1 :
catt ◆nKX.ore.zA :
【仮説】
1.作家は、自分の表現を、他者の視点から冷静に検証することで
はじめてオリジナリティーを獲得する。
2.観客は表現されたものを見る時、他者の目を持つとき、その
表現されたものを一層深く理解できる。
3.作家を知ることでその作品に対する理解が深まると考えるのは
作品表現を理解できない言い訳である
とかいうことを考察するスレです。またーりのんびり。
2 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/08 13:35
2
3 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/08 14:05
なんか、あらかじめ誘導したがってるスレだな
4 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/08 15:10
cattの仮説、
正しいのは3の「作家を知ることでその作品に対する理解が深まる」ここのみ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
8 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/03/08 17:31
表現って、どうしても、「言いたい事を、言う、伝える」ってゆうニュアンスに
感じてしまう自分は、「表現」という、流通している言葉より、
「行為」と、したほうが、自分的にしっくりきますね。
1.作家は、自分の行為を、他者の視点から冷静に検証することで
はじめてオリジナリティーを獲得する。
2.観客は表現されたものを見る時、他者の目を持つとき、その
行為、されたものを一層深く理解できる。
3.作家を知ることでその作品に対する理解が深まると考えるのは
作る行為を理解できない言い訳である
えらそうで、すまん。
10 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/03/08 18:24
>>9 何のための「行為」かといえば「表現」するためなんだろうけどな。
>「表現」という、流通している言葉より
んー、「行為」が「流通している言葉ではない」と考えるのか?
いまいち、わかりなくいな。
いや、本筋とそれるかもしれないんで、そんなに、大仰なことではないんだけど(汗)。
「表現」って、意志の強さが、すごい感じるじゃん?
でも、ものつくるときって、理由が、ハッキリしないうちに、もくもくと
カンバスに向かっていたりしてさ。で、後で、何がしたかったのか
わかる場合ってない?
「表現」って、ものつくる時に、普通、なにげに、使う(流通)けど、
「行為」ってのは、表現の言葉のかわりとして使わないでしょ。
でも「行為」って、もっと、本能的とか、原始的っぽくて、
ぼくには、しっくりくるんだな。
13 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/03/08 23:25
>>12 >でも「行為」って、もっと、本能的とか、原始的っぽくて、
おれの知り合い作家で、
「日が昇ったら制作をはじめて、日が暮れるまで作り続ける、百姓のような
作家になりたい」と言ったやつがいた。自然体でものを作り続けたいと
いうような意味だったと思う。奇抜という言葉の反対だな。
「行為」って、80年代の肉体表現系作家は普通に使っていたから、ある意味
陳腐化しているんだが、今だとかえって新しいのかもしれないな。
とりとめのないレスですまん。
13
まさにそーゆう感じ。
ところで、「他者の目、視点」というのは、真面目にものづくりしている人に
とっては、実感するところだし、経験あると思うけど、
こと2(3)において、観客が、「他者の目になる」とは、その人(観客)に
とってみたら、抽象的すぎない?
15 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/03/09 00:25
>>14 そうか?
昔から「美は、それを見るものの目に宿る」と言われている。
「それ」が自然物の場合は他者の目など不要かも知れない。でも作品表現が
「自分以外の美意識」をものさしとして作られている以上、他者の目を
持つ=他者の美意識を感じ取れるときに一層深く理解できるというような仮説なんだが。
むむ〜。ちと難しく聞こえるが、。
それって、ぼく側の言葉を使うと、皆、個人個人の「フィルター」みたいなのを持ってて
それを通して、ある対象を、見て、美を感じるわけだから、美は、その同じような、フィルターで、
対象を、みようとすることが、他者の目(フィルター)を持つってことでOK?
そうなると、その目線ってのは、わかるんだけど、
自分に、ない目線を、どう、持つことができる?
他人の気持ちになるのは、ムヅカシイ事だし。
17 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/09 01:11
難しい事。そう。ですが、学問のありがたみを感じる時でも有るね。
18 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/03/09 02:11
>>16 たとえば料理人は料理の味を通して表現する。むろん器や盛りつけもだけど。
「味覚」には文化圏ごとの「旨さ」がある。おれは米がない国じゃストレスが溜まる。
「甘い・苦い・辛い」だって土地ごとに基準が変わる。
「他者」を広げて考えれば「文化」であり「環境」であり「社会」でもある。
そしてそれらが作り手・受け手の「感性」に大きく影響する。
>個人個人の「フィルター」
と
>他者の目(フィルター)
を区別して認識することが表現を深く理解することへの鍵だと思うぞ。
>自分に、ない目線を、どう、持つことができる?
