WHO IS 東洲斎写楽?

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567阿波の十郎兵衛
能役者というのは、士分なんですよ。
能というのは、江戸時代、武士のたしなみとしてありました。
というのは、江戸のはじめ、全国各地の方言で話していると、意志の疎通ができない
というので、いわゆる。(・・・・にて候。)とかの能の話し言葉を、基本にして会話をする
ことになったわけです。そして幕府が能を奨励したのです。

阿波藩だけで十人余り能役者が居たようですから、全国では数百人以上居たのではないでしょうか。
それだけ今は能役者いませんね。
568阿波の十郎兵衛:2009/01/13(火) 01:39:14
そうそう。NHKハイビジョンで話していた。非番にあたる年、というのは蜂須賀公が
参勤交代で国元に帰っていたので、非番というもので、確率的にたいした確率ではありませんが、
私が、先に話した(喜多流の成立と展開)は、まだ世間では知られていないはずです。
著者の表さんも気づいていなかった事実です。
569阿波の十郎兵衛:2009/01/13(火) 01:51:37
当時は、寛政の改革の真ただなかで、遊興をつつしんでいた、特に武士はそうで、
たとえば、朋誠堂喜三二(ペンネーム)は、武士でありながら黄表紙を書いていて、藩主からきつい御咎めがあった。
十郎兵衛の一族は二家御家人にとりたてられている(能の大好きだった綱吉の時代から)ので、
下手(根も葉もないこと)なことは本(浮世絵類考)には書けなかったと思います。
570わたしはダリ?名無しさん?:2009/01/15(木) 19:36:03
DA.KA.RA. 写楽が消えてから約50年後に浮世絵類考に
阿波の能役者 斎藤十郎兵衛と書くことが出来たんじゃないの?。
571阿波の十郎兵衛:2009/01/16(金) 01:11:59
570の件
その通りだと思います。

久々に、写楽関係の記事をネットで調べてみましたが。

法光寺過去帳から、斎藤家が地図にある地蔵橋に住み始めたのは寛政12年以降と勘違いしているケースが多いようですね。
寛政12年、親である与右衛門が阿波藩邸内で亡くなっていてるので、斎藤家は阿波藩邸内に住んでいた。
としていますが、

阿波藩の寛政4年の無足以下分限帳に、与右衛門(江戸詰)十郎兵衛(江戸住)となっています。
父と子は、それぞれ別に暮らしていたようです。