ギャルゲー板SSスレッド Chapter-3

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5いつかあの空へ(1)
 ぷかぷか、ぷかぷか。
 両手両足をいっぱいに広げて、あたし――赤井ほむら、ひびきの高校生徒会長の
はずだ、多分――は湯船に浮かんでいる。
 に、してもだだっぴろい風呂だよな。修学旅行の時の露天風呂だって、こんなに
までは広くなかったし。天井もむやみに高けりゃ、床も総大理石。壁からはご丁寧に
ライオンの顔が生えてて、口から湯があふれ出てる。うーん、本物を見たのははじめて
だぜ。
 あー、しかし、気持ちいいわこりゃ。こうしてると、今日のできごと全部がまるで夢だっ
たみたいな気がする。ていうか夢じゃねーかな。現実に、あんなことあるわけが――。
 ぱかん。
「あいたたた……」
「何をくつろいでおるのだ貴様!」
 大理石の床の上で、洗面器(バカバカしい事に純金製らしい)が、からからと音を立てた。
「おまえなぁ! こんなもん人の頭に投げるんじゃねーよ!」
 あたしは抗議の声を上げつつ、声のほうに向き直った。そいつは、紺色のスカートの
上に白いエプロン(いわゆるメイド服ってやつだ)を着て、風呂の入り口のところに立っ
ていた。
タチの悪い事に、片手には次の洗面器なんか用意してやがる。いや、もっとタチが悪い
のは……
 その顔があたしだって事だ。
 ……自分でいうのもなんだが、死ぬほど似合わねーな、メイド服……
「いつまでもぐずぐずしておるからなのだ! 今の状況がわかっておるのか貴様!」
 あたしの顔から、あたしの声で、あたしのものじゃない言葉が吐き出される。
「へいへい、わーってますって。……ったく、夢は夢でも悪夢だよな……」
 あたしは立ち上がり、手近の鏡の前に立って、その曇りを手でぬぐった。そこには、
あたしの一番見たくねえ顔が映っていた。
 あたしの天敵、伊集院メイの顔が。
6いつかあの空へ(2):2001/08/19(日) 01:09
「ったく……なんだってこんな事になっちまったんだろな……」
 どこの特別製だが知らねーけど、とにかく異常にふかふかしたバスタオルで体を拭き
ながら、あたしはつぶやいた。目の前には、やたらぞろぞろした着替えが用意されてる。
うげ、これに着替えろってのか……。
「ほう……そういう言い方をすると、まるで貴様のせいではないように聞こえるのだが?」
「あたしが悪いってのかよ! 元はと言えば、てめぇがあんなオモチャ、これみよがしに
学校に持ち込んだのが始まりだろーが!」
 慣れねえブラと格闘しながら――伊集院の奴、あたしと同レベルの貧弱胸のクセに、
ご丁寧にこんなもんつけてんのかよ――あたしは叫んだ。
「オモチャなどではない! 最新の大脳生理学をベースに開発された、ハイパーバーチャル
システムなのだ!」伊集院が、あたしの顔とあたしの声で怒鳴り返す。「……それにあの時、
エサでも見つけた野良犬の様に、よだれをたらしながら近寄ってきたのはどこのどいつだっ
たかな?」
「てめえだって、テストプレイヤーは多い方がいいって喜んでたじゃねーか!」
「確かにな。あの時は貴様のバカさ加減を過小評価していたのだ。まさか、興奮のあまり
システムを殴り壊すほどのバカとはな」
「あ、あれは……ちょっと撫でただけだろ」
「ほほお? 貴様の知能はサル並だが、腕力もゴリラ並だとは知らなかったのだ。筐体に
しっかりと、拳の跡がついておるのだが?」