持てるさ。
>>17 そうだね。
18>それは、ぼくも常日頃思ってる。
初めは、「他者」という言葉をぼくも、使って個人的に納得してたけど、
でも、自分に正直になって、自問自答してたら、「他人の気持ち」を推し量ることは
出来ても、それは、あくまで、「自分の主観」で、「他人の気持ち」を想像すること
でしかない。それは、結局「他人の気持ち」=「自分の気持ち」なんだと
実感したんだ。(いろいろ体験すると、解釈を少し斜めに見たくなる、、)
>「他者」を広げて考えれば「文化」であり「環境」であり「社会」でもある。
>そしてそれらが作り手・受け手の「感性」に大きく影響する。
それは、「共有する感覚部分」という事で考えれば、「自己を見つめ直す」ことだ。
ある行為に共感する為には、鑑賞者は、制作者のその行為の元(裏)になる動機に
共感しないと感動できない。
鑑賞者は、常に受動的(エゴで見る)だから、
制作者は、
鑑賞者に、「他者の目」を促す(ある意味、強要)のではなく
鑑賞者に、常日頃、(無意識にしても)抱いている時代のムードに、対する欠乏感
を気付かせる、、としたほうが、ぼく側としては正直なとこかと。
違う例えをすれば、表現(行為、アートひっくるめて)ってのは、時に、鑑賞者を逆なでしたりもするし
でも、それを自分に正直に見れば、身近な親しみあることだったり、自己の有り様でいろいろ
揺さぶってくる。(のが、いい作品と)
(^^)
21 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/13 23:09
age
22 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/04/02 08:56
age
23 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/04/04 01:11
>>19 良い線行ってるね。
「自己と他己」の境目にこそ答えは見え隠れする。
>鑑賞者に、常日頃、(無意識にしても)抱いている時代のムードに、対する欠乏感
>を気付かせる、、としたほうが、ぼく側としては正直なとこかと。
>違う例えをすれば、表現(行為、アートひっくるめて)ってのは、時に、鑑賞者を逆なでしたりもするし
>でも、それを自分に正直に見れば、身近な親しみあることだったり、自己の有り様でいろいろ
>揺さぶってくる。(のが、いい作品と)
もっと内側を見てみないか?
例えは悪いかも知れないが「人は自分の顔を鏡でしか見られないという事実」。
24 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/04/04 01:46
断片的な観念をつなぎ合わせたような議論で、ポイントがわかりません。
>「自己と他己」の境目にこそ答えは見え隠れする。
ここらへんがいいたい事だと思うんだけど、かっこいいフレーズより
柔軟な考察を御願いします。
25 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/04/04 06:32
ちょっとわかりづらい。1の文章にある「他者」とはどのようなものを
指しているのか?
自分を円心としない別の円を想定することを試みることなのか、自分の
円を非日常的なぐらいに広げている状態を他者と例えているのか。
仮定と決めたからには誤解を防ぐために、ここを自分なりに定義してから
にしてほしい。そもそも1の仮定が仮定と言えども、いろいろ解釈できて
しまう状態にあるのでもうちょっときちんと説明してほしい。
26 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/04/13 13:17
>>24 じゃ、なんか投げてみて。打ってみるから。
>>25 「他者」を定義付けるところから始めた方が良くないか?
>自分を円心としない別の円を想定することを試みることなのか、自分の
円を非日常的なぐらいに広げている状態を他者と例えているのか。
ちょっとア・プリオリな言葉遊びだな。
とりあえず「自分を円心としない」の「自分」と「円心」が分かりづらくないかい?
