶えることができない。(おぼえることができないのは
あのせいだったせいかもしれない、笑)。ただ、自身のいままでの人生経験と
絡んでくるところはいろいろ考えることができて、日々の暮らしにすこしだけ
環流してきた気がします。まあ、この「感じ」も続けないと忘れてしまうのだろう
けれど。で、またうつうつになるんだろうけど、笑。
こんどは何を書き写してみようかな。『女流』にしようかな。
(これって小説療法か、汗)

パソコンのキーボード入力(ローマ字)を「非宣言的」?に行うことができない
ので(いいわけ、いいわけ)、短文(韻文的、行間いっぱい、プロセスが抜けて
少々ひとつひとつの言葉が暴力的?になりがち)にてすみません。
((小説があのような長さを持つのは、
ひとつには書くことの怖さからきているのだとおもいました。書きしるすこと自体が
回避することのできない特性というか宿命?です。それから、書き手ではなく、
小説がおのずと意志を擡げはじめるのをできうるだけじっくり待機しつついるのだと。
(これは書き手の意志がないということを意味しません。むしろ辛抱強いということで
最大限の意志とも考えることもできましょう。この意志は無意識と意識のあわいに
あるような<意志>とよんでいいかどうかはわからない、ある指向性、資質、経験、記憶(忘却)、、の
ようなものなのかもしれません。
『うるわしき日々』では「ようやく」ということばにしばしば出合いました(辿り着きました)、
やっとここで一休止かと、、ふぅー
三輪俊輔であるところの小島氏、あるいは小島氏であるところの三輪俊介が
<意志>(上のような意味での)を持ち始めるととたんに不穏になる。このとき<意志>を
もっているのは、小説なのか作者なのか、はたまた読者なのか、、宙づりにされる。
ぜんたいが歓歓としてくる。))
109石屋:2008/10/10(金) 17:57:08
結局、こうして短文にて失礼します。おゆるしくだい。
(普段ワープロは親指シフトかな入力にて。パソコンだと、、いいわけ、いいわけ、
『うるわしき日々』の写経はワープロで行ないました。手書きで写したほうが時間は
掛かるが、もっと元気になれたかも。じゃ次は手書きで丸写しか・・・)

おっと独り言ばかり、ブログ(?)でやれって?
<(_ _)>
110石屋:2008/10/10(金) 18:11:14
追伸
長時間、パソコンに向かうとヘンに神経くたびれますね(^_-)
パソコンでものを書かれるなら、本体の性能よりも、モニターの品質を重視して
選んだほうが、おそらくあとあといいようにおもいます。自分は失敗しました。
ノートは昨今、やすくなったぶんでしょうか、モニターの液晶?が粗くて浮くようにみえます。
古いノートのほうが、解像度は低くとも、色がキチンと定着して目が疲れにくかった
気がいたします。(カタログの数値が良くなっていても、9年前より実際の質が
かならずしも良くなっているわけでもなさそうです)
こうしてモニターをみてると1時間くらいでと頭がグワングァ〜ンしてきます。
(手書き入稿も、向こうがOKしてくださるなら将来的には考えても
よいかもしれませぬ。短い文章はパソコンのほうが収めやすいと
いうことはあると思いますが)
あ、それか、ワープロ専用機。
111石屋:2008/10/10(金) 18:20:56
><意志>(上のような意味での)

上、下に訂正させていただきます。

<意志>(上のようなニュアンスでの。ニュアンスという曖昧ないいかたのほうがすこし
近い気がいたします)

112わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 22:12:28
ふるやんとスレ住民のトウキョウソナタ評を読んでみたい
113わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/10(金) 22:16:35
>>112
このスレ読んでるみたいだから書いてくれるんじゃない?
114わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 00:12:42
やっぱり馬鹿だろ

http://d.hatena.ne.jp/eyck/20081010
>その歴史の忘却のスピードは恐るべきで(ジャッドやコスースなどだれも覚えていないのだろうか)、商品のカリカチュアでしかなかったファッショナブルな「アート」は、いまや3流のエンターテイメントとして遇される。
115わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 00:48:35
>>114

