2 :
断片集 神埼黎人:2009/09/05(土) 22:31:19 ID:JH7zBNtG
黒いファイルに黒い紙を数枚収めただけの、得体の知れない代物がこの場に残されている。
これも言峰の私物だろうか、と思うも本人に確認を取るすべはなく、またそれほどの興味も湧きはしない。
神崎は仏頂面でファイルを椅子の上に置き、大皿も残して、用のなくなった放送室を出ていく。
ギィッ、と古めかしい音が鳴り、鉄扉が閉ざされた。
と同時に、黒いファイルの隙間からはらり、と一枚の紙片が零れだす。
――『4-9』。手書きでそう綴られただけのメモ書きが、誰に気づかれることもなく床に落ちた。
瞬間、部屋の隅に置かれた観葉植物の脇から、一匹のハツカネズミが床を這っていった。
チチチ、と落ちたメモ書きの前で可愛らしく鳴き、これを踏み越え軽快に椅子をよじ登っていく。
そうして、例の黒いファイルまで辿り着いた。短い四肢を用い、ハツカネズミは器用にこれを開いていく。
「全部で二十四篇。“断片集”もこれで終わりだね……ひとまずは」
ファイルのページ数を確認しながら、、ハツカネズミは確かにそう喋った。
しかしその言葉を耳にした者は、誰一人として存在しない……。
以上、投下終了です。多大なる支援に感謝します。
次回の投下については、また追って告知したいと思います。では、支援ありがとうございました。
Phantomも次で最終回か・・・基本的に玲二には死んで欲しくないが・・・
というか完結まですごいかかりまくり。
難産なんだろうね…
1stより力を入れて書いてるっぽいし
まあ時間かかるのは仕方ない
でも感想皆無だな
支援はしている。
16 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/09/24(木) 21:44:58 ID:i0A+ZY5c
このレスを見たあなたは全てのギャルゲが起動不能になります。
回避する方法はただひとつ
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \ トランクスを穿くと無意識に股間を守ろうとして内股になるため
| |r┬-| | 睾丸捻転が引き起こされます
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // だっておwwwwwwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / / バ
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ ン
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
↑のAAを
↓のスレに一時間以内にコピペしてください
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/baby/1213860134/l50
ギャルゲロワの玲二は『アニメのやうに』死んで欲しくないな。
18 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/09/30(水) 13:03:09 ID:PMihtq0A
保守
xxx閉鎖xxx塞閉xxx
【告知】
大変長らくおまたせしました。
10/17(土)23:00時頃より、GR2最終盤の更に終盤。決戦であるところの第6弾――の、その1を投下します。
>>21 おおおおおおおおおおおお
お待ちしております
23 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/10/13(火) 17:39:32 ID:Ph2MLdhb
おお、キタか!
おお、楽しみにしてます!
25 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/10/15(木) 01:04:18 ID:dwWMLXEy
wktk
そういや3rdの予定はもう決まってんの?
決まっていない、と言うよりそもそも3rdを開くだけのストックがない
既出制限無しにしたらできるかもしれんが、既出制限掛けるならもう弾が無い状態
凄く基本的なことなんだが、最初ギャルゲの定義ってどういう風に決まったの?
次にあやかしを出すときは双七は名も求めぬ妖仕様でお願いします。
では、投下を開始します。
世界を撫ぜる白色にその日が来たのだと目を開いた。そして天に頂く赤色を見上げこの日が終わりであると、そう確かめた。
出立。彼らはそれまでより足を持ち上げ、そしてそれからに向かい足を踏み出した。新しい未来への、出立。
後々。そしておわりへと向けて歩を進める。流れる風景の中には過去と現在。目の前に見据える先には、後々。
超越。憚るは苦難。天へと向かう為の鉄と木と硝子でできた梯子には段が無数。しかし、彼らはそれを登り、超越。
幸運。彼らは賽を振るい円盤を回す。己等の行方を試し、計り、見極める。必要なのはそれ。得るべきはつまり、幸運。
突破。半ばを超え演劇はそのテンポを上げる。次へと飛び込むのに必要なのは勢い。今、過去を確かめ、振り切り、突破。
舞台。ついには足をかけ、彼らはその上へと身をさらす。ここまで来たのなら、ただただそうするだけ。生き様を見せる、舞台。
何が始まるのだろう。どんな意味があったのだろう。その命は何を抱えて、彼らは何を成す? いかな結果がそこに残される?
- ギャルゲ・ロワイアル2nd 第二幕 連作歌曲第六番 LIVE FOR YOU (舞台)」 -
悲願を達成したいと願っても、幸福を得たいと願っても、聞き入れるべき神は耳を閉じただ冷笑を返すのみで願いは届かない。
全ては舞台の上の立つ者の間だけで決定される。劇の内容がそのままの結末となる。では、今から、最後の舞台を、開演します。
・◆・◆・◆・
朝。
これまでとなにも変わらない朝がやって来た。
窓の外に浮かぶ朝日は霧雨に隠れてその輪郭は朧で。
かわりに雨粒はきらきらと輝いていて。
とても奇麗だ。
そんな光景を僕はベッドの上から見つめていた。
明日はなにをしなくともやってくる。
それが僕らにとってどんなに大切な日であっても、そうでなくとも同じように。
また日は昇り、そして僕らを照らすだろう。
それを、僕がまた見られるとして、果たしてそこにあるのは歓喜と希望なのか? それとも悔恨と絶望なのか?
わからない。
けど、僕らはなんとしてでも明日を希望にしなくちゃいけないのだろう。
それが、僕らが……いや、僕。クリス・ヴェルティンがするべきことなのだろう。
唯湖。来ヶ谷唯湖を止めて、明日を希望に変えるために、しなくちゃいけないことなのだろう。
そんな重責を担っているはずなのに、どこか僕の心は軽かった。
何故だろうかと思いを巡らせ、その答えがなんとなく理解できる。
34 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/10/17(土) 22:03:12 ID:j6cGFOzT
それは、……きっと何も変わっていないから。
空に輝く朝日も。
訪れた今日という日も。
そばで微笑んでくれる彼女も。
なにも変わってはいなかったから。
だから僕はここで朝日を見ていられる。
唯湖……君もこの朝日を見ているのかな?
それは僕には知る由もないことなんだけれども。
でも、見ているのだろうとそう思った。
そして、また必ず訪れる明日。
その明日に君は一緒にいるのだろうか?
朝日をともに見られるのだろうか?
答えは誰も知ることもなく。
それは全て、きっと僕らにかかっているのだろう。
でも、……辿りついてみせるよ。
その、……明日へ。
朝日は変わらずに雨に隠れて淡く光っているだけなのだけど、
けれどその存在はまぎれもなく確かなもので、
光の先にはそれがあるのだと、信じることができた。
・◆・◆・◆・
「起きたか、クリス。ほらコーヒーだ」
「ん、ありがとう」
先に起きていた彼女――なつきが両手にコーヒーを持って僕の傍までやってきた。
一つを僕に渡し、そして僕の隣に座る。
口にしたカプチーノはちょうどいい熱さで、ぼやっとした頭を覚醒させていく。
なつきは変わらず僕の傍で、なにも変わらず微笑んでいた。
何も彼女は変わることなく笑っていてくれる。
そのことは僕にとって何故かとても嬉しくかけがえのないものだった。
「……遂に今日だな」
「そうだね」
穏やかで優しい時間が暫く流れた後、なつきは不意に呟く。
その声はどこか感慨深いもので、彼女が見つめる先もどこか遠かった。
僕はそんな表情を見ながら静かに相槌を打つ。
「これで全部決まる」
「……うん」
「その時……、一緒に居たいな。……なぁ……クリス」
「うん……そうだね……なつき」
なつきの表情は柔らかく穏やかなもので。
でも、少しだけ臆病な感じもして。
僕は曖昧に笑って、そっと彼女の方に身を寄せる。
彼女は表情を崩して、目を瞑って、ぎゅっと僕の手を握った。
その柔らかい、てのひらから伝わる温もりが僕の心も温めてくれる。
触れたら壊れそうな温もりがここにあって。
僕はそれを絶対に壊したくなかったから。
だから、もっと身を寄せ合った。
願うなら、ずっと一緒に居られるようにと。
静かに祈りながら。
「……そうだ、クリス。渡したいものがあるんだ」
「……うん?」
「これ、ホテルの売店で見つけたんだ」
「ペンダント?」
なつきから渡されたもの。
それは紐で括り付けられた大きな金属の錠と鍵だった。
こんなものがアクセサリーと言えるのか不思議に感じたけど、
錠と鍵にはとても美麗な意匠が刻みこまれていてそうなのだろうとも思えた。
僕がそれを興味深く触っているとなつきが微笑みながら言う。
なつきの手には僕と同じものが握られていた。
「これはな、2対で1セットなんだ」
「……どう言う事?」
「その錠と鍵を合わせてみろ」
「うん……あれ?……上手く会わないや」
錠に鍵をさそうとするもうまく合わない。
この錠と鍵では合わないのだろうかと思っていると、くすっとなつきが笑う。
「ほら……これで」
「あ……はずれた。……どういう事?」
そのままなつきは笑いながら自分の鍵を僕の錠に差し込んだ。
すると僕の錠は簡単に外れ、紐から落ちる。
なつきはそれを見て会心の笑みを浮かべ、その意味を教えてくれた。
「これはな……互いが鍵と錠を持ち合うんだ」
「うん」
「でも、今のようにクリスの鍵と錠じゃ開けられなかったろ?」
「うん」
「だけど、私の鍵ならクリスの錠を開けられる……そして、クリス。私の錠にクリスの鍵を」
「わかった」
僕は言われるままなつきの錠に鍵を差し込む。
そして、さっきと同じようにそれはあっけなく外れた。
様子を見て、なつきはまた説明を続ける。
「ほら、この通り簡単に外れただろ?」
「うん……だけどこれにどんな意味が?」
「それはな……こんな言い伝えがあるみたいなんだ」
なつきは子供のように笑ってその言い伝えを話し始める。
その様子はどこか憧れている少女のようで。とても微笑ましい。
「恋人同士が何かで一旦離れ離れになるかもしれない時、これを使うらしいんだ」
「……うん?」
「互いの錠を……互いの鍵で閉めるんだ……それはな」
なつきは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに。
「―――互いの心が結ばれたまま、解けないようにって」
そんな……恥ずかしくなりそうな言い伝えを。
なつきは真っ赤になりながら言うのだった。
「そしてまた二人が出会ったとき……外すんだ。再び……巡り合えたその証して……な」
そう、話を締めくくった。
顔を真っ赤に染めながら。
僕の顔もその話を聞いて真っ赤に染まってしまった。
単なる縁起担ぎかもしれない。
でも、そんな縁起担ぎが今の僕にとって何処か嬉しくて、縋りたくて。
だから、僕は、
「うん…………なつき……こっちに来て」
「……うん」
彼女の首へと手をまわして、錠を紐から離れないように。
心が結ばれたまま解けないように。
しっかりと鍵をかけた。
「これで……もう離れないよ、なつき」
「……うん……うん! クリスも……」
なつきも少し目じりに雫を貯めながら同じように。
僕の外れた錠を紐から離れないように。
心が結ばれたまま解けないように。
しっかりと鍵をかけた。
「これで……クリスも離れないな」
「うん……そうだね」
そして、結ばれた心。
それはもう二度と離れる事が無く。
強く強く繋がれ結ばれている。
だから、
「……きっとまた、明日も一緒にいられるから……なつき」
「うん…………そうだな……クリス……きっとそうだ」
「離れる訳……ないから」
「うん……うん」
また、明日を一緒にいられる。
繋がっているから。
結ばれているから。
その証が静かに互いの胸に揺れていて。
「クリス……」
「なつき……」
なつきは温かいてのひらで僕の頬をはさんで。
そのままずっと見つめ合って。
そして優しい口付けを。
いつまでも、いつまでも。
心が結ばれているようにと。
そう―――強く願いながら。
・◆・◆・◆・
潜りなれた扉を押し開け、食堂の中を覗き込んだクリスは自分となつきとが一番最後らしいと知った。
早起きはしたつもりだったが、どうやら少しゆっくりとした時間をすごしすぎたらしい。
頭の片隅にまだその余韻を少し残しながら、クリスはなつきの手を引いて部屋の中へと入る。
先日よりかは控えめであったが、テーブルの上には自由にとることのできる料理が並んでいた。
クリスは皿を手にすると、白く柔らかいロールパンとカボチャのスープにチーズとサラダをとってなつきの分も同じようにとる。
そして、飲み物をとってきたなつきと一緒にその場を離れ、席をとるためにぐるりと周りを見渡した。
「おーい、クリス。なつき。こっちだこっち」
ちょうどまっすぐ視線の先。この中では大柄な九郎が手を振っているのを見てクリスはそちらへと足を向けた。
九郎とアルとが並んで座っているテーブルに、なつきと隣り合うように腰をかける。
「どうだ? よく眠れたか?」
「うん。不思議とすんなり眠れたかな。九郎は?」
俺もだ。と、フォークを立てて答える九郎の目の前には積み上げられた皿の塔が立っていた。
どんな健啖家なのか。それよりも九郎はいつ起きていつから食べているのか。クリスは目を丸くする。
九郎の隣のアルはと言うと、そんなことには慣れっこなのか特に反応もないようだった。
ただ、見た目通りの幼い子供のように、生クリームののったプリンを小さなスプーンで崩してこれもまた小さな唇で食している。
周りはどうかとクリスは首を傾け視線を廻らせる。
向こう側の席にはファルと美希。そしてやよいとその右腕にはまっているプッチャンの姿があった。
ファルが傾けている白磁のカップの中身は紅茶だろうか。3人とも食事は終わったようでゆったりとお茶を楽しんでいるようだ。
その隣の席には箸を器用に使って魚を食べる柚明。
と、桂が皿を持ってその隣にやってくる。なんど往復を繰り返したのだろうか、積み上げられた皿を見るに彼女も健啖家らしい。
少し離れて、更に隣には碧の姿が見える。彼女らしからず目を瞑って神妙な態度で、しかしよく見れば口元は笑っていた。
部屋の奥の方には、そこが定位置だと言わんばかりに玲二と深優の姿があり、いつもどおりに黙々と食事をしている様子が窺える。
ぐるりと視線を反転させれば、部屋の端。壁に立てかけられたホワイトボードの前に九条と那岐が立っている。
どうやら今も今後の予定について色々と確認しあっているらしい。
その近くの席にはツンと澄まし悠々と食事をとっているトーニャがいて、その隣には珍しく静かなドクター・ウェスト。
なんどか同じ食卓を囲んでわかったことだが、彼は意外にもというか普段ほど食事の作法はエキセントリックではないらしい。
そして、一周し終えた視線を元のところに戻して、九郎とアル……と足元のダンセイニ。自分と、なつき。
この朝を迎えてこの島にきてより6日目。
ついにこの日が来たというわけだが、しかし決戦の日というには誰も浮き足立つところなく静かで、そこには心地よい緊張感があった。
騒がしくしている者はいない。かといって沈痛なわけでもない。ささやかなゆとりをもって、でも油断はしていない。そんな心地よさ。
「向こうの本拠地に入ったら、次はいつ食事がとれるかわからないからな。クリスもなつきもしっかり食べておけよ」
「うん。……そうだねクロウ」
「って、お前らそんなのだけで足りるのか? 食べられる時に食べておけだ。ほら、遠慮すんなって――」
大食漢である九郎からすればクリス達の食事は前菜にも相当しないのだろう。
山盛りのあんかけチャーハンや酒蒸しした貝ののったパスタなど、彼は自分の前からクリス達の目の前に移動させてくる。
クリスとなつき、目を合わせくすりと笑うと九郎に礼を言って、それぞれを互いに取り分けあった。
『――これより、二十一回目となる放送を行う。
新しい禁止エリアは、8時より”C-3”。10時より”B-6”となる。以上だ――……』
クリスが食事に手をつけはじめてほどなく、神崎黎人による定時放送が室内に流れた。
決戦を直前にした最後の放送。
あちらからも何かあるかもしれないと皆は身構えたが、しかしいつもどおり必要最低限のことだけを述べただけでそれは終わった。
天井を見上げていた九郎がまた大皿との格闘をはじめ、クリスも冷めないうちにとスプーンでスープを掬う。
ふと気付くとなつきとアルとがホワイトボードの方を見ている。
つられて見やると、九条が貼りだした地図に新しい禁止エリアを書き込んでいるところだった。
夜中に流れた放送で指定された”E-5”と”E-6”。そして今指定された”C-3”と”B-6”。
決戦を前にして全ての禁止エリアが指定されたこととなる。そしてそれは想定通り、作戦に問題をもたらすものではなかった。
「ふむ。順調すぎるのもまた逆に見落としがないかと不安を煽るものであるのう」
最強の魔導書であるアルはそんなことを呟き、しかし言葉とは裏腹なにんまりとした表情でいくつめかのプリンにスプーンを刺した。
「はい、ちゅうも〜く!」
クリスがサラダをフォークでつつきはじめた頃。那岐がパンパンと手を叩いて皆の注目を集めた。
すでに食事を終えてまったりしている者。まだ忙しなく食べている者。ただひたすらにデザートをつついている者。揃って那岐の方を見る。
「さて、ついにこの日が来て、これから決着をつける為の一大決戦が始まるわけなのだけども――」
ホテルに到着して以後、時と場所に合わせて洋服や水着姿をとっていた那岐の衣装が本来のものである弥生時代のものと変わる。
「星詠みの舞の本来の進行役として、君たちが今ここにいることに対し感謝を述べさせてもらいたい。ありがとう、みんな」
珍しく神妙な顔で、そして一礼する那岐。ぺこりと小さな頭を下げて、もどすとにこりと笑みを浮かべた。
「これからあの黒曜の君である神崎黎人。彼が率いる一番地。そしてシアーズ財団との決戦がはじまる。
厳しい戦いになるだろう。
こっちも一騎当千の強者揃い。最強のHiMEの布陣だと胸を張って言えるけど、向こうだって世界を牛耳る秘密組織だからね」
とはいえ、と那岐は鼻をならす。
「僕は君たちが負けるだなんてこれっぽっちも思ってやしない。
HiMEの軍団は一人として欠けることなくまたこの場所に戻ってこれると確信している。それだけの強さが君たちにはある。
深優ちゃん。例のものを――」
那岐に言われ、一番後ろに座っていた深優が立ち上がり、更にその奥にあったテーブルの傍らへと進む。
そのテーブルの上にテントのように張られた真白なシーツ。深優がそれを引いて取り除くと、室内に小さな歓声が響いた。
「君たちのモチベーションを高めるためにね。ご馳走を用意しておいたよ」
一番目立つのは、テーブルの真ん中にデンと鎮座する子牛の丸焼きだろうか。
それを囲う皿の上にも、茹で上げられた真っ赤な海老やら蟹やら、カラリと焼き上げられた北京ダックやら、分厚い肉の塊など、
やよいが見れば卒倒しそうな、そして実際にそうなりかけた程の豪華な料理と食材がテーブルの上にずらりと並んでいた。
「勿論。これだけじゃあないよ。これはあくまで祝勝会用ディナーの一部の一部。
厨房にはまだまだこれ以上のものが控えている。デザートだって一軍を成して冷蔵庫の中で君たちの帰還を待っているのさ。
そして――」
勝って帰ってきたら今晩からはお酒も自由解禁だ。そう聞いて、また室内に歓声が響き渡る。
「今晩のご馳走を食べる為にみんな頑張ろう!」
さざなみのように小さく繰り返し感情の波が行き来する食堂の中。
皆が皆。それぞれの未来の予感を胸に、小さかったり大きかったり、それぞれの彼、彼女ごとの笑顔を顔に浮かべていた。
・◆・◆・◆・
朝食とミーティングを終え、決戦に向けて廊下をずらずらと並んで行く16の人と、一体のスライムとひとつのパペット。
パートナーとしてなつきの手を握って並び歩いているクリスは、そういえばと、前を行く九郎に話しかけた。
「その衣装はどうしたの?」
問われて九郎は「ああ、これか」と返事を返す。
彼の出で立ちは全裸でもなければタオル一枚でもなく、ローブだけでもなければ、ジャージ姿というわけでもなかった。
ノースリーブのインナーの上に襟の大きな白いシャツとタイ。下は漆黒のスラックスに同じ色の革靴を履いている。
クリスにとっては初見で、知る由もないが、彼――探偵大十字九郎としての一張羅である。
「行方不明になっていた俺の一張羅だったんだけどな。灯台下暗し。せしめていた犯人はアルだったんだ」
「なにが犯人か。たわけ。それは”偶々”、妾に対し支給品として配られていたものにすぎん。
礼こそ言われても、盗人扱いとは冗談としても度が過ぎておるぞ」
「ワリィ、ワリィって。――とまぁ、これが俺の本来の姿ってわけだ。格好いいだろうクリス?」
そうだね。とクリスは素直に同意する。
初めて彼を見た時は、全裸の上に泥に塗れたローブを羽織っていただけだったのだ。それと比べれば随分と見違えていた。
「持っていたなら、どうしてすぐに渡してあげなかったんだ? ただでさえ男物は少ないのに」
「ふむ。確かに妾も九郎と再会した時はその姿に憐れを感じ顔をしかめたものよ。
だがな、故に、今着せてしまえばまた早々に駄目にしてしまうと予見し、この時までとっておいたのだ」
なるほど。と、クリスの隣から質問したなつきは納得した。
アルはというと、クリスとなつきを振り返り、そしてその後ろを歩いている者たちを見てふむと頷く。
「期せずしてか、言い合わせた訳でもないのに皆がそれぞれに己が一張羅を身にまとっておる。
これもどことやらの運命の神の悪戯か、はたまた決戦に向かう我らの意気の表れなのかのう……?」
言われて、クリスもどうやらそうらしいと気付く。
クリス自身も今はアイドル候補生の為の衣装ではなく、はじめに来ていたピオーヴァ音楽学院の制服を着ている。勿論、男性用だ。
しかも九郎と同じく、この制服も卸したての新品であったりする。昨晩、カジノの景品よりなつきが持ってきてくれたのだ。
おそらくは彼女もそうしたのだろうか、同じ学院に通うファルも真新しい制服に身を包んでいた。
隣を行く美希が着る制服からもほつれや血の滲みは見られない。やよいが着ているトレーナーも襟首が伸びてはいたが奇麗なものだ。
碧はやはりそれが美少女戦士としての正装なのかウェイトレス姿で、深優はなつきと同じ制服をきっちりと着こなしていた。
皺くちゃだった玲二のスーツは誰が仕立て直したのだろうか、新品も同然のようになっており、
血に染まっていたはずの柚明の着物も、おそらくは桂の努力のかいあってか元通りの鮮やかな蒼を取り戻していた。
衣装だけでなく、皆は一様にこれが始まった時と同じようにデイバックを背中に負っている。
象徴として嵌め続けていた銀の首輪も一様にそのままで、始まった時の様に、そしてこれからが始まりだという様に、彼らは歩いていた。
クリスも、雨が降り注ぐ暗い森の中を歩いてたことを思い出し、その後と、今と、これからを思い、想い、廊下を進む。
昨日までより少しだけ長く感じたエレベータ。開いた扉より出て、クリスは冷たいコンクリートの感触を靴の裏に感じる。
そこは地下駐車場で、エレベータから出てきた面々の目の前にはこの為にと用意された車両が並んでいた。
「クリス。こっちだ」
慣れた所作でバイクに跨ったなつきからヘルメットを手渡され、クリスはそれを被り彼女の後ろへと跨る。
なつきのおなかへと手をまわすと、身震いするかのようにエンジンがブルンと大きな音を立てた。
「……クリス。その、もっとしっかり抱きついてくれ。優しくされると……なんだか、こそばゆい」
「う、うん。わかった」
なつきの背中に身体を密着させ、クリスはぎゅうっと抱く。
やわらかくて、温かさが伝わってきて、心地よく、初めての乗り物に対する不安が解けるように失われてゆく。
小刻みなエンジンの振動も、どこか心地よく感じると、そんな風にクリスは思い始める。
耳に地を震わすような大きく強いエンジン音。
向こうを見れば、無骨なジープの運転席に九条の姿があり、助手席にはトーニャが座っていた。
奥の荷台にはファルと美希とダンセイニ。そして、プッチャンを手に嵌めたやよいがいて、こっちに手を振っている。
――出ませい! 鋼の牙! 愕天王!
召喚の雄叫びに振り返れば、天井につきそうな巨獣――愕天王が駐車場の中にその姿を顕現させていた。
その背中には、チャイルドの親である碧に、軽々と飛び乗る那岐と深優に、桂と彼女の手を借りてゆっくりと登る柚明。
一際甲高いエンジン音が響き渡り、駐車場の端から玲二の乗るバイクが出口へと向けて走り出した。
それを見て、それぞれも動き始める。
次いで、なつきが追うようにバイクを発進させ、その後ろにジープ。そして愕天王が地響きを立てて地下から表へと出てゆく。
「しっかり掴まっていろよ」
なつきの声にクリスはぎゅうと身体を押し付ける。グンと、速度が上がったのはその次の瞬間だった――。
・◆・◆・◆・
出立し、歓楽街を西へと走り去って行く3台の車両と1体の獣。
地より遥かに高い場所。ホテルの屋上にそれを見送るふたつの影があった。大十字九郎とアル・アジフである。
「外に出た途端に叩かれるってこともなかったか」
「うむ。どうやら、あちらも徹底してこちらを待ち構える姿勢であるらしいな」
では我らも出立するかと二人が頷きあった時、耳を劈くような轟音と共にホテルより最後の”車両”が飛び出した。
「ふぅはははははははははは! ドクタアアアァァァアアア……ウェスト……ッ!
この世の理を解き明かす者たる我輩天才大天才。
愚者でありながら分不相応にも神秘の力を欲し、人頼み神頼みのボンクラ共を成敗に御供を従えいざ発進!
GO! GO! WEST! GO-WEST! 一度に攻めて攻め破り、潰してしまえデーモンアイランドゥ!」
騒音のひとつ向こう。音楽の遥か先にあるけたたましいメタル調行進曲をがなり立てながらそれらは北進して行く。
先頭を進むのは九郎とアルからすればお馴染みで、出てきては叩き潰し出てきては叩き潰した破壊ロボ……の小さいやつ。
その後ろにつき従うのは3つの御供で、ロボの次に道路の上を普通に走る不思議な機関車トミー。
一見すれば普通のショベルカーにしか見えないが、しかし機動性は通常のものを遥かに上回り、トミーに負け劣らじのけろぴー。
最後尾を行くは、この島内において博士が直々に改造をほどこしたトラック。移動する騒音公害ことファイアーボンバー号。
まるで伝説の勇者の一行よろしく、それら4台は列をなして繁華街を北へと走り去って行く。
「相変わらずで喧しいことだ」
「そういえば、俺がアーカムに来た時にはじめて見たのが”アレ”だったんだよなぁ……」
アルは溜息をつき、九郎はしみじみと過去を回想する。
さてと、もうホテルには自身らを残して何者も残ってはいない。
皆、目的地へと向け出立した。遅れれば出番を失うだろう。そうなれば正義の味方としても失格だ。
大十字九郎はアル・アジフと共に、宙へとその身を躍らせる。
――『マギウス・スタイル』
瞬間。少女の形態をとっていたアル・アジフが本来の姿である魔導書へと変じ、頁を展開して九郎の身を包んでゆく。
身を包む紙片は皮膚に浸透し神経と接続。物理的。魔術的。魂霊的にと繋がりあい、九郎の血肉とアルの知とを一体化。
ひと瞬きほどの刹那の後、適合した紙片は術者の上を黒い皮膚で覆い、人書一体――術衣形態は完成する。
――『マギウス・ウイング』
ワードを発するだけで本来術者が行うべき複雑な詠唱は生きる魔導書がそれを肩代わりし、結果だけが瞬時に出現する。
再度展開した頁が九郎の背中に翼の形をとり、いくつもの呪文を浮かべ、魔術により理を捻じ曲げ人間の”飛翔”を現実とした。
次いで、”落下調整””加速””抵抗軽減”と連続で魔術を展開、九郎は白き太陽の前を突っ切る一条の矢と化し空を掻っ切る。
「さぁ、行くぜ。俺たちが一番乗りだ!」
術衣形態をとった九郎は地を行くドクター・ウェストをすぐに追い越すと、彼等の目的地であるツインタワーへと飛んでいった。
・◆・◆・◆・
「――参加者達が動き出しました。
パターンは『W7-GR2-P165』。行動を開始した時間、予想される進路ともに、こちらが最も可能性が高いと判断したパターンです」
参加者達が行く地上よりはるか地下深く。
忙しなく人が行き来する大会議室。その壁の一面を占める大型モニターの脇から、秘書が参加者達の動向を報告している。
「ふむ。だとすればこちらも予定通り動くとしましょう。戦闘配備を第3級より第1級へと移行させてください。
そして、最終決戦中の指揮権の規定により、シアーズ財団の戦力を黒曜の君の権限を使って徴収します。
これも予定通りに行うとシアーズ側へと通達してください。時間はありません。早急に行うようにと」
主催側の首魁である神崎黎人は報告を受け、いつもの様な静かな表情で、そして慌てることなくそのままの態度で指令を下した。
指令を聞いた秘書はすぐさまに踵を返し、主君の命令を各所に伝達すべくオペレーターの下へと駆けてゆく。
ほどなくして、モニター上部のランプが緑から赤色へと発する色を変え、モニターの中に各戦力の分布と状態が表示された。
「ふふふ。あれだけ渋ってた割には素直に言うことを聞くのね。これも想定内かしら?」
椅子に座る神崎の隣から、同じようにモニターを見つめる一番地警備本部長は彼へと声をかけた。
モニターの上ではシアーズ財団の所持するMYU型アンドロイドのほとんどがツインタワーへと移動を開始している。
彼女の言葉の通り、シアーズ側は貴重な戦力を先鋒として消費してしまうことにかなり難色を示していた。
少なくとも”表向き”はあれらが彼らの戦力のほとんどであったからだ。
「ええ。彼らではなく、”アレ”からすれば程度としてはかかる手間の問題でしかありませんからね。
ここで強硬な態度に出るとは考えていませんでした。所詮、たかだか数十体のアンドロイドにすぎません」
神崎は何事でもないように答える。だが、その表情には酷薄な笑みが浮かんでいた。
これも表向きは誰も気付いてないということにはなっているが、
シアーズ財団が決戦の機に乗じて主催を乗っ取ろうとしているのはもはや誰もが明確に感じ取っているところである。
故に、神崎はツインタワーへと、つまりは参加者側の最大戦力に対する当て駒にと、シアーズのアンドロイド軍団を向けた訳だ。
「相変わらず敵が多いと苦労も増えるものだわ」
「ええ。しかし突き詰めれば、個人個人にもそれぞれ異なる願望。欲する結果があります。
そう考えればシアーズの件に関してはさして難しい問題ではありませんよ」
ふぅん。と、警備本部長は艶かしい唇から息を漏らした。
この神崎黎人という一回り以上も年下の少年。黒曜の君であり、美袋命の兄でもある彼。中々に深いと感じる。
決して歳相応とは言えない落ち着いた物腰。柔和でありながらしかし鉄壁の心の内は茫洋としていてその奥が見えない。
「まぁ、いいわ。私は私個人としての願望と責任感に基づき与えられた仕事をこなすことにしましょう」
ふふ。と小さく笑い。彼女は神崎の元を離れ、自分に宛がわれたデスクへと向かう。
個人個人それぞれの願望。
それは参加者達やシアーズ側だけに限らず、自分も、神崎黎人も、名を知られることのない兵士だってもっているものだ。
戦いに挑む理由も、達成される野望にあったり、戦いの後の平穏にあったり、または戦いの中にあったりするのだろう。
「なんだか、長くなりそうね……」
革張りの椅子に深く腰を下ろすと、警備本部長はシガレットケースから煙草を一本取り出しその先に火をつけた――。
・◆・◆・◆・
朝の陽の光も射しこまない地下の暗く閉じた一つの部屋。
その部屋の主、来ヶ谷唯湖はしかし朝を認識していて、いつもと変わらないように紅茶を啜り、一枚の写真を見ていた。
耳をくすぐる鳥の声、ゆっくりと身体を温める陽射しなんてものはこの部屋には存在しえない。
ただの無機質で無音、無感情の中で、それでも唯湖は最後の朝をいつもと同じとおりに過ごしていた。
そう、最後の朝。
今日こそが来ヶ谷唯湖がクリス・ヴェルティンに殺される日なのだから。
だから、唯湖は静かに終焉を待ち続ける。
口に含む紅茶の味だけはいつもと変わらないなと思いながら。
ただ、一枚の写真を見続けて。
「――――来たか」
そして、唯湖がゆっくりと飲んでいた紅茶の一杯目を空にしようとする頃。
彼女は予感し、不意に笑う。
そして次の瞬間、
『来ヶ谷さん』
聞こえてくる神崎の声。
唯湖は白磁のカップをテーブルに置いて立ち上がる。
彼の声に耳を傾けながらポニーテイルに縛っていた髪をといた。
「来たのだろう?」
『ええ、彼が進行を開始しました』
さらりと広がる長い髪を適当に梳いて、いつもの黄色のリボンを結ぶ。
鏡を見て変わらない自分を確認し、制服の上着をとって袖を通した。
「全員か?」
『その通りです。もう少ししたらこの基地までやってくるでしょう』
そして、久々に使う事になるデイバックから武器を取り出す。
この島で最初に使用した、かの亡霊の愛銃でもあるデザートイーグル。
残弾を確認し、取り出しやすい場所に身に着ける。
そして、本来は鉄乙女の愛用品であり、この場所では千羽烏月が振るっていた名刀、地獄蝶々。
腰に差して、デイバックを背負い出立の準備を整えた。
『ですから、来ヶ谷さんは舞台の方に―――』
「解っている。今から向かう」
『お願いします。ではまた縁があったら』
「可笑しな事をいうな、君も。縁も何も……私の目的を知っているだろう?」
「……それもそうですね。健闘を祈ります」
「ああ」
そう言って、通信を切断する。
唯湖は無機質な部屋を、なんとなく見渡す。
居心地がいいと思っていたわけではないが、もう戻ってくることもないと思うと僅かに感じるところもあった。
自身が最後に出立した場所。そこを心の片隅に留め、最後にテーブルの上に置いてあった写真を取る。
唯湖は神妙な面持ちでその写真を見つめる。
しかしわずかに穏やかさとやすらぎを感じさせるような風で。
そして、しばらく写真を見続け、やがて決意したかのように写真を懐に仕舞い込んだ。
「――――行くか」
そう呟いて。
何も無かった部屋を後にする。
もはや誰も帰ってこない。二度と使われることのないその部屋を。
・◆・◆・◆・
ホテルより出立してより程なく。
朝日を受けてきらめく海面を右手に風を切って飛翔していた九郎とアルは、その目に目的地であるツインタワーを捉えた。
「油断をするな九郎。これからは敵地にあるぞ」
「合点!」
まだ1キロメートルと少しほど先に聳える双子のビルは、ケーキの上に立てる蝋燭ほどの大きさにしか見えない。
それを九郎は見る。否、九郎は――”視る”。
彼の全身を包む黒い表皮の上に刻まれた無数の神秘文字がちかちかと発光し、呪文を生み出し魔法陣を形作る。
術者の望むものを読み取り、膨大な魔術記録を検索し、該当するものが見つかれば”表皮”がそれを自動で”唱え”魔術を発動する。
それが魔術師と魔導書――”人書一体”であるということで、それは通常の魔術の道理を遥かに超越していた。
最早こうなれば、ただひとりの魔術師よりも、ただ一冊の魔導書よりも彼らは強力無比なのである。
「相手側も妾らがこちらから向かうと予測しておったか」
「けど、アンドロイドばっかりだぜ」
「ふむ。気兼ねなく鉄屑へと片してしまえるな」
応。と、九郎は翼で風を叩き加速する。
魔術師の眼で視る先。ツインタワーの中腹あたりにはデータで見たアンドロイド達が銃火器を構えて結集していた。
10……20……30……少なくともそれぐらいは、もしかすれば、いやおそらくはそれ以上の数がそこに並び、そして潜んでいるだろう。
聞いた限りではあの深優と同等かそれに近い性能を持っているという。ブラックロッジのやられ役とは訳が違うということだ。
だがしかし、彼らの言葉の通りにそれは難敵ではない。
人でないというならば魔術の力を全力で振るうことに気兼ねはなく、そして全力ならば――敵ではないからだ。
「――来るぞっ!」
後500メートルほどというところで、アンドロイド達の持つ銃火器が一斉に火を噴いた。
次の瞬間。横殴りに鉄礫の雨霰が九郎へと降り注ぐ。彼がただの人間であればこの次の瞬間にはこの世界より姿を消してしただろう。
――『バルザイの偃月刀』
発声とともに手の内に現れた刀を九郎は振りかぶり、そして”空を切った”。
次の瞬間。殺到していた熱き弾雨はまるで見えない傘の上を滑るように九郎を”避けて”通りすぎる。
刀を振った時に発生させた極小規模の因果操作を行う防御呪文の効果である。
「あれみたくマシンガン一辺倒っていうなら、楽勝なんだけど――っと!」
物理的干渉を回避するはずの防御呪文の上で青白い火花が激しくほとばしる。
効果薄と見たのか、ツインタワーから九郎を狙うアンドロイド達は手にした銃器をより強力なものにしたらしい。
「たわけが!
油断するでない。いくら”制限”が緩くなったといっても完全になくなったわけではないぞ。
見誤れば死はすぐ其処にあると知れっ!」
首の横から九郎と一体化していたアルがミニマムな姿で顔を覗かせ、直接に九郎の耳へと苦言を叩きつけた。
九郎はアルに謝り、再び翼を強く叩きつけて高く上昇する。
弾雨から逃れ、さてならばどう上手くあのビルに接近できるのか、それを考えようとして九郎は地を爆走してくるそれに気付いた。
「アイム! ロッキンロオオオォォォオオオオオオォォォオオオオオオゥゥゥウウウウウウ――ルッ!!」
ギャギャギャ、ドッギャァ――――ァァアン! ペレロペロペロポロリロリ〜〜〜〜ンンンン! ギュゥ――ンンッ!!
「ひゃ――はっはっはっ! 遂に来たのであーる。この時が!
クエスチョン! さて、どの時であるか? 回答までの猶予時間はナッシイイイイイイイイイイン……グッ!
我輩が答えまで言っちゃうもんね。
はい、ドクター・ウェスト君。答えは何であるかな? もっとも君ほどの頭脳を持ってすればお茶の子さいさいだろうがね。
おほほほほ、そんなことあるのであ〜る!