(^^)
28 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/04/17 21:49
あげ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
30 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/04/30 02:54
虹は見る人種によって色の数が変わります。
皆同じ構造の目を持っていますが、
色を認識するときに、
色の概念がないと認識されず、
その結果色の数に差が生まれるそうです。
共通の概念を通した表現は正しく認識され、
正当な解釈が可能です。
一個人独自の概念による表現は
正しく認識する事が不可能であるといえます。
それぞれの認識の理解を深める方法は無数にありますが、
全て個人的な解釈、曲解にとどまります。
真理を得た者がそれを用いて
表現を行ったときのみ
真の表現が成立します。
皆さん、まずは解脱からはじめませう。
32 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/05/23 00:14
あげ
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
34 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/06/06 12:49
>>30 虹は見る人種によって色の数が変わります。
皆同じ構造の目を持っていますが、
色を認識するときに、
色の概念がないと認識されず、
その結果色の数に差が生まれるそうです。
それ、言える色の数が違うだけじゃん・・
35 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/06/08 22:30
あげ
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
38 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/15 16:55
39 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/16 11:45
言論に始終してみたところでもともと表現であるとか行為なんてものは
そもそも主観の塊であるはずなのだから、それを言葉で弄したところで
何もならないとおもうがどうか?。
少なくても自分にとって表現というものはどのような媒体を使ったところで
他者の目などというものは気にしない、というより気にすることは出来ない。
つまり作品や表現は俺のその瞬間に生きたということの抜け殻でしかない。
しかしその抜け殻をいいといってくれる人もいって、それは否定もしない。
つまりその作品や表現はすでに自分のものではなく、その評価してくれた人
のものになる。だから煮るなり焼くなりすればいいと思う。俺にはまったく
関係ない。
芸術ってそんなものだとおもうが?。如何?。
40 :
黒の騎士 ◆OFYDhZ.qY. :03/07/16 11:46
ごめんハンドル入れ忘れた。上は俺な。
41 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/16 15:12
>39
たしかに作品のリアリティ−って訪れたり去ったりするよね。
鑑賞者側からすると作品に感動したとき、他人の作ったものなのになんでこんなに共鳴す
るんだ?っていう不思議さを感じると思う。まして同じ作品を多数の人が美しいと評価し
たような場合、他人も自分と同じものを見て、感じているのでは?という確信めいたもの
を感じる。しかし作者の感じたこと、自分の感じたこと、他の鑑賞者が感じたことが同一
であると証明する手段はない…。そのへんのつかみどころのなさがおれが芸術に惹かれる
理由です。
42 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/07/17 01:14
>>39 >もともと表現であるとか行為なんてものはそもそも主観の塊であるはず
それは誰から見て「主観の塊」なんだ?
「あるはず」ってのが妙に笑わせるが。
>俺にはまったく関係ない。
ふーn
>>41 作者の理解と鑑賞者の理解は、極めて近似値になることもあるが希だね。
それよりも作家が「表現したいけど表現できていない」ところに
鑑賞者として共感することの方が多いかも知れない俺の場合は。
43 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/17 02:28
あいかわらずだな黒の騎士
救いがたい自意識過剰っぷり
堪能させてもらったよ
44 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/17 08:13
43 いや39は良いこと言ってると思うけど。
45 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/17 08:48
46 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/17 11:04
>45
何語だ、そりゃあ?
単に差別的に暗黒風俗で脅して見せたようなひっどいスレ浄化!=47
48 :
黒の騎士 ◆OFYDhZ.qY. :03/07/18 11:45
>42
おろおろ。おれcatさんの擁護派なのにw。
>それは誰から見て「主観の塊」なんだ?
少なくてもこれが幻想。どんな人でも客観的に作品を作ろうと思った
ところでそれは主観の塊に過ぎないんだよ。
例えば人の指示で絵を描いている人がいたとするわな。で「目は
こうしてくれ、鼻はこうしてくれ。」といろいろと注文してきた
として、それを描こうとするわな。でも描く本人が注文してきた
本人で無いんだからそれはどうしたって主観の上でしか描けないん
だよ。
つまり人間というのは生きている以上主観に左右されないなんて
ことがあるはず無いんだよ。客観的であろうとするのも、それまた
客観的であろうとする主観のなせる業なんだよ。
49 :
黒の騎士 ◆OFYDhZ.qY. :03/07/18 11:45
そのようなことを考えた上で・・・
最近の画家っつーか表現者ってのは粒が小さいというかつまんねー奴
多いと思うな。特にここの板読んでるとそうおもうよ。なんか「売れ
なければ画家とはいえない。」みたいなこと平気でいってみたりしてさ。
まあそれで食っていくのは大変なことだからその気持ちって誰だって
多少は持って入るんだけどさ。逆に俺はこれが理解されないんだったら
食い詰めてもしょうがないって意識を持った奴いないのかな?っておも
うよ。あのkumaさんっているだろ?。鉄の芸術家って自称の。あの人の
作品云々は抜きにして「芸術は覚悟の問題だ。そのためには場合によっては
2,3食飯が食えなくてもいい。またそれが出来るのは一種の才能だ。」
って公言しているけど、これなんかは俺実感としてよく理解できる。
それぐらい芸術って自分の生活から切り離せない存在だし、自分の存在
を示す為に飯が食えなく鳴るぐらい切羽詰るってことはよくあること
だとおもう。
別に飯を食うことが悪いといってるんじゃない。どんな表現でもその覚悟
や意識がなければうそだといってるんだな。
大荒れ必至w。
50 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/18 18:36
>最近の画家っつーか表現者ってのは粒が小さいというかつまんねー奴
>多いと思うな
どの時期のどういうアーティストと比べてるの?
心意気どうのこうのと言う事も大切だがもっと自分の表現に対しての
責任を背負えているかということがもっと大切なのでは?
