睨みつける。
多分、まだ大丈夫。
詳しいわけじゃないけど多分お腹以外は動脈とかに傷は無い。
だから、血の流れすぎで死ぬとかは無い、そうに決まってる。
「だから、さ」
痛む右手を、強引に動かす。
前に伸ばすそうとすると肩も痛い。
それを無視して、青天霹靂の柄を思いっきり握りしめる。
指の動きに不自然な所は無い。
折れてない、ヒビくらいで済んでる。
もう痛いのかもわからない右足はどうしても動かない。 だから左足一本に重心を乗せる。
五秒くらいの間に二回程転びそうになりながらも、構える。
前に進もうとしてるのに、重心は前で、しかも刃は右手側で横向き。
自分でやっておいて何だけど凄く動きにくい。
すごく不自然な姿勢だけど、構えなおす余力なんてない。
「邪……」
多分、動けて、一度。
それ以上動くと、痛みか疲労か怪我かとにかく何かで倒れる。
根性があればもう一回くらい何とかなるかもだけど、その後どうなるのか予想も付かない。
あたしの背後で、愕天王が立ち上がる。
そっちを向く力は無いけど、長い相棒、気配でわかる。
愕天王も、あたしと大差無い。
「……魔、」
一回、
たった一回で、何が出来る。
敵は三人、全部健在だってのに。
「……す、んな――――――――っ!!!」
けど、それが何さ!
三体のオーファンがぶつかる直前。
愕天王に、あたしの身体を首の力で投げさせる。
それだけで、気絶しそうな痛みが全身を襲うけど、痛くて気なんか失いたくても失えない。
そして、そもそも失って良いはずが無い。
そして、愕天王がオーファンの突撃を受ける少し前に、消す。
「死、なば、」
空中で青天霹靂も一旦消す。
そして、直後に再び現す。
ただし、今度は左手の先が穂先になるように、だ。
そして、私の足元には愕天王が、やはりいつものように現れる。
「諸」
落ちる先には、戸惑っているのかその場所に居続ける三体のオーファン。
丁度ぶつかる直前だったから、三体とも手で触れるくらいのところにいる。
ありがたい。
「と」
空中から床に突撃する顎天王の重さを勢い全てを、青天霹靂に込めて突撃する。
全ての威力と重さを込めた一撃。
これが当たれば、ただじゃ済まない。
それにあたしの身体が耐えられるのかとか、着地はどうするのかとかどうでもいい。
「も――――――――っ!!!」
残ってるあたしの全てを込めて。
これで三体とも倒せるとか虫が良すぎるとかそんなことどうでもいい。
全ての力を注ぎ込んだ、一撃。
今だけは身体の痛みも感じない。
周りの光景が、凄くゆっくりに感じる。
これは、当たる。
三体ともこっちを見てるけどもう間に合わない。
当たれば、オーファンでも確実に倒せる。
それも一度に三体、大盤振る舞いだね。
出来る。
これは、勝てる。
あたしは、ここでこいつらを……
・◆・◆・◆・
1000 名前:名無しくん、、、好きです。。。[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 23:51:27 ID:PWdon5m/
1000なら今年中にGR2完結
ホントできたらいいな支援
遠くでか、近くでかで重い音がする。
―痛い―
耳が煩くて、その区別も付かない。
―赤い―
またどこか切ったのか、右目も見えなくなってる。
―全てが痛い―
―全てが赤い―
全身が重くて、どこもかしこも痛くて、勝手に震えてる。
―何も見えない―
―何も感じられない―
感じられるのは、背中に微かに感じるあったかい感触――額天王の存在だけ。
額天王はまだ生きてる。 ……でも、もう動けない。
「……っ……ぁ」
まだまだ、とかそんな事を言った、きっと、そう思う、多分。
でも、もう身体の何処も動かない。
あたしの全ては、無駄に終わった。
動けない筈のオーファンはあっさりと動いて。
当たる筈の一撃はいとも簡単に避けられた。
そんなもの、あたしの思い込みだって、そういうこと。
あたしの全ての一撃は床に突き刺さり、僅かにヒビを入れただけ。
そしてあたしの全てはあたしに返ってきた。
骨が軋んで、息が出来ないくらいの衝撃。
もう、動くこともできずにその場に倒れるあたしに、
そんなことは許さないと、一体のオーファンの尾が叩きつけられた。
吹き飛ばされる。
剛腕投手の速球見たいに壁というミットに向かって。
あたしの後ろにいた、愕天王諸共に。
愕天王ってクッションが無ければ、あたしの意識は戻らなかったと思う。
ありがとう、愛してるよ。
…………でも、もう、何が出来るのかな。
青天霹靂もどこかにいっちゃったし……。もう、腕も動かないよ。
近くか遠くで轟音が響く。
あたしに止めを刺しにか、それとももう死んでると思ってるのか。
轟音が煩い。
あ、これ多分近い。
律儀に確認しにきたあたりはあんまりあたしに似てないかな。
全身の力を振り絞って、何とか前を見る。
そこにあるのは、あたしに最後を告げるもの。
赤い視界の中で、あたしの最後を目にする。
「は」
大きくて、強靭な足。
鋼の足は丁寧にも、落ちていた晴天霹靂を踏んづけている。
意外と近くにあったそれは、少し傾いている。
柄を踏みつけられているからじゃなくて、別の理由。
地に一筋の線が走ってる。
それが、ちょうど晴天霹靂の真下に来てる。
それは、強靭な床には蟻の一噛みくらいのもの。
「はは」
そう、蟻の一噛み。
先ほどからの轟音が響く。
遠くから、近くから、
あちこちから。
「ははは……見たか、この……」
強固なダムすらも決壊させる、蟻の一噛み。
部屋の全てから、破滅の轟音が鳴り響く。
この場所における全てを破壊する音。
蜘蛛の巣のように床を覆い尽くすひび割れ。
オーファン達が今更退避しようとしてるけど、もう遅い。
「私の、勝ちだね」
一際激しい衝撃。
そして、その後少ししてから感じる、浮遊感。
もう殆ど感じられない、感覚を、それでも感じながら。
「正義は、必ず、勝つんだよ」
誇るように、自嘲するように、悲しむように、呟きながら、
私は、何もかもは、地の底へと消えた。
・◆・◆・◆・
――土台無理な話だったのだ。
子供が敵の本拠地に突入するだなんて、そんなアクション映画みたいな真似は。
できっこなかった。できるわけがなかったんだ。
後悔は今さらのように押し寄せてきた。
どれだけ悔やんだって、訪れた結果はもう覆らないというのに。
「……やよいっ!」
くたりと垂れる右手から、プッチャンの悲痛な叫びが木霊する。
それに応える、いつもの元気な声はない。
「……てけり・り」
代わりに返ってくるのは、ダンセイニの奏でる沈痛な音。
半透明の黄色い体に浮かぶ一つ目は、子供の泣き顔を想起させるほどに歪んでいた。
一番地本拠地、中層エリア。
スペースが広く取られたその空間には、各所に渡るための通路が多数並んでいる。
通路の数はざっと数えて八つ。プッチャンとダンセイニはその内の一つを通ってここに辿り着いた。
重傷を負ってしまった、高槻やよいの救護の果てに。
「ちくしょう……なんでこんなことに……っ」
自らの体を簡易ベッド、いや担架のようにして、彼女を上に載せて運ぶダンセイニ。
やよいの右手に嵌ったまま、ただひたすらに彼女の名前を呼び続けるプッチャン。
三人中、意識を保てていたのは二人だけ。
注意力を進む前方に向けられていたのは、一人だけ。
この状態で敵に襲われたとして対応策を持っている者は、いない。
「……違う。俺の落ち度だ。一瞬でも気を緩めなけりゃ、やよいはこんな風にはならなかった……!」
プッチャンから漏れる、慨嘆。
慨嘆の根源である、高槻やよいの容態。
未だ敵地の真っ只中、仲間との合流は果たせていない。
状況は、なにからなにまで最悪だった。嘆くしかない。嘆きしか出てこない。
――けれど、そんな弱音は許されない。
もちろんわかってはいる。わかってはいるのに、嘆いている。
自分が自分でいられない。気が動転して混乱して切羽詰って行き詰っている。
プッチャンにとって、状況は最悪を通り越して最凶と言えた。
「てけり・り」
「わかってる……わかっちゃいるんだ。けどよ」
ダンセイニの冷静になれという声にも、まともな返しができない。
高槻やよいの容態――惨状は、直視に耐えがたいほどだった。
敵兵からの銃撃、バーニングによる体力の消耗、直後に乱入してきた敵アンドロイドの攻撃、それらは問題ではない。
やよいの命に最も強い圧力をかけたのは、敵兵の一人がいたちの最後っ屁として投げ放った手榴弾の爆撃である。
アンドロイドのブレードを防ぐので精一杯だったやよいとプッチャンは、これを避けることができなかった。
結果、手榴弾はやよいとプッチャン、それに近くにいたダンセイニやアンドロイドをも巻き込み――爆ぜた。
敵兵はその爆撃を最後に力尽き、気絶。アンドロイドは爆発の直撃を受け大破。
ダンセイニは多少、体から粘液が飛び散ったが、すぐに再生することができた。
プッチャンもまた、正面にいたアンドロイドの体が上手く防壁となり、事なきを得た。
が、パペット人形でもショゴスでもない、ただの人間であるやよいには、爆風の余波とて深刻なダメージとなる。
人体というものが爆風にどれだけ耐えられるか、プッチャンは熟知しているわけではない。
なのでただ見たままを捉えると、やよいの復帰はもはや絶望的のようにも思えた。
まず目を背けたくなるのが、やよいの双眸と耳。どちらも赤く滲んでいる。これは眼底出血と鼓膜損傷を意味していた。
先ほどからプッチャンやダンセイニが喋りかけても、やよいには声が届いていないのか反応が返ってこない。
皮膚にはいくつかの裂傷が。これは爆風の余波だけでなく、傍にあった食堂の窓、割れたガラス片が齎したものでもある。
目と耳、そして顔……やよいの身に降りかかった災いは、どれもアイドルにとっての死活問題と言える。
見ていて痛々しい生傷が、人形の身であるからこそ無傷で済んだ自分が、なにもかもが呪わしかった。
そんなプッチャンに追い討ちをかけるように、
『――これより、二十二回目となる放送を行う』
基地全域に、その声は響き渡った。
「なっ……!? ちょっと、待てよ。冗談やめろよ、こんなときに……」
「てけり・り……」
「……嘘だ。俺は、俺はぜってぇ信じねーぞぉぉ!」
神崎黎人による、第二十二回定時放送。
死亡者として告げられたのは、玖我なつき、山辺美希、ファルシータ・フォーセット。
最悪を通り越した最凶の状況は、この訃報によりさらに悪化し、プッチャンにとっての生き地獄と化す。
「あいつらが死んじまっただなんて……やよいにどう伝えりゃいいんだよ……っ」
やよいの耳には、もちろん放送など届いていないのだろう。
周囲の音に対する反応はまったくといいほど見られず、そして、
「……ぉっ」
不意に小さく呻き――プッチャンが見守る中で、咳するように血を吐いた。
「やよい! しっかりしろぉ!」
口元が赤く染まった。口内ではなく、喉の奥、呼吸器から出血しているようだった。
外傷ばかりに気を取られていた。爆風を間近で受けたとあらば、ダメージはその内部、肺や内臓器官にまで及んでいてもおかしくはない。
現状をより深刻に捉え、プッチャンはだからといって、なにをすることもできなかった。
無力だからこその、慨嘆。
ダンセイニは懸命に、仲間を求めてやよいの身を運搬する。
やよいには俺がついている、そう豪語していた相棒は、所詮人形なのだ。
「――やよいちゃん!?」
通路を這い進む内、ついに第三者の声に行き当たる。
それは敵兵の獰猛な号令ではなく、聞き慣れた少女の声。
前方から駆け寄ってくる、羽藤桂と羽藤柚明の声だった。
「やよいちゃん! ねぇ、やよいちゃんどうしたの!?」
「酷い怪我……っ。待って桂ちゃん、不用意に揺さ振っちゃ駄目」
一目見ただけで、二人にもやよいの怪我の深刻さがわかるのだろう。
桂はダンセイニの傍に寄るなり顔を青ざめ、柚明は即座に治癒の力を行使し始める。
ダンセイニもそこで立ち止まる。上で横たわるやよいは依然、絶対安静の状態だった。
「プッチャンさん、この怪我は……」
「爆弾がっ……! 近くで爆弾が爆発して、俺とやよいは吹っ飛ばされて……ダンセイニがここまで!」
「落ち着いてプッチャン。とりあえず、どこかゆっくり治療できる場所に移ろう。誰か来ると困るし……」
治癒の力が使える柚明と再会できても、まるで安寧を得られない。
説明も満足にこなせないまま、プッチャンはやよいの苦しげな表情ばかりに目がいってしまう。
桂が先導し、柚明が後衛を務めながら、ダンセイニがやよいを運ぶ。
プッチャンはやはり、この場では嘆くことしかできない。
一度は死に、しかし蘭堂りのの守護者としてこの世に魂が残留することを許された、人形の自分。
この矮小な体をここまで呪わしく恨めしく憎たらしく苛立たしく思ったのは、生まれ変わってから初めてのことだった。
・◆・◆・◆・
「……青い……空」
私はついに、クリス君を待つ為の舞台まで辿り着いた。
だが、辿り着いた先の舞台はなぜか天井に大きな穴が開いていて、そこからぽっかりと空が見える。
床に流れ落ちてきている土砂やなにやらを見るに、どうやら、最初の爆発の時にできたらしい。
そこから見える空はとても、とても青かった。
私は暫く惚けたようにただ、青い空を見続ける。
眩しく輝く太陽を何処か懐かしく感じていた。
実際、缶詰に近い状況だったのだから本当に久々だともいえる。
そして、これが、私が最後に見る空と太陽だろうとも。
そう思うと、いつもは当たり前に見上げるその空もどこか惜しく、私はずっと見続けていた。
ずっとずっと。
この空がずっと残るように。
心に焼き付けていた。
「しかし、粋なはからい……と言えばいいのか」
空から視線を下ろし、まわりをを見渡して私は苦笑いをする。
私とクリスが出逢うべき舞台。
そこはまるで、”彼と最初に出逢った場所”にそっくりな形で。
これも神崎黎人のお膳立てによるものだというのだろうか。
二人が出逢った大聖堂の様で。
だだっ広い空間は礼拝堂のような作りになっていた。
長椅子や、段を上った先にあるオルガンの位置もあそことそっくりだった。
惜しむならば、それがパイプオルガンではないことぐらいか。
まぁ、そんなのものは一朝一夕準備できるものではない。なので偶然なのだろう。
私はそう思いながら、オルガンのある所まで歩いていく。
天井が爆破されてきた時に流れ込んできたのだろう。どこも水浸しだ。
しかしそれが、これも偶然なのだろうが流れる水が演出となりこの場所を荘厳なものへと変えている。
一段だけ高い礼拝堂の周りは空色を映す水が満ちており、
まるで、あの時の出会いを劇の1シーンと切り取ったかのように見える。
本当に、彼と私のための舞台のようであった。
そういえば、クリス君と出逢った時もオルガンを弾いていたな。
階段を一段ずつ上り、私はあの時のようにオルガンの前へと座る。
そこからは舞台全体を一望できて、そして空を見上げることもできた。
綺麗だなと思って私は椅子に寄りかかる。
一息して、目を閉じた。
もう少しだ。
もう少しで終わる。
全部、全部だ。
だから、今はゆっくりと思い出そう。
大切な人達のことを。
大切な想い出を。
かけがえのないものを。
みんな、みんな。
死ぬ前に。
私はずっと生きていた。
それを実感して心に焼け付けよう。
そう思ったら。
自然とオルガンを奏でていた。
それはクリス君と出逢った時に弾いていたもの。
全てのハジマリの曲だった――。
・◆・◆・◆・
僕はただ進んでいた。
進んで進んで。
歩き続けていた。
全ては唯湖に会う為に。
一歩ずつしっかりと。
どれくらい、歩いたのだろうか。
通路の先から、ふと懐かしい旋律が聞こえてくる。
それはハジマリの時に聞いた旋律で。
僕はただ、その音が流れてくるところへと全力で駆け出していた。
ある確信を持ちながら。
それは唯湖がそこに居るという確信で。
僕はただ前だけを見て走って。音を辿って。
少しでも早く着くようにと思って、残り少ない力で進む。
そして――――――
そこにいたのはなんと表現すればいいのだろうか。
高い位置に置かれているオルガンの前に座っていて。
とても長い黒髪をもっていて。
その髪は吹き抜けの空から漏れる光で照らされてとても綺麗に輝いてるよう。
後姿だけでも美人といえるようだった。
そう、それはまるで別世界にいるような何処かにある国のお姫さまのようで。
本当に彼女とのハジマリの出逢いと全く一緒で。
静かに振り続ける霧雨の先に見えたお姫さまは。
「――――唯湖」
名前を呼ぶ声に振り返って、優しく微笑んだ。
そのお姫さまは来ヶ谷唯湖。
僕はずっと待ち続けていて。
そして、
「……クリス君、君の雨はもうやんだかい?」
僕を労わるように彼女はそう言った。
僕は微笑みながら進んで。
「まだ……まだだよ……君を……君を止めてから」
そんな僕の呟きに唯湖は哀しく笑って。
「そうか……そして、御免な」
辛そうな謝罪と共に僕の目の前に何かを投げた。
それは、
「……………………え?」
鍵と錠が着いたペンダント。
僕となつきでおそろいのもので。
そしてそのペンダントには……真っ赤な血がべっとりとついていた。
……え?
………………………………え?
「クリス君……玖我なつきは私が殺したよ」
………………………………………………え?
「嘘………………だ」
『――死者の発表をする』
僕の否定に、それを断じる放送が重なって。
そこに………………なつきの名前が呼ばれていた。
……………………あ……あぁ。
あぁ………………僕は………………、
また………………護れなかった…………のか。
また………………失った…………の……か。
『私はお前が――クリスが好きなんだ』
なつき。
……大好きななつき。
『なつき――と、そう呼んでくれ』
優しくて。
そう言った君は本当に綺麗で。
あらためて君に惹かれたと思ったんだ
『わかるか? 私はなぁ……クリスの傍がたった一つの居場所なんだ!』
僕にとっても、君の傍がたった一つの居場所だったんだよ。
君が居たお陰で僕はここまでこれた。
僕は強くあれた。
『クリス……死なないよな? ……ここにいるよな』
なつき……。
君が死んでどうするんだよ。
君が死んだら……意味がないじゃないか。
『う、うるさい!』
顔を真っ赤にして照れる君が可愛かった。
出来るならずっとずっと君の顔を見ていたかった。
『そうだ、その笑顔が好きなんだ。笑っていてくれ……クリス』
僕も君のその笑顔が好きだったんだよ。
笑っているその笑顔が。
何よりも僕にとっての幸せだった。
『クリスといっしょに』
君と一緒に居たい。
ずっとずっといたかったのに。
ずっとずっと笑っていたかったのに。
『クリス…………頑張ろうな……明日を希望に変える為に』
明日を希望に変えなきゃ。
でも君も、その明日に生きてなきゃ駄目なんだよ。
君が死んじゃったら意味なんてないじゃないか。
『―――互いの心が結ばれたまま、解けないようにって』
もう君の事を忘れるなんて無理だ。
哀しいぐらいに僕の心を奪って、結んでいる。
なのに、君が逝ってしまった。
『クリス、進めっー! 振り返らず進めっー!』
君の言葉があったから。
僕は進めたんだ。
振り返らずに進めたのに。
なのに、
君はもう……いない。
『クリス……愛している』
僕も……。
君のことをたまらないくらいに。
本当に心の底から……
――愛していたんだよ。
なのに……君はいない。
なつきと笑いあうことも。
なつきと触れ合うことも。
なつきの優しい笑顔を見ることも。
なつきの楽しい表情を見ることも。
なつきの哀しい涙も見ることも。
なつきとずっと一緒にいることも。
ずっとずっと一緒に生きることも。
できないんだね。
君は……死んじゃったんだ。
唯湖の手によって。
あぁ。
あぁぁ……。
「うわぁあああああああああああああぁああああああああああああああ!!!!!!!!!」
雨が。
雨が降っている。
土砂降りの雨が空を覆っている。
前も見えないぐらいに振って、何もかもを覆っている。
哀しみの雨が降っている。
この雨は僕の涙なのだろうか。
わからない。
わからないけど。
ただ、ただ哀しかった。
雨が……止まない。
けたたましい音と共に。
これから永久に振り続ける。
''';;';'';';''';;'';;;,.,
\ただいまあ〜!/;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;; \帰ったよお〜/
;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;; ;;'';;'';;; ザッザッザ・・・
;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;; \わっしが来たよお〜/
ザッザッザ・・・ /⌒ヽ/⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ/⌒ヽ
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「……クリス君、君の雨はいつやむのかな?」
そんな呟きが聞こえてきて。
雨の先から唯湖が現れた。
僕は、ただ静かに、悲しみを断ち切るべき剣を彼女の方へと向けた。
唯湖は哀しく笑ってぼくの方にも同じように剣を向ける。
剣と剣が交差して。
二人は見つめあっていた。
雨を未だに降り続いている。
ただその音はすこし強まってきている気がした。
でもいつまでも、いつまでも。
あの雨のふる大聖堂と似ているこの場所で。
二人の再会を証明するように。
ずっと降り続いていた。
・◆・◆・◆・
・◆・◆・◆・
[とある研究員のメモ]
NYPとは“なんだかよくわからないパワー”の略称であり、とある世界の科学部員が発見したものだ。
NYP適合者はビームライフルやらサイバーバリアなどのサイバー兵器を利用可能になる。
ただし、この力のエネルギーの発生プロセスは不明、作用プロセスも不明、適合者の条件も不明。
シアーズの研究者たちはNYPの正体を計りかねていた。
参加者の来ヶ谷唯湖いわく、どこかの世界の超越者が、不思議っ子にインスパイアされて、
その者のためにノリと勢いで細かい設定を考えずにでっち上げた力などというものらしい。
だが、それではあまりにもなんだか良く分からない。
だが、S氏はこれを突き詰め、NYPの力の源はなんだかよくわからないこと自体ではないか、との仮説を立てた。
日本のことわざに『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というものがある。
夜中に揺れる枯れススキは、遠目では得たいが知れないので、時に見る者に恐怖を与える。
NYPはそれ似たようなもので、更に精神だけではなく、生命力や物理にも作用するのではないか。
もちろん、ススキならば、正体が明らかになった時点でその力を失ってしまう。
だが、NYPはいくら観測しても正体を知ることはできない。それは不可解そのものを構成要素とするからだ。
なんだか良く分からない結論。しかし、実験データはそれを裏付けているように見えた。
そうなると、NYPパワーがアンドロイドに高い効果を上げる理由も見えてくる。
ジョセフ・グリーアは機械人形を人間の心を持つことを期待して設計した。
そのひとつは通常のプログラムで記述できない思考プロセスをすることである。
言ってしまえば、彼は人工知能に“なんだかよくわからない”ブラックボックスを組み込んだのだ。
当然、この技術は不可解そのものであるNYPよりは意味不明度が低い。
水は高いところから低いところに落ちると決まっているように、NYPの力はアンドロイドに一方的に流れ込む。
そのため、アンドロイドはサイバー兵器を無防備に食らってしまう。
また、彼らにはサイバー兵器にNYPの力を注ぎ込めない。
しかし、人工知能のブラックボックスとNYPは親和性が高いのも事実。そこで発想の転換。
我々はブラックボックスの意味不明度を極限まで高めることで、擬似的なNYPエレメント兵器を作り出せた。
使い手のNYP適合性は不要。今回のプロトタイプの成果を足がかりに、NYPリーサルウェポンの開発に着手する。
この兵器は複数の人間の媒介に起動するとき、通常の何倍もの効果を上げるだろう。
補足:
擬似NYPエレメントは長時間使用すると、精神力を磨耗するという欠陥が明らかになった。
一番地に研究用のエネルギーや人材を指し止められたため、いまだに改善が行われないでいる。
・◆・◆・◆・
銃声の鳴り止んだ戦場に軽い切断音が響く。セラミック製のドアの斜め上半分はスライドして内側に倒れた。
深優は剣を左手に再変形し、情報処理室に踏み込む。コンピュータールーム特有の焦げたワイヤーの匂いが漂っていた。
人や量産型アンドロイドの気配は無い。敗残兵たちは戦力を集中するために下層へと移動したのだろう。
深優はそこに少ない戦力の有効利用だけでなく、生存の意志のようなものを感じた。
恐らく、シアーズの人間達は言霊に操られていない。自分の意思で戦っている。
もし、深優ひとりでなければ、彼らを武装解除し、投降させることもできたかもしれない。
その反面、彼女単機でなくては、ここまで派手に戦えなかったのも確かだ。
深優はセキュリティシステムを破壊して、周囲に危険がないことを確認。
そして、自分自身を端末代わりにして、スーパーコンピューターに接続、強引に起動させる。
九条むつみの特製ハッキングツールを強制インストール。
深優本人の持つ高速演算能力と組み合わせて、コンピューターから改鋳前のデータから削除済みデータまで丸ごとサーチする。
収穫は既知の情報とダミーデータだけだった。重要なデータは下層に移動させた後だったのだろう。
一度、九条むつみにデータをハッキングされたため、かなり警戒されているらしい。
当然ながら、外部ネットワークとは物理的に遮断されており、これ以上の進展は望めない。
そもそも戦場での情報管理の鉄則を考えれば、コンピューターごと破壊されていてもおかしくないのだ。
徹底的に調べれば何か見つかるかもしれないが、援軍の危険を考えると余り時間は掛けられない。
残るは戦場で拾ったこのメモリースティックだ。これはあの命乞いをした研究者が慌てて落としていったもの。
これも罠かもしれないが駄目元でアクセスする価値はある。深優は警戒しつつメモリースティックを挿入した。
深優はデータをロックするパスコード24桁を入力。そして閲覧。先ほどに比べると、拍子抜けするほど緩いセキュリティだ。
内部のフォルダはたったひとつ、『プロメテウス計画』と名付けられていた。
・◆・◆・◆・
脚だけしかないテーブル。融解したフラスコ。新鮮な死体の横に並ぶ骨格標本。
銃声と爆音、加えて絶望と恐怖の絶叫が右からも左からも流れている。
下層ラボの張り詰めた静寂な空気は、たった10分で激変していた。
恐怖に駆られた研究員は対戦車無反動エレメント砲を闇雲に撃ち続ける。
無尽蔵のエレメント弾が天井に命中。槍を構えるアンドロイドは剥き出しの鉄骨に押し潰された。
戦闘員は弓型エレメントでこの男を射殺。進路の邪魔になる研究者も射殺。彼らも周りの人間を守る余裕がなくなっている。
横一列に並ぶ3人の戦闘員は隠し芸の演目のように、ほぼ同時に後方に吹き飛ばされる。
足元に転がる投擲直前の手榴弾、爆発。衝撃はドア付近の窓ガラスに押し寄せ、透き通った刃となって拡散。
ヒゲを蓄えた男の頬を貫通。音無き声を上げ、床でもがく。恰幅の良い中年女は彼に躓いて転倒。
すぐに起き上がり、再び走り始める。だが、彼女の必死のサバイバルは徒労に終わるだろう。
下層セクション2の連中はセクション1との連絡通路を閉鎖してしまった。
「HiMEの力には限りがない、それはあながち誇張でもないようだな」
紅眼のアリッサはこの阿鼻叫喚の破壊劇、否、深優=グリーアの戦闘データを鑑賞し終え、静かに双瞳を開く。
動画の狂騒と対照的に、少女の居城はいつものように、空は真っ赤で星は黒ずんでいた。
隔離された最下層に、彼女以外に誰もいない。アンドロイドは下層の警備のために出払ってしまった。
にわかに左手首のケーブルが振動する。アリッサは床の銅板から生えたコードで、外部と情報をやり取りするのだ。
「さ、先ほどの動画データは見てくれましたか」
声は若い男性。早口で微妙に上ずっている。これは過度のストレスのためか。
「深優=グリーアは計算以上の数値を叩き出しているな。
この調子で暴れてくれれば、プロメテウス計画の完成も早まるだろう」
アリッサは満足そうに答えた。プロメテウス計画、すなわち人工の星詠の儀の完全なトレース。
これさえ完成すれば、元の世界でもこれと同じ殺し合いを再現できる。
紅眼の少女にとって、地下基地全体は巨大な粒子加速器のようなもの。
加速器内部では、高エネルギーの粒子を衝突させると、より興味深い粒子を観測できる。
それと同じように、結界内で人工HiMEが火花を散らせば、人工媛星製作の有益なデータを収集できるのだ。
「いや、そうじゃなくて。いくら計画を完成させても、帰還できなければ意味がないんですよ」
「いくら犠牲がでようと、星詠の儀を執り行えば、我らは帰還できる。
怪物Xは一番地側の参加者を全滅させ、我は深優=グリーアを破壊する。何の支障があろうか」
彼女は少女特有のソプラノボイスで研究員を突き放す。
確かに、深優=グリーアは成長している。だが、この程度でアリッサが敗北する可能性はゼロに近い。
ただ、勢い余って彼女を拘束も、半殺しもできずに、オーバーキルしてしまうかもしれない。
その後、一番地基地へ向かう前に、神埼に星詠の儀を完了されたら問題だ。
プロメテウス計画を完遂できず、星詠の儀式も乗っ取れず、そのまま元の世界に強制帰還させられてしまう。
「防衛総括は暴走気味で、最終兵器の威力上げるためにもっと人柱増やせとか、このままだと……」
「つまり、上官の方針に変更はないわけだな。我の独断で動くわけにもいくまい。せめて、神崎の死亡が確認されてから報告せよ」
紅眼の少女は通信を一方的に遮断した。無意味な平穏を求めるのは人間の悪い癖だ。
ゲームは勝利条件さえ満たせば事足りる。チェスで敵のキングを追い詰める際に、味方の犠牲に臆すれば勝利はない。
もともとここの人間は、シアーズ財団にとって不要な存在なのだから。
カ ミ ノ コ ト ノ ハ
その時、アリッサは擬似エレメント『real the world』の波長変化を感知する。
この古青江の原型は“コア-O-A 誠一筋”、その使い手は思い人に病的なまでに一途たりえた。
ゆえに、そのイデアのコピーである刀も想いの力の流れを敏感に感じ取るのだ。
「ほぉ、本当の戦いはこれからという訳か。貴重なデータが取れそうだな」
アリッサは視線を前方に移す。擬似チャイルド、サンダルフォンは無数のコードに覆われていた。まるでサナギのようだった。
・◆・◆・◆・
アリッサ=シアーズのメモリーには、シアーズ幹部すら閲覧を禁じられた領域があった。
そのデータの冒頭は、ガラス越しに見える黒い空、万華鏡のように散らばった黄金色の星々。
彼女の足元は、大きな天窓を持つ小さな礼拝堂にあった。黄金の瞳を持つ燭台が石造りの内部を照らし出していた。
この灯火は瞳に闇を持たぬアリッサには不要のもの。光を求める人間のためのもの。
講壇からシアーズの総帥が降りてきた。"黄金の夜明け"の仮面は男の顔貌も表情も覆い隠していた。
彼女は彼の脈拍や呼吸、発汗を計測しても、彼の内面を覗くことはできなかった。
そして、アンドロイドのアリッサ=シアーズ本人も"月の蛾"の仮面を被っていた。
紅眼の少女はシアーズの儀礼に従って、彼に特別の握手をした。
男は仮面をつけたまま、委員会について語り始める。
「委員会の中には、幸運の女神の提案を信用してない輩も多くてね。
彼らは黄金世界は二の次で、邪魔な連中を体良く始末する場と割り切っている。
だが、その制約の中で、勝利の方程式を組み立てさせてもらった。
私個人は、新世界の野望に燃えているからね。まあ、男のロマンみたいなものだよ。
それに、委員会の連中の鼻を明かすのも楽しみだからね」
シアーズ財団自体は至高者の探求や人類の福祉を求める、ただの機能集団に過ぎない。
一応、『徒弟』、『職人』、『親方』と言った階位もあるが、今はあくまで名誉勲章のようなものだ。
だが、内部に委員会と呼ばれる秘密の結社を持ち、黄金世界実現のために裏で世界を動かしている。
『司祭』、『摂政』、『魔術師』、『王』などの密儀の階位は、その者が委員に所属することの証左だ。
「ゲームの構成員の多くに密儀の階位を授けた。彼らに今から教える暗号を示せばいい。
そうすれば、彼らはお前が『王』から生殺与奪の権威を委託されたことを認めるだろう」
『王』たる総帥は、それぞれの階位しか知りえぬ暗号をアリッサに授けた。
アリッサはこれをメモリーの特殊領域に格納。『王』に恭しく一礼、そして問いかける。
その口調は少々不遜だが、これも総帥直々の要望だ。
「王よ、結社の秘密を他者に教えるのは掟に反するのではないか」
「それは、お前は人間ではなく、ただの道具だからだよノートやコンピューターに秘密を記そうと私の勝手だからね。
そして、君はこの世界に戻ったときに解体されるのだ。問題はない」
男はきわめて自然に冷淡に、機械仕掛けの少女に答えた。
アリッサは彼の言葉に納得し、先程の暗号で『王』に絶対忠誠を表す。
「ガンジス川の砂の数に等しい本数のガンジス川、その川すべての砂に等しい数の平行世界を
七種の宝で満たすよりも、優れた宝をシアーズの前に献上しよう」
彼女に死の恐れはない。血に染まり切った兵器が、理想郷で砕かれるのは当然のこと。
自分は道具。全ては適材適所。それは眼前の王にしても同じこと。結局は歯車だ。
「あのクローンも、君くらい本物のアリッサとかけ離れていれば、気楽に接せたのだがね」
総帥はそう呟いて背中を向けた。この角度では"黄金の夜明け"の仮面を見ることはできない。
先ほどと違って、言葉に僅かにノイズがこめられているようだった。
「実際のところ、委員会はシアーズの支配者ではない、理念を横領する不実な会計人だ。
その帳尻あわせのために、あらゆる善行を施し、時にあらゆる悪事を尽くす。
私は黄金時代の幕開けを前者と信じている」
男はゆっくりと息を吐いて沈黙。そして、告白するようにつぶやく、
「だが、いかなる理想郷であろうと、そこに幸福を見出せるかは当人次第。そして、その逆も然り。
私が娘の死を振り切れたのが、無貌の邪神の対話で追い詰められている最中とは皮肉なものだよ。
……おっと、ここに『人間』は私しかいないな。これまでの話はただの独り言、ほら話だ」
語りきった頃には男の脳波の乱れは収まっていた。
今のは偽らざる感情の吐露なのか、それさえ計算した上での発言なのか、紅眼の少女には判断できない。
だから、アリッサの姿を持つアリッサでないものは、ただ、それを聞いていた。
アリッサ=シアーズのブラックボックスはここで終わっている。
・◆・◆・◆・
「それでは、現状をまとめましょうか」
放送を終え、再び司令室へと戻ってきた神崎は新しく用意された紅茶を一口啜ると、そう言葉を発した。
彼の目の前には重そうなファイルを小脇に抱えた秘書と、相変わらず気だるげな警備本部長とが立っており、
隣には妹である命。その後ろにはボディーガード兼お目付け役のエルザが控えていた。
神崎自身を含めれば5人。
人口密度で言えば決戦が始まってより最も高く、そしてまたその決戦も重要な局面へと差し掛かっている。
「まずは、各参加者の動向と対応について検討しましょう」
神崎が言い。それを了承すると秘書と警備本部長は部屋の端にある大型モニターが見えるよう脇へと身を引いた。
モニターを指して、秘書が報告を開始する。
「一番地本拠地・下層外縁部へと進入を果たした羽藤桂とユメイが、高槻やよいと接触。これと合流しました」
「こちらの誘導通りにね」
「目論んでいた通り、負傷した高槻やよいを治療すべく3人は居住エリアへと移動し、一室にて動きを止めています」
「すでに戦闘員を周囲に配置しているわ。今すぐにでも襲撃をかけることは可能よ」
二人の報告を聞き、神崎はふむと頷く。
放送で司令室を離れていた間のことであったが、那岐から柚明と桂の二人を離れさせる作戦は滞りなく成功してた。
放置しておいたやよいにしても上手く足手まといとして離れた二人に合流させることができている。
「では、彼女達が不得意とする狭い空間へと誘導するよう兵をけしかけて下さい。
戦力に関しては人間の戦闘員のみで――ただし、本拠地内での爆発物の使用をレベル2まで解除します」
「了解したわ。そう伝達しておく。
けど、最悪の場合、最下層のプラント等が利用できなくなる可能性があるけどかまわないのかしら?」
「この決戦が終われば地下に篭っている必要もなくなります。施設の損傷については気にしなくてもかまいません」
なるほどね。と頷くと、警備本部長は無線を取り出した。
神崎にも解らない暗号化したコマンドで手短に指令を手勢へと下すと、ひとつ頷いてまた神埼の方へと向きなおる。
「さて、次は最も重要な標的である凪に対してですが……警備本部長。戦力の準備についてはどうでしょうか?」
「言われた通り、各所からアンドロイドを集めているわ。
彼も霊脈の乗っ取りに時間をかけてくれたし、本拠地への通路も爆砕済み。上がってくる前に囲むことは可能よ」
上々だと神埼はいつもどおりの薄い笑みを浮かべて頷いた。
霊脈を餌として放棄させたのは確かに痛手と言えるが、結果として那岐を孤立させることには成功している。
参加者が神埼の首を落とせば勝利であるのと同じく、一番地側も那岐さえ滅することができればそれでいいのだ。
「現存しているオーファンの数は?」
「21体、ね。霊脈を乗っ取られたから新しく召喚することはできないけど、制御に関しては問題ないわ」
「では、特定の指示を出していないものは例の魔術師の方へと当てて下さい。
代わりに残存しているアンドロイドを那岐の方へと移動させます」
「魔術師相手だと相性が悪くないかしら?」
「凪相手だとなおさらに、です。
あちら側は基地そのものを放棄しても構いません。いざとなれば崩落させて足止めとしましょう」
了解すると、警備本部長は再び無線を取り出す。
今度は少し時間がかかりそうだと見ると、神崎は続きの報告を秘書へと促した。
「クリス・ヴェルティンが来ヶ谷唯湖と接触を果たしました。現在、交戦状態にあります」
「ふむ。すぐに懐柔されるかとも思いましたが、なによりですね。ところで――」
「は?」
「そこに玖我なつきの死体が転がっているはずですが、それはどうでしょうか?」
「死亡時の様子はこちらのカメラでも捉えていますし、首輪からのバイタルデータも消失しています」
「なるほど。死んだフリはないと……安心しました。
クリス・ヴェルティンと来ヶ谷さんに関しては予定通りに経緯を見守り、決着がつきましたら残りを処分してください」
神崎はほぅと息をつく。
先程の放送で3人の名前を呼び上げたものの、基地内の監視体制が万全でない為にその死亡は明確ではなかった。
最初に死亡が報告された時、山辺美希とファルシータ・フォーセットの死亡状況が不明だっただけに、
参加者側の策ではないかという疑いもあったが、しかしどうやら思い過ごしだったらしい。
「崩落に巻き込まれた杉浦碧のバイタルも微かで動く気配もありません。じきに死亡するものと思われます」
「なるほど。彼女に当てていたアンドロイドはどうでしょうか?」
「残念ながら、オーファンと同じく崩落により機能を停止しています。新しく兵を派遣しましょうか?」
それには及ばない。と、神崎は秘書からの問いに首を振る。
確実に止めを刺しておきたいというのはあるが、いかんせん場所が場所だけに戦力のロスを考えるとそれも憚られた。
「他はどうでしょうか?」
「アントニーナ・アントーノヴナ・ニキーチナが本拠地中層まで辿りついています」
「近いですね」
「しかし、動きを見ると、どうやら彼女は羽藤桂、ユメイ、高槻やよいの方への合流を優先する模様ですが」
「なるほど。でしたら、そちらに当てていた戦闘員を使って対応することにしましょうか。
それと、中層の戦闘員も合わせて移動させてください」
「そうしますと、ここを守る者がいなくなってしまいますが……」
神崎からの提案に秘書が口ごもる。
いかに参加者を撃退する為とはいえ、それはリスクがあるのではないか? と、口にせずともそれが表情に表れていた。
しかし、神崎はそんな心配はしなくていいと、部屋の端に並び立つ美少年らを指差す。
「十干兄弟……ですか」
ただの人形のように立っている少年らを見て、秘書は喉を鳴らした。
一見、アンドロイドにも見えるが彼らはそうではない。しかし、その実力と危険性はアンドロイドを遥かに凌駕している。
更にはシアーズから提供された擬似エレメントにより強化され、再調整も加えられているのだ。
なるほど、どうりで黒曜の君は涼しい顔をしている訳だと秘書は納得した。あれに比べれば戦闘員の数など誤差程度にすぎない。
「それに、命もいますからね。僕だって、そう簡単にやられてしまうつもりもありません」
言って、神崎は隣でうとうとしていた命の頭を撫で、もう片手に新生した弥勒を掲げて見せた。
・◆・◆・◆・
「さて、残りについてはどうでしょうか?」
指示を終えて戻ってきた警備本部長を加え、神崎は改めて彼女らに問いかける。
残りの参加者らについては、どれもその扱いが特殊なものばかりだ。
「深優ちゃんだけど、八面六臂縦横無尽の大活躍ねぇ。シアーズからの救援要請が引っ切り無しよ。勿論、無視しているけど」
「被害のほどはどうでしょう? 彼女はアリッサちゃんを倒せると思いますか?」
「この調子なら、シアーズそのものは完膚なきまでに叩き潰してくれると思うけど……、そこまでかしらね。
そもそもどうして深優ちゃんひとりなのかというのもあるけど、あまり期待しすぎるのもよくないと思うわ」
「では、抑えてくれているだけでよしとしましょう」
ではと、神崎は話題を変えた。次に名前が挙がったのは目下行方不明中の吾妻玲二である。
「作戦は変わらないわね。通過する必要がある地点にて待ち伏せ。
ここを抜かれちゃ、もう本拠地だしね。アンドロイドに加えてオーファンも強力なものを揃えたわ。さすがに二の舞はないわよ」
ふむと頷くと神埼はレーダーに映らないもう一人の名前を挙げた。
「九条むつみ……ね。彼女も今はどこにいるか定かではないわ。幕僚長直下の部隊が捜索にあたってはいるけど」
「目的はおそらく、鍵を持った言峰綺礼か因縁のあるシアーズでしょうね。
首輪については今更外されても、むしろ解放された想いが命の元へ集中することを考えれば有利なぐらいですし、
シアーズにしても彼女が深優に加勢するというのなら、これもこちらにとってはありがたいことです」
「つまり、放置するということかしら……?」
「ことさらに追う必要はないでしょう。娘さんも死んでいることですし、藪蛇になりかねません」
それもそうね。と頷くと、それじゃあれはどうしましょうか? と、警備本部長はモニターへと視線を移した。
モニターの一角。監視カメラやアンドロイドから送られてくる映像が並んだそこに、ひとつ黄金に輝く存在がある。
深優・グリーアが八面六臂縦横無尽とするなら、こっちは絶対無敵三国無双という風の大活躍を見せる最強のロボ――。
「……ドクター・ウェスト」
神崎、警備本部長、秘書と、3人から呆れ半分の溜息が零れる。
傍若無人に好き勝手の限りを尽くすそれに、3人もこればっかりは想定外だと、そんな表情を浮かべていた。
地上で無双の限りを尽くしていたドクター・ウェストの黄金に輝く破壊ロボであるが、
さすがにあの巨体では地下基地内には入ってこれまいと思っていたのに――いや、それは正しくはあったが、
しかし、その姿は島の”地下”に存在している。
「まさか、そのまま地下を掘り進んでくるとは……」
「それもやたら滅多らにね。
一気呵成というほどでもないけど、これじゃあこっちからも中々手が出ないし、さてどうしたものかしら?