答えは頭脳明晰単純明快安心会計家内安全――ずばり、我輩の時代が来たのであ〜〜〜〜〜る!!!」
地を暴音爆走疾風怒濤にフィーバーしながらかっ飛ばすドクター・ウェストとそのマシーン達。
先頭からミニマム破壊ロボに、機関車、ショベルカー、ファイアーボンバー号と相変わらず奇麗に整列しながらの無謀運転。
誰が止められようか? 誰が止めようか? 如何にして止めようか? ……上空の九郎達は顔を覆って諦めていた。
「イッツ! スーパーウェストタ――イム! 合体承認! 今こそ我輩の真の実力を全力で披露する時であーる!」
ウェストの掛け声とスピーカーから発せられる合体のテーマに合わせ、縦列走行していた車両達が隊列を組み替えてゆく。
「さぁ、合体するであーる! ジャンジャンジャジャーン! レ――ッツ、コンバイ〜〜〜ンッド! 天・才・合・体!」
破壊ロボを自ら操縦するウェストと、各機の操縦席に収まっていたブラックロッジ戦闘員らがペダルを踏むタイミングを合わせる。
その瞬間。背景はなにやらキラキラを輝く不思議時空と化し、火も噴いてないのに各機がロケットの様に舞い上がった。
見る見る間にガッコンギッコンと変形してゆくマシン達。
いささか質量保存の法則に抵触しているようなそうでないような、しかしこまけぇことは(ryと言わんばかりにダイナミックに。
小さな破壊ロボを核として2つに割れたトミーがボディとして覆いかぶさり、下半身からにょっきりと足が伸びる。
更には肩口にあたる部分にけろぴーが取り付き、アームをグイングインと振り回しながら一体化した。
そして、一塊の箱と化したファイアーボンバー号が背中へとぴたりとひっつき、ぶにょっと出てきたノズルから火を噴く。
加えて、一体化したマシンのいたるところからニョキニョキ生えたり引っ込んだり、ガッキンドッキンしたりして――
――爆発炎上した。
「……あいつは本当に馬鹿か」
「知っておろうに……」
九郎と肩から顔を出している小さなアルの見下ろす先。そこからもうもうと黒煙が立ち上っていた。
合体に失敗したからではない。ドクター・ウェストは馬鹿であるがやはり天才でもある。そのような過ちを犯したりはしない。
ただ、至極単純な話として、ツインタワーの方よりロケット弾が撃ち込まれたのだ。
正義の味方?が変形合体してる最中に攻撃をしかけあまつさえ命中させてしまうのはタブーっぽくはあるが文句は言えないだろう。
何せ、互いの全存在を賭けた一大決戦なのである。戦場に奇麗も汚いもないということだ。
「けど……、これであいつがくたばるなら俺達はあんな苦労してないよなぁ」
「全くだのう」
九郎達が頷きあった次の瞬間。爆心地より旋風が巻き起こり、そこに黄金の破壊ロボ(勿論ノーマルサイズ)が姿を現した。
「うわはははははは! うひゃあ〜〜〜、はっはっはっ! 絶好調であ〜〜〜〜る!」
全く無傷。完全にして黄金に輝く破壊ロボよりウェストの高揚した声が響き渡る。
ドリルを基本としてハンドやらミサイルやらなにやらを備えた幾本ものアームをわきわきといやらしく動かすとズンと一歩踏み出した。
それを合図にか、再びロケット弾が破壊ロボへと撃ち込まれ――次いで爆音……が、しかし――やはり無傷!
「ぶっひゃははははは! きかんきかんきかんであるなぁ〜〜〜きかんしゃぽっぽー! 我輩の作ったロボは化物か?(疑問系)」
耳を澄ませば、ごうごうと風が轟くような音が破壊ロボの内側から聞こえてくる。
そして、ロボの装甲の表面を縦横無尽に流れる赤いエネルギーライン。
これらが、この”ドクター・ウェスト式ドリームクロス合体・G(何の略かはないしょ♪)破壊ロボ・おかわり3杯”が無敵である理由だった。
「ぐわはははっ! 我輩の最新でモードな破壊ロボに内臓した黄金動力・天地乖離す開闢のタービンの調子は陽あたり良好!
だいたい無限大動力より供給されるオレ様バリアは、某配管工がラッキースターを獲得したが如くに無敵三昧。
つまるに、ここから先は我輩オンステージ!
我輩が勝ち。我輩が勝ち。そして我輩が勝つ。つまり、我輩の我輩による我輩の為のハッピーエンドにゴートゥー!」
では、シャイニングフィンガーを使うのあーる! という掛け声と共に突進してゆく黄金に輝くスーパーモードなG破壊ロボ。
浴びせられる鉛弾の雨も、火を噴くロケット弾も、対物ライフルも熱線もなんのその、彼の生き様のようにロボは驀進邁進してゆく。
「……色んな意味で負けちゃいられないな」
「ふむ。ここからは見せ場の奪い合いとなる。この勝負で先日の借りを返すぞ九郎!」
バルザイの偃月刀を構えなおすと、一際大きく翼で空を打ち、九郎達もドクター・ウェストに負けじとツインタワーへと突進を始めた。
・◆・◆・◆・
出発地点であった歓楽街のあるリゾートエリアより島の南西をぐるりと周り、数十分ほど。
恋人を背にスポーツバイクを駆るなつきの目に映る風景は一変していた。
歓楽街にあったような派手な看板や電飾の類。モダンアートのオブジェや配色のエキセントリックな建物などはもう無く、
今視界の中を流れるのは、石畳の灰色や煉瓦のくすんだ赤色。年季を感じさせる上品な建物の数々だ。
そして、通りから大きな広場へと出たところでなつきはそれに気付いた。
「…………!」
”大聖堂”と地図上に記されている建物で、名前どおりに荘厳で、なつきにとってそこは印象深い場所であった。
思い浮かべるのは4日前。皆が集った教会からホテルへと向かう途中のこと。
あの中で、クリスは唯湖を想い、聞いているだろうと語りかけ、彼女のために彼自身が書いた曲を演奏して贈った。
そして、なつきは彼の真摯な想いを理解し、その一助となろうと彼の背を抱きながら決心をしたのだ。
今からそれを行うこと。来ヶ谷唯湖を救いに行くことに関して、もうなんらわだかまりは無い。
思念だけの存在となり残された想いを伝えてくれた棗恭介のこともあり、それは今やなつき自身の目的ともなっている。
なので、そこに不安や迷いはない。それなのに、あの大聖堂を見るとなつきの心はひどくざわついた。
”クリス……死なないよな? ……ここにいるよな”
あの時の問いに、クリスは確かな答えを返してはくれなかった。
それが、たった一言だけもらえなかったそれが、その空白がなつきの心をひどく不安にさせる。
近づきあい、触れあい、言葉を交わし、想いを交わして彼への理解を深めれば深めるほど、
あの時のあの一言の不在がまるで白いキャンバスに落とした一点の黒のように、浮かび上がり無視できないものへとなってゆく。
背中に彼の体温を感じる。確かに繋がっていると信じることができる。
けど、このまま離れずにずっと一緒でいられるのだろうか。
「(クリスは死なない。……死なせはしない。今も、これからも、ずっと――)」
なつきは首からかけたペンダント――錠と鍵が確かにそこにあることを確かめると、広場を渡り次の通りへと入った。
少しして、風景から街並みも消えなつきを先頭とした一行は山林の中へと入ってゆく。
申し訳程度に整えられた山道を、事故を起こさないようにと丁寧に右へ左へ、道の先を注視しなつきはバイクを進める。
その先に、玲二と彼のバイクの姿はない。後ろを振り返ったとしてもそこにも彼はいない。
彼はすでに歓楽街を抜けたところで別行動をとっている。そして――
「深優ちゃん、がんばってねー!」
――深優もまた今、愕天王から飛び降り、山の中へと姿を消した。
彼も彼女もここからは単独行動だ。
九郎達が北のツインタワーへと向かったように、彼らにもそれぞれ目的地となる別々の突入地点がある。
そして――
「スピードをあげるぞ。クリス!」
――なつきを先頭とする残りの面々が向かうのは、彼女にとっては因縁浅からぬ風華学園。
山道を抜け、再び市街へと出たところで彼女はアクセルを捻り再びスピードをあげた。
クリスの温かさを背に、決着の瞬間へと向けて自分と彼とを加速させてゆく――。
・◆・◆・◆・
赤。白。黄色。青と緑とそれ以外も、無数に無量に存在する華々しい光景。
風に吹かれ揺蕩う花弁の大海。その波の中を七色の波飛沫を巻き上げながら疾走するひとつの鉄騎があった。
モトクロスバイクに跨り、一路、南端の発電所を目指す玲二である。
色彩鮮やかな光景に決してそれだけ以上の気をとられることなく、油断の無い仕事人の姿勢を維持し彼は駆ける。
陽光を背に相貌を影と隠し、まるで場違いな亡霊かの様に、そしてそうだとしても亡霊の様に、彼は行く。
しかし、彼が行く島の南西は、花畑も向かう発電所も、もうすでに禁止エリアと指定されていたはずだ。
なのにどうして彼に嵌められた首輪は爆発せず、その首を跳ね飛ばしてしまわないのか?
その理由は難しくない。答えは彼が殺害した最後の男。そして先日、霊となり再び合間見えたあの往生際の悪い男にある。
棗恭介――彼が持っていた携帯電話。彼から奪ったあれを、玲二が今持っていると、ただそれだけのことであった。
その携帯電話に内臓されていた特殊なアプリ――”禁止エリア進入機能”により、彼は禁止エリアの中を進む。
本来ならば参加者は進行できないはずのルート。
もしかすれば、相手側が事前には想定していなかったかもしれないルートからの奇襲。
それが最後のファントムである玲二に課せられた任務であった。
作戦を立案した九条により玲二に与えられた役割。それはただ彼がファントムとして、最後までそれを徹すること。
誰からの支援も無く、ただ孤独に任務に殉じ、最も危険な場所へと潜り込み、亡霊として標的の命を掠め取る。
彼はそれを望まれ、そして彼自身もそうすることを望んだ。
ファントム・ツヴァイへのミッションは――神崎黎人の暗殺。
玲二は往く。誰からも見えない亡霊の様に。
今はただの一発の弾丸の様に、標的である神崎黎人の心臓をめがけ、それを撃ち抜く為、ただ真っ直ぐと花畑を渡る。
命を刈るように花弁を散らし、亡霊は往く――。
・◆・◆・◆・
ふと、深優は自らの肌着に掛けた手を止めた。
山頂の湖にほど近い、既に訪れる人もない神社。
いや、予定通りに事が進むのならば、もう人の訪れる事のない場所。
既に敵も味方も、誰一人この場を訪れる理由など無い。
(それは、そうなのですが…)
わずかな躊躇の後、下着が半ば見える位置まで持ち上げられた肌着の裾から手を離す。
柔らかな布が肌を撫で、すべらかな腹を、臍を覆い隠し、スカートの上に重なる。
「…………」
理由は、無い。
これから少しの後、深優は湖底まで潜り、そこから主催者たちの本拠地に突入する予定だ。
なのだから、その為に潜水に適した装備を纏わなくてはいけない。
そして、その為のウェットスーツは既にデイパックから出してある。
だから、後はそれに着替えるだけでいい、のだけれど。
「…………」
ふたたび肌着に触れた手は動かず、逆にキュッ、と無意識に裾を握りしめる。
今、この場所に人気は無い。
太陽は眩しく、空は青く、気候は穏やか。
仮に周囲から誰か近づいてきたとしても、身を隠す場所も無い。
ただ、それは逆に言うなら、深優自身の身を隠すものも何も無い、ということ。
「…………」
無表情な深優の頬が、僅かに桃色に染まる。
見るものも無いのだから、気にする理由もない。
むしろ、こうして考えている時間が、逆に危険かもしれない。
篭城を決め込んでいるとはいえ主催側が気紛れを起こさないとも限らないし、あるいは暴発的に動くこともあり得る、のだけれど。
それでも、ほんの少し、ほんの少しだけ、羞恥を。
無防備に裸身をさらす事に、恥ずかしさ、という心を感じた。
そして、傍らに畳んであった服を再び手に取り、それを羽織る。
肌着のまま動く、というのも世間的にははしたない行為なのだから。
「別に、普段から何も無い所で脱ぐような事は、ありません……」
誰に対してでもない言い訳の言葉が、無意識に唇から零れる。
一般的なTPOは備えている。無論、人前で肌を晒す事も無い。
ただ、言い訳をするなら、今この場所には、誰も居ないのだ。
人に見られる恐れが無い場所なのだから、ただ適当に、最短距離の途中にあって、警戒しやすい場所を選んだ、それだけのこと。
その判断自体は、間違いでは無いと思う。
間違いは無い、と思うのだが……。
「…………」
無言で、木々の陰に荷物を降ろす。
本殿に入って着替える事も考えたけれど、建物の中には監視の目が光っている可能性が高いので、やめた。
敵とはいえ、不特定多数の相手に見せたいものでもないのだから。
丁寧に畳みながら服を脱ぎ、デイバックにしまっておいた大きめのバスタオルを、体に巻く。
(そういえば……)
せめて下に着る水着くらいは、ホテルで着てきても良かったのかもしれない。
隠しているとはいえ、屋外で下着まで外すことは、多少恥ずかしい。
「碧……感謝します」
ダイビングスーツを用意した際に、下に着る水着を荷物に加えた杉浦碧の行動に、深優は人知れず謝意を示す。
同時に、余分になる訳でも無いのだけれど、どうしても必要というわけもない荷物まで揃える気にはならなかった過去の自分を恥じる。
機能的にはワンピースタイプの方が適している筈なのに、ビキニタイプを推した理由までは、図れなかったが。
ジ・ジ・ジと固めの音を立てながら、ファスナーを閉じる。
既に着替えは終わり、荷物もこうしてダイビングバッグに収めた。
手元にあるのは足ヒレとシュノーケル、エアは最低限の量しか用意していないけど、問題は無い。
訓練も無しの潜行も、それによる急速な圧力の変化といった人体の構造上の無理が多い行動も、私には何の問題も無い。
外見的には人と何も変わらないけれど、私の身体は人のそれよりも遥かに頑丈に出来ているのだから。
無論人としての機能も一通り揃ってはいるのけれど、それでも人とは明らかに違う。
人を模して作られた、ツクリモノノカラダ
「……っ!」
そのことに、不満を感じた事は無い。
感じる理由など、何一つ無かったのだから。
アリッサ様の為に作られ、その為に機能し続ける事に、不安すら感じた事はなかった。
不安を感じるという機構が、心という機能があることさえ、想像すらしなかったのに。
「アリッサ様……」
思い返すと、胸に痛みを覚える。
これが、心の作用なのだと、なんとなく理解している。
何度か、考えたことがあった。作り物の身体にも、心は宿るのかと。
心は、確かにここにある。
私は、私。
私は、アリッサ様の為に戦う。誰でも無い、私自身の心に従って。
たとえ最初は役割としてあった事でも、それは間違いなく私の望みに他ならない。
そして、もう1つ。
「玲二……」
心が、惹かれている。
適うことなど無いのに、惹かれている。
人間ですら無い、人に作られた私が、人を、感じている。
幼い日の人間が翼を夢想するように、私は人を夢想する。
例え私の身体が普通の人間と同じであったとしても、何も変わらないと理解していても、望んでしまう。
人である事を、アリッサ様と同じ存在になる得る事を。
人として、玲二の傍らに居られる事を。
私は、どれだけの期間、稼動し続けられるのだろう?
普通の人のように老いるのか、アル・アジフのように長い時を生きるのか、それともあと数年もすれば停止してしまうのか。
人と、皆と同じように、人でありたいと、そんな心を、感じる。
これは、私が人では無いからこそ、感じる痛みなのだろうか。
作られた私が、人を想うのは間違いでは無いだろうか。
アリッサ様の為に戦うというこの感情は、人として自然なものなのか。
碧が言ったように、遠くから思い続けるという事では耐えられないと感じるのは、私が人ではないからだろうか。
「わかりません……、私は……」
私自身の心が、判らない。
私自身の事が、まるで判らない。
判らない
判らない
「判らない、ですが……」
人間とは明らかに異なる私の身体。
けれど、だからこそ、今出来る事がある。
皆と、玲二と、……アリッサ様の為に戦うことが出来る。
それは、今ここにある深優・グリーアにしかできない事なのだから。
「そう、だから……」
今は、この身体に感謝しよう。
たとえその先に、さらなる苦しみが待っていたとしても。
・◆・◆・◆・
「おや、反応がひとつ足りないロボ。
これは壊れているのではないかマスター? なんならエルザが叩いて直してやってもいいロボよ?」
ふらりとモニターの前にやって来ては、そんなことを言うエルザ。そんな彼女の言葉にマスターである神崎はくすりと息を漏らした。
彼女は人造人間である。つまりは作られた存在であるわけだが、創造主がどう思ったかはともかくとして
彼女のセンスは中々にユーモアに溢れており、この状況だとそれも存外悪くないものだと神埼はそんなふうに思う。
「それは違うよエルザ。モニターは壊れてはいない」
「じゃあ、エルザの目がおかしくなってしまったロボか?
だったら、至急直してもらわないと……あの、えーと……誰だったかロボか……?」
ふむと、目の前でぐるぐると頭を回し始めたエルザに神崎はひとつ溜息をついた。
自身のボディーガードとして常に帯同させてはいるが、元々が無理をしているせいかその分綻びがよく見えるようになってきている。
「それよりもエルザ。ひとつお茶を持ってきてくれないかな? 緊張すると喉も渇くものでね」
「最優先でそのコマンドを実行するロボ。……マスターは熱々の番茶がよかったロボ?」
紅茶だよ。と、そう言って神埼はエルザを一時下がらせる。
そして、周りが静かになると再びその双眸をモニターの方へと向けなおした。
「吾妻玲二……ファントム・ツヴァイか」
確かに、エルザが指摘したとおりモニターからは参加者の反応がひとつ消えていた。消えているのは吾妻玲二の反応。
もうすでに彼は退場してしまった――という訳ではない。島中に設置された監視カメラには彼の姿は捉えられている。
花畑を疾走する亡霊の姿はそろそろ発電所に到着するだろうと、そんな所にあった。
彼の反応がモニターに出ないのは、彼が”禁止エリア進入機能”を使用しているからだ。
単純な話で、その機能は禁止エリアに引っかからなくするために首輪から電波を発するのを停止させる。
故にモニターにも一時的ではあるが映らなくなるというわけである。
これでこちら側の虚を突けるかというと、そんなことは全く無い。実際に、彼の姿は監視カメラで捕らえられているからだ。
「――とはいえ、基地の中に入ってこられちゃあ困る。わよねぇ?」
「ええ、ですから”アレ”らを手配したわけですが。首尾はいかがでしょうか?」
ゆらりと現れた警備本部長の声に驚くでもなく、神崎は対応が済んでいるのかだけを簡潔に聞き返す。
彼女の言の通り、地下の基地内部にまで侵入されると彼を補足するのは難しくなる。
元々参加者らが行き交うステージであった地上とは違い、地下の基地内には監視カメラなどはほとんど存在しないからだ。
ならば、どうするか? 答えは難しくはない。
「発電所の地下へと”アレ”らを向かわせたわ。
元々こっちには深優ちゃんが来るかと想定してたけど、……まぁ、おあつらえ向きになったという形かしらね」
148 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/10/17(土) 22:32:51 ID:j6cGFOzT
そう。進入口で待ち構えればいいのである。
いかに彼がファントムであろうとも、事実として地下への入り口がそこには一箇所しかない以上、通る場所は決まっているからだ。
ならば、そこに精鋭を送り込み見失ってしまう前に打ち落とす。それが神埼と一番地のとった策であった。
「もっとも、彼もわかってて飛び込んでくるんだろうからそうそう簡単には終わらないでしょうけれどもねぇ……」
どこか気だるげで、しかし隙を見せない表情でそんなことを言うと警備本部長はモニターの中の別の位置へと視線をずらした。
先ほど名前を口に出した、深優・グリーアの反応にである。彼女もまた玲二と同じように単独で行動している。
西側の街を抜けてより山の中へと入り、今は頂上に近い位置にある神社の傍にその反応があった。
無論、監視カメラでも彼女の姿は捉えられており、着替えの一部始終と新しい装備についてももれなく把握できている。
「まぁ、見ればわかるけど……山頂の湖から進入してくるつもりらしいわね。あの子」
「その可能性は低いと検討していましたが、彼女はあのルートをとった」
「湖はこの”本丸”の直上。つまり、進入さえできれば最短のコースとなる……できればの話になるけれども」
「できると判断したのでしょう。僕も可能だと思いますよ。彼女ならば」
山頂に大きくかまえたカルデラ湖。その湖底にはこの基地で使用する水を取り入れる取水口が存在する。
そこを潜れば基地内部への侵入は容易だ。
ただし、浅くはない湖を潜行し、すでに閉じられている取水口の隔壁をクリアする必要がある。
だがしかし、彼女はクリアするのだろう。彼女が人間でないゆえに。
「先程、取水口からのラインを停止しましたが……」
「白衣の連中が顔を真っ赤にしている姿が目に浮かぶわね。
湖からの取り入れている水って、ほとんどはシアーズのプラントで使用する冷却水用でしょう?」
「ええ。彼らのこちら側に対する感情はもう最悪です。全ての実験を停止させてしまいましたからね」
黒曜の君と警備本部長。互いに顔を合わせて笑いあう。
何がおかしいのか、そして笑っている場合なのか、それはわからなかったが、ただこの時は愉快な気持ちに身を任せていた。
・◆・◆・◆・
機械神と戦闘機人たちによる対決は、この『大戦』の始まりに相応しい幕を上げた。
少数対多数。巨対小。正義対悪。構図についてはどうとでも言える、単純にして純粋なる闘争。
魔の力を内包せし青年が空を駆り、天が見定めし才により生み出された巨獣が大地を蹂躙する。
しかしそこには、なにかが足りないと――そう思わないだろうか?
作品のメインテーマにしてメインタイトル。強すぎるがゆえに座を奪われた象徴的存在。
黒幕はワンサイドゲームを嫌う。だから黒幕はそれの参加を良しとはしなかった。では。
最終決戦――クライマックス――世界最後の戦場。現れるか、現れてはいけないのか?
・◆・◆・◆・
――合体ロボは男のロマンである。
数多の科学者、研究者が効率化の風潮と対立し、それでも追い求めることをやめなかった夢の完成形。
言動こそ奇異なれど、才能だけは本物と言えるその男――ドクター・ウェストもそれを追い求めた。
彼がこの数日間で拵えた決戦兵器は、迫る有象無象をことごとく粉砕していく。夢のままに。
「ぶわぁーひゃっひゃっひゃ! ドクタァ――――ッ、ウェェェェェストッッ!!」
金色に輝くその巨体の名は、『ドクター・ウェスト式ドリームクロス合体・G(何の略かはないしょ♪)破壊ロボ・おかわり3杯』。
ツインタワーの守備兵として配置されていた女性型アンドロイドが、数体がかりでこれの驀進を止めるべく攻撃を続けるが、
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァッ! さて、我輩は何回『無駄』と言ったであろうか? 自分でもわからぬっ!」
対物ライフル、熱線砲、ロケット弾等、ドクター・ウェストの発明品を考慮し用意していた武装のほとんどが、G破壊ロボの装甲に弾き返される。
「馬鹿め、この機械に銃は効かない! 誰が製造したかは知らぬが、なかなかのレアメタルだったのであ〜る」
【ドクター・ウェスト名語録《1》――「この機械に銃は効かない」】
博物館に展示されていた油圧ショベルの『けろぴー』はその装甲こそが最大の長所(材質は不明)。
前大戦においても「駄目だっ……! あの機械に銃は効かない!」と諦観の声があがったことで有名。
本日の作戦プランは『G破壊ロボによる一点突破攻撃』――要は『突撃』。
ドクター・ウェストに与えられた役目は、あくまでもツインタワーからの敵基地侵入を補助することにある。
その巨体ゆえ、活躍の場は地上のみに限定されるというのもあり、操縦者のウェストはここぞとばかりに張り切っていた。
「しかし残念である。我が最高傑作が立つせっかくの大舞台、どうせなら相応の鬼械神を相手取りたかったところであるが――」
唯一の不満は、敵と呼べる存在が人間大の戦闘用アンドロイドしかいないということだろうか。
女性型のボディを持つそれは深優・グリーアの同型、そしてその戦闘力は深優の六割八割程度と聞かされている。
「こやつらにあのメタトロンほどの歯ごたえを期待するのも無為というものであろう。ならば!」
G破壊ロボのスペックに相応しい強者との戦いに憧れ、しかし叶わないからといって悲観することはない。
雑魚を蹴散らす破壊の権化というのもまた、それはそれで絵になるからだ。
「これは死闘でもなんでもなく、我輩のIt's Show! 一方的な蹂躙ゲームにほかならないのであぁぁぁるっ!!」
アンドロイドたちが放つ弾雨はG破壊ロボの驀進を止めるには至らず、あっという間にツインタワーの入り口まで差し掛かった。
距離が詰まったことを鑑みて、敵の一体が戦闘モードを近接用に切り替える。
右腕に内蔵していた高周波ブレードを展開、直接G破壊ロボに斬りかかった。
カギン、という珍しい音が鳴り、これも容易く弾かれる。
「ふん! このG破壊ロボがわざわざコクピットを晒すナンセンスな構造をしているとでも思ったか!?
耐熱ガラス一枚に隔てられた操縦席など非科学的であるからして、我輩へのダイレクトアタックは無効ッ!」
と、ドクター・ウェストはG破壊ロボのコクピットからモニター越しに敵アンドロイドを諭す。
そしてもちろん、鉄壁を過信してばかりではいない。
敵がこちらの射程距離に踏み込んできたと見て取るや、右の肩口に置かれていた『けろぴー』のショベルカー・アームが駆動する。
本来ならば土砂や岩石をつかんだだろうそれが、至近距離にあったアンドロイドの体を優しく包み込み、
そして、発光した。
「これがシャイニングフィンガーというものか! わひゃひゃひゃひゃーっ!」
【ドクター・ウェスト名語録《2》――「これがシャイニングフィンガーというものか」】
あの有名な「俺のこの手が光って唸る! お前を倒せと輝き叫ぶ! 必殺!」の掛け声により放たれる一撃。
ドクター・ウェストは溶断破壊マニュピレータと天地乖離す開闢のタービンの輝きによりこれを見事再現してみせた。
溢れんばかりの光は爆音を生み、そしてショベルカー・アームが解放されると同時、中から粉々になったアンドロイドの残骸が零れる。
他のアンドロイドたちは表情こそ変えぬものの、味方の一体がいとも簡単に破壊されたことにより攻勢を緩めた。
こちらの戦力に対する認識を改め、戦法を練り直す――いや、計算しているのだろう。
どうすればG破壊ロボを撃破できるのか、撃破までいかずとも中のドクター・ウェストを戦闘不能に追い込めないものか、
どちらも難しいとするならせめて足止めに徹することはできないだろうか、ひとまず撤退するのも手か――などなど。
天才科学者であるドクター・ウェストには、アンドロイドたちの思考パターンが容易に想像できる。
「ああ、しかし現実は非情なり。我輩とG破壊ロボの絶対的破壊力の前には、下手な小細工も意味を為さないのであった。
では、地上に這い蹲るカトンボがごとき雑兵を蹴散らす作業に戻るのであ〜る。レェェェッツ、プゥゥゥレェェェイッ!!」
その姿はさながら金色に輝く破壊神――G破壊ロボの『G』はゴールドか、はたまたジェネシックか。
正解は未だ、制作者本人にしか知りえない。
・◆・◆・◆・
双頭の楼閣を背景にG破壊ロボが暴れ回っていた頃、九郎とアル・アジフはその隙をつきツインタワー内部へと進入を果たしていた。
幾度となく集合場所にとは考えたものの、北東の果てという僻地に位置したがため、結局は足を踏み入れることがなかった未開の地。
元々は都会の観光スポットかなにかなのか、海や街並みが一望できる展望フロアを始めとし、内部には土産屋や飲食店が多く並ぶ。
広さ、堅牢さ、隠れやすさ、どれを取っても不足なく、バトルロワイアル会場における一施設としては篭城にもってこいと言えた。
ただ、今回は隠れ潜む場所を探し求めに来たわけではない。
このツインタワーの地下に存在する一番地基地の入り口――会場内にいくつかある内の一つを、占拠しに来たのである。
一番地側としても、九郎たちの目論みは読めていたのだろう。
深優にそっくりな戦闘用アンドロイドをガードマンとして外と中に配置し、基地への進入を拒もうとしている。
九郎とアルの二人ならば、あるいは適当にやり過ごして基地への侵入という目的を果たせるかもしれないが、
後々の追撃の可能性、仲間の安全性などを考慮するとなると、潰せるものは潰せる内に潰しておきたい。
ゆえに九郎は『下』ではなく、ひたすらに『上』を目指しながら応戦に励んでいるのだが――。
『どぅわぁーひゃっひゃっひゃ! こちらは万事順調、快進撃であるぞ大十字九郎!
そちらはどうであるか? なにやら息切れの音が聞こえるような、いやいや我輩終生のライバルに限ってまさかまさか。
と、宿敵の苦戦を見て見ぬ振りしてあげる優しさに満ち溢れた我輩、この冬映画化。早くもハリウッドが見えたのである!』
耳元のインカムから聞こえてくる騒音にイラつきを覚えつつも、律儀にこれを返す。
「やかましい! 通信してくんなら必要なことだけ喋りやがれ!」
それは『外』で奮闘しているG破壊ロボの操縦者、ドクター・ウェストからの通信だった。
ツインタワーの中腹辺り、壁一面がガラス張りになっている展望フロアで、九郎とアルは白兵戦に臨んでいる。
窓越しに外を見やれば、金色のドラム缶だかショベルカーだか機関車だかトラックだかよくわからないものが暴れており、
数体の敵アンドロイドを相手に言葉どおりの快進撃を見せているようだった。
ウェストは今頃、G破壊ロボの中でさぞ楽しそうに呵呵大笑しているのだろう。
その姿を思い浮かべれば、込み上げる怒りが沸々と、戦闘意欲へと転化されていく。
「後ろだ、九郎!」
そばを浮くアル・アジフ――が小さくなった姿、通称『ちびアル』形態――から警告が飛んでくる。
九郎はすぐさまその声に反応。振り向き様に手中の刀、『バルザイの偃月刀』を振り上げ、迫る刃を跳ね除けた。
外でウェストが蹴散らしているアンドロイドと同型の敵が五体、現在九郎とフロアを同じくしている。
『マギウス・スタイル』を展開しているとはいえ、九郎は生身。ウェストのように装甲任せ、火力任せとはいかない。
深優よりも若干は劣るか、というレベルを複数相手にし、油断ならない戦いに身を投じなければならなかった。
「侮るなよ九郎! ブラックロッジの雑兵共を相手にするのとはわけが違うのだぞ!」
パートナーからの心強い激が飛んでくる。
敵アンドロイドたちの構成は、内蔵型ブレードアーム装備が三体、それに援護としての機関銃装備が二体。
室内戦を考慮してか、さすがに度の越えた重火器は装備していないようだが、それぞれが侮れない身体能力を見せている。
銃弾は防御陣でほぼ弾き返せる分、接近戦で挑んでくるほうが幾分か厄介とも言えた。
「ああ、たしかにあの覆面共に比べりゃ全然強ぇや。それでもよ……」
五体の内の一体がカーペット敷きの床を駆け、九郎に肉薄してくる。
恐るべき速度での正面突破に目を見張り、しかし慌てず『バルザイの偃月刀』で敵の刃を受け止めた。
「どっかの鬼ねーちゃんに比べりゃ……全然弱ぇ!」
覇気のある声に伴い、九郎は己が腕力でこれを押し返した。
数日前にこの街で相対した『怪人』との一件を思い出せば、これしきのことは恐怖にすらなりえない。
ただでさえ、今は信頼できるパートナーが隣にいるのだ。それだけでもう、大十字九郎の口から弱音など生まれるはずがなかった。
二人なら無敵だ、と九郎は心中でのみ雄叫びをあげる。
耳にしたわけでもなく、傍らのアルは静かに微笑みを浮かべた。
直後、機関銃を構えた二体のアンドロイドが、九郎目掛けて一斉掃射を仕掛けてくる。
九郎は即座、宙に魔法陣を描き<旧き印(エルダーサイン)>を展開。
障壁が銃撃の雨を防ぎ、辺りに無数の弾丸が散らばった。
「へっ、これにしたって単なる鉛弾だ。柚明さんの剣の雨に比べりゃ屁の河童ァ!」
吼えて九郎は、機関銃を持った一体目掛けて『バルザイの偃月刀』を投擲。
ブーメランのごとく飛翔する刃がその身を削ぐかという瞬間、別の一体が腕のブレードを盾にこれを守った。
『バルザイの偃月刀』がまた九郎の手元に戻るまでの間、他三体も時間を無駄にはせず、二体は九郎に斬りかかり、一体は銃撃を再開する。
「チッ、さすがに数が多いと厄介だな、と!」
これに対し、九郎は背中の両翼『マギウス・ウイング』を展開。
鷹の羽ばたきを思わせるほどに雄大なそれは、アルの魔力とページで構成された作り物の翼。
本来は飛行のためのものだが、ここは室内。九郎は翼を羽ばたかせるのではなく、『分解』させる。
途端、『マギウス・ウイング』は硬質化された紙吹雪へと変幻し、展望フロアを埋め尽くさんほどに空間を舞った。
銃弾は逸れ、斬りかかってきたアンドロイドは九郎の姿を見失う。どこへ消えたかといえば、外だった。
「今度はこっちだ、キョロキョロしてんじゃねぇぞ!」
再び顕現させた『マギウス・ウイング』で窓ガラスを突き破り、外へと飛翔していた九郎。
五体のアンドロイドはそれを目視するや否や、攻撃方法を全員、射撃に切り替える。
対物ライフルや熱線砲、果ては内蔵型ミサイルまで持ち出し、宙を舞う九郎に向けて一斉放火。
九郎は蝶のように飛び回りこれを回避。余裕の残る声で傍らのアルに語りかける。
「思ったよりもチームワークいいんだな! ああも連携取られちゃ、各個撃破っていうのも難しいぜ!」
「あの深優の同型ともなればな。思考回路とて、ブラックロッジの戦闘員とは比べものにならんということだ」
敵対するアンドロイドたちは、ただ命令に従順な殺戮マシーンというわけではない。
命令を果たすために必要、不必要なことを見極める知能を持ち、攻撃に移るまでに『思考』というフェイズを経る。
味方の危機に反応したり、九郎の位置取りによって武器を切り替えたのがいい証拠。
彼女たちは常に最善策とはなにかを考え、各自で答えを出し、極めて効率的に戦っている。
ならば、そこにこそつけ入る隙はある――と、九郎とアルは揃って思考する。
「しかし、このままではいたずらに時間を浪費するばかり……やはり九郎、ここは当初の予定通り“切り札”を使うとしよう」
九郎が防御のための魔法陣を展開させる傍ら、アルが不敵に笑みつつそう言った。
九郎もまた、集中力は緩めず微笑みで返す。
「了解ッ! おい、やよい! 聞こえるかっ!?」
インカムのチャンネルを切り替え、今頃は西側のルートで進軍しているだろう高槻やよいに通信を試みる。
『うっうー! 九郎さんですか? なんだかすごい音が聞こえますけど、そっちは大丈夫ですかー?』
「ああ、まったく問題ないよ。それより、そろそろアレを出す! 合図するから、そっちも準備しててくれ!」
『アレですね? わかりましたっ! それじゃ、はりきって準備しちゃいまーすっ!』
この作戦、これから先はグループ間での連携が特に重要になってくる。
九郎とやよいのこの通信も、ツインタワー攻略のための大事な布石。
実るか腐るかは、やはりこの場の主役――大十字九郎の双肩にかかっている。
「さぁ、先駆けるぞ九郎!」
「おうよ!」
九郎は『マギウス・ウイング』を大きく羽ばたかせ、上空へと飛翔する。
敵アンドロイドの攻撃は基本的に、屋内からの射撃のみ。九郎のように空を統べる者はいない。
必然、彼女たちは九郎を狙い撃てる位置取りを求め、上階へと移動するだろう。
最終的な決戦の舞台は、おそらくツインタワー屋上――ヘリポート。
・◆・◆・◆・
「む?」
G破壊ロボのコクピット内で、ドクター・ウェストはモニター越しにその映像を捉えた。
「あれに見えるは大十字九郎……『下』ではなく『上』に向かっているとな? ふぅむなるほど、いよいよ大詰めということであるか」
塔の外壁に沿うように上昇していく九郎とアルを捉え、しかしウェストはなにも言わない。
彼らの狙いはわかっている。もちろん、この上昇が当初の予定通りであるということも。
「ならば我輩は我輩で、天才的にジェノサイドを続けるのみ。と、言ってはみたものの……」
戦いが始まって早々、ウェストのテンションは鎮火に向かっていた。
それというのも、現在G破壊ロボを囲っている敵アンドロイドの数が原因だった。
生半可な銃器では傷くらいしかつけられないと悟ったのか、武装は腕のブレード一本に固定。
直接斬りつけてもダメージは与えられないので、基本は回避に努めるというあからさまな時間稼ぎ戦法。
それらを実行するアンドロイドの数、三体。たったの、三体なのである。
「少ない……あまりにも少ないのである! 質で劣るならせめて数にものを言わせて欲しいところ、これでは張り合いがなさすぎる!」
まさか敵の戦力がこの程度であるはずがなく、たとえそうであったとしても、悲観はすれど楽観はしない。
では他のアンドロイドたちはいったいどうしたのか。答えは簡単、大十字九郎の妨害に回ったのである。
「確かに、この『ドクター・ウェスト式ドリームクロス合体・G(何の略かはないしょ♪)破壊ロボ・おかわり3杯』を
相手にするにはそれ相応の犠牲を伴うこと必定。手持ちの駒を無為に散らすよりは、比較的仕留めやすい大十字九郎を
狙ったほうが理に適っていると言えよう。だがこの場合、強すぎるがゆえに取り残された我輩の心情はしょぼ〜んなのである」
ヨヨヨヨヨ、と薄暗いコクピットの中で感傷に浸るウェスト。
おそらく敵側は、G破壊ロボの進撃を防ぐことは不可能と判断したのだろう。
ならばこれに人員を割くのは無為。G破壊ロボには足止め係だけを残し、残りは全員、本命として大十字九郎を狙う。
どうせG破壊ロボ自体は、巨体すぎるがために基地へ侵入することができないのだ。
中にいるドクター・ウェストを止めることは不可能だとしても、最低限九郎とアルだけは戦闘不能にしておきたい。
――というのが、一番地かシアーズ財団の誰かが考えついた無難かつ面白みのない作戦だろうか。
「屈辱! 雑魚キャラ掃討係など、我輩の行動理念に反するのであ〜る!
こんな雑務をこなすためにG破壊ロボの開発に勤しんできたわけではないと、我輩は声高らかに叫びたい!