そのリスクの有無でそのアーティストの価値はされるべきだとおもうのだが。
51 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/19 18:10
考察することは時間の無駄。
なにやってんの君ら
52 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/19 18:36
何が大荒れ必至w だ
53 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/31 05:40
美しい表現と言う事について考える。
本当に美しい表現とは一体何か。
人を幸せにする表現は美しいそして幸福に満ち溢れている。
人を不幸にする表現に美学を見出す事をするとこれは悲しい。
幸福的信念は幸福を呼ぶ。
恐怖は更なる恐怖な出来事を呼ぶ。
人が皆幸福であったら素晴らしいと思う。
55 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/07/31 07:57
大切な事を伝えたい時の表現は大切な方法で表現しましょう。
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
57 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/08/02 18:20
>>39 :わたしはダリ?名無しさん? :03/07/16 11:45
言論に始終してみたところでもともと表現であるとか行為なんてものは
そもそも主観の塊であるはずなのだから、
これはほぼ完全に間違い。
ひとつに「殺人」が芸術表現では有り得ない。それなら世界は地獄となる。
>>9 をもっと[厳密に、できる限り美しく]書き直してみたい。
1.作家の造形した芸術は、作家自身の芸術的行為の意味を
他者の視点からも冷静に判断することで、はじめてリアリティを獲得する。
2.観客が表現された作品を見る場合、冷静に他者の視点をも意識することで
その実現された作品を一層深く理解し、深く感動できる。
3.作家の人生を知ることで彼の芸術に対するより完全な理解が可能だ
と決め付ける傾向は、創造行為(芸術)に対する無理解の程度に依存する。
例を出す。
1―ポロック、「アクションペインティング」
2―ウォーホル、「コピーアート(キャンベルスープ缶の絵)」
3―『コンセプチュアルアート』より『ゴッホ』を芸術的に評価する大衆
61 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/08/02 20:44
うん
どうも黒木氏はメンタリティの話に偏り過ぎるな。
それでさ、葛藤が見えないんだよ
すげーきれいごとっぽく俺には聞こえる。
つまり作品や表現は俺のその瞬間に生きたということの抜け殻でしかない。
> しかしその抜け殻をいいといってくれる人もいって、それは否定もしない。
つまりその作品や表現はすでに自分のものではなく、その評価してくれた人
のものになる。だから煮るなり焼くなりすればいいと思う。俺にはまったく
関係ない。
作ったら作りっぱなしですか?
自己陶酔してるだけって思うんだけど。
なんだかな、上手く言葉に出来ないけど、黒木氏は違うと思う。
日本人には洋画は所詮借り物で、歴史もないから、こういう
無責任な態度でも良いと思うやつが出てくると思うんだが。
欧米の作家はもっと自分を歴史の中に位置づけて考えるので、
こんな瞬間だけみたいなせつな的、無責任な態度ではマトモな
作家として相手にされない、様な気がする。経験がないから洞察するだけだけど。
61、>の位置がずれて分かりにくかった、ご免。
正しくは5行目「つまり、、」につく。
63 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/08/02 21:13
>63
すまん
黒騎士のこと
66 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/08/04 18:12
このごろ文芸、評論、絵画の分野で
実作者を「表現者」と言い表わす人が多いね
この言葉は「感性」と同様何故か無反省に
使われているように思えるのだが。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
69 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/10/18 17:13
>>66 その言葉自体は80年代前半から普通に使われていたよ
70 :
黒の騎士 ◆OFYDhZ.qY. :03/10/19 18:58
>>61 どうも俺は「他者の視点」ってのがうそっぽく感じるんだよな。
大体自分が社会と共有の価値観を持っているなんて考えているほうが
幻想なんだと思う。「作ったら作りっぱなし」大いに結構だと思うけど。
というより俺なんかは逆に「作ったら壊す」ってのが実感として
感じるけど。それじゃ商売にならんだろって?。
うんならないねw。
過去を否定し常に前進するなんてそんな単純なものじゃない。そういう
衝動があるんだ。まあ実際は作ったそばから壊していくなんてことは
ないんだけど、それほどどうでもいいものという気がする。
以前俺は篠原ウシオがアンデパンダン展に出品した作品を会期が終わったら
壊していったという話を聞いて衝撃を受けた。うまくいえないけどなんか
こう切羽詰ったものを感じるんだ。もったいないとか馬鹿だという話は
痛いほど判るけど、そうせざるを得なかった彼の気持ちというのはなんとなく
伝わってくる。「芸術家というのは孤独だなあ。」と。
だから俺は芸術の他者性とか他者の視点というのは信じられない。共通の
価値観というものも信じられない。俺は自分の信じる道しか進むことが
できない。もし自分が殺人に究極の芸術性を見たらやるかもしれない
>>59。
それほど切羽詰ったものだし、なんというか絶対的な何かだと思う。
またそれほどの思いつめたものでないと俺は感動できない。
俺は変か?。まあ変でもよろしい。
>70
あなたがどんな人かなんて誰も関心ないんだよ。
ここは芸術作品で自己を表現しようと言う人の集まる場だから。
そう言う意見を作品で表現できなければただのゴミさ。
72 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/10/20 14:06
cattさんはもういないの?