言ってる間にこの本拠地まで辿りつきかねないわよ」
通路を無視して自慢のドリルで地中を好き勝手に進行しているドクター・ウェストの破壊ロボ。
多種多様なオーファンにしてもそれに対応できるものは少なく、何より黄金のフィールドが全てを跳ね返してしまう。
まさに無敵と埒外の権化というべきそれに、神崎の表情もさすがに曇ったものになっていた。
「――エルザがいくロボ」
と、その時。背後に控え、発言も慎んでいたエルザが一声を発した。
「こんな不条理はないロボ。
あんな存在が負け知らずに全戦全勝と勝ち進んでいくなんて、この世にあっていいことではないロボ。
というか、すっごく見ていて不快だロボ。イライラするロボ。虫唾が走るロボ。
あれは……あれはもっと間抜けで貧弱でボロ負けして『覚えておくがよいであーる』なんて言って遁走するのがお似合いなはずで、
こんな勝利とか栄光とは程遠い下水道のドブ水に浸かってわんわん泣いて、それでエルザに……エルザに……」
怒り、であろうか。
珍しくも?感情を露にするエルザに神崎をはじめ、そこにいる全員が驚いていた。眠っていた命も起きて、何事かと目を丸くしている。
「とりあえず、エルザがぶっちのめてくるロボ!」
叩きつけるように言い放ち、エルザはカツカツと音を立てて司令室から出て行こうとする。
明らかに命令を無視した勝手な行為であったが、しかし彼女が部屋を去るまでそれを留めようとするものはいなかった。
「いいのかしら? 彼女の勝手にさせて。しかも、相手が相手よ……万が一ということも」
「しかし、あれと渡り合える存在がどれだけあるかと考えると、ここは仕方ないでしょう。少なくとも時間はかせげます。
それよりも……」
何か別の問題があるのか? 眉根を寄せた警備本部長へと、神崎はさらりとこんなことを口にした。
「これから、僕の紅茶は誰がいれてくれるんでしょうかね?」
・◆・◆・◆・
「おや?」
閑散とした通路を疾駆する傍ら、手元のレーダーに新たな反応が浮かび上がった。
唯一、仲間と合流できるすべを持ちながら不幸にも未だ誰とも合流できていない、彼女。
銀のポニーテールを尻尾のように振り翳す――銀狐、トーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナが立ち止まる。
「桂さんに、柚明さん……そしてやよいさんですか。首尾よく合流を果たせたようですね」
メンバーの中でも随一の非戦闘員であるやよいが、桂と柚明の二人と合流できたのはトーニャにとっても僥倖だ。
あの二人がついていれば、滅多なことは起きないだろう。肩の荷が下りた心持に、トーニャは微笑を零す。
「……ええ。これ以上の犠牲は好ましくありませんからね。みなさんの士気にも、影響していなければいいのですが」
が、すぐに表情を辛辣なものに変え、憂いを呼び戻す。
「酷な話ですかね、それも」
敵本拠地に突入してすぐ、散り散りになってしまった仲間たち。
その内の何人かは、先ほど施設全体に響き渡ったある報告によって、多大なる影響を受けたことだろう。
第二十二回目となる、このような状況下でも律儀に進められた、正午を知らせる――放送。
玖我なつき、山辺美希、ファルシータ・フォーセット、以上三名、戦死の報せ。
「私たちにプレッシャーをかけるための虚言……と判断できれば気が楽なんですがね。
システム上、そのような真似は許されないはず。なら、これはもう覆らない事実として、受け止めるしかない」
気持ちの整理をつける意味での、淡々とした独白。
昼夜問わず皆の前ですとろべりっていたなつきも、
寺院で出会った頃から因縁を築いてきたファルも、
お調子ものでムードメーカー的存在だった美希も、
死んだ。帰らぬ人となった。もうお別れなのだった。
だからといって、くよくよ悲しんだり、嘆いたり、ましてや泣いたりなど、今のトーニャたちには許されない。
ここは戦場。そして敵地。明日は我が身を十分に自覚し、四方八方から迫る敵勢に対処しなければならない場。
ありとあらゆる感情を殺し、実直に行動すべきだ――と、トーニャはクールなロシアンスパイとしての自分に言い聞かせる。
「……さて、と。近くにいるというなら合流しない手はないですね。私も向かうとしましょうか」
レーダーに浮かぶ三人の反応は、今の離れつつある。
またもや合流を果たせず、ではいい加減コントだ。
トーニャは疾駆を再開せんと一歩目を踏み出し、
二歩目で踏み止まった。
「……あ」
前方、通路の先の曲がり角から、ひょっこりと顔を出した懐かしい姿。
自身とは対照的な、相変わらずの金髪。決して扇情的とは言えない、幼稚な裸ワイシャツ。
ふさふさとした金色の尻尾を、隠そうともせず無防備に晒すその存在へと――トーニャは行き会った。
ある種、トーニャ最大の標的でもある、彼女に。
(……“狐”はあなたのほうでしたね。そうそう、思い出しましたよ。私は狐ではなく“狸”……そういう配役でした)
トーニャの眼前に、終生のライバルたる妖狐が現れた。
・◆・◆・◆・
すず――それは武部涼一からもらった、人型としての彼女の名前。
愛着はあるし、捨てる気も毛頭ないし、その名で呼ばれることを至福と感じさえする。
だがそれも、彼に限った話。彼以外の大多数にその名で呼ばれると、正直虫唾が走る。
ゆえに、彼女との邂逅の瞬間、眉間に皺が寄るのはある意味必然と言えた。
「あー、すずたんだ〜。こんなところでバッタリだなんて、運命的! トーちん嬉しくて泣けちゃいそう!」
通路上で偶然対面した、彼女――トーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナは、裏声全開でそんなふざけた挨拶を放る。
すずは遠慮のないしかめっ面をトーニャに浴びせ、一言。
「気色わるっ……」
本心からの不快感を告げた。
「む。練りに練った再会の挨拶をそのような形で一蹴するとは、さすがはフォックスビッチといったところですね」
「…………」
「なんですか、その、私なんかとは口も利きたくないと言わんばかりの表情は。実にすずさんらしい。最高にして最低です」
減らず口を、と罵る気すら起きない。
戦場のど真ん中で、敵同士が遭遇した。だというのに、双方に殺気はない。
あるはただ、嫌悪と侮蔑を込めた眼差し、友愛と親和性を秘めたポーズ、不合致な組み合わせだけ。
「で、こんな場所でいったいなにを? まさか人材不足のため、あなたも戦闘員として借り出されたんですか?」
「――“黙れ”」
語る言葉は、力となる。
妖狐のみが持ち得る絶対服従の力――『言霊』。
逆らうことは不可能な命令として、すずはトーニャに“黙れ”と告げる。
「無駄ですよ。あなたも学習しませんねぇ。私が耳につけているこのインカム、わかりませんか? 対策は万全です」
しかしその言霊も、耳に直接届かなければ効果は適用されない。
初邂逅のときと同じく、トーニャの耳にはおかしな機械が装着されていた。
そのせいで、こんな初歩的な言霊も憑かせることができない。すずは歯がゆく思った。
「さて、“言霊で部下を自我なき操り人形に変えた”、でしたっけ。まったく、厄介なことをしてくれましたねぇ」
「…………」
「あなたがいなければ、城攻めも随分と楽になっていたでしょうに……こっちは早々に戦死者まで出る始末です」
「…………」
「そのことについて、然るべき始末をつけたいところですが……話す気がないとなると、待っているのはただの虐殺ですよ?」
調子ぶった態度のトーニャに、すずは内心、苛立ちを募らせるばかりだった。
しかし彼女の強気にも頷ける部分はある。なにせ、すずとトーニャの実力差は見るも明らか。
人工とはいえ、戦う術として人妖能力をマスターしているトーニャに、言霊を封じられたすずが勝てる道理はない。
相手側に、こちらを殺す気があるとすれば――すずの身は武部涼一の顔を再見することなく、むくろと化すだろう。
傍目から見れば、この状況はピンチなのだ。
逃げ出すなり、助けを呼ぶなり、そういったことをすずはするべきだった。
が、すずはなにもしない。むき出しの敵意を、目の前のいけ好かない女に向けるだけ。
その不遜な態度が、トーニャの失笑を誘った。
「……せっかくの知己との再会です。私としては、腰を落ち着けて話したいのですが。どうですか?」
選択肢を投げられる。
この場で死ぬか、話してから死ぬか。
もしくは、会話の末にこちらの懐柔でも狙っているのか。
どちらにせよ、すずの選択は既に決まっていた。
「……なら、おあつらえ向きの部屋がある。案内するから、ついてきて」
「やれやれ、やっとまともな言葉を返してくれましたか。いいでしょう、付き合いますよ」
すずはその場で振り返り、トーニャに背中を見せる。
トーニャは別段、不意打ちを仕掛けようともしない。
ただ黙って、すずの後ろをついていく。
「地獄の果てまでね」
そんな不穏な言葉を漏らしながら。
心底いけ好かないと思った。
・◆・◆・◆・
ノブ式の扉を潜った先には、夢に描いたような子供部屋の風景が広がっていた。
四方の壁を埋めるのは、色鮮やかなイラストの数々。兎や小鳥が花畑で戯れている。
辺りには積み木やジグソーパズル、ぬいぐるみなどの玩具が無造作に散らばっていた。
「これはまた、えらくファンシーなお部屋ですね。いったい誰の趣味なんでしょう」
すずに案内された“おあつらえ向きの部屋”に入り、トーニャは感嘆。
敵のアジトにまさかこれほど場違いな一室があるとは、驚きだった。
「あ、大福」
カーペット敷きの床を土足で歩みながら、トーニャは部屋の中央に置かれた卓袱台の上を見た。
大福がぎゅうぎゅうに詰まった重箱がある。薄っすらとした赤みは、苺大福と見て取れるだろうか。
「それは命の。別に食べてもいいわよ」
「遠慮しておきますよ。毒でも入っていたらかないませんから」
のこのこと敵の誘いに乗ってはみたが、トーニャは罠の可能性を捨て切ってはいない。
おどけた態度の裏では、常に緊張と警戒を。他者を欺き、自分を偽ることは、スパイである彼女の本領だ。
すずはそんなトーニャに一言、「そう」とだけ言って、部屋の端に置かれたベッドに腰掛けた。
「で、わたしといったいなにを話したいって? さっさと済ませて」
「おお、この清々しいまでに偉ぶった態度。まったくもってすずさんそのもの。懐かしさが込み上げてきます」
「御託はいらない。本当はこうやって顔を合わせているだけでも不快なんだから」
「相変わらず傲岸不遜を絵に描いたような糞キヅネですねぇ。少しは我が身の心配をしたりはしないんですか?」
トーニャは入り口の近くに立ったまま、間に卓袱台を隔てて、ベッド上のすずに語りかける。
「私のスペックを知らないわけじゃないでしょう? 今すぐにでも、あなたの首をキュッとやることは可能なんですよ?」
てめぇなんざいつでも殺せるんだよ、という牽制。
すずは「ふん」と鼻を鳴らし、態度は依然、平静を保つ。
「だから、なに? 言っておくけど、わたしを殺したって意味なんかないわよ」
「おや、それはおかしな話ですね。戦争の最中、敵を屠ることに意味がないだなんて――」
「なんか勘違いしているようだから言っておくけど……わたしは、神崎黎人の味方ってわけじゃない」
出てきた言葉に、「おや」とトーニャは怪訝な表情を作る。
「妙なことを言いますね。なんですか、那岐さんや九条さんのように、神崎を裏切ってこちら側につく気でも?」
「ふざけたことを言わないで。わたしは神崎黎人の味方ではないけれど、おまえたちの味方というわけでもない」
すずは敵意を剥き出しにした瞳で、トーニャの顔面を射抜くように見る。
「わたしにとっては、人間なんてみんな敵よ……一人残らず死んじゃえばいいんだ」
恨みがましい呪詛が込められた、文面どおりの恨み言。
このすずは、トーニャを知らない平行世界のすず――だとしても、人間嫌いな点は変わっていない。
「……いったいなにを話したいのか、さっきそう訊きましたよね。いいでしょう、お答えします。
私が話題として挙げたいのはすずさん、なにを隠そうあなたのことなんですよ」
トーニャはにこやかに、憮然とした顔つきのすずとは対象になるよう、表情に気を配る。
「人間なんてみんな死んじゃえばいいんだ、ですか。矛盾した言葉だとは思いませんか?
あなたが起こした行動は事実、神崎黎人への協力。毛嫌いする人間の手助けなんですよ。
真に人間を憎んでいるというのなら、あなたの言霊で片っ端から死ねと命じていけばいいじゃないですか」
すずは相槌の一つも打たない。黙って耳を傾ける。
「私にはまだ、そのへんの事情が見えてこないんですよ。あなたはなぜ、神崎黎人に協力しているのですか?」
それは、那岐や九条むつみも知り得ていない、おそらくは本人のみが知っているのだろう繊細な事情。
このすずは如月双七を知らない。が、境遇は違えどその中身、性格や能力、妖狐の本質までは変わっていないだろう。
だからこそ、ずっと気がかりだった。人間嫌いのすずが、神崎黎人という人間に協力している理由はなんなのか。
「……そういう盟約だからよ。神崎黎人に協力しろ。わたしはそういう風に言われただけ」
「質問の意図が読み取れていませんか? 神崎黎人に協力しろ。そんな戯言を、どうしてあなたが大人しく聞いているんです?」
トーニャの知るすずは、間違っても人間の言うことを大人しく聞くタマではない。
たとえそれなりの利得があるのだとしても、まず人間への不信感、嫌悪感が先に来るのが彼女の性分だ。
神沢学園生徒会の面々ならともかく、一番地などという得体の知れない組織に加担する理由など、考えられない。
「なにも……知らないくせに……っ」
訝るトーニャから視線を外し、すずは不快そうに舌打ちをした。
「わたしは“ある女”から神崎黎人に協力しろと言われた。喋れるのはそれだけ。
女の正体は誰なのか、見返りはなんなのか、全部まとめて他言無用。そういう盟約なの」
「すずさんの口にそこまで堅いチャックを施すだなんて、大層なやり手みたいですねぇ。
なるほど、薄っすら見えてきましたよ。あなたは神崎以外の誰かと、盟約とやらを交わした。
その内容は神崎黎人への協力。そして詳細は一切合財他者には語れない。そういうわけですね?」
すずは脚を組みなおし、短く一言。
「そうよ」
ちらり、と履いていない部分が見えたが、トーニャは自粛する。
「しかしそうなると、やはり“人間なんてみんな死んじゃえばいいんだ”というセリフは矛盾しています。
あなたの立場で考えるなら、神崎黎人が敗北してしまっては事でしょう。協力の意味がなくなってしまうのですから。
ましてや自分は味方じゃない、むしろ死ねばいいだなんて、それは盟約に背くことと同義なのではありませんか?」
「わたしにとって大事なのは、協力したという結果だけ。神崎の生死も、この争いの勝敗も、関係ないのよ。
現にわたし、もうお役御免なわけだし。ここの人間を言霊で人形に変えたのが、わたしの最後の仕事ってわけ」
「ははぁ。だからあんなところで油を売っていたわけですか。それはたしかに、あなたを殺しても意味なんてありませんね」
一連の会話の中から、キーワードを選別。
すず――いや、『言霊』という舞台装置の現状について、推察する。
「本当……こんな茶番、さっさと終わってほしいのよ、わたしは」
彼女に与えられた役割は、『言霊の使用』という一点に尽きる。
それ以外に存在価値はなく、戦闘員などでは絶対にありえない、ただ事が終わるのを待つだけの傍観者。
物語の中から外れた“自称幸運の女神”と同じく、彼女もそういう意味では、既に退場者なのだった。
「それについては同感です。こんなところで時間を取られている暇もない、というわけですな」
なら、悠長にしている場合ではない。
こうやって話している間にも、他の仲間たちは生き死にの場を駆け抜けている。
言霊という厄介な力を有していたすずは、幸いにもこの最終決戦に関しては不干渉を貫く気構えだ。
憂いが一つ取り除けただけでも収穫と考え、改めて戦地に赴くとしよう。
と、自己完結。
トーニャはすずとの因縁に、ここで一応の決着をつける。
「あ、苺大福一個もらっていきますね。こちとらお昼も満足に取れていないものでして」
「……いちいち断らなくていいから。とっとと出てけ」
「おお、ゾイワコゾイワコ」
卓袱台の上の苺大福を一つ、ひょいっと掴み口に含むトーニャ。
もごもごと咀嚼しながら、部屋の入り口へと向き直る。
「……うるさい奴っ」
ドアノブに手をかけたところで、ぼそっとすずが零した一言を、トーニャは聞き漏らさない。
苺大福の甘ったるい味を十分に堪能した後、これを嚥下。胃に栄養分が落とされていくのを実感。
「……そうそう。訊き忘れていたことが三点ほどありました」
ドアを開こうとした寸前、トーニャは顔だけをすずのほうに向け、訊く。
「“如月双七”という名前に、覚えはありませんか?」
含みを感じられない、無機質な問い。
「知らない」
すずは淡白にそう答えた。
「では、“如月すず”という名前はどうでしょう?」
同じ調子で、トーニャがまた尋ねた。
「……はぁ?」
すずは即答を返せず、間の抜けた声を発した。
「これも知りませんか。では、これが三つ目の質問になりますが――」
トーニャそっと、ドアノブから手を離した。
全身ですずのほうへと振り返り、口元に指を添える。
表情は妖艶な色で染まり、今度は含みありげに、もったいぶって質問を口にする。
「――あなたが持っている“すず”という名前。これ、いったい誰にもらった名前なんでしょう?」
瞬間。
ベッドに腰掛けていたすずの身が、跳ね上がった。
悄然とした顔つきで、トーニャの言動に衝撃を覚えている。
――ビンゴ。
トーニャは胸中、来るべき延長戦への期待感に心を躍らせていた。
・◆・◆・◆・
「……その」
トーニャの思いもよらぬ言葉に、気づけば体は勝手に動いていた。
ベッドの傍、卓袱台を間に置いて、扉の前に立つトーニャの顔を睨み据える。
姿勢は正しく、口元は微かに笑んだ、挑発的で不敵な佇まい。
視界に入れておくだけでも苛立たしい、鬱陶しさに溢れた存在感。
「その名前で、わたしを……その名前を呼ぶな!」
感情を抑えきれず、すずは怒号する。
トーニャは顔色一つ変えずに、その必死な様を嘲笑った。
「それは命令ですか、“すず”さん? 言霊を封じられた小娘の戯言など、はたして何人が耳を貸すものか」
「またっ……!」
「それとも知らないんですか? 名前っていうのは、呼ぶためにつけられるものなんですよ」
退室する気はすっかり失せたのか、もしくは最初からポーズだけだったのか、トーニャは扉を背に文言を突きつけてくる。
「“すず”が嫌なら改名してはどうです。ファッキンフォックスなりフォックスビッチなり、素敵な候補はいっぱいありますよ」
反論する隙を与えない、怒涛の舌回し。
舌戦は、問答無用で相手を捻じ伏せられる術を持つすずにとって得意分野であるはずなのに。
黙れ、とでも。
死ね、とでも。
好きなように命ずればそれで済むだけの話なのに、叶わない。
盟約により、ここの職員たちに対して使用を禁じられていたのとは状況が違う。
言霊が、今一番殺してやりたい女に通じないという、歯がゆさ。
トーニャの言動が、すずの苛立ちを一層高まらせていく。
「大事な人にもらった名前なんて、捨ててしまえばいいじゃないですか」
そして――その一言で絶句した。
怒りを一時的に諌めた上での、驚愕。
まるで、こちらの胸の内を見透かしているような。
「おまえ、まさか……」
おそるおそる、口に出す。
共通点など、なにもなかった――はず。
とまで思って、一つだけ、あったことに気づく。
人妖。
人と妖怪の狭間をいく、あやかしならざるあやかし。
目の前のトーニャも、今はまだ会えない“彼”も。
同じ人妖――だから、どうだというのか。
考えたところでわからない。
わからないゆえに言葉にしてしまう。
「……涼一くんのことを、知ってるの?」
発言自体が、トーニャの仕掛けたトラップだとも気づかずに。
すずは敵対者に、絶好の考察材料を与えてしまう。
「涼一くん、涼一くんですか。なるほど……それが如月くんの本名だったというわけですね」
得心がいきました、とトーニャは揚々と頷いてみせる。
すずは棒立ちの状態で、彼女の挙動に目を見張った。
「ありゃ、急に大人しくなりましたね。言いたいことがあるならどうぞ」
「…………」
「沈黙、と。わからないでもないですが、ここは喋る場面だと私は思いますよ」
言葉が出てこなかった。
芽生えてしまった予感を意識すると、どんな発言も地雷となってしまいそうだった。
「質問は三つと言いましたが、追加でもう一つだけ訊かせてください。
あなたはこの儀式、いえ、殺し合いの実情をどれだけ把握しているんですか?」
すずは答えない。否、答えられない。
まるで“黙れ”という言霊が自分に返ってきたかのような、そんなありえない錯覚を覚える。
「その様子ですと、なにも知らないようですね。どこで、誰が、どんな死に方をしたのかも」
わざわざ頷かずとも、素振りだけでトーニャにはわかってしまうらしい。
すずの立場は、あくまでもゲストだ。命令されない限りは、直接的関与も避けてきた。
星詠みの舞という儀式にも、神崎の目的にも、人間同士の殺し合いにも、一切の興味はない。
「かわいそうに。心の底から同情します。せめてもの救いとして、あなたに教えてあげましょう」
トーニャが、笑った。
口元だけの微笑ではない、満面の笑み。
次に飛び出す言葉が恐ろしくなるほどの、前兆。
逃げ出したい衝動に駆られる。
もとより、退路などなかった。
逃げ出すわけにもいかなかった。
まだ。
まだ、彼を取り戻してはいないから――
「如月双七……もとい、“涼一くん”は死にました。あなたが加担し、傍観していた、殺し合いの中でね」
・◆・◆・◆・
「……うそ」
傲慢な態度は崩れ落ち、鉄面皮は蒼白に彩られる。
待ち望んでいた豹変に、トーニャは顔面全体でほくそ笑む。
かつてのライバルがこんな顔を見せるとは、なかなかにそそられるものがあった。
「うそ、だ……だって、涼一くんはナイアが助けたって……全部終わったら、また会わせてくれるって」
「“ナイア”。ようやくその名前を出してくれましたね。裏で糸を引いていたのは、やはり彼女でしたか」
理解し、得心し、ようやく納得した。
すずもやはり、言峰綺礼やエルザと同じくナイアに使わされたゲストの立場。
そしてその境遇を甘んじて受けている理由は――“涼一くん”という人質の存在。
確信はなかったが、予想はできていた。すずが動く理由など、初めからそれしか考えられなかったのだ。
涼一くん――それは神沢学園生徒会所属、“如月すず”の兄である“如月双七”の本名に違いない。
あの兄妹がなんの目的で神沢学園に身を寄せていたのかは知っていたし、如月の姓が偽名であることにも気づいてはいた。
「双七、というのも珍しい名前ですが、いったいなにから取った名前なんでしょう。すずさん、知りませんか?」
「知らない……わたしは、双七なんて……涼一くん、涼一くんは……」
「やれやれ、メンタル面の弱い。そんなにうろたえた素振りを見ると……ますますいじめたくなっちゃうじゃないですか」
トーニャは、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「まとめますよ。あなたが言う“涼一くん”。彼は“如月双七”という名前で、殺し合いに参加していました。
死亡が発表されたのは第四回放送時点。下手人は衛宮士郎という男。深優さんはその現場に立ち会ったそうです。
私はここでは如月くんと対面叶いませんでしたが、面識はあるんですよ。通っていた学校が同じでして。
信じられないかもしれませんが、すずさん。その学校には、あなたも通っていたんですよ。私と同じ制服を着てね」
華麗にスカートを翻す。白を基調とした神沢学園女子制服を、ワイシャツ一枚のすずに見せびらかすように。
すずは、トーニャのその様子を食い入るように見ていた。
「如月くん、いえ涼一くんの印象について語りましょうか。お人よし、優しい、泣き虫、このへんですか。
ええ、殺し合いの最中でもその善人っぷりは遺憾なく発揮されていたそうですよ。深優さんがその証人です。
施設のどこかに監視映像の記録とかないんですかね。どうせ暇してるんなら、今からでも見に行ったらどうで――」
言い切る前に、すずが動いた。
覚束ない足取りで一歩、カーペット敷きの床を強く踏む。
十分に溜めて、二歩。気が動転しているのか、走り出す様子はない。
ただ、言われたとおり事実を確認する意思はあるらしく、歩む先には部屋の扉があった。
トーニャはその扉の前に、立ち塞がるようにして君臨している。
「どけ……どきなさいよ……っ」
「凄まじい狼狽っぷりですね。その様子、私の知るすずさんが如月くんに向けていた執着心と、まさしく同等のものです」
「あんたなんて、知らない……! それよりも、涼一くん……涼一くんが生きてるって、確かめなきゃ……」
すずは今にも吐きそうなくらい、青ざめた顔をしていた。
なんて嗜虐心をそそる弱りっぷりだろう。
トーニャはゾクゾクと身を震わせ、つい、我慢しきれず、
「え――?」
すずの腹に、ローリングソバットを叩き込んでしまった。
・◆・◆・◆・
静寂だった室内が、喧騒に穢される。
蹴り飛ばされたすずの身は卓袱台を巻き込み、上に載っていた苺大福を撒き散らしながらベッドにまで転がっていった。
玩具で散らかっていた部屋に、大福の粉が舞う。潰れた苺が、床を汚す。トーニャは構わず、その上を踏み歩いた。
「失礼。蹴ってくれと言わんばかりの狐がいやがりましたので、つい」
舌が血の味を感じている。蹴り飛ばされた衝撃で口内が切れたらしい。
直接の打撃を受けた腹部は痛みを訴え、内臓はひっくり返った。口から軽く胃液が零れる。
傍にあったベッドのシーツを強く握り込み、すずは立ち上がり様にトーニャの顔を睨んだ。
――――ヒュン。
その瞬間のことだった。
トーニャの背後で、一条の鋼線のようなものが動作。
目で追うよりも速く、それはすずの左目の前にやって来て――眼球を抉る。
「――がっ」
左の世界が赤く染まり、視界が半分、消滅した。
「っがああぁああぁぁぁぁぁぁああっ!?」
獰猛な獣のうめき声、とはかけ離れた、未成熟な少女の絶叫。
血の滴る左目を手で押さえ、すずはその場で蹲る。
眼球は眼窩の中で、潰れた苺大福と同じ風になっていた。
「すずさん。先ほどあなたは、“わたしなんか殺しても意味はない”と、そんな風に言っていましたよね。
それ、残念ながら間違いです。あなたを殺す意味は、ひぃふぅみぃ……五つ。少なくとも五つはあるんですよ」
這い寄るのは、銀のポニーテールを尻尾のように振り翳す――狸。
背中の辺りから伸びる、縄にも似た細く長いそれは――人妖能力『キキーモラ』。
「一つ。あなたは私のことなんて知らないかもしれませんが、私はあなたのことをよーく知っているんですよ。
人間が大嫌いだということも、生かしておいたらなにをしでかすかわからないということも。
私たちにはまだ、先のステージがあります。厄介者には生きていられると面倒……そういった意味での、始末」
キキーモラの先端には、鋭角なひし形をした錘のようなものが取り付けられている。
その先端だけが異様に赤く輝いており、なにかと思えば、すずの目を抉った際に付着した血だった。
トーニャは手足の所作もなく、己の意思だけを操縦桿として、キキーモラを繰る。
目にも留まらぬ速さで宙を舞うそれは、ざんっ、とすずの右耳を削ぎ落とした。
「二つ。あなたが一番地の職員に憑けた言霊。これはあなたを殺せば自然と解除されるものなんでしょう?
なら、ここであなたを殺して、人間の戦闘員だけでも無力化しておけば、後々の攻略も幾分か楽になる」
すずの叫喚をバックミュージックに、しかしトーニャは表情一つ変えず、喋り続ける。
ひゅん――ひゅん――と、二人の周りを恒星のように回り続けるキキーモラ。
赤みを増した先端の錘は時折、付着した血液を室内に散らした。床や壁に斑点ができる。
「三つ。ある機関が妖狐を欲していまして。せっかくの機会なので、このまま持ち帰りたいという個人的欲望があります。
ただ、やはり生きたままというのは難しい。なので剥製にでもして、祖国と勲章のために鞄にでも詰めておこうかな、と」
トーニャの言動など、既にすずの耳には入っていない。左目と右耳から来る激痛が、理性すら奪おうとしていた。
この痛みをすぐにでも克服しなければ、迫る命の危機は回避できない。そう、本能では理解していても。
体は思うようには動いてくれない。繰り出されたキキーモラが一閃、すずの喉を裂いた。
「四つ。あなたという舞台装置がなければ、そもそもこんな殺し合いは成り立たなかった。
如月くんやみんなが死んだのは、つまりはあなたが存在していたからと解釈することができます。
“なんて迷惑な雌狐だ、死んじゃえばいいよ”。これは嘘偽りない私の本心。というわけで、殺します」
これではもう、喋ることはできない。
言霊を憑かせることも。
涼一くんと楽しくおしゃべりすることも。
なにもできない。
「五つ。あなたは個人的にムカつきます。これ以上、“如月すずさん”を穢さぬよう――ここで死んでください」
なにが。
なにが、いけなかったんだろう。
わたしなにか、わるいことでもしたのかな。
わたしはただ、りょういちくんにあいたかっただけなのに。
想いは報われない。母が人間に殺されたときも、同じような不条理を味わった。
まったく、人間って。
野蛮で、凶暴で、醜悪で、自分勝手で、なんて――おっかないんだろう。
死んじゃえばいいのに。
最期に勝ったのは、武部涼一への想いではなく、人間への憎しみだった。
・◆・◆・◆・
ぽた、ぽた、ぽた、と。
心臓の中心を射抜いたキキーモラから、妖狐の血が滴り落ちる。
トーニャはしばらくそれを宙に浮かべたまま、停止。
キキーモラを収納しようともせず、ただ黙って立つ。
物言わなくなったすずの亡骸に、視線を落としながら。
「……さすがに、見知った顔を手にかけるというのは堪えますね」
所詮は平行世界の存在、と割り切って考えていたつもりだった。
いくらクールなロシアンスパイといっても、芯には熱い部分もある。
感情的な面では、やはり――いい気分にはなれない。
「と、感傷の時間はこのへんにしまして。とっとと次のフェイズへと進みましょうか。
桂さんたちの位置は……あや、やはり離れてしまいましたねぇ。仕方ありませんが」
手元のレーダーを確認してみるが、他の仲間の反応は綺麗に消えてしまっていた。
合流の目的は果たせなかったが、すずという一角を切り崩せたのは、一番地攻略の上でも大きな一歩となる。
彼女の死によって言霊は解除され、無理やり戦闘員に仕立て上げられていた職員たちは自我を取り戻すはずだ。
「後遺症が残るとも限りませんが、命令を聞くだけの殺人マシーンを相手取るよりはマシでしょう。
これで他のみんなに及ぶ被害も少なくなれば幸いなのですが……」
基地内をざっと回ってみたところ、警備についているのはほとんどが人間の兵士だ。
厄介なアンドロイドたちは皆、九郎や玲二たちが引きつけていると考えていい。
「心配してるだけじゃ始まりませんね。気を引き締めなおしまして、再出発といきますかぁ! ……と、その前に」
トーニャは扉に向かおうとして、またすぐに踵を返す。
床には血まみれのすずの亡骸が、今も横たえられている――ただし、その姿は先ほどとは別のものに変化していた。
「命を落として、人化が解けたみたいですね。これが妖狐……お偉方が垂涎していたサンプル、ですか」
人型を成していたすずの身は、本質である妖狐、幼い狐の姿へと戻っていた。
「動物虐待の趣味はなかったんですがね」
鮮やかな金の体毛は、満遍なく赤い血で汚れてしまっている。
見かけたのが街の路上だったならば、思わず黙祷せずにはいられない凄惨な死に様だった。
それを作り上げたのが自分だと踏まえ、追悼の意は述べない。
ただ、後々のことを考えて、すずの亡骸を自身のデイパックに仕舞いこむ。
「……墓など作ってやれないでしょうが、どうか化けて出ないでくださいよ」
これが、この地で出会ったすずに対して向ける、最後の言葉。
今度こそ、決着だった。
「さて、では改めて」
トーニャは、扉のほうへと向き直る。
ドアノブに手をかけ、軽くこれを捻る。
ノブを捻ったまま、扉を前に押して開く。
不意に、押す力に抵抗力が加えられた。
扉を前に開こうとしても、押し返される。
はて、とトーニャが違和感を覚える刹那。
「――ウゥ…………アアアアアアァァァァァァァァ!!」
部屋の外から、咆哮――と同時に、トーニャの眼前にあった扉が蹴破られた。
咄嗟に飛び退くも、一瞬で破壊された扉の木片が、トーニャへと突き刺さる。
いや、ここは施設内。扉は木製ではなく、鉄製だった。だというのに。
「あ……ぐっ!?」
細かく砕かれた鉄の欠片を全身に浴び、トーニャは玩具と苺大福と血痕で満たされた床の上を転がる。
「な、なに……が!?」
すぐに体勢を立て直そうと、腕と脚に力を込める。
その途中で、視界がありえないものを捉えた。
トーニャが潜ろうとした、扉の傍。
鉄扉を破壊して室内に入ってきた刺客は、異形。
二足で立つ人型、服装は千切れたベスト、銃器がぶら下がったベルト。
リアルタイムで爛れ、抜けていく髪に、紫と黒が混じったような禍々しい肌の色。
角。
爪。
牙。
獰猛な唸り声、左右で違う大きさの瞳、溶解液を思わせるほど酸度の高い唾液。
肩や膝の辺りは肌が隆起し、骨が飛び出したり、垂れたりしている。
一歩前に進むと、落ちていた積み木が踏み砕かれた。
言葉はどう考えても通じそうにない。
「…………」
トーニャは絶句する。
こんなものまで控えているとは――いや。
これは、人間が変質したものだ。オーファンとは違う。
人為的に作りだしたり、ましてや戦力として当てにするなど、できるはずがない。
「鬼退治は専門外なんですけど、どこに文句言えばいいですかね?」
目の前に立つあやかしの名は――『悪鬼』。
憎悪を糧として誕生する、愚かな人間の成れの果て。
最悪にして最凶の、難敵だった。
・◆・◆・◆・
――血まみれになって倒れていた人間が、朝の到来を察知したように自然と起き上がる。
――肌の色を紫や黒、深い緑に変色させ、体の様々な部分を外に突出させながら、存在自体を変貌していく。
――人であることを示す理知的な言葉は消え、代わりに獰猛な獣のうめき声が各所に木霊する。
このような場景が、多数。
戦場の状況。少数の精鋭たちと、多数の人形たちによる激しい攻防は、一つの区切りを迎えた。
機械仕掛けの人形がまだ幾らかの数を残す中、自我を奪われていた人形たちは、ある節目を境に一斉に事切れた。
彼ら人間の職員たちを、人形の兵士に仕立て上げていた張本人――妖狐のすずが死亡したことによって。
既に侵入者たちに殺されてしまっていた者も、まだ存命していた者も、皆呪縛から解放された。
ただし、呪縛からの解放が彼らにとっての安寧とは決して言えず、むしろ状態は悪化する。
すずが憑けた言霊が解かれたとき――その瞬間を鍵として、ある術式が発動した。
言霊によって操られていた人間たち、全員の悪鬼化である。
そんな罠があるとは露知らず、トーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナはすずを殺害することによりこれを発動させてしまった。
人間の悪鬼化は闘争本能と戦闘力を肥大化させ、言霊の人形兵士などとは比べ物にならないほどの障害となって立ち塞がる。
倒すことも、ましてや説得して人間に戻すことも困難な、厄介極まりない敵の出現だった。
自我を憎悪に喰われた鬼たちが、一番地基地内を暴れ回る。
生きている者を標的とし、殺し、喰らい、腹を満たすために。
完全なる無差別破壊、阿鼻叫喚のステージが、ここに完成した。
誰が死に、誰が生き残るかは、もう誰にも予測できない。
一番地職員の悪鬼化は、誰にとっても予想外の出来事だったから。
唯一の例外、言霊と共にこの世を去った、あの妖狐を除いては。
――――死んじゃえばいいのに。
彼女の残した呪詛が、基地の中に浸透していくようだった……――。
以上で今回は投下終了です。
次回の投下については決まり次第、ここと各種スレにて投下日時を告知させていただきます。
多数の支援、ありがとうございました。
投下乙!
今までの鬱憤を晴らすかのようにずっと主催のターン!
柚明・桂になじんでるなー、那岐w
っつうか服とか血とか無闇矢鱈にえろいんすけどー!?
決戦に入ってもサービスを忘れないとは流石だぜい。
まあ反動でちと桂が欝に入ったりましたがw
自らの言葉が返ってくるのはきついよなー。
祝・ロストバージン! 殺人的な意味で
後旬の野菜を扱うかのように何ぱくってんだ、レールガンw
やよい・プッチャン・ダンセイニのコンビネーション技にはわろたw
しかしピンチだぞ、やよいいい!
美希・ファルコンビは特に目立った活躍あったわけじゃないんだけど読んでて純粋にいいなーと思えた。
こいつらの差や掛け合いが上手いし楽しい。
死亡放送には驚いたが主催側も確認はできなかったみたいだしまだまだ何かやらかしそうw
エクス、カリバー!
え、えーとドチラサマデスカ?
で終わらないのがこのロワのすごいところか。
アルきたああああああ!
原作エピ絡めてのクリスがこのロワで頑張ってきた理由付けは流石だなー。
アリエッタのセリフはすごい好みだー。
ロイガー・ツァール繋がりでデモベのそれは呪いのような祝福な言葉も使われてて感服。
つうかそんな無粋な感想は要らないか。
溶けた。
すんげえ俺の心に溶け込んできたは、このパート。
いけいけクリス、かっこいいクリス、たとえ死が二人を別つても! 色んな意味で!
そしてやってきました本投下の過境、唯湖・なつきパート!
愛し愛されされど真逆。
失い続けたもの、多くを得たものの対峙!