奇跡の合体変形を果たしたスーパーロボットが、塔の周りでちまちま経験値稼ぎなど泣けてくるぜおっかさん!」
憤慨するあまり、ウェストは狭いコクピットの中でギターを掻き鳴らした。哀愁のビートである。
そうやってウェスト自らが隙を作ってしまっている間にも、敵アンドロイドたちは攻撃をしてこない。
完全に足止めに徹す構えなのだろう。遊んでいるなら遊んでいるで、ツッコミもなしにひたすら静観。
これは目立ちたがり屋のウェストにとって、ひどく頭にくる行為だった。
「ええい! 見せ場がないなら自分で作る! 最終回でいきなり空気キャラ降格など、寝言もいいところなのであーる!
てっめぇーら全員いますぐ解体してやるからそこ一列並べぇ〜い! と、咆哮する我輩ふと気づく。おんや……?」
G破壊ロボに搭載されたレーダーシステムが、不意にその到来――いや、飛来を察知した。
これより南の方角。空港の辺りより、なにものかが高速で接近してくる。
コンクリートジャングルを一直線に突き進むそれの速度は人間を超越しており、そしてなにより『高い』。
「……ふん。なるへそ、そういう展開であ〜るか」
G破壊ロボの巨体が、ぐるりと南の空を向く。
その先、一直線に飛んでくる『敵機』の姿があった。
――それは、猛禽類=B
――ラプターの愛称を持つ。
――実戦経験はないが、現代最強クラスの戦闘翼。
――鋭角的な機首、小さな操縦席、三角形の翼、二つの垂直尾翼。
――刻まれしは『天海春香』、『765』、『PROJECT iM@S』などの刻印。
――危なっかしくもあるけれど、いつでもポジティブに――少女の想いを重ねた新機軸の設計。
――名称は、『F-22A -THE IDOLMASTER HARUKA-』。
――アンドロイドの少女が操縦しているのだろうピンクカラーの……ステルス戦闘機だった。
「そういえば、アル・アジフが『戦闘機を乗り回す女子高生がいた』とかなんとか言っていたであるな。
あながちコント用のネタと切って捨てるべきではなかったということであるか。しかし、だからどうした!
こちらは天下無敵のG破壊ロボ! たかが戦闘機の一機や二機、即座に粉砕☆玉砕☆大喝采なのであぁぁぁる!」
低空飛行で迫る戦闘機に先ほどのシャイニングフィンガーを叩き込まんと構えるG破壊ロボ。
敵機が機銃やミサイルを放ってこようと、G破壊ロボの装甲の前では無力。落とされる前にこちらが墜とす。
捨て身とも取れるが、これは過信ではない。自身が最高傑作の重装甲を確かに信頼しての、良策なのである。
しかし、
「……?」
どういうわけか、迫る戦闘機はミサイルの一発も撃ち込んでくる気配がない。
射程距離には入っているはずだ。まさかこちらのバリアを警戒しているわけでもないだろう。
ミサイルどころか機銃も発射してこない。そして飛行高度は、徐々に徐々に低くなっていっている。
ほとんど、地上の建物に激突せん勢いで――そこまで見極めて、ウェストはようやく気づいた。
敵の狙いは、突攻であると。
「なんと、カミカゼ・アタックとな!?」
【ドクター・ウェスト名語録《3》――「カミカゼ・アタック」】
のワの「わたし、転ぶのには慣れてますから! 転んでも怪我しないように、体が勝手に反応しちゃうんです!
よっ、ほっ、はっ……おっ……とととと、と…………あ、ああっ、あ…………どんがらがっしゃーん」
並大抵の武器では効果がないと鑑み、敵はG破壊ロボに戦闘機を直接ぶつけてくるという暴挙に出た!
こちらと拮抗するには、確かにそれくらいの大胆さが必要と言えよう。
操縦を務めているのも、おそらくはアンドロイド。玉砕前提の攻撃とて、向こう側にとっては痛手ではない。
「乗っているのが神崎黎人本人だったら、たいした大和魂だと褒めてやるところであるが……ふん。
気に食わん。実に気に食わんのである。機械は機械と。駒は駒にすぎないと。そう言いたいわけであるか……」
例の『言霊で部下を自我なき操り人形に変えた』という言も含め、神崎の本気が窺える戦術ではある。
しかし、いけ好かない。
自我を持つアンドロイドを単なる弾丸としか考えぬその所業、科学者であるウェストにとっては憤慨以外のなにものでもない。
もし、囚われのエルザが単なる駒として見られ、無碍に扱われでもしようものなら――。
「我輩激怒」
短く言い表し、ウェストは手元のコンソールパネルを開き操作し始めた。
怒涛のキータッチで、とあるプログラムを打ち込んでいく。
するとコクピットの天井からレバーが下がり、ウェストはこれに手をかけた。
戦闘機はその間にも高度を落とし続け、G破壊ロボとの距離を詰めている。
「凡人の戦術が、大天才である我輩の戦法を凌駕できると思うなよ」
相対距離はあとほんの数十メートルというところまで詰まり、それでもG破壊ロボは動かない。
これは諦観か。否。
回避を放棄し、防御に徹するために……動かないのだ。
上昇の予兆すら漂わせず、一目散に突っ込んでくる戦闘機。
その機首がついに、G破壊ロボに触れるか否かというタイミングで、
「イェェェェェスッ! オープン・ウェスト!」
ウェストは天井のレバーを思い切り倒し、秘蔵の回避プログラムを起動させた。
【ドクター・ウェスト名語録《4》――「オープン・ウェスト」】
合体ロボが合体するのは道理。合体ロボが分離するのもまた道理。分離からの再合体はロマン。
掛け声とともにレバーを倒すことで緊急分離プログラムを発動。G破壊ロボはバラバラになる。
背中に引っ付いていた改造トラック、ファイアーボンバー号が火を噴きながら天空へと上昇。
肩口に張り付いていた油圧ショベル、けろぴーがパワーアームの長さを調節しながら大地へ。
ボディとして覆いかぶさっていた機関車、トミーが元の形状に戻りつつ弾け跳ぶように離脱。
残されたミニマム破壊ロボはわずかに全長を低くし、頭の位置を通過しようとした敵戦闘機を両腕でキャッチ。
バーナー吹き荒れる戦闘機をそのまま馬力で押さえ込もうとするが、しかし上手くはいかずお手玉してしまう。
その絵はさながらうなぎ取りのようで、破壊ロボの寸胴なデザインも合わせると、ひどくコメディテイストだった。
「よっ、ほっ、はっ! うおおおおおおお、死なばもろとも〜っ!」
【ドクター・ウェスト名語録《5》――「死なばもろとも〜っ」】
とある大陸の伝説。ガソリンで動くマシーンが大型ミサイルをお手玉して相手に投げ返したとか。
男の子なら戦闘機の一つや二つ、爆発する前に受け止めてみせろということなのかもしれない。
ドクター・ウェスト魂の咆哮が響き渡り、破壊ロボの手中で戦闘機が大きく跳ねた。
博物館の展示品に収まるサイズの破壊ロボが、戦闘機をお手玉できるのはどういった理屈か。
それは気合や根性といった埒外のファクターが働いたわけでは、決してない。
すべてを可能にしているのは、破壊ロボの中枢に埋め込まれた動力炉代わりの宝具――『乖離剣・エア』の力なのだ!
『乖離剣・エア』ならば仕様がない。
破壊ロボはここ一番で本来以上のスペックを発揮し、神風突攻を仕掛けてきた戦闘機を、紙飛行機にように空へと投げ飛ばす。
すでに加速を失い、操縦も利かなくなっていたその機体は、すぐにバランスを維持できなくなり市街へと落下する。
結果、爆発。
モニターの奥のほうで爆炎が上がるのを確認し、ウェストは「絶景、絶景」と満悦に浸る。
決死の戦術は破られ、破壊ロボは未だ健在。ウェストは大勝利を収めたのだった。
「いやはやまったくもってご愁傷様神崎くんと言うほかないのであ〜る。さて、ピンチも乗り切ったところで改めて合体を……うぬ?」
と、ウェストはそこで新事実を知る。
戦闘機飛来前に相対していた三体のアンドロイドの反応が、レーダーから消えている。
よもや逃げたのか? とウェストはこれを怪訝に思ったが、真相はどうやら違うらしく、アンドロイドたちの姿は別のところにあった。
ファイアーボンバー、けろぴー、トミーの、真下である。
「なんということでしょう(驚嘆)」
それは分離の際の幸運か不幸か、戦闘機の飛来により勝負を確信していたがための油断か。
空中での分離を果たしたG破壊ロボは、本体以外の三機が地上に着地した際、三体のアンドロイドを一体ずつ下敷きにしてしまったらしい。
改造済みのトラックとショベルカーと機関車である。
いくら頑丈なアンドロイドとはいえ、その重圧に耐えられるはずがなく、ボディはぺしゃんこ。
今は三体が三体とも、一切の機能を停止し、沈黙に伏している。
つまり――敵、残存兵力ゼロ。
ドクター・ウェストの前にはもう、敵の姿はなかった。
「ぬぅおおおおおおおおおおお! G破壊ロボのせっかくの出番がこれで終了とな!?
まだまだ隠しウェポンは残っているのであるぞ! ええい、援軍! さっさと援軍を連れて来い!
我輩にもっとクライマックスを! 我輩とG破壊ロボに見せ場という名の愛をプリィィィィィズ!!」
魂の慟哭が空に響き渡る――その先。
ツインタワーの屋上では、真の主役がいよいよ、切り札を起動させようとしていた。
・◆・◆・◆・
ツインタワー屋上。
広大なヘリポートとなっているその場所には今、多くの戦闘用アンドロイドたちがひしめき合い、大十字九郎とアル・アジフを包囲していた。
戦場を屋外に移したことで重火器も解禁。それぞれが多種多様に武装を果たし、最後の一手を詰めようとしている。
凶刃と凶弾を向けられる、そんな中で大十字九郎は思った。
「……なぁ、アル」
「どうした、九郎」
「少しおかしくねぇか? こいつら、本気で俺たちを殺しにかかってきてるような気がするんだが……」
「確かにな。だが、妾たちを害して困るのは他ならぬ神崎黎人のはず。それでも、四肢をもぐくらいのことはしてくるかもしれぬが」
「殺す気でかからなけりゃ、半殺しも難しいってか。高く買われたもんだぜ。ま、半分も殺されてやるつもりはねーけどよ」
それでこそだ、と傍らのアルから称賛を受け取る。その姿は依然、デフォルメモードだった。
九郎は右手に魔銃『クトゥグア』を持ち、周囲を取り囲むアンドロイドたちに応戦していたのだが、
その数も増してきた現状、一丁の銃で凌ぎきるというのももはや限界だった。
対多数を想定した武器、戦法がないわけではなかったが、それを行使・実行するためには条件がまだ揃い切らない。
「焦るでないぞ九郎。急いては事を仕損じる。この場はもうしばらく――」
「――踏ん張ってみせろ、男の子なら!」
九郎の叫びが号砲となり、銃を装備していたアンドロイドたちが数体、一斉射撃を始める。
『バルザイの偃月刀』で生み出す防御陣と『マギウス・ウイング』で形作った盾を駆使し、全方位からの攻撃に対応。
しかしそれは長く維持できるものではなく、また防御の隙を縫わんと、何体かのアンドロイドはブレードを振り翳し突撃してきた。
攻撃力のみならず、俊敏性も兼ね揃えた敵の近接格闘に『クトゥグア』の射撃を合わせるのも難しい。
目には目を、接近戦には接近戦をと、九郎は武装を拳銃から『バルザイの偃月刀』の方へとシフトさせる。
正面からやって来たアンドロイドの斬撃をまず一閃で薙ぎ払い、続けて後方から迫っていた二体の刃もこれで弾いていく。
味方が射程内にいる限りは、銃撃担当のアンドロイドたちも砲火を抑えるようだ。
それでも攻撃、離脱、即座の銃撃の流れに対応しきるのは至難と言え、九郎の体力は徐々に追い詰められていった。
敵の狙いも、もしかしたらこれなのかもしれない。
物量にものを言わせて攻め切ることも可能だが、あえてそれを行わず、時間をかけてじっくりと疲弊させていく。
もとより、来ヶ谷唯湖と美袋命以外の者が九郎やアルの命を奪ってしまっては、それは神崎にとっての大惨事となるのだ。
貴重な戦力をここで釘付けにし、基地への侵入を阻むというだけでも、作戦の成否としては上々と言えよう。
ならば、殺されることはないと高をくくり正面突破に躍り出るのも手ではある。
が、後々のことを考えれば、ここで傷を負いすぎるわけにはいかない。
手負いの鴨となってしまっては、それこそ敵拠点内で待ち受ける来ヶ谷唯湖に的撃ちされて終わりだ。
このまま消耗戦を続けるわけにはいかない――と、九郎は歯噛みしながら、ひたすらに好機を待った。
それを知らせる役目を担うのは、二人。
殺しても死なないという意味ではまあ信頼できるキ○ガイ科学者と、赤貧の辛さを共感しあったアイドルの女の子。
インカムを通じて齎されるはずの合図は、未だ。それでも九郎は防御と回避と反撃を繰り返し疲れを蓄積させていって、待つ。
(アレの起動さえ上手くいけば――!)
心の中で念じ、また振り翳された残撃を払う。
そのとき、ツインタワー付近の空で、轟音が響き渡った。
「な、なんだぁ!?」
南の方角を見やると、汚らしい花火が煙を焚いている光景が映った。
その瞬間を目撃するには至らなかったが、どうやら地上でなにかが爆散したようだ。
まさかウェストの破壊ロボが、と柄にもない心配をしてしまったことにはすぐさま首を振り、そして気づく。
その瞬間ばかりは、アンドロイドたちも攻勢をやめ九郎と同じ方角を見ていたことに。
やはり彼女たちは、単なるコンピュータではない。それなりの知能を持っているのだ――と。
『――応答せよ、大十字九郎! まことに遺憾であるが、我輩の活躍はこれにて一旦休止なのであーる!
残りはすべてそちらに回っただろうからして、きっちりかっちり始末をつけるのであるぞ!
なに? 妙に優しいじゃないか、とな? か、勘違いしないでよね! 貴様を倒すのは我輩の役目だから――』
ドクター・ウェストからの緊急連絡が入ったが、必要な部分だけを聞いてすぐに通信を切った。
どうやら、階下での戦いは今の爆発を最後に決着したらしい。
残りの敵勢は九郎を取り囲む屋上のアンドロイド十数体と、ウェストの対応を諦め今まさに屋上へと向かっているだろう数体。
ならば後は、起動キーを持つ彼女に確認を取るだけだ。
「やよい! こっちの準備は整った、そっちはどうだ!?」
『うっうー! こっちも準備オッケーですっ。いつでも動かせますよ!』
インカムの向こうから、元気のいい返事が返ってくる。
九郎は一瞬、傍らのアルと視線を交し合い、揃って頷く。
これで、すべてが整った――。
「さぁ、こっからがクライマックスだ! 『アトラック=ナチャ』!!」
唱えた途端、九郎の髪が緑色に発光し、紐状になって屋上全域へと行き渡った。
紐――いや『糸』は辺りに散らばっていたアンドロイドたちの体に絡みつき、その身を拘束。
これこそが前述の対多数用戦法。捕縛結界魔法『アトラック=ナチャ』である。
「いよいよだ……詰めるぞ、九郎ッ!」
「応ッ! 『マギウス・ウイング』、展開ッ!!」
九郎を取り囲んでいたアンドロイドたちの身動きを封じ、さらに九郎は両翼を広げた。
そのまま真上に上昇。銃弾も届かないほどの高さまで飛翔し、停止。滞空しながら眼下を見る。
飛行手段を持たない戦闘アンドロイドたちは、飾り気のない表情で九郎とアルを見上げていた。
窺っているのだろう。
九郎がどんな手で打ってくるか。
撤退という可能性もあるいは踏まえているか。
否、大十字九郎は逃げも隠れもしない。
今この場で、アンドロイドたちは殲滅する。
そして、ツインタワーの地下から一番地に殴り込みをかけるのだ。
「目ん玉ひん剥いてよぉーく見やがれ! 大十字九郎とアル・アジフ、一世一代の大舞台だ!」
作戦に変更はない。必ず成功させる。
だからこそ、九郎はアンドロイドたちの注目をさらい――勝負を決すための祝詞を読み上げ始めた。
「――憎悪の空より来たりて!」
九郎を中心として描かれる、巨大な光線の魔法陣。
大空が轟き、軽い爆発が巻き起こった。
「正しき怒りを胸に――」
アンドロイドたちは皆、それを見上げることしかできない。
なにが起こるかは、データとして刻み付けられているのだろう。
「――我等は魔を断つ剣を執る」
ゆえに想像し、ゆえに警戒はする。が、おそらく対応策は持たない。
誰も想定の枠には入れていなかったから――それが召喚されるなど。
「汝、無垢なる刃――デモンベイン!」
鋼鉄を鎧い刃金を纏う神。
人が造りし神。
鬼械の神。
汝の名は、
I'm innocent rage.
I'm innocent hatred.
I'm innocent sword.
I'm DEMONBANE.
デモンベイン。
それは、魔を断つ者の名――。
・◆・◆・◆・
同時刻――。
星詠みの舞の舞台となった島の山頂、D-4のエリアより轟音が響き渡った。
あるシステムが発動されたがために、山の中枢部が大きく切り開かれ、その中身を露出させていく。
内部は無数の配線や鉄板、その他機械的な設備が多数見え隠れし、山内に生息する小動物たちを驚かせる。
召喚者の言霊を、鍵の所有者の意思を受けて、秘匿され続けていた機械が今、表舞台に現れた。
無骨で巨大な口。北東を一点に見据える黒い瞳。極めて機械的に動作する回路。
エネルギーは瞬く間に満ちていき、照準はとうに固定され、そして、起動する。
その名は――。
・◆・◆・◆・
――十秒、二十秒と待っても、変化は訪れなかった。
大十字九郎を中心として展開されていた魔法陣は既に消え失せ、今はなんの輝きもない。
なのに九郎は表情に微笑を浮かべ、パートナーのアル・アジフは傲岸に腕組みをして宙に佇んでいる。
ツインタワーの屋上からその様子を見上げるMYU型アンドロイド、十数体。
大十字九郎とアル・アジフの撃破、あるいは基地内潜入阻止を言い渡されたはずの彼女らは、ただただ待つ。
このままなにも起きず、九郎たちが下りて来ないというのであればそれでもよい。
彼らが戦線に加わらなければ、別ルートから攻め込んでくるだろう者たちの相手がそれだけ容易になる。
しかし、彼女たちとしては九郎が『デモンベイン』の名を告げたことだけが疑問だった。
詳細な資料を得ていたわけではないが、その存在はこれまでの九郎やアルの言動、エルザの情報から推察することができる。
彼らが元居た世界、アーカムシティという場所で猛威を振るっていた巨大人型兵器。
正しくは鬼械神(デウス・マキナ)という名称らしいそれは、此度の儀式には関わっていないはずである。
支給品や博物館の展示物、ましてやカジノの景品の中にも、その影は存在していなかった。
では、彼らはなにゆえデモンベインの名を呼んだりなどしたのだろうか?
考える――考え続ける――九郎にとっては唯一の懸念と言えたこのタイムラグを、『退避』ではなく『警戒』に使う。
それが、彼女たちの敗因。
精巧な機械人形であるがゆえの、失態。
九郎の策、というほどでもない『ハッタリ』にまんまと騙されてしまった、
「かかったな、アホが!」
どうしようもないミスが――南西からの号砲、という形で彼女たちを襲う。
島の山頂に隠されていた決戦のための秘密兵器。
原子力艦すら沈める超巨大大砲『青春砲』の直撃を受けて。
アンドロイドたちは、双頭の塔もろとも爆発し、地上に叩きつけられる。
――九郎の眼下、『青春砲』の砲撃を受け、ツインタワーは倒壊した。
・◆・◆・◆・
「………………あぁ」
遥か視線の先。透き通るような青い空を後ろにもうもうと灰色の煙をあげて崩れ落ちる双子のビル。
それを見て、高槻やよいは青春砲の発射ボタンを握り締めながらかすれるような息を吐き、ただ呆然としていた。
なにも予定外のことが起こったわけではない。
やよいはちゃんと決められた通りにした。ただ、その結果が彼女が思っていたよりも少し派手だったというだけのことだ。
青春砲から放たれた砲弾は狙い通りに九郎らが敵を引きつけたビルに命中し、それを木っ端微塵に爆散せしめた。
次いで起こった衝撃波が隣のビルを撓ませ、中ほどから折れたそれは倒壊を始め、今もそれを続けている。
「……――よい。……おい、しゃきっと、しゃきっとしろやよい!」
「ひあっ!」
相方であるプッチャンの声に点になっていた目はぱちりと戻り、やよいははっと我に返った。
なにはともかく、とりあえずは発射スイッチをしまい、じっとりと浮かんでいた手の汗をぬぐってプッチャンへと話しかける。
「あ、あの! すっごく驚いたんですけど、それよりも九郎さんとアルさんは大丈夫なんでしょうかっ!?」
「………………」
やよいの右手の先に嵌っているプッチャンがやれやれという風に首を振る。
パペットなので表情は変わらないのだが、呆れているのだろうということはやよいにも十分伝わってきた。
「無事もなにも直接聞けばいーじゃねぇか」
「あ、あぁ……! そうでした。……あの、もしもし。九郎さん聞こえていますか?」
やよいははっとして口元のマイクへと呼びかけの声を送る。
先程、九郎がやよいとの連絡を取る為に装着していたように、彼女もまたその頭に通信用のインカムを装着していた。
今回の決戦に臨むにあたり、例によって例のごとく良識的な科学者である九条さんが用意してくれたものである。
これがあれば例え離れ離れになることがあろうとも問題なく連携がとれる――というと実はそこまで都合はよくない。
元々インカムを用意したのは言霊への対策であり、通信はおまけ。実際、ここからだと遠くて玲二とは連絡がとれなかったりする。
そもそもとして島内の電波施設は主宰の管理下にある以上、
使用できる方法は中継を介さない単純な電波の交換だけで、有効な範囲や状況というのは極端に限られてしまう。
『……――か? ――やよい聞こえるか?』
「あ、はい! やよいです! ご無事ですか九郎さん?」
そうしてようやく九郎との通信が回復する。
爆発で生じた何かか、または大量の粉塵のせいか、このようにこの通信はとても脆弱なものであった。
『タイミングはどんぴしゃだったぜやよい! 俺たちは予定通りこのまま地下に潜るんでみんなにもよろしく伝えてくれ』
「あ、はい。えーと……あの、ご、ごぶ……、御武運をお祈りします。がんばってくださいね」
『やよいこそな。じゃあ、また後で会おう』
プッと、小さなノイズとともに通信は再び切れた。
インカムに当てていた手を下ろし、やよいは安堵の溜息をつき、そして後ろを振り返る。
彼女と、そして仲間達は風華学園・水晶宮の前に到達していた。
・◆・◆・◆・
「それじゃあ、九郎くんとアルちゃんも無事に突入を開始したことだし僕達も突入を開始しようか」
やよいと九郎との通信が終わったのを見計らって那岐がその場にいる全員へと声をかけた。
那岐を先頭に、やよい、ファル、美希、クリス、なつき、桂、柚明、碧、トーニャ、九条。そして……プッチャンとダンセイニ。
道中には特別トラブルもなく、全員が出立した時のまま無事ここまでたどり着いている。
「玲二くんはもう突入を開始してるかな。深優ちゃんは、もうそろそろと……3、……2、……1、……はい」
那岐が時計を目に3つ数えた次の瞬間。
空気が振るえ大轟音が響き渡り、次いで、那岐達の足元にかすかな地響きが伝わってきた。
「さすが深優ちゃん。時間に正確だ」
それじゃあ僕達も突入。と、那岐は踵を返し水晶宮の入り口へと歩を進め始める。
他の面々も、爆音の響いた山の方を何度か窺いつつもそれに続き、そしてほどなくして全員が地下へと降り――
――地上。つまりはバトルロワイアルの舞台より全ての参加者。存在がその姿を消し、第二幕の戦いが遂に開始された。
・◆・◆・◆・
陽が明けてより、参加者達の動きへと対応し続け忙しなくもしかしまだ静かだった主催本拠地の司令室であったが、
現在はレッドアラームが鳴り響き、怒号が飛び交いオペレーターや戦闘員らが室内を鼠のように慌しく右往左往していた。
「……………………」
身を包む喧騒の中。
一番地の頭領たる神崎はその波に浚われることなく静かに、しかし苦虫を噛み潰したような表情でモニターを見据えている。
現在、モニターの上に表示されている基地内各所のカメラからの映像。
その中に映っているのはただただ、水、水、水、水、水。
大量の水が、おびただしい濁流が、この一番地本拠地の中を流れ、その勢いはこのまま全てを沈めてしまわんばかりであった。
「――こんな無茶をしてくるとはね。さすがに侮っていたかもしれないわ」
ファイルを脇に抱え早足で戻ってきた警備本部長に気付き、神埼はそちらへと目を向ける。
常ならば気だるげで余裕のある表情を浮かべている彼女であったが、現在の事態にあたってはその表情もさすがに曇っていた。
「湖底の取水口から侵入するという読みは間違ってなかったけど……まさか、湖底に爆弾で大穴を空けるとはね」
そう。現在、この司令室がかつてない慌しさで対応に追われているのは湖底より進入を試みた深優の大胆な手法にあった。
彼らからすれば何を使用したかは不明であるが、彼女は取水口付近でなんらかの爆発物を使用し、湖底に大穴を空けたのである。
普通に進入すれば待ち伏せに合うと判っていたからなのか、それとも一番地に甚大な被害を与えるためにか、
もしくは両方かも知れないしそれは定かではないが、結果として今現在、湖のちょうど真下に位置する一番地本拠地は
流れ落ちてくるおびただしい量の水に浸水され、決戦の開始早々、司令室は大混乱へと陥っていた。
「それで、被害と復旧の予定についてはどうでしょうか?」
「……そうね、流れ込んできた水に関しては順次排水しているわ。今の勢いが治まればなんとかなるかしらねぇ。
ただ、完全に水没した最下層についてはもう使えないものと考えたほうがよさそうよ。少なくとも今日中というのは無理」
「最下層……地下幽閉所に、自家発電プラントでしたか」
「地上発電所からのラインは通じているし、あくまで控えがなくなっただけだから今は問題とするとこじゃないけど」
ふむ。と、神崎は僅かに首をひねった。それを見て、この報告に何が問題があるのか警備本部長も怪訝な顔をする。
「これは……シアーズにとっては少なからず打撃になりますね」
「……あ。そうね。基地自体は離れてはいるけれど、シアーズ基地の電源はここの自家発電がメインだったしねぇ」
「まぁ、向こうは向こうで最低限の自家発電設備は備えていますから問題ないでしょうが……、それで他の被害はどうですか?」
「えぇと、深優ちゃんを待ち構えようとしていたうちの警備兵達が鉄砲水でいくらか流されちゃったわねぇ。
戦闘不能となるほどの傷を負った者はいないけど、装備の交換なりなんなりで現状、人間の警備兵に関しては実働六割というところ。
アンドロイド達に関しては問題はないわ。即座に進入してきた深優ちゃんを迎撃するよう命令を出している」
「ふむ。それで肝心の深優・グリーアはどのように動いているのでしょうか」
「そうそう、それよね一番重要なのは。えーとね、彼女。ここへではなく、シアーズ基地の方へと向かっているわよ」
そこで、神崎はなるほどと頷いた。その様を見て、今まで気付いてなかった本部警備長も同じことに気付く。
「ああそうか、彼女は元からアリッサちゃん狙いなのね。
てっきりこっちとの決着を優先するかと思ってたけど、向こうもこの三つ巴の関係を一気に終わらせたいわけなんだ」
「そのようですね。だとするならば我々としてはありがたい。
シアーズに関してはとりあえず彼女に任せましょう。迎撃に当たらせた兵も引かせてください。基地の復旧を優先します」
「了解したわ。それで、他はどうしようかしら? 那岐くん達ももう地下に入ってきてるわよ」
「他は依然予定通りですし変わりはありません。あちらの指揮は幕僚長殿に一任していますし、現状維持ですね」
加えて細々とした指示や提案をやりとりし合い、本部警備長は再び小走りで神崎の前より離れてゆく。
それを見送り、神崎はデスクの上から紅茶を取ると、一息ついてまたモニターへと視線を戻した。
「決戦の幕開けとしては中々上出来な演出だな」
ひとりごち。そして神崎はいつもとは違う鋭利な笑みをその端整な顔に浮かべた。
・◆・◆・◆・
「ふっふっふっふっ……」
全ての終焉が演じられる舞台に続く通路。
その通路の中にも、浸水の結果によりいたる所に水溜りが出来ていた。
そして、通路の端にある大きな水溜りの中で不気味な笑い声をあげる少女がひとり。
「水も滴るいい女……って事か……」
ムクリと起き上がる少女、来ヶ谷唯湖。
彼女の身体。そして衣服と髪は水でビショビショに濡れていた。
濡れた服が身体に纏わりつくのに不快な表情を浮かべ、そしてまた彼女は不気味に笑い出し――
「………………ってふざけるなぁ! くそっ! ああ、冷たい!」
言って、バシンと水溜りを殴りつけた。
水しぶきがあがり、またそれが彼女の身体を濡らす。
これに関しては自業自得だが、そんなことにはおかまいないしにと彼女は怒りを露にし、勢いよく立ち上がった。
「ええい! 鬱陶しい! 全く……頑張っては欲しいが、私までびしょ濡れにするなっ!」
まるで動物がそうするように髪を振って纏った水気を吹き飛ばす。
神崎達を打倒しようとしてる彼らの頑張りは評価したいと彼女は思う。
それは自身の望みと相容れないものではないし、なによりクリスが無事生還することを何より強く願っているのだから。
だがしかし、まさかこんな仕打ちを受けるとは――と、唯湖は真っ赤な顔を振るわせる。
「……ったく、流石にこれはいくらおねーさんが水も滴るいい女だとしても、水を差されて気分が悪いぞ」
一体何が起きたのか。
あまり考える必要もない。大体大方の予想はつく。そしてそれが神崎達に対して大きな打撃になっているだろうことも。
ただ、このちょっとしたアクシデントがクリスとの決着に文字通り水を差すように思えて怒っちゃったというだけである。
クリスと自分への決着をつける舞台は無事なのだろうか?