 ぐ。あたしは言葉に詰まった。追い討ちをかけるように伊集院は続ける。
「修理費はいったい何百万、いや、何千万になるだろうな? なんだったら、法的手段に訴え
てもよいのだぞ?」
 う……悔しーけど、金の話になると立場が弱い。
「ま、まぁ、あのコンピュータがぶっ壊れたのは、確かにあたしのせいかも……だけどよ、
それであたしたちの中身が入れ替わっちまうなんて、一体どういう理屈なんだ?」
「ふん、貴様の知的レベルで理解できるようなシロモノではないのだ。ていうか、理屈が
どうあれ、起こってしまった物はもうどうしようもないのだ」
「な、なんか納得いかねえぞ……」
「とにかく! 貴様が悪いったら悪いのだ! 解ったら、修理が終わるまでの間、せいぜい
ボロが出ない様に、メイの代わりをつとめるのだ!」
「はいはい、わーったよ。ったく……あれ?」
 ようやく着終わったドレスを見下ろして、あたしは言った。
「……な、これでいいんだっけ?」
「前後が逆なのだ」伊集院はため息をついた。「……先が思いやられるのだ」
7いつかあの空へ(3):2001/08/19(日) 01:09
 さて、場所は変わって伊集院家食堂。
 しっかし、どこもかしこもムダに広いよな、こいつの家。なんかもう、テーブルの端が
かすんで見えねぇぞ。このテーブルクロス、洗濯すんの大変だろーな……。
 あたしたちがこの部屋に入った時点で、テーブルには既に、伊集院の両親と、あと兄貴
が座ってた。明るい家族団らん……って奴かと思ってたんだが、なんかみんなミョーに静か
なのが、あたしにゃ解せない。ま、あたしにとっちゃ、喋ってボロが出ねえ分だけ好都合
なんだけどな。
 ……なんて感想を言ってたのは少し前まで。いまのあたしの集中力は、目の前に並べ
られた料理に100%向けられている。
「く〜っ、たまんねえな、おい」
 あたしは、口元にこぼれかけたよだれをぬぐった。
「ええい、じゅるじゅると品のない音を立てるでないっ」
 メイドのかっこしたあたしの中にいる伊集院が(いい加減ややっこしくなってきたな)、
小声でひそひそと言った。とりあえずこいつは、臨時の付き人って設定で、あたしのそば
にくっついてる。ちなみに、本来の付き人の咲之進は、例のバーチャルシステムとやらの
修理に飛び回ってるそうだ……って、んな事はどうでもいいんだって!
「うっし、んじゃさっそく、いっただっきま〜す!!」
 あたしは、いっぱい並んでるフォークの中から、一本を無造作につかんだ。
「こら待て! その料理に使うフォークとナイフはそれではないのだ!」
 伊集院が耳打ちする。
「……んなこと別にいーじゃねーか」あたしも小声で返しながら、水の注がれたコップに
手を伸ばす。ん? やたら丸っこいコップだな……
「ああ、それは飲み水ではないのだ!」
「いちいち細けぇな! んな事気にしてたら、メシがまずくなっちまわぁ!」
「貴様のような庶民はそれでもよいが、上流階級には上流階級のやり方があるのだ!
ああ、ほらそれも違う! こら、丸ごとかじりつくな! ああっ、なんでその料理に
ソースをかけるのだーっ!」
「ああもううるせえーっ!!」
「どうかなされましたか、メイ様」
 ぎくっ。
 声をかけてきたのは、“頑固”と“偏屈”とを大鍋に放り込んで、3日ほどぐつぐつ
煮込んだよーな、そんなばーさんだった。たしか伊集院の奴は婆やとか呼んでたっけか。
「メイ様。お食事中はお静かに」
「……はい」
 くっそー、新手の拷問かこれはっ!?