恭介・トルタ、太一・曜子、静瑠のことも思い返されてたのが嬉しい限り。
愛してるからこそ死を選んで、それでも生き足掻いた人々のことを知るなつきの言葉は――届かない!
クリスを愛し、その居場所を奪われた唯湖には届かない!
代わりとばかりに届けられたのは弾丸!
だが笑う、なつきは笑う!
愛してるから、クリスを信じてるから、笑って死んだああァあああ!
それはある愛の物語。
同じ一人を愛した少女たちの物語!
……あれ? これ感想じゃなくね?
うん、あまりの愛を読んじまったせいで変な衝動に突き動かされた。
後悔はしていない。
愛といえばむつみママともども無双している深優もどんどん玲二追っかけてるなーw
前回のファントムといい主催のアンドロイドがいい演出道具になってるや。
奥底で暗躍してる描写ひしひしなシアーズとの対決も楽しみ。
主催側の時々挟まれるパートも小休止兼すらすら読める。
時に淡々と、時に余裕をもって進めるこいつらはちゃんとボスしてるぜいw
臨時放送(一部未確認)とか極悪だーw
まあそんな彼らを呆れさせるウェストは流石過ぎるがw
お前今回セリフもねえのになんっつう存在感だwww
エルザも動いたし次回も大暴れか!?
というかエルザの破壊ロボへの感想に吹いたw そりゃいつものお前らじゃなあw
碧ちゃんパートは転調や絶望感が圧巻だの―。
恐るべし数の暴力。
それを精神で押しのけようとして、でもかなわなくてを繰り返し。
来たぞ最後のざまあみろ(意訳。
碧ちゃああああああん! いいカルタシスだった。
最後に控えるのは誰も救われない締め。
無知とは罪なり、されど無視とは悪なりとどこかの門番は言った。
まさにそのとおりの果てを迎えた鈴。
死に際の呪詛が重い。
まあほんとにバイオハザードになるとは思わなかったがw
罠は何重にもはお約束だの―w
ドSかつ5つ目のセリフが深かったトーニャさんや。
文句は自分に言いましょうw
以上、おおざっぱな感想でした―。
おもしろかったあああああああ!
絶叫しまくりだぜ!
うーん、面白かったーw
感想がまとまらないけれど、すずのところが特によかったです
しかしここまで死ななかっただけに驚いたなぁw
投下乙
桂ちゃんは何やってもエロいな、愛のあるイジメは最高です。神崎GJ!
学習能力がない…マーダーを説得しようとしたら死ぬとお父さんや言葉様やこのみが証明していただろうに…
今まで楽勝ムードだったのが急遽緊迫した展開に。やはりここはラブコメ企画ではなくバトルロワイアル。
メインヒロインのなつき嬢が死んでしまった為オチが読めなくなりました。クリスは姉御とどう決着をつけるのか?
最後の最後に量産型鬼乙女&ワールド?ああ、まさに蝕…。
ところで言峰はどこへ行ったんだろう?
とにかく次がラスト!全力で見届けるぜ!
ほ
じ
ゅ
ウッ!!
?<?>
凹 八
ほしゅ
遅すぎね?
名前: ◆AZWNjKqIBQ 投稿日: 2010/03/31(水) 18:41:17 ID:???0
業務連絡……というか生存報告。
GR2第2幕の続きですが、長らくお待たせしてしまっていて申し訳ありません。
色々あったようななかったような感じでとりあえず原稿はほぼ出揃ったというのが今の状況です。
この後は加筆修正をしながらの編集作業となるので、近いうちに正式な投下の告知ができるかなーと。
企画が止まっているということはないので、安心して(?)もう少し待っててくださいね。では。
……あ、それと。明日は企画雑談スレロワ語りでGR2のターンですよ。賑わうといいなーと思います。
転載、ついにかw
212 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/04/01(木) 00:30:37 ID:leY2GRWl
生存報告来たか
【告知】
今回は本当に大変長らくお待たせしました。
4/17(土)22:00時頃より、GR2最終盤。第二幕の「第六弾・その3」を投下します。
ついに来たか!胸が熱くなるな
今夜か、待っているぜ
テスト
test
お待たせしました。投下します
支援
支援
・◆・◆・◆・
罅割れたガラスの中に見つけた自分。
自身のものではない血で染められた真っ赤な姿。それは――
今もなお、人を斬った感触は残り、手から離れようとしない。
肉を裂いた感触。
骨を砕いた感触。
内臓を潰した感触。
どれも鮮明な記憶として彼女の――羽藤桂の脳裏に焼き付けられていた。
――初めて人を殺した。
これが一兵士なら誰でも味わう一種の通過儀礼なのだろう。
初めて戦場に立った新兵が敵兵を殺した時に感じる恐怖と罪悪感と高揚感。
だが彼女は兵士でも何でもなく、平和な日常に身を置くただの女子高生――のつもりだった。
だからこの狂気に彩られた島でも誰も傷つけまいと力を振るうことを拒絶し続けた。
例えそれが自らを絶望の舞台に立たせた敵であったとしても、
殺し殺される憎しみの連鎖を止めたいと。彼女はそう願い続けていた。
だがそれは結局のところ過酷な現実からの逃避に過ぎなかったことを思い知らされる。
この世界にはそんな甘い考えではどうにもならない現実が存在する。
そしてその現実を受け入れて力を使ってしまったこと。
かつて吾妻玲二に向けた言葉がひどく空虚だった。
しかし、彼女に立ち止まる時間は残されていない。
否、立ち止まってなんかいられない。
立ち止まり、罪悪感に竦む暇があるのなら少しでもこの力を仲間を守るために使いたい。
今こうしている間にも仲間の生命が危機に曝されている。
だから今は――前だけを見続ける。
・◆・◆・◆・
気絶したやよいを背負ったダンセイニを発見してからすぐ、
彼女の手に嵌ったままのプッチャンから事情を聞いた桂と柚明は、廊下を進み手近な医務室へと駆け込んでいた。
ベッドの上へと寝かされたやよいの小さな身体にはいくつも血の筋が走り、見るからに痛々しく
そんなやよいへと、桂は血相を変えて必死に呼びかけを行っている。
「やよいちゃん……しっかりして……!」
だがしかし、やよいがそれに応えることも目を開く様子もない。
一見では爆風による火傷や破片による切り傷が目立つが、しかし懸念は別のところにあった。
充血した瞳や耳。それに吐血したことなどからしてダメージが身体の内側にまで及んでいるのは想像に難くない。
また意識を失っていることから、吹き飛ばされた衝撃で頭などを強打している可能性も考えられる。
「柚明……! 頼む! やよいを……やよいを助けてくれ……!」
私怨
ベッドの脇に寄り治療を試みている柚明へとプッチャンが悲壮な声で訴える。
そしてそれを手伝う桂はピンセットで丁寧にやよいの身体から突き刺さったガラス片を取り除き、
化膿しないようにとアルコールで消毒していた。
普通なら飛び上がるような消毒の痛みも昏倒したやよいに届かないのが、安心であり不安でもあった。
もし、このまま目を覚まさなければどうしよう――
桂の胸に浮かび上がる不安の影。
傷は癒えても脳に損傷を負っていたら……?
柚明の月光蝶ですら意識を取り戻さないのならばそんな可能性もある。
この先意識を取り戻さないやよいを最後まで守り抜くことなんて……
(だめだめ! ヘンなこと考えたら! やよいちゃんは絶対目を覚ますに決まってるよ!)
そんなことを考えていたら治るものも治らない。
絡みつく不安を必死に振り払う。
柚明の治療を信じるしかない桂だった。
「っ……」
やよいの周囲に治療のための月光蝶を展開してる柚明から苦しげな息が漏れる。
相当な集中力を要するのだろうか、額に玉のような汗が滲んでいた。
きっと今の自分の力の大半を治療に注ぎ込んでいるでいるに違いない。
見ると蝶の光が先ほどよりも薄くなっている。
柚明のことだ。このままだと自らの肉体を最低限維持するための霊力すらもやよいのために使ってしまうかもしれない。
それが柚明のやよいに対する贖罪といわんばかりに。
「柚明お姉ちゃん……かなり疲れているけど大丈夫?」
「大丈夫よ……このぐらいどうってことないわ。く……っ」
「…………」
支援
どう見ても大丈夫そうには見えない。
少し休ませてやりたい。しかし今やよいを救えるのは柚明だけ。
だから桂は自らの血を差し出す。
何度傷つけたか覚えていない血の滲んだ手首を柚明の眼前に差し出した。
「はい、やせ我慢はよくないよ」
「……そうね。お言葉に甘えるわ」
「ごめんね柚明お姉ちゃんに任せきりで……わたしは血をあげるぐらいしかできなくて」
桂の手首に静かに唇をあてる柚明。
そして優しく舌を這わせ滲んだ血液を舐め取る。
しばらくして失われた霊力が回復したのか、輝きを失いかけていた月光蝶が再び光を強めた。
「……っはぁ……ありがとう桂ちゃん」
「もういいの?」
「うん、おかげさまで。これでまだまだ大丈夫」
「でも無理はしないでね。疲れたらいつでも血をあげるから」
柚明はこくんと頷き治療を続ける。
やよいに刺さったガラス片はほどなくして全部取り除けた。後は目を覚ますのを待つだけ。
無言で横たわるやよいと治療に勤しむ柚明。後はその光景を見守ることしか桂にはできない。
・◆・◆・◆・
私怨
支援
柚明によるやよいの治療が続く中、桂は外の様子を確認するため医務室を出ることにした。
静かで広い廊下。そこにはアンドロイドも戦闘員の姿もなかったが、どこか遠くから銃声と爆発音がかすかに聞こえてくる。
きっと仲間達が今も戦いを繰り広げているのだろう。ここらに敵の気配がないのはそのおかげかもしれない。
束の間に訪れた平穏。桂は壁に背を預け天井をぼうっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「やよいちゃん……目を覚ます……よね?」
「たりめーだろ、お前が柚明を信じなくてどーすんだよ」
「あはは、そうだね……」
桂の左手へと移ったプッチャンが答える。強がってはいるが彼も不安を隠し切れていない。
「…………」
「…………」
二人とも言葉に詰まり沈黙する。
相変わらずどこかから聞こえる銃声と爆発音。
「本当に……ファルさん達死んじゃったのかな……」
神崎により伝えられたファルと美希となつきの死。
この数日間、殺し合いという現実から逃れ束の間の安息を享受していた。
そのせいで心のどこかで「もう仲間が死ぬことはない」と高を括っていたのかもしれない。
なので今、不意に訪れた厳しい現実により桂の心は喪失感に埋め尽くされていた。
「俺は信じねえ……死体を見つけるまで俺は絶対信じねえぞ……!」
言葉を吐き捨てるプッチャン。
ここで彼女達の死を信じてしまえば、それが本当になるのだとそう言うように。
「だよね……そうじゃないとあまりもクリス君が可愛そうだよ……」
一緒に行動した数日間、桂はクリスとなつきの仲睦まじい姿を何度も見ている。
ファル曰く、クリスは以前とは考えられないほど幸せそうだと語っていた。
「大切な人を失う辛さはわたしもよく知っているから……」
「桂……」
プッチャンは一言だけ桂の名を発しただけで、続く言葉を失ってしまう。
また静かな時が二人の間に流れ、発する言葉を捜しあぐねていたプッチャンはふとあることに気づいた。
桂の着ているシャツの色を変えている茶褐色の染み。
それは、それが何かわかってしまうほどに見慣れてしまった血の色だった。
「桂……怪我でもしているのか? その服の染み」
「どこも――怪我なんてしてないよ――」
桂の感情の消えた声でプッチャンは「しまった」というような表情をする。
怪我をしているのならこんな血の付き方はしないはず。
きっとこの染みは返り血を浴びて……
「すまん桂、触れられたくない所に触れちまった」
「気にしないで。わたしは現実から目を背けない。今自分にできること、自分にしかできないことをやったまでだから」
「けっ……虫も殺せんような小娘が一人前に口を利きやがってよ……そんなモン俺たちゃ野郎の役目だっつーの」
「あ……でもやよいちゃんには隠していて欲しいかな。すぐにバレると思うけど」
「ああ……」
「やよいちゃんは誰にも殺させない。そして誰もやよいちゃんに殺させない。その役目はわたしのものだから――!」
「すまねえ……桂。やよいを守ってやってくれ」
そう言ってプッチャンの顔が不機嫌そうなものに変わる。
怒りと悔しさが入り混じった表情だった。
私怨
「どうしたの?」
「ムカツクぜ……自分にできないからってをお前に汚れ役を押し付けてる俺自身がよ……」
「プッチャン……」
「そして何より俺は……やよいにりのを重ね合わせている。
守れなかった妹の代わりにやよいを守ることで満足しようとしている。糞が……」
「そんなことはないよ……きっとりのちゃんだってそう望んでいるはず」
「俺は――生きてる人間が死者の気持ちを代弁するのは好きじゃない」
「そうだね。
傲慢なことだと思う……でも、そうすることでわたし達はここまで来れたんだから。
立ち止まるよりは自己満足でもいいから前に進もう」
「そう、だな……」
遠い目をして宙を見つめる二人。
それぞれの想いを胸にして。
しばらくして医務室のドアが内から開かれ、中から柚明が出てきた。
顔色は悪く、あれからまた相当に疲労したのだと察することができる。
彼女は廊下の壁にもたれかかる桂とプッチャンの姿を見つけると近づき言った。
「やよいさんが意識を取り戻したわ……」
「ほんと! 良かったね、プッチャン!」
「ああ……!」
だが――喜ぶ桂とプッチャンとは対称的に柚明の顔に浮かぶ表情は鎮痛なものだった。
支援
「聞こえるかやよい! やよいッ!」
「もうっ、そんな大声出したらやよいちゃんに迷惑だよ……」
「てけり・り!」
「す、すまねえ。やよいが目を覚ましたんでつい……」
医務室に駆け込む桂。
やよいはベッドに横たわり静かに目を閉じてた。
「もう……プッチャン。ちゃんと聞こえてるよ……」
「やよい……!」
目を開けてか細い声で答えるやよい。
彼女は上体を起こしてプッチャンを探す。
右手にあるはずのプッチャンがなくて軽く困惑している様子だった。
「あれ……プッチャンどこ……?」
「ああ、すまねえ今は桂の左手だ」
プッチャンに触れようとやよいは手を伸ばすが……
「おい、どこに手を伸ばしてるんだよ。俺はこっちだぜ」
「あ……ごめんね」
やよいはまたも手を伸ばすが空しく空を切る。
やよいの肩がかすかに震えていた。
「やよい……まさか――目が見えてないのか!?」
プッチャンの問いかけにやよいは今にも泣きそうな声で答えた。
私怨
「目の前が……すりガラスのように真っ白に霞んで、プッチャンの顔も桂さんの顔も柚明さんの顔も見えないよ……」
焦点の合わない虚ろな瞳が振るえ涙に潤む。
しかし、必死に泣くことを堪えてるやよい。
プッチャンも桂もかける言葉が見つからず立ち尽くすだけだった。
「どうして……柚明の治療はうまく行ったんじゃなかったのかよ……」
「爆風で頭を強打したせいで……、一時的なものだと思いますが……ごめんなさい、私の力が足りないばかりに」
頭を下げる柚明にやよいはふるふると首を振る。
「柚明さんは悪くないです……! 私のケガを治すためにこんなにヘトヘトになってるんですから……!」
「……やよいちゃん」
「それにもう少し時間が経てばまた目が見えるようになるんですよね? なら心配しないで下さいっ。……私は大丈夫ですから」
視力を失ってしまっても元気に振舞おうとするやよいの姿。
その健気な姿勢に桂の胸に熱いものがこみ上げる。
「ほらっ、早く急ぎましょう! いつまでもここにいたら見つかっちゃいますよ。よい、しょ……あっ!」
「やよい!」
支援
手探りでベッドから降りようとしたやよいは手をつく場所を誤り、そのまま床へと転げ落ちてしまった。
そして転落したことで方向を見失ったのか、皆を探すようにキョロキョロと頭を動かす。
彼女の目の前を覆う白い闇。
その闇の中でやよいは微かに浮かぶ影をたよりに手足を動かすが、やはりとてもまともに動ける状態ではなかった。
「うっうー……目が見えないと不便です……」
心配かけまいと必死に一人で歩こうとするやよいの姿があまりにも痛々しい。
その居た堪れない姿に桂はやよいの前に歩み寄る。
「えっ……?」
桂がやよいの身体を優しく抱き締める。
背中に回された桂の腕から伝わる温もり。
そして間近に当たる柔らかな吐息と幽かに漂う錆びた鉄の匂い。
「やよいちゃん……無理しないで、ひとりで抱え込まないで……わたし達は仲間だから、ね……?」
「あ――」
桂の言葉が胸を打つ。
自然と瞳から涙が溢れてしまう。
「ひぐっ……怖いです……何も見えなくて、桂さんが側にいるのにその顔も見えなくて……」
堪えていたものがあふれ出る。
失明の恐怖。そして何よりも怖いのが二度とアイドルとしてステージに立てなくなるかもしれないこと。
カタカタと震えるやよいの身体を桂はぎゅっと抱く。
私怨
「やだよ……歌えなくなるなんて嫌だよ……ううっ……」
「大丈夫……きっと治るよ……」
「うあぁぁ……あああああああぁぁぁぁ……」
桂はやよいが泣き止むまでいつまでも抱きしめていた。
子をあやす母のように――
・◆・◆・◆・
「やよいちゃん……まだ目は見えていない?」
「はい……少しましになった気がしますけど……まだ霞んだままです」
落ち着いたやよいはベッドの上へと戻り、そして再び柚明の月光蝶による治療を受けていた。
「柚明さんごめんなさい……」
「いいのよ、さっきよりは少し良くはなってるんだから。このまま治療を続けましょう」
「でも……ここにずっといたら……」
「その時は、わたしが何とかするから。もし襲われたら……柚明お姉ちゃん、やよいちゃんをお願い」
「ええ、任されたわ」
「じゃあやよいの荷物の中に電磁バリアがあるから使ってくれ、俺達が使うよりは効果あるだろ」
そう言ってやよいの手に戻ったプッチャンが鞄を指差す。
桂は荷物の中から電磁バリアを取り出すとそれを柚明へと手渡した。
「……桂さん。ちょっと見ない間に変わりましたね」
「そう……かな」
「さっき桂さんに抱き締められたときに少しだけど、血の匂いがしたんです。ここで……何かあったんですか……?」
「…………」
支援
支
やよいに痛いところを突かれ口ごもる。
やはり気づかれていた血と死の匂い。
できる限りやよいには知られたくなったこと、でもいずれやよいの目の前で行うことになる行為。
少し前までやよいと同じ側にいたはずなのに、今はもう境界を踏み越えてしまったことへの後悔は薄れてしまっていた。
あんなにも戦うことを忌避していたというのに。
今は誰かを守るためといえ積極的に戦いに赴こうとしている。
――ほんと、玲二さんに会ったら何て言われるかわからないや。
桂はくすりと自嘲の笑みを浮かべる。
だけどやよいにそれを知られてしまうことに負い目があった。
立場は違えどやっていることは神崎達と同じなのだから。
でも隠していても何もならない。桂は目を伏せたままやよいへと言った。
「わたしね。初めて人を殺したの」
「えっ……?」
桂の言葉にやよいの小さな身体が震えた。
彼女にとってそれがいかに重い告白だったのか、それはやよいにも理解できる。
何より事情もあるだろう。それにこんな状況なのだからしかたがいとも自分を言い聞かせることもできる。
だがそれでも、先日まで一緒にご飯を食べて一緒にお喋りを楽しんだしりていた年の近い友人が、
急にどこか手の届かない所に行ってしまった気がして軽い眩暈に襲われた。
同じく仲のよいファルや美希よりもずっとずっと自分に近かった羽藤桂という少女。
それが、いなくなってしまう――
「わたしったら馬鹿だよね。前に玲二さんに酷いこと言ったのに、今はあの人と同じ側に立っている。軽蔑しちゃうよね……」
目の見えないやよいは、否。目が見えないからこそ桂の言葉の中に篭った決意と勇気を感じ取れる。
でも次の言葉を返すことができない。何を言っても人を殺したことのない自分では欺瞞のように思えて。
だけどここで桂を拒絶してしまうと彼女はきっと永遠に手の届かない所に行ってしまう。
一言だけでいい。
なにがあっても友達だよと。
どこに行ってしまっても桂は桂だと。
「桂さ――」
その時、ガラスが割れる大きな音が彼女の言葉を遮った。
「やよいちゃん伏せて!!」
桂の叫び声。
そして腕を掴まれてベッドから引き摺り下ろされる。
次の刹那、閃光。爆発。
少し前に聞いた酷く嫌な音。衝撃波が身体を揺らす。
手榴弾を投げ込まれたんだと理解する。
ややあってたくさんの足音が部屋の中に入り込んできたのがわかった。
そして間髪入れずに鳴り響く銃声。
――ああ、私死んじゃうんだ。
結局奇跡は二度も起きない。
このままみんな死んで全て終わる。
白い闇が広がり――
私怨
支援
支援だ
支援
(あれ……生きてる?)
霞んだ視界の向こうで蒼い人影によって嵐のような銃弾は阻まれている。
身体の上に覆いかぶさる温かく柔らかいもの。
「桂……さん?」
「よかった……やよいちゃんが怪我してなくて」
桂が自分の上にいるのだと知ったやよいは抱きつくように手を伸ばし、そして彼女の背中を濡らしているものに気づく。
ぬるりとした熱い感触。触れると桂は苦悶の声をわずかに漏らした。
「桂さん……! わたしを庇って……! ああ……っ、背中から血がっ」
「あはは……ちょっと背中にガラスが何個か刺さってるみたい……つっ……」
「そんな……!」
「この程度の傷すぐに治るから心配しないで、……柚明お姉ちゃん!」
苦悶の表情を見せたのも一瞬。
桂は力強く声を発すると、電磁バリアを展開して銃弾を受け止めてくれている柚明の名を叫んだ。
「あまり持ちそうにないわ……! 早く……!」
柚明の声に頷くと桂は立ち上がって部屋を見渡した。
マシンガンを構え柚明の張っている電磁バリアへと撃ち浴びせている戦闘員は3人。
破られた窓からも何人かがこちらへと銃口を向けている。気配に頼れば、更に何人もの戦闘員が外に展開しているようだった。
部屋の隅へと視線を走らせる。立てかけておいた子烏丸を取りに向かうには少し遠い。
バリアの中から飛び出せばいい的になってしまうだろう。いかに鬼の力があるとはいえ集中砲火を受けてはひとたまりもない。
手元にある武装はサブウェポンとして懐に入れていたスターム・ルガーGP100。
装弾数六発の回転式拳銃。予備弾薬は荷物の中――これも取りに行く余裕はない。
私怨
「弾は六発……! でもやるしかない……!」
「桂さん!」
「桂!」
やよいとプッチャンの声を背中に桂は床を蹴って電磁バリアの有効範囲から飛び出す。
戦闘員の持つ銃口がそれを追うが不規則な動きには対応できないのか犠牲になるのは棚や壁ばかりだ。
しかし長く避けきれるものでもない。
桂は強く床を蹴ると天上ギリギリの位置で宙返りし、そのまま戦闘員へと肉薄。十分に加速した踵落としを浴びせかけた。
まともに脳天へと直撃をくらった戦闘員は鈍い音を立てて床に崩れ落ち、
そして――
無言のまま感情の色も見せず、倒れた戦闘員の頭へと向けて桂は銃の引き金を引いた。
やよいの耳に今まででと違う銃声が響く。一際大きく痙攣し動かなくなる戦闘員。
すぐさま桂は死んだ戦闘員から拳銃――ベレッタM92と突撃銃――M4カービンを奪い取り、戦闘員の一人に向かって掃射。
タタタタと小気味よい音と共に戦闘員が不恰好なダンスを踊り、白い壁に赤い花が咲き零れる。
「――二人」
静かに、抑揚の無い声で桂は倒した戦闘員の数を数える。
残り一人となった戦闘員。見れば、銃撃は効果なしと判断したのか刀を抜き柚明らへと飛び掛るところであった。
桂に構うことなく戦闘員は床を蹴る。構えた白刃の先には倒れたままのやよいの姿があった。
「やべえ! やよい避けろぉぉ!」
プッチャンが叫ぶがまともに目の見えないやよいにそんなことができるはずがない。
柚明も、ダンセイニもこのタイミングではやよいを庇うことができない。
「させるものかあああああああああああ!!」
咆哮。
人間の限界を超越した瞬発力で桂がその後を追う。
「このおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
難なく追いつくとそのまま戦闘員を後頭部を掴み顔面から床へと叩きつける。
硬いものがぶつかりぐしゃりと砕ける気味の悪い音が響き、その傍で伏せていたやよいが悲鳴をあげた。
「…………」
無言の桂。その顔に感情の色はない。そしてやよいの焦点の合わない瞳が桂を見上げていた。
やよいにはほとんど見えていないはずなのに、その虚ろな視線を桂はひどく痛く感じる。
桂は片手にぶら下げていた戦闘員を力任せに投げ捨てた。
戦闘員は医務室の薬品棚に激突し、そこから下半身を生やしたままピクリとも動かなくなった。
桂の鬼神の如き迫力にプッチャンは絶句していた。
これがあの羽藤桂なのかと、信じられない面持ちで桂の戦いを見守る。
(やよいの目が見えてなくて不幸中の幸いだぜ……さすがにこれはやよいには刺激がキツ過ぎる……)
室内にいた戦闘員達を一瞬で蹴散らした桂は小烏丸を掴み取ると無言で廊下へと飛び出していった。
すぐさまに銃声が幾重にも重なった。
だがしかし、それは間を置かずして少しずつ数を減らしてゆく。
視線を通さない壁の向こうで何が行われているのか、プッチャンには、そして誰からしてもそれは明らかなことだった。
sage
支援
私怨
「くっ……!」
床を転がる桂の口から短い悲鳴が零れる。
(脇腹と肩に掠った……でもこのぐらい何ともない……!)
しかし桂はそれをものともせず、低い姿勢のまま戦闘員の前へと詰め寄ると立ち上がり様に思い切り蹴り上げた。
一瞬。宙に浮く戦闘員。
抜刀。一筋の光が真一文字に走り、両断された戦闘員の身体が血の線を引きずりぶっ飛ぶ。
しかし休む間もない。今度は背後から3人の戦闘員らが揃ってマシンガンを連射してくる。
桂はそれを左右に避けるでなく、跳躍することで回避。
そのままバク転の要領で背後へと向きを変えると、逆様の視界の中で取り出した拳銃を両手に容赦なく撃ち放つ。
見惚れてしまいそうな流麗な動きに戦闘員らが対応できるはずもなく、的のような彼らにいくつもの弾丸が突き刺さった。
マズルフラッシュの光に何度も照り返される桂の顔。
甲高い音を立てて床の上に落ちる空の薬莢。
そして桂の足が再び床を踏みしめた時には3人のうち2人が血を噴き床の上へと沈んでいた。
「あと一人……ッ!」
離れた位置にいた最後の戦闘員が銃を乱射する。
だが、叫びながら放たれるそれは避ける必要もなくただ桂の傍を通り過ぎるばかりであった。
すぐに弾丸は底をつき、桂は止めを刺すべくと歩み寄ろうとし――気づいた。
叫びながら――?
この戦闘員は何か違う。
今まで相手した戦闘員は全て無言で、感情が窺えるような仕草を見せなかった。
悲鳴を上げながらマシンガンを放り投げ、震える手でたどたどしく拳銃を抜く姿はこれまでのものと明らかに違う。
違う。この人は言霊に操られてなんかいない――
支援
ドサっと音がして恐怖で顔を引きつらせた戦闘員は簡単に押し倒された。
カチャリと鳴る二つの拳銃。
桂は戦闘員の眉間に銃口を押し当て、戦闘員は桂の腹へと銃口を押し当てていた。
感情を押し殺した声で桂は言う。
「お願い。投降して――」
相手は意志を持った人間。これまでのような操り人形と化した者ではない。
ならばと桂は思うが――
「この……化……物め……」
「っ……!」
初めて聞いた敵である人間の声。
恐怖と憎しみ。黒く濁った怨嗟に満ちた声。
化物という呪詛の言葉が桂の耳に届き心を震えさせる。
「死……ね……ッ!」
ゆっくりとスローモーションになる世界。
戦闘員が拳銃を持った腕に力をこめるのがわかる。
やめて。
それではわたしは殺せない。
お願いだから――
乾いた音がして熱い衝撃が桂の腹部に走った。
熱い鉄棒を身体の奥深くに押し込まれたような感覚。
しかし――人でなくなった桂はその程度の痛みでは死ねない。
「く……ぅ……」
「はは、化物め……ははは、ははははははは」
戦闘員の狂ったような哄笑が桂の耳に突き刺さる。
化物。
化物。
化物。
お前は化物だ。
「ははははははは化物め化物め化物め化物め化物め化物め化―――」
一発の銃声が煩い声を掻き消した。
眉間に穿たれた穴。死んだ人間はもう二度と口をきくことはない。
――殺した。
意志を奪われた人形じゃない。生の感情を持った人間を初めて自らの殺意でもって殺した。
それがひどく悔しくて、桂は自らの拳を堅い床へと打ちつける。
拳から真っ赤な血が滴る。人間のような。しかし、死んだ人間の残した言葉が耳を離れなかった。
「わたしは……化物なんかじゃない……!」
・◆・◆・◆・
支援
目を堅く瞑り耳を掌で覆い柚明の足元で震えているやよい。
いつの間にか、耳を塞いでも届いていた銃声は聞こえなくなっていた。
「終わった……の?」
「ああ……終わったぜ」
プッチャンの声でやよいはゆっくりと目を開く。
白く霞んだ世界は治療の甲斐あってか先ほどよりもずっとクリアに見えて、
だからこそ、そこに見たくない赤いモノが見えてしまう。
「うっ……」
部屋に充満した生臭い鉄の匂いに思わず口を押さえる。
やよいのすぐ傍には額を陥没させている戦闘員。それはまるで壊れた作り物のようで。
壁に背を預け崩れ落ちている戦闘員。白い壁と床に前衛的な赤いアートを描いており。
壊れた棚の中に上半身だけを突っ込んでいる戦闘員。まるで悪夢のような光景だった。
「これを桂さんが……?」
やよいが問いかると柚明は無言で頷いた。
息を飲み、やよいはよろよろと立ち上がり部屋の外へと向かおうとする。
「やよいさん……私が肩を貸すわ」
ふらふらとする身体を柚明が支えてくれる。
二人揃って部屋の外へと向かい、そしてそこでやよいは更に凄惨な光景を目の当たりにしてしまう。
私怨
支援
足元に転がる半分しかない戦闘員。そこにあったのはあまりにも惨たらしい死というそのままの有様。
折り重なるように血溜まりの中へと沈んでいる戦闘員。暴力こそが絶対の道理であると告げるような。
まるでパズルのピースの様にバラバラにされてしまった部品でしかない戦闘員。殺人の場面であった。
「うぐ……うぇ……」
こみ上げてきたものにやよいは口を押さえて蹲った。
あまりにもここは気持ち悪い。悪夢かと疑うほどに現実味が乏しく、なのに鮮明するぎる。
「桂ちゃん……」
背後の柚明の声でやよいは再び顔を上げる。
視線の先には仰向けに倒れた死体とその傍らで立ち尽くす桂の姿があった。
「桂さん……」
ぶらりと下げた片手に握られた銃の先からはうっすらと硝煙が揺れていて、
桂はやよいに背を向けて死体を見下ろしたままでいる。
「目……良くなったんだ。……でも、こんな姿やよいちゃんに見られたくなかったな」
ぽつりと呟く桂の声は震えていた。
ゆらりと振り向くその姿は先よりも赤色に凄惨さが増していて。
そしてお腹はには一際鮮明な赤の色。じくじくと染み出すそれは紛れもなく桂自身のものだった。
「桂さん……! お腹撃たれて――」
「大丈夫だよ……これぐらい。ほら」
服をまくり撃たれた傷を見せる。
本来なら血が溢れておかしくない銃創からはわずかしか血が流れていない。
「柚明お姉ちゃん……念のため傷口をお願い」
「うん……」
柚明が傷口を治療するため桂へと駆け寄る。
やよいはへたり込んだまま青白い光が桂の傷口を癒す光景を無言で見つめていた。
「こんな化物……嫌いになって当然だよね」
駄目だ……このままでは桂がいなくなる。
全てが終わってしまってもきっと桂は自分の前からいなくなってしまう。
どんなことになっても桂は桂で、大切な友達なのに……、
遠く、その姿が遠くへと行ってしまう。
それはいけない。
行かせてはならない。
一人で行かせては、
見送ってはいけない。
立ち上がり、
やよいは桂の元へ歩み寄り、
そして――
パァンと乾いた音が桂の頬を打つ。
「やよい!?」
「やよいさん!?」
突然の出来事に目を丸くする桂。
その瞳の中に映るのは怒ったような、それでいて泣きそうな顔のやよいの姿であった。
私怨
「ふざけないでください……っ!」
「えっ……?」
「ふざけるなって言ったんですっ!
なんで一人で抱え込んで……! 勝手に私が桂さんを嫌ってるなんて決め付けないで下さい!」
「やよいちゃん……」
「さっき私を庇って怪我までした人が化物のわけないじゃないですか!
何になったとしても桂さんは桂さんであることに変わらない!
私の大切な――友だちです! だからそんなこと……二度と言わないで下さい!」
「ありがとう……ぐすっ」
そう、自分の周りにはこんなにも優しい人達がいる。
例え自分がどんな化物でも、ありのままの姿を受け入れてくれる仲間。
どうしようもなく残酷で絶望的な現実の中で出会ったかけがえのない仲間達。
仲間達を守るためにどんなことがあっても自分は自分であり続けよう。
滲む涙を指で拭きながら胸に想いを秘める桂だった――
sage
・◆・◆・◆・
「あいたた……体は丈夫でも痛みは普通にあるんだね……」
「動かないで桂ちゃん。包帯がうまく巻けないわ」
「はあい」
襲撃者をひとまずは撃退した桂と少女達。それとパペットとショゴスが一体ずつ。
すぐにでもこの場を離れたい一行だったが、今一時、桂が負った新しい傷を癒すために止まっていた。
幸いにも新しい襲撃者の気配はまだ近くにはないようで、またここでならば治療に使う道具にも困らない。
蝶の力で傷口を塞ぐと、柚明は丁寧に周りを消毒し手早く桂の身体に包帯を巻いてゆく。
「着替えがないけど……しょうがないよね」
背中と腹に包帯を巻かれた桂は返り血と自らの血で濡れたブラウスを羽織る。
気持ち悪いけど仕方ない。まさか包帯をサラシ代わりに使うわけにもいかないだろう。
「やよいちゃんの目はどう……?」
「かなりよくなりましたけど……まだ全体がぼやけた感じです。あっもう歩いたりすることは大丈夫ですっ」
「良かったなやよい。一時的なもので……一時はどうなることかと思ったぜ」
「てけり・り!」
やよいの視力の回復具合に喜び合うプッチャンとやよい。
「そろそろ、行きましょう。また追っ手が来るかもしれないわ」
「そうだね」
「おう、一刻も早く離れようぜ」
「てけり・り!」
そうして彼女らは医務室を離れ廊下に出る。
支援
錆びた鉄の匂いが充満する空間。ダンセイニに手を引かれたやよいはなるべく転がる死体を見ないように歩く。
すると、一番前を歩いていた桂がふと立ち止まった。
「……? どうしたんですか」
「いや、ちょっとね……」
そう言って桂は足元に視線を落とす。
視線の先にはあの戦闘員の死体。唯一言霊の支配下に置かれなかったと思われる者がそこにいる。
そしてその戦闘員の頭部に装着されているインカムから雑音交じりの声が漏れ聞こえていた。
戦闘時の配置場所と、言霊に支配されてない点を考えるとこの戦闘員は部隊を指揮する隊長だったのだろう。
「…………」
桂は戦闘員からインカムを取り上げげて耳に当てる。
敵方も通信状況は芳しくないのか、ザラザラとしたノイズまじりの声が聞こえてくる。
『……小隊……応答……ろ』
通信の途絶えたこの隊への呼びかけだろう。
インカムから各地に配置されているであろう部隊への通信が聞こえてくる。
だが専門用語や符丁を交えた言葉は理解しがたく、特に有益な情報は得ることはできない。
時間の無駄かと桂はそのインカムを捨ててようとして、その時――
――――死んじゃえばいいのに……――――
私怨
「えっ……?」
何か声がしたような気がした。
インカムから聞こえる戦闘員の声じゃない。
少女の声。頭に直接響くように聞こえたその声は――
地獄の底から響く呪詛の声。
憎しみと怨嗟に満ちた声。
聞いたものの背筋を凍らせる深く冷たい声。
そして――インカムから聞こえる通信に変化が現れた。
『な……何……起こ……て……』
『ば……な……部下……が』
『こ……なこ……聞いて……ぎゃあああああああああああ!!』
『来るな来るな来……な……ひいいいい……いいい!!』
各部隊から聞こえてくる悲鳴と銃声。
仲間達が何かしたのだろうか? 否、それにしては通信から聞こえてくる声は恐怖に満ちたものばかりだ。
インカムからの絶叫は桂の側にいる柚明とやよいにもはっきり聞こえるほど激しい。
得体の知れない何かがこの施設内で起こっている。
それは戦闘員達にとっても全くの予想外のことなのだろうと想像がつく。
しかし、一体何が起こっているというのか?
『あの……化け狐め……部下を操り人形に変え……も飽き足らず化物に……で変えや……畜生ぉぉぉぉ……』
銃声のあと何かが潰れる音がして通信がブツリと途絶えた。
部隊の指揮官が全滅したのだろうか。耳を当ててももう意味のあるような言葉や音は聞こえてこない。
「な……なにが起こっているの……?」
支援
未知の出来事に背筋が凍る思いがする三人。
何が起こっているかわからない。けど一刻も早くここを離れよう。
そう頷き合う三人の背後で、声がした。
「う……あ……ぁ」
苦しげなうめき声。
振り返った先には倒したはずの戦闘員ひとり苦悶の表情を浮かべ呻いていた。
口をパクパクと金魚のように動かして。救いを求めるように天井に向かって手を伸ばしている。
全ての者に致命傷を与えたはずだがどうやら未だ絶命には至っていないらしい。
ならばせめて苦しまないように介錯をするのがよいかと桂は拳銃を構え呻きをあげる戦闘員を狙い――
だが――瀕死のはずの戦闘員がゆらりと立ち上がった。
「な……っ?」
「ひっ……!」
桂とやよいが口を揃えて声を発する。
死に至ってないとはいえもはや立ち上がれるはずのない傷を負っているはずである。
例え生きていたとしても遠からずその苦しみのままに死を迎えるだけであるはずなのに――!
「ううぅ……ぁぁ……!」
立ち上がった戦闘員は頭を押さえ悶え始める。
血塗れの身体をギクシャクと動かしまるでできそこないのロボットか、糸の足りない操り人形のように。
これは一体何事なのか? ともかくとして尋常な出来事ではない。
介錯ではなく膨れ上がる不安を打ち消そうと桂は改めて銃を構えなおし――
少女の呪いは深い穴倉の中を伝播する。
誰からも救いを得られることなく孤独に最期を迎えた一人の少女。
この世全てを怨み、呪い、憎しみ抜いて死んだ少女の呪詛が全てを塗り替えてゆく。
――――死んじゃえばいいのに……――――
「うっ……うああ……ァァァ……ウオオオオオオオオオオオオオォォォォォォ!!!!!」
瀕死のはずの戦闘員が力強い咆哮を上げた。
メキメキと音を立ててそのヒトの身体が別のモノへと変貌してゆく。
着ていた服を内側から裂き歪に膨らんでゆく筋肉。見る見る間に増してゆく質量。
体躯は元の倍ほどにまで膨れ上がり、丸太の様になった腕の先からはバキリと音を立てて爪が飛び出す。
割れるように耳まで避けた口の中には肉食獣のような鋭い牙がずらりと並んでいて。
私怨
そして、頭の左右から捻れた角が木の枝のように突き出しその異形は完成した。
「ははっ……何の冗談だよコレ……」
恐怖に堪えてなんとか声を絞り出すプッチャン。
ここにいる誰もが思っただろう。
何なんだこれは――と。
「みんな下がってぇ――ッ!!!」
叫ぶと同時に桂は両手に構えていた拳銃を異形に向かって撃ち放った。
三メートル近くある巨躯に向かってひたすら連射する。
しかし放たれた銃弾は全て鉄の壁にぶつけたような音とともに弾かれただ床の上に散らばるだけだった。
「そん……な……」
拳銃だけでなくマシンガンでも結果は同じだった。
あの異形には銃が通用しないということらしい。
もはや人のものとは思えぬ暗い色の皮膚は鋼鉄並の強度があるというのか。
ただ驚愕に目を瞠る桂。そして再び、大気を震わせる獣の咆哮。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォオ!!!!」
異形が音を立てて床を蹴る。
その鈍重そうな外見とは裏腹に異形は恐ろしい瞬発力で桂へと肉薄してきた。
気づいた時にはもう振りかざされた腕が目の前に迫っている。
避けきれない――!