戻ってきてよ。
>>71 相手にしないで。
無視でいいんですよ。みんなそうしてる。
74 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/11/01 13:22
>>73 リンク読まずにカキコ。
表現が第三者的な視点を持つことの必要性がちょっとあったりする。
75 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/11/01 16:08
76 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/11/05 23:25
あげ
ひさびさ戻ってきたけれど、観念的なスレなのに地味にのびてますねー。
ぼくも、はじめ9(半年前!)あたりから、言っていたけれど、
「他者の視点は、自分の視点として同一なものになりえない」っていう
刹那的なところからあえて、共通認識とか、共感は出来るのか?
というところがないと、表現だろうと、行為者だろうと、発表する事自体
すごく暴力的になりかねない。という視点です。
黒騎士氏の「結局は、主観の問題でしかない」という点では、普通に、同感です。
あと、社会の文化や、共通認識、共通概念、通念を無視しては、やっていけないと
いうのは、日本の現代美術の現状と西欧の本場現代美術の認識のズレを見れば
よくわかる、というか反面教師として考えられるはずだけど、
皮肉にも、アーティストが、表現の「社会的責任」の必要性を訴えている人ほど、
アートという出発点自体から、自分の足元をかえりみていない場合が
多いと思う。
つまり、アートが、日本に根付きにくいのは、誰のせいなのか、と。
78 :
黒の騎士 ◆OFYDhZ.qY. :03/11/09 17:56
>「他者の視点は、自分の視点として同一なものになりえない」っていう
>刹那的なところからあえて、共通認識とか、共感は出来るのか?
>というところがないと、表現だろうと、行為者だろうと、発表する事自体
>すごく暴力的になりかねない。という視点です。
表現ということを純粋に考えた場合、他者との共通認識は幻想かもしれないと
思っていたとしても、もしかするとという一縷の望みをたどるのが表現者と
いうものでしょう。でないと多分表現なんてやってられないと思う。誰でも
いいから誰かにわかってもらいたいとは思っているのかも?。だから作品を
出し続けると。
ただそれは人によっては危ういバランスの上で成り立っているともいえる
でしょう。絶望的ながら藁をもすがる想いだったり、又逆に楽観的に他者と
積極的に握手をしようとする人もいるということでしょうか?。
結局そこらへんはさじ加減と言うかその人の持つパーソナリティーということ
になるんでしょうね。そこらへんのことを考えるとやっぱり自分は前者という
ことになるのかな?。絶望的でありながらやっぱり望みは捨てられないという
ことなんだろうな。
79 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/11/09 19:46
>>77 「表現」っていうけど制作って別に自分のことを他者に表現するっていう
のとはちょっと違う感じですよね。自分の作ったもの自体がちょっと自分
にとって他者みたいなものだったりするし。そういう意味でひろさんが表
現っていう言い方に抵抗を感じたのはすこしわかる気がする。
作品を他者の目をもって見る必要があるっていうよりも、すでに作品って
いうのは自分の視点では収まりきらないもの、そこにおいて自分の視点と
他者の視点が(共有にせよ対立にせよ)出会わざるおえないような構造を
もっているという感じがします。そういう作品や制作というもののもつ不
思議な構造について考えてみれば、自分→他者っていうなんか単純な図式
とは違った見方がでてくるんじゃないでしょうか。
77氏が言ったみたいに、確かに自分自身の行動すら、
過去の自分の行動の動機すらはっきり理解できないことが多いのに
主観も、他者の視点も無力かもしれない。
ただちょっと、77の後半でいったのは、
アーティストが、鑑賞者に対して、「作品を好き嫌いのレベルではなく、
より深く理解するには、他者の視点をもちましょう」と言い出す時、
圧倒的に、他者=作者を前提にして発言していたりする。
基本的に、鑑賞者は、解釈する自由が確保されなければ、いけないと思う。
社会とつながりを求める態度が、アーティストに必要不可欠だというなら
すでに、アートという思考システム自体に、無批判にのっかって、見る人に
他者の視点をもとめるというのは、そもそも立脚点が違うんじゃないかなーと
いったまでなんです。
訂正
×77氏が言ったみたいに、
○79
>>80 同感です。
というか他者というのを逆の方向から見ていたみたいです。
たとえば「自分の作品は他者が自由にどのように見てもかまわない、
そのどれもが正しい見方なんだ」なんて言い方をする人がいるけど、
それは結局のところ作者としての立場を安全で特権的な場所に回避させるこ
とにしかならない。つまり「私はどんな観者の視点も許容するほど広い視野