8いつかあの空へ(4):2001/08/19(日) 01:10
 つ、疲れた……。
 あたしは、伊集院の寝室(もう、広さを描写するのもめんどっちい)のベッドに
寝っころがった。……なんでメシ食うだけで、こんなに体力消耗しなきゃいけねーんだ、
ったく。
 ま、今は伊集院の奴は電話かけに行ってていねえし、ちょっと休憩……ってもう帰って
きやがったよあんちくしょ。
「どうだった? うちのじいちゃん、なんか言ってたか?」
「貴様の言ったとおり、一文字の家に泊まるといったら、あっさり納得したのだ」
「そっか。ま、茜の奴は事情知ってるから、適当に口裏合わせてくれるだろ」
 別に、じいちゃんにも正直に話したっていいんだけど、余計な心配かけたかねーし……
もういいかげん歳だしな。
「さって、腹もふくれたし、寝るとすっかな」
「貴様、食う事と寝る事しか頭にないのか?」伊集院はジト目であたしをにらみつけた。
「……ま、庶民にはとうてい手の届かんメニューであるから、天に昇る気持ちになるのも
無理はないがな」
「んー……確かにうまかったけどな、しかぁし!」あたしは人差し指を立てて、ちっちっち
と振った。「日本じゃあ二番目だ」
「何だと! では日本一は何だ!?」
「茜ンとこのカツ丼。うめえんだこれが」
「……」
「……」
 一瞬だけ黙りこんだ後、伊集院の表情が、勝ち誇ったような笑いに変わった。
「……ふん。何かと思えば、貧乏人の負け惜しみか」
「だぁぁ、違うっつの! だいたいてめぇ、茜ンとこのカツ丼食ったことあんのかよ!」
「ないに決まっておるのだ! メイはそんな訳の解らん物を食したりはせん!」
「訳の解らん物って……おい!? まさかお前、カツ丼そのものを食ったことねーのか!?」
「……それがどうかしたのか?」
「いや、別に」あたしは、なんか勢いをそがれたような気分になった。「案外、金持ちっ
てのも不自由なもんかも知れねーな……って思ってよ」
「ど、どういう意味なのだそれは!?」
「別に。どうもしねーよ。さ、とっと寝ようぜ。おやすみ……」
 ベッドの上に、大の字に寝っ転が……ろうとしたあたしの腕を、伊集院が引っ張った。
「こら待て、なのだ」
「まだ何かあんのかよ!?」
「明日は伊集院家主催のパーティーなのだ。その場で今日のような振る舞いをされた
日には、メイだけではなく伊集院家すべての恥となるのだ! そうならないよう、今から
社交界のマナーの特訓なのだ!」
「い、今からか!?」
「今やらんでいつやるというのだ!? パーティーは明日なのだぞ! 今夜は寝かせて
やらんからそう思え!」
 うげぇぇぇ。勘弁してくれえ……。
9いつかあの空へ(5):2001/08/19(日) 01:10
 ふわぁぁぁ。眠てぇ……。
「こら貴様。何をたるんだ顔をしておるのだ」
「そりゃお互い様じゃねーか。目、半分閉じてるぞ」
「貴様の飲み込みが悪すぎるのがいかんのだ! あれならコメツキバッタにスペースシャ
トルの操縦でも覚えさせるほうがまだ楽なのだ」
「へいへい、悪いのはあたしでございます」
 うんざりした気分で、あたしはパーティー会場を見渡した。
 だだっぴろい会場には、やたら豪華そうな絨毯(たぶん、値段を聞いただけでげっそり
できる事請け合いだ)が敷かれてる。天井からぶらさがってるのは、もし落ちてきたら
即死確定の超巨大シャンデリア。さらに、テーブルの上には、これまた高級そうな料理。
嫌味な事に、参加客のほとんどは、ろくすっぽ料理も食わずにだべってやがる。
「……にしても、なんかすげえ面子がそろってるな」
「伊集院家主催のパーティーともなれば、これでも大した事のない方なのだ。ほれ、あそこ
には都知事の黒岩氏。あっちは桐原コンツェルンの総帥。その隣は総合科学者の影山氏……」
「あ、歌手の早坂アコ発見。サインもらいにいこっと」
「こら、よすのだ貧乏くさい!」
 歩き出したあたしを、伊集院が止めようとする。つっても、伊集院の力であたしに叶う
わけが……叶うわけが……あれ? しまった、今は体が逆なんだっけ!
「まったく、これだから貴様は目が離せんのだ……あ゛」
 伊集院の表情が一瞬凍りつき、そのままぎこちなく視線をそらした。
「ん? どした?」
「……あまり会いたくない奴に見つかったのだ」
 あたしは、伊集院がさっきまで見てた方向に顔を向けた。ちょうど、薄ら笑いを顔面に
貼り付けたにやけ野郎が――いや、人によっては「さわやかな笑顔」って言うかも知れ
ねぇけど――こっちに歩いてくる所だった。あれ? どっかで見た顔のような?