桂は咄嗟に銃を捨て、帯刀していた小烏丸を鞘走らせ、抜き様に一撃を受け止めた。
ガキンと硬質の爪と刀身がぶつかり合いそこに火花が散る。
「こ、の……、っ!? きゃあああああああ!!」
「桂ちゃん!?」
異形はその凄まじい膂力をもって刀を構える桂ごと弾き飛ばす。
広い廊下を飛ばされ、桂はそのまま轟音を立てて壁に打ちつけられた。
「あ……ぐっ……ぅぅ……」
あまりの衝撃に壁が崩れ、隙間から土煙が濛々と立ち上がる。
壁の中に通っていたケーブルが切れたのか、蹲る桂の背後でバチバチという音が聞こえた。
そして桂も神経が引き千切られたかのような痛みに立ち上がることができないでいた。
倒れているわけにはいかない。なのに、異形は無慈悲にも桂を無視して柚明とやよいへと爪を向ける。
「冗談じゃねえぞ……! こんなバケモノまともに相手してられるか……!」
「柚明さん!」
「やよいさん……絶対に私から離れないで!」
柚明の眼前へと迫る異形。
もはやこの距離では剣を生成している時間はない。
それに柚明の身体能力は普通の人間とさしたる違いはない。
もし桂すらも吹き飛ばした攻撃を受け止めようとすればまず間違いなく死んでしまうだろう。
「ォォォォオオオオオォォォォァァァァァアアアアア!!!!!!」
容赦なく振り下ろされる腕。
柚明は切り札である電磁バリアを展開しその一撃を受け止めた。
異形の攻撃は青白い障壁に阻まれて柚明とその後ろに隠れるやよいのもとには届かない。
だがしかしダンプカーが衝突するかのような衝撃が柚明を襲っていた。
「なんて……力……! このままじゃ……」
異形は不愉快そうに喉を鳴らした。
支援
目の前に獲物がいるというのに妙な壁に阻まれて手が届かない。
ならば、壁が邪魔なら壊してしまえばいいだろう。
そう思ったのか、異形は怒り狂ったような咆哮を上げ、電磁バリアに向かって何度も拳を打ちつけ始めた。
「だめ……! もう……持たない……!」
柚明の悲痛な声。
一撃を受けるたびに障壁の上に青白い火花が散り、衝撃が柚明を襲う。
もう一撃。弾けるような音を立てて障壁が撓んだ。
更にもう一撃。明らかに障壁はその硬度を失い始めている。
そして更にもう一撃。柚明の口から啼く様な悲鳴が零れ、障壁に白い皹が走る。
後一撃で障壁は破壊される。異形は愉悦の笑みを浮かべ最後の一撃を振りかぶり、それを振り下ろ――
「――――!? グオァァァァァァァァァァァアアアァ!!」
ドス黒い色の血が柚明へと降りかかり、異形が悲鳴を上げて苦しみのたうつ。
何事かと見れば、振り上げられた腕が根元から切り落とされ、断面から吹き上がった血が雨となって降っている。
その背後。血色の雨の中には肩を大きく上下させる桂が刀を手に立っていた。
「わたしを無視して背中見せるからだよ……ッ」
ハァハァと荒い呼吸を無理矢理に抑え、桂は怒りと痛みに喚く異形へと相対する。
土気色の顔には脂汗が浮かび、彼女の苦痛も異形のものとそう変わらないように見えた。
「桂ちゃん――怪我を――!」
桂の脇腹に突き刺さった拳大ほどの破片を見て柚明が悲鳴をあげた。
破片は内臓にまで達しているのだろうか、今度はどくどくと止め処ない血が流れ落ちている。
「こ、の……女の子にはもっと優しくしてよ……ぐ、ぅ……」
突き刺さった壁の破片を引き抜くとごぼりと音を立てて更に血が溢れ出した。
真新しい血は音を立てて床を濡らし、そして贄の血の香りがこの場に漂っていた臭いを上書きしてゆく。
「ゴオオァァ……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
それを受けてか異形の様子が変わった。
犬の様に舌を出して小刻みに吐かれる荒い吐息。
血走った双眸。
ゆらりと異形は桂のほうに一歩踏み出した。
「まさか――桂ちゃんの血を……!」
あらゆる人外の存在を惑わし狂わせる贄の血。
柚明はここら一帯に充満してゆく贄の血の芳香を感じていた。
そして、この異形も例に漏れず贄の血を喰らおうとするだろうと――
「あはは、そのほうが都合がいいや。わたしがいるかぎりコレはわたしを狙うんだから――!」
不敵な笑みを浮かべる桂。
その笑みが癪に障ったのだろうか、異形は叫び声を発し桂へと飛び掛った。
縦に振り下ろされる異形の腕。これを桂は飛び退くことで避け、床に転がっていた自分の鞄を素早く拾い上げる。
更に間髪入れずに繰り出される異形の一撃。
ごうと音を轟かせ桂の鼻先を掠めたそれは、堅い床にまるで杭のように突き刺さる。
恐ろしい威力ではあったが、それ故にそこに大きな隙が生まれた。
鞄の口に手を差し込んだまま桂は跳躍。床に刺さったままの異形の腕を足場にもう一跳躍。
まるで五条大橋で弁慶と戦った牛若丸のような華麗な身のこなしで異形の肩へと飛び乗ると鞄から腕を引き抜いた。
その腕に構えられるは九七式自動砲。何者をも喰い散らかす黒金の牙。
まだヒトの頃の知能が残っていたのか、それを見た異形の顔に焦りの様なものが浮かんだ。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
私怨
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
振り落とそうとした異形に対し、桂が機先を制しその顔面に刀の切っ先を走らせる。
激しい痛みに苦悶し強く身体を揺さぶる異形。
しかしそれも桂が眼窩へと刀を突き刺すとまるで杭を打たれたかのようにピタリと収まった。
だがそれでもまだ異形は死に至らない。差し込んだ刀は脳にまで届いていてもおかしくないというのに。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!! ガ――――ッ!??」
不意に咆哮が中断される。
視界を奪われた異形は何が起こったか理解できない。
ただ口の中に硬い金属の棒の感触と、鉄の味がすると感じるだけだ。
次の一瞬。辛うじて失明を逃れていた残りの目が見たものは先程の銃を自身の口に捻じ込んでいる少女の姿であった。
それが何を意味するのか。異形の知能が理解へと近づいてゆく――が、それに辿りつくまでの時間はもうなかった。
「これに耐えられるなら耐えてみろおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「アギャ――?」
異形の口内で鉄火が弾けた。
爆音が轟き、連続する破壊の音に異形の頭部は見る見る間に形を崩し、遂には爆散する。
頭蓋骨の破片が、血と脳漿が混じったものが、折れた角、バラバラになった牙が、眼球が、床にぶちまけられる。
いかな頑強な生物と言えど、頭を丸々失ってしまえば生きてはいられまい。
数えて七発の弾丸を喰らった異形は身体を傾げさせると、そのままモノのように床へと崩れた。
「はあ……っ、はぁ……やった……よね?」
桂は倒れこんだ異形に近づき生死を確かめる。
やはりこれほどの異形とあっても頭を吹き飛ばされては起き上がってくる気配もなかった。
支援
「桂ちゃん! すぐに手当てを!」
その桂へと蒼い蝶々を纏わせた柚明が慌てた風に駆け寄ってくる。
「ちょっと待って、どうせ治すのなら先に柚明お姉ちゃん飲んで。このままだと勿体ないよ」
「あ……うん。そうね……」
だが、手当てを始めようとする彼女を止めると桂は赤く濡れたブラウスを捲って傷口を――血を彼女の前に曝した。
先程まで石片が突き刺さっていたはずの傷口はもう半ばほどまで閉じていたが、まだどろりとした血が流れ出している。
柚明は息を飲むと、桂の脇腹へと口をつけ少しも零さないようにと丁寧に啜り始めた。
唇を窄め、そして掻き集めるように傷口へと舌を挿し込む。
「んく……っ、はあ……はあっ……」
じゅるり……ぺちゃぺちゃ……。
再び静寂を取り戻した廊下に血を啜る音が鳴り続ける。
しばらくして、満足した風に口を離すと柚明は蝶を展開して桂の治療へととりかかった。
「それにしても一体こりゃ何なんだ……? 神崎の秘密兵器か何かか?」
やよいの腕の先でプッチャンは手を組んで首を捻る。
「変身ヒーロー物の怪人みたく密かに改造されてた……なわけねえよなあ」
普通の人間を遥かに超える巨体と鋭い牙と爪をもった怪物。
そして頭に生えた角。これらの特徴に一致するもの。ひとつだけ心当たりがある。それはまるでお伽話に出てくる存在。
「鬼――」
柚明がぽつりと漏らした単語。
私怨
昔話に幾度となく登場し、人を喰らい略奪を繰り返した異形の生物――鬼そのものだった。
「そんな……これがサクヤさんと同じ鬼なわけないよっ!」
「ええ、そうね。サクヤさんは人とは違う種ゆえに人々から鬼と呼ばれ続けた種族。これとは根本的に違う存在よ」
「じゃあ……これは……」
「激しい憎悪がその身を変質させるまで至った存在――私はこの島で似たような存在を見たわ。
桂ちゃんも見たはずよ。もっともあの時はここまで身体が変質してはいなかったけど……」
「確かに……いたよ。りのちゃんはそれに――」
「何だって……! りのはこんな化物に殺されたって言うのかよ!」
「わたしが見た時はまだ人間の姿をしていたよ。
普通の女の子の姿だったけど、……アルちゃんが言うには色んな魔術的な何かをごちゃ混ぜにしたような物だって」
桂の語るかつて出会った異形の少女。
その話を聞いていたやよいは険しい表情で桂に質問した。
「あの……その人――いえその鬼は何か言ってませんでしたか? 赤ちゃんがどうとか……」
「言ってたよ……やたらお腹の中に赤ちゃんがいることに執着してた」
「やっぱり……葛木先生……ぐすっ」
「やよい……」
身を挺して鬼から逃がしてくれた葛木宗一郎を思い出し涙を浮かべるやよい。
「なあ……最終的にあの鬼はどうなったんだ?」
「わたしが知ってるのは、戦闘機に乗って襲ってきたんだけど……」
「はあ? 戦闘機ぃ? 変な冗談はよせ……ってこんな時に冗談なんか言うはずはないよな」
「その後急に変な動きになって海の方に落ちて行ったよ。わたしは知ってるのはそこまでだけど」
「そうか……」
「私も桂ちゃんとやよいさんが見た鬼とは違うのを見たわ……あれも元は人間……普通の女の子だった」
鉄乙女。そして西園寺世界という名の悪鬼。
考えてみれば彼女達がああ成り果ててしまったのも、この過酷な運命に翻弄された結果なのだろう。
彼女達が鬼に至るほどに思いつめていた憎悪と絶望。そして渇望を知る者はもはやいない。
支援
出来事は伝える者が残っているが、そこにあった想いはもう全て闇の中だ。
「そろそろ行こう。他の人たちが心配だよ」
桂の呼びかけで一行はこの場を離れるはじめる。
多数の戦闘員にそれが変化した悪鬼。畳み掛けるような窮地に曝されたが辛くも切り抜けることができた。
それが今までにないほどの危機だったせいか、無意識のうちにこれ以上はないと考えてしまったのかもしれない。
いやそれともただ目を背けていたのか。彼女達はある事実を失念していた。
通信の内容から悪鬼は他にもいるということ。そしてこの周辺には桂の流した贄の血の芳香が充満していることに――
ザ……
立ち去って行く彼女らの後ろ。廊下の曲がり角から一体の悪鬼が姿を現した。
その手には飴細工のように捻じ曲げられ、禍々しい魔槍と化した鉄パイプが握り締められている。
そして鼻を鳴らしていた悪鬼は甘い匂いを撒き散らす果実をその目に発見すると、それを得んとすべく魔槍を――
背後から何か聞こえた気がして振り返ったプッチャンの顔が強張る。
その視線の先には桂が苦労して倒したものと同じ悪鬼がいて、こちらへと向かい何かを投げようと、いやすでに――
「みんな伏せろぉぉぉぉぉ!!!!」
「えっ……?」
全てがスローモーションのようにゆっくりと動く中で柚明はそれを見た。
ごうと風を切り飛来する何か。
その進む先には桂が立っていて。
気づいていない彼女はきょとんとした顔で振り返り――
(だめ……! よけて――――!)
言葉を発しようとしてももう遅く。手を伸ばすことなどできるはずもなく。見ているだけしかできないその前で。
振り返った桂の胸に魔槍が突き刺さり。
ゆっくりと、ゆっくりと沈んで、
止まることを知らずにどんどん深く槍を桂の中へと沈んで、
背中から、槍が、歪な角のようなそれが、生えて、
そこから弾けた真っ赤な血が暖かく顔を濡らして、
桂の身体がまるで連れ去られるかのように浮き上がり、
そして――そのまま廊下の突き当たりまで飛んでいった槍は壁に深々と突き刺さる。
私怨
桂の小さな身体を、まるで虫の標本みたく縫いとめるように。
ただ一瞬の残酷。時が溶ける瞬間。柚明は自分の悲鳴を聞いた――
「け……い、ちゃん……!? ――――嫌ぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁあああああああっっ!!!!」
・◆・◆・◆・
「がっ……はっ……あぐあぁぁっ」
全身がバラバラになるような衝撃が鳴り止まない。
胸が、まるで中に焼けた石を埋め込まれたようにひどく熱く、重い。
足に地面を踏んでいる感覚がない。身体のどこにも力が入らないのに何故か地面に倒れない。
胸元から生えている銀色の棒はよく見ればそこら中を走っている配管の一部のようだ。
自分の腕よりも太く身体よりも長いそれが胸の真ん中に突き刺さっていて、それはつまり――
(ああ――壁に磔にされているんだ――……)
途端に喉の奥から熱いものがこみ上げ、ごぼりと音を立てて口から真っ赤なものが流れ出した。
ごぶごぶとこみ上げるそれは自分の身体なのにどうしようもなく、止め処なく溢れ出る。
口の中が、鼻の奥までもが嫌なぬめりで満たされて気持ちが悪くてしかたない。
支援
霞がかった視界の先には大きな異形の影が、さっき倒したはずの悪鬼が立っている。
いやそうではない。倒したはずの鬼は今も床に横たわっている。何時の間にかに他の鬼がやって来てしたのだ。
鬼が腕を振り上げ、振り下ろした。何かが飛んでくる。何かを投げたらしいと――
――衝撃。
堅い壁が突き破られる音が背中越しに伝わり、理解の次に激痛が襲い掛かってきた。
全身が引き攣り、さらに視界が霞む。しかし見えなくとも胸と同じく腹にパイプが突き刺さったのだとはわかる。
塊のような血が口から噴出し、全身がびりびりと震え、背中に寒気が走り、鈍痛が頭を襲う。
内臓がぐちゃぐちゃになっている。熱い血が身体をびしょりと濡らしているのに寒気と震えが止まらない。
「が……ぁぁ……ごぷっ……」
声に血が混じり言葉にならない。
傍らで柚明が叫んでいる。
「いやあぁぁぁぁぁぁ! 誰か桂ちゃんのそれを抜いてぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
半狂乱になった彼女がパイプを抜こうとしているのがわかる。
だが鬼の力で打ち込まれた鉄の杭が彼女の弱い力でどうにかなるはずもない。
ギシギシと揺する音だけが腹の中に響き、まるで鑢をかけているかのような痛みが増すだけだった。
身体が震えるたびに液体が床を叩く音が耳に伝わり意識が重たくなってゆく。
「バカヤロウ柚明ッ!!! 下手に動かしたらホントに桂が死んじまうぞ!!!」
「あああぁぁぁぁ……ぁぁぁぁぁぁぁあああ……!!」
声は聞こえるのにみんなが何を言っているのかわからない。
鬼が来る。
鬼が来る。だから、みんなを逃がさないと。
しかし、声を出そうにも止め処なく溢れる血がそれを邪魔して言葉にならない。
ゴボゴボと気味の悪い音を鳴らして、カチカチと歯を打ち合わせる音を立てることしかできない。
視界が焼き切れてゆくかのように白さを増してゆく。
ぶつりぶつりと脳細胞が少しずつ焼き切れてゆくかのような感覚。
意識を手放してしまえば楽になれるだろうに、鮮烈な激痛が繰り返しそれを阻む。
普通の人間ならばとっくに死んでていいものなのに、なまじ身体が頑丈なせいで死にきれない。
激痛で意識を取りこぼしそうになり、同じ激痛でその意識を拾い上げる。それの繰り返し。無限の責め苦が身を苛む。
しかしいつか……もう少し我慢すれば脳が完全に焼き切れてくれる。
いくら身体が頑丈で死に至らないとはいえど、脳が人のそれである限り耐えられる限度というものはあるはずだ。
こんな苦痛が続くならば、ブレーカーを落とすように脳が死を選んでくれるはず。
後もう少し。ちょっとだけ我慢すれば楽に、楽になれるはずで――
じゃあその後は――?
鬼は死骸に喰らいつき死を陵辱するだろう。
贄の血が詰まった皮袋。
それは妖の存在にとっては極上の食物に他ならない。
どこもかしこも全て喰らえば床に零れたものすらも這って啜るだろう。
そして、鬼は今までに比類なき強大な力を得るに違いない。ならば、その後は――
「ごぽ……ぁ……て」
声が出ない。
逃げてと、たったそれだけを言いたいのに、声が出ない。
「……ごふっ……いだ……に」
贄の血に貪りつく鬼はしばらくの間はそれに夢中のはずだ。
だからその間に逃げて。
それを伝えたいのに、しかしどうすることもできない。
私怨
白い視界が明かりを落とすように黒へと変わった。
もう誰の声も耳には聞こえない。
身体を苛む痛みも、悪寒もふっと感じなくなってしまった。
代わりに、心地よい眠気が訪れて――……
とくん――……
どくんどくんと力強く脈打っていた心臓の響きが弱くなっていくのがわかる。
支援
とくん――……
とくん――……
とくん――……
とくん――――――――――――……
・◆・◆・◆・
私怨
支援
時に静謐で、時には騒然としていた一番地本拠地司令室だが、この時ばかりは部屋全体が異様な空気に包まれていた。
それは至極原始的でシンプルな感情――”恐怖”にである。
オペレーターのつけたインカムから、モニターの横のスピーカーから、怒号と悲鳴がいくつも漏れ聞こえている。
そしてそれらは大きなノイズを発して途切れたり、悲壮な断末魔を残してひとつずつ沈黙していっていた。
何が起きているのか? 目を瞑れば知らずにすんだであろうが、しかしそこにいる者らはそれを見てしまっていた。
一番地本拠地内の要所、各種コントロールルームに設置された監視カメラから送られてきている映像。
その中で行われている悪鬼による虐殺と破壊の一部始終を。
本部の各所に配置された戦闘員、または職員が見る見る間に異形の怪物へと変じ、暴虐の限りを尽くし始める。
一番最初に犠牲になるのは、運悪くかまたは運がよかったのか、悪鬼とはならなかった人間達だ。
悪鬼は逃げ惑う彼らを捕まえると、まるで子供が人形で遊ぶようにそれをバラバラにしてしまう。
零れ落ちるのは白い綿ではなく真っ赤な血と内臓、それと耳を覆いたくなるような悲鳴。
あまりにも凄惨な光景にモニターを見ていた何人かが嗚咽を漏らし、何人かは悲鳴を上げて目を覆う。
動くものがいなくなると悪鬼共は目に付くものを矢鱈滅多と破壊し始め、監視カメラが壊されるとようやく映像は途切れた。
中には難を逃れ未だ映像を写すカメラもあるが、その中の光景が沈黙していることには変わりない。
異変の発生からおおよそ十分ほど。司令室の中は恐怖と戸惑いの空気に場を凍らせていた。
「――これは一体どういうことなのか説明してもらおうかしら!」
しんとしていた室内に警備本部長の大きな声が響き渡った。
見れば、頭領である神崎黎人を前に警備本部長が今までにない形相で捲くし立てている。
他の職員らも詰め寄りはしなかったがその光景を遠巻きに窺い始めた。
なにせこの状況は誰にとっても予想外のもので、死に近い。何らかの説明を欲するのは人間ならば当然のことである。
「説明ですか……?」
対して、神崎の顔はいつもと変わらぬ涼しいものであった。
支援
私怨
支援
不穏な気配に毛を逆立てている妹の頭を優しく撫でながら、温かい紅茶を少しずつ飲んでいる。
彼が物事に対し動じるところを見せないタイプだとは皆も知っていたが、この状況ではさすがにそれも空寒い。
「こうなることをあなたは知っていたんでしょう? だから、あの妖を参加者の手の届く位置に留めた」
推移を見守る職員らは状況に対して一切の考えを持っていなかったが、警備本部長にはある程度の推測があったようだ。
神崎は彼女と、そして自分らを見つめる職員らを一瞥すると、一息つき、いつも通りの声色で釈明を始めた。
「知っていたかということについてですが……、これは、半分ほどは予想していたという所でしょうか。
すずさんが殺されるなりして言霊の支配が解ければ反動で暴動のようなものが起きるとは”予想”していました。
実際、鬼道の専門家からはそのような懸念が報告されていましたしね。故に彼女を隔離しようともした。
ですが、まさかこれほどまでとは――」
そこで神崎はくすりと笑った。
学園の中であれば誰もが見惚れるような笑みだが、この場においては見る者の印象は真逆だ。
あまりにも神崎が非人間的なものに見えて、警備本部長や職員らの顔から色が失せる。
「……これからどうするの? これじゃあ、私達もおしまいじゃない」
警備本部長がいつになく弱気な声で尋ねる。
一番地職員の内、言霊を施した者は下級戦闘員から一般職員まで合わせると8割ほどに達する。
それらがほぼ等しく悪鬼と化し、残りの2割の人間を駆逐し始めているのだ。
もはや、これは組織の体を成しているかどうかなどという段階の話ではない。全滅か破滅かという話である。
「そうでしょうか? 僕はそんなことは全然ないと思いますが」
だが、神崎の表情は一切揺るがない。
いつもと変わらぬ……いや、いつも以上に余裕を感じられる。職員の中には気が触れたのかと疑うものもいた。
支援
支援
「警備本部長は一体何を問題視されているんでしょう?
……悪鬼がここまで来てしまうことを恐れているんですか? でしたら心配はいりませんよ」
神崎はティーカップを皿に戻すと、指を組んで諭すように語り始めた。
まずこの司令室があるフロアには悪鬼は存在しない。なぜならば先刻、参加者に当てる為に戦闘員を動かしたからだ。
無論。こういった事態を見越してのものである。
そしてこの司令室近辺には微弱ながら人払いの結界を張っている。悪鬼共が偶然に寄って来る心配もない。
「――なにより、我々の目的は凪を倒し今度こそ媛星の力を掌握すること。
だとすれば、凶暴な悪鬼が基地中に満ちているこの状態は我々にとって有利だとは思えませんか?
なにしろ、ただの人間程度の戦闘員が揃って並の戦士を凌駕する鬼と化したんですから……」
彼の言葉を聞き、室内にいるものは等しくその意味と意図とを理解した。
それはとても簡単なことだ。
つまり、神崎黎人――黒曜の君は、儀式が成就するなら人の命などはなんとも思わない……ということ。
「そんな……、しかし……それじゃあ…………」
警備本部長は反論しようとし、しかし口ごもった。
今更、他人の非人道的な行為を咎められるほど彼女の経歴も綺麗なものではない。
己の目的の為に他人を蹴落としたことなど数え切れず、その過程で死人が出たこともなくはないのだ。
「ですが、安心してください」
神崎は椅子から立ち上がると、自分に注目している皆に向けて声をかけた。
その顔はやはりいつもの温和で平和的な笑顔だ。とても窮地に立たされた将のものとは思えない。
私怨
「凪を滅し、僕と命とが儀式を成就すれば、媛星の力によりあらゆる問題を解決することができます。
そして、その時は近い。
この地下には悪鬼が犇めき、我々の邪魔をする参加者らは絶体絶命の窮地に立たされている。
また凪を追い詰める作戦も順調に進行しており、アレの運命ももはや風前の灯火。
ほどなくして我々は勝利の栄光をいただくことができるでしょう」
そして、神崎はククと笑い声を零した。まるで、とっておきの悪戯が成功したかとそんな風に、心底愉快そうに。
だが、そんな彼とは対照的に室内の空気は凍りついたかのように冷たく、重くなってゆく。
「あなた達はこの幸運に喜ばなくてはならない。
なぜならば、この地獄とも言える地下世界の中で唯一安全な場所にいるのだから。
さぁ、どんどんHiME達を追い詰めてゆきましょう――」
――我々の勝利の為に。
そして、凍り付いていた空気は溶け、司令室の中は再び慌しくなってゆく。
警備本部長は未だ生存している戦闘員の再編成や、職員の避難誘導を検討し、それを素早く指示してゆく。
オペレーター達はいくつものモニターとチャンネルを開き、外の情報を集めようと必死に目を凝らし耳を澄ませた。
技術顧問がエネルギーラインと生きている施設を確認し、計画担当がそれに合わせ指令書に訂正を入れる。
誰もが追われるように動く。
組織の為にか、神崎への恐怖にか、異常な事態からの現実逃避か、ただ単純に死にたくないだけなのか――。
神崎黎人はただその光景を目を細めて見る。
何もわからないといった風の妹を隣に置き、楽しそうに、楽しそうに、終幕へと進む事態をただ見守っていた。
・◆・◆・◆・
長く長く続く地下通路。その中を絶叫という名の風が荒れ狂っていた。
天井を床を、魂を揺さぶるような咆哮が通路の中を轟き渡る。嘆き、怒り、悲しみ、それらが何重にも木霊している。
何者か。漆黒の影が空気を引き裂き、縦横無尽にと通路を走りぬけ、その感情を破壊へと変換していた。
走る人影の前に巨大な影が立ち塞がる。それは金属質な表皮を持つ大熊の様なオーファンであった。
一声嘶き、オーファンが人影へと爪を振り下ろす。
ひとつひとつが鉈の様なそれを喰らってしまえば人間などひとたまりもないだろう。だが人影はそれを容易く受け止めた。
次の瞬間、オーファンの背中が爆発した。
内臓がクラッカーの様にばら撒かれ、それは光の粒子となって空に解けて消える。
後に残るのは人影だけ。そして人影はまた再び咆哮を轟かせ次の得物を探し始める。その嘆きを沈めようと――。
一体、二体、三体……と打ち砕き、ほどなくして人影の周囲からオーファンの姿は見えなくなった。
だがしかし、何十もの化物を倒そうとも人影の悲しみは癒えることがない。なにかをすれば癒えるというものではなかった。
それでも、それでもしかし彼はその怒りをなにかにぶつけなくては今を耐えることができなかった。
ズン……と、響く音と共に地下通路の壁に亀裂が走る。
二撃でそれは蜘蛛の巣のように広がり、三撃目にて壁は粉砕され崩れ落ちた。
粉々に。破壊されたものは二度と元には戻らない。手から零れ落ちたものは二度と拾い上げることができない。
そんな空しいだけの光景であった。
聞く者に悪寒を走らせるような嘆きを轟かせるのは、大十字九郎。
彼はまた仲間を失ってしまっていた。
支援
支援
まただ、また仲間を失ってしまった。
もう二度とそんなことはさせまいと誓ったのに、神崎黎人の声は無常にもそれを告げてしまった。
いつも明るく努め、何かと周りに気をつかっていた心優しい女の子である山辺美希。
言葉こそ冷たいものはあったものの、その奥では皆に理解を示し歩み寄ろうとしていたファルシータ・フォーセット。
そして、クリスと共に苦難を乗り越えて新しい幸せを見出し、それを必死に守ろうとしていた玖我なつき。
三人の名前が告げられてしまった。
彼女らの死を知って皆も悲しんでいるだろう。悲しまないはずがない。皆は仲間だったのだから。
クリスは今どうしているのだろうか? 彼は立っていられているのだろうか? 自分が傍にいなくても大丈夫だろうか?
しかし、
誰がどこにいるのかもわからない。差し伸べようにもどこに手を伸ばせばいいのかもわからない。
周りを見る。自分だけだ。誰も近くにはいない。皆はどうしているのだろうか。そんなこともわからない。
わからないことばかりだ。誰かが助けを呼んでいても聞こえない。誰かが苦しんでいても救えない。
不甲斐ない。辛い。苦しい。無力な自分が情けない。悲しい。憎くすらある。
――守るべき時に守れない力なんて……なんの意味がある?
九郎は黒き翼を広げると再び飛び立とうとした。
何かをしていなければ自分という存在がほどけてしまいそうで、しかし不意にマギウス・スタイルが解け床に落ちる。
「――――ぐっ!」
私怨
支援
九郎の口からうめき声が漏れた。
落下の衝撃だけでなく、付与魔法の効果がいっせいにキャンセルされたせいでその反動が強く身体を苛む。
途端に心臓が主張を強め、ドクンドクンと大きな音を鳴らし始めた。
身体中が引き絞られるような感覚と、這い蹲る自身に無力を痛感し、瞑った瞳から涙が零れる。
「たわけがっ! 激情に我を失い暴走するとはそれでも汝は魔術師の端くれか!」
蹲っている前に立つアル・アジフより叱咤の声を浴びせかけられる。
マギウス・スタイルが強制解除されたのは彼女の仕業であろう。九郎の中に感謝と恨みとが合わせて浮き上がる。
「これも全て覚悟の上ではなかったのか! だからこそ妾らは此処にいるのではないのか!?」
アルは両手を広げて周りを見渡す。そこにあるのは破壊と破壊と破壊と残骸。戦闘の痕であり、戦場である。
彼女の言う通りであった。
魔術師と魔導書は強大な力を持つ。故に敵方よりマークされているだろうと陽動を買って出たのは九郎自身である。
敵である一番地とシアーズ財団の戦力は強大だ。対してこちらと言えば20にも足りない小集団。
また、その中には無力と言っても差し支えないような者も混ざっている。
意気揚々とした姿を見せてみても劣勢なのは厳然たる事実。だからこその作戦であり、個々の役割であった。
「違うか!?」
違いはしない。だがしかし、九郎は考えてしまうのだ。もし、どこかで、違う選択を――と。
この地下に入ってよりすぐ、結界が張られていることにアルが気づいた。
言われてみれば確かに魔術師の鼻にはよく臭う。そしてこれはアル曰く、魂霊的なものの逃亡を阻むものらしい。
つまり、首輪から”想いの力”が抜け出しても一番地はこの結界で捕らえ収集することができるのだと言う。
それが何を意味するかというと、HiME(参加者)以外ではHiMEを殺傷できないという前提が崩れたことに他ならない。
「汝はなんと言った!? あの月夜を見上げてどうだと言ってみせたのか!?」
ならば、作戦など放棄して、いち早く仲間と合流できるよう進むべきだったのではないか?
支援
勿論。そんなことをすれば敵の戦力も集中することとなり別の危機が発生するだろうと理屈では解っているのだが、
しかし今目の前の結果を見ると、どうしても他の可能性はなかったのかと考え、後悔ばかりが募ってしまう。
「汝はここで何を見た! 何を聞いた! 何を知った! 妾とおらぬ間に何を得てきたのだ!?」
何を? 何を、とは――何をとは、それは――それは、あの殺し合いの中で――……
”つまり、倒れた牌はその次の牌に、その牌はまた次の牌に……残された者の背中に乗っているの”
そう。大十字九郎は知っている。自分が何者であるべきかを。
・◆・◆・◆・
九郎が頭を上げたその時、新手の敵が通路の向こうより現れた。
今度の敵はオーファンではなくアンドロイドが3体だ。
だが、これまでに相手をしてきた量産型――つまりは深優とよく似た女性型のものでなく、男性型のものである。
様子も違う。銃器などを乱射し闇雲に攻めてくるようでもない。
そして、九郎はそのアンドロイド達の様子にどこか既視感を覚えた。それは――。
「九郎。マギウス――」
「――待ってくれ」
ふらつく足で立ち上がった九郎は、人書一体となろうとするアルを制した。
アルの眉毛が釣り上がる。まだ自棄になっているのならば灸が足りないのだと思ったのであろう。
だがそれは少し違った。
「無謀なことを言うでない!」
「わりぃ、ちょっと頭を冷やすだけだ」
言って、九郎は生身のままアンドロイド達へと突進した。あまりの暴挙に、背後に残されたアルは息を飲む。
「――――」
無言で一体目のアンドロイドが九郎の前へと肉薄した。
両の拳の構え。これは拳法を使うらしい――と、花火のように連続する爆音が鳴り響き、九郎の身体を弾き飛ばした。
口から血を零しながら床を転がる九郎を見て、アルが悲鳴を上げる。
「(…………手加減してくれ、なんて言えねぇよな……おっさん)」
その絶技の名前は『八咫雷天流“散華(はららばな)”』と言った。
「――うおっ!」
十や二十の拳を叩き込んだからといってアンドロイドが満足するはずもない。
転がり逃げる九郎を追うと、破れかぶれといった風に繰り出された反撃のパンチを取り、その肘を折らんと腕を絡ませようとした。
だが、九郎はアンドロイドの腹に蹴りを叩き込むことで辛うじてそれを免れる。
「(…………漢気!)」
アンドロイドは一体だけではない。そして三体もいればコンビネーションも取ってくる。
二体目のアンドロイドが繰り出す攻撃に九郎の顔が青褪めた。
それはただの正拳突きでしかない。だが、そこから連想される人物が、彼の姿がそれを岩をも砕く一撃だとイメージさせた。
「――――ッ!!」
sage
支援
両の腕をクロスさせてガードしたにも関わらず九郎の身体が宙に浮き、放物線を描く。
腕の骨が折れたかもしれないというのに、何故かその荒唐無稽さがおかしくて九郎の口が笑みの形に歪んだ。
「(…………まだ諦めちゃいけねぇよなぁ)」
床へと叩きつけられた九郎の目に、天井に張り付く三体目のアンドロイドの姿が映る。
片方の腕を蛇腹状に改造されたそれは、その腕を長く伸ばすと握っていたダークを九郎の心臓目掛けて投擲した。
それは正確に九郎の心臓へと進んでくる。一瞬の半分ほどの後には彼を絶命させているだろう。だが――
――打ち合う金属音。一瞬の後、しかし九郎の命はまだ健在であった。
「それで、汝の頭は冷えたのか?」
「ああ、おかげさまでな」
見れば、九郎の足の間にバルザイの偃月刀が突き刺さっている。
誰がこれを投げて、どうやって彼の命が救われたのか、それを説明する必要はないだろう。
――『マギウス・スタイル』
再び、人書一体となった九郎とアルとがその場に現れた。今や彼の顔に先刻のような激情の気配はない。
悟りを開いた……というと大げさか。それでも清涼とした静かな表情であった。
「俺は、何があっても最後の最後まで立ってなけりゃいけないんだ」
九郎は手に取ったバルザイの偃月刀の切っ先で宙に五芒星(旧き印・エルダーサイン)を描く。
星の形で輝くそれには、今はまた別の意味があった。
支援
支援
「泣くのは一番最後って決めたからな」
その意味の名は――希望。
希望とは、あらゆる苦難と絶望に押し潰されようとも決して潰えないもの。
どれだけ追い詰められようとも、それは必ず小さな瞬きとなって目の前で輝いている。
前を向いて目を見開いてさえいれば、それがいかに小さくなろうとも必ず目の前に存在しつづける可能性。
それは、ほんの小さな運命の破壊者。
瞬間。九郎の姿が光となりて、アンドロイド達の間を稲光の様に通り抜けた――……。
・◆・◆・◆・
「……これで、ここは打ち止めか?」
砕けたアンドロイドの残骸が散らばる音を耳にし、九郎はふぅと大きく溜息をついた。
”なーにが、ここは打ち止めか? だ。戯けめ”
頭の中で響く不機嫌そうなアルの声に九郎は苦笑する。
またしても醜態を見せてしまったことになる。こんなことはこれでいったい何度目やら。面目ないと言ったらしかたがない。
現実的な問題も一切解決はしていない。ただの一人相撲と言われてしまえば返す言葉もなかった。
「悪かったって……。でも、まぁ……もう大丈夫……だと思います」
やれやれと頭の中でアルが盛大な溜息をつく。しかし、それがどこか心地よかった。
そして、九郎は残骸と化したアンドロイド達――あれらの後ろにいたかもしれない”彼ら”にも「大丈夫」だと心の中で呟いた。
これから先はもう長くはないだろう。後、もう少しで何があろうと決着はつくはずだ。
だが、もはや道は見失わない。と、九郎は心の中に星を浮かべて彼らと、そして”あの少年”にそれを誓った。
「さてと、このまま一気に一番地の本拠地まで行きたいところだが……」
「うむ。警戒せねばならぬぞ」
小さなアルが肩口から飛び出して直接に忠告を発した。
ただひたすらに長い通路の先からはもう敵の気配はしない。
オーファンが発する特有の波動も、アンドロイドから漏れてくる僅かな電磁波も魔術師の感覚には捉えられない。
だが、それとは別の不穏な気配が通路の遥か先より、僅かに漂ってきているのを二人は感じ取っていた。
あまりにも原始的な負の波動。それが何か、アル・アジフには覚えがある。
「急ごう。やよい達が心配だ」
「油断はするな」
それは悪鬼の気配だ。あの、強大な負の衝動の塊。あれの恐ろしさを彼女はよく知っている。
知っているからこそ、細心の注意をそちらに向け、だからこそ”目の前の不吉”の気配に気づくことができなかった。
九郎の背中から展開された黒い羽が空気を叩く。
私怨
そこまでは10メートルもない。マギウス・ウイングの加速ならば1秒とかからないだろう。
半秒後にアルは何か不吉だと勘付いた。しかし、残りの半秒でそれが何なのかを特定することができなかった。
もし、悪鬼の気配が彼女の気を引いてなければこれは回避できたのかもしれない。
しかし、そうなってしまう以上、別の可能性などに意味はないのだ。
少なくとも、もう一度やり直すなど今の彼と彼女には不可能。
「――――九郎ッ!」
「――――なっ!?」
頭上の遠くより鈍い音となって爆音が響く。それが何を意味するのか、理解した時にはもうそれは始まっていた。
天井が撓み、高さ50メートルにも及ぶ土塊が彼らを押し潰さんと迫る。
視界は暗闇に閉ざされる。
果たして、
彼と彼女はこんな暗闇の中でも希望の光を見つけ出すことができたのだろうか?