胸元に忍ばせていた写真が無事であったことを確認すると、唯湖は終焉の地へと向かいまたゆっくりと歩き始めた。
「……来ヶ谷唯湖」
唯湖が歩き去るその背後。
シアーズ本拠地へと続く通路からその背中を見つめる影がひとつあった。
彼女を水濡れにした張本人、深優・グリーアである。
深優は唯湖を見つめ思う。
彼女は端的に見ればこちら側の敵であり、単なる障害のひとつでしかない。
しかも、唯湖は此方に気付いていない。今ならば難なく殺せるに違いないだろう。
「ですが、それは私の役目ではありません」
だが、深優はその選択を選び取りはしない。
深優自身が、深優の心がその選択を否定した。
来ヶ谷唯湖はクリス・ヴェルティンが決着をつけるべき相手。
それは自分が犯していい領域ではないのだ。
何より、そんな終わらせ方は深優の心が絶対に許さない。
心を知ったからこそ。
感情を知ったからこそ。
来ヶ谷唯湖は自分が相手をすべきものではないと、そう力強く言えるのだった。
やがて唯湖が見えなくなっていく。
その姿が通路の角に消え完全に見えなくなった時、深優は一息つきながら、
「ご武運を。
……いや、この言葉は相応しくありませんね。貴方にとって最も好い結末を選び取る事を願っています――クリス・ヴェルティン」
そう、クリスに向かって呟いた。
何故か、深優の心が、他者を思いやるという心が。
自然にそう深優に呟かせたのだった。
「さて……ええと……どうしましょう」
唯湖を見送った後、深優は急に顔を赤く染める。
もう必要ないダイビングスーツを脱ごうと思ったのだが……やっぱり恥ずかしい。
しかも、此処は敵方の本拠地だ。
見られているかもしれない。
そんな感情が深優を戸惑わせる。
しかし、こんな所で迷ってる暇は無い。
今すぐにでも敵兵がここに殺到するかも知れないのだ。となれば脱いでいる時間もなくなってしまうだろう。
思考に思考を重ね、苦渋の決断をする。
「……仕方ありませんね」
深優はそっと物陰に隠れ着替え始める。
カメラの死角になっている事を願いながら。
「うう…………」
顔は真っ赤に。
そして、行動は迅速に。
深優は瞬く間に着替えを終了させた。
纏うのはいつもの風華の制服。
「…………うう、もう……気にしないことにしましょう」
恥ずかしがりながらそう呟く。
どう見ても未だに見られていたかもしれない事に気にしているようだった。
しかし、深優はそう口にする事でそれを終わりにする。
「さて……行きましょうか。私が決着すべき相手は……別にいます」
真っ直ぐ見つめるのはシアーズ本拠地に繋がる通路。
その先に深優が目標とすべき相手が存在している。
それは深優が倒さなければいけない存在。
深優しか倒せない存在。
未来を繋げる為に深優が決着をつけなければいけない存在。
その存在に向かって。
深優・グリーアは静かに歩き始めたのだった。
・◆・◆・◆・
コツコツという、硬く無機質な音が広くそして底知れず深い空間の中に十重二十重にと木霊している。
誘うかのように開かれていた水晶宮より地下へと入り、那岐を先頭とする11人と2体はただ黙々と螺旋階段を下りていた。
ぐるりぐるりと壁に沿い大きく円を描く螺旋階段。
気を抜けば行き先を見失いそうな、そんな錯覚すら覚える長い螺旋階段を彼らはただただ深く深く下りてゆく。
「あぁ……全然こんなこと考えてなかったけど、ここってけっこう寒いねー……」
長く、それこそ半時間ほどを使ってよやく階段を降りきり、ひと心地ついたところで桂が肩を抱きながらそんなことを言った。
地下だからなのかそれとも霊的な気配のせいなのか、息が白くなるほどではないが地底はずいぶんと気温が低い。
彼女だけでなく他の面々ももう少し厚着をしてくればよかったと、そんな風な表情を浮かべていた。
「こっちの方に来たのははじめてだけど、確かに随分と冷えるね。
まぁ、居住区なり本拠地なりに入ったら空調も効いているしそれまで我慢我慢。それにしても――」
と、那岐は先へと向かう通路の方を見て尖らせるように目を細めた。
ここまでも、そしてしばらく先まで人の気配は感じられない。
しかし気配はなくとも、僅かな雰囲気のようなものが感じられていた。不穏で禍々しく、しかし朧で掴みようのない予感のようなものを。
「どうしたの那岐くん? 珍しく顔が怖いよー。虎穴に入らずんば、虎子を得ずって言うじゃない。
危険は承知。だからこそリラックスしていく。……じゃないかな?」
「虎穴……ならいいんだけれどもねぇ」
軽く息を吐くと那岐は表情を再び柔和なものへと戻し、ゆっくりとした歩調で通路の先へと向かい始める。
それを追うように小休憩していた他の面々も歩き始めた。
再び響き渡る足音達の即興曲。冷たく硬い音は緊張を強い、そして那岐は一番地の本拠地へと向かう通路の入り口の前に立ち、
「まるで、虎口に飛び込む気分だよ――」
ぽつりと呟いてそこを潜り抜けた。
・◆・◆・◆・
無機質な壁で覆われたまっすぐな通路をただただ進み、変わらない風景にそろそろ飽きがきた頃、一行はその場所へと辿りついた。
「……ラスダンというわりには、どうして中々それっぽくはならないものですねぇ」
大きく広い空間を端から端へと見渡してトーニャがそんなことを口にする。
他の面々にしても感想は似たり寄ったりだ。そこはただ一言で表すなら倉庫――と、それだけで済むような場所であった。
「しかたがないじゃない。儀式の参加者と主催側が戦うなんて元々想定してたわけじゃないしね。
この基地にしたって一ヶ月そこらで作った急造のものだし、それにまぁ、ここらは端っこだしね。言ってる間にらしくなるよ。多分」
言って、那岐は部屋の端に積み上げられたコンテナを避け、開けた中央へと歩いてゆく。
床はコンクリートの打ちっぱなしで、区切りというと直に引かれた白線のみ。そして壁にはむき出しの鉄筋が見えている。
反逆者達を迎え入れるエントランス――と言うには、確かに雰囲気に欠ける空間であった。
「まるでマフィア同士が取り引きをする現場みたいだな。おい那岐。気付いているのか?」
エレメントの銃を両手に構えたなつきが厳しい表情で前へと出てくる。
そしてその脇には彼女のチャイルドである鋼鉄の猟犬デュランが付き従い、鼻をならしグルゥと唸り声をあげていた。
「あの、それってつまり……そろそろバトりの時間ってことでしょうか? なつきさん」
アサルトライフルを抱えた美希が、気乗りはしないといった風に尋ねる。なつきの代わりに答えたのは那岐だった。
「これだけ匂えば、ね。待ち伏せられているよ。みんなお互いのパートナー、そして僕から離れないようにしてね」
言われて、皆がそれぞれ得物を手に動き始める。
悠々とした那岐の両脇には、これも慣れたといった風の余裕と適度な緊張が窺えるトーニャと九条。
その後ろには刀を抜いた桂と蝶を纏わせる柚明とが寄り添いあい、
守られるような形で、プッチャンをはめたやよいにダンセイニ。そして同じライフルを構えた美希とファルが並んでいる。
一番後ろにはデュランと愕天王。その2体のチャイルドの主であるなつきと碧。そしてクリスとが立っていた。
皆が皆。離れないように寄り添い合い、引率者である那岐の背を追いゆっくりと前へと進んでゆく。
そして、彼らがちょうどその空間の中央に到達した時。主賓による挨拶――神崎黎人よりの放送が唐突に流れ始めた。
・◆・◆・◆・
『ようこそ。星詠みの舞のその主役たるHiMEの皆さん。
一部の者はすでに別所から進入を果たしているようですが、ここで主催を代表して僕から歓迎の言葉を送りましょう。
あらためて、ようこそHiMEのみんな。
このような事態に発展するとは全く持って予想外だったわけですが、これも君達の実力なのだろうと評価することにしました。
君達を迎え撃つに当たって勿論こちら側も全力を尽くす。
ここまで来たんだ、敗北した方にはこの先もない以上、お互いに悔いの残らない戦いができればと僕は思う。
卑怯も何もなくたとえ人道に背く方法を使ってでも僕は君達に勝つと、そう宣言させてもらうよ。ようく覚悟するといい。
さて、ひとつだけ約束を守ろう。
来ヶ谷唯湖。彼女は今、ただ独りだけで待ち人――つまりはクリス・ヴェルティンが訪れるのを待っている。
この放送が終わればひとつの扉が開く。それが彼女のいる場所への通路だ。
一人でとは強要しない。助けが必要ならば適当な人数でそこから進むといいだろう。
そして、君達がその扉を潜り終えるともうひとつの扉が開く。僕が待ち構えている一番地本拠地への通路がね。
残った者。決着をつけたいと思う者はこちらへと来るといい。
僕からは以上だ。
例の定時放送は決着がつくまでは続けられる。次は12時。後、4時間足らずといったところだね。
それまで僕は玉座にて、君達全員の死亡報告を読み上げられることを楽しみに待っているとしよう。
では、せいぜい最後に足掻いてくれたまえ。僕の舞-HiMEたちよ――……』
「おうおう言ってくれるじゃねぇか、神崎って野郎はよ。全く鼻持ちならねぇやつだ」
「うっうー! 私達は絶対に負けません。多分!」
「言いたいことはわかるけれどやよいは少し言葉遣いがおかしいわね」
神崎による宣戦布告。明確なそれを受け取り息巻くパペットとその主に一行の中でもとりわけシニカルなファルは溜息を吐く。
現実の話としては自分達は非戦闘員扱いであり、口を悪く言えば足手まといなのだ。控え目である方が好ましいのである。
意気込みは買いたいところだが、ない袖は触れないというのもまた事実だ。
さてと持ちなれない重いライフルを抱えなおし、そして同じく非戦闘員であったはずの彼の方を彼女は見やる。
「――じゃあ、唯湖のところに行ってくるよ」
クリス・ヴェルティン。つい先日まで同じ音楽学校に通っていた音楽の才能を除けばどこにでもいるような普通の青年。
荒事なんかには縁のなかったはずの彼が今は自分とは逆の側にいて、そして騎士を気取っている。
手に持っているのも引き金さえ引けば誰でも撃てる銃ではなく、鋭利な刃のついたブーメランだ。しかも魔法の、である。
「ママ。後でまた合流するからそれまでは無事でいてね」
「あなたこそね。何が起こるかわからないから決して油断をしないように」
「なぁに、この正義の美少女戦士が引率につくからには心配御無用。大船に乗った気でいんしゃーい」
これも数奇な運命というやつだ。と、今はそうしておくことにしてファルはこの倉庫から出てゆく彼らを見送る。
唯湖を助けに行きたいクリス。そして彼とは一時たりとも離れたくないというなつき。加えて、彼らのガードを務める碧。
その3人と2体のチャイルドがこちらから離れ、これからは別行動となる。
本来ならば全員がまとまって行動する方がいいのだとは誰もが解っている。
来ヶ谷唯湖にしても本当に優先すべき対象なのか、そこに疑問がないわけでもない。
だがしかし、クリスに対しそれを控えろと言う者はいなかった。現実主義者のトーニャや玲二にしてもである。
神崎が約束を守ったなどとわざわざ言ったのも分断を狙った策だとは誰もが気付いていたし、そう来るであろうとも予想していた。
しかしそれでも行き去るクリスの後ろ髪を引くような者はいない。
それが彼の願いだから。棗恭介に願いを託されたから。人道に則れば当然のことだから。理由は色々と思いつく。
だが、しかし――
「クリスくーん。がんばってねー! 後でまた、唯湖さんと一緒にねー!」
「わざわざ出番待ちをしたりはしませんよ碧。正義の味方を自称するなら山場までには戻ってきてくださいな」
「なつきさん。美希はいつでもなつきさんの味方っすから! あ、いや。冗談でなくー」
――そういうものなのだろう。そんな連中なのだ。と、気持ちのいいことだとファルは可笑しそうに微笑んだ。
・◆・◆・◆・
長く長く行き先の見えない大きな通路の入り口をクリス達が潜り抜け鉄扉が閉じた時、すぐさまにそれは始まった。
予測はしていた。皆、体勢は整えていたし覚悟もしていたはずだった……が、それは予想以上のものであった。
弾雨。
徹底的な弾雨。弾丸と轟音、火花とが散る雷雨とも形容すべき苛烈な攻撃が彼らを襲った。
どこにこれだけ隠れていたのかと驚くほどの数の戦闘員がコンテナや柱の影。または天井付近を渡る通路から姿を現し銃弾を放つ。
一切の躊躇もなく、一切れほどの容赦もなく、殺す為に殺すのだと、そう言わんばかりにただただ、ただただ銃弾を浴びせかけた。
銃口から弾丸が飛び出す音。空薬莢が硬い床の上で跳ねる音。行く先を逸れた弾丸がコンテナにぶつかり立てる甲高い音。
連弾。連弾。連弾。の、様々な銃火器による何重奏とも数え切れない激しさ極まる即興狂死曲。
音が圧力を持ち、その乱暴な曲が乾いた空間の中を文字通りに埋め尽くした。
銃口が火を噴いていたのは十数秒で、倉庫の中に反響していたその音が鳴り止むのにもう数秒。
そして、室内に充満した硝煙が薄らぎ視界が晴れてくるまでにさらに十数秒ほど。
反逆者達を待ち構えていた戦闘員達およそ50名。彼らがそこに見たものは――
「まったく驚かされたね。本当に……」
――なんら傷ひとつ負うことなく、ただ少しばかり苛立った表情で兵士達を見上げる那岐の姿だった。
「手加減はできないからね。悪く思わないでよっ――と」
那岐が手を振り上げると熱気の篭っていた空気が唸りを上げ、間をおかずして竜巻と化した。
立ち並んだコンテナは弾丸を避ける盾にはなっても吹き荒れる風に対しては役に立たず、幾人かがあっけなく吹き飛ばされる。
天井近くの位置にいたものは床の上までの十数メートルをなすすべなく落下し、ぴくりとも動かなくなる。
「初っ端から疲れるなぁ。やれやれ」
敵の体制が崩れたと見ると那岐は踵を返し、無駄な力は使うまいとコンテナの影へと駆け込んでゆく。
大きく息を吐き、疲労を態度として表す。心構えはあったが、予想以上の攻撃にそれを凌いだ彼の消耗は少なくはなかった。
そして、そうやって仲間を窮地から救った彼にぶつけられたのは、その仲間達からの追求の声だった。
「――これは一体どういうことなんですか? 説明を、場合によっては謝罪と賠償も要求させてもらいます!」
先程の敵側からの猛攻撃。それに仲間達は那岐自身も含めて大きく驚いていた。
なぜならば、根本的なルールとして”参加者以外の人間では参加者を殺してはいけない”ということになっているはずだったからだ。
「どういうことなんでしょう? もしかして、私達に心の余裕を持たせる為に嘘をついていてくれていたのだったとか?」
「うっうー! あの、すごく、すごく怖いです! あぁ……どうしよぅ……?」
那岐は厳しい表情を浮かべて口を閉ざす。
その間にも仲間達からの追求や疑問の声は途絶えない。
どうするべきか。逡巡し、しかし言わねばならぬことだろうと那岐はそれをはっきりと口に出した。
「どうやら、僕の元ご主人様がそのルールを破る方法を見つけ出した……いや、実行することに成功したみたいだ」
「それってつまり、あの戦闘員さんたちは美希らを……?」
殺すことができる。と、那岐は答える。
これは、あまりにも想定外の事態であった。
どれだけ数と物量の利が向こうにあろうとも、直接殺傷できないのならば単体の戦闘力で勝るこちらが有利。
そう考えたていたからこその決戦であり、用意してきた作戦なのだ。
前提がひっくり返れば、それは全く成り立たない。
「一転して、ラスダンに臨む勇者一行から飛んで火にいる夏の虫となったわけですねぇ。理解しました。
それで、一応聞いておきますが何がどうなってこういうことになったんでしょうか?」
トーニャからの質問に那岐は俯く。予兆はあったのだ。これまでにも。
神崎黎人が”悪いこと”をしていると、その気配に気付いておきながら軽視し慢心により見逃してしまったのは痛かった。
ナイアの引いたルールは絶対確実だと信じていたこともあるが、それにしてもこの結果はあまりにも重い。
「参加者同士でないといけないというのは、前にも言ったけどHiME同士の間で想いが移らないといけないからだ。
そうでない人間がHiMEを殺せばそこにあった思いは受け取り手を見失い世界に散ってしまう」
ふむ。と皆が頷く。それに関しては作戦会議やミーティングの間に何度も聞いたことだ。十分に理解している。
「だから、神崎は僕達がホテルの中でゆうゆうとしている間も攻めて来なかった」
また皆が頷く。それを知っていたからこそ、あんなにも悠々自適に長い時間を使うことができたのだから。
「そして、神崎は攻められないふりをして僕達がここに――罠にかかるのを待っていた。ということだよ。
想いが逃げる。それならば逃げられないよう結界を張って囲ってしまえばいい。
けど、島中を覆うほど結界は作り出せない。だから――……」
結界で覆いきれる範囲である地下基地内まで、那岐達が侵入してくるのを待ったのであった。
「おそらくは、第2のゲームが始まった当初はこんな結界を張る準備はなかったはずなんだ。
つまり、僕達が時間制限のぎりぎりまで5日間使って準備をしたように、一番地もそうしたということ……なんだろうね」
言い終わり、那岐は小さい肩をがっくりと落とす。
現状としては最悪に近いが、かといってこれまで取ってきた行動も理にかなっていただけにやりきれなさが募る。
最上のパターンを想像するなら、こちら側の準備が整っており向こうの結界が完成していないタイミングがよかったのだろう。
野球をせずに半日でも早く行動に移していたらどうだったか……考えても詮無きことだが後悔の念は尽きない。
「ともかくとして、予定は予定通りに動こう。僕達が生きて帰るには神崎を倒すしか術はない」
言って、那岐は顔をあげる。
確かに攻略の難度は大幅に跳ね上がったが、かといってやることが変わったわけでもない。
目の前に現れる敵を排して、黒曜の君たる神崎の下までたどり着きその首を落としてゲーム終了する。それだけなのだ。
・◆・◆・◆・
「ところで、他の方々と連絡はとれましたか? この情報。知らせておかないといけないと思いますが」
やれやれと首を振ると、トーニャはインカムに手を当てて通信を試みていた九条の方へと振り返る。
だがしかし、九条が何もマイクに向かって発していないのを見るに、それは不可能であるらしかった。
「やはり地下に入っちゃうと電波は届かないわね。どこか、通信室を探してからということになるわ」
「まぁ、それも予定のうちですし。
碧たちはともかくとして他の人たちは殺し殺されるのがあたりまえの覚悟ですしね。万が一がないことを祈りましょう」
じゃあ、敵さんがたが殺到しなうちに動きましょうとトーニャは那岐に変わって皆を先導して歩き出す。
なにしろ根本的に不利な点としてこちら側には首輪という相手に位置を知らせる枷がついているのだ。
足を止めていればあっという間に囲まれることとなりかねない。
「――と、そういえば神崎はどうして首輪を爆破しないのでしょうか?
HiMEでないといけないというくくりがなければ首輪でも構わないとも思えますが……」
「さぁて、そうできるならとっくにそうしているはずだし、そうできない事情があると思うしかないね。
結界だって小規模とはいえ特別なものだ。5日間で用意したのならどこかに綻びがあるのかもしれない」
「なるほど。気休めとしては中々にありがたい話です」
ふむと頷くトーニャを先頭に、一行は神崎が指定していた通路へと入ってゆく。
ここをまっすぐに南下してゆけば彼の待ち構える一番地本拠地へとつくのは九条の持ち出した地図からもわかっている。
なので、一刻も早くこの決戦を終わらせるべく彼らはこの通路を足早に進み、そして――落ちた。
トラップとしては初歩の初歩。いわゆるひとつの落とし穴。
あっけなく外れた床とともに彼らは暗闇の中。島の地下に走る洞窟の地下の地下へと、落ちてゆく。
まっ逆さまに。運命のように。ただ、奈落の闇へと落ちてゆく――……。
・◆・◆・◆・
結論から言えば、その場所には何も存在しなかった。
戦いの昂ぶりも、
想いを穢された怒りも、
帰らざる悔恨への悲しみも、
心や身体への消えざる痛みも、
何も、存在していなかった。
ただの状況と、短い言葉がそこにあった、それだけのこと。
薄暗い地下道に影が走る。
それは明らかな厚みと質感を持つ影。
標的を死へと誘う、幻影。
無様なものだ。
そう、影は思考する。
影には本来思考をするという機構は存在しない。
そのような行動を取る必要性など、無いが故に。
それでも、影はそう思わざるを得なかった。
それは、その影の機構に一部、狂いが生じている故に他ならない。
が、そもそもだ、その様な思考に至るということは、その原因となる現象が存在する、ということだ。
無様だ。
これを無様と言わずに何というのか。
当る事の無い銃弾。
止まる事の無い進撃。
無駄に消費される弾薬。
ただ無意味に響き渡る轟音。
徒労としか言いようの無い迎撃。
その全てを、無様と呼ぶしかない。
止まる事無く駆けつづけ、絶えず無様を生み出し続けながら、影は思考する。
かつては、最強の暗殺者という名を冠されたファントムが、何と言うザマか。
いや、正確に言えば、此処にいるのはファントムでは無い。
この世にファントムの名を持つものは、既に存在していないのだから。
だから、無様と思う必要など無い、そうとも思う。
だが、それでも無様と言うより他に無い。
これだけの長時間の戦闘で、何の戦果も上げられず。
完成された筈の技巧の見る影は無く、物量を消費するだけの戦いしか出来ない。
これが、ファントムの戦いだと?
アインも、キャル……いやドライも、あの男も、嘲笑するだろう。
既に消費した弾薬は両の指に遥かに余る。
それでも、相手には何の痛痒も与えられ無い。
こんな無様な戦いしか、出来ないのか。
これが、仮にもファントムの名を冠する存在か。
「なあ、そう思わないか、アイン、それに……キャル」
答えが帰って来るはずの無い問いが、つい口から漏れる。
当然、返事など無く、あったのは無言の行動のみ。
前方に見える二つの影のうち、片方は今まで構えていた狙撃用ライフルをそのまま放り出し、新たに虚空から生み出した拳銃を構える。
もう片方は、未だに硝煙の香りを漂わせる両手の銃を、再び構えなおす。
獲物以外は、まるで同じ外見を持つ、人形。
敵が使用しているとかいう、アンドロイド。
「ああ、本当に」
その人形が、見覚えのある構えを取る。
銃を両手で握る人形は、半身を向け、腰を落とした姿勢で。
二挺の銃を両の手に持つ人形は、ネコを思わせるしなやかさを見せる姿勢で。
「無様だな……」
二つの影は、並んで此方に向かい、走る。
その動きに、一切の乱れは無い。
ただ、精密な機械のように、死を呼ぶ幻影が走る。
その光景に、一瞬、どう対処して良いのか、迷う。
本当に、無様だ。
これでは、処分されても、仕方ないだろう。
いくら、対峙している相手が、同じファントムだとしてもだ。
・◆・◆・◆・
殺される事は無い。
それは逆に言うならば、『殺さなければ、何をしても良い』という事だ。
手足を吹き飛ばそうが、二目と見られぬ顔になろうが、死んでさえいなければどうにでもなる、という事でしかない。
まあ撃たれた反動でショック状態になるという事は良くあるので、もう少し加減はされるだろうが、
それでも、殺されないと楽観視していい状況では無い。
男である玲二は兎も角として、女連中などはそれからが地獄だろう……が、それは考えても意味のない事。
だから、地下道を進む玲二は、最初から油断などしてなかった。
殺される事はない、と頭で理解していても、油断するという機構自体が、存在していないのだから。
バイクは既に乗り捨て、薄暗くはあっても視界は悪くも無く、喧騒とは無縁の地下道。
この場所において、吾妻玲二が遅れをとるようなことは、まず有り得ない。
……それでも、その一撃は、回避不可能だった。
種類にもよるが、狙撃銃から放たれる銃弾の初速は秒速1000M近い。どれだけ鍛えようが、人では回避不可能な速度だ。
故に、長距離からの狙撃を回避する手段は2つしかない。狙撃されない状況を作り出すか、または狙撃される前に回避するか。
多少曲がりくねっているとはいえ、遮蔽物もろくに無いこの地下道で狙撃されない状況を作り出すというのは難しい。
だから、必要なのは狙撃される前、
正確には狙撃手の気配を察しその引き金を引く瞬間に回避する、という技能であり、吾妻玲二はそれが可能な存在である。
その吾妻玲二にして、第一撃の気配は、感じ取れなかった。
いや、正確には感じ取ることは出来たのだ。だがそれは、引き金を引く瞬間ではなく、引き金が『引かれた』瞬間。
限界までに磨き上げられたファントムの能力を持ってしても、
既に回避不可能な時になって、ようやく吾妻玲二は己が狙撃されているという事実に気付いたのだ。
遅い。
あまりにも遅すぎる感知。
だから、その一撃が吾妻玲二の脳髄を打ち砕くでなく、頬に切り傷を刻む程度のもので済んだのは、偶然ではなく、必然。
無論、回避不可能であったはずの玲二にとっての必然ではなく。
さりとて、最初から初弾で仕留める予定であった狙撃手にとっての必然でもなく。
言葉にするなら、この戦場が用意された時点で生み出されていた、必然。
狙撃手の引き金が引かれる前、一秒の半分にも満たない時間だけ、前に、
玲二が『別の理由によって』動き出していたからに、他ならない。
狙撃手の技量の高さへの驚愕を感じながらも、玲二は一歩目を踏み出す。
何故なら、そうしなければ、必然的な死が待っているのだから。
無論、その場所に居続ければ、狙撃手の次弾が今度こそ玲二を射抜くだろう。
だが、それよりも前に訪れる必然、狙撃手の気配よりも前に、玲二が動くことになった理由。
狙撃手のものとは異なる銃声が鳴り、玲二の居た地点に弾丸が突き刺さる。
敵は、『二人』
駆け寄る小柄な影に目をやりながら、予め持っていたM16をセミオートで乱射。
スコープに目をやる余裕が無いが、それでもおおまかな弾道は身体が覚えこんでいる。
目標は狙撃手ではない、元より咄嗟の事ゆえに、狙撃手の位置確認には失敗している。
だがその事実を悔やむ間もなく、咄嗟に身を翻す。一秒前まで玲二の体のあった地点を、襲撃者の次弾が通過する。
既に彼我の距離は70mも無い、動きを止めることは死に直結する至近距離と言っていいだろう。
故に前進を止めずに再び銃撃。
元よりセミオート故、正確に狙いを付けた訳では無いが、それでも彼我の距離を考えれば、目標の1M圏内に纏まるであろう技量による弾幕。
それが、確実に回避される。
それも、左右に避けるどころか、一秒で10mを踏破する速度で接近しながら、だ。
それでいて、その相手は確実に、玲二の動きを捕捉している。
最初の位置に刺さった、一撃目。
牽制の、二撃目。
そして、玲二の動きを読みきった、三撃目と四撃目。
既にこの一瞬の内の動きは肉体の構造上の限界に達しており、次の瞬間までは大きな移動は出来ない。
頭蓋骨は意外に硬く、丸みを帯びている為、拳銃の弾速では角度によっては即死を免れることもある。
故に、襲撃者の両の手より同時に放たれた二発の銃弾は、玲二の胴体に突き刺さる。
「ぐっ!」
戦闘が始まってから数秒、この場において初めての銃声以外の音が、玲二の口から漏れる。
右の肩甲骨付近に、二発。
装備している防弾チョッキの効能で致命傷にはなっていないが、それでも骨に響く。
だが、それでも止まるわけにはいかない。
一瞬が過ぎ、玲二の肉体が稼動しだす時には、既に襲撃者は次の銃弾を放ってくるだろう。
しかし、玲二の予感した一撃は訪れない。
その代わりというかのように、狙撃手の二撃目が、やはり玲二には感知できないまま、玲二のいた場所に突き刺さる。
それでも、今度は狙撃地点は取れた。100mにも満たない程の近距離、反撃も可能な位置。
だからと、同じ方向にいる襲撃者と狙撃手に向けて、残る弾丸を乱雑に撃ち尽くす。
精密な狙いを付けずに掃射される面制圧は、だからこそ逆に回避は困難。
それゆえ襲撃者は一旦下り、狙撃手も位置を変えた事で、一度仕切り直しとなる。
仕切りなおし、といっても、ルールのある試合ではない。
今すぐ再開されるかもしれないし、意外に長い時間休憩することになるかもしれない。
無論、玲二としては長期戦に持ち込みたい理由など欠片も無い。
ここでのんびりしている訳にはいかないし、ファントムという戦力が性質上、攻勢に特化しているという事もある。
他方、相手側からしても、この場所からの玲二の侵入はやはり想定外だったらしく、
狙撃陣地が構築されている訳でもないので、持久戦に持ち込むのは難しい。
だから、この場は間違いなく短期決戦になる。
防弾チョッキ以外に防御手段も無く、身を隠す場所も無い。
先の接触で、相手の力量も知れた。1対1でも勝ちを拾える確率はそう高くない相手が2人。
一瞬の気の緩みが己の死に繋がるこの状況下、行動を停止することは自殺行為である。
相手に狙撃手がいる以上後退するのは不可能、何より他に侵入経路は存在しない。
無論、そんな段階を踏んだ思考をしている余裕は、玲二には無い。
思考ではなく、感覚で理解し、ある意味では無謀に近い突撃を執り行う。
ポケットから換えのマガジンを取り出し、M16の弾丸を補充。武装を変更する余裕は無い。
元より、あの二人を相手にして他の武装を取る理由も無い。
数で劣る以上、突撃銃の優位を捨てて命中を取る事は出来無いし、面制圧に優れるエクスカリバーMk2は速度と弾数で劣る。
投げ捨てた空のマガジンが数メートル後方の床に落ち、それが立てる高い音を聞きながら、玲二は僅かに思考する。
既に襲撃者は此方に向かい突撃を開始し、狙撃手の銃弾も恐らくは数秒の内に放たれる。
思考する余裕など見出せない状況の中で、それでも思考する。
これは、どういうことなのだ、と。
陣地の制圧には、面の打撃力が必要となる。
無論、決定的な局面を決定付けるのは、点の突撃力なのだが、そもそもその局面に至るのに打撃力は必要不可欠なのだ。
相手の陣地に、蟻の一穴を開ける一矢も、それでけでは単なる集中攻撃の的でしかない。
敵陣全体の力を削り、それによる点の強弱を生み出し、突撃地点を決定付ける圧倒的な打撃力こそが、真に必要。
最も、玲二自身もその辺りは殆ど座学でしか知らない。
軍隊にいた経験などある筈も無く、強固な陣地への突撃経験も殆ど無い。
そもそも、多数の相手に突撃せざるを得ないような状況を生み出してしまうこと自体が、暗殺者としては落第だ。
狙撃、変装、買収、偽情報、予めの仕掛けによる面爆破、堅実かつ確実な方法などいくらでもある。
そういう観点で言うならば、今この場での玲二は、ファントムとしては落第であろう。
だが、ファントムとしては落第だからこそ、今この状況で戦えている。
ファントムで無くなった後の日々。
当ての無い旅を続け、下調べも不十分に、多数の敵への突撃を繰り返す。
心では死に場所を求めているのに、技巧を刻み込まれた身体は、何時しか自然と対処法を学んでいく。
完成されていた頃の玲二ならば、この場は逃げを打っていただろう。
既に奇襲でも何でもなくなった攻撃に、不足しがちな打撃力。身を隠す遮蔽物も無く、乱戦に持ち込むにも難しい戦況。
敵は玲二と同じかそれ以上の力量の相手が二人。 しかも待ち構えている場所への突撃など、無謀以外の何者でもない。
それでも、玲二は前に進む。
後退するための一時的な前進ではなくて、明確な前進。
確かに、玲二にはこの場で退くことの出来ない理由がある。
突撃のタイミングを合わせている以上、ここで玲二が退けばそのシワ寄せは他の連中に降りかかる事になる。
最初の牽制でも何でもない一撃から考えると、主催者側が此方を殺せないというアドバンテージは、もう存在しないと考えていいだろう。
玲二が退けば、眼前の敵が他の連中に襲い掛かるという可能性もある。
この敵の力量で本気で殺しに掛かられたら、生き残れるのは何人居るかだ。
だが、それらは玲二が無謀な突撃を行っていい理由にはならない。
玲二の目的とは、まず玲二自身が生き残らなければ果たされる物では無い。
加えて、他の連中も何人か……九条むつみやウェストらこの地からの脱出に必要な人間を除けば、死なれて困る訳でもない。
個人的に何人か、死なれたら目覚めが悪いのが居ないわけでも無いが、それでも目的と秤に掛ける程では無い。
それでも、玲二は前に進む。
前に、『進んでしまっている』
言うまでも無く、吾妻玲二は最強の名を冠された暗殺者、ファントムだ。
魔術やチャイルドと言った絶対的なアドバンテージを抜きにして考えた場合、
玲二が越えられないのならば、この場を参加者が越えるのは不可能であると言えるだろう。
だが、それがそもそもおかしい。
進む理由など無い、そのはずなのに、だ。
考えるというレベルに達していない玲二の無意識の思考を遮るように、軽めの足音を立てながら襲撃者が迫る。
作り物のような、いや、恐らくは真に作り物の表情に何ひとつ変化を起こさないままに。
その速度は玲二と殆ど変わらない、いやと比べると装備の軽さの分、速いくらいだ。
駆け寄る襲撃者を視界から外さないようにしながらも、狙撃手の位置を探る。
襲撃者の拳銃の口径ならば、よほど当たり所が悪くなければ対処は可能、だが狙撃手はそうはいかないからだ。
ライフル弾ならば、仮に防弾チョッキの部位であっても貫通し、致命傷を与えてくる。
肩や首を掠る程度でもその衝撃は楽に脳震盪を起こし得る威力があり、先ほどの切り傷程度など奇跡に近い領域の軽症だ。
だから、狙撃手から目を逸らすわけにはいかない。
並みの狙撃手なら撃つ気配である程度対処できるが、この相手は目を逸らせば即、死に至る。
視界の隅に僅かに映る、ライフルを持ちながらポジションの移動をしている狙撃手、襲撃者と同じ顔を持つ少年。
やはり、その顔には能面のように何の表情も浮いていない。
その表情を目にして、玲二は敵の正体を知る。
いや、既に漠然とした理解は玲二の中に存在してはいた、
ただ、その表情が、
出会ったばかりの頃の深優・グリーアを連想させるその表情が、
ようやく、明確な文字を玲二の脳裏に浮かび上げる。
戦闘用アンドロイド。
常人を遥かに越える身体能力を持つ、兵器。
それが、二体。
予感が、あった。
……いつからか?
一秒前かもしれないし、一分以上前からかもしれない。
最初の一撃を受けた時か、それともこの地下道に入った時からか。
ホテルでの作戦会議の時かもしれないし、あるいはそれよりもずっと前からか。
銃火が薄暗い地下道に瞬き、硝煙の香りが少しずつ濃さを増す。
金属のぶつかりによって生まれる歪みの音が鳴り響き、喧騒が世界を覆う。
歩みを止めれば一秒と掛からずに屍となる空間。
徐々に激しさを増す心臓の鼓動が、未だに自身が生あるものだと告げる。
受け手に周る事は許されない。
それは、即ち敗北を意味するのだから。
盾と矛は同等だが、盾と銃は同等ではない。
ましてや盾の無い、攻撃同士のぶつかり合い。
攻撃を止めるということは、己の武器を放棄するということだ。
走り、伏せ、回り、跳ぶ。
持ちうる限りの技巧を尽くし、前に進む。
この状況においては、後退以外は前進と同等だ。
生きて、動いている限りは全ては攻撃の一動作と成りうるのだから。
それが高槻やよいどころか、羽藤柚明の徒競走にすら負けるほどの時間が掛かっているとしても、だ。
(……19、20)
速射状態のM16の弾丸が尽きる。
残りの段数は常に把握しているので弾切れを焦る事は無いが、
「チッ」
その瞬間を狙い済ましたかのように、いや、間違いなく残弾を把握した上で襲撃者が迫る。
僅かに右側、一瞬間までいた場所に弾丸が突き刺さる。 足を止める暇すらない。
弾幕を切らせばすぐさま押し込まれるの事はとうに理解している。
M16を右脇に挟み、右手のみでマガジンの交換作業を行なう傍ら、左手に構えたSIG SAUER P226で狙撃手に牽制を与える。
334 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/10/17(土) 23:16:54 ID:j6cGFOzT
自身への攻勢が一瞬完全に途絶えた事を察した襲撃者が迫るが、足で地を蹴り小石を撒き散らして牽制。
稼いだ一瞬で交換を終えたM16を再び構えなおし、弾幕を仕掛ける。
だが、その移り変わる刹那、
「ぐっ」
襲撃者の放った二発の弾丸の内一発が、腿の前部を掠める。
歩くのに支障の無い部位だ、気にする必要は無い。
そうして、弾幕を形成しようとした瞬間、3回目の引き金を引こうとした瞬間。
全力で、左に転がる。
ギリギリで回避出来た凶弾、数えて5発目の狙撃が通り過ぎる。
(どういう、ことだ)
そういう事があると、聞いてはいた。
だが、例え聞いていなかったとしても、見間違える筈が無い。
それでも、問わずにはいられない。
狙撃手の能力
結局、完全に学びきることの出来なかった狙撃能力。
襲撃者の能力
見い出し、その発展系をこの島で見る事になった戦闘能力。
疑いようもない。
この敵は…………ファントムだ。
地を這う凶弾
ファントム・アインと
走り寄る影
キャル、……いやファントム・ドライを用いた、戦闘兵器。
それが、この場所を守る、敵の正体。
「これが……」
……思わず、問いただしたくなる。
だが、そのような躊躇など許される筈もなく、立ち上がる動作の中で既に撃ち始める。
その状況であっても射撃能力に衰えは無いが、それでもまるで当る気配は無い。
当然だ、既に襲撃者、いやドライ´は右側に前進している。
その状況から攻撃されれば、アイン´とドライ´の十字砲火を受ける事になる。
だから一瞬だけ狙撃手、アイン´の存在を忘れる事にする。
ドライ´に残りの銃弾を使い尽くす勢いで連射を行い、どうやら防弾装備でないドライ´はそれでようやく後退する。
その速度に遅れを取らないように追随する。離れればまたアイン´の狙撃が来る。
走りながら、まだ僅かに弾の残るM16のマガジンを交換する。P226の出番は無かった。
余力が生まれた事で、思考が再開される。
本来そのような事はしないが、それでもつい考えてしまう。
(無様なものだ)
走りながら、思考する。
これを無様と言わずに何というのか。
当る事の無い銃弾。
止まる事の無い進撃。
無駄に消費される弾薬。
ただ無意味に響き渡る轟音。
徒労としか言いようの無い迎撃。
その全てを、無様と呼ぶしかない。
(これが)
疑いようはない
(こんな)
最初から予感はあった。
(こんなものが)
撃たれたときから、見覚えがあった。
(こんなものが、ファントムの戦いだと?)
こんな、二人がかりで、ファントム崩れひとり殺せないような、無様な、代物が……ファントムだと?
玲二は、普通の人間である。
撃たれれば血が出るし、その欠損は確実に肉体の動きを損なう。
致命傷を上手く避け続けたところで、待つのが出血多量による死であることは変わらないし、そもそも足でも射抜かれればそこで勝負ありだ。
戦闘開始した距離は100m程度。
双方の技量と得物からすれば至近距離である。故に高速で行なわれる戦闘は開始してから未だ一分と経過してはいない。
だが、そもそも一分あれば充分すぎる筈なのだ。
ファントムである玲二と、それに互する相手が二人。
遮蔽物の無い真っ直ぐな通路に、お互い身を隠す装備も無い。
遅滞防御を目的とした足止め目当ての戦場で無い、明確な撃ち合い。
フルオートを用いずとも、双方合わせれば100を越える弾丸を楽に放てるだけの時間。
この状況で、未だに決着が付いていないというのは、明らかに異常であると言える。
そもそも、最初の一撃が『外れる筈が無い』のだ。
偶然による回避ならともかく、あれは必然だった。
アイン´による必然でも、玲二の必然でもなく、第三者、ドライ´の介入による、必然。
第三者の介入というと偶然の部類に入るが、この第三者は、この場に居るのが必然であった相手だ。
アイン´の能力に不安が残るが故に、最初の一撃は牽制で、ドライ´が本命という段取りであったなら、判らなくも無い。
確かに、ドライの技量は特筆に価する。
純粋な人間に、技量で遅れを取ったのはこの島では二度目だろうか。
だが、その遅れは敵であるはずのアイン´によって、取り戻された。
明らかに、噛み合っていない。
アイン一人だけなら、既に脳漿を流すだけのオブジェになっている。
キャル一人だけなら、今頃は糸の切れたマリオネットのようになっている。
それなのに、何故二人で来た?
ドライ´が動かなければ。
アイン´が、最初の一撃以降牽制に徹していれば。
それだけのことで。
たったそれだけのことが出来ていれば、すでにとうにカタが付いていたのに。
相手は連携がまるでとれていない。
ホンの僅かでもとれていればそれで充分なのに。
充分に俺を殺せるだけの技量を持っているのに、自分たちでソレを無駄にしてしまっている。
無様を生み出しながら、三度目の突撃をドライ´が慣行する。
もはや大きな動作は必要ない、最小限度の動きで事足りる。
その間にM16をディパックに収め、ゆうゆうとベレッタに持ち換える。
ドライ’の位置を調整し、アイン´の射線上に来るように誘導する。
そうしてアイン´を封じておきながら、ドライ´が攻撃に移るタイミングを見計らって、アイン´の射線上に半歩だけ踏み出す。
ドライ´がその動きに合わせて狙いを向けようとしたところに、アイン´の狙撃が割り込み、ドライ´がバランスを崩してたたらを踏む。
その機を逃さずドライ´に両手で一発ずつ撃ちこむ。無論、既にアイン´の射線からは再び身を隠してある。
狙いは、わき腹と内腿。
どちらも狙い余さず、ドライ´が僅かによろめく。
そして、後退、その動きには不自然なところは見られない。
動くのに支障の無い部分を掠めるように、あえて狙ったのだから当然だ。
そして、そのドライ´を追い、前に出る。
ドライ´を仕留めるのは簡単だが、そうなると今度はアイン´を相手するのが難しくなる。
だからダメージだけ与えて後退させた。殺してしまっては盾にならない可能性がある。
ダメージが低い箇所を狙ったのは、単に敵が負傷時にどんな対応をするかが未知数だっただけの事。
走るのにも支障が無いようにしたのは、負傷した速度に合わせると時間がロスするから。
お互いの連携など、考えられるように出来ていないのは明白だ。
決められた命令、この場合は俺を殺すこと、のみ考えて向かってくる。
だから、お互い邪魔しあっている。
ドライ’が射線上にいればアイン’は撃てない。
それでも遮二無二命令に従う為に、隙を見つければ考えずに撃ち、それがドライ´の行動を妨げる。
これがもしアインならば、俺がドライ’を盾にしていると理解した上で、その上で俺の行動を読み取って撃ってくるだろう。
キャル、いやドライ´の近接能力は確かに高い。
だが、いくら高い能力を持とうとそれを生かせなければ意味が無い。
キャルの能力は天性のものだ。それをいくらコピーしたとしても真似など出来ない。
なるほど、確かに身体能力は深優同様大したものだ。素の能力なら俺はおろかキャルを上回っている。
だが、それだけだ。
キャルの動作は、あくまでキャルにとっての最適動作でしかない。
キャルの天才性によって生み出されたファントム・ドライの能力は、キャル自身でなければ生かせない。
だから結果として、ほんの少し、一秒の数分の一にも満たない時間だが、動作に乱れが生じる。
そこを利用すれば、簡単にあしらえる。
……カタログスペックだけを過信するからこうなる。
俺以上の、ファントムシリーズの中で最高の精度を持つアインの狙撃技術。
天分の才による、圧倒的の一言に尽きる、ドライの突撃力。
それを、深優に匹敵する能力のアンドロイドに搭載すれば、確かに俺を遥かに超える強力な兵装になると思えるだろう。
ああ、確かにその発想自体は悪くない。
だが、なら何だこの体たらくは。
連携の欠片も無いバラバラな攻撃。
本来なら俺が気付いていようとも避けきれないアインの狙撃技術は、ドライ´の無謀な突撃によって感知され、
その後もドライ´に当ることを恐れてか、散発的な攻撃しか出来ない。
そしてその散発的な攻撃は、ドライの動きを妨げ、結果として致命的な隙を生んでいる。
最初の一度目は散発的な反撃をしつつ見送る事しか出来なかった。
だが二度目は確実に狙い打つだけの余裕はあった。
三度目ともなれば、手足の二本も撃ちぬけるほどに。
だが、あえて見逃す。
盾のない状況でアイン´に近寄るのが困難ということもあるが、それよりももっと許しがたい理由で。
その思惑などまるで知らず、ドライ´は再び此方に向かってくる。
アイン´も、下ろうとはせず、取り回しに不自由な狙撃銃を構えたまま此方の隙を伺うのみ。
もはや、彼我の距離は二秒と掛からないほどの縮まっている。
最初の位置から考えれば、至近距離としかいいようのない位置。
この状況で、何故まだ無駄な攻撃を行なうのか。
これが、仮にもファントムの名を冠する存在か。
無駄な突撃を三度も繰り返しているのに、何故また同じ事しかしない。
ドライ´が時間を稼いでいる間に、アイン´が後方に再び狙撃陣地を構築して、そこから狙い撃ちをしてもいい。
或いは、ここは引いてもいい。
基地内で他の兵に紛れて影から襲われては、進むもものも進めない。
出来損ないとは言え、俺を含む数人以外が相手なら、十二分に殲滅できる戦力をここに無駄に配置しておいてどうする。
外見が同じアンドロイドというなら、他の固体に紛れて攻撃させればどれだけの恐ろしい敵か。
その程度の判断も出来ないから、ここでこうして、壊れる事になる。
予測ではなく、確定事項だ。
ドライ´は、失敗作だ。
高い身体能力と高い技能の両方を持っていても、それを併せて用いれなければ意味が無い。
身体能力は生かしきれず、技能は再現できない。
結果として、二つの能力がお互いの足を引っ張り、欠点となってしまっている。
改良は、出来まい。
それでいて、単独での突撃を好む。
どうせ入れるなら深優の能力をコピーすれば良いものを。
能力的にまるで合っていないキャルの能力をコピーしたところでそれは唯の粗悪品だ。
自転車の部品をバイクのに積んだとしても、それは単なるガラクタ。
よしんば動いたとしても、それは無駄に図体が大きく、小回りの効かない自転車でしかない。
そんな適当に作ったものを使ってどうする?