 そいつはあたしの目の前で止まると、いかにも礼儀正しい、ってな感じで一礼した。
「ご機嫌麗しゅう、メイ様」
「へ? あ、うむ。苦しゅうない」
 ……って、これじゃ時代劇だな。
「満月に照らされた今宵のあなたは、いつもにもましてお美しい」
 げろ。よく真顔で、んな恥ずかしい事言えるもんだ。
「おほほほ、そ、そうでもなかったりでございますのことよなのだ」
 どこの国の人間だあたしは。
「……ところでメイ様、彼女は?」
 あたしの傍らの、気まずそうに立ってる伊集院に視線を移して、そいつは言った。
「え? ああ、そいつはあたしの……メイの新しい付き人……なのだ」
「ふむ、左様ですか……失礼ながら、あまり育ちの良いお方のようには見受けられかね
ますが……」
 ほっとけっ!
「差し出がましいようですが、身近に置く人間の人選は慎重に行われますよう。悪貨は
良貨を駆逐するとの諺もございます。無知と無作法とは、知らず知らずのうちに周囲を
侵す物。ましてやメイ様、あなたは――」
 そいつは、言葉を一旦切って、あたしの眼をのぞき込む様にして言った。……なんでか
知らねーけど、背中に鳥肌が立った気がした。
「あなたは、私の妻となる女性なのですから」
 ぶぅっ!!
10いつかあの空へ(6):2001/08/19(日) 01:11
「どうかなされましたか?」
「い、いやいやなんでもねえ……のだ。ちょ、ちょっとむせただけ……あ、ちょっと急用を
思い出しちまった……のだ。失礼するのだ」
 伊集院の袖を引っ張って、あたしはそそくさと逃げ出した。
 そいつから充分離れたのを確認して、伊集院にひそひそ声で問い掛ける。
「……おいおい、なんなんだありゃ?」
 伊集院は眉をひそめながら答えた。
「城ヶ崎和司。ベンチャー企業“キャッスル”の経営者にして技術者なのだ。奴が開発した
ネットワークOSは、あっという間に世界のシェアの75%を奪ってしまった……企業と
してはまだ弱小ながら、伊集院財閥にも一目置かれておるのだ」
 あ、そういや知ってるわ。前にTVのインタビューで、なんだか偉そーな事言ってたっけ……
なるほど、だから見たことあったのか。
「で、あいつとお前が結婚するってか。にゃははは、そりゃ案外お似合いかもな」
「笑い事ではないのだ!」
 伊集院は心底嫌そうな顔をした。あたしの顔だから、なおさら良く解るってもんだ。
「なんだ、嫌なのかよ。だったら、きっぱり断っちまえばいーじゃねーか」
「簡単に言うな、なのだ……」伊集院はうつむき加減でつぶやいた。「伊集院財閥としては、
奴の持っているシェアとノウハウがぜひとも欲しいのだ。だが、強引な手段ではすべてを
ぶち壊しにしかねない。そこで……」
「はーん……政略結婚、ってやつか。……けっ、くだらね」
「きっ、貴様に何が解るというのだ!」
「解りたくもねーよ。お前みたいな腰抜けの事なんかな」
「なっ……!! 貴様、言うに事欠いて、メイを腰抜けだとっ!」
 伊集院がにらみつけてくる、その視線を、あたしは正面から受け止めた。
「腰抜けに腰抜けって言って何が悪ィんだよ。学校じゃ、あんなにあたしに突っかかって
来やがるくせに、こんな時だけおしとやかなお嬢様でござい、ってか? はぁ、やだやだ」
「うっ……うるさいうるさいうるさーい!」
 伊集院は今にも泣き出しそうな顔だ。あたしの顔がそういう表情を作るのは、多分、
数年ぶりだろう。
「メ、メイは……本当は、メイだって、メイだって……!」
11いつかあの空へ(7):2001/08/19(日) 01:12
 その時、会場の隅っこでケンカしてるあたしたちなんか知らぬ存ぜぬ、ってな感じで、
ゆっくりとした音楽が流れ始めた。
「……ダンスの時間なのだ」
 会場の真ん中に目を向けると、男と女が思い思いにペアを作って、優雅な(あたしに
言わせりゃ『まだるっこしい』だが)ダンスを踊ってた。