轟音が、その答えを掻き消した――……
支援
・◆・◆・◆・
吾妻玲二。
またの名をファントム・ツヴァイ。
まだ少年と形容してもおかしくない彼は明かりの乏しい地下道を歩きながら補給――つまりは握り飯(深優作・紅鮭)を食べている。
右腕に抱えている不釣合いな、それなのに少しも不自然さを感じさせない自動小銃以外は、やはり普通の少年にしか見えない。
だが、彼は某大国の犯罪組織『インフェルノ』により作り出された暗殺者なのだ。
ファントムシリーズの二番目にして、現存する中では最後の一人。
インフェルノの幹部であり、ファントムシリーズの作成者であるサイス・マスターのは彼のことを最高傑作だと語っている。
最強の暗殺者。それは最高の殺人技術の保持者であることを意味する。
少年少女の柔らかさを残しながらも素手で容易く屈強な男を屠れる身体能力。
銃、ナイフは言うに及ばず、爆発物から毒、原始的なトラップにまで及ぶ広大な知識。
軍属するスナイパーにも匹敵する精度の狙撃能力に、コマンダークラスの近接戦闘能力。
感情の揺らぎを見せずに人を殺せれば、対象と熱い恋人を演じることすらできる柔軟な判断力。
そして、おおよそどこの都市部にでも違和感なく溶け込める、標準的なティーンエイジャーの外見。
これらはファントムシリーズと呼ばれた少年少女達が持つ基本的なスペックである。
その中でも最高傑作と呼ばれたのが吾妻玲二なのだから、その能力がどれほどかは考えるまでもない。
事実。この島に残る人間達の中でも最高クラスの戦闘能力の持ち主である。
しかし、こうして能力を並べ立ててみるとどうしても信じられない。
能力が、ではない。彼は既に幾度となくその能力を我々に見せ付けている。
そうではなく、
それだけの戦闘能力を持つ彼が、吾妻玲二がまさか――
――逃げを打っているなどとは。
・◆・◆・◆・
殺し合いの舞台となっていた島の地下。
その中心部へと続く土の色も露な道は少しずつ人工物を見るようになり、いつの間にか天井には明るい照明が下がっていた。
おそらくは終点――神崎黎人の陣取る一番地本拠地が近いのだとわかる頃、整然とした風景にそぐわぬ影が二つあった。
片方は大型の車両よりも更にひとまわりはありそうかという影。そしてもう片方はただの人間だという影。
先に進もうとする者と、押し止めようとする者。対峙する二つの影。
いや、対峙という表現はすでに過去のもの。
そう。対峙の時は一瞬で終了した。
支援
人間である方。吾妻玲二は逃げ出した。
可能な限りの速度で、無論、陸上選手のような無防備な姿勢ではなく銃を抱え体勢を低くはしているが、逃げていた。
堅い床を蹴り、足元に浮かぶ己の影を追うように玲二は逃走する。
「はっ……はっ……」
逃走を開始してより二分ほど。
そんな短い時間なのにも関わらず、玲二の息に乱れが生じ始めていた。
それは、それだけの速度で走っているということでもあるが、それにしても彼にしては消耗が早いと言えるだろう。
無論。そこには理由が存在する。
「くっ……」
振り返らずとも感じられる威圧感。
気を抜けばすぐさまその身を押し潰されるであろう物理的な圧力。
そういった明確な死を感じさせる重圧が彼の消耗を平時以上に促す要因となっていた。
玲二は逃げる。だが逃げるという表現ではあってもただ逃げるだけではない。
追いすがる相手との距離は30メートルほど。玲二はその距離を維持しつつ振り返りながらの攻撃を繰り返していた。
フルオートであればM16の弾丸を撃ちつくすのに数秒もかからない。
銃撃に必要なのは時間でなく、体勢を崩さない為の姿勢である。
完全な直線というわけではない地下通路。少しの曲がりでも、やり方次第ではほとんど後ろを向くことなく射角を確保できる。
そういったポイントを見つけては銃声を鳴り響かせる。
攻撃を行ったのは既に何度目だろうか。
走る速度を落とすことなく銃弾を撃ちつくした後、機械のような動作でマガジンを新しいものと交換する。
空となったマガジンも無駄とはせず、石の代わりに手首の力だけで後方へと投擲する。
秒にも満たない間に一連の動作を終え、再び発砲。
弾幕を張ることが目的だった一瞬前のそれとは異なり、今度の銃撃は確認した後方の状況を鑑みてのもの。
けたたましい銃声が空を震わせ、玲二が直感の中に浮かべた的の中に全ての弾丸が吸い込まれる。
そうして再び銃弾を撃ち終えた瞬間。玲二の身体がよろけ背中が地面についた。いや、ついたように見えた。
転倒ではない。射撃で崩した体勢を無理に立て直すことなく、勢いを利用して一回転。効率と先の展開を見越した動作だ。
無論。この動作の最中に新しいマガジンを装填しなおし、次の攻撃の準備も終えている。
次の射撃目標は敵本体ではない。代えのマガジンと共に取り出して倒れながらに投擲したとある物品。
放物線を描きゆっくりと回転しながら空を舞う2本の”茶色い円筒形の物体”。それへと向けて玲二はトリガーを引く。
片手での射撃では百発百中とまではいかないが、それでも無数に放たれた弾丸のひとつが命中した。
ただ、玲二はその瞬間を見る前に回転の勢いをそのままに立ち上がり、すでに逃走を再開していた。
一連の攻撃のもたらした結果を確認する間も惜しいといったばかりに、次に起こるであろう現象から全力で逃げている。
そして、玲二が丁度一歩目を踏み出した瞬間。
その動きを後押しするかのように、撃ち抜かれたダイナマイトの爆風が広くはない地下道の中を吹き荒れた。
正面からのみではなく角度をつけ、加えて相手の判断ミスを誘ったアクション。
最初の二連射から流れるように行われた半ば曲芸じみた連続稼動。
そして、その結果もたらされた至近距離でのダイナマイトの爆発。
これだけの動作をこなしながらも玲二の逃げる速度はまるで衰えない。
……だが、ここまでしてなお彼が逃げざるをえない相手とは何なのか?
そもそも遮蔽物の少ないこの場所でこれだけの密度の攻撃を受けても生きていられる相手など……
いや、つまるところ、今玲二が相手をしているのは、”そういう”存在だということだ。
逃げる玲二の後方から、あれだけの攻撃を受けても変わらない重い足跡が響いてくる。
地を大きく揺らし、床の舗装を踏み砕いて近づいてくる轟音。
人間なと簡単に踏み潰す巨体を持つ、”四足の魔獣”。
無数の銃弾も、
至近距離での爆発も、
まるでものともせずに前進を続ける鋼鉄。
玲二の後方を無人の野を往くが如くに追ってくるのはHiME達の宴を彩る化生――オーファン。
確かに、玲二は最強の名を冠された暗殺者――殺人兵器、ファントムだ。
そんな彼に殺されない”人間”など存在しない。
どれだけ強固に肉体を鍛え上げようとも心臓が止まれば人間は死ぬ。
心臓に限らずとも重要な臓器を損傷すれば、あるいは首を撥ねられれば死ぬ。
致命的な損傷がなくとも急激なショックでも死にうるし、必要な血液が流れ出せば小さな傷でも死ぬ。
人が人である限り、人を殺す為の兵器である玲二を前にして、殺される可能性が失せないのは単純な道理だ。
では、そんな玲二を止めるにはどうしたらよいのか?
答えは簡単。
そう。それはとても簡単な話だ。
人を殺すことに特化した相手なのならば、人以外のものをぶつければいい。
たったそれだけの単純な解答。
人を殺す兵器と言っても、玲二自身もまた人なのだ。
怪我をすれば血も流れるし、致命傷を負えば当然のこととして死に至る。
無論。空を飛べることもないし、地下から突然ワープして思わぬ位置に登場することもない。
あくまで対人間特化の人間兵器。
当然のこととして、彼は銃弾を弾き刃を通さぬ堅い身を誇るような存在を己が肉体ひとつで倒す手段など持っていない。
私怨
人ではない鋼鉄の塊。オーファンを相手にすれば、逃げる他に選択はなかった。
人間である以上、対人間に特化したからこそ、人知を超えたものを越えることなどできない。
たったそれだけの、明確な公式。
・◆・◆・◆・
玲二にとって、この状況は予想の範囲内のことでしかなかった。
最初に当てられたファントム・シリーズのコピーを一蹴した以上、次に向けられるであろう敵は絞られる。
ファントム・シリーズの敗因の分析は即座に出るものではないだろう。
ならば、すぐにまた同じコピーや玲二自身のコピーを繰り出して同じ轍を踏むなどということは避けるはずだ。
刻一刻とレーダーより姿を隠して接近してくる玲二相手にそう何度も迎撃の機会は得られない。
となれば、必要なのはいかに確実に玲二を足止めし、仕留めることができるかということだ。
一番地側が取れる選択肢はそう多くはない。
侵入者が玲二単独ではない以上、数にものを言わせることは難しい。むしろこれは他の侵入者向けの対策だ。
シチュエーションを考慮して玲二に近いタイプのコピーを用意した。が、これはすでに突破されている。
ならば、残された手はひとつしかない。
すなわち、玲二の能力では撃破することが困難な存在を障害として置くことである。
すでに述べた通り、玲二自身もそう対処されるだろうとは予想していた。
だが、予想できることとそれに対処できるかとの間には当然のことながら大きな隔たりがある。
地下通路の最終地点。そこに待ち構える巨大なオーファンを視認した時、玲二は即座に遠距離からの狙撃を試みた。
単独潜入するにあたって那岐から直接レクチャーを受けていた訳だが、オーファンは基本的に術者と対の存在である。
HiME達がチャイルドを使役するように、那岐がオーファンを使役するように、コントロールするには術者が必須だ。
召喚したまま放し飼いにしていてもオーファンはそれなりの働きを見せるだろうが、この場合はそれはない。
なんといっても相手が玲二である。そして戦術は待ち伏せにて発見し、追走しての捕捉、撃破である。
基本的に本能でしか自立的には行動できないオーファン自身にそんなことは任せられないだろう。
なので、予測されていた通りにオーファンのコントロールをしている存在がそのオーファンの上に存在していた。
しかしその存在は玲二や那岐の予想からはやや離れたものであった。
オーファンの上には一体のアンドロイドが立っていたのである。
通常、術者は人間か霊的な存在であることが前提となる。心の覚醒や魔力を持たないものにオーファンは御せないからだ。
ならばこれは一体どういうことなのか? 玲二は数瞬の思考のみで的確な解答を導き出した。
アンドロイドと言えど深優の様にHiMEへと覚醒する場合も確かに存在する、だがあれはそうではない。もっと答えは単純だ。
中継機――つまり、あれは地下街の中に電波の中継機が置かれているようなものに違いない。
人型でありシアーズの技術の粋を集めて作られたあれは元より心の力に感応しやすく伝達することも可能だと聞いている。
無機物でも名前を与えれば神霊が宿るやら人形には魂が生まれやすいとも、那岐やアルが話していたのを耳にしていた。
一番地側はその性質を利用しているのだろう。ある意味、非常に正しいアンドロイドの運用方法だと関心できる。
なにせ、アンドロイドは普通の人間に比べてはるかに強い。
故に、初っ端の狙撃はあっけなく失敗に終わった。これが一番地がアンドロイドを用いた理由だ。
人間の術者であろうとアンドロイドの中継機であろうと倒せばオーファンのコントロールが失われるのは変わりない。
だがしかし、いやそれ故に、より玲二から倒されにくいものを選ぶの当然であり賢明な判断であった。
なにせ、こうして最強のファントムである玲二を遁走させることに成功しているのだから――……
支援
狙撃失敗の後、M16自動小銃は当然のこととして、拳銃も勿論、榴弾や投げナイフすら玲二は試してみた。
だが、それが当然だと言わんばかりにオーファンはなんら痛痒を感じずといった風に迫ってくる。
いやもしかすれば少しはダメージがあるのかもしれないが、少なくとも見て取れるようなものではなかった。
唯一、オーファン対策として持たされた黒塗りの剣だけが魔獣の装甲に傷を走らせたが、巨体から見れば掠り傷程度。
最終的には特別に調整しなおしたダイナマイトすら使用したが、それすらも通用した様子がない。
オーファンも、その背中に跨る存在も未だ健在だ。
ただのアンドロイドではない。先刻戦ったものと同様に何者かの戦闘データがインプットされている。
それはオーファンの背の上でダイナマイトの爆風をいとも容易くいなして見せた。
浴びせかかる無数の銃弾は着込んだ”オーバーコート”によって防いで見せた。
ここまですら、全て玲二の予想通りであった。
吾妻玲二がオーファンを突破するには、その操り主を狙うほかはない。
故にその背にはただの術者でなく中継機能を持っているアンドロイドが乗せられている。
しかし、ただのアンドロイドではまだ玲二を相手にするには不足があると言えるだろう。
必要なのはそう易々と玲二には破壊されない存在だ。ファントムに殺されないだけの能力の持ち主。
果たして存在するのかそんな者が? ――存在する。
英霊や魔術師。悪鬼の類の能力をアンドロイドに再現させることはさすがに不可能だ。故に対象は人間となる。
桂言葉や藤乃静留などだろうか? 彼女らは玲二に勝利したことがある。が、ドライの例を考えると確実とは言えない。
もっと強大で圧倒的な存在でなくてはならない。
吾妻玲二が手も足も出なかった、最悪の相手を用意しなくてはならない。
いかに正確なデータを入力したとてアンドロイドの外見までは変わりはしない。
だがそれでもその重厚な気配は同じように感じられる。
能面の様に表情を固めた顔には、アンドロイドには不要な黒い眼帯が当てられている。
そして、揺れるオーファンの背に立つそれが身に纏うは、振動にあわせてはためく黒色のオーバーコート。
――九鬼、耀鋼。
私怨
非常にシンプルで予想しやすい答えがそこにあった。
そう、全ては予想通り。
予想できた上でなお、確実な殺害手段を思い浮かべることができない。
それどころか、脳内のシミュレートはこちらが敗北する可能性を高く見積もっているという、まさに
予想通りに手も足も出ない相手であった。
・◆・◆・◆・
――ところで、そもそも吾妻玲二とはなにが最高なのか?
……戦闘能力?
それならば、ファントム・ドライの方が上であると玲二自身が認めている。
……技巧?
ファントム・アインよりいくつかの能力が上回っているのは確かだが彼女に及ばない部分もある。
……忠誠心?
己の記憶の蘇りと共にサイス・マスターを、そして後にインフェルノそのものを敵に回した玲二が?
……洗脳実験の効果?
そんなもの、人形のように忠実だったアインや、後の量産型ファントムである『ツァーレンシュヴェスタン』らとは比べるべくもない。
……身体能力?
シリーズ唯一の男性である以上、その点に関して優れているのは確かだがファントムは兵士でなく暗殺者である。
そういう観点から見なおせばむしろ女性であるアインやドライの方がファントムに適していると言えた。
sage
おおよそ考えうる要素を並べてみても、吾妻玲二こそが最高と呼べる根拠が見えてこない。
むしろ結果論ではあるが、サイス・マスターからすればドライに並ぶ駄作ではないのだろうか?
一体、何が彼を最強と呼ばせていたのか?
いや、それ以前に、何故。
どうしてファントムシリーズとは至高の芸術品などと言われているのか?
確かにその技能は評価に値する。
軍隊における最高位の技術保持者。レンジャー部隊やスペシャルフォースなどに所属する人間に匹敵するだろう。
世界各国に様々な軍隊あれど、その位階に属することができるのはほんの一握りでしかない。
生まれ持った才能と弛まぬ努力。それを併せ持っていたとしても膨大な時間を費やさねば辿りつけない境地。
そこにまだティーンエイジャーの段階で到達する。――なるほど、確かに芸術品と呼べる代物だろう。
……だが、
だがしかしだ、
逆に言ってしまえば――”それだけのもの”でしかない。
いくら狭き門とは言えど、世界中を見渡せばその位階に達する者はほぼ毎年生まれ出ている。
それも一人や二人でなく、多い時ならば一国の軍の中でも両の手に余るほどに、だ。
決してたくさん人数がいるとは言えないが、逆に世界にひとりふたりというほど希少な存在でもない。
加えて言うならば、いかなファントムと言えど卓越しているのはあくまで暗殺に用いられる技術面のみである。
戦士に要求される持久力でいえば、彼らのそれは一般の兵士とさほど変わるところはない。
彼らはティーンエイジャーの外見を持つ。故に、その運用は都市部に限られ、逆に言えばそれ以外を考慮されていない。
過酷な環境でのサバイバル能力などは遥かに劣り、戦車やヘリなどを相手にする術などは座学程度にしか持っていない。
サイス・マスターがファントム一人の完成に費やした時間。
その間に、ファントムと同等がそれ以上の戦闘能力者が、おそらくはより効率的な環境で量産されている。
その程度のもの。
ファントムとは、彼の自己満足の中での最高傑作。でしかないのではないか……?
私怨
・◆・◆・◆・
「――ええ、541番通路が開いてるわ。
そこから発電プラントに降りて……そう、ある程度排水は進んでいるから通り抜けられる場所があるはずよ。
後は7番エレベータを使ってシアーズとの連絡通路に向かいなさい。今はそこが一番安全な場所だから。
そうよ。もうあなた達が戦う必要はない。自分達の命を最優先に――」
慌しく人の声がやまない司令室の中。警備本部長もまた、自席にて通信機を片手に忙しい時間を過ごしていた。
通信の相手は悪鬼の蔓延る地下基地の中で未だ生存している戦闘員やスタッフらである。
警備本部長は生き残った数少ない責任者の一人として、彼らの生命を維持すべく避難誘導に尽力していた。
「W7連絡通路の隔壁を20分後に落とすわ。それまでに通過しておきなさい」
もっとも、そんなことをしたからといってなにがあるわけでもないし、これは誰かの命令でしているわけでもない。
すでにほとんどの職員が悪鬼化したかそれに襲われ死亡しているのだ。
ほんの僅かな人間を助けたとて、組織としてはすでに終わってしまったことは否めない。
助ける相手にしても、これから先彼女の力になりそうなのかというとそれも期待できないような相手ばかりであった。
「電源が落ちてドアが開かない?
……しかたないわね、152番通路の端からメンテナンス通路に入れるから、それを使って迂回しなさい」
だがしかし、彼女は今の時間を誰かを助ける為に使っていた。
道徳観からだろうか。それとも善行を積めば幸運がやってくると期待しているからなのだろうか。
最早、他にすることもないというのが実際の話なのかもしれないが、しかし、
自身でも無為だと理解している行為に彼女はなぜこうも没頭できるのか。それは――?
支援
「――ッ!?」
突然鳴り響いた悪鬼の咆哮に警備本部長は通信機を耳から離した。
もう一度耳に当てると今度は銃声と悲鳴、そして絶望的な死の臭いが伝わってくる。
なんと声をかければいいのだろうか。考えるもなにも浮かばず、警備本部長はひとつ溜息をついて通信を切った。
彼女の顔を覆う不安の色がまたひとつ濃くなる。
総合管制センターも襲われ基地内の状況把握もままならない。第二司令室も陥落。幕僚長閣下他、幹部連中は全滅だ。
悪鬼の鼻は敏感だ。助けようといくらか必死になってみたが、僅かに生存していた者達もすぐに全滅するに違いない。
敵である儀式の参加者らも遠からずそうなるであろう。
本拠地目前まで来ていた吾妻玲二は作戦通りに追い返すことができたし、強力な魔術師は土の下だ。
少年少女らは悪鬼の群れには敵うまい。そして、本来の標的である那岐もすでに孤立させアンドロイドで囲んでいる。
シアーズのアリッサにしても何か手を出してくる余裕はないだろう。深優の予想外の活躍によってシアーズは壊滅状態なのだ。
「……………………」
気を落ち着かせる為に警備本部長は煙草を一本取り、火を点けながら神崎黎人の方を窺った。
彼はいつもの席でいつものように薄い笑みを浮かべ、半分ほどしか情報を写さないモニターを静かに見ている。
その隣には彼の妹であり儀式の要である美袋命がいて、彼女もまた兄に寄り添って物珍しげに画面を見つめていた。
実際の話。どうやらこのままこちら側が勝利し、神崎黎人が媛星の力を得られそうではある。
しかし、どうしても、煙草の煙を肺の中に吸い込んでも胸の中の強い不安が消えない。それどころか時と共に増してゆく。
作戦が失敗して死んでしまうかもしれない――などということが怖いのではない。そんなものは最初から全て織り込み済みだ。
怖いのは、神崎黎人だ。
正確に言うならば、彼が信じられないのだ。
果たして媛星の力を手に入れたとして、彼はその後いったいどうするのだろうか。
欲深い人間ならわかりやすい。組織や信義に病的な忠誠を誓った者もいい。例え害があっても理解できる人間はいい。
しかし、警備本部長には彼の心の中が読めない。
若干18歳。現役の学生ながらにして黒曜の君という立場にある彼の向かう先が予測できない。
「……………………」
警備本部長は再び通信機のスイッチを入れた。しかし、チャンネルを切り替えて通信を試みるも、もう誰も出ない。
どうして人助けなどしていたのか。答えは単純で、それは神崎が怖いからに他ならなかった。
彼以外の味方を無意識の内に欲していたのだ。恐怖を分かち合う仲間を。
「………………ふふ」
存外、人間らしい感情が残っていたものだと警備本部長は小さく笑い煙を口から吐いた。
もうどうなるということもない。できることは、ほうっておかれないよう彼の後をついて行くしかないのだ。
椅子に預ける重さを増やし、彼女は少しだけ自分に休息を許した。
そして、再び司令の席に座る神崎黎人を見やる。
やはり、いつもどおりの薄い笑みがそこにあった――……。
・◆・◆・◆・
私怨
「やれやれ、これはまいったね」
別れた桂達と合流しようと通路を進んでいた那岐は、その通路を埋め尽くす瓦礫の前で溜息をついていた。
「霊脈を差し出すなんて裏があるとは思っていたけど、案の定罠だったわけ、か……」
那岐は瓦礫の傍にまで寄って掌を当ててみる。
風が通り抜ける隙間でもないかと探ってみたが、残念ながら土も混じった瓦礫は完全に通路を埋め尽くしているらしい。
「完全に孤立しちゃったな……まいったぞこれは」
頭の中に地下基地内部の見取り図を思い浮かべ、那岐は迂回路がないかを検討し始める。
だが、それもすぐに無駄かと打ち切ってしまった。
一番地本拠地に通じるこの通路は塞がれている。ならば、他も同様に塞がれていると考えるのが自然だろう。
これから塞がってない通路を探して総当りというのは徒労に終わるだろうし、なにより時間がない。
「また川に落ちたところまで戻ることになるのか……いやまてよ……――っと」
腕を組んで考え事をしていた那岐が身体を反らすと、直前まで彼の頭部があった場所を一発の弾丸が通り過ぎた。
ほぼ同時に大きな銃声が通路内に反響し、彼の目の前の瓦礫に亀裂が入る。
「やれやれ……相変わらず、僕の元ご主人様はそつがないことだね」
くすりと笑って那岐は振り返る。
そこには、通路の端に追い詰められた那岐を押し潰すかといった風に、何十体ものアンドロイド達が銃を構えていた。
支援
「ひい、ふう、みい……と、数え切れないぐらいいるみたいだけど、機械人形如きで僕を追い詰めたつもりかな?」
やれやれと首を振る那岐へと何十もの銃口が狙いを定めている。
もしそれらが一斉に火を吹き、弾丸の全てが那岐の身体を貫けばいかに人間ではない彼とて消滅するだろう。
また、アンドロイド達がブレードを抜いて殺到すれば、この狭い通路では避けることも難しく、那岐は切り刻まれてしまうに違いない。
だがしかし、そう容易くはそれは現実とはならない。今の彼には霊脈と繋がった莫大な力がある。
そしてなにより――
「僕はね、今すごく機嫌が悪いんだよ」
――彼は怒っていた。
HiMEが殺されてしまったのだ。神崎を筆頭とする一番地の連中に殺されてしまった。
もし、このような激情を滾らせていることを神崎本人に知られれば、彼はそんなのはいつものことだろうと笑うだろう。
確かに那岐は儀式の進行人として幾度となくHiMEを殺している。儀式の度に何人ものHiMEを犠牲にしてしまっている。
しかし、だからといってそこに感情がないわけじゃない。悲しくないわけがない。悔しくないわけがない。
そして此度のHiMEは儀式に捧げられるHiMEではない。儀式を破壊する為の、那岐自身の”仲間”なのだ。
千年を遥かに越える永い時の中、初めてできた肩を並べて戦う仲間なのである。その彼女達が殺されてしまったのだ。
「僕は初めて、舞-HiMEの為の”修羅”になろう」
その瞬間、通路の中にバリバリと花火の様な銃声が幾重にも木霊し、鉄の銃弾が那岐を食い破らんと殺到した。
だが、同時にそれを遮るようにいくつもの影が通路の上に立ち上がる。
それはつい先日、那岐がHiME達の修行に用いた大猿のような姿をしたオーファンらであった。
数は今回も2体……いや、4体……6体……、なんということか那岐はひとりで8体ものオーファンを召喚していた。
私怨
雷雨のような銃声はまだ続く。音は通路の中で反響に反響を重ね、振動が小さな瓦礫を躍らせている。
だがそれでも弾丸は那岐へと届くことはない。
霊的な存在であるオーファンに純物理的な干渉が効果薄なのはすでに既知のこと。それが8体も壁になっているのだ。
「とはいえ、隠れたままじゃ動けないよね。それじゃあ反撃してあげようかな?」
そう言って那岐が掌の上に真空の刃を作り出した時、オーファンを撃つ銃撃の音が別のものへと変化した。
どうしたのかと思い、次の瞬間その力の感触に那岐の顔が青褪める。
新しい銃声は先のものよりも遥かに軽い。しかし、それなのに巨大なオーファンがまるで砂糖菓子のように撃ち崩されてゆく。
「――チッ! 全く安売りしてくれちゃってさぁ!」
舌打ちひとつして、那岐は生み出した真空を身に纏ってオーファンの隙間からアンドロイド達の前へと飛び出した。
そしてアンドロイド達が構えている銃を見て表情を歪める。
HiMEの力を再現することを模索するシアーズ財団が生み出した擬似エレメントによる銃がそこにあった。
勿論、本物のHiMEが持つものに比べれば見劣りはするものの、しかし数が数だけにその脅威は並大抵ではない。
「人の真似されるのって気分よくないよ――っと!」
擬似エレメントが生み出す弾雨の中を掻い潜りながら那岐はいくつもの真空刃を飛ばしアンドロイド達を蹴散らし進む。
当たれば一発で致命傷となるのは恐ろしいが、それでも幸いなのはHiMEの力は那岐にとって御しやすいものであったことだ。
身体の周りに展開した幾重もの見えないレールで弾丸を受け止めると、那岐は力の行方を書き換えてそれを跳ね返す。
真空の刃に、跳ね返した弾丸。更には風の渦から雷を発し、その雷を束ねて砲にしては、突き進む。
すぐに10体ほどのアンドロイドが動きを止めただろうか。しかし倒してもきりはなく、攻撃の手が休まる気配はまだ遠い。
続けていてはいつか落とされてしまうと、那岐は通路の真ん中に竜巻を発生させるとその中を潜った。
「広いところに出れば断然こっちが有利なんだよね」
支援
アンドロイドの群れの中を強行突破した那岐は吹き抜けのあるホールまで出ると、宙へと浮き上がり振り返る。
出てきた通路の入り口からまるで蟻のようにアンドロイドが湧き出してくるが、しかしここならばそう怖くもない。
広さがあれば十分に風を吹かせることができる。それに、あの”電磁砲”だってこれぐらいスペースがあれば撃ちやすい。
それに霊脈から伝わる力はほとんど無限大に等しい。有利な状況であればアンドロイドの数に押し負けることもないだろう。
「……なんて思ってた時期が僕にもありましたってかな?」
アンドロイドの湧き出してくる通路は最初のひとつだけではなかった。
隣の通路からも。隣の隣の通路からも。更には上の通路から、その上の通路から、ホールに繋がる無数の通路から、
通路という通路の出口からアンドロイドが”湧き出して”くる。
さすがの那岐も、これは幻術の類なんじゃないかと疑ったが、残念ながら楽観的な希望は間を置かずして潰えることとなった。
「こんなにいるだなんて話は聞いてなかったんだけどなぁ……」
アンドロイドの数はゆうに百を越えるだろうか。正しく数えればその5倍はいるのかもしれない。
那岐はそのような絶望を深めるような行為はわざわざしなかったが、ただ戦慄に喉をごくりと鳴らす。
「マズったな……これは」
再び音の洪水が押し寄せ、ホールの中を激しく揺らした。
・◆・◆・◆・
私怨
戦闘員の装備する擬似エレメントは、擬似エレメントプラントで作られている。
無論、一旦この地が戦場となれば新たな武器を作る余裕などはなくなる。
ゆえに、炉に残存するエネルギーは財団基地の動力に回されていた。
工場の内部に、白い全身鎧が浮いていた。
シルエットは均衡の取れた流線型で実に女性的だった。
財団職員達は彼女をその豊満な胸部に刻まれた5文字で呼んでいた。
――"LEICA"と。
「ターゲット、捕捉完了」
彼女はエコーの掛かった音声と同時に、
身体の至る所からライフル、ガトリング、マシンガン大小多様な銃身を現出、
「天帝神罰砲・十字浄火(クロスファイア)!!」
漲る力の命じるままに光を解き放つと
大気は溶け
地は抉られ
鋼は砕かれ
ヒトは崩れた
支援
コンクリートの砂埃の中を歩くのは、LEICA、ひとりだけだった。
いや、ひとりと言う単語には語弊がある。彼女は人間でも、機人でもなく、遠隔操作型の機械兵器だった。
これこそ、アーカムシティの正義の天使の姿を模した、NYPリーサルウェポン。
擬似NYP(なんだかよくわからないパワー)を用いて、生命力を衰弱させることを得意するものであった。
だが、そんな能書きはもはや無意味だ。彼女はは今、暴走していたから。
彼女の視界の彼方此方に転がる、焦げ付いた死骸の欠片がそれを物語っていた。
「ターゲット、捕捉完了」
彼女の他に立つ者はなくとも、倒れている者はまだ、ひとりいた。
螺旋階段近くの連結通路で、アンドロイドが瓦礫の山に押しつぶされ、身動きを封じられている。
先手必勝、死の天使は両腕を広げて光の刃(ヘヴンズセイバー)を展開する。
「天帝神罰剣・十字――」
顔面にエレメントを被弾。爆発の衝撃で上半身を仰け反らせる。
体勢を戻すと、倒れていたはずの機械人形がブローニングM6を構えている。
その周囲の鉄やコンクリートの残骸は跡形もなく消え失せていた。
遠隔兵器の単純な人工頭脳では、想定外のアクシデントに対応しきれない。
LEICAは隙を突かれ、下半身に何十発もの焼夷弾を食らう。一歩、また一歩と後ずさりする。
無論、白き鎧は鉄壁で、敵の猛攻をかすり傷程度に留めている。
LEICAは両足を力強く踏みしめて、
「天帝神罰砲・十字浄火(クロスファイア)!!」
喧しい小蝿を叩き落そうと、無数の光の弾丸を掃射した。
この状況で敵がこれを回避することは不可能。当然、火力は相手の装甲を上回る。
NYPリーサルウェポンは勝利を確信した。その瞬間、
何かが猛烈な勢いでぶつかってきた。足が床から浮き上がる。背が内壁に衝突。
コンクリートの壁を貫通し、そのまま吹き飛ばされる。彼女はまたもや理解できない状況へと直面する。
Flak37弾頭の信管が作動。破裂音。鉄片が炸裂する。
当然、LEICAはこの攻撃でも僅かに装甲が抉られる程度だ。
だが、流星と降り注ぐ高射砲弾の欠片は、
彼女の真後ろ、
エネルギー炉に直撃した――。
・◆・◆・◆・
「一言で表現すれば、性能の無駄遣いですね」
深優は連鎖する爆発を背に走っていた。
あれはカタログスペックだけなら、ウェストのミニ破壊ロボを上回っていたかもしれない。
倒すのに時間が掛かったのも事実だ。重火器は尽き、切り札もひとつ晒してしまった。
だが、戦いの最中に死の危険を感じなかった。挙動が馬力に追い付いていない。
はっきり言ってしまえば、ツヴァイコピーの方がよっぽど厄介だった。
先の戦いでの瓦礫からの脱出奇術は、件の切り札ではなく、デイバックを利用した簡単なトリック。
デイバッグは建物を収納することはできない。仮にそれを壊して残骸にしても同じだ。
私怨
だが、収納可能な廃材や機械などを分解して組み合わせ、瓦礫に見せかけることならできる。
暴走したLEICAの行動パターンは少ないため、簡単に罠に嵌められた。
そして、深優は擬似エレメントプラントからの脱出に成功する。
ロボットは追ってこない。無事に倒せたようだと安堵する。
その時、彼女は廊下の向こうに急速に遠ざかる足音を感知する。恐らくは戦闘員の生き残りだろう。
都合のよいことに、逃走する方向は最終重要セクション、司令室だ。
深優は足音を立てることなく、標的との距離を徐々に詰めていく。
だが、灰色の回廊はあまりにも静か。今までの激戦が嘘のように思えるほどに。
もしかして、自分はトラップに引っ掛かったのだろうか、と思った刹那、
相手の足音と、それに伴う電磁波が掻き消えた。
それはあまりにも唐突で、影に吸い込まれたかのようだった。
深優は曲がり角から顔を覗かせる。
40m前方、セラミック製のドアの上には『喫茶室』と書かれていた。
外から聴覚、嗅覚、赤外線、磁場、電磁波など様々なセンサーを用いて、室内を探る。やはり人の気配はない。
深優の頭にはすぐに二つの仮説が思い浮かんだ。
ひとつは、他の職員たちは皆、避難を終えており、あの足音は囮だった可能性。
その正体は空間跳躍者でも、気配消しの達人でも、ただの精巧な立体音響でも構わない。
ここから、しばらく進むと司令室が存在する。普通に考えれば、誘導は逆効果だ。
ゆえに、財団は下層ブロックそのものを放棄したと考えても良いだろう。
ただ、上層にあった隠し部屋のような、秘密の司令塔があるのかもしれない。
もうひとつは、強大な力を持つ何者かが財団の構成員を襲撃した可能性。
それは暴走したNYPリーサルウェポンかもしれないし、獰猛な第三勢力かもしれない。
当然、消えた逃亡者もその犠牲者であり、加害者も近くにいることになる。
続けて、二つの選択肢が深優の心に飛来した。
身の安全を重視して、一秒でも早くこのセクションから離れること。
もしくは、怪異の原因を突き止めて、適切な対応を行うこと。
そして、結論。深優は天使の翼を展開したまま、勢い良く休憩室へ飛び込んだ。
やはり誰もいない。アンドロイドも人間も。ただ、ホンプの空気を噴き出す音が聞こえるだけ。
部屋の隅で、青と緑の光に照らされた横幅3mの水槽が、神秘的に浮かび上がっていた。
水中にいる生物は海藻だけ。それなのに、喰いちぎられた肉団子が漂っている。
彼女は水槽の違和感をそのままにして、警戒しながら奥へと進む。
そして、視界に入ったのは、未だに湯気の残る飲みかけのコーヒー。
誰かは知らないが、非常時に随分と余裕のある態度だ。
いや、決戦前に野球をしていた自分達が言うことでもないが。
それはともかく、シアーズの職員達は避難したのではなく誰かに襲われたのだろうか。
そう思った矢先、椅子の下に転がる旧式のPDAが目に入った。試しに電源を入れてみる。
パスワードは掛かっておらず、即座にテキストファイルが表示された。
――『怪物Xに関する考察』
・◆・◆・◆・
支援
「行くぞ……柚明」
磔となった仲間を前にプッチャンは感情を押し殺し、そう言った。
やよいが息を飲み、柚明が信じられないといった顔でプッチャンを振り返る。
「……な、何を言ってるんですか! 桂さんを置いていくつもりですか!」
「ああ……幸いにも鬼の狙いは桂だ。奴が桂に気を取られている間に俺達は逃げる」
「ふざけないで下さい! つまりそれは桂ちゃんがあの鬼に――嫌よ! 絶対に嫌ぁ!」
血相を変えた柚明がプッチャンへと詰め寄る。その表情は悲しみと困惑に崩れ普段の穏やかさなど欠片もない。
無理もない。プッチャンは桂を、柚明の生きる理由に等しいそれを捨てろと言っているのだ。
今も一歩ずつ近づいてきている悪鬼が桂を食べている間に逃げると、そう言っているのだから。
そんなことはできないと言いたいのはプッチャン自身も同じだ。だがしかし、想いだけではどうにもならないこともある。
プッチャンはその人形の手で柚明の胸倉を掴むと言い聞かせるように叫んだ。
「柚明ッ!
そうしないと俺達みんな仲良く揃って奴のエサになるんだよッ! それでもいいのかよっ!!
違うだろ! 俺達の目的は生き残ることなんだよ!
ここで全員がくたばってしまうわけにはいかねえのがわかんねェのかよッ!」
元々戦うことに不慣れである上に怪我や疲労も決して浅くはないやよい。
それに、幾度と無く重なった戦闘で消耗し、また桂との連携なしには満足に戦えない柚明。
プッチャンにしても戦うとなればやよいの身体を酷使することしかできず、ダンセイニも攻めるということは得意ではない。
どう考えようとも迫り来る悪鬼に勝てるとは思えない。
それに、悪鬼はそこにいる一体だけとは限らない――いや、まだまだいるに違いないのだ。
そして無数の悪鬼どもは贄の血に惹かれここに続々と集まってくるだろう。そうなればなおさら戦うことなどできなくなる。
プッチャンは苦渋の決断をする。
私怨
「嫌ぁっ! 桂ちゃんを置いていくなんて……嫌ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「このっ……馬鹿野郎が……! ダンセイニ!!!」
「てけり・り!」
プッチャンの指示に、ダンセイニの軟体の身体から幾本もの触手が伸びて柚明へと絡みついてゆく。
それでも桂の身体に縋ろうとする柚明を引き剥がし、全身を包み込むとダンセイニは柚明を担ぎ上げた。
「放して……! ダンセイニ! 放してぇぇぇぇ!!」
「……てけり・り!」
柚明はそれでも必死に叫ぶがダンセイニは首を振るような仕草を見せてそれを拒絶した。
そしてヌルヌルと床を滑りダンセイニは暴れる柚明を抑えたまま廊下を走り出す。
「やよい……俺達も行くぞ……」
「……はい」
プッチャンに促されやよいもダンセイニの後を追って廊下を走り出す。
壁に磔とされた瀕死の桂をそのままにして。
しかし――本当にこれでよかったのだろうかとやよいは走りながら思う。
プッチャンの言い分はどこまでも正しい。この場にいる全員にとって最も正しい選択をした。
それなのに……そのはずなのに後悔の念が、いけないという気持ちばかりが胸に湧き上がってくる。
もし自分が桂の立場ならきっと構わずに逃げてくださいと言うだろう。
ただのアイドルが。
ただの中学生でしかない自分じゃ逆立ちしたってどうにもできない事態だってことはよくわかっている。はずなのに。
どうしてこんなにも辛いのか。そんなのは決まっている。
桂は仲間だから。
そして、
大切な友達だから。
失いたくない。
見捨ててしまいたくない。
諦めたくない。
諦めたく、ない。
諦めない。
諦めるわけにはいかない。
諦めちゃ――
――いけない。
やよいの足が止まった。
「な……何やっているんだよやよいッ!」
プッチャンが悲鳴のような声をあげる。でも。
「ごめんなさいプッチャン。私はまだ諦めません。諦めたくありません!」
それが本心。
「馬鹿野郎……! 俺達にはもう――」
だから――
「桂さんは友達です! だから友達を助けるために――力を貸して下さい!」
・◆・◆・◆・
支援
――よかった……みんな逃げてくれて。
途切れる寸前の微かな意識の中、桂は柚明ややよいの気配が遠ざかってゆくことを感じていた。
そして、それとは逆に禍々しい気配を持つ巨大な悪鬼が目の前に迫っていることも感じている。
これからこの鬼は自分をご馳走として喰らい尽くしてしまうのだろう。
もう痛みも、それどころかほとんどの感覚もない。
心臓ももう止まっていそうな気がする。
故にか恐怖する心も停止していた。
ようやく訪れる死。
これで現実という苦痛から解放される。
――これで、お母さんとサクヤさんに会える。
そう思うと死んでしまうのだということもなんともない。
自分の死を看取るのが悪鬼だというのが癪で、自分がその血肉となってしまうのは気に入らなかったが、
しかしそれももうどうでもよいことのように思える。
ほんの僅かに残っていた光も今失われた。
意識が――闇に――……
私怨
『やれやれ……、何勝手に一人で満足してるんだい。……あたしはまだ桂と会う気なんてさらさらないよ』
闇の彼方から声がした。
それはとても懐かしくて、そして二度と聞けるとは思わなかった声。
『……そんな……サクヤ……さん……!』
姿はなく、サクヤの声だけがどこから聞こえてくる。
これは今際に見る夢なのか。
いやそんなことはどうでもいい。大切な人の姿を探して桂は闇の中に手を伸ばす。
『サクヤさん! どこ、どこなの……!』
『はぁ……少しは根性ついたと思ってたけど……情けないねぇ……』
声はしても姿は無し。
それが桂の不安を掻き立てる。
迷子になった幼子のように桂はサクヤの名前を呼び続ける。
『聞きな桂。あたしはとっくの昔に死んでる。が、ここにいるのはあんたの都合のいい幻想じゃないからね』
『サクヤさんの声がわたしには聞こえるよっ! 幻覚なんかじゃないのはわかってる!』
『そりゃそうさ、あたしはあの時からあんたの中にいた。あんたにあたしの血を分け与えた時からね……』
『え……?』
『血とはチ――昔の言葉で力・霊・魂を表す。ミズチカグツチそしてイノチ』
以前にサクヤがそんなことを言っていたことを思い出す。
ゆえに妖怪は人の血を好むのだと――
『血とは形を持った魂そのもの。
血を取り込むことは他者を自己と一体化させること。言わばあたしはあんたの中の浅間サクヤの血に残る魂の残滓』
『…………』
『いいかい、桂。
あんたはいかにも全てやりとげましたって顔で逝くつもりかもしれないけど。本当にこの世に未練なんてないのかい?』
『それは――』
素直に首を縦に振るということはできなかった。
この島で出会った仲間や友人らのことを思うと、『うん』とは言えなかった。
それは、桂の未練だった。
『第一、あんたはあたしの力に頼りすぎなんだよ。多少は馴れたみたいだけどあたしの血に振り回されてばかり』
『そんなこと言われても……』
『あんたなら出来る。観月の民の血を――人に在らず鬼の血を御してみな。小角様のように贄の血で』
かつてサクヤの記憶を垣間見た時に観た一人の修験者。
桂の遠い祖先である役小角。彼は人の身でありながらその身を鬼神とし、その力をもって荒ぶる神々を調伏していた。
『でも……そんなのどうやるのかわからないよ!』
『あたしだって知らないよ。あたしは小角様じゃないんだから』
『そん……な……』
『どちらにせよあんたはもうすぐ死ぬ。
肉と霊に守られていない魂なんてすぐにあの世行きだね。ま、あたしと一緒に逝くと言うのなら止めやしないけど』
『…………』
しかし、それはもう今更だった。
悪鬼はもうすでに手が届くところまで迫っており、喰われてしまってはもうどうにもならない。
みんなだってもうここにはいない。生きろと言われても、やはりそれは今更だ。
未だ死にきれない桂の目にチリチリとした痛みをともない光が戻ってくる。
目の前にはもうそこに悪鬼がいた。
歪な顔面は歓喜の形を作り、罅割れた隙間のような口からはだらだらと唾液と熱い息が零れている。
相変わらず磔にされた身体はぴくりとも動かない。
腕を振り上げするどい爪をぎらりと光らせる悪鬼の姿を前にしてもただ見ていることしかできず、
免れえぬ死がそこにあるのだと知るだけで――
そして――……
「グオオオオオオォォォッ――――!?」
絶叫と共に、振り上げられた悪鬼の腕が爆ぜた。
『な――ッ』
支援
「桂さんから離れてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
逃げたはずの少女が。そこにいた。
自分の身長を遥かに超える鉄塊を抱え、仁王立ちに構える少女。
さらに轟音が鳴り響き、唸りを上げて迫り来る弾丸が鬼の身体を撃ち貫く。
「オオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」
悪鬼の巨大な身体が揺れる。戦車の装甲すら貫く九七式自動砲の弾丸が鬼の身体を穿つ!