を持っているんですよ」とかね。でも実際に重要なのは作品において作者の
見方すら他の観者の見方とともに相対化されざるおえない、ということ。
そこにおいてすべての見方をメタレヴェルから眺めるような超越的な視点な
んてありえない。そこに他者というものが入ってくる可能性があるはずなの
にいつの間にかそれが何か超越的、メタ的なものにすり替えられててしまうと
いうことがあるような気がします。
83 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/11/10 01:21
おれは昔、「我々は半分死んでいる」という逆説的な文章を書いたことがある。
それは、「自」を強く意識しながら生活している部分以外の時間を表現しようとして
文字にしたものだった。つまり「生きている=自分という生命を実感している状態」
という概念で、それ以外の時間を「死んでいる」という言葉で置き換えたものだった。
>>77 >つまり、アートが、日本に根付きにくいのは、誰のせいなのか
おれたちのせいだろ。
>>78 >表現ということを純粋に考えた場合、他者との共通認識は幻想かもしれないと
思っていたとしても、もしかするとという一縷の望みをたどるのが表現者と
いうものでしょう。
えらく消極的だなおい。
秀でた過去の作家達は、常にあるカリスマ牲を持っていただろ?
>>82 >たとえば「自分の作品は他者が自由にどのように見てもかまわない、
そのどれもが正しい見方なんだ」なんて言い方をする人がいるけど、
それは結局のところ作者としての立場を安全で特権的な場所に回避させるこ
とにしかならない。
それは表現者ではないだろ。
「おれの作品が分からない?ふっ、可哀想な奴。」が正しい。
>79作品において作者の
見方すら他の観者の見方とともに相対化されざるおえない、ということ。
その相対化ってことをもう少し、お聞かせ願えれば、、。
それが、すごい簡単そうでいて、難しい所かもしれないし、逆に
「アートでなければ、いけない」という「アートらしさの」フィルターを
とってしまえば、以外と身近にころがっている見方だったりするとぼくは思う。
>catt氏 おれたちのせいだろ。
うん。そういうこと。
>83「生きている=自分という生命を実感している状態」
という概念で、それ以外の時間を「死んでいる」という言葉で置き換えたものだった。
どこから引用したのか確認できなかったからよく、わからなので。
くわしく知りたいですが。
表現者は、(当たり前に)アートであろうとする。
でもその姿勢に対して、悪い意味で社会とずれたものであるなら
いけないという意味で、「誰のせいなのか」という
言い方をしました。
だから、catt氏の「おれの作品が分からない?ふっ、可哀想な奴。」
という視点は、表現者は、だれでも同じように思う部分はあるけれど、
表現者は、それ以上に、79氏の言うような、「世の中は、相対化される」
という部分を、嗅ぎとれるかどうかは、表現者の資質(これもまた相対化される
わけですが、)にかかっている。
それを持てればいいな〜という思い(自分含め)でかきこみました。
過去の作家は、だからカリスマ性があるのでは。
だから、もどってしまうけれど、
79氏の「作品において作者の見方すら他の観者の見方とともに相対化されざるおえない」
の言葉に、反応してしまったわけです。
85 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/11/10 09:49
ラカンの鏡のことでも出したいのか?
>>cattさん
>「おれの作品が分からない?ふっ、可哀想な奴。」が正しい。
ある面ではそれでいいと思うけど、その前にcattさんが作者にとって他者の視
点というときにそれは何を指しているのかを聞きたいです。
>>ひろさん
>その相対化ってことをもう少し、お聞かせ願えれば、、。
いえ、単純な話ですよ。つまり作者というのは作品がいったん作られてしまえ
ば、その作品に対して一観者として参加するしかない、ということです。もし作家と
いうものがカリスマ性や社会に対しての教育的価値(?)をもちうるとすれば、
それは最終的にその作品が(作者をも含めた)観者に喚起するある見方を通して
ということではないでしょうか。
>>85 僕に対してのコメントかな。
主体というものが最初から分裂的な構造を持っているという意味ではそうかもし
れないけど、ラカンはよくわかりません。
87 :
catt ◆nKX.ore.zA :03/11/10 12:24
>>84ひろ
>「生きている=自分という生命を実感している状態」
という概念で、それ以外の時間を「死んでいる」という言葉で置き換えたものだった。
どこから引用したのか確認できなかったからよく、わからなので。
くわしく知りたいですが。
悪い、オリジナルだ。探してきてそのうち貼ってみるよ。十数年前の日記w
>>85 鏡像じゃなくて問題は表面と中身の問題かもしれないぞ。
芸能人とか文化人で、現代美術知らない人
ホント、ダサイ玉だよね。
洋服はお洒落でも、お洒落じゃないよね
工藤静香ちゃん!