 そのど真ん中に、さっきの城ヶ崎とかいう奴はいた。ご丁寧に、誰ともペアを組まずに
わざわざ待ってやがる。
「あいつが呼んでいる……さっさと行くのだ」
「いいのかよ?」
「いいから行くのだっ!」
 ……やれやれ。ったく世話の焼ける奴だぜ。
「おい。その走りにくそうなハイヒール、今のうちに脱いどけ」
「……え?」
 あっけに取られた伊集院に背を向けて、あたしは城ヶ崎の方に向かっていく。
「お待たせいたしました、城ヶ崎様」
 おお、ちゃんと言えんじゃねーかあたし。
「こちらこそ、このような栄誉を賜り恐縮にございます」
「……時に城ヶ崎様。このメイを、本当に幸せにしてくださいますか?」
 城ヶ崎はあたしを見下ろして言った。つっても身長差だけじゃなく、本当に『見下ろして』
やがる……とあたしには感じられた。好青年を絵に描いたような笑顔の中で、ただ両の眼だけが
異様に冷たい。
「もちろんでございますとも。貴女は今でも沢山のものをお持ちだが、私のパートナーとなって
世界にはばたくことにより、より多くの物があなたの手中となるでしょう」
 ……またなんつーか、悪党くせえセリフだなおい。ま、野心家ってのはこんなもんなのかもな。
「オッケー、それだけ聞けりゃ充分だ。お前、ぜんっぜん解ってねーや」
「……は?」
「城ヶ崎とやら! そんなに欲しけりゃ、あたしのホントの気持ちを受け取りやがれぇぇっ!」
 叫ぶが速いか、あたしは数歩後退し、立ちすくむ城ヶ崎に向かって跳んだ!
「うぉぉぉりゃぁぁぁっ! ド・ラ・ゴ・ン・キィィィィックッ!!」
 めしっ。
 あたしの必殺技を喰らって、城ヶ崎は仰向けに倒れ伏した。そいつに背を向けて着地する
あたし。――ふっ、決まったぜぃ。
「行くぞ伊集院! 一撃離脱〜っ!」
 呆然としている伊集院の腕をひっつかみ、目を点にしてる参加客を押しのけて、あたしはこの
バカげたパーティー会場から、一目散に逃げ出した。
12いつかあの空へ(8):2001/08/19(日) 01:13
「貴様ぁっ! いったいどういうつもりなのだ!」
 ここは河川敷公園。とりあえず、追っ手は撒いたみてぇでやれやれ、ってとこかな。
 辺りは、もうすっかり暗くなっちまって、川の水面だけが、月の光を跳ね返してきらきら
輝いてる。
「どういうもこういうも、見たまんまだぜ」
「なんという事をっ! これで伊集院財閥の世界戦略は3年は遅れるのだ! いったい何百億、
いや何千億の損失になるのか、貴様解っておるのか!?」
「解ってねぇのはてめぇだろ? つまんねぇ事ばっか気にしやがって……。お前自身の意思は
どうなんだよ」
「メイの……意思?」
「好きでもねぇ相手と一緒になって、一生鳥篭の中で腐っていっちまうような、んな生き方が
望みだったのか? 違うだろ?」
「……」
 伊集院は、目を伏せて黙りこくった。静かな公園に、ただ、川の音だけが流れていく。
 あたしは、そんな伊集院に背を向けて、川べりに生えてる木の一本に近付いた。手近なうろに
手をかけて、体を持ち上げる。
「よっ、と」
 そのまま、その木をよじ登っていく。もう月明かりに目が慣れちまってるから、暗くたって
あんまし木登りに支障はない。
「ききき貴様、何をするのだ!? よせ、止めるのだ、落っこちでもしたらメイの体が傷つくのだ!」
「んなマヌケな事するかっての。……おい、お前も登ってこいよ」
「!? そ、そんな下品で野蛮な事、メイにはできるはずが……」
「大丈夫、あたしの体が覚えてるって。ほれ、来いよ。いいもん見せてやるから」
 伊集院は、木の下でだいぶ長い事迷ってたが、やがて意を決して登り始めた。ま、ゆっくりと
だけどな。
 それでもなんとか、伊集院はあたしと同じ枝まで登ってきて、あたしの横に腰掛けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……き、来てやったぞ。で、見せたいものとは何なのだ?」