『やよい――ちゃん!?』
「いいぞ確実に効いてるぜ! ダンセイニ! やよいの身体をしっかり受け止めるんだぞ!」
「てけり・りッ!!」
そこには九七式自動砲と自らの小さな身体をダンセイニに支えられたやよいの姿があった。
sage
だが、いかに軟体生物であるダンセイニに支えられようとも発射の衝撃は直にやよいへも伝わっているはずだ。
なのに、彼女はその小さな手で銃身をしっかりと掴み、歯を食いしばりながら弾丸を撃ち放っている。
「狙いは俺がつけるッ! 引き金はやよいが引け!!!!!」
「桂さんを殺させない……! 友達を殺させるもんか……! 桂さんは私達が守るんだからぁぁぁぁっ!!!!」
「このクソッタレの化物がぁぁ!! 人間様の兵器を舐めてんじゃねえぇぇぇぇ!!!」
石を削ったものから始まった人の身が持つ武器。
その始まりから数千年。進化の中に登場した黒金のそれが悪鬼という妖の幻想を打ち砕く矛と化す。
轟音が鳴り響き、目の前の悪鬼が膝を折った。
更に轟音。悪鬼の身体が傾ぐ。
轟音。それはまるで桂へのエールのように。
更に轟音。力強く鳴り響く。
「クソっ弾切れかよっ! ダンセイニ弾! 弾持って来い! ダンセイニぃぃぃ!!」
「てけり・り!」
プッチャンが叫び、ダンセイニが器用に触手を伸ばして再装填を始める。その間もやよいはしっかりと銃を支えていた。
――いい友達じゃないか、桂。
――あんな小さな娘が身体張ってんだ。桂、あんたもちったあ気張りな!
――何をすればいいかなんてもう言わなくてもわかってるだろ?
――願いは想い続けていればきっと叶う。自分の信じるもののために走れ――桂!
守りたい。
仲間を、友達を守りたい。
ただその想いだけが桂を突き動かす。
その想いに、贄の血が応える――――!
どくん――
支援
止まっていたはずの心臓が動き出す。
力強い鼓動が一度は死んだ身体へと血を送り出してゆく。
あらゆる妖の力を増幅させる贄の血。
他者に与えることでしか力を発揮できなかったそれが、今。桂自身の力を目覚めさせるべく力を発揮してゆく。
羽藤桂の体内に流れるもうひとつの血――観月の民の血と混ざり合ってゆく。
・◆・◆・◆・
「グオオオオ……ッ……」
遂には両膝を地につける満身創痍の悪鬼。
だが悪鬼の目の前には妖の力を増す贄がある。これを、これを喰らえば何者も恐るに足らず。
この小娘の形をした力の塊を喰らえば――そうしようと悪鬼は腕を伸ばす。
「ガ――!?」
鬼の腕が止まる。
引こうとも押そうともまるで石と化したかのように腕が固まってしまった。
なぜなのか? 悪鬼は困惑する。どうして己の手が少女の下へと届かないのか。
気づく。白く細い腕が己の腕を掴んで万力のように押さえつけていることに。
「人をダーツの的にしちゃって……とっても痛かったよ」
桂の掌の中で悪鬼の固い皮膚がばきりと音を立てて罅割れた。
そのまま片手一本で捻り上げると、桂はもう片方の腕で胸に突き刺さった杭を引き抜きにかかる。
「ふ……ぐ、ぐぐぐ……、……ぐうぅぅぅ…………ッ!」
ずるりと痛々しい音を立てて杭は引き抜かれ、血に濡れて真っ赤になったそれが床へと落ちた。
更に、桂は腹に刺さった杭にも手を伸ばすとそれを同じように引き抜き床へと落とす。
その光景を離れた場所にいるやよい達は信じられないというような顔をして見守っている。
桂の身に何が起きたのか。今どうなっているのか。どちらも彼女らには知る由もない。
だがしかし、何を成すべきかはすぐに理解できた。
「受け取れ桂ぃぃぃーーーーーー!!!!」
プッチャンの声でダンセイニが九七式自動砲を持ち上げ桂に向かって投げつける。
弧を描き回転してくるそれを桂は片手で受け止めて見せた。
そんな少女に、悪鬼は恐れを抱いていた。
こんなにも小さく細く弱そうな姿をしている者なのに。
まるで天敵を前にした時かのように本能の中の警戒信号が警鐘を鳴らしていた。
目の前にいる者はただ喰らわれるだけの存在だったはずなのに。
なのに、こんな。
私怨
不敵に笑みを浮かべる少女の瞳は金色で、その瞳孔はまるで獰猛な肉食獣のように縦に細く割れていた。
「オオオオオオオ……」
悪鬼は桂から離れようと身体を揺するが、相手が小さな少女であるというのに抵抗は全て無駄に終わった。
少女は怯える鬼の眉間へと銃を突きつけて言う。
「『伊達にあの世は見てねえぜ!』ってね」
轟音が再び鳴り響き、鬼の頭が爆ぜ、巨体が床の上へと沈む。
それを見とどけ、悪鬼が完全に死んだことを確認すると桂は大きく息を吸って吐いた。
(サクヤさん……)
身体の中に流れていたサクヤの血が完全に桂自身のものとして生まれ変わったせいなのだろうか、
もう彼女の声や気配を感じることはできなくなっていた。
だが桂に悲しみはない。サクヤが自身の血肉としていつでも傍にいることを再確認できたのだから。
支援
「桂ちゃぁぁぁぁぁん!!!」
「桂ーっ!」
「桂さん!」
「てけり・り!」
仲間達が桂の元へと駆けつけてくる。
皆、涙と喜びを大きく湛えて、そしてその中でも一番顔をくしゃくしゃにした柚明が桂へと抱きついた。
「ちょっ……ちょっと柚明お姉ちゃん!?」
「うぐっ……私……桂ちゃんが死んでしまったかと思って……うああああん」
桂は子どものように泣きじゃくる柚明の頭を撫でる。
これではどちらが年上かわからない。
そんな光景をやよいやプッチャン、ダンセイニらが微笑ましく見守っている。
「やよいちゃんの声、届いたよ。『桂さんは私達が守る』って……そのおかげでわたしはここに戻ることができた」
「桂さん……ぐすっ」
守れて良かったですとやよいは涙ぐみ袖で顔を拭う。
そんなやよいの腕の先にいるプッチャンは桂の顔をよく見て、その変化に気づいた。
「ところでよー、桂。なんかお前雰囲気変わってね? 特に目が」
「えっ?」
桂は手近な窓ガラスへと駆け寄ると自らの顔を確認しようと覗き込み、驚きの声をあげた。
私怨
「わっ! なにこれ〜〜〜!?」
ガラスに映る金色の瞳、それ自体はサクヤの血を受け継いでからのもので分かってはいた。
しかしその瞳孔がライオンや虎のような縦に大きく割れた形に変わっている。
そういえば以前、サクヤが山の神と戦っていた時。本気になったサクヤがこんな風になっていたことを思い出す。
「うー……治らないのかなこれ……恥ずかしいよ……」
「うっうー、でもワイルドでカッコいいかもですー」
「そうかな……」
「桂ちゃん……一体何があったの?」
落ち着きを取り戻した柚明の問いに桂は答える。
死の淵を彷徨っていた時にサクヤの声が聞こえてきたこと。
そして、かつての役小角のように贄の血の力を自らの力に上乗せて使うことを教えられ、実際にそれができたのだということ。
それらの不思議な体験を仲間達へと桂は自身も反芻するように説明した。
「そう、そんなことが……」
「まあ何はともあれ桂が無事で何よりだぜ!」
「てけり・り!」
桂の無事を喜びあう柚明とやよい。プッチャンとダンセイニ。
「グルオオオオオオオオオオオオオァァァアアアアァァァァ!!!!」
と、そこに束の間の喜びの時間を打ち破る悪鬼の咆哮が響き渡ってくる。
振り返ると、そこにはまた廊下の角から姿を現す悪鬼がいた。
「まあ……このあたりにはわたしの血の匂いが充満してくるからね」
「鬼ホイホイって奴か……洒落にならねえぜ」
「でも、わたしの血に惹かれてやってくるから他の人は鬼に遭わなく済むかも」
「桂ちゃん大丈夫?」
心配そうに見つめる柚明に対し桂はにっこりと笑って言い切った。
「一匹ぐらいなら全然余裕かな?」
「大した自信だぜ……信じてもいいんだな」
「うんっ!」
桂は小烏丸を抜くと、正眼に構えて一息。廊下の先にいる敵を見据え、そして一気に――駆け出した。
「さあ……鬼退治の時間だよっ!」
支援
・◆・◆・◆・
吾妻玲二は逃げている。
無論、玲二とてただ逃げている訳ではない。
無為にしか見えなかった数々の攻撃も、それぞれにちゃんと意味があったのだ。
後ろを窺えば疲れを知らぬオーファンが変わらぬ速度で追ってきている。
負傷を覚悟で用いたダイナマイトにしても、多少の足止めにしか効果のほどは見られなかった。
これも予想の通り、やはり遠距離からの攻撃ではあれを沈めるのは難しい。
あるいは、このまま逃げながら攻撃すれば塵が積もるようにいつかはあれが沈む可能性もなくはないが、
しかしそれだけの長い時間を逃げ切る体力が玲二にはない。
仮にあったとしても、それだけ逃げればまた振り出しだ。時間的な、機会的な意味でも玲二にはもう猶予がない。
だから、玲二はそこで足を止めた。
オーファンが迫る。
背の上にいる九鬼を模したアンドロイドの表情に変化はない。
生き物ですらないオーファンの表情など玲二にはわかるはずもない。
ただ迫り来るそれらを見ながら玲二は息を整える。
「…………………」
この戦闘が始まってより常に抱えていたM16を鞄に収め、代わりに何振りかの刃物を取り出した。
握りも、柄も黒い、細身の長剣。
抜き身の刀身だけが照明の光を反射して銀色に輝く。
玲二は一本を右手に握り、二本を左手に持った。
巨大なオーファンを相手にするにはあまりにも儚い武装にしか見えない。そう、玲二は自嘲する。
私怨
これは、一応としてこういった状況の為に用意されていた武器である。
黒鍵――そんな名称を持つ”霊装”などという代物。
大層な風ではあるが、性能としては特にたいしたことはなく見た目通りの剣である。
だが、神秘側の属性を持つ故に”そういうもの”に対しては有効だ。
という訳で、霊的な攻撃手段を一切持たない玲二にこれが用意されたのである。例により、あのカジノの景品から。
しかし、当然のことながら玲二には霊装を扱った経験などない。
そんな不確実なものを、構える。
本来、これを使う予定など一切なかった。
正確に言うならば、玲二としては原理のわからないものなどプロとしては使いたくなかったのだ。
だが、これまでの戦闘の結果により、これを試す理由が生まれていた。
迫るオーファンの首筋付近。
煤と弾痕に汚れたその装甲に、一箇所だけ他とは違う鮮やかな切り傷が残っていた。
これまでに試したあらゆる攻撃手段。どれがあの傷を生み出したのか、玲二は正確に記憶している。
ダーク――刃が黒く塗られた暗殺用の短剣だ。
これも霊的な力があるとの話だが、玲二はただの刃物としてしか考えていなかった。
だが、何百発と放たれた弾丸よりも、たった一本の短剣がオーファンに有効なダメージを負わせているという現実。
プロフェッショナルである玲二に心変わりを起こさせるのには十分な事象だ。
玲二は迫るオーファンに黒鍵の切っ先を向けた。
レイピアやフルーレほどではないにしろ斬りつけるには向かない細い刀身。必然的に、攻撃方法は刺突が主となる。
預けられた時に聞いた話では、この黒鍵は本来投擲用武器らしい。軽く振って重心を確かめる。確かに投げやすそうだった。
支援
「……ふっ!」
右手から一本。
続けて、もう一本を連続で投擲する。
矢のように飛んだ黒鍵は、意外に容易くオーファンの装甲を切り裂いた。
「…………む」
玲二の口から声が漏れる。
まさかこれほど容易くあの装甲を貫くとは、彼にしても予想外だったのである。
とはいえ、状況が好転したというほどでもない。
装甲を切り裂いた、と言っても人間に例えるならば紙で指を切ったという程度。オーファンの進撃を止めるには遠い。
なので、玲二は予定通りにオーファンの突撃を回避した。
ついでとばかりに黒鍵の最後の一本を投げつけ、オーファンの横を通り抜ける。
狭い通路に巨大なオーファン――とは言っても、まったく隙間がないわけでもない。
相手の虚を突くことに練達している玲二ならば、この程度造作もないことだった。
そして、こうして潜り抜けてしまえば、
「…………じゃあな」
後に待つのは、無人の野。
ただまっすぐ進むだけで、目的地にたどり着ける。
危険を犯してでもわざわざ接近した甲斐があるというもの。
無論、相手も玲二の意図には一瞬で気づくだろうが、
そうでなくては、困る。
その為にわざわざ判り易い言葉まで発したのだから。
これまでに逃げてきた距離は1キロメートルを越えている。
既に消耗している現状。それだけの距離を再び追いつかれることなく走りきるのは不可能だ。
それに、例え本拠地にまで辿りついたとしても、そこに他の敵がいれば挟み撃ちとなってしまうしその可能性は大だろう。
故に、元よりここから逃げ切るつもりは玲二自身にはない。
これだけの距離を逃げてきたのは、単純に他の敵からの干渉を嫌った結果にすぎない。
玲二は足を止め、巨体を振り返らせて再び向かってくるオーファンへと対峙する。
化生とはいえ獣は獣。その身体からは明らかな怒気が立ち昇っていた。
深手ではない。いや、だからこその怒り。
己の装甲に傷をつけたちっぽけな生き物に対する確かな怒り。
頬……胸……、そして最後の一投で負わせた右前足。
迫り来るオーファンの傷を確かめる。
黒鍵は鋼鉄の装甲に傷を負わせている。
問題はその深さだ。いかに鮮やかに切り裂こうとも相手はあの巨体なのだ。薄皮一枚では意味がないのは前述の通りである。
頬の傷は浅い。胸の傷はそれよりかは深いがまだ浅い。右前足の傷は、前の二つよりも明らかに深い。剣が突き刺さっていた。
そのせいだろうか、右前足の動きが僅かではあるがぎこちないものになっている。
ここにきてようやくダメージらしいダメージが与えられたと言えるだろう。
だが、まだそれだけだ。
不慣れな投擲武器とはいえ既に3度投げた。おおよその感覚は掴めている。
しかし逆に言うならば、捨て身に近いかたちで3本消費しても負わせた手傷はひとつだけ、ということだ。
用意された黒鍵の残りは17本。
これから先、狙いが正確になっていったとしても、負わせられる傷の数はおそらく10にも届かないだろう。
それだけでは、打倒には達しない。
いや、例え黒鍵が50本あったとしてもこのオーファンを打倒しうることはできまい。
腕を使って投げるものである以上、銃のように離れてとはいかず、これから先攻撃を避け続けなくてはならない。
だが、何十度とそれを繰り返すことはさすがに不可能であるし、
よしんば成し遂げたとしても、表面的な傷でしかないのならば50本や100本刺したとしても決着には至らない。
あらゆる意味において玲二の勝利はまだ遠い。
そして、だからこそ、玲二は近接戦闘を挑むしかない。
黒鍵を両手に掴み、同時に投擲。
投げられた黒鍵は吸い込まれるようにオーファンへと向かうが、しかし僅かな傷をつくったのみで弾かれる。
2本同時では1本を投げるより力が篭らないのだから当然の結果だ。なのに玲二はそれを繰り返す。結果も繰り返される。
そのような攻撃にオーファンが臆すはずもない。投げつけられる黒鍵を弾き飛ばしながら突進してくる。
そして、その勢いのまま、三度玲二が投擲した物体を弾き飛ばした。
だが様子が違う。弾かれたのは黒鍵ではない。キラキラと破片が散らばるそれは――ガラス片?
「…………!?」
言葉にならぬ驚き、それはオーファンのものか、あるいはアンドロイドのものか。
投げつけられた何かは弾き飛ばしたが、その”中身”がオーファンの表皮をべっとりと濡らしていた。
きつい臭い。だがそれが何かと考えている暇はない。玲二よりの次弾がオーファンに迫る。
今度のそれは、オーファンにはなんだかわからなかったが、より警戒を高めたアンドロイドには正確に認識できていた。
だが何かと判ったが故に、アンドロイドは対応することができなかった。
なぜ、拳銃を投げるのか?
拳銃は引鉄を引いて弾丸を発射するものであり、それそのものを投げつけるものではない。
確かに金属の塊である以上、当たれば衝撃があるだろうが、そんなもの石を投げるのと変わらない。
どうして、そんな不条理なことをするのか?
判別が理解へと届かないアンドロイドが困惑の中、拳銃はオーファンの身体に命中。
直後。響いたのは銃声と、
「■■■■■■■■■■■■■■■■――――!?」
声にならない、オーファンの悲鳴であった。
・◆・◆・◆・
頑丈すぎるというのも時には害となる。
玲二が三度目に投げたのは、ナイフや空のマガジンなどではなく、火炎瓶であった。
火をつけずに放り投げたのはアンドロイドに対処させないためで、その前の二投げもこれの為の布石である。
たいしたダメージがないと確信したアンドロイドはオーファンを突進させ、結果、オーファンが油を浴びることを許してしまった。
弾丸やダイナマイトの爆風すら通じなかったオーファンに火炎瓶など効果があるのかという疑問がある。
確かに装甲の上に炎をつけてもさしたる効果はなかったかもしれない。
だが、垂れた油がその装甲の隙間より内側に浸透していれば?
そして、玲二が投げつけた拳銃。
念のためにと用意しておいた特製の武器。
見た目にはただの自動拳銃であり実際にそうでしかないが、銃身には道中で食べていた握り飯と土を混ぜて詰め込んでいる。
その状態で引鉄を引くとどうなるか?
起こるのは”暴発”。そう呼ばれる現象。
スライドを引いた状態の自動拳銃は、落とす、投げる等の強い衝撃を与えてしまうと発射されてしまうことがある。
そしてこの場合。発射の際に生じる圧力は詰められたものにより逃げ場を防がれている為、銃全体に負荷をかけることになる。
具体的には、小爆発が起こり、スライドやバレル、スプリング、プラグ、ガイド、ストッパーやハンマーなどが弾け飛ぶ。
いわば金属片を撒き散らす即席の爆弾であると言えるだろう。
無論、本物の爆発物に比べればその威力や使い勝手は雲泥の差であることは明らかだが、
しかし今回の場合のように相手の目を欺き奇襲するための爆発物としては中々に優秀だ。
そして、これらの結果。
身体を包み込む炎に焼かれオーファンはのたうち暴れる。
しかし暴れたところで炎は消えない。燃えているのは調合された燃料だ。例え水の中に飛び込もうが消えはしない。
とはいえ、これでオーファンが消滅するかというとそうとも言えない。
あくまで動き封じているにすぎず、それももって1分ほどか、多めに見ても2分がいいところだろう。
だから、その2分の間にこの状況を解決しなくてはならない。
オーファンが復活してしまえば、今度こそ玲二の勝ち目はゼロになる。
手持ちの装備の半分ほどを使って、ようやく訪れた好機。
火炎瓶は使いきり、自動拳銃をひとつ潰してしまった。
残るは、わずかな爆発物にこれだけは大量に持ち込んだ小銃と弾丸。霊的な武装に関しては黒鍵が残り13本だけだ。
そして吾妻玲二自身の肉体。これらを用いて、この状況を解決しなくてはならない。
つまり――
玲二は右に身を翻した。
一瞬の後、玲二が立っていた場所を旋風のような突きと蹴りが通り抜ける。
当たり所が悪ければ一発で戦闘不能にまでにある威力を持つ一撃。
オーファンの操り主であるアンドロイド――九鬼を、2分の間に倒さなくてはならない。
・◆・◆・◆・
私怨
支援
頬を炙る熱の火照りと、地に響く轟音を背景にして両者は向かい合った。
いや、向かい合ったのは一瞬。
玲二は先んじて九鬼に攻撃を仕掛けた。
無謀、と言うより他はない。
玲二とて近接戦闘は十分に行えるが、目の前の相手はあの九鬼。以前、完膚なきまでに敗北した相手である。
総合的な戦闘能力なら兎も角、こと近接戦闘においては勝ち目など微塵も存在しない相手。
なのに、玲二はあえて近接戦闘を選択した。
いや、選ばざるをえなかった。
馬鹿正直に真正面から向かうのではなく、距離を置いて銃を用いれば九鬼を撃退することは十分可能だろう。
以前は完敗したが、しかし玲二も以前の玲二ではないのである。
だが、それは敗北に等しい。
現在。九鬼が立っているのは一番地本拠地へと通じる方向だ。ここで距離をとることは、また後退することを意味する。
背後には炎にのたううオーファン。これを避けて通り抜けるというのがそもそも至難。
そして根本的な問題として、後退は相手側に時間を提供することに他ならない。それではこれまでの手が全て無為と化す。
仮に、玲二が逃走できたとしても、九鬼は復帰したオーファンを連れてまた最初の場所に戻ればいいだけなのだ。
なので、――やはり、玲二は九鬼を撃破しなくてはならないのだ。
この短い時間で、それも、勝ち目の薄い近接戦闘において、だ。
玲二の先制打は眼球を狙う左拳の突き。
アンドロイドのつけている眼帯に意味などあるのかという疑問もあるが、眼球により視認しているのは人間と同じだ。
ならば、片方しか曝されていないその眼球を破壊すれば圧倒的なアドバンテージが得られることになる。
とはいえ、相手はそのような攻め手が通用するほど容易い相手ではない。
左拳の突きは当然のように払われる。
だが、それは最初から織り込み済み。本命は、死角より繰り出される右手のナイフ――
――が、それすらもあっけなくいなされる。
タイミングもスピードも絶妙だった奇襲がなんの痛痒も与えることができなかった。
僅かな焦燥に舌打ち。
しかし、次の瞬間にはそんな感情は捨て去る。
ナイフを弾かれた右手でそのまま眼球を狙う。
届かない。
元より当てる気のない間合いを維持する為の左ジャブ。
腕を取られそうになり慌てて引く。
上半身の引きに合わせてカウンター気味にローキックを繰り出した。
簡単に防がれるどころか、逆に足に衝撃が走る。
攻撃の速度、そして手数で見れば玲二の方が上をいくように見える。
九鬼は未だ玲二の連続攻撃に対し守勢に回るばかりだ。
だが、それは見た目だけのもの。
(くっ……!!)
攻め、きれない。
玲二の突きは、肩、肘、手首の動作のみで最短距離を通る突き。
威力ではなく、速さと鋭さを重視した急所のみを確実に狙う必殺の攻撃。
極めて洗練されたそれを、九鬼は全て的確に捌いている。
どれだけの手数を重ねたとしても、玲二の一撃が九鬼の防御を抜けられるようには感じられない。
玲二の両腕に鈍い痛みが蓄積されてくる。
打拳を払われるということは、同時に腕を打たれているということだ。九鬼の僅かな動作でしかない払いが、重い。
既に突きを放つ度に無視できない痛みが玲二を苛んでいる。だが、攻撃の手を休めることはできない。
攻撃を途切れさせれば即座に反撃が来る。
見た目とは裏腹に、追い詰められているのは玲二の方であった。
拳法。いや、おおよそ現存する打撃系格闘技において、その運動の基本は円にあるとされる。
例えば、直線的な攻撃ばかりだとイメージされるボクシングにおいてもそうだ。
基本のジャブやストレートの軌道そのものは直線だとしても、それがコンビネーションとなれば両の腕は円の軌道を描く。
円とは途切れがないことを意味する。
つまり、一撃必殺でもない限り、組み立てられる攻撃は効率化と洗練の過程で当然の帰結として円に行き着くのだ。
また、円とは運動と加速を意味する。
組み立ての上でロスの少ない円は、同時に運動量という意味でもロスが少ない。円は人が力を効率的に振るえる所作なのだ。
そして突き詰めた結果。拳法は円により使われ、円により支配される。あるいは円が限界だと言えるかもしれない。
極論してしまえば、拳打による攻撃とは拳士の正面に浮かぶ三次元の円――”惰球”の範囲にしか発生しえないのだから。
無論、拳法の種別や流派によりその制空範囲は変化するが、しかしその範囲内でしか攻撃できないことは変わらない。
中にはそのお約束を外す為の技も存在するが、所詮奇策は奇策、裏技は裏技。決定打とは成りえるものではない。
つまるところ、打撃による応酬戦とはいかに相手の浮かべる惰球を回避し、相手をこちらの惰球の中に収めるかという話である。
勿論、これは理屈でしかないが、逆に言えばこれを完璧にこなせるのであれば打撃戦において敗北は存在しない。
そして、玲二と九鬼の今の状況はまさにその通り。
確かに放つ時には九鬼を捉えているはずの玲二の拳が、まるで騙し絵を見てるが如く空を切る。
おそらく、九鬼はこのまま5分でも10分でも玲二の打拳を受け続けることができるだろう。
しかしそれほどの猶予は元より存在しない。果たして、玲二に残された時間は後どれほど残っていただろうか。
終わりは、それよりも早く訪れた。
私怨
支援
僅かだが速度の落ちた左の突き。これを九鬼に捕まえられた。
恐ろしい力で腕を引かれ――がら空きになった胸部に九鬼の掌打が叩きつけられる。
一瞬。視界が白色に占領される。
鈍い音が響き、次いで衝撃が身体を走り抜けた。
僅かに身体を引くことは成功。骨折は免れた、はず。が、それでも確実にヒビは入っているだろう。
喉の奥に血の味――どこか内臓が破けたか――溢れ出た血が口から零れそうになる。
だが、それはまだ一撃。これだけでたった一撃。
当然の如く第二撃が、追撃の拳が身をよじる玲二へと迫る。
最初から武道の腕において勝ち目などなかった。
片や人の身でありながら化物を屠る域にまで至った達人。
片やあくまで人の身の中で人を殺すことに特化した道具。
吾妻玲二が九鬼耀鋼に打ち勝つ可能性など最初から存在しなかった。
・◆・◆・◆・
――否。
そんな程度のものに、あの妄執の塊である変質者が納得するであろうか?
断じて、否。
確かに、吾妻玲二は格闘戦において九鬼耀鋼に遠く及ばない。
シリーズ最高の狙撃能力を持つアインとて、オリンピックのメダリストと比べれば見劣りする。
ツァーレンシュヴェスタンの連携など、本物の軍隊に比べれば鼻で笑われるものにすぎないのだろう。
ああ、だが、…………そんなものが劣るからどうだというのか?
格闘戦で打ち勝たなくてはならない道理がどこにある。
金メダルなど額縁どころか、家屋ごと粉みじんにしてしまえばいい。
規律よく勝つことが目的ではない。何人死のうが目標を殺しきればそれでいい。
彼らは、闘士でも選手でも兵士でもない――暗殺者だ。
それは、標的を確実に殺すという意志。
過程も関係なければ、結果の先を考える必要もない。
腕を千切られようが、仲間を殺されようが、ただ決められた標的を殺す。
たったひとつの凶器。
だからこそ、サイス・マスターは彼らを至高の芸術品と呼んだのだ。
・◆・◆・◆・
吾妻玲二が九鬼耀鋼に打ち勝つ可能性など最初から存在しなかった。
私怨
そんなことは判りきっている。
敗北するのは当然の帰結でしかありえない。
わかっていて格闘戦を挑んだのだから。
なにも、雪辱を晴らすなどといった無意味な感情があったわけでもない。
完膚なきまでに敗北したとはいえ、吾妻玲二は今ここでこうして生きていて、九鬼耀鋼は既に死した身なのだ。
感情ではない。あるのはただ障害を取り除くという目的のみ。
格闘戦で敗北する。それがなんだ? 勝利などくれてやれ。
玲二がアインより学んだのは、誰かに打ち勝つ方法ではない。
人を殺すことなのだ。
九鬼の第二撃が玲二の胸へと突き刺さる。今度こそ、折れた。
玲二の口から鮮血が溢れる。
だがこれも、手段。過程。道具。玲二は血を吐くのではなく、噴きつける。
九鬼の顔面へと。
無数に飛び散る飛沫を避ける方法など皆無。
いや、避ける方法を奪われている、と言うべきか。
九鬼の右手は玲二の左腕を掴み、左の拳は玲二の身体へとめり込んでいるという現状。
噴きつけられる飛沫を払うことはできない。
目を瞑れば眼球が血で濡れることは防げるだろう。だが、それでは視界を奪われるという結果を変えることはできない。
支援
飛び退ればどうか。一度、大きく距離をとってからゆっくりと血飛沫を拭えばいい。
だがそれも、この一瞬に限れば不可能。
九鬼――正確には九鬼の真似をしているアンドロイドが彼と同じく着込んでいるオーバーコート。
高い防弾性能を誇るが故に通常のものより遥かに重いそれが、この一瞬の時間を奪う。
ファントムである玲二を相手に九鬼のコピーを送り込んだのは正解だ。
その上で、狙撃や銃撃を警戒して九鬼本人と同じく防弾コートを着せたのも正しい選択だろう。
実際、いくつもの銃弾をこのコートが受け止めていた。いや――受け止めさせていた。決して九鬼がこれを脱がないようにと。
繰り返した銃撃。重ねた奇策。払った代償。――今、全ての行動が実を結んだ。
九鬼の時間を一瞬とはいえ奪った。
たった一度きりのチャンス。たった一撃だけ与えられたこの機会。この一撃で決着をつけなくてはならない。
そしてひとつだけ、九鬼の不意をつける攻撃が存在した。
正確に言うならば、この島で戦っていた九鬼のデータをインプットされたアンドロイドに存在する隙。
この島での戦闘において玲二が一度も使用しておらず、また九鬼も使用されたとは考えづらいもの。
二日足らずの殺し合いの中で何をどれだけ使ったなど細かくは覚えてないが、確実に使用していないと言える攻撃手段。
そして誰にとっても使う機会はなかったと断言できる攻撃手段。
別に複雑な動作ではない。
むしろ玲二にとっては基本中の基本。
人体急所のひとつ。首を狙う、突き。
だいたいの拳法では禁じ手とされる手段だが、逆にそれは殺傷能力が高いことを保証する。
数ある急所の中でも狙いやすく、また即効が期待できる急所中の急所。
それなのにも関わらず、今まで使用していないと断言できる。
――なぜか?
危険だからだ。
相手が、ではなく。繰り出す側が。
この島で殺し合いに参加させられている者は皆、首輪をしている。
命を縛る枷。常に傍にある死の気配。当てられたままの死神の鎌。
誰しもが好んでつけていた訳ではないが、それでもたったひとつだけ利点があった。
すなわち、金属製の首輪は急所のひとつを防護するガードとなっていたこと。
防御する物質的な堅さと共に、首輪には爆弾が内臓されている故に攻撃側にも躊躇いを生じさせる心理効果もある。
故に、あの殺し合いの中で首という急所を狙いあう格闘戦はないと想像できた。
その者が練達者であればあるほど、それはないと断言できた。
あの殺し合いの中。そこだけに状況を限定すれば首への攻撃は存在しないも同じだったのだ。
そして、目の前にいるのはその”殺し合いの中だけの九鬼耀鋼”をインプットされたアンドロイド。
故にこの攻撃は空白。データにはない死角からの攻撃。
私怨
本物の九鬼耀鋼相手ならばこんな攻撃は通用しないだろう。
そういう意味ではやはり玲二は九鬼より劣るのかもしれない。
だが、やはり、そんなことはどうでもいいのだ。
玲二にとっての基準はいかなる時も、死んだのか、死んでいないのか、である。
玲二の手刀が繰り出される。
必殺の一撃。
――だが、その必殺の一撃は、掻い潜られる。
視界を奪われた状態で、物理的心理的な死角よりの高速の突き。
それを、九鬼のデータを持つアンドロイドは回避してみせた。
払いや受けといった拳法の動作でなく、ただ危険から身体をよじっただけであるが、それでも避けた。
さらには、その崩れた体勢から反撃の蹴りすら放ってきた。
全霊を一撃に乗せていた玲二はこれを回避することができない。
絶好の好機は逆に最大の危機へと反した。
無防備な玲二の右上半身に、九鬼の蹴りが迫り――
――響いたのは、鈍い、生木がへし折れるような音。
間違いなくどこかの骨が、折れた音。
支援
「…………っ!」
吾妻玲二の、”右手”から響く音。
激痛に身をよじったのは、九鬼のほうであった。
九鬼は確かに玲二の突きを掻い潜っていた。
だが、そこで玲二は反射的に手刀から小指を伸ばしていたのだ。
距離にすればたった数センチというところで、また小指一本の威力などたかがしれている。
しかし、相手が達人であったからこそ、その攻撃は効果的であったのだ。
繰り出される攻撃に対し避けを大きくすることは、それだけの無駄を生み相手に余裕を与えることにもなる。
故に、練達者であるほど相手の攻撃をかわす動作は小さくなってゆく。
だからこそ成しえた打撃。ぎりぎり到達した一撃。
もっとも、代償として玲二の小指はあらぬ方向に捻じ曲がっている。
まっすぐ突きこんだわけでなく、あくまで無理に引っ掛けたのだからそれも当然だ。
そして、たったそれだけでしかない小指を有効な打撃に変えるにはそれ相応の力が必要だったこともある。
玲二の顔が激痛に歪む。
だがそれも一瞬。すぐに次の攻撃に移る。
ダメージで言うならば圧倒的に玲二の方が上だ。
九鬼はおそらく10分もあればコンディションを回復させるだろうが、玲二は全治一ヶ月は固い。
しかし、そんな回復にかかる時間などどうでもいい。
重要なのはまだ最後の機会が、この数瞬とはいえ残されているということ。
目の前の九鬼はアンドロイドだが、急所に関しては人間とほぼ変わらないことはすでに九条よりレクチャー済み。
人間もアンドロイドも動作を統括する脳(CPU)の入った頭部と胴体とを繋ぐ首に線が集中しそこが急所であることは変わらない。
科学者でない玲二にそれ以上のことはわからないが、しかしすることは変わらない。
残っている左手で隠し持っていたナイフを抜き――突く。
攻撃の対象は再び、首。ここを落とせば、アンドロイドは死ぬ。
私怨
最初から素手のみで戦うつもりなどなかった。
ただ今までは使う機会がなかっただけで、今は絶好の機会とそれだけのこと。躊躇う理由などない。
最初から最後まで徹頭徹尾、冷静な判断と計算に基づいた暗殺。
ファントム・ツヴァイとして学んだあらゆる能力を駆使して生み出された、一撃。
……だが、目の前にいるのは、九鬼耀鋼。
かつて、あらゆる手段を講じてもしかし敗北した相手。
例えその紛い物であったとしても、これが九鬼耀鋼であることにはやはり変わりないのだ。
九鬼の右腕が玲二が繰り出したナイフを防いだ。
いや、防いだという表現が適当かはわからない。何しろナイフはその右腕に深々と突き刺さっているのだから。
おそらく右腕へのダメージは深刻だろう。
ぶつりと何かが切れる感触が伝わっていた。それが何かなど想像できないが右腕はもう動かないと思える。
だが、そんなことはもう些細なことだ。
吾妻玲二がここまで策を重ねて作り出した一瞬の機会が流れ去ったことと比べれば。
「…………なっ!」
驚愕が玲二の思考を支配する。
ここにきて、はじめて玲二の心に空白が生まれた瞬間だと言えるだろう。だが、それは致命的な一瞬だ。
人ならざる化生すら葬る一撃が玲二に突き刺さった。
・◆・◆・◆・
一瞬の好機は過ぎた。
惜しげもなく装備品を使い捨て、全身に浅くない傷を負い、ようやく作り出せたたった一瞬の好機。
これをもう一度繰り返せるだけの力は玲二には残っていない。
ファントム・ツヴァイとして習得した暗殺術が、九鬼耀鋼の格闘技術に敗北したということだった。
たったの一撃で壁にまで叩きつけられた玲二は、しかし諦めることなく立ち上がる。
立ち上がったところで何をどうするのかという疑問はある。
今更立ち向かったところで、玲二の打撃力では九鬼相手に二度目の好機を作り出すことなど不可能。
どれだけの攻撃を繰り出そうとももはや苦し紛れにしかならない。
……だが、
(ま…………だ……)
支援
仕切りなおしても、もう一度好機を作り出すことは不可能……だが、今ここからならば、何か方法はないのか?
今現在。玲二は大きなダメージを負っているものの、九鬼にしたって決して低いとはいえないダメージを追っている。
なにより、相手側のアドバンテージであるオーファンは未だ復活していないのだ。
まだ、完全に状況は流れてしまったわけではない。
今なら、まだ倒しうる。
守勢に回ればもう勝ち目はない。
だが、攻撃できれば。
(何…………か……)
左腕は先ほどの攻撃をガードした時に動かなくなった。
右手にしても小指を骨折してしまったために握るのも辛い。
他にもアバラが何本か折れて、内臓に無視できない痛みを感じている。
スタミナの回復もしばらく先の話だろう。もっともここを生き延びればの話だが。
満身創痍もいいところだ。だが、ここを逃せば今度こそ勝機はない。
なんとかしなければならない。
ならば、どうするのか。
殺すことはできなくとも、この一瞬でも相手の戦闘力を奪う方法はないか?
今更、急所を狙うというのも難しい話だろう。相手に学習させてしまった。
ならば、急所以外でも十分な威力を発揮する一撃はないか?