美大で絵を描いてた人って大概こんなもんでしょ。
レポートやら、論文やら毎日書かされてたわけではないから、
116わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 00:58:57
優れた画家は文章も上手い
117わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 01:37:44
>>112
これといって黒沢清が嫌いになったとかではないんだが、LOFT、叫あたりからチェックしてない
118わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 01:42:57
>>98
どういう意味? と聞かれて一問一答的に単語で答えることが難しく、
一語で答えたらたぶん何言ってるか伝わらないと思い
(「構造にとっての欠かせない外的参照物であり、時には事物そのもの」と言っても「へ?」って返されそう)、
序文1-1のノーテーションにかかわる主要部分を>>99-101として抜粋した。

見ればわかるように、結構錯綜した話なので、それを一旦まとめなおしたのが>>86になる。
序文読んでないと>>86をいきなり見ても、おそらく呆然とするだろうね。
119わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 01:46:59
>『四基本概念』だけがみつからない。

必ず戻ってくるから探さないで下さいって言ってた

120わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 02:24:04
>>117
LOFTも叫も本の中でちゃんと分量割いて書いてるよ
あといつかの日記でトウキョウソナタも観に行きたいけど忙しくて観に行けないみたいなこと書いてたよ
121わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 02:26:06
いや、古谷のこと言ったんじゃなくてね。古谷はきっとチェックしてるんだろうと思う。
>>112は住人の評についても言ってたので、僭越ながら住人の一人として言っただけ。
生暖かくスルーしてw
122わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 03:25:17
ttp://d.hatena.ne.jp/eyck/200809
前川國男に関する記述に事実のレベルで間違いがある。
自分は図面も見たし、江戸東京たてもの園のガイドのひとにも話しをきいている。
大工がみたらこのひと何?ってことになるよ(親戚に大工がいるのだけど)、、

資材不足で柱に電柱をつかっているとか、
>寺社建築のような丸柱
あのさー、資材不足のなか電柱にしたのだけど、電柱にはタール(墨)があらかじめ
塗ってあって腐らないから実用的なんだよ。
採光を大きくとるために >丸柱 の奧の雨戸はいったん引いてから、観音開きになるように
前川は工夫しているんだけど、こうしたところをきちんとみないと。

端的に、もっとも前川が腐心したのは、デザインや理念でなくて実用性。生活しやすさ。
>太平洋戦争中の統制下に立てられたという与件
この予件というより、条件が具体的にどのようなものだったのかこのひとは知っているの
だろうか。

123わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 03:35:13
その上で限られた建坪で前川がいかに暮らしやすさ=生活導線を意識して設計したのか
そんな基本的なことも知らないのだろうか。?
キッチン窓の位置とテーブルの場所、形態、テーブルに備えてある椅子の位置とか。
(↑生活導線は前川邸の基本でしょう)。こうしたものを実際、座ったり歩いたりして
確かめたのだろうか?
さらに実用プラス、テーブルは2人が並んで腰掛けても、2人とも外の庭がみれるように
あのフォルムにしてある。
あと、実際に玄関に腰掛けてみて、庭の方に目をやったりしなかったのだろうか。
玄関に腰掛けたとき、外からは見えずらく(防犯上ガードが堅く)、それでいて庭がみえるように
ある石の配置や切り抜きとかさ。ほかにも具体的にいろいろあるんだけど、書くの
億劫だから、汗。
あの建物はデザインは二の次だよ〜。
実際生活すると(おそらく)おどろくほど居心地がいいいはずで。デザインばかりみないで、
そこでどのように人々が実際に暮らしていたのか、、そんなことも想像できないのかな。
(いままでどんな家で生活してきたんだよ〜)