兵器とは、いや道具とは、生み出したものを試し、改良を積み重ねていって始めて使い物になるのだ。
能力の把握出来ていないものを強引に使うからこうなる。
……だが、アイン´は手を加えれば良い兵器になるだろう。 現時点では状況判断力の無いただの失敗作でしか無いが。
そこはばかりは「あの男」の慧眼と腕を認めざるを得ない。
高い狙撃能力と、裏打ちされた技術の積み重ね。
アインから俺に伝えられた、既に継承された技術。
それをアンドロイドの能力に組み込む事はそんなに難しい事ではない。
――玲二の知るよしも無い事だが、異なる世界、キャルがドライと称された世界においての話。
玲二の言うあの男、ファントムの生みの親たるサイス・マスターが、まさに玲二と同じことを言っていた。
アインによって完成した技術は、だがそれだけでは意思無き道具に過ぎず、
それ故、自らの意思で人を殺せる玲二ことツヴァイは更なる完成形として。
だが、それ以上の才能を持つキャルは、逆に高すぎる能力と押さえ切れぬ感情から、ドライの名を与えられながらも失敗作として。
そして、後にアインを元にしたフィーア以下6人のファントムシリーズが完成する。
ファントムとして作られ、ファントムを育て、ファントムであることを捨てた玲二。
創造主たるサイス・マスターを最も強く憎む玲二が、彼と同じ思考に至ったのは、何かの皮肉と言うしかないだろう。
最も、そんな考えに意味は無い。
二人とも、此処で壊れるのだから。
ただ、壊れたとしても、そこで終わりとは限らない。
無論、そのまま失敗であったと打ち捨てられる事のほうが多いが。
その情報を元に、新たな改良点が見つかることもある。
丁度、戦い破れたものが、そこから這い上がる様にも似ているだろう。
……そして、改良などさせはしない。
そんなことを、させてやる理由など何処にも無い。
アイン´も、ドライ´も、ここで壊す。
これ以上、存在を許してやるものか。
何が悪いのかとか。
どこを修正すればよいのだとか。
こうすればよかったなどと、何も考える余地も与えられない程に、壊す。
それが、
それが、俺に出来る唯一の手向けだ……アイン。
いつの間にか、玲二とアイン´の距離が、ドライ´のそれと大差の無い位置まで、前進していた。
アイン´は狙撃銃を捨て、拳銃を両手で握り、半身を向け、腰を落とした姿勢で。
ドライ´は二挺の銃をそのままに、変わらぬネコを思わせるしなやかさを見せる姿勢で。
二人同時に、玲二に飛び掛る。
その光景に、玲二は一瞬対処に迷いを覚える。
対処不可能という迷いではなく、何かしらの感慨を思い起こさせられたのでもない。
ただ、今更になって漸く行動パターンを変えた事に対する、呆れのようなもので。
短く溜息を付きながら、玲二は前進する。
丁度、アイン´とドライ´の中間になる位置まで。
一見すると、挟み撃ちにされた危険な状況であるが、実際はそうではない。
玲二に当らなければ、お互いの銃弾がお互いを射抜く位置関係になる為、二人とも撃てない。
一瞬の判断によるものだろう、アイン´は銃を片手に持ち替えて右手でナイフを掴み。
ドライ´は跳躍から延髄を目掛け跳び蹴りを仕掛けてくる。
その思考速度は非常に褒められるものではあるが。
それも、玲二の予想の範囲でしかない。
命を奪う一撃が2つ、玲二に向けて放たれる、その一瞬前。
“カツン”
と、硬い音が地下道に響く。
それほど大きな音では無いが、それでもアイン´とドライ´の動きが、一瞬だけ停止する。
その機を逃さず、玲二の右手がアイン´に伸びる。
その手にあった筈のベレッタこそ、先ほどの音の原因である。
意図的に自由にしたその右手が、突き出されるアイン´の右手に伸び、その勢いを殺さぬように、玲二の左側に流され、
同時に左手のP226を右側に向ける。
そして、
アイン´のナイフがドライ’の首筋を切り裂き、
左手に携えた玲二の銃がアイン´の心臓を貫く。
玲二の側に二人から、鮮血が花のように散り、
それで、終わり。
能面のような表情は動かないが、それでもその顔からは血の色が失せ、
能力によって顕現されていた銃は、光の粉となって散った。
どのように作ろうと、人としての形を保っている以上、その急所も変わらない。
人を殺すことにのみ特化された道具を相手にすれば、不出来な人が生き残れる筈も無く。
この場で費やされた時間は、普通の兵士二人を足止めに用いたとしても大差の無い程度。
完成された暗殺道具に、粗悪なガラクタをぶつけた、当然の結果。
故に、完成された道具はガラクタを返り見るなど事なく。
「…………」
無言で、二人の頭部に二発、脊髄とこめかみを正確に打ち抜く。
仕組みなど知らないが、脳を破壊されればそのデータを再現は出来ないだろうから。
それっきり、玲二はもう二人を返り見る事などなく、
「 」
短い言葉のみ残して、通路の先に消えた。
これで、もう。
今度こそ、再会する事は無い。
その可能性は、断ち切った。
ふと、思い出が流れる。
キャルと居る時以外の、唯一光る色を持つ記憶。
決して楽しい記憶だけでは無いけれど。
それでも、決して忘れえぬ過去。
二度と帰らざる、想い。
その想いと共に、言葉を、
「さようなら……アイン」
出会うことのなかった彼女に、
告げることのなかった別れの言葉を、告げた。
・◆・◆・◆・
金属でできた硬い床を軋ませ、壁を震わせ天井を揺らし、音を遠く遠くへと響かせながら二頭の獣が長い通路を行く。
想いの力により顕在化した常世のものならざる不思議の獣――チャイルド。
一頭は狼犬の姿をしたデュラン。
金属質の表皮をもった四肢に銀の毛皮。両肩に砲を背負った玖我なつきの忠実な僕。彼女とクリスとを背負い疾走する。
後から追うもう一頭は巨犀の姿をした愕天王。
真紅の表皮に鼻頭から伸びた分厚い衝角。黄金に揺れてたなびく、刃を持ったたてがみ。威風堂々。主たる碧を背に邁進する。
生半可なバイクなどよりかは速く走れるデュラン。そして巨体ゆえに歩幅も大きい愕天王。
二体は無人の通路をただただひたすら進んでゆく――が、しかし、件の”舞台”とやらの姿はまだ見えてきてはいなかった。
島の地下に張り巡らされた基地は広い。
舞台の確かな場所はわからないが、一番地の本拠地まででも直線距離にして2キロメートル弱といったところ。
曲がりくねってもいれば勾配もある。となれば更にもう少しは距離があるだろうか。
変わらぬ風景はよりそれを強調させる。そろそろ口を閉じて集中しているのにも痺れを切らしたと、3人がそう思った頃。変化が訪れた。
「ここが”舞台”ってところかな?」
「いや、私の感覚だとまだ距離としては半ばといったところだ。唯湖の姿も見えないし、それに――」
広く、ガランとした円形のホールの中へと入ってきて一行はその足を一端止める。
3人はまず碧が言ったようにここが舞台かと思ったが、なつきが言ったようにそうではないともすぐに気付いた。
「――足止めらしいぞ」
この広いスペースで待ち受けていたのは目標とする来ヶ谷唯湖ではなく、敵だった。
それは一人と一体と言い表すべきなのか、それともアンドロイドであればやはり一人とは数えず合わせて二体と表すべきか。
3人を待ち構えていたのは、深優によく似た姿かたちを持つアンドロイドが一体。それと、
「チャイルド……じゃないか。オーファンだね。私達用の相手というわけだ。これは」
一体のオーファンだった。
オーファン。それはHiME達が従えるチャイルドの原型ともいうべき存在であり、同じく媛星の力により顕現した怪しの獣。
チャイルドとはHiMEと契約したオーファンのことを指し、つまり実質的にはその存在に異なるところはない。
無論。個体差はあるにしろ、その実力も一体一体がチャイルドと同等というわけだ。
「おーけーおーけー。
さすがは生徒会で立派な仕事をしていただけのことはあるね。神崎くんも演出というのがわかっているじゃないか」
愕天王の上で腕組みをし、碧が納得といった風にうんうんと頷く。
クリスと同行するなつきは勿論、碧もこちらに来ると読んでその対応にオーファンを置くというのはまさしく正しい形だろう。
しかも。待ち構えていたオーファンの姿は色こそ漆黒なれども、形と大きさは碧の操る愕天王と瓜二つだったのだから。
「と、いうわけで! ”ここは私にまかせて先に行きなさい” ……なんてね、なつきちゃん。クリスくん。OK?」
エレメントである鉾槍を手中に出現させ、碧はそれで先へと向かう通路の入り口をびしりと指した。
だが、言われたクリスとなつきはその申し出にわずかに逡巡する。3人で一緒に敵へと当たった方が安全なのは確かだからだ。
唯湖を救出するのに決められた制限時間があるわけでもない。確実にひとつひとつ障害を取り除いてゆくのもひとつの手だろう。
だがしかし、
「クリスくん。なつきちゃん。君達の役割はなんだ? いるべき場面はどこだ?
私、杉浦碧は正義の味方。清き想いを持つ者を守り、悪逆非道の輩を打ち倒す。ここは――」
――私の場面だ! と、碧は二人の迷いを一喝により吹き払った。
目の前のことに囚われ目標を見失うは愚劣の極み。小さな賢しい選択は時に大きな過ちに通じることもある。
突貫、ドッカン。邁進、舞想。それが信条。それが正義の味方だと、ただ不敵に一笑。碧は再び向かうべき先を鉾槍で指す。
「すまない。ここは任せた」
「ありがとうミドリ」
「なぁに、いいってことよ。私には約束の相手もいないしね、できることをただするだけ。
それよか。君達こそ私に身体張らせておいて失敗しましたじゃすまないんだからね。――がんばってきなさい!」
鉄の爪が床を蹴り、デュランとその背に跨ったなつきとクリスは先の通路へと姿を消してゆく。
それを見送り、表情を引き締めると碧は相対すべき敵の方へと振り返った。
一切の感情も信念も想いももたない冷たい表情のアンドロイドは入ってきた時と同じ場所、同じ格好でまだ佇んでいる。
「……追わないってことはやっぱ私向けの相手か。うん。
それじゃあ始めようか。正義の味方が倒さなきゃならない敵はいっぱいいるんだ。時間かけてられないっての!」
言った瞬間。それまで置物のように固まっていたアンドロイドとオーファンが先手を取るように動き出した。
碧と同じように鉾槍を取り出したアンドロイドを背に、大きな蹄で地響きを立てながらオーファンが猛突進をしかけてくる。
その先端には愕天王と同じように硬く分厚い衝角が突き出している。
もしも突き刺さるようなことがあれば、愕天王といえど、碧といえど決して即死は免れないだろう。
ならば回避するか? しかし、碧はそうしない。チャイルドである愕天王も怯える素振りひとつ見せない。
激突。
自身が本物であることを証明するかのように、碧と愕天王はただそのまま偽者を迎え撃ち――撃ち返した。
ゴウンと部屋全体を振るわせる轟音が鳴り響く。
愕天王の衝角に掬い上げられたオーファンの巨体が跳ね飛ばされ、勢いよく反対側の壁へと衝突。そしてまた轟音が響いた。
「古今東西。偽者が正義のヒーローに勝ったためしなんてないのよ。
いかに、最強無敵で絶対可憐な私と愕天王の力を真似しようとも、偽者である限りは絶対に勝てなーい!」
大きな胸を揺らしながら碧は愕天王の上ではっはっはっと大笑いする。
彼女は間違っていない。いかに正確にトレースしたデータがあろうとも、所詮コピー兵士は急造品。完成度には大きな問題がある。
チャイルド代わりのオーファンを宛がい数値上では正義の味方と互角にしてみても、実際はこんなところだ。
「そもそも、想いなくして正義と勝利はありえなーい! 通す信念もないあなた達がどうして私を倒せようか!」
勿論。そんなことは策を仕掛けた神崎にだってわかっている。
HiMEの強さは彼がなによりよく知るところだ。仮にシアーズが単独でこんなことをしていれば彼もそれを笑っただろう。
一対の偽者では一対の本物には勝てないなどというのは元より明らか。
「さてと、じゃあ今度はこっちの番よ。かっこいい必殺技をお見舞いしてやるん……だって、……え?」
だから、”三対”のアンドロイドとオーファンを彼は用意した。
壁際のシャッターがガラガラと音を立てて開き、その中から新しくそしてまたそっくりなアンドロイドとオーファンが姿を現す。
元よりいたものと合わせて全部で三対。一対一ならば碧と愕天王には勝てないだろうが、しかしこの場合はどうだろうか……?
碧の読みは正しかった。彼女をここで止める為にこのアンドロイドとオーファンは用意されていたのは確かだ。
だがしかし。それも、偽者が一対だけいれば正義の味方を気取る碧は必ず一人で残る。と神前の読んだ通りの行動。
上手を取られたと気付いた時にはもう遅い。
開いたシャッターが、そしてやってきた通路と先に進む通路の隔壁が全て閉じた。室内の空気は一気に不穏なもので満ちてゆく。
「たはは……まいったな、これは」
三体のオーファンがアンドロイドを背に愕天王へと殺到する。それぞれが必殺の衝角を碧へと向けて。
激突。そしてまた再び轟音。
地が振るえ、今度は血が流れた――……。
・◆・◆・◆・
「――あぁ、参りましたね。全くこんな古典的な罠に引っかかるとはこの私もヤキが回ったということでしょうか」
地下深い暗闇の中でトーニャはそんな言葉をぽつりと零した。
しかし、彼女の言葉に反応する何かも答えを返す誰かもその周りにはない。彼女の傍にあるのはただ暗闇だけだった。
「……とりあえず、登らないことにはどうにもなりませんね。はぁ、よっこらしょと」
愚痴っていても埒は開かないと、トーニャはデイパックから懐中電灯を取り出し濡れた岩肌を慎重に登り始めた。
先ほどまで立っていた基地の中とは違い、足場は極めて悪い。
耳に届く音からするとここから更に下方には川が流れているのだということがわかる。
もし足を踏み外して落ちたらどうなるか。想像して、トーニャは慎重に慎重を重ね、ゆっくりと確実に岩場を登ってゆく。
「さてと、どこにも皆さんの姿は見られませんねぇ……一体、どこに落ちたのやら」
ほどなく、5メートルほど登ったところでトーニャは平坦な場所へと辿りついた。
見渡せばところどころ地面は舗装されており、ちらほらと街灯が立っていて辺りはほの明るい。
少し離れたところには背の高いプレハブ小屋が見え、その周囲には鉄骨やドラム缶などが山と積まれていた。
記憶の中の見取り図を思い返し、トーニャはここが基地の最下層を通る資材運搬用道路だと気付く。
「まぁ無難なところですね」
言って、トーニャは自分が登ってきた岩壁の淵を振り返る。
さぁさぁと聞こえる水音の通り、この下は川だ。もしそこに落ちていたならば、戦場からは離れられるがまた別の危機があったろう。
「…………通信は不可能と。ええ、わかってましたけとも。一応、確認しただけです」
街灯の足元まで寄り、懐中電灯を仕舞って代わりに基地の見取り図を取り出してトーニャは、はぁと小さく溜息をついた。
始まって早々、仲間達とは離れ離れ。しかも、当てにしていた相手からは直接殺傷されないというアドバンテージも失われている。
状況としては最悪だろう。那岐や九条ならともかくとして、他の面々ならばいつ殺されてしまうともわからない。
自分にしたって、先ほどのように兵隊が50も100も集まってこられたらさすがに一人ではどうしようもないはずだ。
「みんな無事でしょうか。いや、そもそもとして落ちて死んでいないか……」
トーニャは自分が落ちてきた上の方を見上げる。
はるか上方。見取り図の記載によればおおよそ50メートルほど上に、床が外れた通路から漏れている光が小さく見えていた。
その下方には点検用のキャットワークやインフラ用のパイプなど細々したものと、小さな電灯の明かりが確認できる。
「あそこらへんに引っかかっていればどうにか無事だと思うのですが」
トーニャは暗がりの中に目をこらす。だがしかし、仲間の内の誰の姿も見つけることはできなかった。
一番小さいやよいや美希にファルなどはただの女の子もいいところで、もしここらへんまで落ちてきていたらと思うと背筋が凍る。
自身にしても落ちる途中でキキーモラを宙を走るパイプに絡めたからこそ地面との直撃を免れたわけで、
そういった手段をなんらもたない彼女達であればよくて瀕死。十中八九は真っ赤な死花を暗がりに咲かせることになるだろう。
「………………あぁ、もう! ねがねがしてても話が進みません」
もしかすると生き残ったのは自分だけ。そんなろくでもない想像を頭から振り払いトーニャは行動を開始する。
しかし、開始するも、どう動けばよいのかわからなくてその足はまたすぐに止まってしまった。
一人で神崎の下まで向かう? それはあまりにも無謀な話だ。
加えて、自分達は本命ではない。本命を通す為に敵を陽動し引き付けるのが本来の役目なのである。
とはいえそれも仲間達が固まって行動していることが前提。自分だけでは影響は微々たるもので役割は果たせない。
「頭を使いましょうアントニーナ・アントーノヴナ・二キーチナ。闇雲に動けばどうにかなるなんてことはないのですから」
再び街灯の下に戻ってトーニャはふむと唸る。
時間は無い。こうしている間にも敵兵がここまでこないとも限らない。別の場所にいるであろう仲間達の下にもだ。
やはり要求されるのは速やかなる合流。それをいかにして実現するのか、すぐに答えを出さないといけない。
「敵側にレーダーがある以上、危険でない場所というのは存在しない。
故に、集団が分割された場合はとりあえず先を目指せとそんな取り決めでしたが、しかしバラバラとなるのは想定外。
皆はどう動くのか。皆は皆がどう動くと思うのか。それを考えて……と、ふむ?」
ぶつぶつと呟きながら思考していたトーニャはハッと目を丸くしてぴたりと動きを止めた。
そしてあることに気付き、再びデイパックの口を開いて中をごそごそと漁り始める。
中にあるのは懐中電灯や見取り図の他にはサブウェポンとなる拳銃や薬がいくつか。何故かバカップル反対腕章などなど。
しかし、それらは目的のものではない。もうひとつ。メダルに代えるのは惜しいと残しておいたアイテムがあった。
「――あった」
それは、”首輪探知レーダー”。
本来。見知らぬ参加者の接近を感知する為の機器で、第1のゲームが終われば無用の長物となるはずだった物。
首輪をはめた人間がほぼ全員揃っている以上。もう使うことはないだろうと思われていた物だった。
現在。そのレーダーの上にはなんの反応も表示されていない。
高槻やよいも、山辺美希も、ファルシータ・フォーセットも、羽藤桂も、羽藤柚明も、反応はない。
反応しっぱなしだと煩わしいという場合の為に名前を登録することで非反応にする機能があり、それを使用しているからだ。
「えぇと……これで」
トーニャはレーダーを操作し、まずはひとつ高槻やよいの名前を登録から解除する。
「よし!」
取り付けられたランプが明滅し、レーダーの上にパッと高槻やよいの名前がひとつ浮かび上がった――。
以上、今回はここまでの投下となります。
次回の投下については、また追って告知したいと思います。では、支援ありがとうございました。
投下乙ですー
まずは、ウェストwwwwwwwノリノリ過ぎるだろw
けろぴーとかトミーが出てくるわ、合体ロボ化するはで吹きまくったw
玲二パートは純粋にすげー
最初は自嘲してるのかと思ったら、そこから反転・撃破
第一幕では描写の薄かったアインとの絡みもしっかり補完と、GJ過ぎる
こういうバトルが書きたいと唸らされる一戦でした
大ハッタリをかました九郎、これからの悲痛な戦いが予想されるクリス・なつき等、他のキャラも活き活きしていた
参加者を殺せないという縛りが取っ払われた今、今後がどうなるか期待大です
投下乙!
進軍開始はやっぱこうじゃないと!
初っ端は対主催有利なのは実にお約束だw
お約束だが……
青春砲にエアっておいいい!w
デモベ勢のりのりだw
はったりに『乖離剣・エア』ならば仕様がない。には吹いたはw
そしてほんのりエロイのや大胆な水攻めなどの後に来るのはファントム大躍進!
ううっむ、かっけえ、これぞ、いや、これがファントムか!
上にもあるけどアインとの関係も補足しつつ実に玲二を魅せてくれる話でした。
こういう鋼色的なかっこよさってのは書くのすごいむずかしそうなのにお見事でした
GJ! 続きも楽しみです
投下乙です!
唯湖姉が久々にらしくて嬉しかった、やっぱたまには明るい様子も見たいんだ!
まあこれからシリアスになっていくのは避けられないけど…
ウェストは空気キャラにだけは絶対にならないだろうw今回ので確信したww
そして…碧ちゃんがとてもとても心配なんだが…守りたいって言ってるキャラって
なんかひやひやすんだよな…多分大丈夫…だよな?
玲二もファントムの強さは狙撃だけにあるんじゃないって再確認させてくれて良かった!
お疲れ様です
ほ
し
ゅ
ほ
405 :
名無しくん、、、好きです。。。:2009/11/21(土) 12:16:06 ID:d6bsni+M
読み返してみたがここの書き手は凄いな
ほ
>>405 内容もだけど尋常じゃない出典作品を読んで書いてるっていうのもまたすごい
書くまでにも時間を使ってるから申し訳ないぐらいありがたく思う
というわけで保守
保守
ほしゅ
【告知】
大変、大変長らくおまたせしました。些か急ですが、
12/12(土)21:00〜22:00時頃より、GR2最終盤の更に終盤。決戦であるところの「第6弾・その2」を投下します。
※
今回の投下はこれまでで最長になるので、できればその時は支援多めでよろしくお願いします。
おおおおおおおおおおおおおおお(ゝ〇_〇)おおおおおおおおおおっけえええええええええええええええい!
後少しか
おまたせしました。これより、GR2第二幕・第6弾・その2を投下します。
・◆・◆・◆・
「――これにより、北部学園地下出入り口から侵入してきた参加者達は地下洞窟内へと転落。
それぞれが1人ないし2人の組に分断されました」
司令室の定位置である椅子に深く腰掛け、神崎は神妙な顔で秘書からの報告を聞いていた。
目の前のモニターを見ればその報告内容も一目瞭然ではあるが、しかしあえて報告を遮るようなことはしない。
多少の無駄があろうとも、構成員のそれぞれに仕事をそれなりにさせることもまた組織活動を円滑に進めるのには必要なことだ。
「それで、彼らが再び合流する可能性についてはどうでしょうか?」
「はい。分断後の通路の連絡は悪く、こちらの妨害も入ることを考慮すればそれも難しいかと」
秘書の返答を聞き、神崎はふむと納得してみせた。
できることだからといって、組織の長が部下から仕事を片っ端から奪っていては組織は成り立たない。
一人ではどうにもならない場面はいつかやってくる。
その時までのウォームアップ。または新陳代謝として、構成員を休ませない。達成感を与え続けるというのは重要なことだ。
一番地の長として、また風華学園生徒会副会長という役職の中で神崎黎人が学んだノウハウである。
「順調ですね。では、このまま事を推移させるとしましょうか。
重視すべきは強大な戦闘力を有する魔術師や、本来のHiME達です。オーファンやアンドロイドはこちらへと集中させて下さい。
その他に関しては、事前に行った戦力評価に基づき適宜、戦闘員を当ててこれを牽制、撃破するようお願いします」
そして……と、言って神崎は視線を秘書からモニターへと移した。
「凪を見つけてください。おそらくはいずれかの参加者の近くにいるはずです。アレの発見を最優先にするようお願いします」
凪――神崎より離反し、本来の那岐へと戻った彼の反応はモニター上にはない。
そもそもとして反応自体が首輪から送られてくるものに限られるので、元から首輪をしていない彼と九条は映らないというわけだ。
本来首輪に持たせていた監視機能にしても九条の手によって封じられている。となれば実際に見つけるしか方法はない。
「最終的に、アレを落とすことがこちらの勝利条件です。
その意味では魔術師やHiMEなどを無理に落とす必要もない。
発見すればそちらから戦力を動かすこともありえますので、そのつもりで連携を取るようお願いします」
神崎は秘書にそう指示を出し、そして今度は脇で控えていた警備本部長とのやりとりへ移る。
「言霊で制御されている戦闘員の士気はいかがでしょうか?」
「悪くないわ。問題は事前に想定していた以上には出ていない。使えない人員が出ないのはありがたいし、メリットの方が上よ」
もっとも操られている彼らは気の毒だけどね。と、警備本部長はいやらしい笑みをこぼす。
「言霊に綻びは出ていませんか?」
「そういう報告はまだないわ」
「ふむ。では、言霊をかけた彼女の様子はどうでしょうか?」
「これも、これといった変化はなしね。ずっと控え室でおとなしくしたままよ。
なんなら移動させようかしら? 参加者と接触する可能性もなくはないことだし」
提案され、神崎は少し考える。
彼女――言霊を使うあやかしの少女すずは主催側にとって大きなウィークポイントとなりえる存在だ。
もしも、参加者らに出会い術を解かれるようなことがあれば、組織が組織の体を維持できなくなる可能性は高い。
「……いえ、結構です。
想定していた避難場所である最下層も水没してしまいましたことですし、下手に動かして感づかれるのもよくありません。
現状維持で、また大仰な警備も必要ありません。そのままそっと置いておいてください」
しかし、神崎はそう決定を下した。
警備本部長は一瞬怪訝な顔したが、確かに彼の言う通りでもあると納得し命令を受諾する。
「先の放送で大口を叩いてしまいましたからね、これで死者が出ないとなると向こうを調子付かせることになるでしょう。
最終的に勝てばそれでよしですが、結果を出すには過程も重要です。これより数時間、よろしくお願いしますよ」
それから細々とした打ち合わせをして、定期的に行われる報告会を以上の言葉でしめると神埼は秘書と警備本部長を見送った。
ふたりがいなくなったところで、ぬるくなった紅茶に手を伸ばし一息つく。
「順調すぎるというのも怖いものだな……」
口からは不安の言葉を、顔には余裕の笑みを浮かべて神埼は紅茶を飲み干す。
・◆・◆・◆・
「もう……っ、いきなり床に穴が開くなんてまるでコントだよ……」
基地の奥へ向かう桂を襲った突然の出来事。
ぱかっと音を立てるように開いた床に彼女はどうすることもできずに落ちていくだけだった。
暗い穴を、地獄の入り口のように蓋を空けた穴を、落ちていく。
そしてどこまでも落ちて行くような感覚の後、全身を襲う衝撃と冷たい水の感触。
まるでプールに頭から飛び込むのに失敗して全身から着水したかのような衝撃だった。
幸いにも水温はさほど冷たくもなく、深さはあるものの流れもそれほど急でなかったため、溺れることは避ける事が出来た。
「けほっ……けほっ……ううっ鼻に水が……ここはどこなんだろう……」
きょろきょろと辺りを見渡してみると、桂が落ちた場所は天井が学校の体育館よりもずっと高い洞窟の中だった。
脇には、先ほどまで流されていたこれもまた幅の広い川が穏やかに流れている。
そしてそれは洞窟のさらに奥に向かって流れていた。
「ううっ……寒いよぉ……」
洞窟特有のひんやりとした空気がずぶ濡れになった身体を芯から冷やし、くしゅんとくしゃみが出る。
「服――乾かさないと……って! みんなどこ!?」
ようやく自らの置かれた状態に気がつく桂。落ちた時にみんなと離れ離れになってしまっていたのである。
洞窟は最低限の照明がわずかに壁と床を照らしているだけで、見通しはあまりよくない。
静寂と闇が桂の不安を駆り立てる。
他のみんなは?
柚明の行方は?
「柚明お姉ちゃん……」
ぽつりと柚明の名を呼びかける。
けれども返事はなく、静かに流れる水面の音が僅かにするだけ。
呟いた言霊はさらに桂の心を不安の色に塗りつぶす。
「柚明お姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
だから叫ぶ、不安を振り払うように。
洞窟内に潜む『敵』の存在に自らの居場所を気づかれるかもと思っていても。叫ばずにはいられなかった。
ややあって――
『桂ちゃぁぁぁぁん、どこにいるのーーーーーーー!!』
洞窟の壁に大きく反響する柚明の声に桂の顔がぱぁっと明るくなる。
桂はその方向に向かって駆け出した。
声の反響具合から考えてそこまで柚明とは離れてはいない。
桂の常人を超えた聴覚は柚明の居場所をしっかりと把握できていた。
そして数分ほど走った先に、桂と同じくずぶ濡れになった柚明と那岐がいた。
・◆・◆・◆・
「よかったあ……柚明お姉ちゃんが無事で」
「ええ……桂ちゃんこそ……」
無事の再会を喜びあう桂と柚明。
「桂ちゃん桂ちゃん、僕だって無事なんだけどねー」
「うんっ、那岐くんだって無事で何よりだよ」
肩をすくめる仕草で飄々と笑う那岐に屈託のない笑顔で答える桂。
「プールで特訓したおかげかな、わたしは全然溺れることもなかったよっ。柚明お姉ちゃんは?」
「えっ、えーと……あのう……」
柚明は顔を赤らめてちらりと那岐の顔を伺う。
那岐はにやにやとした笑みを浮かべ柚明と桂を交互に見比べていた。
那岐の話によると、
那岐自身は落ちた時に身を翻し地面にうまく着地したのだが、柚明のほうはそのまま水面に落ちたのこと。
そして溺れかけていた柚明を那岐が助けたということらしい。
「まあ、柚明ちゃんは大量の水を飲んで意識を失っていたわけじゃないから、お楽しみなイベントが出来なかったのが残念だったけどねっ」
「イベント……?」
「ほら人工呼吸という名のキ――」
「ちょっ……那岐君何言ってるの!」
「あははは……」
苦笑する桂。
しかし何はともあれ二人とも無事で良かったと胸を撫で下ろす。
「でも他の人は――」
桂の問いに柚明は無言で首を振る。
「ごめんなさい……ここにいたのは私達だけみたい……『蝶』を飛ばして探ってはいるけど……」
そう言った柚明の元に青白い光を仄かに放つ月光蝶がひとつふたつと戻ってくる。
蝶は柚明の周りをふわふわと飛び回りやがて淡い光を残して消えた。
「やっぱり駄目ね、この洞窟にいるのは私達だけみたい」
「そうなんだ……それにしてもここはどこなんだろう……」
川が流れる広大な洞窟の天井を見上げ呟く桂。
落ちた拍子で方角もわからなくなってしまっていた。
「おそらく……僕達が突入した風華学園のさらに北かな。目的地のほぼ反対方向に行ってしまったようだね」
「そんなぁ……この洞窟に出口はあるのかなあ……」
「それは大丈夫だと思うよ」
「? どうして」
「ほら、壁に照明器具がいくつも取り付けてあるからね。人の出入りがある証拠さ。それに――」
「それに――?」
オウム返しに質問する桂に那岐は少し間を置いて答える。
「この川の上流……つまり島の中心部に向かって『力』の流れが集中してるんだ。おそらくそこに何かがあると僕は踏んでるんだけどね」
「何があるんだろう……」
「そこまではわからないけど神崎君……一番地はそういった地脈を利用する術を心得てる。
少なくとも僕らにとってマイナスの効果がある『何か』がある可能性が高い。
ま、僕の手にかかれば霊的なトラップなんか簡単に解除して、おまけに僕らの益になるように術式を組み替えるなんて簡単さっ」
「へぇ〜〜那岐くんってすごいんだねー」
「伊達に長く生きてはいないってことだよ。日本で発達した修験道や陰陽道などの魔術の解析は僕にお任せあれ」
とりあえずの三人の目下の目的は川の上流存在する何かを調査することである。
出発しようとする三人だが――
「くしゅん」
と、小さな声。
桂は那岐を見る。しかし那岐は「僕じゃないよ」と首を振る。
柚明のほうを向くと、柚明はばつの悪そうな顔で鼻を啜っていた。
「ご、ごめんなさい……ちょっと水に濡れすぎたせいで……」
桂も柚明も水に濡れたまま、髪も乾ききっていない。
「うーん、着替えたいけど……着替えなんか持ってきてないよね……」
「いやあ〜僕としてはこのままでも――」
下心まるだしの視線で桂と柚明を見つめる那岐。
洞窟内は薄暗いためはっきりと見えなかったが、
桂の白いブラウスはぴったりとその柔肌に貼り付いている。
そして透ける白い肌と、控えめの胸を包む薄緑のブラジャーもすっかり透けて見えてしまっていた。
そしてさらに眼を凝らして胸を凝視すると、小ぶりな胸の頂上に鎮座する薄い紅色の――
「(おおっこ、これは――っ!!)」
ぽかっ
「あ痛っ!」
那岐の頭頂部に桂の拳が振り下ろされた。
「もうっ、那岐くんったらどこ見てるの!」
「あは、あははははははーっ」
口笛を吹いて誤魔化す那岐だった。
「でも、このままだと風邪引いちゃうよね……ねぇ那岐くん?」
「ん? なにー?」
「那岐くんの力で火とか起こせないのー? こう……ぱぁーって」
「んー……出来るけど疲れるからパス」
「ええーっ!?」
「だって燃やす物が何もないからねー。自分の『力』だけで火を起し続けるのは結構疲れるのさ」
「そんなぁ……」
「と言っても可憐な美少女達が風邪を引くのを黙って見るのも男が廃るからねぇ……ここは一つ交換条件ってことで」
「条件……?」
那岐はにんまりとした笑みを浮かべて言った。
「後で桂ちゃんの血が欲しいなー」
「なんだあ、それなら――」
「駄目! 絶対駄目です! 桂ちゃんの血を飲むなんて……! それも直接肌にく、口を付けて飲むなんて!!」
「えー、僕だっていい加減桂ちゃんの血が欲しいなー。いっつも誰かさんが邪魔して飲めないんだから〜」
口を尖らせてぶーぶーと柚明に抗議する那岐。
見かねた桂は……
「あのね、わたしは柚明お姉ちゃんに風邪を引いてほしくないなぁ……」
「ううっ……」
「(GJ! 桂ちゃん)」
「それに……アルちゃんや柚明お姉ちゃんばかりがわたしの血を一人じめするのは那岐くんに悪いもん……」
「(いいよいいよー、ナイス援護射撃)」
「わ、わかったわ……桂ちゃん。その代わり那岐君は桂ちゃんの血をコップに入れて飲むこと!」
「えー僕もみんなみたいにインモラルな体験したい――」
ちくりと、那岐の背中に何かが当たっていた。
そろりと後ろに視線をやると、桂に見えない角度で柚明の召喚した『剣』が背中に突きつけられている。
「何か――言った――かしら?」
「イイエ、ナンデモゴザイマセン」
こうして那岐は柚明の要求を呑み、
桂達はひとまず那岐の起こした火で濡れた衣服を乾かし暖を取るのだった。
・◆・◆・◆・
「……う、う〜ん……こんなダメダメな私は、穴掘って埋まっておきますっ……」
「……よい。お…………い……ら」
「うぅ……す、すごいでしゅ。雪歩さんが掘った穴、底がじぇんじぇん見えなひ……」
「……やよい。おい。おいったら」
「ふわぁ〜おちる、おちちゃいます……うごごご、どりるが、どりるがぁ〜」
「こらぁー! 起きろやよい! いつまで変な夢見てんだっ!」
「ふゅわぁぁっ!?」
素っ頓狂な声を上げて、高槻やよいは目を覚ました。
ぐらんぐらんと揺れる頭を、パペット人形を嵌めた右手と空いている左手でがっちりと固定する。
目を見開き、閉じ、まばたきを十数回。現実へと帰還する。
「ぷ、プッチャン!? あれ……ここ、どこですか? なんだか暗い……」
ついさっきまでは、照明設備の整った明るい通路を歩いていたはずだ。
それが今はどういうわけか、周囲の景色が薄暗く変わってしまっている。
やよいは記憶もおぼろげに、困惑に満ちた表情で右手のパートナー――プッチャンを見た。
「ったく、緊張感ってものが足りてねーぜ。落とし穴にはまったこと、もう忘れちまったのか?」
「落とし穴……そうだ。私たち、歩いてたら突然床がパカッ、って……」
思い出す。
これといった前兆はなく、極めて古典的に、やよいたちは落とし穴というトラップに引っかかった。
基地の通路から落とされた先、地下洞窟へと通じる縦穴の途中、無骨な金網の道が、やよいの現在地だった。
そして彼女の小さいな体を包み込むように保護しているのは、一つ目のスライムである。
「てけり・り」
結構な高さから落ちたのだろうやよいの身は、どうやらダンセイニの軟体によって落下の衝撃から守られたらしい。
ゼリーみたいにぷよぷよした感触を確かめつつ、やよいはダンセイニに礼を言う。
彼がクッションになってくれなかったら、今頃はどうなっていたかもわからない。
「私、気絶しちゃってたんでしょうか……?」
「突然のことで驚いちまっただけだろ。気を失ってたのはほんの二、三分だ。ダンセイニのおかげで怪我もないだろ?」
「身体は、大丈夫ですっ。でも、その……ごめんなさい」
「おいおい、今は謝ってる場合じゃないだろ? ポジティブにいこうぜ、ポジティブに」
みんなの足手まといにはなるまい、そう心に誓って、ホテルを出発したっていうのに――。
まずは一回、ダンセイニに助けられてしまった。
そんな自分を不甲斐なく思い、やよいは落ち込まずにはいられない。
「あの、それでここ、どこなんでしょう? 暗くて周りがよく見えないですけど」
「迂闊に動くなよ。これはたぶん、キャットウォークってやつだ」
「キャットウォーク? ネコが歩く……ですか?」
「おう、二重丸だぜやよい。工事現場なんかで見たことないか? 高いところを行き来するための細長い通路さ」
「あ、それって見たことあるかも。よく、あんなに細いところ歩いて落ちたりしないのかなーって心配になるんです」
「その心配になっちゃうような細いところに、俺たちは運よく引っかかったんだよ。懐中電灯あったろ? つけてみな」
ウォーターベッドと化したダンセイニの上で、やよいはがさごそと肩掛けのデイパックを漁る。
取り出した懐中電灯のスイッチを入れると、周囲の状況がよりよくわかった。
キャットウォークの横幅はほんの一、二メートルほどしかない。両脇に壁はなく、それどころか手すりすら見当たらなかった。
もし足を滑らせでもしたら、なにかに掴まることもできず下までまっさかさま。考えただけで背筋が震える。
少し離れた向こう側に、別のキャットウォークの影が見えた。作業用の小型ランプが、心許なく点灯している。
懐中電灯をキャットウォークの真下に照らしてみると、延々闇が広がっている。どうやら、まだ“下”があるようだ。
「……他のみなさんは大丈夫でしょうか?」
「トーニャや桂は心配ねーだろ。美希とファルはちょっと心配だがな。ま、そのへんはたぶん那岐が面倒見てるだろうし」
「てけり・り」
「俺たちにはダンセイニがいてくれて助かったな」
「はい……」
やよいはもう一度、ダンセイニにお礼を言った。
幸運なことに、やよいが落ちた場所はそれほど下層ではなかったようだ。
他のみんなはもっと下に落ちたのか、それとも上のほうにいるのか。そのあたりの判断がつかない。
「なんにしてもよ。俺たちは敵さんの罠にまんまと引っかかっちまったってわけだ。なら……どうするべきかわかるな?」
「えっと、落とし穴にはまってみんながバラバラになっちゃったわけですから……まずはみんなと合流、ですね」
「よしよし、今度は花丸だ。敵さんがこっちに向かってくる危険性もあるし、とりあえずはさっさとここを離れるぞ」
「はいっ!」
「てけり・り」
こんなとき、右手にプッチャンが――頼れる仲間がいてくれてよかった、と心から思う。
他のみんなとは離れ離れになってしまったけれど、この右手の絆はそう簡単に断ち切られるものではないから。
プッチャンがいる限りは、高槻やよいはひとりぼっちじゃない――そんな安心感をエネルギーにして、
(みんな……きっと、きっとだいじょうぶ……だよね?)