まぁ日本じゃしょうがないか・・
美術館と言えば都美術館だしね・・
79>ああ、やっぱりそうですね。
結果として作品は作者のもとから離れて、その時代、時代に、
よって相対化(都合のいい言い回しだ)されたり利用されたりするんだろうね。
作者がその、相対って、結局は自らも、あえて、天秤にかけられるように
世の中に放り投げて、飛んでいく自分を、観察することだし、
何を観察するかというと、その自分が、世の中とどう言う位置で螺旋軌道を
描いてどこに落ちていくのか、ひっぱる自分と引っ張られる自分を
見る必要があるな。と。
あ、ちょと感覚的か。
ラカンは、一度はまったけど、日常使う言葉がでなくなるから
やめた。
どちらかというと、文系よりだから自分。
だいぶ盛り上がってるね。w
血の海は
美しくも
醜くも
ない
それを見たわたしが
美しいと思ったなら
美しくなるもの
わたしが美しくするもの
その時までは
美しくさも
醜さも
どうでもよささえも
ない
無い
血の海を実際に見た、あるひとが
そのあまりの美しくなさに
そのあまりの精神性のなさに
笑った
「血を美しいとか、死を美しいとか、
遠い目をして歌うよくいるバカどもは、
これを見るべきだよ、これを見ても歌えるのかね?
ちゃんちゃらおかしいね」
血の海というものを
美しく描くのは
真っ赤な嘘でしかないのか
はたして
95 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/06/24 13:32
ageてみるテスト
またか…
97 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/06/25 06:27
?
98 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/26 01:26:37
どいつもこいつも長文ばかり書きおって
考察する前に行動しろや!>>1
99 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/26 10:58:54
結局考察することも理解することもできていないのが判明。
だから行動できない。
>>98突発的なアニマルじゃないんだよきっと。
100 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/26 11:10:41
100点満点
完璧だ。 動物きらいで飼ったことないんですが、珍しいですか?
101 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/26 14:37:50
アニマルの方が良い。(断定
102 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/26 23:14:04
>>53 >恐怖はさらなる恐怖を生む
これあなたが考えたの?
いいね、身につまされた。
103 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/30 18:41:31
アメリカの美術界はどのように絵画を扱うのですか
日本の美術界ではなく
欧米の美術界に作品を発表したいのですが
向こうで作家としての生活をどのように
始めたらよいのですか
詳しい方 お願いします
104 :
アルパカ:04/10/30 21:50:37
なんでこんなに微妙にやられるの?
此処匿名板ですが。
詳しい方 お願いします
105 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/10/31 15:08:33
「表現」の反対が「印象」だという話を
テレビで聞いて、なるほどと思った。
106 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/11/01 17:35:33
表現することとは 作られた作品はとは 印象的な知恵であると言えよう。うぷぷ
107 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/11/01 18:41:09
印象的 な 知恵 を 得る のは 限られた 者 だけ わかった?
108 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/11/08 16:23:00
>> 106 表現=支配力 ですが?
109 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/11/08 17:38:49
本当に才能のある人は こんなこと考えなくても 自然にわいてきます
110 :
セザンヌ:04/11/08 18:46:02
湧きだすと 言葉への 置き換えも 可能に 成ります。
ほんとうに才能ある人は、考えただけでペニスを小さくすることができます。
112 :
わたしはダリ?名無しさん?:04/12/02 19:20:51
(^^)
113 :
わたしはダリ?名無しさん?:2005/06/20(月) 15:55:54
芸術家には印象的智恵をすかるべく狡猾に用いることが求められると思う。
切り離してしまえば何事も表現し得てないことになるからな。手を動かすだけじゃなくて、
頭つかんんきゃね。そういう俺は、如気っと足を地につけているわけなのだが、
様々な事象を熟考するうちに足が根を張り泥が湧き、ドロドロと足を取り巻き
泥が沸き返り中々考え歩むことができないでいるのだ。
表現とは印象とは難しいものだ、日々勉強していなければこのように腐りが取り巻き
俺は身動きすることすらできないのだから。
時たま雀が俺を突きにくるがまあ、畜生ベラボウメだから許してやろうか?