>前川なりの「近代の超克」の意志を見る方が自然だ。
アホらしくてつきあってられない。
が、文章のことは、普段文章を書かれている方におまかせいたします。
                                         
さきほどは無礼な文章、フルヤさんすみません。<(_ _)>

                                       石屋@さようなら
124わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 03:53:11
言っちゃなんだけど、永瀬は建築に関してはど素人で、
空間設計を映画のショットみたいに見て、ここは狭い、ここは広い、そのリズムは何か、
とか考えてるだけだったり、それを象徴読解でバランスとってる(つもり)で終了してて、
機能面の設計との兼ね合いとかろくに考えてないんだろう。
(岡崎のローエ建築の読解の、悪しき劣化というか)

逆に言うと、どこで息切れしてるのかがすぐわかる。
第二段落
柱→「太平洋戦争中の統制下」の象徴性、いや、同時に合理主義的な設計にもなっているから
   反時代的なのだ という転倒というか、一人相撲というか。
変にvisibleに読解していて、建築物の構成要素が
機能や実用諸問題などと絡まざるを得ないってのを落としてる。

第三段落
プライベート/公共的な部屋の切り替え、隣接関係。まあこれは前川にかぎらずある側面。
ここで「それぞれの空間にいる「人間」は同じでも、「関係」は異なる」と言ってるのは、
関係論になっているかのようでありながら、実は空間規定が関係に反映されるという
議論になってるので、実は単純な実体論になってるんだよね。
部屋内の事物とかそこでの使用傾向などの事態(つまり媒介してるものだけど)を捨てすぎ。

部屋見た→想像した→人がいる情景を想像して、「しかしおそらくトーンが違ってくるんだろう」と見なし、
いわば想像したシーンの意味合いを変形する ・・・で終わってると言うか、「それで楽しくなって」思考がとまってる。

第四段落
狭さ/広さ 「狭さが複数のスタッフの共同性を高めるようなイメージが持てる」という文章に顕著なように、
単にイメージに摩り替わってる。使い方と絡めて考えないと駄目。
狭い/広いは、直接に関係性、共同性を準備しない。
「細かく作り付けられた押し入れの棚の、こまごましいグリッドは密やかな所作を想像させる。」も顕著だけどね。

まあ、想像の共同体ならぬ、「想像された建築空間」とでもいうかな…。
想像する=読解する が永瀬のこの日記の目的の終止点になっちゃってるんだろう。
映画空間の分析みたいで、その意味では読めるけど、逆に言うとそういうものでしかない。
125わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:00:09
ちょっと間違えた。
>(岡崎のローエ建築の読解の、悪しき劣化というか)
ローエじゃなくて、アドルフ・ロース読解の方だった。

第五段落以降は、読む気になれなかったので、コメント省略。
126わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:11:41
これは、彫刻、あるいは空間彫刻としてのその延長としての空間読解や
表象を象徴読解するアプローチの二つで、とりあえず完結できるジャンルがあるとして、
他方でヴァナキュラーな(俗語的な)・・・機能、実用諸問題と空間、表象がどうしても混ざってしまう
ジャンルとしての建築、という対比になると思うんだけど、

岡崎に欠けているというか、やりにくくなってるのは、たとえば小説読解なんじゃないかと思う。
古谷が説話的なものについてはラカンの三界を特に持ち込んでいるのは、
岡崎理論では説話作品分析がやりにくい、というのをなんとなく察知しているからなんじゃないかな。

美術手帖8月号の文章と色彩を、岡崎流の「イメージ」でもって横断させる議論は、
裏面から見ると、これって小説の描写話法には適用できない方法なんじゃないかと思えた。
小説の描写だと、岡崎流の「イメージ」(項の関係を詩的言語で対応させるようなもの)に飛躍できないような。
そのため、選出テキストはかなり厳選されたものになってる。