押し寄せてくる不安という波に、懸命に逆らってみせる――つよがり。
・◆・◆・◆・
カンカンカン――と、小気味よい音を立てて暗闇の中を一匹の銀狐が駆けている。
「と、当てが外れましたか?」
銀狐――トーニャは狭い金網の足場の上で一端足を止めると、周囲を見渡してぽつりと零した。
レーダーに映った高槻やよいの反応。
とりあえずは一番近くにいた彼女と合流しようと、大体の見当をつけて地底から登ってきたわけだが、
しかし見渡す暗闇の中に彼女や、おそらくは彼女と同行しているであろうプッチャンやダンセイニの姿は見えない。
「そういうわけでもありませんか」
トーニャはその場でしゃがみこみ、懐中電灯の光の中でてかる何かへと指先を伸ばす。
ぬちゃりと、そんな感触を返してきたそれはまぎれもなくあの軟体生物、ダンセイニの零した粘液に違いなかった。
となれば、ここらへんにいるだろうと考えたトーニャの推論は当たっていたことになる。
「移動を開始してしまいましたか。
アクティブなのはいいのですが、正直な話。要救助者はその場を動かないのが基本なんでけどね……」
懐から再び首輪探知レーダーを取り出し、トーニャはやよいの現在位置を確かめる。
ピ、ピ、ピ……と断続的に繰り返す音の間隔が長くなっていくとおりに、彼女の位置はここより離れつつあった。
「敵前逃亡をしなかったことだけは褒めてあげましょうか。では――」
追いつきますよ。と、一番地中枢に向かって進むやよいを追って、トーニャもまた再び駆け出した。
・◆・◆・◆・
「……クリス、離れるなよ?」
「大丈夫、わかってるよ。なつき」
碧に後を任せて、私達は細長い通路を先へと進んでいた。
残していった彼女が若干心配ではあるものの、彼女ならきっと大丈夫だろう。
私はただ、クリスの手だけをしっかり握って前へと歩き続けている。
(クリスは死なせない……絶対に)
そんな確固たる意志を私は持ちながら。
絶対、絶対に死なせない。
それだけは絶対にあってはならないから。
「……なつき?」
「……ん、ああ。大丈夫だ。心配ない」
そんな心の振るえが伝わったのだろうか?
クリスが心配そうに話しかけてくれる。
私は笑顔で頷いて本当の事を隠す。
彼に隠し事なんてしたくないけど、これもクリスの為なのだから。
私はクリスがやるべき事、夢を応援したい。
見守って傍に居続けたい。
だから、今は彼を護る。
それが私に出来る事なのだから。
(勿論……少し寂しいけどな)
だけど、今のクリスが目指してるのは来ヶ谷唯湖を止める事。
その、まあ……やっぱり悔しい面はあるし寂しいのもある。
私だって……まぁそんな事は今はどうでもいい。
第一こんなことを言える訳も無い。
きっと彼は曖昧に笑って返すだけだ。
だからそっと心の底に隠すだけ。
ちょっと哀しいけど……それがクリスの為なんだから。
私はそれを喜んでできる。
そんな矛盾抱えながらも歩き続けていた。
手から不思議な、離したくない温かさを感じながら――。
「っと分かれ道だな……どちらに行く?」
「んーと」
二つに分かれた道を見ながら、クリスへと選択を促す。
どちらの方も先の風景に大差はない。
ただ、これまでと同じく通路が延びているだけだった。
クリスは両方の通路を繰り返し覗き込みながら、どちらを行こうか考えている。
私はその姿を見ながら、彼を守護するためにあたりを警戒し、
「――っ!? 危ない!」
すぐにクリスの背を低くさせた。
通路の一方からから飛んできた銃弾が耳元を掠める。
その先から走ってくるのはまごうことなきアンドロイド。襲撃者だった。
「クリス離れていろ!」
「う、うん」
クリスをもう片方の分かれ道に身を引かせ、私は両手の中にエレメントを発現させる。
そして、そのまま
「こいっ! デュラン!」
強く響く嘶き。
私のチャイルド、デュランが顕現させた。
そしてそのままデュランに対して命令を下そうとする。敵を、噛み砕けと。
「デュラン……、――なっ!?」
その時、背後で轟音が響き始めた。
私とクリスの間に隔壁が下りてきたのだ。
「デュラン、敵の相手を頼む!」
デュランに命令を下し、私は慌ててクリスの下へ急ごうとする。
だけど無情にも鉄の壁は早く降りてきて、とても間に合いそうも無かった。
「くっ……くそ……クリス」
壁から見えるクリスの姿が段々見えなくなっていく。
それが今生の別れになるようなそんな気がして、ひどく嫌な気持ちが胸を掻き毟った。
……クリス。
「クリス、また逢える……よな?」
「うん! だから大丈夫!」
クリスの返事。
……クリスから初めて聞けた応え。
それがただ嬉しくて……
だから私は
「クリス、進めっー! 振り返らず進めっー!」
笑ってクリスを送り出していた。
彼が叶えなければいけない夢の為に静かに笑いながら。
それでも、胸を締め付けめてくる哀しみに耐えながら。
クリスに振り返らず歩いて欲しいと願って。
涙を堪えて、見送った。
そして完全に通路を閉ざす隔壁。大きな音が響いて通路は断絶された。
私は、何を考えるでもなく静かに振り返る。
そこに居るのは相変わらず能面の様に無表情なアンドロイド。
私は感情を抑えずにただ叫ぶ。
「ふん……今の私は本当に――――――機嫌が悪いっ! 覚悟は出来ているんだろうな?」
ただの八つ当たりを。
クリスの傍に居れなくなった悔しさを。
クリスを護る事が出来なくなった悔しさを。
クリスを別の女の為に走らせることしてしまった悔しさを。
「容赦は……しないっ!」
目の前の敵にぶつけていた。
・◆・◆・◆・
乾いた破裂音が鳴り、次に金属同士がぶつかり合う甲高い音。そしてゆっくりと硝煙が漂う。その繰り返し。
本来ならば昼食の準備を開始し食欲をそそる匂いを漂わせているはずのそこに、今は真逆の匂いが立ち込めている。
地下基地内のどこか。大食堂の奥の厨房の中の更に奥。頑丈な調理台の裏に小柄な少女の影が2つあった。
入り口から姿を現す戦闘員を見ては抱えたアサルトライフを正確に撃ち込むのは山辺美希。
そしてその脇でけたたましい銃声に耳を塞ぎ、すまし顔で座っているのはファルシータ・フォーセット。
美希が引鉄を引き銃口が火を噴くと、タタタと小気味いいリズムに合わせて戦闘員が踊り血を吹き上げる。
舞踏は一瞬で、1フレーズを終えると戦闘員はもんどりをうって床の上へと崩れ落ちた。
見れば踊りを終えた者達が3人4人と床の上に転がっており、冷たいタイルの上には真っ赤な川が流れている。
「すいません。ファルさん!」
「……? なにかしら?」
入り口へと銃を構えたままの美希に大声で話しかけられ、ファルは耳を覆っていた手を下ろした。
「あの、ファルさんの後ろに冷蔵庫があるじゃないですか?」
「……ええ、確かにあるけれども。これがどうかしたの?」
「空けてもらえます?」
「お安い御用よ。それでどうするのかしら?」
飲み物が入ってません? と、問われてファルの頭がかくっと落ちた。
この修羅場においてはずいぶんな余裕だと自身を棚において感心し、ファルは冷蔵庫の中から適当な飲み物を取る。
ストローを挿して銃を構えたままの美希に飲ませてあげ、そしてぱくと口にして自身の喉も潤した。
嚥下する飲み物の冷たさを感じながらファルは考える。どうしてこんなことになってしまったのかと――。
「今頃、他のみんなはどうしてるんでしょうかねー? ヒロイン美希としてはヒーロー募集中なんですけれども」
「さぁ? じゃあ、戻って穴に飛び込んでみる? 案外、すぐに誰かと合流できるかもしれないわよ」
「それがいやだって言ったのはファルさんじゃないですか」
実はこの2人。幸運なことにもあの落とし穴には落ちなかったのである。
とはいえ、真実に幸運かというとそれは微妙なところであった。他の全員が穴の中となるとはぐれたことには変わりないのだから。
ぽっかりと空いた穴のふちでどうするかと悩んで数分。結局は戦闘員に追われるようにその場を離れ、現在に至る。
しつこく追い掛け回してくる戦闘員らと鬼ごっこをして基地の中を右往左往。今はどこらへんにいるのか、それもわからない。
「シュートヒム!」
再び厨房内に銃声が鳴り響き、新鮮なお肉が床の上へと転がる。
不幸中の幸いか、言霊によって盲目的に追ってくる戦闘員らは美希にとっては組みやすい相手らしかった。
なにせ保身を考えずに突っ込んでくるばかりである。
躊躇なく撃てば弾を命中させることは容易で、射手である美希にその躊躇は一切ない。
「私達とあなた達。どっちが恵まれていなかったのかしらね?」
ファルは床に転がる物言わぬ躯へと呟きかける。
一番近くに転がっているのは線の細い女性で、その奥には肥満体の中年男性。今倒れたのはそれよりも年かさの男だった。
どれも決して戦闘が本職とは思えない者たちばかりだ。総力戦とあって言霊で無理に戦わされているのであろう。
儀式の間は殺し合いを横目に平凡な職務を果たしていればよかっただけの者が今は死闘を強制されている。
最初からそうだったファル達と、今この時にそうなってしまった彼ら。本当に不幸なのはどちらなのか?
「――アン、――ドゥ、――トロワ!」
そんな彼らを容赦なく撃ち殺す美希を見てファルはたいしたものだと思う。
自分にはとうていできないことだと。そして実際にファルは未だ一発の弾丸も発射してはいなかった。
「りろーどぷりーず!」
「どうぞ」
ファルは抱えていた自身のアサルトライフルを渡し、弾切れをおこした美希のものを代わりに受け取った。
熱のこもった銃身で火傷をしないよう気をつけ、弾倉を新しいものへと交換し、空になったものへ弾丸をこめなおす。
慣れない手つきでそうしている間に、また一人の戦闘員が音を立てて床に崩れ落ちた。
的に向かってそうするように人を撃つ美希に、やはりこんな真似はできないなとファルは溜息をつく。
「……なんだか悪いわね」
「なれてますから」
彼女と自分とが似たもの同士なのは間違いない。
この数日でそれはより実感することとなった。だが逆に、似ているからこそ違う人間だともやはり感じてはいる。
身の内に感じるどうしようもない渇き。それを潤すなにかを求め、辛い道程を顔を伏せて進んでいる。それは変わらない。
社会という人間同士が向き合うステージに立つための仮面。それを用意して使い分けているのも同じく変わらない。
そもそも違う人間だから、育ってきた環境が違うから、当たり前のことだが、その当たり前が今はとても興味深かった。
「そろそろ移動した方がいいかもしれません」
「そうね。ここもじきに定員オーバーだものね」
さてと、ファルは後ろを振り返り壁際に空いた四角い穴へと目を移す。
いわゆるダストシュートというものであり、いささか以上にそこを通るのは遠慮したかったが、それも命と比べるものでもない。
最後に一口、飲み物をストローから吸い上げる――と、そこで聞きなれないピンが抜けるような音が聞こえた。
半分だけ開いたドアの隙間から何かが投げ込まれる。
なんだろう? そう思った時にはもうファルはまだ半分中身の残ったドリンクの缶をそれに向けて投げつけていた。
投げ込まれたのも缶。そう気付いたのは缶同士が空中で衝突する瞬間だった。
視界が、白に、染まり、音が、世界を掻き消した――……。
・◆・◆・◆・
「ナイスプレーでしたよ、6番ライトのファルさん」
「まだ頭が痛いわ。それに喉と目が沁みるわね……ベッドの上で横になりたい気分よ」
とうとう埒があかないと悟った戦闘員が投げ込んできたスタングレネード。
それをいかなる奇跡か、同じ缶をぶつけて跳ね返したファルは美希に手を引かれて無人の通路を駆けていた。
直撃は避けたにせよ近くで爆発したことには変わらず、目はチカチカしたままだし、耳鳴りもすれば、目も喉は沁みる。
「どうしてあなたはそんなに平気なのよ」
「咄嗟に台の下に飛び込みましたから。てへっ☆」
まったく頼りになるわね。と、ファルは笑った。恨み言はなしだ。彼女は手を引いてくれている。それでチャラ。
「さてと、どこに行けばいいんでしょうか?」
「とりあえず顔を洗ってうがいをしたいのだけど?」
軽い足音を揃え、軽口を叩きあい、美希とファルのふたりは無人の通路をひた走る。
右へ左へと角を曲がり、そしてどの先にも敵の姿はなかった。これも先導する彼女の危機察知能力によるものか?
だがしかし、勝ちの目だけを出し続けるサイコロは存在しない。
彼女達にはそれだけで事態を乗り切る実力が備わってはいない。
厨房を脱出してからちょうど7つ目の角。
右か? 左か?
迷って、選んだ先には彼女達の命を奪う20の銃口が向きを揃えて待ち構えていた。
そして、
雷のような和音が細長い通路の中を通り抜けた。
・◆・◆・◆・
「……ふぅ。これでひと段落ですか?」
地下深く広がる基地の片隅。
縦に縦にと長い階段の途中、踊り場の上でトーニャは壁に背を預けるとふぅと息を吐き、呼吸を整えなおした。
その足元には死屍累々……とまではいかないが、階段を見下ろせば数人の戦闘員が血を流しその屍を曝している。
装備は全員共通しておそろいのマシンガン。
トーニャがやよいを追って階段を上り、真ん中あたりまで達したところで上下から挟み撃ちを受けた。
おそらくは待ち伏せだったのであろう。首輪の反応により正確な位置を知ることのできる主催側なら当然の戦略だ。
だがしかし、10人足らずほどの名も無き兵士などトーニャの敵ではない。それらを一蹴するのにさして時間はかからなかった。
「あまり、いい気分とは言えませんね」
彼女が今、息を切らして、そして勝利の喜びとは逆の表情を浮かべている原因はその目の前にあった。
踊り場の角。血にしか見えない赤色の液体で床を濡らして横たわっている仲間とよく似た姿のアンドロイドである。
「コンビネーションは評価しましょう。しかし底が割れましたね」
ただの人間である戦闘員を囮にしてのアンドロイドによる奇襲。
なるほど、これは効果的だとトーニャは戦闘の最中にそう思った。実際、反応が遅れていれば負傷していた可能性は高い。
結果としてはどうにか無傷。体力と時間の損耗だけでことなきを得たが、それはあちら側の非には当たらないだろう。
しかし、戦闘員10人ほどにアンドロイド1体。
それだけしかトーニャに当てられなかったことが主催の物量の限界だとも知ることができる。
「まぁ、活躍らしいそれもありませんでしたから私が舐められているという可能性もありますが」
とりあえずは追撃がないことに安堵して、トーニャはレーダーを懐から取り出す。
もう少しでやよいへと追いつけるはずではあったが、時間をとられたせいか彼女の反応はもう探知し得る範囲にはなかった。
「こんなことなら、レーダーの改造を依頼しておけばよかったですね。
科学者アレルギーのせいでしょうか、すっかり失念していました。やれやれですが――と」
その代わりにか、美希とファルの反応が探知圏内へと入り込んできていた。
こちらはやよいと違って、今頃トーニャがいる辺りへと追いついてきたらしい。そして、その反応はとても近い位置にあった。
しかし、美希とファルの姿をトーニャは見つけることができなかった。
「これは……」
通路に充満する血の匂いにトーニャは顔をゆがめる。
追って辿ってきた通路上でもそうであったが、どうやらあの2人は中々順調にスコアを稼いでいたらしい。
20人か30人かだろうか、少なくとも倒した敵兵の数で言えばトーニャを上回っていたのは確実だ。
そして、更に20人ほどがトーニャの辿りついた通路の中で倒れ伏せていた。ちょうど美希とファルの反応があった辺りである。
しかしながら、やはりそこに美希とファルの姿は見当たらない。
「……別の階に移動したんでしょうか?」
手の中にあるレーダーの上ではトーニャと2人の反応はほぼ重なっている。少なくとも視界に入らない距離ではない。
だがしかし、縦の位置関係についてはほとんどわからないのがこのレーダーの欠点だ。
「そこにちょうどエレベータが見えますし……さて、今度こそ追いつくとよいのですけど」
嘆息し、トーニャはまた駆け出そうとする――も、一瞬、何かに気付き、また通路を振り返った。
どこか、どこかに違和感がある。目の前の光景。床に伏せた警備兵達。何かおかしい。何か不自然……。
「違います……ね。これは彼女達の”仕業”じゃない……」
先の通路で倒れていた兵士達は皆、その身体のどこかに銃弾を撃ち込まれた痕があった。
だがしかし、ここに倒れているものはそうでない。ある者は胸を陥没させられ、ある者は首をへし折られていた。
はたして、これは一体何を意味するのか――……。
・◆・◆・◆・
灰一色だった床は赤のまだらで、静寂は密やかを表すものから別のものへと変じ、満ちる空気は死のそれになっていた。
那岐を先頭とした一行が地下に降りて最初の洗礼を受けたあのコンテナが立ち並ぶ場所に、ひとりの女性が立っている。
正確に言えば、彼女しか立っている者はいなかった。
侵入者を迎え撃つべく待ち構えていた者らはことごとく深い血溜まりの中に沈んでいる。
「これで、ここは終わりかしら?」
ひとりごち、辺りを窺うのはひとりの科学者であり、母であり、そして戦士である九条むつみである。
追撃を食い止めるべくしんがりを務めていた彼女は傷ひとつ負うことなく、また髪の一本を乱すことなくそこに立っており、
そしてその両手には娘と同じ対の拳銃が握られていた。
エレメント――高次物質化能力を持つHiMEだけが有する独自の武装。
それをなぜ彼女が手にしているのか? その答えは至極簡単なものである。彼女もまたHiMEであるからだ。
星詠みの舞による12人のHiME同士による決闘。
これは300年ごとにしか発生しないが、しかし実はHiME能力者そのものはそれ以外の時にでも現れる。
また補足すれば、現れるHiMEにしても常に12人というわけでもない。12人というのはあくまで儀式に必要な人数のことだ。
そしてHiMEの能力は血によって、シアーズに言わせればDNAによって受け継がれてゆく。
九条むつみ。本名を玖我紗江子という彼女もHiMEの血統に連なる者で、娘と同じくHiME能力の発現者であった。
正しく言うならば、娘のなつきこそが彼女と同じ能力を受け継いでいたということだ。
そしてその実力は娘である玖我なつきを遥かに凌駕する。
「――!」
足元に射した影に気付くと九条はその場を飛び退り、頭上から襲い掛かってきたアンドロイドの一撃をなんなく避けてみせた。
次の瞬間。九条がいた場所にガッと火花を散らして大鎌が突き刺さる。そして、――戦いはそこまでだった。
避け際に放たれた弾丸により中枢神経を破壊されたアンドロイドは降りてきたままの姿勢で機能を停止している。
まるで最初からそこにそういうオブジェがあったかのように。そして反響した銃声が鳴り響いたのはそれから少ししてからだった。
このように、星詠みの舞に参加していない故にチャイルドこそ有さないが、その実力は現代のHiMEと比べてもなんら遜色はない。
もしも儀式が一世代前に行われていたら勝者は彼女だったのではないかと、そう想像できるほどの実力があった。
今度こそ敵は全て排除したと確認し、九条は血溜まりの中で伏せている戦闘員らを避けて広い空間を横切ってゆく。
倒れている中には彼女の知っている顔もいた。顔見知り程度の者もいれば、趣向品を融通し合ったような仲の人物もいる。
だがしかし、これが非合法、非人道の組織に与する者の避け得ない末路なのだ。
その道に入るということは、その理の中に自分を置くということなのである。
彼らは引鉄を躊躇いなく引いたし、九条もそうした。ただそれだけ。
どちらにも覚悟があった。だから感傷はない。ただ、少しだけ心が乾くという、それだけの話。
亡霊である玲二。そして、同じくレーダーには映らない九条。
通路を駆ける彼女にもまた、ひとつのミッションが与えられていた。それは行方の知れない言峰綺礼の捜索と鍵の奪取である。
因縁の清算とも言えるだろう。玲二が神埼の命を狙うように、戦士――九条は言峰の命を狙い灰色の通路を往く。
・◆・◆・◆・
「兄上っ!」
親しみの感情がこもった声に、神崎は司令室の入り口へと顔を向ける。
そこには彼の妹であり、この組織の中で唯一打算なく感情を向けられる美袋命と、彼女のお目付け役であるエルザの姿があった。
「また、基地の中を歩き回っていたのかい?」
獣のように跳ねて駆け寄ってきた命に神崎は優しく声をかける。
命は兄の問いに悪びれることもなく面白かったぞと返答し、満面の笑みを浮かべた。
「おみやげだ。兄上もいっしょに食べようっ!」
近くから椅子を引いてくると、命はそれを兄の隣に置きちょこんと腰かけ、抱きかかえていた紙袋を机の上に置いた。
ガサガサと乱暴な手つきで袋の口に手をつっこむと、すぐに大きな肉まんがその中から出てくる。
さてこれはどういうことかと、神崎はエルザへと視線で尋ねてみるが、しかしエルザはただ横に首を振るだけであった。
「知らないロボ。エルザが見つけた時には、もう持ってたロボよ。大方、勝手に食堂まで行って盗んできたに違いないロボ」
「私は欲しがったりはするが、人のものを勝手に食べたりはしないぞっ!」
エルザの適当な答えに命は剣幕を見せる。
だが、肉まんを手にしていることを思い出すと、それをふたつに割って片方を兄へと差し出した。
「さぁ、兄上も。まだあたたかくておいしいぞ」
神崎は肉まんの片割れを受け取り、妹にならって大口で齧りつく。確かに、その肉まんはあたたかくておいしかった。
「下働きは辛いロボ。エルザはシンデレラガールロボね」
ひとり、エルザは基地内の通路を歩いている。
朝から行方不明だった命の捜索を終えたと思ったら、またしてもお茶くみの仕事であった。
それぐらいなら誰でもいいと言えるし、なんなら司令室に給湯セットを置いておけばいいのにとも言える。
実際、他の職員は適当にそれでコーヒーなんかを飲んでいるのだが、しかし神埼の紅茶へのこだわりだけは別だった。
だとしても、ならば何故エルザがするロボか?
と言ってみても、この非常時に基地内を出歩ける者は案外多くはないのだ。お茶くみでとなるとなおさらである。
「エルザを迎えに来てくれる王子様はどこにいるロボか……?」
ぽつりと呟き、エルザは通路の端々にできた水溜りを器用によけ、ただ歩いてゆく。
・◆・◆・◆・
闇に閉ざされた洞窟を仄かに照らすオレンジ色の炎。
その炎に照らされ、三人分の影が冷たい岩肌に長く伸びている。
「ほんと不思議だよねー、何にも燃やすものないのに焚火できるなんて」
と、相変わらず呑気な声で桂は濡れた衣服を乾かしている。
柚明は桂に相槌を打ちながら自らも濡れた衣服を乾かしていた。
「んー……わたしのほうはもう乾いた感じだけど……柚明お姉ちゃんはどう?」
「ごめんなさい……もうちょっとかかりそうね」
比較的軽装な桂の服と違って柚明は何枚も重ね着した和服である。
当然のことながら水をたっぷりと吸った和服は中々乾きづらく、また水を吸った着物はひどく重かった。
本当なら二人とも濡れた服を脱いで乾かしたいのだが――
「僕にお構いなく〜、物干し竿に使えそうな物はそこにあるからねー」
那岐は笑いながら壁に立てかけている金属製の棒状の物体にウインクした。
「……もう那岐君の冗談はスルーしてもいいかしら?」
「あはは……でも、確かにそれなら物干し竿として十分使えそうだね」
と、桂は立ち上がり立てかけたそれを持ち上げた。
九七式自動砲――かつて旧日本陸軍によって製造された対戦車ライフルである。
製造されてから半世紀以上経過しているのにも関わらずそれは新品同様の光沢を放っていた。
現代の主力戦車の装甲を打ち抜くには心もとないが、
装甲車程度の物なら安々と打ち抜くそれはその威力と射程にふさわしい重量と長さを誇っていた。
――『全長2.06m 重量59.0kg』
まさに鉄塊ともいえるそれは銃架に備え付けて撃つ物であり、
ましてそれを抱えて移動しながら撃つなどということは本来不可能である。
だが桂はそれを片手でいとも容易く持ち上げる。
浅間サクヤの鬼の血は60kg近くある鉄塊を苦にすることなく持ち上げる膂力を桂に与えていた。
「さっすが桂ちゃん。それを君に渡して正解だね」
「うん……」
桂の顔に陰りが見える。
それもそうだろう、本来これは堅い装甲を撃ち抜く物であって人に向けて撃つ代物ではない。
人に向けた場合あまりにもオーバーキルすぎるのだ。
そして、今までは運よく戦いから逃れてこれていたが、今後もそうだという保証はない。
自らの身を守るためのに、仲間を守るためにその手を汚す。
そして、そのための力がそこにあった。
――お前は戦えるのか?
相手は神崎や言峰だけじゃない、一番地とシアーズという組織が相手だ。
当然組織に忠誠を誓う人間達もいるだろう。
それを殺せるのか?
――才能を、力を持ってる癖に何もしようとしない事よ。あなた戦える力を持ってるんでしょ?
誰よりも銃弾を物とせず、ただの人間をボロ布のように引き裂く力を持ちながらなぜ戦おうとしないの。
例え敵であっても誰かを傷つけるのが嫌だから?
自分が汚れるのが嫌だから?
いつかの玲二とファルの言葉が思い起こされる。
たった数日前のことがすごく遠い昔のことに思えた。
「桂ちゃん……」
柚明は桂の不安を痛いほど理解していた。
自分や那岐はある種戦いに関しては割り切った感情で臨める。
危害を加えようとする者に対し、無慈悲に断頭台の刃を振り降ろせる邪な覚悟ができてしまっていた。
願わくは桂にその業を背負わせたくないが――
「きっともうすぐ――君の得た力の代償を支払う時がやって来る。大切な人達を守るための業を――だけど迷わないで、桂ちゃん」
いつも人前では飄々とした態度の那岐がいつになく神妙な口調で言った。
だが那岐に見つめられる桂は黙ったままであった。
重苦しい空気が三人の間に流れる。
誰も言葉を発しようとはしない。忍び寄る戦火の気配が、桂と柚明の口を閉ざさせる。
その空気に見かねた那岐がいつものような軽い口調で、重たい空気を振り払うように言った。
「すっかり忘れられてる感じなんだけどね、二人とも服乾かすのまだー? いつまでも火を維持するの疲れるんですけどー?」
「あっ……ごめん那岐君。わたしはもう大丈夫だよ」
「私のほうもすっかり乾いたわ」
二人の声を聞いた那岐はパチンと指を鳴らす。
すると赤々と燃え盛っていた炎がふっとかき消え、洞窟の中は再びわずかな明かりがあるだけの暗闇に閉ざされた。
「ふいーっ疲れた疲れたっと……それじゃあ桂ちゃん、約束通り贄の血を――」
「ん……ちょっと待ってね……」
約束通り贄の血を飲ませるため、桂は自らの荷物の中を漁る。
いつものように手首をちょっぴり切って、滲んだ血を直接啜ってもらえばいいのだが、
そうすると柚明が必死になって止めようとするのでコップを探してた。
確かに、言われて見れば男性相手に血を与えるのはどうも気恥ずかしい。
「(えっ? 女の子同士のほうがよっぽど恥ずかしくない?)」
ややあって桂は紙コップを取り出した。
時間がかかったのは、その上にわんさとホテルから持ち出したお菓子や飲み物があったからだ。
「あっ、お菓子もあるけど食べるー?」
「んー、遠慮しておくよ」
「はーい」
桂はナイフの代わりに武器として持ってきていた日本刀を鞘から抜き、切っ先を手首の静脈に軽くあてがった。
刃がごく浅く皮膚を裂くはずだったが……
「痛っ……ちょっと深くやっちゃった」
「大丈夫……?」
「大丈夫大丈夫っ」
ぼたぼたと流れ落ちる血。桂はそれを急いで紙コップで受け止める。
白い紙コップに赤い血がとくとくと注がれてゆき、
四分の一ほど入ったところで、桂は贄の血を那岐に差し出した。
「はい、搾りたての新鮮贄の血だよー」
「し、搾り立て……桂ちゃんの搾り立ての……」
「サンキュー♪ (柚明ちゃんが何か妄想してるようだけど敢えてスルースルー)」
「柚明お姉ちゃん……もしもしー?」
「……(妄想中)」
「柚明お姉ちゃーーん!?」
「ふっふぇ!?」
贄の血の香り気に当てられ、明後日の方向に意識が飛んでいた柚明。
思わず間抜けな声を出してしまっていた。
「柚明お姉ちゃんも私の血いるよね?」
「桂……ちゃん」
にっこりと微笑む桂の笑顔が眩しい。
いつもそうだ。彼女の血を目の当たりにしてしまうと理性が保てなくなる。
愛おしい桂を、それが叶わぬ愛であったとしても。
その身体にむしゃぶりついて隅々まで味わいたい。
熟れた果実の薄皮を裂くように桂の白い肌からあふれ出る赤い果汁を嘗め回したい。
「柚明お姉ちゃん……? あっ――」
とさっと桂は地面に尻餅をつく。反転した視界が洞窟の闇を映す。
その上に覆い被さる柚明の姿。押し倒された桂の小さな身体。
「あの、血が出てるのはわたしの手首――」
桂の声も柚明の耳に届かない。
柚明は桂の白く細い首筋しか目に入っていない。
彼女はゆっくりと上気した顔を桂の首元に近づけて噛み付いた。
「あ……んっ、わざわざそ……んなところ……っ」
ぞわりとするような感覚が桂を駆け巡る。
重なり合った二つの影が洞窟の仄かな照明に照らされて岩壁に揺らめいている。
絡み合うアカイイト、いつも血を吸われるときに感じるあの感覚。
自分と他人の意識が混ざり合って自己の境界が一時的に失われてゆく恐怖と快感。
そしてその恐怖ですらも赤く溶け合った意識の中で快感に変じてゆく。
身体の奥底から湧き上がるような快感と浮遊感に桂は身悶えする。
久々に体験する深いトリップだった。
「駄目、だよ……那岐君が見て、んんっ……はずか、しいよ……」
「そんなの……んっ……別にいいじゃない……私は気にしてないから……ね?」
「柚明お姉ちゃんがよくても……わたしが恥ずかしいの……っ」
他人に見られてる。
それも見た目には同い年くらいの少年に己の痴態を見られている。
その背徳感がより一層、桂と柚明の快楽に火を灯す。
桂の位置からは那岐の姿は見えない。
だが見えないが『見られている』という状況が桂の不安をさらに快感へと転化させてゆく。
「お願い……那岐君……見ないで……」
桂の弱々しい声が闇の中に静かに木霊する。
そんな桂の訴えもやがて快楽の大きなうねりの中にかき消されていった。
一方、那岐はというと……、
二人から少し離れた位置で紙コップを片手に重なる二つの影を見つめていた。
「……確かに贄の血は最高においしいんだけど……おいしいけど何この差? シチュエーションの違いってやつ?」
そう言って那岐は最後の一口を飲み干した。
少し物悲しさを感じながら、那岐は二人の嬌声が治まるのを待ち続けていた。
・◆・◆・◆・
キャットウォーク上からどうにか這い上がり、元居た通路まで戻ってはみたものの、仲間の姿はない。
耳に装着しているインカムは、依然として沈黙の状態を継続。
誰とも連絡がつかず、突入メンバーの安否は一向にわからないままだった。
「仮に、仮にですよ? このままみんなとはぐれたままだったら……」
「そんときゃ、俺たちがラスボスのところに一番乗りだな」
「そ、そんなぁ〜! 私ひとりじゃ、なにもできないですよぉ……」
「てけり・り」
「うっ……一人じゃなくて、三人ですけど……でもでもっ」
「やよいにだって、いろいろ言いたいことはあるだろ? あの神崎ってヤローや……古書店の店主さんによ」
「あうぅ……」
誰もいない廊下を、おそるおそる歩いていく高槻やよい、その右手にはまるプッチャン、後ろに付き従うダンセイニ。
普段は一番地職員が――やよいにとっての“敵”が歩いているだろう通路は、無機質な壁と床がただ延々と続く。
歩きながらに思い浮かべるのは、病院だ。物静かで清潔的な空間。ここが敵地のど真ん中だとは、到底思えない。
「誰もいません……」
「敵さんの数も無尽蔵ってわけじゃねーからな。たぶん、他に回ってるんだろうよ」
「他って?」
「玲二や九郎たちのほうさ。奴らにとって、本当に食い止めておきたいのはそっちだろうからな。俺たちなんて後回しってことだよ」
プッチャンの言葉の意味は、やよいにもわかる。
相手側の立場になって考えてみるならば、警戒すべきはやよいのような弱者よりも九郎たちのような強者。
人員を割くとしたら当然、そちらのほうになる。状況を見るなら、やよいはただ単に捨て置かれているだけとも取れるのだ。
「ありがたいっちゃありがたいけどな。このプッチャン様がついている高槻やよいの存在を軽んじるなんざ、愚かにもほどがあるぜ」
プッチャンは大胆不敵にこの状況を受け入れる。
対して、やよいは悲観的だった。
自分が弱いことは十分に理解している。できれば誰に襲われることもなく進みたいと、そう願ってもいる。
だが、やよいに敵兵があてがわれないということはつまり、その分だけ他の仲間が苦境に置かれているということでもある。
仲間の危険と自分の安全は両天秤に置かれている。そう考えてしまうと、通路を進む足も重くなる一方だった。
もし、このまま自分たちだけで神崎黎人のもとまで辿り着いてしまったとして――はたしてなにができるだろう?