然し去って言った後、俺の顔が雀斑だらけになるのだ、云これは雀の糞であるということだ。
てきぱきしないとこんなに小さな者にまで馬鹿にされるのだな。云云克く分かった。
何と言うことだ。これは何という侮辱だろうか。
泥がぼこぼこ言っている、俺の足は泥と一体化する。
なぜなら俺の足は愚鈍だからだ、愚直な足が勝手に歩み始め生活の煩悩から抜け出て
己の知恵を求めたわけで、愚かな方向にしか歩まないのですから詛われてしまったのかもしれませんね。
なぜならこれ以上に歩むことが出来ていない。
ドロドロ足を掬われ伽藍と立つ俺の足はこのままのびて地球核へと達してしまうかもしれない。
そうしたら、熔けてしまうわけで俺は2度と綺麗な靴を履くことも元気に歩くこともできないわけだ。
1から億まで自分の集めた知恵をビビしく並べ立ててみたのだが全く何処に何があるかわからず、
どれとどれをあわせればしっくりくるのか克く分からないのだ。
考えおもねるウチに年月は過ぎていき俺の足はドロドロよどんでいる。
すかるべく狡猾に離れ去るべし。
114 :
113:2005/06/20(月) 16:31:23
というわけで俺は何年も自分的体系の中で自分を見つめて自分自身から印象的知恵は得られるのだろうか
思い悩んで可成り悩んで、自分の足をドロドロの底なし泥地獄に足を掬わせて見たんだけど
それで1から億まで取りあえず解明されたことを並列させてみたんだけど克く分からなくてでも、並列させるだけじゃ
駄目で、どうしようもなくて1つ1つ踏む必要があったわけでそれは人間としての妄念雑念執念悪念ですから踏むと
プシュウ〜と音がするわけで極めて醜く恐ろしいものですから。おそれ戦き自分も他人も逃げまどうものですからそれが、
自分的体系の恐ろしさであるらしいということはわかりましたが。悔恨。
そう、今悔恨が求められているらしくそれをはかりに掛けると色々あるものの純度最高、明度偏高となっており中々良いものであるのだが
それそのもので自分と他者を混ぜることができなくて、結局色々と関連付けて表現することが出来ないわけで誰の助けも得ることなく
一体自分はどうしたらよいのかと思索するうちに足がドロドロの泥濘に嵌り苦しみ喘ぐわけで、でもその理由は最終段階として髪を詛い
快楽逸楽の道に進むからであり、そんな足はまあ、どろどろドロドロ土の土のうちで溶解されてりゃあいいもんだから
放っておけばいいのかもしれない。
誰何、助けてくださいと叫んだところで自分も同じムジナとなるわけで俺は誰かを傷付けることが無いように
柔軟に足を伸ばすわけですから。
俺の足は同じ土に馴化していくわけだから。
(・ー・)オワッタナ・・・
116 :
113:2005/06/20(月) 17:12:43
てか、足を泥に掬われるのは自分的体系に目を止めてしまうからであって
目もくれずに先に進めばいいのだが、印象的な智恵を獲得するにあって絶対的に
自分自身を見つめる必要があるわけですがこれは避けて通れない道だということで
何年も同じ場所にとどまって自分自身の生き皮を並べ立てて居るわけですがそれには
色やら模様やら細胞やら虫やら本当に色々と付いているわけです。
ですから、まずは水に浸してその塵芥をぬぐい去る必要があるのですが、
本当にこれは時間の掛かる作業であり何回洗っても洗っても取れない
詛いのようなものであり、然し脳髄を侵す菌の様なものでもあるので
ちゃんと堅いマスクをして下手に病気に感染することが無いようにするため
なのですが。この防菌仮面。
それでも、俺は心中穏やかにならず心配するわけで。
というのはつまり自分で自分に感染することをおそれているわけで
すから全く格好の良い所行ではないのです。
と言うわけで
格好の悪い所行を何年も続けている訳ですから自分も醜くなるわけで
それは、足からじょじょに頭の天井にまで吸い上げられていく醜さなので
どうしようもないものなのです。
然し俺が印象的智恵を未だ持って探求しているのは
この探求には多少のリスクが伴うものでありそれはしょうがのないことであり
。
人間の醜さにあきあきて1から億まで並べ立てたからであり、
元々知っている、備わっていることなので、特に驚くこともなく
脳は重々しく居座ってはいるわけです。
悪いのはこのむね黒い足であり、
俺はこれらを一生全体どうすれば良いかと思うわけですが中々答えが見つかるものでもなく
どろどろ全身を行き巡って待つ事にしようかと思います。
まあ、そういうわけで。
魑魅魍魎を並べ立ててみたわけで。w
117 :
わたしはダリ?名無しさん?:
age