必要なのは、打撃力。
私怨
そう、例えば。
玲二のアバラを砕いたような一撃。
玲二の意識をほとんど刈り取ったような一撃。
円の動きから全身の体重を一点に乗せ、その衝撃を通すような一撃。
目の前にいる九鬼鋼耀のような、打撃。
「…………っ!」
初めて行うはずの動作にも関わらず、玲二の身体は自然に動いた。
動かされた――というような感覚すら感じていた。
その動きは目の前で何度も見させられたもの。
それまでは、速さとフットワークを重視していた為に、主に肩の先からの力を使って拳を打っていた玲二であったが、
この時は怪我を庇う無意識の動作で重心を落とし、右半身を後方に引いていた。
そこから、まず腰を回転させる。
引かれていた右腕が腰の回転より伝達される力に引っ張られる。
負傷の為に握ることのできない右手は不恰好ながらも掌打の型を取っていた。
腰から背骨、肩、肘にと順に力が伝わり、掌がそれに最後の捻りを加え――突き出された。
眼前へと肉薄していた九鬼の顔面へと掌が触れた。
支援
瞬間。同じく、腰の動きで回転していた右足が地に踏みつけられる。
それにより、玲二の体内より生じた全ての波動が打点に集束し、解き放たれた。
その、一撃。
正式名称は『九鬼流絶招 肆式名山 内の壱 “焔螺子”』と言う。
腕を捻りながら引き、拳ではなく掌打を相手に叩きつけ、命中の瞬間に大きく踏み込みつつ捻りを加える。
通常の打撃が通用しない妖怪や同様の属性を持つ人妖相手に編み出された、波動を叩き込み内部より破壊せしめる技である。
最初の腕を捻りながら引く動作こそ不完全故、本家に比べれば威力こそ落ちるものの、代わりに速さは僅かに上回っていた。
カウンターの形で炸裂した掌打は、九鬼の頭部を跳ね飛ばし、伝達した力は頭蓋の中を揺さぶりそこに甚大な被害を齎す。
たたらを踏み、九鬼の首から股間にいたる前面の急所が全て無防備になる、数秒。
今度こそ、完全に、左の突きが。
軋みと痛みとを一瞬だが完全に無視し、
先の一撃により後方に引かれていた左半身が、同じく、先の形をなぞるように腰からの回転を掌へと伝え、
九鬼の身体そのものを貫かん勢いで放たれた。
・◆・◆・◆・
私怨
偶然である。
玲二が無意識の内に繰り出した掌打こそ、『九鬼流絶招(奥義) 肆式名山 内の壱 “焔螺子”』であり、
急所突きという形をとって繰り出した二の突きの形は、まさしく『九鬼流絶招 肆式名山 内の弐 “焔錐”』
すべては、偶然の出来事に過ぎない。
偶然。九鬼が死ぬ前に拳を合わせた男が、
偶然。九鬼の能力を再現した人形を前にして矢尽き刀折れた末にその技を模倣した。
それだけの、意味のない、ただの偶然。
だが偶然とはいえ、勝敗は決した。
時間にして2分にも満たない攻防は終わる。
九鬼は……いや、九鬼を模していたアンドロイドは咽喉から顎部を突かれ、ダメージは頚椎にまで達しているようだった。
未だ機能は停止していないようだが、起き上がってくる気配もない。
玲二のほうにしても消耗は甚大だ。
右手の小指はもとより、最後の一撃で左腕も相当に痛めてしまっていた。
折れたアバラは身体の中にじくじくとした痛みを生み、何より精も根も使い果たしている。
そして、2分が過ぎた。
この場にはまだ動けるモノが存在している。
鈍い音を立てながらソレは立ち上がる。
身体にまとわりついていた油はとうとう燃え尽きたらしい。だが、煤に塗れはしていても損傷らしい損傷はないようだった。
立ち上がったオーファンは玲二の姿を確認するとグル……と唸り声を上げた。
もう術者のコントロール下からは脱しているのだろうか、その声には幾分か感情があるように思えた。
対して、玲二は何をするでもない。もはや打つべき手もありはしなかった。
勝敗は完全に決したのだ。
オーファンは足元を一度踏みしめると、玲二に向かって突進を開始し――
――その瞬間。玲二はアンドロイドの脳天を拳銃で撃ちぬいた。
そう、勝敗は完全に決していたのだ。
最後にオーファンが上げていたのは怒号ではなく、悲鳴。己の消滅に対する恐れであった。
オーファンを倒すのが困難ならば主を狙う。それは基本にして唯一の対処法。
最初から最後までこの方針に変化はない。
2分は十分すぎる時間だった。
たった2分しかない時間でも、殺せる可能性があるのならばただその可能性への道程をなぞり達成すればいいだけなのだ。
過程がどうであれ、結果だけを見れば当然のことでしかなかった。
支援
玲二を殺したいのならば、オーファンのみをあてるのが正解だっただろう。
無論、それは不可能な話だが、それならばせめて操り主は逃げに徹させるべきだった。
逆に、玲二以上の戦士である九鬼耀鋼を用いるならば、オーファンを使わせるべきではなかった。
オーファンとの連携が玲二に考える時間を与え、その結果として諸共に撃破されることとなったのだから。
人の動きをし、人と同じ急所を持つ相手を、人を殺す為の最高傑作にあててしまった。
しかも、相手側に戦力の分析をさせてしまう時間まで用意して。
全てが予定の内。何もかもは当然の帰結でしかない。
操り主との中継を切られたオーファンが光の粒となり散ってゆく。
その傍らで、玲二は自身に休息を許した。
地面へと座り込み、ゆっくりと呼吸を整え戦いの熱を身体から引かせてゆく。
そうして、戻ってくる全身の痛みを感じながら損耗の度合いを測り始めた。
一番の重症はアバラの骨折だろう。そのものだけでなく、折れた骨により内臓にもダメージが生じている。
吐血までした以上、常時ならば即入院というところだが玲二はまだミッションを完遂したわけではない。
ひとつ幸いなことは背負っている鞄の容量が無限であることだろうか。治療用具も大量に持ち込んでこれた。
玲二はコルセットのようなものを胸に当てテープで固定してゆく。
多少動きづらくなるが、痛みで動きが阻害されることを考えればこちらのほうがはるかにましだ。
テープを取り出したついでに、玲二はそれを左腕へとバンテージのように巻いてゆく。
まずはボクサーのように拳に、そして肘と肩にも同じようにテープを巻いた。
ぎくしゃくとしか動かなかった左腕もこれでどうにか動くようになる。
最後に利き手である右手へととりかかる。
小さなプレートを取り出し、それを添え木に折れた小指をテーピングして薬指と一緒に固定する。
私怨
これで、少なくとも銃を撃つぐらいならば支障はでないはずだ。
ただ、格闘戦は――
「………………」
と、そこで立ち上がり、腕を引き、先ほど繰り出したねじりを加えた掌打を打ってみる。
折れたアバラに響くものの、手にはそれほどの反動はない。
「………………」
この動きを用いるなら、多少は可能かもしれない。
そんなことを考え、玲二は地面の上で沈黙している九鬼の残骸へと向き直った。
「…………餞別代わりだ、勝手にもらうぞ」
言って、乱暴に九鬼からオーバーコートを剥がし、羽織ながら通路を歩き出した。
――餞別。
それがなにに対しても言葉なのか、おそらくは玲二自身もわかってはいないだろう。
いずれにしろ、戦闘は終わった。
もう、振り返ることはない。
・◆・◆・◆・
支援
――では、ツヴァイは、吾妻玲二はなぜ傑作と呼ばれるのか?
それは、彼がその為にはあらゆることを行えるからだ。
標的を殺すことは出来ても無駄が多すぎるドライは洗練さに欠けると言えるだろう。
ツァーレンシュヴァスタンは、完全な洗脳調教を実現できたがその分個々の能力は劣る。
アインは最も完成している。だが、彼女はあまりにも完成品でしかなかった。
設計者の思想を完全に再現した物品は、だからこそ設計者の思惑を超えることなどできない。
結果としてアインは自身の限界に対しては無力だった。
ツヴァイは、ある意味では最高の失敗作だと断じれるだろう。
創造主であるサイス・マスターに手を上げたのだから。
だが、それを加味しても、いや、だからこそ彼が最高なのだ。
サイス・マスターを裏切り、ファントムすら裏切った。
そうするしかなかったと言えばそこまでだが、事情は別に彼はそれを達成した。
それが他のファントムシリーズにはない、彼だけが持つ最高の技能。
何を犠牲にしても目標を達成しようとする意志の力。
詰め込まれた最高の戦闘能力と、そして必要が生じればそれすら捨て去れる無意識の反応。
必要とあれば、どのようなことであろうと行える、その性質。
今、彼が吾妻玲二として歩んでいる矛盾じみた事実。それこそが彼が最高たる証なのだ。
・◆・◆・◆・
通路や通風口、果ては外れの通洞まで、ありとあらゆる通ずる道を、怪物の咆哮が埋めていく。
言霊で自我なき戦闘人形に変えられた一番地職員、はたしてその数は如何ほどになるのだろうか。
考えたくもなかった。人形から悪鬼に変わり果ててしまった元人間の数は、もっと考えたくない。
諦観に満ちた現実逃避。失笑ものの、叱責ものの、洒落になっていない一大事。
当人として、これを重く受け止める。非の一端は確実に、自分にあった。それを理解しているからこそ、
「おのれフォックス!」
トーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナは、憤慨の猛りをあらわにするのだった。
レーダーを片手に、仲間たちの反応がある場所を目指し疾駆する。
狭い通路はいつ曲がり角の向こうから敵が現れたとておかしくなかったが、慎重に進んでいられる場面でもない。
事態は悪化を通り越して急転直下した。やばいやばいマジやばい。クールなロシアンスパイに焦りが生じる。
「ああもう読点を挟む間もないほどに時間が惜しいみなさんとの合流を急がなければお願いですから邪魔者は出てこないでくださいよっと!」
峠を走るスカイラインが如きドリフトテクニックで、最後の角を左折したトーニャ。
一番地基地中層エリアの開けた空間に出る。そこで、
「うううぅぅぅ……らああああああああああああああああっ!!」
血に塗れた刀を振るう、血に塗れた全身の少女と、淀んだ色の血に塗れる怪物が戦う現場を、見た。
姿形こそ獣に近いが、二本足で立っているところからどうにか人型と見て取れるそれは、間違いなく悪鬼だろう。
トーニャ自身、ここに到達するまでに何体かの悪鬼と遭遇し、幾つかは倒して幾つかは撒いて、なんとかやり過ごしてきた。
正面切ってケンカするにはリスキーすぎる相手に対し、真っ向から挑むあの勇ましい姿は、驚くべきことに羽藤桂だった。
深紅に染まる女闘士は修羅か羅刹か、兎にも角にもホテルでパヤパヤしていた頃の面影は微塵も感じられない。
私怨
深紅に染まる女闘士は修羅か羅刹か、兎にも角にもホテルでパヤパヤしていた頃の面影は微塵も感じられない。
実際目の当たりにするのは初めてだったが、あれが彼女の本気モードなのか、とトーニャは軽く息を呑んだ。
桂の背後には、羽藤柚明と高槻やよい、それにプッチャンやダンセイニの姿も窺える。
レーダーが示す反応どおりの数。3プラス2。トーニャが合流を求めた仲間たちは、未だ健在だった。
「おっと、ホッとしてばかりではいられません――ねっ!」
味方と敵の姿を識別するやいなや、トーニャは跳んだ。
跳躍と同時に伸ばすのは、後背部に備え付けられたロープ状の触手――人妖能力“キキーモラ”。
トーニャはこれを、悪鬼の胴体に絡ませることでもって、戦闘への介入を果たした。
「トーニャちゃん!?」
「今です桂さん! ボーッとしない!」
突然の乱入に驚く桂。
トーニャは悪鬼の背後からその身を拘束している。
悪鬼は力任せにキキーモラを解こうとするが、一筋縄ではいかない。
隙が生まれていた。トーニャはその隙をつけと示した。桂はその隙をついた。
「うあああああああああああああああっ!!」
剛力無双の刃が一閃、無防備に等しかった悪鬼の首を斬る。
結果は一刀両断。悪鬼の首は胴体から分離し、宙を舞う。
トーニャの遥か後方で、その首は落ちた。と同時に、キキーモラによる拘束を解く。
首を失った悪鬼の身体が、崩れ落ちた。
支援
「ふぅ……さすがに首を落とされれば即死ですか」
首を落としても死ななかったら困る、とトーニャは冗談ではなく、心の底から安堵する。
物言わなくなった異形を足の爪先で小突き、そこで再会を果たした仲間たちが駆け寄ってきた。
「トーニャちゃん……! よかった……よかったよぉ〜」
「やあやあ、素晴らしい太刀筋でしたよ桂さん。別人かと思いました」
「トーニャさーん! わた、わたた、私! まだ会えでぇ〜」
「ヒャッハァ! 憎い登場の仕方しやがって! 助かったぜこのこの!」
「てけり・り!」
「ええ、みなさんもご無事なようでなによりです。心配しましたよ本当に」
歓喜に浸る桂とやよい、そしてプッチャンとダンセイニ。
この瞬間を経るまで、幾多の艱難辛苦を乗り越えてきたのだろう。
ようやくの合流はむせび泣くほどのものだったのだと、トーニャはさして不思議にも思わなかった。
が、唯一。深刻そうな顔をする柚明の視線だけが気になった。
「おや? どうしました柚明さん。あなたはなにか一言くれないんですか?」
「また会えたことは嬉しいけど……トーニャさん、その腕……」
「ああ……目ざといですね」
柚明の呟きで、一同の注目がトーニャの右腕にいく。
だらんと肩から垂れ、先端からぽたりぽたりと血が落ちるその腕は、長袖に覆われていようとも状態を知ることができた。
怪我をしている。それもかなりの重傷。誰もがそう思ったことだろう。ずばり正解だった。
「実は肩が外れてしまいましてね。別所にもそこの怪物と同じ奴が出まして、そいつにやられました」
「やられました、って……」
「骨は折れていないかと思いますが……罅くらいは入っているかもしれません。感覚、とっくにありませんし」
まいったまいった、とトーニャは軽く苦笑する。
見るに見かねた柚明は、断りを入れるよりも先に右腕の治癒を敢行。
ずっと我慢してきた痛みが、スーっと和らいでいく。
「こんな状態で……無茶しすぎです!」
「無茶しなきゃ死んでしまいますよ。大丈夫、腕がなくなろうがキキーモラさえあれば前線張れますんで」
「そんなこと言わないでよ、トーニャちゃん! ねえ柚明お姉ちゃん、どんな状態なの?」
「心配ないわ桂ちゃん。時間をかければ、ちゃんと動かせるように――」
「どうやら時間をかけている余裕はないようですよ」
瞬間、空気が張り詰めていく。
聞こえてくるのは、重みのある足音。
まるで巨象が迫ってきたような――巨象であったならば、どれだけ楽に済んだだろう。
周囲、視界に入る通路は四つ。そこからふらふらと顔を出してくる新手の悪鬼、四体。
四体が出てきたところで、追加で二体。計六体の悪鬼が、この中層フロアに現れる。
「そ、そんな……こんなにたくさん!?」
「ちっ、雁首揃えてぞろぞろと……ちとヤベェかもな、こりゃ」
「てけり・り……!」
悪鬼六体は皆、トーニャたちのほうに視線を向けている。
さすがに見境なしに同士討ちしてくれるほど馬鹿ではないようで、つまりこれは、
「六体六。一人一体のノルマでいきますか?」
こちらは六人。あちらは六体。
トーニャは嘲るように提案し、賛同するものは誰もいなかった。
私怨
あたりまえである。彼女たちも悪鬼の脅威は知っていることだろう。
あれを相手取るには、六人で一体が相応かそれ以下。一人一体など、無謀を通り越して無理と断言できた。
「……冗談を言っている場合でもありませんね。ここで一つ、みなさんに懺悔しておかなければなりません」
一つ息をつき、トーニャは改まって言う。
「あの怪物共が元人間だということには気づいているでしょうが、あれを生み出してしまったのはおそらく、私のせいです」
「……どういうことなの、それ?」
皆の注意が、トーニャに注がれた。
フロアを同じくすることになった悪鬼六体。どれもがトーニャたちのほうに向かっているが、その足はまだ鈍く、猶予がある。
この僅かな間を、トーニャは自らが過ちの告白と、事態の究明にあてた。
「すずさんを殺しました」
唐突に切り出した殺害報告に、一同の顔が険しくなる。
「すずっていうとあれか、懺悔室の扉の向こうにいた……」
「あっ、私やプッチャンを追い返した人ですね」
「ここの職員の人たちを、言霊で自我なき人形に変えた……とも言っていたけれど」
「……もしかして、トーニャちゃん」
「想像しているとおりですよ、桂さん。たぶん、それがスイッチだったんでしょう」
これはすずを殺したあの部屋で、悪鬼に襲われてから考え導き出した推論だ。
変化のタイミングに着目し、共通点を探る内に、そうとしか考えられなくなった一つの可能性。
揺ぎない『もしかして』は、この場にいる全員を納得させるだけの力になる。
支援
私怨
「あの怪物……元人間だった方々の正体は皆、すずさんに言霊をかけられていた職員たちです。
それが一斉に、すずさんが死亡した頃合を見計らうかのようにして、怪物へと変貌しました。
私にはこれが偶然だとは思えません。言霊の副作用的なものなのかはわかりませんが……まず、間違いなく」
悪鬼の群れが獰猛に唸る渦中、一同は息を呑んでトーニャの言を聞いた。
「すずさんが死んだから、言霊で操られていた人たちは怪物になってしまった――と取るべきでしょう」
それはつまり、トーニャがすずの息の根を止めたあの瞬間が発端だったということ。
事態悪化のトリガーを引いてしまったのは、紛れもなく自分であると、トーニャは告白する。
聞くやよいとプッチャン、ダンセイニの顔が悲壮感に染まった。
「無理やり戦わされて、死んだら死んだで今度は怪物にされて……ってことかよ」
「そんなの……そんなの、ひどすぎます!」
「てけり・り!」
彼女たちらしい感想だと、トーニャは思った。
悪鬼となってしまった職員たちの中には、前線とは縁のない研究専門の人間とていたはずだ。
中には愛する家族がいた者、無理矢理儀式に駆り出された者、神崎に異を唱える者だっていたに違いない。
そんな者たちが皆まとめて、強制的に人を捨てることとなってしまった。
冷徹なトーニャとて、感傷を抱かないと言えば嘘になる。
「……でも、同情してあげることはできないよ。殺さなきゃ、わたしたちが殺されちゃう」
「桂ちゃん……」
瞳の色を獅子のような金色に変え、纏う雰囲気すら様変わりしていた桂は、的確に現状を捉える。
彼女の言うことも至極もっともだ。人であろうと鬼であろうと、敵は敵。それは変わらない。
「そのとおりです桂さん。
とはいえ、あれの強さはケタが外れています。あまり言いたくはありませんが、このままでは全滅も必至でしょう」
「あんなに集まってきたのはたぶん、わたしの血に惹かれてるんだと思う。だから、ここはわたしが囮になって……」
「なるほど。悪くない案ですが、もっといい策がありますよ」
支援
にやり、とトーニャが笑った。
自信満々な風を装って、せめて少しでもと、周囲に安心感を与える。
「なんですか、もっといい策って?」
やよいが訊いた。
トーニャは悪鬼たちのほうへ向き、答える――
「自分の尻拭いは自分でする、ですよ」
――と同時に、駆け出した。
方向は悪鬼六体が群れる前方、後方には唖然としている仲間たちを置いて。
桂やプッチャンが制止の声をかけるのも気にせず、トーニャは単身、先駆けた。
「ハッ!」
跳躍と同時に、キキーモラを宙に走らせる。
一条の軌跡が辿る先は、悪鬼の密集地帯。一番前に出ていた一体の左目を、先制して削ぐ。
激痛を訴える咆哮が、中層フロア全域に木霊した。
トーニャは耳を塞ぎたくなるも我慢し、次なる標的にしかける。
中距離を保っての捕縛。別の一体の胴体にキキーモラが絡まり、あっという間に縛り上げた。
この悪鬼、パワーは凄まじいが動きは鈍重だ。速度で制せば優位はこちらに傾く。
トーニャは集中してキキーモラを繰った。捕縛された悪鬼が持ち上がる。
キキーモラは見た目の細さに反し、荒縄の比ではない強度と頑丈さ、そして馬力を秘めている。
トーニャの細腕では到底持ち上がらないだろう悪鬼の巨体も、キキーモラを用いれば労力は半分以下。
敵が複数だというのなら、その内の一体を投擲武器として応用することも十分に可能なのである。
「はぁ――――――――っ!!」
気合一声、トーニャはキキーモラで捕縛した悪鬼を、他の悪鬼に向かって投げ飛ばす。
巨体が巨体に激突し、衝撃が生まれた。六体の内二体が、一時的に戦闘不能となる。
だが、
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
いくらキキーモラを用いたとはいえ、悪鬼一体を投げ飛ばすのに生じる隙は誤魔化せない。
残り四体の内の一体が急に反応を素早くし、トーニャに突っ込んでくる。
跳んで避けられる速さではない。キキーモラを巻き戻すも間に合わない。
トーニャは左腕を前に、骨折覚悟でこれを受けることに決めた。
「――やらせない!」
焦燥と恐怖に歪む視界、悪鬼が眼前に迫る境界に、間を埋めるべく桂が割って入った。
悪鬼が右腕を振り上げ、振り下ろす。そのタイミングに合わせて、桂が刀を振るった。
巨腕が飛ぶ。淀んだ色の血が、シャワーとなって降り注いだ。桂の身がさらに血塗れになる。
それでも、彼女は怯まない。羽藤桂はまるで別人のように、悪鬼に対して刀を振るう。
右腕を斬り飛ばされ動きが止まった悪鬼。その左肩から袈裟切り一閃。
頑強な胸板に血の軌跡が走り、休む間もなく下からの斬り返し。
身体の前面に交差した切創ができあがり、それでも倒れない悪鬼。
だからといって絶望はせず、桂の刃は悪鬼の胸を貫いた。流れるような動作で、脇腹から抜く。
絶叫。人間をやめた者の悲鳴が大気を震わせ、やがて沈黙。巨体は床に沈んだ。
一体撃破――その安堵から生まれかねない新たな隙に、他の悪鬼がつけ込もうとする。
トーニャが警戒を呼びかけようとするが、桂はそれよりも早く、その場から飛び退いた。
桂の身が自身の真横に。数瞬前まで桂が立っていた地点に、巨腕が叩きつけられた。
「大した殺陣ですね。時代劇に出られますよ、桂さん」
「なんで……なんで一人で戦おうとするの!?」
私怨
礼の代わりにと告げた称賛を、桂は怒号で掻き消した。
金色の双眸に、きらりと輝くものが見える。本気で怒っているようだった。
「これは私の不始末ですから。みなさんに迷惑をかけるの、嫌なんですよ」
「それでトーニャちゃんが傷ついたら、意味ないよ! わたしたちは――」
「勘違いしないでください」
桂の心中を察しながら、しかしトーニャはこれを拒む。
前方の悪鬼へと駆け出して、キキーモラを放って、言う。
「別に自己犠牲の精神に目覚めたとか、そういうわけではないんですよ」
キキーモラの先端に取り付けられた錘が、悪鬼の肉を削ぐ。
人間と比べてもだいぶ硬い皮膚は、キキーモラの斬撃では削りきれない。
なるべく喉や目などの弱所を狙うようにはしているが、大したダメージにはなっていないようだった。
「これは、あの糞ギツネに売られた最後のケンカです。私はそれを買いました」
さらに、先程投げ飛ばした悪鬼と、それに巻き込まれた悪鬼の二体も、既に再起しているのが確認できた。
あれくらいで仕留められるはずもなかったかと、トーニャは歯噛みする。
「なにが言いたいか、わかるでしょう? わりますよね、桂さん?」
「トーニャちゃん……」
反論を許さず、トーニャは再度伸ばしたキキーモラで――桂の左脚を絡め取った。
えっ、と驚きの声が上がるも一瞬。
「要は……手出し無用ッ!」
トーニャは、桂の身を思い切り後方に投げ飛ばした。
その行動を好機と見たのか、悪鬼が速度を上げトーニャに突進してくる。
しかし慌てず、これを横に跳んで回避。愚直な暴力に、床がひしゃげた。
「叩くことしか能のないお馬鹿さんに、私は捕まえられませんよ!」
トーニャは怒気混じりの声で挑発する。
悪鬼に放つのは、やはりキキーモラ。これがトーニャの唯一無二にして最も信頼できる武器なのだ。
生身の人間、ほんの少し頑丈なだけの機械人形、伝説と謳われた妖怪、すべてこれ一本で対処対応できる。
相手が鋼鉄の肉体を持つ鬼であろうとも、攻め方を工夫すれば――と。
「っ!?」
一直線に伸びていったキキーモラは、悪鬼の腕を絡め取ろうとして――予想外にも、逆に掴まれてしまう。
軌道が安直すぎた。なぜ正面から仕掛けた。意地を張って集中力を欠いたせいだ。馬鹿だ私は。
刹那の間に巡る後悔と反省。その刹那が終了する頃には、悪鬼が剛力を振るい始めていた。
キキーモラを掴んだ状態のまま、力任せに腕を振り回す。
当然、キキーモラに繋がるトーニャの身も、浮き上がった。
まるで、西部劇のカウボーイに捕らわれた小悪党みたいな為様。
遠心力が齎す嘔吐感は並大抵ではなかったが、それ以上に、
「――――――――ッ!!」
身体中を蹂躙せんとする激痛の怒涛が、トーニャの意識を殺そうとしていた。
キキーモラは、言ってしまえば獣の尻尾と同じようなものであり、そして尻尾以上に繊細な、トーニャの身体の一部なのだ。
手足同然に扱えるのはトーニャの感覚神経と直に繋がっているためである。
それが掌握されたともなれば、当然の帰結としてそこで発生する刺激も本体である身体へと伝わることになる。
つまりキキーモラは、最大の武器であると同時に最大の弱点でもあるのだった。
理解承知した上での、失態。集中力を欠いてしまったという、自責。
脳裏にすずの顔が浮かび、トーニャは改めて思った。
支援
(忌々しい)
なにも知らず知らされず、最後の最後まで不当に人間を恨みながら死に、そして死んだ後になっても迷惑をかけ続ける。
神代学園に在籍していた如月すずは、もう少しマシなフォックスだった。対して、こちらのすずは最低最悪な狐のクズだ。
やはり、生きたままの剥製にして本国に持ち帰りホルマリン漬けにでもしておくべきだった。
何秒経っただろう。一秒も経っていないかもしれない。その身はまだ振り回されていた。トーニャは薄れる意識の中で思う。
気絶かな――予感した。
それとも死――まさかと思いたい。
まだだ――ここで意識を飛ばすわけにはいかない。
まだやれる――このままリタイアしてしまっては、すずに負けたも同然だから。
やる――あの世でほくそ笑む狐など見たくはない。
やるしかない――サーシャだって。
そうだ――サーシャだ。
本国には、帰りを待つ妹がいる。
仲間を売ってでも優先したいと、否、優先すると決めている絶対の存在。
サーシャのことを思えば、意地の張り合いなどに固執している自分の愚かしさがよくわかる。
頭を冷やせ。
クールになろう。
私はロシアンスパイ。
トーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナ。
使えるものは、使うのが主義なのだから――。
「――――ッ! 桂さん!」
痛みに耐えながら、声を絞り出した。
発した言葉は仲間の名前。
直前の自分を省みての、殊勝な求め。
トーニャは、助けを呼んだ。
私怨
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、桂が参上する。
一太刀、渾身の一閃でもって悪鬼の腕を断ち切った。
掌握されていたキキーモラが解放され、トーニャは投げ出される。
痛みのせいで着地はままならず、しかしどうにか受け身を取って、床に落ちる。
続く悪鬼の咆哮。見ると、群れの中には無数の月光蝶が。
桂だけではない。柚明もまた、トーニャの援護に入っていた。
ふらふらな足取りで立ち上がると、傍に桂が寄って来て言った。
「トーニャちゃん。なにか言うこと、あるんじゃないかな」
「ごめんなさい。あなた方の力が必要です。協力してください」
意地を張っていた自分が馬鹿だったと、トーニャは即答で頭を下げる。
その露出した後頭部に、桂は間髪入れずげんこつを落とす。
「あだっ!?」
ゴンッ、という音が響いた。
この鬼っ娘、本気で殴りおった。
「なっ……素直に謝ったじゃないですか! なぜにぶちますかね!?」
「謝ったってぶつよ! トーニャちゃん、わたしたちのことぜんっ……ぜん! 頼ってくれないんだもん!」
「そうだそうだ。意地張って馬鹿やるようなキャラでもねーだろ、おまえはよ」
ぶたれた頭を摩りながら、トーニャはうっすらと目に涙を浮かべる。
叱りつける声は、二つ。桂と、彼女の右腕に嵌ったプッチャンのものだった。
げんこつもプッチャンのものだったのだろうか。頭が陥没していないことを察するに、そうなのかもしれない。
前線から少し離れた位置では、柚明が月光蝶を行使し、その傍にやよいとダンセイニが付いている。
そして悪鬼の存在を身近に置きながら、全員の視線はトーニャに向けられていた。
各々がなにを言いたいかわからないほど、トーニャも鈍感ではない。
「理由がどうあれ、俺も桂も柚明もやよいもダンセイニも、他の奴らだって、おまえ一人を悪者にしようとは思ってねぇ。
そりゃ、周りは怪物だらけで大ピンチってところだけどよ。言っても仕様がねーだろうが。うだうだ愚痴ってる暇もないんだぜ」
一同を代表するように、プッチャンが言う。
もっともな言い分だった。わかっている。だから素直に助けを求めたのだ。なのにぶたれた。
イマイチ納得がいかない。とぶつくさ言ってもやはり仕方なく、トーニャは大人の余裕で、この不満を飲み込む。
桂には、背中を預けられる戦友として、接する。
「わたしたち、仲間でしょ? 戦うんなら、一緒」
「……死ぬのも一緒、というわけですか?」
「死なないよ。わたしがトーニャちゃんを死なせないし、トーニャちゃんがわたしを死なせない」
なんとも心強い言葉だった。
羽藤桂。こんなに勇ましい女の子だったろうか。
実戦が少女を大人に変えたのかもしれない。
「本当に……ええ。桂さんも柚明さんもやよいさんもプッチャンも、みなさん大した筋肉ですよ」
まるで、誰かさんを見ているようだ。
あれは背中を預けるというには程遠い存在だったが、不思議と安心できる要素はあった。
神代学園生徒会の面々に抱いていた、あそこに置いてきたとばかり思っていた信頼感が、ここにきて芽生える。
利用したいってんならすりゃいいさ。仲間としてな。こっちは勝手に、おまえを助けるからよ。
一人で踏ん張るよりは、よっぽど楽だろ? だって、一人じゃ誰を利用することもできねぇじゃねぇか。
まったく、なんでこんな佳境で、よりにもよって、あんな人の言葉を思い出しているのだろう。
自分の記憶力を呪いたくなったのは、人生で初めてのことだった。
な。おまえもそうだろ――トーニャ
そうですね。
かなり、遅くなってしまったが。
最後の一線を超えて。
信じて、頼っても、いいのかもしれない。
「……わかりました。そこまで言うんなら、この後のことは全部丸投げしますからね? あとで文句言わないでくださいよ」
トーニャは、桂に言った。
桂はもちろん、この言葉の意味をすぐには読み取れない。
だがじきにわかる。だから、トーニャは構わず駆け出した。
「柚明さん! 怪物共をなるべく一箇所に集めてください!」
月光蝶で悪鬼を足止めしている柚明に指示を出し、トーニャはキキーモラを展開。
今度はヘマはしない。防ぎようもない必殺の技で、確実に葬りにかかる。
覚悟は既に完了した。仲間に後を託す準備は万端だ。
(なにを恐れることも、ない――!)
悪鬼たちが、光の蝶に翻弄されながら身を寄せ合う。
一箇所に集中した敵を一掃、それがトーニャの狙いだ。
だからキキーモラを差し向ける先は、頭上。天井ギリギリまで伸ばす。
いつもと違うところが、一点だけ。
キキーモラの先端についている錘が、外されていた。
支援
「効果範囲確認。全方位攻撃。解き放て、キキーモラ」
キキーモラとは、家に住み着く精霊の一種である。
姿形は諸説あるが、いずれにも共通する点が一つある。
《糸》。
本来のキキーモラは、こうして編み込まれた縄などではない。
正体は、何本もの繊維の集合体。無数の糸だった。
普段のキキーモラは、その糸を編み込み一本の縄のようにしているだけに過ぎない。
「くらえ――」
天井まで伸びていったキキーモラがパッと解け、真の姿を見せる。
きらきらと輝く一本一本の糸が、数え切れない。
その細さ、その物量、その速さは、まるで降り注ぐ雨のようだった。
如何な悪鬼とはいえ、空から降る雨を防げるはずもない。
「――――ひかりのあめ(イースクラ・リーヴィエニ)!」
豪槍の驟雨、銃弾の怒涛、蜂の巣――等しい結果を齎す、糸の雨。
防げるはずもなければ避けられるはずもなく、悪鬼は飲み込まれた。
断末魔の叫びが、鼓膜を破壊せんほどに響き渡った。
耳に残る不快感は、確かな勝利の証。
私怨
だがそんな不快感を凌駕するほどに、トーニャの身を苛む激痛があった。
痛みは、脳に直接伝わってくる。
頭が割れるようだった。
ひとたびキキーモラを解いてしまうと、感覚神経に多大なる負担がかかる。
糸のすべてを攻撃に使用すれば、ましてや満身創痍の身でそれを行使すれば、こうなることは自明の理だった。
でも、きっと大丈夫だろう。
この場の悪鬼はすべて掃討することができた。
逃げる時間、もしくは休まる時間を作ることはできた。
あとのことはきっと、仲間たちがなんとかしてくれる。
と、そんなことを、思い、訪れる、最後。
「トーニャちゃん―――― ニャちゃ ――――ト ニ ―――― 」
感覚が、分断される。
景色が、壊れていく。
身体が、崩れ落ちた。
仲間が、駆け寄った。
意識が、消え失せた。
自然と、笑えていた。
・◆・◆・◆・
あれからしばらくの後、那岐と彼を追うアンドロイド達の姿はあの地底湖の傍にあった。
鬼道によって生み出された暴風が湖の水面に波を立て、撒き散らかされる銃弾が岩壁に奇怪なレリーフを掘り込んでいる。
時に雷鳴が轟き渡り、オーファンの鳴声が耳を劈く。人知を超えた破壊の音がその場をただひたすらに埋めていた。
那岐の姿は先と変わらぬ形で健在だ。とはいえ、その表情からはこれまでのような余裕は消え去っている。
そこらの地面に、壁際や水面の下に、そしてここまで移動してきた通路のそこら中にアンドロイドの残骸は転がっているが、
しかしまだまだアンドロイドの数は残っており、苛烈な攻撃が止むということもない。
霊脈の力を用い那岐は続け様に多種多様なオーファンを召喚するが、これもせいぜいが弾除けぐらいにしかならないでいた。
「多勢に無勢ってほんと……少しは遠慮してほしいなぁ……!」
宙を泳ぐ海蛇の様なオーファンを盾に那岐は弾幕から逃れ、湖の上を飛んで安全圏へと避難して行く。
なんにせよ、言葉通りに多勢に無勢であった。
逃亡しながらの戦いを続け、引くに引いて結局、こんな所まで那岐は後退することになってしまっている。
そして、ここから離れることも叶わず、すでにかなりの時間が経過していた。
「…………ッ!」
支援
超電磁砲が空間を一瞬で通り抜け、射線上にいたアンドロイドが数体まとめて融解し残骸と化した。
これで倒した数は三桁に繰り上がっただろうか。
そんなことを考える一瞬に別のアンドロイドがブレードを構え飛び掛って来て、那岐は風を纏い慌ててその場を離れた。
一息つく間もない。さらに次の瞬間には無数の銃弾が那岐を追っている。
那岐はこれに対しオーファンを盾として召喚して回避。また再び超電磁砲を発射して何体かのアンドロイドを破壊する。
幾度となくこれが繰り返される。
休む間もなく、だがしかしきりがなく、見た目の上での戦果とは裏腹に那岐はアンドロイド達に押されていた。
那岐が支配し、彼へと流れ込む霊脈の力は無限大だと考えても差し支えないほどに大きい。
だが、それを使う那岐自身の力がそうかというと、それはとても言えない。
例えるならば、霊脈とは繋がった回路に電気を供給する電池のようなものだ。
故に、最終的な出力はそれと繋がっている者――この場合は那岐自身の能力に因り、決して彼の限界を超えることはない。
宙を行く那岐の姿がアンドロイド達の視覚から消失する。大気を操り小規模な蜃気楼を生み出したのだ。
しかし、それも一時しのぎにしかならない。大気の歪みを補正したアンドロイド達はほんの数秒で攻撃を再開する。
那岐は式という存在である為、肉体的な疲労はない。故に霊脈と繋がっている限り、永遠に戦うことも可能である。
だがしかし、それは永遠に負けないでいられるという意味ではない。
1%でも敗北の可能性が存在する以上、戦いが続けば続くほど那岐が敗北する可能性は増してゆくのだ。
永遠に戦い続けられる那岐と、多量とは言え限界のあるアンドロイドの軍団。
互いが最適な行動を選択し続ければ、ある程度の時間の後、那岐が勝利することになるだろうが、それは現実的な話ではない。
私怨
那岐を狙い続ける銃弾の嵐が時間の経過と共にその様相を変化させてゆく。
最初はそれぞれが発射する弾丸が単純に那岐自身を狙っていただけであったが、継続される戦闘にアンドロイド達の学習は進み
今は那岐を直接狙うもの、那岐が回避するであろう方向に撃たれているもの、更に那岐の動きを牽制するべく撃たれるものと、
もはや弾雨と言うよりも弾幕。宙を浮かぶ火線の檻が完成しようとしていた。
「かごめかごめ……――鍋の底抜けってね!」
高性能CPUを搭載したアンドロイドが生み出す弾幕は美しく容赦がない。
だがしかし、計算能力であるならば式である那岐もまた別格だ。彼は弾幕の中に隙間を見つけるとそこを潜った。
「そろそろ決着をつけないと、まずいな……」
巨大なオーファンの群れを中空に呼び出しながら那岐は焦りを口にする。
未だ那岐の方が優秀で、この先もそうであり続けることは確かだが、アンドロイド達の学習速度が想像以上に高い。
このまま続けば戦いは刹那の内に数十手を打つ勝負から、須臾(しゅゆ)の狭間に百手を打つものへと変わるだろう。
そうなってしまえばたった一手の過ちが那岐を焼き、全ては終わってしまう。
集中砲火に崩れ落ちるオーファンの影より那岐は幾条もの雷を走らせ、またいくらかのアンドロイドを破壊すると
意を決してその身を冷たい湖の中へと飛び込ませた。
オーファンを一掃したアンドロイド達が湖の淵へと駆け寄り、水面の向こうに那岐の姿を探す。
だがそれらのセンサーには那岐の姿は映らず、ただ湖面が今までになく静かだと知らせるのみであった。
アンドロイド達は頭蓋の中に納められたCPUで思案する。
那岐はただ身を隠しただけなのか。それならば水の中に飛び込んででも彼を捜索すべきか。
それとも那岐はどこからか逃げ出すつもりか。はたして地形データの中に湖中から脱出できるような穴はあったか。
闇雲に状況の不明な場所へとそれらは進みはしない。
だが現在のデータでは状況を判断しかねると、アンドロイド達はその内の数体を湖中に進めようと結論を出した。
そして更に数秒かけてどの個体が進むのかと決定したところで、水面に変化が現れた。
現在進行中の計算を放棄し、アンドロイド達は新しく得られた反応の分析に取り掛かる。
水中に高エネルギー反応。種別としてはオーファンに属するものだ。
那岐は湖の中に飛び込むことで時間を稼ぎ、より高位のオーファンを召喚したのだろうと暫定的に結論付ける。
新しい問題はそのオーファンに対しいかな対処をするか。そして未だ居場所が特定できない那岐の位置を探ること。
アンドロイド達は銃口を光を発する水面へと揃える。
そしてそれぞれに死角をカバーしながら索敵の目を地底湖全域へと拡大した。
アンドロイド総体としての結論は、
オーファンが水面から出てきたところを一斉掃射にて撃破。その間に次の行動を起こすであろう那岐の捕捉である。
そして、”ソレ”が姿を現した。
水面が大きく盛り上がり、ソレが今までになく巨大なものだとアンドロイド達は推測する。
エネルギー反応は今までになく高く、ソレは高熱を帯びていた。
膨れ上がった水面が水蒸気となって爆散し、センサーを切り替える一瞬の間アンドロイド達の目を視界を覆う。
そして遂にソレが湖上に姿を見せ、その姿だけでアンドロイド達から判断を奪った。
脳内を検索し終えたアンドロイドがデータの中にソレと同じものを発見する。
だがしかし、ソレはここにはないはずのものであった。
そしてソレはあまりにも強大すぎるものであった。
予定していた対処をそのまま続行するか否か、コンマ数秒にも満たない判断の躊躇がアンドロイド達の運命を決定づける。
神話の中の竜と鳥とを合わせたようなその姿。白銀の鱗と朱の羽に飾られたその姿は異様であり神々しい。
頭に封印の剣を刺し、強すぎる力を制御する為に黒金の鎖を幾重にも身体に巻きつけている。
広げた翼が地底湖の天井を覆い、鳴らした喉の音が水面に細波を起こした。
支援
ソレの名前はそのまま最強を表す。
繰り返し行われた星詠みの舞。その始まりよりソレは存在し、そして常に最強であることを歴史に刻んできた。
――火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。
灼熱の業火により全てを灰塵に帰す光り輝く白金の神竜。
最強のチャイルドの姿――『カグツチ』の姿がそこに顕現していた。
広げた翼を揺らし、カグツチが鳴く様に熱い吐息を口から噴出す。
たったそれだけの所作で熱波が地底湖の隅まで行き渡り、強い霊気がアンドロイドの持つ擬似エレメントを全て解体した。
武器を失ったアンドロイド達がまるで感情があるかのように戸惑いの様子を見せる。
仮にもHiMEの紛い物であるからか、もしくはそれほどまでにカグツチの力は強大なのか。
アンドロイドの脳内でレッドアラームがけたたましく鳴り始めた。
目の前ではカグツチが遂に攻撃を始めようと胸の中に灼熱のエネルギーを集中させ始めている。
データベースにあったスペックを参照すれば、吐き出される熱塊はアンドロイドのボディを飴の様に溶かしてしまうだろう。
CPUが撤退するのが最善だと算出する。
自己の保全を無視しても勝てない相手なのだから逃げるのが当然だ。無駄な消耗は味方全体の戦力に影響する。
だがしかし、アンドロイド達は一体たりともその場を動くことができないでいた。
断罪の神獣を前に、まるで贖罪を求める殉教者の様に。
カグツチの胸の中より湧き出した熱塊が込み上がり喉を大きく膨らませる。
竜の身体を通じて漏れる熱気だけですでに周囲の温度は50℃を超えている。あれが吐き出されればどうなるのか。
アンドロイド達は思考することを止めて、ただ輝かしいカグツチの姿を見ているだけであった。
そして遂に熱塊はカグツチの口より吐き出される。
光となった熱塊が全てを白く塗りつぶしながら直進し、触れたアンドロイドを蒸発させながら突き進んだ。
余波は透明な炎となって宙を走り、直撃を免れたアンドロイドに触れると真っ赤な炎をそこに燈す。
轟音が響き、壁へと直撃した熱塊が炎の渦を巻きながら洞窟内へと四散する。
灼熱の業火が全てを嘗め回し、あらゆるものを無に帰してゆく。
湖を沸騰させ、岩肌を焼き、残されていた戦いの痕跡を残らず灰へと変え、そして更にその全てを焼き清めた。
・◆・◆・◆・
sage
「いやはや、我ながらたいしたものだよこれは」
もうもうと湯気の上がる水面から頭だけを出して那岐はおどけるように言う。
見上げるそこには彼が”作り上げた”カグツチが浮かんでおり、使命を果たしたそれは光の粒となって消えようとしていた。
「即興のフェイクとしては上々の出来だったかな。まぁ、勝手に姿を借りたなんて知られたら彼女に怒られそうだけど」
指一つ鳴らして幻の最強を消すと、那岐は水から上がりずぶ濡れのままその身を地面に横たえた。
よく見れば、湯気ではなく白い煙が那岐の身体からうっすらと立ち昇っている。
「あー……疲れた。霊脈の力あってこそだけど、これはさすがに何度もできないな」
先に霊脈の力を回路と電池に例えたが、いかに偽者とは言えカグツチの力は那岐のキャパティシィを超えるものであった。
過剰な電流が抵抗により熱を生むように、那岐を構成する式も過剰な霊力の使用に軽くはない損傷を負っている。
「あやうく存在そのものが焼き切れるところだった。すぐに桂ちゃんらと合流したいけど、ちょい休憩。というか――」
もう動けない。と、那岐は四肢を焼き清められて塩となった地面に投げ出した。
霊脈とは未だ繋がっているが、それを使用する回路の方がズタズタだ。
記憶を頼りに回路を補修し、元の力を取り戻すまではもう一歩も動けないだろう。
「30分か、1時間か……その間に敵がこないと助かるんだけど」
薄ら笑いを浮かべて那岐は目を閉じる。
こうなってはもうどうしようもない。
あのアンドロイド軍団が虎の子だったと信じて、安息の時間が与えられることを期待するしかないだろう。
先に写し取っておいた式の複写を展開し、今の自身へと重ね合わせる。
そして損耗率の低いところ探して、まずはそこからと那岐は修復作業を開始した――
「――と、事が終わってくれればいいんだけど、そうもいかないかな?」
那岐は閉じていた目を開きこの地底湖に繋がる暗闇の方へと視線を移す。
横たわる地面からは何者かの足音が伝わってきていた。
「一体、ここで登場するのは何者なのか――」
それは――……。
支援
・◆・◆・◆・
雨が。
雨が降っている。
止まない雨が。
哀しみの雨が。
全てを覆い尽して振り続けている。
雨は……
雨は止むのだろうか。
その問いに雨が答える事は無く。
絶え間なく振り続けている。
哀しみが。
全てを染めていく―――
・◆・◆・◆・
「………………」
唯湖は目を瞑りその時を待っていた。
己が終焉を愛する人の手で彩られるのを。
喉元に突きつけられた剣先が意志を持って自身を貫くのを、ただ静かに。
それが望みなのだから。
愛する人であるクリスは一度唯湖の顔を見だけで、すぐに顔を下を向けてそのまま動かない。
衝撃が大きすぎたのだろうか。
それはそうだろう。愛する人が死んだと告げられたのだから。
哀しみと怒りで堪らないに違いない。
だから、きっとクリスは私を確実に殺して、くれる。
そんな核心めいた思いが唯湖の中にはあった。
何の躊躇いもなくクリスが自分を殺しそこに最上の終焉を迎える。
後はそれをただ待つだけ。
そして、一瞬のような、永久のようなどちらともわからない時間がそのまま流れ。
私怨
「なつきはね……」
ふと、クリスが顔を下げままぽつりぽつりと呟き始めた。
感情は薄く、ただ静かに。
何かを確かめるかのように、ゆっくりと。
「優しくて、強くて、綺麗で……本当にいい子だったんだよ」
その言葉には沢山の優しさが。
たくさんのぬくもりが。
たくさんの愛おしさが。
たくさん、たくさんつまっていて。
「護りたかったんだ……本当に大切な人だったんだ」
苦しそうに。
哀しそうに。
彼の周りには本当に雨が降っているようで。
「なつきは……ちゃんと自分がしてしまったこと……それをちゃんと受け止めていたよ」
支援
クリスは知っていた。
なつきが、自分が犯してしまった許されざることを正しく受け止めていたことを。
大切な人を殺してしまって、それをきちんと受け止めて。
そして、
「そして生きようとしたんだよ……精一杯……精一杯にね」
生きようとした。
どんなに辛くても、苦しくても。
哀しみに負けないように歩こうとしていた。
「笑って……笑って……生きていられるように……頑張って」
なつきは笑っていた。
哀しみを乗り越えて笑っていられるように。
精一杯生きて、生きて。
でも
「死んだんだ」
玖我なつきは死んでしまった。
まだ生きたかったはずなのに。
クリスと一緒にいたかったはずなのに。
それなのに、死んでしまった。
私怨
そう告げて、クリスは顔を上げた。
「……っ!?」
唯湖はその瞬間、息がつまった。
クリスの表情に生気は無く、顔には沢山の涙が溢れている。
それなのに…………まるで哀しそうな表情はしていない。
クリスの瞳にはただ、全てを吸い込んでしまいそうななにか深いものが湛えられていて。
多くの罪を背負っている唯湖の瞳をただ見据えていた。
「ねぇ……唯湖」
そう告げる言葉には何の感情も篭ってなくて。
全てを断絶するかのような短い問いかけ。
「なつきは間違った事をしたのかもしれない。それは、きっと簡単に許されてはいけないことだと思う」
続けられる言葉にはなつきのことが。
でもそれを唯湖は何処か怖いと思った。
大切な人のことを語っているはずなのに何処か褪めている。
そんな感じがした。
「でもね……、
それでも彼女はその分まで精一杯生きようとした。生きることができたんだ。自分がやったことをちゃんと受け止めて」
語るクリスはどこか人形のようで。
何かにとりつかれてる様に言葉を発している。
「ねえ……唯湖。そんななつきの生き方は……駄目だったと言うの?