吾妻玲二は神崎黎人を殺すと豪語していた。それは殺し屋、“ファントム”である彼だからこその道だ。
一介のアイドルであるやよいには、逆立ちしたって真似できない。真似をしたくもない。
たくさんの人を死に追いやった神崎黎人は許せない。
だけど、その『許せない』という感情は決して、殺意には昇華しえない。
他の人間なら露知らず、少なくとも、高槻やよいにとっては。
だからこそ――進む道の先にある、到着点。そこまで行くのが、怖い。
視線は、前ではなく足下に向いてしまっていた。
「……――やよいっ! 前! 前見ろっ!」
その、数秒。
やよいの意識は『戦場』から外れ、プッチャンの声を耳にしてようやく戻る。
一本道の通路、進みゆくその先に、人が複数名、現れていた。
ある意味では仲間の証たる首輪、それにインカムもつけてはいない。
代わりにベストのようなもの――防弾チョッキだろうか――を身につけ、各々が銃器で武装している。
数えてみると、人数は五。一人が大声を出して他四人に行動を促し、一人、また一人と、携えていた銃器をこちらに構える。
銃口はすべて、やよいのほうへと向いていた。
「てけり・り!」
叫んだのはダンセイニだった。軟体の体を素早く床に這わせ、やよいの足を絡め取る。
バランスが取れなくなったやよいはそのまま後ろに倒れ、ダンセイニの体内に取り込まれた。
ねばねばとした感触を覚え――その次の瞬間、銃声。
乾いた一発ではない。弾雨と称すべき音の波涛が、実際に無数の銃弾という形でやよいの身に降りかかった。
侵入者、高槻やよいを発見した一番地戦闘員は男性五人。武装はマシンガンだった。
「うっ、わ、わっ!?」
突然の窮地にまともなリアクションを取ることもできず、やよいの頭はパニックに陥った。
ダンセイニに守られ、運ばれるがまま、元来た通路を引き返していく。
後方からは絶え間ない銃撃が押し寄せ、何発かはダンセイニに命中する。
だが、それらは中のやよいに到達するよりも先に軟体に威力を吸収されてしまっていた。
黄色いボディの中に、困惑する少女の身と、いくつかの銃弾、そして一つ目が浮かんでいる。
ダンセイニ自身にダメージはない。床を這う速度も、その形状からは想像もつかない獣のそれだった。
通路の曲がり角を左に折れ、敵兵の射程範囲から逃れる。
銃声がやむと、バックミュージックは靴が床を叩く音に切り替わった。敵兵が追ってきているのだ。
「ちっ……応戦するぞやよい! ダンセイニ、コンビネーションAだ!」
「てけり・り!」
「ふぇ、えぇ〜っ!?」
プッチャンの思わぬ発言に気が動転するやよい。
追ってくる敵兵の足音は徐々に大きくなっていき、身の危険を按じさせる。
「きゅ、急にそんなこと言われても〜っ!」
「腑抜けてんじゃねー! 俺たちゃ遊びに来たわけじゃねーんだぞ!」
「てけり・り!」
言い合う内、『食堂』と書かれたプレートが下げられた部屋を通り過ぎる。
廊下側の窓ガラスから、テーブルや椅子が並べられた内部の様子が見て取れた。
ああ、一昨昨日の今頃はみんなで楽しくお昼の準備をしていたなぁ……とやよいは現実逃避に走る。
それも一瞬。
床を這って進んでいたダンセイニが不意に停止し、敵兵が迫ってくるほうへと向き直る。
やよいの体をがっちりと固定したまま、軟体をそれぞれ右上、右下、左上、左下の四方向に突出させた。
通路の四隅に粘度抜群の液体を付着させ、ダンセイニ自体もここに固定。バッテン印のような形状に変化を遂げた。
その中心に、一つ目とやよいの身が置かれている。
迫る敵兵たちはダンセイニの奇行に対し怪訝な面持ちを浮かべていたが、臆することなくこちらに向かってくる。
『食堂』の辺りにまで差し掛かったところで立ち止まり、銃を構えた。そこが射程距離なのだろう。
ダンセイニは彼らが立ち止まり、銃を構える――その一連の動作の際に生じた隙に付け込み、体の中心部をやよいごと後方へと仰け反らせる。
「やよい! 俺を――右手を前に突き出しておけ!」
今にも銃弾を放とうとしている敵兵を正面に置きながら、やよいは予感した。
プッチャンとダンセイニが、いつの間にか編み出していたコンビネーション。
単体での破壊力、一方の軟質さや粘着力を活かした、つまりはゴム鉄砲の要領。
それはさながら、通路全体を利用した巨大スリングショットのようだった。
「受けてみやがれ! これが俺とやよいとダンセイニの合体攻撃――『弾丸プッチャン弾』だ!」
引っ張られていたダンセイニの中心部が、ふっ、と消える。
通路の四隅に接着していた部分が支点となり、中心部には戻る力が加えられたのだ。
ショゴス――それはウォーターベッドのような柔らかさと、スライムのような粘度、そしてゴムのような性質を併せ持つ謎の生物。
それがスリングショットのように体を働かせた結果、そこに反動が生まれ、
やよいの身体は人間大砲もびっくりの勢いで敵兵らに向かって射出された。
「こいつはおまけだ! プッチャン――」
言われたとおり右手を突き出していたやよいは、プッチャンを先端とした矢のようなものだ。
掛け声と共にプッチャンの体が赤く燃え上がり、やよいごと一つの大きな炎弾と化す。
それは五人程度の戦闘員など一撃で全部巻き込めてしまえる規模で、結果、
「――バーニング!」
五人が五人とも、高槻やよいの突進に蹴散らされることとなった。
「ぶっ!? わっ、ひゃっ、ぎゃ〜!」
甲高い悲鳴は、敵兵のものではない。ダンセイニに撃ち出されたやよいのものだった。
勢い衰えることのない弾丸はそのまま向こう側の壁際にまで届き、衝突してやっと停止。
バーニングの威力で壁が陥没したが、幸いにもやよい自身に外傷はなかった。
「よっしゃあ! 一網打尽だぜ!」
「うぅ……が、がくっ」
外傷がないのはプッチャンが上手く力をコントロールしていたからだが、その身にかかる負担までは軽減しきれない。
自身が弾丸として撃ち出されるという衝撃に、やよいの脳は揺れ、内臓はひっくり返り、過度の車酔いにも似た症状に襲われる。
「てけり・り……」
ダンセイニが申し訳なさそうな瞳を浮かべながら、やよいの足下に這い寄ってきた。
「おーい、大丈夫か? これくらいでへばってちゃ、先が思いやられるぜ」
「……き、今日のプッチャンは激しすぎ……ますぅ」
「なに言ってんだ。あの特訓の日々を思い出せ! 俺はおまえをそんな軟弱者に育てた覚えはねぇ!」
「育てられた覚えもありませーん!」
緊張は一瞬だけ。
危難が過ぎ去った後はもう、いつものやよいとプッチャンだった。
「ああいうことするんなら、ちゃんと事前に言ってください!」
「にゃにおう! 事前に言っちまったら、やよいは嫌がるだろうが!」
「あたりまえですっ!」
「てけり・り」
怖くなかったわけではない。むしろすごく怖かった。だがその怖さを埋め尽くすほどに、安心感があったのも確かだ。
プッチャンと、ダンセイニ。みんなと離れ離れになってしまったやよいを、身を挺してでも守ってくれる心強い二人。
一人ぼっちだったらきっと、敵兵と顔を合わせたところですぐに撃たれて死んでしまっていただろう。
一人じゃないから戦える。二人が一緒だから前に進める。不安感と安心感が混在する、曖昧な気構え。
それが――高槻やよいの内包する『危うさ』。
「さて、もたもたしてると次の敵が来ちまうからな。とっとと先に進むぞ」
「む、むぅ〜……は、はい……」
錯覚などではない。今日のプッチャンはやよいに対して一際厳しかった。
しかしその厳しさの裏には、確かな甘さ、そして優しさがある。
おまえのことは俺が守るから、気にせず先に進め――と、そんなメッセージが感じられる。
だから頑張れる。プッチャンがくれる安心感に、応えることができる。
それが――高槻やよいとプッチャンが共有する『危うさ』。
ここは、決戦の地なのだ。
誰もが皆、命を危険に晒す場。
絶対の安心など、絶対にありえない。
「てけり・」
元居た通路に戻ろうと、一歩目を歩みだして、二歩目は踏み止まらざるを得なかった。
耳慣れした、ダンセイニが放つ独特の音が、不意にそこで途切れたから。
定位置となっていた自らの背後を振り返り、やよいは見る。
ダンセイニの透き通った体に、一本の剣が突き刺さっている。
先端から柄までを目で追っていくと、それは見知らぬ女性の腕に直結していた。
剣は握られているのではなく、腕とじかに繋がっている。そこが、見知らぬ女性の正体を察知するポイントとなった。
女性の顔を探る。無表情。見ているのではない。ただやよいに己が双眸を向けているだけ。機械的な所作。
その姿はどことなく、深優・グリーアの第一印象に酷似していた。否、まったくの同一と言ってしまってもいい。
女性のすぐ傍には、先ほどやよいが視界に捉えた『食堂』の入り口がある。中から出てきたらしい。
伏兵だ――どうしてこんなところに――思い、数秒。
これは人間じゃない――深優さんが言ってたアンドロイド――思い、数瞬。
女性型アンドロイドはブレードアームに突き刺さったダンセイニを乱暴に振って剥がし――そして。
「あっ――」
やよいがようやくの声を上げた頃――その凶刃を、殺意の矛先を、無垢な色の顔面へと差し向けた。
銀の光沢が視界を埋め尽くす。
両の脚は棒と貸し、床に植えられた。
表情を変える方法を忘れてしまう。
ただ、右手だけが動いた。
「やよいには――指一本触れさせねぇ!」
既視感。
これは何度目のことだろうか。
やよいの右手に嵌っていたプッチャンが、アンドロイドの繰り出す刃を受け止めていた。
指も持たない、その小さな両腕で刀身を挟み込む、白羽取りの形。
押す力と押さえる力、双方に差はなく、生まれたのは均衡。
やよいにはまだ、なにが起こったのか認知できない。
目に映る光景を、ただの映像として捉えているだけで、現況という形では理解できていない。
まるで、他人の夢を外枠から覗き見しているような心持ちだった。
見えているのは、三つ。
やよいに剣を突き立てんとするアンドロイドと、それを受けるプッチャン。
壁際の辺りに黄色い半透明の物質を撒き散らし、目を回すダンセイニ。
倒れ伏す四人の敵兵と、瀕死と窺える動作でこちらになにかを投げようとしている一人。
新たに見えたものが、一つ。
気絶には至らなかった敵兵が一人、懐から取り出した小さなそれを、投擲してくる様。
宙を舞うそれは、昨日さんざん投げたり打ったりした白球に似た大きさ。
形状はどちらかというと、オレンジよりもパイナップルに近かった。
(――あ、そっか)
刹那の瞬間に、やよいは教訓としてそれを受け入れた。
ここでは、一瞬が勝負なんだ。
片時も気を緩めてはならない、安心なんてしちゃいけない。
緊張と集中の継続が肝心と言える、ステージにも似た場所。
駆け出しの自分なんかが上がるべき舞台ではなかったのだと、
手榴弾が爆発するのを最後に確認して、
痛感した。
・◆・◆・◆・
少年は走る。背にかけられた言葉を力とするように、決して振り向くことはせず、ひたむきに、まっすぐな道をただ進む。
クリス・ヴェルティンは決して強い人間ではない。
硬い床を叩く足はすぐにおぼつかなくなり、筋肉は悲鳴をあげ、息はあがり、額にはいくつもの汗の玉が浮かんでいる。
それらの現実を凌駕する堅固な心の強さがあるわけでもない。
彼の心はいつだって這い寄る影に怯え蝕まれている。
しかし、それでも彼は走る。ただまっすぐに。愚直なまでに。それを自覚してもなお、ただ前へと走る。
彼女と会わなくてはいけない。交わす言葉があるはずで、伝えたい気持ちがあるはずだから。
これまでの全てを嘘にしない為。彼女のこれまでを嘘にしない為。自分のこれまでを嘘にしない為。
クリス・ヴェルティンはまっすぐな道をただ進む。
見通しのいいまっすぐな通路を駆けているクリスの目の前に、不意に黒い影が射した。
何か? そう思う間はなかった。
天井より染み出すように現れた黒い影は物言わずクリスを強く打ち据え、彼のか細い身体を辿ってきた道へと押し返す。
「――――っ!」
少しの滞空の後、背中から床へと叩きつけられたクリスの口から声にならない悲鳴が吐き出された。
まるで糸の切れた人形のように床の上を転がり、そしてそれのようにクリスは床の上から立ち上がることができない。
たったの一撃で身体のそこらじゅうが痛みと痺れを訴え、心臓が不吉な音を立て、意識は白く朦朧としている。
その、朦朧とした意識の中で彼が見たのは、通路の先からこちらを冷たい目で見ている巨大な黒猫だった。
「もう…………」
遠回りはしていられないんだ。と、クリスは全身を苛む苦痛に抗い、弱々しくもその身体を起こす。
目の前にいるのは話に聞くオーファンというものだろう。
禍々しくはあるが、なつきのデュランや碧の愕天王とどこか似ている。きっと、同じように強いに違いない。
そこまで思って、しかしクリスは逃げようとも引き返そうともしない。
この先に、この先をまっすぐ行けばそこに彼女がいるのだ。だから――。
「……ロイガー。……ツァール」
2本の短剣をクリスは両手の中に現した。
そして、風の神性を持つ一対のそれを胸の前で交差させると、全て追い切り裂く渦巻き――手裏剣と変化させる。
次の瞬間。クリスの手を離れた手裏剣が風きり音だけを残しながら黒猫のオーファンへと肉薄し、黒毛を通路の中にばら撒いた。
「あ――!」
クリスの口から驚きの声が漏れる。
通路一杯の大きさがあった黒猫は、猫のようにしなやかに身をかがめるとそれを容易く避けたのだ。
切り裂いたのは体毛の一部だけ。
それは派手に散らばったものの黒猫そのものは無傷で、かがんだ状態から身体を伸ばすとクリスへと飛び掛ってくる。
見誤ったと後悔するも遅く、
「――がぁっ!」
再びクリスの身体がボールのように転がり通路を戻ってゆく。
なんとか立ち上がろうとするものの痺れる身体は先ほどよりもなお言うことを聞かず、なすすべなくクリスは黒猫に踏みつけられる。
足裏の感触は柔らかいが、黒猫は大きくそして重たい。どこかで何かが折れる音が鳴り、潰れた悲鳴が漏れ聞こえた。
たったこれだけで終わりなのだろうか?
しかしそれも正しいことだとも思える。何かを成すというには彼は弱く、現実とは決して誰かを贔屓するものではないのだから。
「…………でも、まだなんだ。……まだ……死ねない」
その時、黒猫がビリビリと通路を震えさせるような悲鳴をあげて仰け反った。
押さえつける脚から力が抜けて、クリスはその隙に床を転がってその場を逃れる。
これは奇跡ではない。クリスの意志が齎した順当な結果。ブーメランとして戻ってきた手裏剣が黒猫の背中に突き刺さったのだ。
「ここじゃないんだ――」
クリスは口元をべったりと濡らす血を拭い、また再び立ち上がる。
「僕の命は――」
約束された勝利の剣を取り出し、針金のような毛と血を振りまく黒猫へとその切っ先を向けた。
「君たちなんかには絶対に――」
それが黒猫のオーファンが持つ能力なのだろうか、宙に舞っていた毛が突如として矢のように飛びクリスを傷つける。
「あげられないんだ――」
身を切り刻むそれを無視してか、それともすでに痛覚はないのか、クリスは懐に手を差し込むと、ジャラと一握りの宝石を取り出した。
「だから――」
宝石を握り締める拳の内から光が漏れ溢れ、炎のようなそれはクリスの全身を包み、熱と力を循環させてゆく。
「もう――」
光があったのは一瞬で、それはすぐに失われた。なのに黒猫はクリスへとは近づかない。まるで、まだそこに火があるかのように。
「邪魔をしないでくれ――」
ただの石となったそれが床の上でバラバラと音を立て、灰となって散った。
クリスは両手で聖剣を掴むとそれを天の方へと掲げた。
そして振り下ろされる。
それは最強の幻想。
想いを囚われし者を導く道標。
人々が追い求める理想を実現する為の輝き。
悲しみの連鎖を断ち切る剣――が、全てを白く埋め尽くした。
・◆・◆・◆・
「クリス……」
彼女以外の誰もいない冷たい通路に響く寂しそうな呟き。
玖我なつきは先程まで感じていた手のぬくもりを懐かしそうに思いながら、単身奥へと向かって進んでいた。
あの後、何体かのアンドロイドを蹴散らしてからは特に一番地からの追撃にも会ってはいない。
多少の面倒や不可解なことがあったりはしたが、進行は順調だ。
心配事といえばやはりクリスの事だった。
図らずして、彼を単独にしてしまった。
いくら、魔法の武器があろうとクリスはただの音楽少年で。
オーファンとの戦いに明け暮れたなつきの様に戦いになれているわけじゃない。
そんな彼がオーファンやアンドロイドなんかに襲われたら……?
「……大丈夫、クリスは大丈夫」
不意に浮かんだ最悪な結末を頭を大きく振ってかき消す。
そんな結末は有り得ない、あってはいけない。
それになつきは信じている。
クリスがちゃんと目的を果たせる事を。
クリスが自身の望みを叶える事を。
信じて、願っているのだから。
「だから……行こう」
だから、なつきは進む。
一歩ずつ、一歩ずつ。
だけど、確実に。
なつき自身の目的の為に。
もう、クリスの目的はクリスのだけものではないのだから。
それは、玖我なつきの目的にもなっているのだから。
何故、そうなつき自身で思えたかは本人でもよくわかっていない。
来ヶ谷唯湖の事を棗恭介に託されたから?
なつきの為に手を汚して、そしてなつきだけの為に散った藤乃静留の生き方の為に?
心の底から愛しているクリス・ヴェルティンを支える為に?
「……知るか、そんなもの」
そんなもの、知らない。
難しい事、ごちゃごちゃ考えたくない。
とりあえず決まっている事。
ただ、
「やりたい事をするだけだ」
なつきがやりたい事をするだけ。
自分がしたい、ただ、そう思ったから。
理屈とか、理由とかどうでもいい。
素直に、やりたいそう思ったことをやるだけ。
それがきっと自分の為に。
結果として、それが皆の為になるんだろうと思いながら。
「…………おや、伴侶はいないんだな」
―――そして、ついに出会う。
一人の少年を心の底から愛している少女達が。
その少年の為に全てを懸けている少女達が。
「……来ヶ谷……唯湖」
「……初めまして……と言いたい所だが、そんな気がしないよ。玖我なつき君」
この地獄の島においてついに出会ってしまった。
一方はその目に強い意志を宿らせ、相手を見つめている。
一方はその目に底の見えない深い諦観を宿らせ、薄い笑みを浮かべていた。
「こっちもだ……色々話したい事もあるしな」
「ほう……さて、どんな事を話してくれるのかな? 泥棒猫君?」
「……なっ!?」
蒼い髪の少女は両手に銃を握り。
黒い髪の少女は右手に銃を、左手には剣を。
そして、
「まぁ尤も……聞く必要性もないがな!」
「……っ!?」
一人の少女を愛し続けている故の衝突が
始まりを告げたのだった。
・◆・◆・◆・
「おはようございます。ゆうべはおたのしみでしたね」
開口一番、那岐は秘密の花園から舞い戻った桂と柚明に皮肉を込めて言った。
「えっと……どういう意味……?」
「さあ……?」
顔を見合す桂と柚明。
せっかくの皮肉も二人には通用しなかった。
「いいですよーっだ。男なんて基本ハブられて当然の存在だもん」
「えっと……なんだかよくわかんないけど、ごめん」
「ま、別にいいけど。さてと……気を取り直してそろそろ出発しよう。準備のほうはOK?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
「柚明ちゃんは?」
「ええ、私も準備はOKよ」
「なら、出発だね。あまりぐずぐずしてはいられない。行こう」
「うんっ!」
頷く桂と柚明。三人はさらに洞窟の奥へ向かって歩を進めた。
三人は緩やかに傾斜した坂道を登ってゆく。
右手に見える地下水脈はいつしか崖下を流れており、左手の岩壁にはオレンジ色の照明が所々に点在し、淡い光を放っていた。
壁から崖まではおよそ三メートル。普通に歩く分には何ら危険なことはない。
しかし、いざここで戦闘となると狭く、戦いには不向きな地形だった。
「もうどれくらい歩いたんだろう……」
「小一時間は歩いてるかな。方角もほぼ真南に向かってる」
いつしか会話も少なくなり無言になってゆく。
さらに数十分歩いたところで洞窟はその様相を変貌させた。
崖下を流れる地下水脈は広大な湖になり、傾斜した坂道はまるで野球場のように広大な広場に繋がっていた。
そして広場の最奥に、複数の篝火と注連縄に囲われた区画がある。何らかの祭壇のようだった。
祭壇の中心には数人の烏帽子を被った狩衣姿の男達が輪になっている。
三人が様子を伺う岩陰からは遠すぎて詳しくはよくわからないものの、何らかの儀式を執り行っているようだった。
「へぇ……あれ一番地お抱えの陰陽師じゃないか……そしてあそこが『力』の中心」
「あそこを押さえるのがわたし達の目的だね、でも警備がすごいね……」
祭壇の周りには陰陽師を守るように女性型のアンドロイドが大量に配備されている。
まるで蟻の一匹通さないと言った風であった。
「それだけあの祭壇が連中にとって重要な施設であることの証明さ」
「私の『蝶』でもう少し詳しく探りましょうか?」
「いや、あの陰陽師はそれなりに術に長けている。柚明ちゃんの『蝶』は逆に感づかれる危険性がある」
「そうですか……」
「でも……このまま正面突破するのは――」
と、その時だった。
バサバサとまるで鳥が羽ばたくような音がした。
「白い鳩……ううん、白い鴉……?」
見上げた桂の視線の先の岩に白い鴉が留まっていた。
鴉はじっと桂達を見つめていたが、ほどなくして翼を広げ飛び去って行く。
飛び去る瞬間、那岐は見る。
鴉の両翼に赤く刻まれた五芒星を――
「しまった! あれは奴らの哨戒用式神――」
その瞬間、洞窟全体に警報が鳴り響き、薄暗かった洞窟全体に次々と白色の蛍光灯が点灯してゆく。
あっというまに洞窟は昼間のように白い光で覆われた。
そして祭壇に変化が訪れる。
何もない空間に光の粒子が現れ、異形の獣の姿を次々と象ってゆく。
「そうか……! ここの地脈を利用してオーファンを……」
「なら……あの祭壇を何とかすれば」
「うん、施設内に召喚されるオーファンを抑えることができる! 行くよみんなッ!」
・◆・◆・◆・
「まずは目の前の敵に専念するんだ!! 無理に祭壇に近づこうと思わないで! 桂ちゃんッ」
「は、はいっ」
「君は接近戦に弱い柚明ちゃんの護衛を! 柚明ちゃんは極力桂ちゃんから離れないで!」
「わ……わかったわ!」
那岐は的確に指示を出してゆく。
接近戦の桂。
中距離からの牽制と攻撃の那岐。
遠距離からの支援攻撃の柚明。
特に柚明は攻撃速度が遅いため桂の護衛は欠かせない。
那岐も鬼道を使う戦法のため、接近戦よりも中距離戦に長けている。
このメンバーでは前衛が不足しているのだ。
「こっのおおおおおおおおおお!!!」
桂は手にした九七式自動砲を敵の大群に向けて連射する。
大口径の対物ライフルでありながらセミオート。
つまり普通の自動拳銃のように引き金を引くだけで弾が放たれる。
螺旋状に回転する弾丸がオーファンに、アンドロイドに突き刺さる。
オーファンは一瞬のうちに光の粒子に還元され、アンドロイドの上半身がバラバラに砕かれる。
相手が人間でないのが唯一の救いだ。
カチッカチッ。
「もう弾切れ!?」
装填された7発を全て撃ち尽くす桂。
だが再装填する暇は存在しない。
「桂ちゃん! 上からオーファンが!」
那岐の声に見上げると狼のような姿のオーファンが三体。桂に飛び掛かり、爪を振り下ろしてきた。
「――ッ!?」
銃を捨て刀に持ち代えるもわずかに相手のほうがタイミングが早い。
しかし――!
宙に現れた無骨な直剣がオーファンを次々と刺し貫く。
そして次の瞬間、一斉に剣が爆発。オーファンは粒子となって四散した。
「桂ちゃん大丈夫!?」
「ありがとう柚明お姉ちゃん!」
柚明の周りに浮かぶ無数の剣。
柚明は剣の誘導制御を全てOFFにし、ただ直進のみにして術式を構築する。
誘導に回す魔力のリソースを全て剣の爆発力に注ぎ込む。
事前に飲んだ贄の血のおかげで、柚明に刻まれた魔術回路はスムーズに動き出す。
「桂ちゃんには指一本触れさせない……ッ!」
剣の七本同時発射。
ミサイルの様に剣が敵群に突き刺さる。
そして――
「解放<<ブレイク>>!!」
剣に込められた魔力を一気に解放する。
解放された魔力による小爆発がつぎつぎに巻き起こり、周りのオーファンやアンドロイド巻き添えにしてゆく。
「さっすが柚明ちゃんえげつない弾幕だねえ〜、んじゃ僕も弾幕勝負と行くとしますか。桂ちゃん、ほんの少しでいいから僕の援護を!」
「わかったよ!」
那岐は攻撃の手を止め、術の詠唱に入る。
柚明の弾幕に阻まれた敵はここぞとばかりに那岐へと狙いを変えた。
踊りだす無数のアンドロイド、しかしそこに日本刀を携えた桂が割って入る。
桂に向けて銃を放つアンドロイド。しかし撃った瞬間には桂の姿はそこにいない。
超人的な脚力と銃口の向きによる着弾地点の予測。回避し、そして、
「はああああああああああ!!!」
横に縦にと薙ぎ払われる一撃にアンドロイドらは活動を停止する。
これだけのオーファンやアンドロイドを切り捨てても小烏丸は歯こぼれ一つせずに切れ味を誇っていた。
「うん、いい感じだね!」
刀を振るうたびに洗練されてゆく桂の太刀筋。
相変わらず身体能力に頼った強引な振りではあるが徐々に戦闘技術が蓄積された戦い方となってきている。
数日前とは比べ物にならない鋭さ。鬼になったとはいえ、元はただの女子高生がここまで短時間で上達するものだろうか?
それは特訓に参加したアルも同じ感想を抱いていた。
これらは彼女の母親に起因する。
一ヶ月と少し前に彼女の母親が亡くなった。死因は過労が祟ってのこと。
母親の名前は羽藤真弓。旧姓――千羽真弓。
かつて十代にして千羽妙見流の全ての奥義を会得し、歴代最強とも称された鬼切り役。
その実力は現鬼切り役である烏月を、そして先代鬼切り役である烏月の兄である明良ですらも凌ぐ実力だったとされる。
それが桂の母親だったのだ。
真弓はその後、桂の父親と半ば駆け落ち同然に千羽党を抜け出し結婚したそうである。
桂を産んでからも彼女は翻訳業を営む傍らで鬼切りの副業をしていたのだとか。
もちろん桂は母親の素性は知らない。
しかし桂の中に眠る千羽の血は確かに存在する。
それがサクヤの血を受け入れたせいで目覚めたとして、何が不思議であろうか。
「桂ちゃん! 撃ち漏らしたオーファンがそっちに!」
柚明の声。
頭上からさっき相手した狼型よりもずっと大型の虎型のオーファンが咽喉笛を噛み千切ろうと桂に襲い来る。
桂は足元に放置してあった九七式自動砲の端っこを足で踏みつけた。
柚明の弾幕で敵が怯んでいる内に弾の再装填は済ませてある。
バンっと跳ね上がった銃が空を舞い桂の右手に握られた。
そして……長大な銃身を大口を開けて飛び掛る虎の口内に直接捻じ込み――引き金を引いた。
ボッ!
オーファンの体内で弾丸が爆ぜる。
虎はなすすべもなく爆散し、光の粒子に還元される。
だがまだ一息つけない、桂の攻撃後に生じた隙を狙って今度はアンドロイドが飛び出してきた。
「この……っ」
銃から右手を離し、そのまま左手に添えられた刀を握り締め、左斜め下から右斜め上に逆袈裟に斬り上げる。
そのまま手首を返し再び袈裟懸けに斬り下ろす。
高速の二段斬りにあっというまにスクラップと化すアンドロイド。
だが力任せに振るった動きのせいで体制を崩す桂。
それを見逃さない敵。
さらに数対のオーファンが桂に迫る……!
「しまっ――」
柚明は目前の敵の対処ためにこちらの援護は出来ない。
思わず目を閉じる。
その瞬間、爆音と共にオーファンが消し飛んだ。
「な、何……?」
さらに一発、二発。
桂の後方から何かが凄まじい勢いで飛んでくる。
それは柚明の剣とは比べ物にならない弾速で飛来しオーファンを消滅させる。
その弾丸はあまりのスピードのために着弾してもそのまま敵を貫通し、後方の敵群すらも蹴散らしていった。
「ふう、危なかったね桂ちゃん。僕のほうは準備完了だよ。お疲れ様」
「那岐君……?」
振り向いた桂の視線の先には那岐が笑顔で立っていた。
そしてよく見ると那岐の全身から青白い放電現象が見え隠れしている。
パチパチと音を立てて、その余波がまるで電気風呂のように桂の身体にまで伝わっていた。
「電気……?」
「そう、僕の鬼道は雷も操れる。それの応用かな。ホテルに置いてあった小説を参考にした技なんだよね」
「へー……」
「さて取り出したるはカジノのメダル。タネも仕掛けもございません」
懐から取り出したメダルを親指ってピンと跳ね上げてキャッチする。
「ちょいとばかりマッハ以上の速度で飛んでいくけどね――!」
するとみるみるうちに那岐の右手のメダルに向かって放電が集中し、眩い光が放たれる。
「――名づけて 超電磁砲《レールガン》 なんてね」
一瞬のうちに音速の数倍に加速されたメダルが敵の大群に吸い込まれる。
そして衝撃と共に吹き飛ばされるアンドロイドの残骸。
「すっ……すごい、那岐君……」
「まだまだ行くよ!」
さらにメダルを連続して射出する那岐。
そして柚明から放たれる無数の剣戟。
爆発と衝撃が洞窟を揺らす。
二人から放たれる弾幕は見る見るうちに敵の数を減らしてゆく。
時折、弾幕を掻い潜った敵もいたがことごとく桂によって迎撃された。
そして敵の残りもわずかとなった時、
剣を射出する柚明の背後に忍び寄る影がいた。
「危ない柚明お姉ちゃん!」
桂は一気に距離を詰め、襲撃者に向けて袈裟懸けに刀を振り下ろした。
少し、変な感触だとその時は思った。
オーファンとも、アンドロイドとも違う感触が手に伝う。
「え……?」
ずるりと、袈裟懸けに斬られたそれの上半分が地面にどさりと崩れ落ちる。
斬った瞬間、生温かい液体が顔にかかっていた。
鉄の臭いと海の潮の香りを混ぜたような嫌な臭い。
この島で何度も嗅いだことのある嫌な臭い。
崩れ落ちた上半分と下半分から流れ出す液体は地面に大きな染みを作っている。
赤い、赤い、水溜り。
刃こぼれ一つしていない刀にねっとりと付着するモノ。
血。
血。
血。
人間の血――
わたしが斬ったのはオーファンでもアンドロイドなく――
生きた人――間――
「あっ……ああああ……わたし……わたし……ひ、人を……!」
カランと桂の手から刀が滑り落ちる。
膝がガクガクと振るえまともに立つのも苦しくなってくる。
「桂ちゃんしっかりして! ……!! オーファンが消えて……どうして!?」
オーファンだけではない、アンドロイド達も祭壇の奥の通路へ退いてゆく。
代わりに現れたのは一番地の戦闘員達。
だが戦闘員達は銃やナイフを構えているだけでこちらを攻撃をしようとはしない。
「チッ……そういうことか……神崎君も鬼畜な手を使うねえ……反吐が出る」
舌打ちし苛立つ那岐。
いつになくその嫌悪感を露にした表情を柚明は心配そうに覗き込む。
「どういう……ことなの……?」
「おそらく神崎君は祭壇を放棄した。残存するアンドロイドを撤退させたのが証拠さ」
「じゃあこの戦闘員達は……」
「皆と合流したければこの戦闘員を倒して行けってことさ、自分からは攻撃しない近づいた者だけ反撃せよという言霊付きでね」
「そ、そんな……! 言霊を解除する方法は……」
「残念だけど、無い。気絶させてやり過ごす方法も無理だね。痛覚が麻痺させられている。腕が折れようと足が砕けようとも向かってくる」
柚明はぎりっと拳を握りしめる。
ここにいる人間は哀れにも言霊によって操られた被害者。
組織に忠誠を誓う者ならある種の割り切りを持って対峙できるのだが
自らの意に反して戦わさせられる者達をを殺すことは――
「明らか桂ちゃんを狙った揺さぶりだね。僕や柚明ちゃんだって殺すことに躊躇いがあるんだ。ましてや桂ちゃんは……」
桂を一瞥する那岐。
桂は突き立った刀を杖代わりにして項垂れている。
初めて人を殺したショックは計り知れないだろう。
「桂ちゃん……後は僕達が……」
「大……丈夫だよ、那岐君」
刀を抜いてゆらりと前方を見やる。
すっかり憔悴しきった表情だった。
そして――
桂は刀を構えその身を翻すと、戦闘員に向かって一気に跳躍した。
「桂ちゃん!?」
桂の行動に驚愕する柚明と那岐。
戦闘員は銃で反撃を試みようとするも圧倒的に桂のほうが速い。
「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ……うっ……うああああああああああああああああああ!!」
いつかの玲二とファルの言葉がフラッシュバックする。
彼らの言葉を否定したくて、でもそんなものは生半可な覚悟で出来ることじゃないくせに、桂の絶叫と共に刀が横薙ぎに振るわれる。
白い閃光が戦闘員の身体を通り過ぎた瞬間、戦闘員の首が胴体から落ちた。
吹き上がる鮮血、その飛沫を受けながらも桂は次の目標へ。
縦に一閃、唐竹割りに左右に分割される身体。
横に一閃、吹き飛ぶ手足。
それでも戦闘員達は恐怖に慄くことも恐慌状態で逃げ出すこともなく無表情のまま反撃をしようとする。
しかしそれも暴風と化した桂の前では無意味な行為だった。
「なんで……どうして逃げないのっ!?
逃げないと死ぬんだよっ! わたしに殺されちゃうんだよ……! だから……早く逃げてよぉぉぉぉ!!」
残酷な死が目の前で幾度と繰り返されても逃げ出そうとしない戦闘員。
それを次々と斬り捨てていく桂の刃。
「わたしから逃げないと死んじゃうんだよ……! お願いだから逃げて……逃げてよぉ……」
ただただ一方的な虐殺が繰り広げられている。
桂の絶叫が洞窟に延々と響き渡ったまま。
その光景をどうすることもできず見守る柚明と那岐だった。
「やめて……もうやめてよ……もうこれ以上わたしに人を殺させないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
・◆・◆・◆・
立ち込める死の香り。むせ返るような血の臭い。
三十人近くいた戦闘員達はすべてもの言わぬ肉の塊と化している。
桂は祭壇の上で嗚咽を漏らしていた。
誰も悪くないのに、彼らは言霊で操られていただけなのに無残にも殺された。
その全てが桂によって殺されてしまった。
祭壇の上にいた陰陽師達はすでに全員が死んでいた。
アンドロイド達が撤退した時に自決を図ったのだろう。
もちろん自らの意志ではなく言霊によって――
「バカだよね……勝手に飛び出して……結局みんなわたしが殺した。わたしが……!」
傍らに立つ柚明と那岐は桂にかける言葉が見つからない。
ただ自嘲めいた声で呟く桂の声を聞いてるだけだった。
「五人目ぐらいからね……まるでゲームみたいに感じてくるの。そんなこと……そんなこと感じたら駄目なのに……!
怖さも哀しさも麻痺してきてただ目の前のモノを斬ってるだけに感じてきて……それがすごく怖かった。
一人斬るごとに自分の心が死んでいくみたいだった。だから必死に来ないで逃げてと叫んで。
あはは……ならわたしが逃げればいいのに、戦わなければいいのに、殺さなければいいのに……っ……しなかった」
たった一振りで死んでいく人間を見て、桂はサクヤから受け継いだ力を思い知らされる。
そして何よりも自らを嫌悪しているのは、圧倒的な力をもって弱者を嬲ることに快感を感じていたこと。それを否定できないこと。
本当に嫌なら戦いをやめることが出来たはずなのに、出来なかった。
――わたしは、誰も殺したく無い…
殺しあうのが、法律なら、そんなもの壊してしまえばいい。
人を殺すよりも、ほかほかのご飯を食べることの方が嬉しいもん。
以前、玲二に向けて言った言葉が脳裏に浮かぶ。
今となってはひどく滑稽な言葉だった。
平和な所からしか物事を見てなくて、自分が他者を殺すことなんて考えもしていなかった。
アルは言った。桂はもはやこちら側の人間である。此岸から彼岸へ身を投じてしまった。
そこに此岸の倫理は通用しなかった。生きるために他者を傷つけ、殺さなければならない。それを身をもって思い知らされた。
玲二のように完全に割り切れたらどんなに楽であろうか。
ただ敵を殺すだけの戦闘機械と成り果てたらこんなに苦しい思いをしなくて済むのに。だがそうなるためにはあまりにも桂は心優しすぎた。
此岸と彼岸の境界を身を置いて、生きるために他者の命を奪うたびに心が傷ついてゆくのが桂に課せられた試練だった。
「わかってたの……いつかこうしなきゃいけないことが来る。
これがわたしの得た力の『代償』なんだって、ずっとそれと向き合うことから逃げてきたんだもん……」
「桂ちゃん……」
柚明は一言だけ桂の名を呼んで彼女を優しく抱きとめた。
傷ついた彼女の心。しかしそうなることを選んだのは彼女自身の選択だった。
戦うことから逃げなかった彼女の意志を尊重したい。自分は傷ついた彼女が翼を休める場所でいい、静かに見守ることでいい。
「柚明お姉ちゃん……うぐっ……ううっうぁぁぁぁぁぁあああああああ……」
柚明の胸の中で桂は泣いた。
溜まった物を洗い流すように赤子のように泣き続けた。
・◆・◆・◆・
「ありがとう……柚明お姉ちゃん」
「桂ちゃん……もういいの?」
「うん、泣いてちょっとすっきりしたよ」
さんざん泣きつくしたため、桂の目は赤く腫れている。
「桂ちゃん……本当はね、僕は君に人を殺す覚悟なんてしてほしくなかった。後悔はしてない?」
「正直に言うと……殺したくない。戦わなくて済むならそのほうがいい」
「そりゃそうだ。僕だって好き好んで人を殺したくないんだからさ」
那岐は肩をすくめて笑う。
「(なるほど……そりゃアルちゃんが入れ込む理由もわかるよ)」
彼女は大丈夫だ。手に入れた力に溺れるようなことはないだろう。
さすがアルのお墨付きを与えられた娘だった。
桂の優しさ、桂の強さは長い時を生きてきた那岐にとってとても魅力的なものだった。
「わたしは……わたしはもう逃げない。
何のためにここにいるのか……その答えを自分で見つけるために……! そして大切な仲間達を守るために……!」
桂の金色の眼差しは曇り一つなく前を向いていた。
柚明は安心とほんの少しの寂しさを感じて桂を見る。
もう桂は守られる存在じゃないなんてとっくにわかっているけれど――。
「さてと、僕はここで少しやることがあるから二人は先に行ってくれないかな?」
そう言って那岐は祭壇の中心に立つ。
祭壇の床には円形の魔法陣が描かれている。
ルーン文字や漢字が書き綴られた複雑な魔法陣だった。
「これからこの島に張り巡らされた地脈を乗っ取る。うまく行けばオーファンをこちらの制御下に置けるからね」
「一人で大丈夫なの? わたし達も残って――」
「いや、ちょっと時間掛かりそうだからね。君達は先に行ってみんなと合流するんだ」
那岐の言葉に桂はこくんと頷く。
桂と柚明は仲間との合流を。
那岐は地脈の制御を。
言葉はいらない、今は課せられた役目を各々が果たす時。
だから――
「行こう! 柚明お姉ちゃん!」
「ええ!」
頷きあう桂と柚明。
「那岐君……必ず生きて帰ろうね! 絶対……絶対だよ!」
「ほんっと桂ちゃんは優しい子だなぁ〜。ほんと……好意に値するよ」
「コウイ?」
「好きってことさ」
「えっ……えーーーーーーっっ!!??」
面と向かって異性に「好き」などと言われてぽっとゆでダコのように染まる桂の顔。
それを見て那岐はくすくすと笑みを漏らす。
「あははっ冗談だよ冗談。でも桂ちゃんは僕の大切な『仲間』だよ。それに……いつか桂ちゃんにもお似合いの異性が現れるかもねっ」
「う、うん……」
「あー、でも最近は異性でなくてもいいのかな〜? 弥生時代生まれの僕には21世紀の恋愛事情には疎くてねー……うふっ」
「???」
何やら思わせぶりなセリフだが桂の頭の上にはクエスチョンマークが浮かぶだけ。
どうやら本当に自覚はないのだろうか……?
「(うへぇ……あれを全部天然でやってるならとんでもない大物だよ……)」
少し柚明が不憫に感じる那岐だった。
「それじゃあ……わたし達行くよ。またね那岐君」
「またね、桂ちゃん」
再会を誓いあう三人。
桂と柚明は祭壇奥の通路に向かって走り出して行った。
・◆・◆・◆・
ひゅんと音を立てて一条の線が空を疾走してゆく。
まるで、視界のその上に直接線を引いてゆくように、そして自身の上に線を引かれた者はことごとく血を吹いてその場に崩れ落ちた。
「はっ!」
掛け声ひとつでトーニャは跳躍。浴びせかけられる銃弾を回避すると、吹き抜けからそのまま上階へと飛び移った。
着地すると同時にアンドロイドが彼女めがけて狭い通路を突進してくる。
片手には分厚いブレード。人外の力で振るわれるあれを受け止める術はトーニャの中にはない。なので発砲した。
武器は多いにこしたことはないと、サブウェポンとして携帯してきた拳銃である。
しかしながら、ファントムでもないトーニャの放った弾丸は何もない場所を通り抜け命中しない。
アンドロイドは先のトーニャの様にそれを跳躍して回避し、勢いを殺すことなく空中を彼女へと向け突進してくる。
「パターン読め読めですよ!」
それを、一条の線――キキーモラが捕らえた。先の兵士達と同じく、線を引かれたアンドロイドは空中で無残を曝す。
無表情のバラバラ死体が、吹き抜けから下にばら撒かれ、床の上で派手な音を立てた。
結局の所。あの落とし穴による分断より2時間ほど経ったわけだが、未だにトーニャは誰とも合流できないでいた。
一度見失ったやよいはもうレーダーの中に入ってくることはなく、美希やファルも先ほど姿を消してそのままだ。
その他に関して言えば影も形も、である。彼女の持つレーダーはただ沈黙していた。故障や電池切れという訳でもない。
「さて、どうしたものか……」
彼女の立っている位置は突入地点である学園地下より、1kmと半分。一番地本拠地ももう目前というところである。
まばらだった襲撃も断続的に続くようになり、そろそろレーダーを確認している余裕もなくなってきたというところだ。
先に進めば、神崎が座する部屋まではそうもない。攻撃は牽制のそれから排除のものと変じ、僅かな余裕も失われるだろう。
「進むか、戻るか、はたまた待つか?」
それが悩ましい。果たして仲間達は皆どこにいるのか?