まあ、これは一旦大きく迂回するような議論を経ると、岡崎的な「イメージ」を見出せるかもしれないけど、
直接適用は難しいんじゃないかな。
127わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:12:09
>>115
そうじゃなくてジャッドやコスースが忘却されることなんかあり得ないってことね
128わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:15:05
とりあえず永瀬は子育て頑張れw
石屋さんが言うところの無意識の備給源になる
129わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:18:18
>>127
10月10日の日記第三段落の言う「現代美術」って、無闇に一般化されてて、
どういう作家のどういう作品などをはじめとするどういう潮流のことを言ってるのかさっぱり不明確なままに、
ただひたすら一般化された規定になってるよね。
忘却とずさんさは永瀬自身ですね、と即座に言い返したくなる。

他の段落も、詩的言語みたいな修辞に頼りすぎた内観(気分)の記述みたいになってて、
相手にする必要を感じないな。「日記だからいいじゃないの」という言い訳がはじめから用意されてるような文だ。
130わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:27:09
>>129
いや、具体的にジャッドとコスースを名指してるから墓穴掘ってる
評価しない人は出てもミニマルとコンセプチュアルが美術史から抹消されるとかあり得ん
歴史を舐めすぎ
131わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:30:48
>>130
墓穴掘ってるのは同意だね。
あそこの文章になっていきなり、「美術館に来る人ってジャッドとか知ってるのかなあ」
みたいな、理想的観客がいないとかいった愚痴ヨタ話になったようにすらおもた
132わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:37:42
>>131
頭でっかちな美術論を叩いているつもりらしいが、
相当観念的な美術論でも出てくる名前しか出せないあたりが
133わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:42:45
>>132
ああ、そういう意味で読んだのか。意地悪だなあw
そのぐらいの無知なんじゃないの、と言ってしまいたくなる気持ちはわからんでもないけど、
実際のところ、日記ってやっぱり「誰でも知ってるよ」って作家ぐらいしか触れられないの?

ああ、そうじゃなくて、美術史・言説史に残っている作家として
いきなりジャッドほどの超有名人が出てきて、
もうちょっと知られてない作家たちが出てこないというバランスが気になったのかな。
134わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 04:49:18
>>133
英語が読めないとしても、もう少し新しい作家が出てくるべきでしょう
本当にモダニズムのハードコア熟読系なんじゃないかと
コスースインタビューも載ってたし
135わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 08:07:14
まあ、セザンヌやマティスよりは新しいんじゃない?
136わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 11:01:58
だなw
永瀬はがんばったよ
137123:2008/10/11(土) 11:49:31
昨夜はすこし、短気になりすぎました。永瀬さま、すみません。

炭は墨になってるし、文章がざつ、汗。
(ラカンとか岡崎乾二郎?とか読んだことなくて、
皆様のいっていることをうまく理解できていない気がします)

さようなら と言い捨てるようなのも反省しています。
パソコンの前に長時間いるのは自分の性にあっていない
ようなので、たまに来ます。(どうもパソコンに向かうとイライラ
しがち、画面に向かうと相手の顔が見えないことをいいことに
八つ当たりモードか微妙な内面告白になってるかも)

124さま勉強になります。m(__)m
138わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 11:54:58
>>137
>パソコンの前に長時間いるのは自分の性にあっていない
ようなので、たまに来ます。

そういう風に体質を言い訳にするのは、
正直今日のエントリーの古谷さんの

>ぼくは、絵具によって塗られた鮮やかな黄緑色にかなり弱い。
>勿論、木の葉や草などの自然のなかにある黄緑色は平気と言うか大好きなのだが、絵具の黄緑色には拒否反応を起こしてしまうのだ。

これと一緒で、自分の特権的な身体を誇ってるみたいなのでちょっとアレですよ
139わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/11(土) 12:09:18
ま、物書きならそういうのは最大限に売りにするべきですけどね
140わたしはダリ?名無しさん?
永瀬の批評は、作品を視覚的なみかけで判断しているので、実際にはポストモダン的な態度だと思う。