……ううん、そんな訳ない。なつきはきっと自分の生き方を誇れたはずなんだよ」
なつきはきっと最期までその生を誇れていただろう。
なつきはずっと笑顔でいられていたんだろう。
そんななつきを、
「僕は大好きだった……なつきには……ずっとずっと笑っていて欲しかった…………愛していたんだ」
応援したかった。
大好きだった。
愛していた。
心の、心の底から。
でも、
「君が――――殺したんだよ」
唯湖がなつきを殺した。
その事実は覆り様も無く。
ただ、ただ重く圧し掛かって。
クリスは抑揚の無い声で、無表情のまま唯湖に問う。
「ねえ……唯湖。
…………君になつきを裁く権利なんてあったの? 君はなつきのことをどれくらい知っていたの? …………ねえ?」
クリスは剣をもう一度握りなおして。
「何も知らないよね?
………………知る訳が無い。なつきがどれだけ苦しんだか、哀しんだか解る訳が無いのに………………それなのに」
そして、言う。
「――――殺したんだよね? 唯湖」
クリスの顔は感情も何も無く。
ただ、深い瞳が唯湖を飲み込むように。
見つめている。
・◆・◆・◆・
「ああ、そうだよ。私がなつき君を殺したんだ」
でも、それでも、唯湖は強く頷いて、微笑みながらクリスに応えた。
それが自分が負った罪である事を確認しながら。
瞳にはしっかりとした意志を宿して。
「君が愛している人を、私の意志で、撃ち殺したよ」
ただ、自分が行ったことを淡々に。
心に強い芯を持ちながら。
しっかりと立ちながら。
来ヶ谷唯湖は殺してもらうための言葉を吐き続ける。
「それだけじゃない。
西園寺世界や衛宮士郎。それに千羽烏月や源千華留の四名を殺した。しかも後ろ二人は殺し合いに乗ってない人物だ」
当たり前のように事実だけを告げ、一人、また一人と呼ぶ度に指を立てていく。
そこに何の感慨も無く、ただ事実を告げるだけだと言うように。
「そして、最後に君の最も愛している人、玖我なつきを殺した」
最後に親指を立てて、終わりだと言う。
唯湖にとってはクリスに会ったのならそここそが終焉なのだから。
だから、これが最後。
これが、クリス・ヴェルティンを苦しめる最大の切り札。
「解るかい? クリス君。もう救えないんだよ。私はこんなに愚か者になってしまった」
だから、早く殺して欲しい。
こんなに愚か者なのだから。
こんなにも悪人なのだから。
君の手で早く楽にして欲しい。
「玖我なつきが精一杯に生きようとした? 優しくて強かった? そんなこと、私が知りようもない」
そんなことはもはやどうでもいい。
だから、嘘をつく。
優しくて強かったことを知っていたことも隠し通す。
あんなにも、精一杯生きていた女の子を否定する。
「彼女がどう生きて、どう死のうが、私には関係はない。興味もない」
知っている。そして心が震えたことも。
彼女の生き方が素晴らしいもので、死ぬ瞬間まで笑っていたことを。
最後までクリスを信じて愛して、そして殺そうとしている自分を救おうとした。
そんな玖我なつきの生き様、死に様を来ヶ谷唯湖は知っている。
これが誰かから否定される生き方だとは唯湖自身思わないし、言いたくもない。
誰かがなつきを笑ったのだとしたら、唯湖はその誰かに対して残虐な敵対者となるだろう。
支援
でも、それを否定しなければならない。
それが、結果的にクリスに殺されることに繋がるのなら。
堕ちる所まで、堕ちよう。
「間違った事をした。許されない事をしたんだろう?
ならどうあがいても末路は同じ。玖我なつきが許さざれる者なら辿り着くのは――死でしかない」
玖我なつきが殺人者というなら。
同じように何者かに裁かれなければならない。
この殺し合いで死んでいった無数の殺人者らと同様に。
唯湖はそう、無情の定理を淡々と語る。
「私に裁く権利なんてないさ。でも、私にはそんなの関係ない。ただ、私は私の思うまま、殺しただけ」
そう呟き唯湖は自嘲する。
権利なんて存在しない。
でも殺した。
それが自身の願望を果たすことに繋がるのなら。
ただ、ただ、殺す。
「なつき君のことなんて知らない。どれだけ哀しんだか、苦しんだかなんて、知る由もないし、必要も無い」
本当は知っている。
あんなにも自分がしたことに苦しんで哀しんで、
あんなにも純真で真っ直ぐでこっちが眩しいくらいの素直さが羨ましかった。
だけど、それをクリスに伝える必要はない。
伝えたら、きっと殺すのをやめてしまうだろう。
だから、なつきがクリスに託したことも封殺する。
封殺しなければならない。
私怨
「愚かだなぁ、玖我なつきは。私を救おうとするからだ。私はこんなにも救えない愚か者なのに」
愚かとなつきを笑い。
唯湖は嘲笑する自分をクリスへと見せつける。
「だから、殺してやった」
言い切る。
楽しそうに、笑いながら。
一言だけ。
「何でも知ってそうな口ぶりが嫌だった。憎たらしい程に君を愛して、ただそれだけを信じて。それだけを免罪符にして」
それは本心か虚心か。
唯湖にしか解らないけど。
でも、それは明朗に響いて。
「君に許されたと言うだけで、もう救われて気分になっている。
なんだ、それは。それじゃあ、なつき君が殺した人や、その周りの人の気持ちはどうなる? 救われないじゃないか」
あくまで、玖我なつきを殺人者と扱って。
聖者のような思想を立てるクリスに残酷な言葉を突きつける。
「だから、殺した。そして私は自分自身の為に殺したんだよ。あの女を。君の傍にいたあの女を憎しみだけで殺した」
玖我なつきが許せなかった。
クリス・ヴェルティンの傍を奪ったあの泥棒猫が。
自分がいたかった場所を奪ったあの女が。
ただ、憎かったと。
「私の居場所を奪ったあの女が憎かった。悔しかった…………私もいたかったのに……なのに、……だから、殺したんだよ」
自分もその場所にいたかった。
愛する人の傍にいたかった。
それだけを願っていたのに。
奪った、掻っ攫っていった。
憎くて悔しくて。
みっともない嫉妬に燃えて、
そして殺した。
「あははっ…………本当に救えない。本当に心の底から愚か者だ」
笑いながら唯湖は語る。
救えないのは誰だろうか。
クリスだろうか。
なつきだろうか。
唯湖だろうか。
誰にも解らないけど。
「そうさ、私は感情のまま、殺したんだよ、玖我なつきを。自分自身の欲望のまま、殺したんだ」
笑いながら語る唯湖は。
誰にも見えない涙を流しているようで。
「自分が殺したいから殺した!」
壊れている心が軋んでいるようで。
そんな事を言う自分自身が何処か滑稽に見えて。
「こんな、私は救えない。こんな墜ちきった私は救えない。二度と喜べない。二度と楽しめない」
人形になろうとしている人間が。
心を壊そうとしている。
「本当に大切なものはみんな、私が壊した。壊して壊して壊し尽くした!」
大切なものは全て無くなった。
大切なものは全て消えていった。
だって、自分自身が壊してしまったんだから。
「こんな私は救えない。愚かな愚かな愚者はこのまま、死ぬしかない」
全てを血に染めた少女は。
笑いながら。
ただ、笑いながら。
「こんな私はもう何処に戻れない。もう何処にも帰れないよ」
ただ、懐かしいものを思い出しながら。
愛している人に哀しく笑って。
支援
その笑顔は本当に。
美しくて。
哀しくて。
「だから―――――――」
人形には到底出せないであろう程の
素晴らしくも
儚く
「殺してくれ」
哀しいぐらい人間の笑顔だった。
・◆・◆・◆・
雨が降っている。
止まない雨が。
永遠に。
ただ。
ただ、ずっと。
「ねぇ……唯湖」
クリスはそっと口を開く。
表情は無くて透明な水の様で。
ただ、唯湖を見据えている。
「……この島に来て……色々あった……本当に色々あった……」
呟くクリスが見つめる先はずっと遠くで。
深い深い雨の先を。
ただ、見続けていいる。
「たくさん、たくさん……大切なモノを手に入れた。大切な人、大好きな人、大切な想い……」
立ち上がって、剣を下げ。
踵を返し、教会の祭壇の方へ。
唯湖はそんな、クリスを見てることしか出来ない。
私怨
「でも、でも、皆、手から零れ落ちていく。皆、僕から離れていく」
一歩、一歩ずつ。
進んでいく。
その先には何があるのだろうか。
「大切な人も失った。帰るべき場所も、もう存在しない」
本当に大好きで、愛していた玖我なつきはもういない。
そして、戻るべき場所にはもう戻れない。
全部、全部、無くなってしまった。
「僕は、疫病神かもしれない。
皆……皆死んでいく。
……リセルシアも、……ファルさんも、……トルタも、……キョウも、……ナゴミも、……シズルも、……アルも、
…………そしてなつきも」
昔、唯湖に言った言葉がある。
疫病神なのかもしれないと。
その通りに皆、皆、クリスに深く関わった人は死んでいった。
クリスと触れあい、そして早期に命を散らしたリセルシア。
自分の知らないクリスに惑いながらも生きたファルは、先程、死んだ。
クリスに尽したトルティニタは愛する人を見つけ、その人の為に命を尽しきった。
クリスと出逢った藤林杏は大切な人を失った哀しみに耐えられず、深い闇に落ちていった。
クリスを嘲笑い、否定した椰子なごみは最後まで殺し合いに乗り続け、巡った因果に追いつかれ果てた。
藤乃静留はクリスという存在によって全てを狂わせられて、情念を燃やし、そして愛する人の手で命を終わらせた。
最初から最後までクリスの傍に居続けてくれたアリエッタは…………元々居なかった。最後に笑い、そして許さなかっただけ。
クリスを愛し続けた、クリスの最大のパートナーだった玖我なつきはクリスを想いながら、そのまま、笑って…………逝ってしまった。
皆、皆クリスと触れ合った人が死んでいく。
クリスが人と交わろうとする度に人が死んでいく。
「僕は……………………何の為に変わっていったんだろう」
元々人と交わりたくなかった。
人と触れ合うのが苦手だった。
なのに、触れあいを求めた。
けど、結末はいつも哀しくて。
そして、死んでいってしまう。
「唯湖………………僕は最初から『間違っていた?』それとも『狂っていた?』」
唯湖に向かって振り返ったクリスの表情に。
唯湖は、初めて。
『クリス・ヴェルティン』という存在が怖く感じ始めていた。
支援
ふと、思う。
クリスはある意味『黒須太一』と変わらなかったのではないかと。
クリスはただ擬態をしていただけなのだろうか。
人に触れ合う為に、人と交わる為に、そういうものに姿を変えていただけ。
変わっていったのではなくて、ただ『憧れる姿を模倣していた』だけ。
そんな、一つの推論が浮かんだ。
まさかだろうと唯湖は思う。
けど、クリスのその表情に、そう思ってしまう。
「けどね、…………僕は変わった事を否定しちゃいけないんだ。
否定したら、僕を信じた人達まで否定してしまうことになる。……そんなのは絶対駄目だ」
だけど、クリスは言葉を紡ぐ。
変化を否定しない為に。
深い雨の中。
哀しみに囚われないように。
私怨
「……憶えている? 唯湖。僕達が出会ったときの事を」
今でも、思い出すことできる、あの夜のこと。
音が満ちる教会で、君と出逢って。
「君は、僕を肯定してくれた」
唯湖はクリスを肯定した。
触れ合って。
心を通わせて。
「そして、教えてくれた。明日は希望に満ち溢れているって……そして、願いは想い続ければきっと叶うって」
明日は希望に満ち溢れている事を教えてくれた。
願いは思い続ければ叶うって。
だから。
「僕は想い続けている。哀しみの連鎖が止まりますようにって……君が肯定してくれていたから……僕は今でも思い続けられる」
思い続けられている。信じ続けられている。
哀しみの連鎖が止まるようにと。
あの時、来ヶ谷唯湖が、クリス・ヴェルティンを肯定してくれたから。
支援
sien
クリス・ヴェルティンはどんなに哀しくても、憎しみに溢れても。
「僕は……………………だからこそ、哀しみの連鎖を止めてみせる。どんなに苦しくても……絶対に!」
哀しみの連鎖を止める事を絶対に諦めない。
「唯湖……僕は言ったよね。君は人形じゃないって」
一歩、一歩と祭壇から唯湖の元へ。
確かな意志をもって。
雨に打たれながらも。
歩いていく。
「今でも信じている。君は心のある人間だ。こんな事をして、苦しくない訳がない」
その言葉は呪詛のように。
その言葉は祝詞のように。
唯湖を縛っていく。
私怨
「君はなつきを殺した。それは変わりようが無い事実だけど、でも」
クリスは笑う。
「僕は、それを受け止めるよ。君が何十人殺そうとも、何百人殺そうとも、僕はそれを受け止める」
ただ、怖い。
なつきを殺しても、なお、唯湖を肯定するクリスが。
「これ以上、哀しみの連鎖は広げない。此処で、全てを断ち切る。どんなに哀しくても」
矛盾した言葉が、響く。
哀しいはずなのに、それでも、その哀しみすら噛み潰して。
二人の距離が近くなっていく。
「唯湖……僕は君が素敵な人だとまだ、思う事ができる」
そして、クリスは剣をまた唯湖の喉元へ。
「命は……尊いモノなんだよ。きっと、それは何よりも大切なモノ、明日を希望に満ち溢れさせるモノなんだ」
命の尊さを説き。
唯湖を見つめ。
「それは、きっと哀しみや憎しみで歪めちゃいけない。たとえ、どんなに苦しくても、心が張り裂けそうになっても」
深い深い、哀しみの雨の中で。
喜び。
哀しみ。
苦しみ。
全てを受け止めて。
「唯湖。僕は君を――――」
哀しみの連鎖に取り込まれ続けたクリスが。
「――――殺さない、殺してやるものか」
剣を投げ捨てた。
永遠の哀しみの中で。
哀しみばかりしかなかったクリスが。
選び取った、変わらない、たった一つの。
「絶対に、殺さない」
スベテの哀しみに対する、辿り着いた答え。
支援
・◆・◆・◆・
「…………おい……なんだ…………それは…………?」
誤算だった。誤算としかいえない。
唯湖にとって最大の切り札だったと思ったカード。
玖我なつきを殺したという事実を突きつけたというのに。
あんなに頑張っていた彼女を愚か者だと罵倒したというのに。
殺される、そう確信していたというのに。
唯湖は知っていた、というより憶えていた。
クリスは大切な人を侮辱されるということに耐えられないということを。
椰子なごみにそうされた時のように急激な攻撃性を発現させるということを。
あの時のクリスは、酷く冷たく、残酷に感じた。
それ故に、だから、殺してくれる。そう思っていたのに。
「………………なんで、殺さない……んだ?」
何故、目の前に居るクリスは殺すことを選ばないんだろう。
超然とした視線を向けるクリスに対して、搾り出すようにそんな呟きしかでない。
「…………ふざけるな、ふざけないでくれよ……殺されたんだろう? ……大好きな人を」
うめくようにただ呟く。
殺さないことを選んだクリスに訴えかけるように。
私怨
支援
「私は…………生きれないんだよ……苦しんだよ…………もう、死ぬしかないんだよ」
それは懇願。
盲目的にただ死がやすらぎだと信じ続けて。
それしか、残されてないのだという哀願。
「私はもう、何も望めない。何も得られない。欲しいモノは皆、零れ落ちていった」
大切な仲間達。
大好きなヒト。
もう、全て、てのひらの上には何も残っていない。
「こんなにも、愚かになったんだ。殺して殺して……ただ、罪を重ねて」
そんなてのひらは、もう真っ赤に血塗れていて。
「私は、人形だ、人形でしかない」
ただ、哀しいまでの人間は、人形に憧れて。
「素敵な人間な訳がない。心など無い……愚かな救われない罪人なんだよ」
ただ、断罪だけを望み。
最後に救われる事だけを望んで。
「殺して……くれよ…………」
私怨
大好きな人で殺してもらうことだけを、ただ望んだ。
「嫌だ」
その、望みに対する愛する人の応えは拒絶で。
最後の救いすら、彼女に与えてくれない。
そして、
「君は、人間だよ。救いようも無いほど………………素敵な人間でしかないよ」
愛する人は彼女にまたしても人間である事を望む。
唯湖は、たまらなくなってクリスの胸倉を掴んだ。
「どうしてそんな事を言うんだ! 私は人形がいい! 人形で居たい!」
人間は、心が存在しない人形を望んで。
「もう、沢山なんだ! こんなに『心』が軋むのは!」
そして、心を肯定した。
「どうして、こんなに心が痛いんだ? どうして、こんなに心が苦しいんだ? わかるか? クリス君?」
ぼろぼろになっていた心の存在を訴えながら。
苦しみしか生まない存在を押さえ込むように。
「君のせいだぞ……君が心の存在を教えてくれたせいで………………私は苦しいんだ!」
こんなことなら、
「心なんて知りたくなかった………………哀しくて哀しくて……たまらない」
そして、魔法が解けていく。
「きみのせいだぞ……君の…………」
毒りんごを配り歩いた醜い魔女から。
「私が……何の為に……こんなことをしているか……わかっているのか?」
選ばれなかったヒロイン――プリンセスへと変わっていく。
支援
「君の為……と言うのは傲慢だけど、……けどな、…………君を護りたかったからなんだよ」
「知って――」
「違うっ! 君は私の気持ちなんて気付いていない!」
縛っていた鎖が解けていく。
ずっとずっと隠し通そうとした想いが露になっていく。
明かした所で救いなんてないのに。
苦しい思いをするだけなのに。
でも、心が勝手に喋っていく。
「私はな…………」
ふと、胸元から手がはなれて。
ふたつのてのひらが愛しい人の頬に触って、
私怨
「――――――君が好きなんだよ」
ふっと、唇が、重なる。
刹那の事。
だけど、それは、魔法を、解く、最後の、鍵。
そして、両手は愛する人の背中へ。
身体を全部預けるように、抱きしめる。
この心が、愛する人に伝わるようにと。
支援
「私は、クリス君が好きなんだ!
君の柔らかい笑顔が本当に好きなんだ!
君の奏でる優しい音色が本当に好きなんだ!
君とのあの温もりが本当に大好きなんだ!
君の全てが本当に……本当に…………大好きなんだ!
ずっとずっとずーーーーっと前から好きだった!
君の事が好きだったんだ。ずっとずっとずっと前から!
解るかい、君と過ごした時間が本当に宝物なんだ。
私は君と一緒に居たかった。出来ることならずっとずっとずっと!
だけど、君は傍にいない。いてくれない!
君は別の人を選んだ。その事実がどうしても重くて!
私の心が苦しめていく、哀しめていく!
君のせいだぞ! 私をこんな風にしたのは!
こんなことなら、私は知りたくなかった。
心があることなんて知りたくなかった!
心が躍るような喜びも。
全てを壊しそうな怒りも。
胸が張り裂けそうな哀しみも。
心が浮き立つような楽しさも。
全部、全部私を苦しめていく!
苦しくないと思いたいのに、君が、君の顔が浮かんで駄目なんだよ!
私は、もう、君がいないと駄目なんだ。君がいないと震えて、駄目なんだ。
独りはもう無理なんだよ!
なのに、君は居ない。私は独りぼっちで。
ずるい! ずるい! 君はずるい!
私をこんなにした君は幸せで、私はこんなにも苦しくなっている。
身勝手だけど、でも、人間にしたなら、ちゃんと最後まで見てくれよ……!
もう、人形は嫌なんだ! 戻りたくない!
こんなに、温かい想いを知ったら、もう私は戻れない。
冷たくて、無味乾燥なモノなんか、戻れる訳……ないだろう!
なあ……なんで、私を探してくれなかった?
私はずっと君を待っていた。
どんどん壊れていく中で、私は君をずっとずっと待っていた!
傍に居て欲しかったのに!
なのに君は来てくれなかった!
待っていたのに……待っていたのに!
酷い……酷い! 君は酷い!
私をこんな事にして、それを放ったらかしにて!
私はいて欲しかったのに!
私は君が大好きなんだ。
君なしでは生きていけない。
君がいて欲しいのに、もう手に入らない。
苦しくて、哀しくて、たまらない。
本当に欲しかったのに。傍にいて欲しかったのに。
ただ、それだけでよかったのに。
君はいなかった!
でも、私は君が幸せならそれでいいと思ってた!
だけど、もう耐えられない!
私はこの想いを捨てる事は、隠す事はできない!
君のせい、きみのせいだぞ!
本当に、君が大好きだ。
なのに、君は愛してくれない。
それが、私を苦しめる。
それが、私を縛っていく。
私は君が、好きなんだ。
大好きで大好きで大好きで!
でもそれなのに…………嬉しいはずなのに。
哀しくて苦しくて痛くて!
解らない、解らない! 解らないんだ!
私は君が、大好きなんだ。大好きでたまらない。
なのに、こんなにも君の事が憎くも感じてくる。
………………なあ、
……………………………………、
…………どうして、………………傍にいてくれなかったの?」
それは、純粋な愛と憎しみが混じりあった告白。
顔を、夕陽の様に、真っ赤に真っ赤に染めた来ヶ谷唯湖の。
哀しいぐらい、苦しいぐらいの、心の本音。
「……………………私はクリス君が――――」
そう
「――――大好きです」
来ヶ谷唯湖からクリス・ヴェルティンへの
「君を――――愛している」
たった一度きりの、一つの、愛の告白。
私怨
・◆・◆・◆・
「………………そん…………な」
零れた呟きは驚愕に染まって。
クリスは唯湖に抱きしめられたまま、固まっている。
信じていたモノが色を変えていく、そんな気さえした。
心音が聞こえるぐらいに近い距離にいる救いたかった少女が顔を真っ赤にして泣いている。
「僕は…………」
クリスは、ただ思う。
どうしていいかも、解らず、言葉にならない想いが広がっていく。
目の前の少女が、いつもよりとても小さく見えて。
何か言葉をかけようとして、思いとどまってしまう。
何を、何を言えばいいのだろうか。
クリス・ヴェルティンが来ヶ谷唯湖に対して書ける言葉などあるのだろうか。
選ばなかったヒロインに対して、何を言えばいい?
慰めは精一杯の想いを告白した彼女を侮辱することにしかならない。
彼女の想いに対して何を言えばいいかなんて思いつくはずがない。
支援
「………………何も言うな。何も言わないでくれ」
唯湖の言葉が、クリスを止める。
彼女は聴きたくなかった。彼の答えを。
言うつもり無かった想い、隠し通そうとした想い。
それに決着なんてつけたくなかったから。
どうせ、解りきっている。彼の答えなんて。
彼はもう一人のヒロインを選んだのだから。
そして、来ヶ谷唯湖が救われる結末なんて、在ってはいけない。
選ばれたヒロインを自分の身勝手で奪ったのだから。
だから、クリスに選ばれる権利など存在しない。してはいけない。
「………………どうして、こうなったんだろう」
呟くのは何処か遠くを見るクリス。
彼の目には未だに止まない雨が降っている。
どうして、こんな救えない物語になってるのだろうか。
クリスがなつきを選んでしまったから?
違う。それは、言ってはいけない。
玖我なつきを選んだ事によって、彼女は救われたのだから。
そしてクリス自身も彼女によって救われたのだから。
だから、選ばれなかったヒロインの気持ちなんて本来知らなくていいはずなのだ。
主人公が救えるのなんて、一人のヒロインしか無理なのだから。
起こせる奇跡なんて、ひとつで手一杯なのだ。
救えなかったヒロインなんて……救いを求めていた事すら知らなくていい、それでいいはずなのに。
「……私達は出逢わなかった方がよかったのかな?」
なら、来ヶ谷唯湖とクリス・ヴェルティンは出逢わなかった方がよかったのだろうか。
関わってしまったから、こんな事になってしまっている。
皆が苦しむだけの物語なら、始まらない方がよかったのだろうか。
「…………違う。それは否定しちゃいけないよ。唯湖」
「……え?」
「君と出逢えたから、僕は僕でいられた。君は違うの?」
「……いや、私もそうだ。私は君のお陰で心を知った……そのことを、この想いを否定したくない」
唯湖は頬を染め、頷く。
そう、この物語が始まったからこそ、クリスはクリスでいられ、唯湖は唯湖でいられた。
だから、この物語は否定してはいけない。
けど、この物語の結末は哀しいモノでしかない。
だって、
「ああ……でも……哀しいな…………君が選んだのは……なつき君だ。君はなつき君の物語を選んだんだから」
ハッピーエンドに辿りついたのは玖我なつきの物語なのだから。
クリスとなつきが結ばれて、唯湖は選ばれない。
だから、クリスと唯湖が結ばれるハッピーエンドなんてありえないのだから。
「君がもし……ずっと傍に居てくれたら……君の気持ちは恋に変わったのかな?
私とクリス君の物語もハッピーエンドになったのかな?」
唯湖の哀しそうな呟きに、クリスは押し黙ってしまう。
もし、クリスがずっと唯湖の傍にいたのなら、この物語は幸せなものに変わったのだろうか。
それは、誰にも解らない。もしの話はあくまでもしもなのだから。
そもそも、クリスの気持ちですら『誰』にも解らない。そう、『クリス』自身さえも。
私怨
唯湖の事をずっと『大切な人』だと言っていたクリス。
大切な人なのは確かだろう。唯湖のお陰でクリスは変われたのだから。
だけど、それがどんな『大切』なのかをクリスすら、理解していなかった。
恋心なのか、それとも親愛の心のなのか。
まだ、その想いは始まったばかりで。
何も知らない雛鳥そのもので。
雛鳥のまま、親から離されたその想いは何も知らないまま、ここまで着てしてしまった。
もう少しの間、ほんの少しの間でも、傍にいたら想いは変わったかもしれないのに。
だけど、それは叶わず、今、想いは揺れ、物語は哀しいモノになってしまっている。
ほんのボタンの掛け違い。
それが、沢山続いて、こんなにも、苦しいモノになってしまっている。
クリス・ヴェルティンと来ヶ谷唯湖の物語は、苦しくて、哀しくて、救えない物語にしかなっていない。
だから、彼女は望む。
「お願いだ………………最期だけは幸せなモノにしてくれ……最期だけは幸せな結末にしてくれ……クリス君」
哀しい物語も最期は幸せなモノにして欲しいと。
それが、他の人から見たら、幸せといえないものでも。
彼女にとって幸せなら、それはきっと幸せなモノに代わる。
そう、想いなら、クリスに、願いを告げた。
クリスは彼女の温もりを感じながら。
彼女の想いを感じながら。
支援
「…………嫌だよ……そんなの。そんなの、報われない……哀しいままだ」
それでも、その結末を選び取りたくない。
報われない物語にしたく無いと言いながら。
彼自身が選び取らなかったせいで報われない物語になったというのに。
そんな、矛盾を含みながらも、クリスは思う。
「……だから、生きよう? ……幸せになるように……物語を続けていこうよ? ……ねぇ……唯湖」
まだ、時間がある。
まだ、唯湖は生きている。
だから、物語は続けられる。
そして、想いを培っていって。
悲しみの物語を幸せに変われるように。
クリスは、そう、思いながら。
物語の継続を願う。
だけど
「――――――もう、終わりなんだよ。この恋の物語は、終わってしまうんだ、クリス君」
不意にクリスにもたれかかる唯湖。
彼女の顔に浮かぶ苦悶の表情には、心から齎される痛みだけでなく。
そして、その時、初めて気付く。
「…………傷が…………血が…………ああ……」
脇腹の服に染みている紅い血。
唯湖の息は荒く、汗が滲んでいる。
重傷ともいえる傷を唯湖は負っていた。
ずっと、クリスに対して隠していてだけ。
このまま、放置したらきっと、死に至るだろう。
いや、もう、手遅れなのかもしれない。
結末は、音を立ててやって来ている。
終末の鐘は、既に鳴り響いていたのだった。
クリスの表情が哀しみに染まり。
「――――終わりなんだ」
唯湖は哀しそうに、笑った。
私怨
――――雨が降っている。
哀しい物語の中で。
報われない物語の中で。
救われない物語の中で。
ただ、雨だけが。
二人だけを世界から隔絶するように。
カナシミの雨が。
絶え間なく振っていた。
支援
以上で今回は投下終了です。
次回の投下については決まり次第、ここと各種スレにて投下日時を告知させていただきます。
多数の支援、ありがとうございました。
長時間乙かれ!クリス覚醒くるー?
769 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/04/18(日) 13:40:56 ID:MNLa8xVX
乙です
クリスはもうね…
投下乙です。
いやー面白かったw
桂ちゃんは精神的な甘さも克服して、贄の血の力も使い始め、すっかりチート戦士になりましたね……w
これが経験積んでやさぐれると、某EDの鬼切り桂ちゃんみたいに(ry
トーニャも加わって、このパーティーは更に強化された感じですね。
ツヴァイパートは、正しく組み合わせの妙だと思いました。
彼の特性を実に上手く活かした対戦カードになっている。
オーファン無力化後の九鬼もどきとの戦いもグッド。
戦いもファントムと九鬼の特徴を前面に押し出した形になっていて、非常に見てて白熱しました。
那岐は独りなのに頑張ってますねw
間違い無くパーティ中の最大戦力、なんだけどどうも危うそうな雰囲気に。
九郎共々、超人ズの一角として踏ん張ってほしいところ。
そしてクリス姉御パート。
ある意味GR2の集大成ともいえる、クリス恋愛フラグの締めが始まりましたね。
3レスに渡る姉御演説が凄まじすぎて身震いしたw
どれだけキャラとシンクロしたら、これほどの台詞が書けるんだ……w
その他の台詞も秀逸で、クリスと姉御の気持ちが痛いくらいに伝わってきました。
この二人にはハッピーエンドを迎えて欲しいが、状況はかなり厳しく、はてさてどうなるか。
素晴らしい大作をありがとうございました。
ほ
保守保守
ほ
期待しつつ保守
マダカナー
ほしゅる
781 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/09/14(火) 23:48:27 ID:H2EtNGdP
投下来ないな…
ほ
来年まで待つよ・・・それで来なかったら諦める。
何年かけるつもりだよ・・・・
いい加減もう待ち飽きた
もうどうでもええやろこんなスーパー脇役大戦…
主役級は遥か昔に無駄遣いして全滅してる事実から最期まで目を背けたままだったな
本当にベテランなのか?これ書いてる人ら
そう思うんだったら見なければいいんじゃね?
それを待ってる人全員に言ってみればどうだ
>>786 そうは思うことはないが、さすがに半年に一回レベルって遅筆すぎだろ。
790 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/10/01(金) 19:04:04 ID:0yp807QS
ほりゅ
791 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/11/20(土) 21:38:37 ID:MWASFtZu
hoshu
792 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/11/21(日) 16:07:21 ID:e/4IQZk6
男性の約6割がロリコンって本当ですか?
それと、女性の約10割がショタってマジですか!?
793 :
名無しくん、、、好きです。。。:2010/12/08(水) 21:00:27 ID:NxIISsPT
今年中に終わりそうにないな
書き手さん、生存報告くらいはしてほしいんだけども…
チャットには出没してるぞ
今年の投下が一回のみってどうなのよ
せめて制作の進行状況くらい報告して欲しいなぁ
告知
明日0時よりパロロワ毒吐き別館交流スレにてGR2語り開催
800 :
名無しくん、、、好きです。。。:2011/02/17(木) 13:37:04 ID:aBX1snx8
なんだこのスレは、たまげたなぁ
ほ
ほ
803 :
名無しくん、、、好きです。。。:2011/05/06(金) 22:59:09.12 ID:gd31x4qz
保守
805 :
名無しくん、、、好きです。。。:2011/10/18(火) 20:26:42.02 ID:tX7V6pTN
1. 初恋ばれんたいん スペシャル
2. エーベルージュ
3. センチメンタルグラフティ2
4. ONE 〜輝く季節へ〜 茜 小説版、ドラマCDに登場する茜と詩子の幼馴染 城島司のSS
茜 小説版、ドラマCDに登場する茜と詩子の幼馴染 城島司を主人公にして、
中学生時代の里村茜、柚木詩子、南条先生を攻略する OR 城島司ルート、城島司 帰還END(茜以外の
他のヒロインEND後なら大丈夫なのに。)
5. Canvas 百合奈・瑠璃子先輩のSS
6. ファーランド サーガ1、ファーランド サーガ2
ファーランド シリーズ 歴代最高名作 RPG
7. MinDeaD BlooD 〜支配者の為の狂死曲〜
8. Phantom of Inferno
END.11 終わりなき悪夢(帰国end)後 玲二×美緒
9. 銀色-完全版-、朱
『銀色』『朱』に連なる 現代を 背景で 輪廻転生した久世がが通ってる学園に
ラッテが転校生,石切が先生である 石切×久世
SS予定は無いのでしょうか?
806 :
名無しくん、、、好きです。。。:2011/11/03(木) 21:31:39.14 ID:Ny5aNI0g
で、今年もあと2ヶ月を切ったけど本当に今年中に終わるの?
807 :
名無しくん、、、好きです。。。:2011/11/29(火) 20:46:02.19 ID:tm4DyIcM
来年から3rdに突入しても良いんじゃね?
>>798 あと一週間で今年終わるけど?
できないならできないで報告くらいしたら?
もうやる気なくなったんだろ
それならそうと言ってくれたら諦めも付くんだが
クリスのgdgdな恋愛話で終わるとか打ち切りにしてもひでぇ終わり方…
第二部とか言って合作に成り下がった結果がごらんのありさまだよ!!!
…ホント2011年のうちに終わらすとかよく言えたモンだよな
合作チームの一人は一次創作で商業デビューが決定したらしい
これtwitter情報な
どうでもいい上にデマッター情報とか
やっぱり無理でした、でもいいから書き手さん方は何か言ってほしいのですが……
葉鍵4でエースやってる◆auiI.USnCE氏って作風を見る限りここのチームのあの人だよね
…他所で書くなと言う気は無いけど、ロワ界隈を引退してないのならこっちに何か反応くれてもいいのにね
816 :
名無しくん、、、好きです。。。:2012/03/20(火) 17:53:28.96 ID:PD7QFhbV
もう1からやり直すべきでしょ
あれから新しいぎゃるげもいっぱい出たわけだし、どうせ完結しないこれをいつまでも待つ必要なんかない
このまま打ち切るか、誰か自信のある人に完結させてもらうべき
別の人が続きを書くことは有り得ない。他人の食べ残しの冷めきった料理を食べたい人なんていない
書き手が打ち切りを宣言することも有り得ない。忘れてるのか最後の意地なのかは知らんけど
___
r´ `ヽ
/ _____ヘ
j  ̄ ̄ ∞゛i、_
<`vー´ひ-へ 〜、_,-v 、,〜ニ=
`〃::N:∧N、Mノ ヾリ| l::::::::ヾ、
ル:::从> < 从::::::::::N
レリ l⊃ 、_,、_, ⊂⊃W'ヽ{
/⌒ヽル.ヘ ゝ._) .从/⌒i トゥットゥルー♪
\ ヽ >,、 __, イ、/ /
\シ. i L〜〜〜//.ヾ、/
!、 `ー----ー´ミ .,}
それでも打ち切りにしたいならこうやってAAでも貼ってスレを埋め立てるのが手っ取り早いよ
そうなれば本拠地消滅で死亡認定でしょ。どうせ誰も立て直さないし
えー
819 :
名無しくん、、、好きです。。。:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:dT5X4TtS
書き手さん生きてたらエンディングまでのあらすじだけでいいから投下して欲しい
本気で出会いたいならハッピーメール
http://hap○ymail.co.jp/
○にはpを入れてね
ここも完全に死んだか
面白かっただけに残念だな