 伊集院の問いに、あたしは無言で街の方向を指差した。
 そこには、ひびきの市の夜景が広がってた。無数の生活の光が、まるで星空を鏡に映した
みてえに、どこまでも広がって輝いてた。
 伊集院が息をのむ音が聞こえた……気がした。
「どうだ?」
「……ふん、屋敷のバルコニーからの景色のほうが綺麗なのだ」
「そいつは悪うござんした」あたしは言った。「……だけどよ、伊集院。こういうの見てると
さ……なんかこう、世界って広いな、って思わねえか?」
「……」
「鳥篭の中からだけじゃ、見えねえ物だってあるんだぜ。あたしは、もっといろんな物を見てえ
から……だから、あたしはいつだって自由だぜ」
「自由、か……」伊集院はぽつりと言った。「……やはり、貴様など大っ嫌いなのだ」
「は? なんか言ったか?」
「な、何でもないのだ!」
 伊集院は怒鳴った。
「そ、それより、メイは腹が減ったのだ。これもきっと、貴様の下品で貪欲な胃袋のせいだな。
おい、例のカツ丼とやらの店に連れて行くのだ」
「……へ? このカッコのままでか?」
 あたしは泥と引っかき傷だらけになっちまった、ひらひらドレスのスカートを指で持ち上げた。
伊集院が、いつもの生意気そうな笑顔を浮かべる。
「貴様はいつでも自由ではなかったのか?」
「にゃははは、そらそーだ。……うっし、ついてきな。ただし、美味すぎて腰が抜けても
知らねーからな!」
「ふん、貧乏人がありがたがるシロモノが、一体どの程度のものか確かめてやるのだ!
あ、ところで――」
 伊集院は、ほんの少しだけ不安そうな顔をした。
「そのカツ丼とやらには、ネギは入っておらんだろうな?」
13いつかあの空へ(9):2001/08/19(日) 01:14

 キーンコーンカーンコーン。
 チャイムの音が、一日の終わりを告げる。やれやれ、今日のつまんねえ授業もやっと終わり、
っと。
 あたしは肩と首をコキコキと鳴らした。あー、なんつーか落ち着くわ。当たり前だけど、
やっぱ、自分の体が一番だぜ。
 さて、土日はつまんねー事でつぶれちまったし、あいつでも誘ってゲーセンでも行くかな……
と思って、あたしはあいつの教室を訪ねた。が、しかし。
「……なんでてめーがここにいるんだよ!」
 あたしが怒鳴ると、伊集院は勝ち誇ったように言った。
「メイがどこにいようが貴様の知った事ではないのだ。……そんな事より貴様! 貴様がメイの
体を手荒く扱ったせいで、メイのデリケートな体は全身筋肉痛なのだ! どうしてくれるのだ!?」
「うっせえ! あたしこそ、体中擦り傷だらけなんだぞ! どんな不器用な登り方したら、こんなに
なるんだよ!? 昨日、風呂で飛び上がっちまったじゃねーか!」
「あ、あの……二人とも一体何の話を……?」
「……そういえば、お前もいたんだっけな、子分A」
「誰が子分Aなのだ!? こいつはメイの下僕に決まっておろうが!」
「てめえこそ勝手に決めてんじゃねえ! よぉし……決着つけようじゃねーか」
あたしは伊集院に、ビシッ!っと人差し指を突きつけた。
「ゲーセンで勝負だ!」
「ふん、望む所なのだ! 立会人はこいつでよいな?」
「……え? 俺?」
「決まってんじゃねーか。さて、それじゃ行くぜ、子分Aっ!」
「だからメイの下僕だと言っておろうが!」
「……あぅぅ……俺の立場って一体……」
 かくして、決戦の地・ゲーセンへと向かうべく、あたしたち3人は校舎を出た。
「……あ、そーいや伊集院、例の話、どうなった?」
「ふん、いきなり暴力に訴える貴様とは違うのだ。まず丁重に謝罪した後、改めて正式に
断ったのだ」
「……そっか」
 あたしは、無言で空を見上げた。
 そろそろ秋風の吹き始めた空は、腹が立つぐらいに、ただ、ひたすら青かった。
                                           <END>