先へともう進んでいるのか。それとも、後に置き去りになっているのか、それとも今こちらへと向かっているのか。
わからなければ、進むことも戻ることも待つこともできない。そして指標であるはずのレーダーが今は役に立っていない。
「……いっそ、特攻覚悟で進みますか? いえ、短慮はいけません。時間をかけずに、けどよく考えませんと――と?」
役立たずだと断じ、もう鞄に仕舞ってしまおうかとそう思った時、レーダーが久しぶりに音を鳴らした。
映ったのは誰なのか? トーニャはすぐにそれを確認する。
「桂に、柚明……この位置は……?」
探知圏内の端っこを一瞬何者かが通り抜けた。見間違えでなければ桂と柚明。あの仲のいい2人である。
位置はトーニャがいる基地内の通路よりかはかなり遠い。また向かった方角もかなりずれていた。
「なるほど、川に落ちて……回り込んで、……ふむふむ」
再びトーニャは通路を駆け出した。向かう先は勿論、主催の中枢、番地本拠地である。
何も深く考える必要はなかったのだ。
最初のやよいだってそうだったし、美希もファルもそうで、桂や柚明も変わらない。皆、先へと進んでいる。
引き返そうなんて者は仲間のうちにひとりもいない。それが信じられるのなら、最初から考える必要はどこにも存在しなかった。
「ふふ。一番乗りはこのアントニーナ・アントーノヴナ・二キーチナがいただいちゃいます。同士諸君。あしからず」
駆けて、駆けて、そして銀狐は門を潜り抜け、18の仲間。その中で一番乗りを果たした。
・◆・◆・◆・
「行かなきゃ……進まなきゃ……いけないん……だ」
身体がギクシャクと酷く軋む。
口を開くと言葉といっしょにボタボタと赤いものが零れて、視界もおぼろげで焦点が上手く定まらない。
あの剣はどこにいったのだろう? まだ手に握っているのか、それとも落としたのか、そんなことすらわからない。
一歩踏み出した……そのつもりなのに、目の前の景色は変わらない。
力が、前に進む力が足りない。
こんなことでは駄目なのに。
僕はまだ倒れるわけにはいかないのに。
まだなにもできていないというのに。
唯湖を、止めないと……いけないのに……。
なのに視界が、ぐにゃりと歪んだ。
何かが喉の奥からこみ上げてきて、赤い塊が押さえた手のひらから溢れる。
気づけば床は真っ赤に染まっていて、その赤が視界を覆っていた。
それでも、前に進もうとする。
だけど、
「……あ………………れ……? ……おかしい…………な」
気がついたら、その赤色の中に沈みこんでいた。
動こうと思っても、身体はまるで泥の様でどんな感覚もなく。
けれど、それでも力を振り絞って手をその先へ。
唯湖の待っている場所へと伸ばそうとする。
でも。
ぱしゃりと、伸びた腕が血溜まりに落ちて、それで終わり。
そこまでだけで、少しだけ動いた腕も泥のようになってしまった。
ここで、終わる……のだろうか、僕は。
それは駄目だ。
駄目なのに、それなのに目の前が真っ暗になってゆく。
頭の中に残った意思すら泥になるようで。
最後に聞こえてきたのは、いつもどおりの静かな雨音で。
雨が。
しんしんと雨音が僕を囲んでいて。
その音だけを聞いて。僕は、
意識を手放した。
・◆・◆・◆・
雨の音が……聞こえる。
いや、雨だけが存在していた。
僕は足掻くように手を動かすけどそもそも手があるのかどうかさえ、わからない。
ここは夢なのだろうか?
それとも、死後の世界?
さっぱりわからないや。
聞こえるのは雨。
全てを覆い尽す雨で。
雨の先に見えるのは何だろう?
何があるのだろう?
そんな時、聞こえてくる声。
―――思い出さないで。
僕をとめる声。
雨の向こうにあるモノを見ないようにと止める声。
その声は優しく響いて。
僕の心の隅々にまで染み渡っていく。
それはきっと優しさ故の言葉。
思い出す事できっと何かを『失ってしまう』
そんな予感がして。
僕はその先を見るのが何処か怖くて。
その先を見たくないと思ってしまう。
けど。
―――思い出さないで。
思い出さなければならない。
僕がその雨の先にあるもの。
大切な何か。
僕が失ったもの。
―――きっと辛い事になる。
たとえ辛い事になるとしても。
僕がそれを見なければいけない。
雨はいずれ晴れる。
だから。
それが今だというなら。
思い出さないといけない。
―――クリス。
―――大丈夫?
―――酷い傷……
―――心配だ。
―――無理をしないで。
―――私のせいなのだろうか?
―――起きて……目を覚まして。
―――気付いて。
―――クリス。
聞こえる断片的な声。
懐かしい彼女の声。
雨の先に聞こえる愛しかった声。
大丈夫。
だから、僕は思い出さなきゃ。
君の為にも、僕のためにも思い出さなければならない。
―――思い出して。
うん。
思い出さなければならない。
僕が失っていたものを今。
思い出そう。
そして―――――雨の音が遠ざかってゆく。
そこに見えるのは僕と僕が愛していたアリエッタ。
楽しそうに話している僕と彼女。
あれは何時の時の事だろうか?
多分、僕がピオーヴァに行く前の事だ。
手紙を出すよと僕らは言葉を交し合う。
その光景を僕はまるで観客のように見つめているだけ。
僕らはにっこりと笑いあい、愛しみあうように会話を続ける。
そんな楽しそうな会話が続いて。
永遠に続くと思って。
――――それは突然途切れた。
突如、暴走した車が現れて。
彼女の身体を跳ね飛ばしてしまう。
僕の目の前で彼女は何もわからないままに。
身体を宙に浮かし、そしてそのまま落ちた。
駆け寄る僕。
彼女の名前を呼んでも彼女は言葉を返さない。
僕は彼女の名前を呼び続けて。
そして――――いつの間にか雨が降り始めていた。
止まない雨が。
悲しみの雨が。
僕を包み込むように。
雨が降っていた。
ああ……そうか。
そうだったのか。
僕は、
僕は。
「………………………………ああ、僕は護れなかったのか……………………アリエッタを……………………」
アリエッタを知らないうちに失っていたのだった。
僕はあの時アリエッタを護れなかったのか。
僕が失っていたものとは、失った記憶とは……そう。
アリエッタを『護れなかった』時の記憶だった。
アリエッタは生きていたんじゃない。
僕の記憶は哀しみの雨で覆い隠されて。
アリエッタが生きている。
そんな風に変えられていたのだった。
哀しみに耐える為に。
生きていく為に。
僕は雨の中にその事実を覆い隠したのだった。
でも、思い出してしまった。
アリエッタは今、死んではいないだろうけど植物人間と変わらないであろう事。
そんな事実を僕は雨で覆い隠していた事。
僕は彼女を護れなかった。
僕は彼女を救えなかったのだ。
……ああ。
僕は、どう思うのだろう。
哀しむのだろうか、驚くのだろうか。
自分の反応がいまいち自分自身でもよくわからない。
でも、確かに言える事はある。
それは彼女を護れなかった。
その記憶が、僕のこの島で考えた事、誓った事。
それに大きな影響を与える事に。
今僕自身が気付いてしまったのだった。
それはきっと…………………………
その時だった。
「………………クリス」
リンと響いた僕を優しく呼ぶ声。
彼女が来るだろうと予感めいたものも感じていた。
そしてその予感通り、僕が記憶を取り戻した瞬間。
彼女の声が響き、僕の前に現れたのだった。
そう、失った彼女。それは――――
・◆・◆・◆・
「思い出しちゃったんだね………………クリス」
そして、彼女の声が聞こえる。
現れるのは懐かしい姿。
綺麗で、トルタに瓜二つで、そして優しい笑み。
これは……夢なのか。
これは……幻なのか。
僕が作り出したまやかしなのかもしれないけど。
記憶を思い出した瞬間、
……彼女は現れた。
「アリエッタ……」
そう。
僕の大切だったひと。
僕の大好きだったひと。
そして、僕の護れなかったひと。
アリエッタ・フィーネだった。
・◆・◆・◆・
「クリス……久し振り……かな?」
アリエッタ――アルは儚く笑っている。
久し振りに会った彼女は前と変わらずに笑っている。
だけど、僕はそこに違和感しか感じなくて。
曖昧に笑いかえすしかない。
僕が思い出した事。
それが正しいというのなら。
彼女は『何故』今までいたのだろう?
……いや、僕の中で彼女の正体には気付いている。
「久し振り……だね。アル」
でも、僕はそのアルに対して言葉を返す。
多分、わかっていたから。
「……うん、わかっちゃっているかな。全部」
「一応……ね」
「そっか」
彼女はそう言って、悟りきったように笑う。
アルもきっとわかっているんだろう。
もう、僕はこのアリエッタを幻とは捉えられなかった。
だから、僕は彼女を『アリエッタ・フィーネ』として話しかける。
「アル……」
「何? クリス」
「僕は……この島で……」
「クリス」
僕が言おうとしたこと。
それはなつきとのこと。
それは唯湖とのこと。
そして、アルとのこと。
全て話すつもりだった。
もう、二度と逢わないつもりだったのに。
それでも、ここに逢えてしまった。
いや、それでもあのホテルの中で思った時とは違う。
アルが僕に対して手紙で伝えようとした言葉。
それはありえないのだから。
アリエッタがあの手紙を送れる訳がない。送れる筈がない。
だから『知ってしまった』からこそ、彼女に送る言葉がある。
なのに、彼女は僕の名前を呼んでその言葉を止める。
「ねぇ……クリス。クリスは頑張ったんだね」
アリエッタは笑ってそう言う。
アリエッタの優しい労わりの言葉。
僕はそれに苦笑いして答える。
「そんな事はないよ」
「ううん、クリスは頑張った。クリスは頑張ったよ。クリスの力で頑張ったんだよ」
アルは僕をそう褒めながら言う。
僕は……、
僕は……気付いていた。
酷くおぼろげだけど。
何となく解っていた。
それは、
「違う……君が居たから頑張れたんだよ」
「………………」
真一文字に締められる彼女の口。
アルは解っているのだろうか?
そう、僕の想い、僕の考え。
誰かを護りたかったこと。
哀しみの連鎖を止めようとしたこと。
僕自身がこの島で志したこと、全部。
それはきっと。
「誰かを護ろうとすること……誰かを哀しませないこと………………それは、全てあの出来事からだったんだ」
「……」
「そう、『君』を護れなかった日から。『君』を失った日から」
思い出した記憶。
アリエッタ・フィーネを失った時の記憶。
その記憶から。
僕が信じた事。
僕の望んだ想い。
僕が誰かを護ろうとしていた事。
それは全てあの時から。
アリエッタを失った時から。
全て始まり、そして発展していった。
『一度』護れなかったから。
『一度』救えなかったから。
護ろうと、
救おうと、
哀しみをとめようと。
そう、考えられたのだろう。
「クリス……」
アリエッタは哀しく僕の名前を呼んで。
せつなそうに僕を見る。
「ねぇ……クリス」
「うん?」
「もう……………………休まない?」
そして、哀しみの表情を浮かべながら。
僕にそう伝えた。
「クリスは頑張ったよ? 誰よりも。誰よりも」
強く。
そして優しく。
僕に対して言葉をかける。
その言葉は僕を想っての言葉で。
「こんなに、傷ついて……こんなにも哀しんで、苦しんで」
その想いが僕にも伝わってくるようで。
アリエッタは……泣いていた。
「……クリスを見てるのが辛いよ……ねぇクリス…………」
僕に手を差し伸ばして。
僕に優しさを差し上げるように。
言葉を伝える。
「私の為にこんなにも頑張らないで。私の為にこんなにも無理をしないで」
それは
とてもとても。
僕の事を思っての言葉で。
「クリス……もう……いいから……私の為に……頑張るなら……もう止めて」
アリエッタは泣きながら。
「クリスがやった事は……何よりも嬉しい贈り物だから……だから、もう、何一つも求めないから…………もう休んで…………」
そして笑って
「――――――――――本当にありがとう」
そう、言った。
その言葉は、
とても優しく。
とても温もりの篭った言葉で。
アリエッタを護れなかった僕を。
アリエッタを救えなかった僕を。
全てを許す言葉だった。
僕は……、
笑って、
そして、
アリエッタに僕の言葉を伝える。
「……それだけじゃないよ」
それだけじゃないことを。
・◆・◆・◆・
「……それだけじゃないの?」
アリエッタは不思議そうにきょとんとしながら言う。
僕はそれに対して少し笑いながら答えた。
「うん。そうだと思う……いや、そうと言えるよ」
「……クリス」
アルは驚きながら、少し哀しそうに微笑む。
チクッと心が痛んだけど僕は思う。
確かにアルの言うこともあるのかもしれない。
心の何処かで、アルへの贖罪の為にやっていた、そう思っていたところもあるのかもしれない。
だけど、きっとそれだけじゃない。
もっと。
もっと根源的な大きいものが。
「それは何?」
アルが聞く。
僕は笑って言う。
僕が思っていることそのままを。
「なつきの為、唯湖の為、アルの為、リセの為、トルタの為……皆の為にという思いもあるけど……」
「けど?」
なつきの為。
唯湖の為。
アリエッタの為。
リセルシアの為。
トルティニタの為。
そんな想いもある。
けど、
けど僕は……僕は第一に。
「僕が……僕がそうしたいと思えたんだよ」
「クリス自身……の為に?」
「うん」
そう……僕が。
僕自身で、そうしたいと思ったから。
僕の意志で誰かを護りたい。
僕の意志で誰かを救いたい。
僕の意志で哀しみの連鎖をとめたい。
そう、思えたんだ。
雨はまだ止まない。
哀しみはまだ止まらない。
それでも、雨の中で。
そんな悲しみの中で。
僕は進んでいける。
僕は歩いていける。
今までの主体性もない僕から見るとありえないものに見えるだろうけど。
雨の中で僕を救ってくれた人達の為に。
雨の中で僕を変えてくれた人達の為に。
深い雨の中。
深い哀しみの中。
僕は歩いていけるんだよ。
僕は進んでいけるんだよ。
だって
「深い雨の先に――――――きっと光がある。明日に繋がる希望がある……そう思えたから……だから、歩みを止められないんだ」
雨の先に。
きっと輝ける光がある。
そして、明日に繋がる希望が満ち溢れてるって。
思えたんだよ。
何よりも僕自身がそう思えたんだ。
だから、僕は歩いていける。
だから、僕は進んでいける。
「そして……諦める訳にはいかないんだ。哀しみの連鎖をとめる為に。彼女を護る為に。彼女を救う為に…………僕は進むんだよ」
哀しみの連鎖を止める為に。
彼女を護る為に。
彼女を救う為に。
それが。
それがね、アリエッタ。
「この哀しみの溢れる島で見つけた……変わる事が出来た『クリス・ヴェルティン』なんだよ」
今の『クリス・ヴェルティン』だから。
そして。
「それが『今』の僕の生き方だよ。アリエッタ」
今の僕の生き方だから。
「だからこそ……ここで止められないんだ……止まる訳にはいかないんだ」
アリエッタ。
「アリエッタ――――――――これが『今』の僕だよ。だから僕は僕自身の生き方を胸を張って―――――――強く誇れる」
これが
「僕が得た――――答えだよ」
・◆・◆・◆・
「そっか……」
アルは不思議な表情を浮かべて呟いた。
その表情は笑っているのか、泣いているのか、喜んでいるのか僕にはわからないけど。
でも、何処か納得したかのように晴れやかだった。
「そうだよね。うん……ねぇ?……クリス……」
「うん?」
アルは僕に問いかける。
僕はそのまま笑って彼女の答えを待った。
「クリス……本当に……頑張ったね。そして強くなった」
「そう……かな?」
「うん」
アルは満面の笑顔をこちらに向ける。
その表情は本当僕を祝福するようで。
慈愛に満ちた瞳を向け続けている。
「本当に……クリスが――――」
……遠くなった……かな。
本当は彼女の手紙ではないけど、あの手紙に書いてあった通りの言葉。
それを言うのかなと思い、僕は身構えるけど……
「――――近く感じる。そしてクリスが立派になって、強くなって私は……誇りに思う」
「…………え?」
返された言葉は……真逆。
それは紛れもない肯定の言葉で。
僕は、その言葉が信じられなかった。
「………………どうして?……アリエッタ……僕は……」
声が震えている。
アリエッタがそんな事を言うとは思わなかった。
僕が彼女を裏切ったのには違いのだから。
なつきを愛して結ばれて。
そして、唯湖を思って。
好きだった君を置いてけぼりにしたというのに。
どうして君はそんなに笑っていられるんだろう?
「クリス。私はね、嬉しいんだ」
嬉しい……?
そんな訳があるはずないと思うのに。
僕が選んだ選択肢は君を哀しませるだけなんだ。
「アル……そんな事ない。僕は君を哀しませることしかしてないよ」
「……どうして?」
アリエッタは微笑みながら僕に問う。
その純粋な微笑みに僕は戸惑い、言葉に詰まりそうになるも僕は続ける。
僕自身が言わなければならないから。
「僕は、ここまで来るのに……助けてくれた人達がいるんだ」
「…………」
「玖我なつき……来ヶ谷唯湖って二人の人が」
「……うん」
大切な人。
大切な大切な人。
「唯湖は……僕を救ってくれた……哀しみに溺れそうになった僕を救ってくれたんだ」
「うん……」
「今、彼女は苦しんでるだろうけど……僕は彼女を救いたい。大切だから」
「そっか」
アルはそんな呟きを残して。
僕の方を見る。
「クリスにとって……唯湖さんはどんな人?」
「……どんな……んだろうな」
「解らない?」
「……いや……彼女がいなければ僕は僕でいられなかった。
最初からずっと僕を支え続けた強い人。だから感謝して……そして救いたい。そう思える人だよ」
「そう、いい人なんだね」
「うん……そうだね」
アルの無垢の笑顔に僕は本当に申し訳なくなる。
罪悪感で一杯だった。
僕は彼女を裏切ったのに。
彼女は嬉しそうに笑っている。
それが切なくて僕はアルを直視できない。
「ねぇ、なつきさんは?」
「なつきは…………なつきは……」
僕はその後の言葉が上手く言えない。
その言葉がどれだけアリエッタを傷つけることになるんだろうか。苦しめる事になるんだろうか。
そしてその結末に彼女はどんなに哀しんで、そして僕を見送るんだろう。笑顔で。
でも、僕は……、
「なつきは………………大切な『恋人』だよ。心の底から大好きで愛してる」
その言葉を言えていた。
その言葉がアリエッタの心を抉る事になるとしても。
僕は、言えていた。
全てに決着をつけるために。
アルは俯きながらも僕に問う。
「そっか……なつきさんは……いい人なの?」
「うん……とても。強くあろうとして強がって、でも誰よりも優しさを求めて」
「……」
「意地っ張りで。でも本当は純粋で素直な子で」
「……うん」
「本当は心の底から優しくて、誰かを思って泣ける優しい子」
「……だからクリスは」
「うん……僕は彼女を好きになれたんだと思う。護ろうと……思えたんだと思う」
嘘偽りのない言葉。
その言葉はアルに届いているのだろうか?
僕のなつきへの言葉をきいてアルはどう思うのだろうか?
僕はアルの言葉が少し怖くて。
そして彼女の次の言葉を待った。
アルは…………
「うん………………クリスは本当にいい子に逢えたんだね」
顔を上げて。
その表情は本当に……本当に素直な、
「私は――――嬉しいよ。そして安心して託すことができる……よかったね、クリス」
綺麗な笑顔だった。
そこに哀しみはなく。
そこに苦しみはなく。
優しい、僕の事を思った笑顔だった。
僕は……信じられなくて。
「どうして? 僕はアルを裏切ったんだよ。アルがいたのに…………」
「ううん、いいの。私はクリスが幸せなら、それでいいんだよ」
だってと彼女は哀しく笑う。
「私は『もう』一緒に歩くことは出来ないから」
…………あぁ。
そうか。
そうだ……僕の取り戻した記憶が確かなら彼女は………………、
もう、『この世』にいるかどうかすらわからない。
僕は愕然として……そして哀しくなっていく。
「だからね。私はね……クリスが笑って生きていられいるならそれでいいの」
アルの静かな独白が始まる。
それは哀しみや幸せが入り混じった不思議な言葉達で。
まるで歌っているようだった。
「私は、クリスがもう私の為だけに頑張ってる訳ではない事を知っていた」
「……そうなの?」
「うん。でも聞いてみた。そしてクリスの心を確認したかった。結果は私にとって本当に嬉しいものだった」
アルは笑う。
心の底から嬉しそうに。
「私はもう一緒に歩けない。でもクリスには歩いていって欲しい。これからも。その先もずっと。
そのためにはクリスが笑って幸せにならなきゃ駄目なの。
そして、クリスはそうでいられる為に、一緒に歩ける人を得た。
私の代わりに愛して、ずっと傍にいられる人を。私はその事がとても嬉しい」
笑って。
笑顔で、笑い続けて。
「クリス自身も強くなった。立派に前をむいて歩けるクリスが。
強くなったクリスがここに居る。クリスはもう自分の力で歩いていける。
それが本当に嬉しくて。泣きそうになるぐらい嬉しくて、嬉しくて堪らない」
そう、僕に対して言う。
それは幸せな気持ちを隠さず本心からの言葉で。
とても、とても幸せそうで嬉しそうだった。
「クリス……本当によかったね」
彼女は、そう締めくくって。
幸せそうに笑っていた。
僕はそんな彼女を見つめ続けて。
……そして、笑って。
「うん」
そう小さく……だけど本心から肯定することができた。
「よかった……本当によかった」
彼女は安心したように呟いて。
「…………『ずっと見守れてよかった』クリスが歩んだ事。全て『見れてよかった』」
……………………えっ。
ずっと……?
「ずっと……?」
「うん……ずっと。本当はね………………」
彼女は心の底から笑って。
「私はクリスの傍に『ずっと』居たんだよ? この島でも」
そう………………言った。
「クリスが唯湖さんと歩んだ事。クリスが一人でくじけそうなった事。クリスが色々な人に支えられた事。
クリスがなつきさんと歩んだ事。静留さんとの事。クリスがこの島でやろうとした事。
クリスの想い。クリスの言葉。クリスの事を――――」
……あぁ。
「――――本当はずっと傍で見ていました」
……そうか。
アリエッタは……ずっと居たんだ。
この島でも。
僕の傍に居たんだ。
彼女の正体が…………、
「アル…………君は…………あの音の妖精……だったの?」
音の妖精、フォーニであるのなら。
予感はしていた。
記憶を取り戻してから、フォーニがアリエッタではないかと。
フォーニ。
僕の部屋にいついていた音の妖精。
僕の傍で歌を歌い、おせっかいで僕を支え続けていたあの妖精。
僕にしか見えなくて、僕のことを思っていたあの妖精。
何故、僕の傍に居続けていたのか。
そう思って、僕はそう気づくに至ったんだ。
アリエッタなんじゃないかと。
アリエッタは僕が心配で。
僕の傍でずっと見ていたんだ。
そして、フォーニがアリエッタだというのなら。
フォーニは自分の姿を自由に消せることができる。
つまり、彼女は。
僕と『一緒』に最初からこの島に『居た』
連れてこられて、ずっと姿を消していた。
僕を見守っていた。
……そう言いたいのだろうか。
「……さあ、どうだろうね」
彼女は曖昧に笑って。
悪戯をしたかのように笑っていた。
「私は『居たかも知れないし居なかったかも知れない』」
そんな風に曖昧に笑って。
でも、それは殆ど事実だといっているようなもので。
「じゃあ……ずっと見ていたの……?」
その問いに曖昧に笑うだけ。
「私はね…………この島の奥に居た。
えっと箱舟だったかな?
そこにね。何故かは解らないけど。もしかしたらこの島を作る為にいたのかな? 同じようなのが教会にあるみたいだし……。
……でも私自身もよく解っていない。けれど最初からいたのかな?
こうして現れる事が出来たのは偶然かな? よくわからないけど」
アルは悪戯そうに言う。
その笑みは何処か不思議で。
僕は突きつけられた事実に戸惑うばかり。
「トルタが愛した少年も同じようになっていたみたいだし……彼は気付かなかったけどね……。
でも、一人だけ気付いた人が居たかな。私と同じ名前の子。
箱舟でクリスとその子があった時に。トルタと同じようだといってたけど…………まあ似てるのかな。双子だしね」
彼女が伝える事実に理解が追いつかない。
でも解る事は彼女は最初からこの島に居た。
そして、僕を見ていたという事だけ。
僕は……言葉を失ってアルを見ているだけ。
つまり。
アルはフォーニで姿を隠しながら僕の全てを見ていた。
アルは僕が唯湖といたときの事を知っている。
アルは僕がなつきとの事も知っている。
姿を隠しながら見守っていたという事。
……じゃあ、何で……
「僕の前に現れなかったの?」
「クリスが必死に自分の足で歩んでいたから。頑張っていたから。
私は見守るだけでよかったんだよ。クリスの傍にはパートナーも居たしね」
そう、彼女は僕の歩みを見ていたんだ。
傍でずっと。
僕を見ていて、僕の頑張りを見守っていた。
それだけの事。
それだけの事が僕には驚きで仕方なかった。
そして
「クリス……私が最後に貴方の前に姿を現した理由。それはね……」
アルが現れた理由。
それを言おうとする。
「私は貴方の歩みを見ていた。
そしてその上でクリスがもう一人で生きていけるとも思った。私は姿を現さないで消えたままでいいと思った」
でもと彼女は言う。
「クリスは悩んでいた。ある事で。それは私の事で、そして余りにも昔から遠くなってしまった自分自身について」
それは僕が悩んでいた事。
アルに対してどういえばいいのか。
そして日常から余りにも離れて変わってしまった自分自身。
余りにも僕自身が遠くなって、その結果戻る所も無いし、僕が進む所も無いこと。
「だから……私がその悩みを解放してあげるね」
ただ、それだけの事だけの為に。
彼女は現れて。
そして魔法のような言葉を僕にかける。
「クリス。私は貴方を許さないよ。だから、私はずっとずっと貴方を――――愛し続けてあげる」
それは許さないという事。
僕がアルの許しを怖がっていた事を知っていて。
下らない僕のエゴ、『アリエッタが僕を愛する権利を奪いたくない』
そんな事の為に、彼女は僕は許さない。
それは本当に僕の事を想っていてのことで。
僕はそれを知っている限り、彼女の事を忘れないだろう。
『愛し続ける』
それは呪詛のようで祝福のような言葉で。
この事実がある限り、僕とアルは繋がっていられるのだろう。
たとえ、死が二人を別っても。
その言葉に僕は泣きそうで……救われたよう感じてしまう。
それがアルの優しさだった。
「クリス……私はね、『今』のクリスが好きだよ。
前よりももっと好き。だから変わってしまった事に後悔しないで。
……クリス、クリスにはここに居るよ、しっかりと。クリスは彼女達と共にずっとずっと歩いていける。
その先に進むべき所があると思うよ。
そして、戻る場所はあるよ? クリス」
……え?
僕が戻る場所?
遠くなった日々は戻ってくる訳がない。
なのに……
「クリスが持っている思い出、アンサンブルしたり、皆でご飯を食べたり、そんな思い出。
それを忘れない限り……きっと戻ってこれるもの」
……ああ。
……あった。
僕にも大切な思い出が。
アルと過ごした日々。トルタと過ごした日々。フォーニと過ごした日々。リセと過ごした時間。
どれもこれも大切な思い出だ。
……そうだ。
これを忘れない限り、僕の日常は無くなる訳がない。
僕が望む限り、きっといつでも僕の心を癒してくるんだ。
そうなんだ、遠くなった日々は思い出という形に変えて傍に有り続ける。
それをアルは教えてくれた。
僕はきっとそれを忘れないだろう。
忘れるものか。
「だから、クリスは今のクリスのままで、生きてください。明日に向かってください。
クリスとクリスのまわりは変わってしまったかもしれないけど……、
クリスの大切なものは何も変わってないよ。そして私は変わったクリスも好きだから…………『思い出』を糧に『今』を生きてね」
アリエッタは笑って。
そう、僕に言う。
そうだ。
変わってしまったかもしれないけど。
僕はその変化を糧に進む事が出来るのだろう。
だから、僕も笑って。
「うん、そうするよ」
頷く事が出来た。
アルは本当に綺麗に笑って。
いつまでも、その時間が続くような気がして。
でも終わりはやってきて。
「さてと……そろそろいかなくちゃ。クリスもいかないと駄目でしょう?」
アルは名残惜しそうにそう呟いた。
そして、これは今生の別れにもなって。
僕とアリエッタの最後の邂逅になるのだろう。
僕は涙が溢れそうになって、それでも笑う。
笑わないといけないのだから。
「最期にクリスと話して良かった。クリスから今のクリスの生き方を聞けて………………本当に良かった」
アルの言葉。
それは切なくだけどとても綺麗に響いて。
僕は切なくなって呟いてしまう。
「これで……お別れなのかな?」
「うん……御免ね、お別れが突然で。今はちょっとね……寂しいけど……哀しみじゃないの」
彼女はそれでも笑顔で。
そう言って幸せな顔をして。
「いつかちゃんと思い出になる……から」
そうやって、締めくくった。
この邂逅が忘られない大切な、大切な思い出になるように。
心の底から願いながら。
「そうだ、約束。お願いをひとつだけ」
彼女はそう呟いて。
「生きて、生きて、どんな時でも。投げては駄目よ……クリス。唯湖さん救ってあげてね」
そう、生きる事を僕に願った。
僕は笑って。
哀しみはみせないで。
「うん、わかった」
生きる事を誓った。
アルは満足そうに笑って。
「じゃあね、クリス……いつか、また」
「うん……じゃあね……アリエッタ」
そして、別れの時はやってくる。
それなのにアルは未だに笑って。
泣くことすらせず。
ずっとずっと笑っていて。
さいごに。
「クリス……憶えててね。私、アリエッタ・フィーネは」
笑顔で。
「私は貴方のすべてをわかってるから」
幸せそうに。
「私は貴方を愛しています」
嬉しそうに。
「私はこの私の生き方を愛しているから…………そして、忘れないで」
僕に口付けをそっとして。
「――――私は貴方の傍にずっといます」
もういちど笑って。
彼女は『思い出』に変わっていった。
・◆・◆・◆・
目を開けるとそこは先程と変わらない通路のままで。
今のはただの夢だったんじゃないかなんて、そんな風にも思える。
夢だったのかもしれない。
アリエッタのこと。
あれは僕が見た都合のいい幻想かもしれない。
でも、
僕が取り戻した記憶は確かなもので。
あの記憶は真実だった。
そして、あれが夢でも現実でもどちらでもいい。
僕はアリエッタと最後の邂逅をした。
その結果、僕はまた進める。
それだけだった。
さあ、行こう。
あれだけ重たかった身体が不思議と軽く動く。
痛みや苦しみは決して幻ではなかったはずなのに、どうしてなんだろう?
そう思った時、手の中に何かを握っていることに気づいた。
赤い、大きな宝石。
大きな魔力が篭っているから、そう言ってアリエッタじゃないアルが僕に持たせたもの。
それが手の中にあって、力を失ったからなのかサラサラとした灰に変わってしまう。
指の間から零れて……それこそ幻だったかのように、なくなった。
いつの間に? 誰が?
それはただ僕が無意識の間にそうしたのかもしれない。
けど、そうじゃない可能性もあるんじゃないかと、そんな考えが頭をよぎった。
それは、わからないことだけど。
僕はゆっくりと立ち上がる。
まだ少しだけ足元がおぼつかないけど、行かなくちゃいけない。
歩かなきゃ。
進まなきゃ。
歩こう。
進もう。
歩け。
進め。
アルの為に。
なつきの為に。
唯湖の為に。
そして僕の為に。
歩くんだ……進むんだ。
雨は……まだ止まない。
それはきっと、護れなかった、救えなかった、僕がまだ護ってもいないし救えてもないから。
だから今度こそ救わなければならない。護らなけばならない。
さあ行こう。
まだ身体は少し重いけど……大丈夫。
だって、
――――――僕は独りじゃないんだから。
彼女がそっと背を押してくれる――――そんな気がしたから。
だから、僕は歩いていける。
そう。
歩けるんだ。
・◆・◆・◆・
「来ヶ谷唯湖……っ!? 話を聞け!」
「……聞く道理も無いのだがな」
二人が出会ってから数刻が経ってなお決着は遠く、いたちごっこが続いていた。
なつきが説得の言葉をかけようとすると、唯湖は剣をもって仕掛けてくる。
唯湖はなつきを傷つける事をかまわず突進してくるのだから、なつきは避ける事に専念するしかない。
なつきは逆に彼女を傷つける事はできない。
それはクリスの為であり、なつきが両手に握っているエレメントでは一撃が致命傷になりかねないからだ。
なので銃声は未だ響かず、一切のなにもかもが進展していない。
「……もう、いいっ!」
イライラが募り、そして元々我慢がきかないなつきはついに吹っ切れた。
そもそもとして、唯湖を行動不能にしない限り彼女は話を聞いてくれないのだ。
ならば、今更それを躊躇することもない。
「来いっ! デュラン!」
ゆえに、呼ぶは愛しき我が仔。
彼女がこの島で愛しき想いを昇華させ、再び顕現させることができた、蒼い狼。
唯湖はその存在を知ってはいたものの、いざ目の前に現れるとなると戸惑うしかない。
「なっ……!?」
「デュラン、彼女を抑えろ!」
主の命を聞き、デュランが嘶いたと同時に唯湖は地へと伏せられていた。
どうやら、瞬く間になつきのチャイルドによって抑えつけられてしまっていたらしい。
床に顔をつけた唯湖は舌打ちをし、その傍には不適に笑うなつきが立っていた。
戦力的に不平等だぞと、そんなことを内心に思いながら唯湖は忌々しそうに言葉を発する。
「やれやれ、いたいけなおねーさんになんてことをするんだ凶暴女め。クリス君に嫌われるぞ」
「五月蝿いっ! 最初に仕掛けてきたのは何処のどいつだ!」
「さて、何の事やら?」
「……こいつっ!」
どこまでもお茶らけた態度をとる唯湖にいらつきながらも、しかしなつきは冷静さを保とうとする。
ここで相手のペースに乗せられてしまったら、説得もできそうにない。
なにより、圧倒的有利の立場にいるのはこちらなのだ。
そう思い、なつきは唯湖に向かって話しかける。
「……まあいい。話を聞いてもらうぞ」
「……ふん」
唯湖は澄ました態度でなつきを見上げる。
気には喰わないが、一応は話を聞くつもりらしい。
なつきはその態度に一安心しながら、一応大事を考え、彼女が持っていた武器とデイバックを回収する。
「よし、話を……」
「武器を奪ったのなら……どけてくれ。この犬っころ。重くて仕方ない。話も出来ないぞ、これじゃあ」
「犬っころいうな。……ちっ。……デュラン下がれ」
チャイルドを犬扱いされた事に少しイラつきながらもなつきはデュランを下がらせる。
兎も角話をしないと先に進めない。武器は回収したし大丈夫かと踏んだなつきは唯湖の願い了承した。
唯湖は服についた汚れを手で払ってなつきを見据える。
そして一段落したと見て、なつきは彼女に向かって口を開いた。
「……どうしてこんな事をする」
まずは唯湖が行った所業についてを。
それは暗に唯湖が何故殺人肯定者の側に回り、人を殺し続けていたか、ということ。
その答えをなつきは一応気づいている。
だが、その答えを唯湖の口から直接聞きたかった。
「愚問だな、玖我なつき」
「……っ」
「簡単だろう。私が誰を”大好き”で誰を”愛している”か解っているのならな」
「…………」
唯湖はなんの表情も変えずにそう言った。
本当に唯湖にとっては愚問だった。
まして、唯湖はなつきが唯湖の答えに気づいてる事にも感づいていたのだから。
彼女が、自分がそこまで至った答えを知っているのなら尚更、愚問でしかない。
だからこそ、唯湖はあえて、自分の答えを言う。
それは問う形にしながらも、なつきなら絶対にわかるだろう言葉。
そう、同じ人を”好き”になって”愛した”彼女ならば。
なつきは押し黙るしかない。
その答えを改めて突きつけられる形になっているのだから。
「好きな人を護りたい、生かしたい。好きな人の為に命を使いたい。それは悪い事なのか?」
「それはっ……!」
「否定出来る訳ないよな、藤乃静留に”愛された”玖我なつき君」
「……っ!?」
意地悪そうに唯湖は言う。
なつきがそれを否定できないのを知っているから。
唯湖の考えを否定する事はそのまま、静留の生き様を否定する事になると知っているから言う。
なつきは卑怯だと思いながらも、そこでひとつ気づいた。
「お前は静留の事を……」
「……ああ、知っている。無駄に時間があったからな。彼を見るついでに見させてもらったよ」
来ヶ谷唯湖が藤乃静留の生き様を知っている。その事実になつきの言葉が詰まる。
少し予想外だった。
最終的に自決をした静留をみて唯湖はどう思ったのだろうか。
そして、なつきは同じく自決を選んだ恭介から言葉を託されている。
そういう意味でも唯湖がどう思っているかが、なつきからは気になってしかたない。
「彼女は……きっと幸せだったんだろうな。最期の最期で……あんな。……羨ましいな。私も、あんな死に方をしたい」
唯湖の陶酔の篭った、羨望するような呟き。それは幸せに溢れている死の瞬間への憧憬。
苦難や哀しみに囚われていた静留の、ほんの一かけらの、今際のやすらぎ。
それを唯湖は心の底から羨んでいるようだった。
「そんな……、なんで死なんて……」
「……解ってるんだろう? 私の本当の目的ぐらい」
唯湖が殺し合いを肯定したのはあくまで副次的ことでしかない。それをなつきは知っている。
唯湖はこの島の誰よりも、生より死を望んでいる。そして唯湖がその死に向かって行動していることも。
唯湖は微笑んで、そして言った。
「玖我なつき。……もし、生きる明日も無く、生きる未来も無く……どんなにどんなに足掻いても……その先が無いというのなら……」
唯湖は何処か悟りきった表情で。
そんな顔がなつきはどこか嫌で。
唯湖は言葉を続ける。
「待ち構えているのが死しかなくて……本当に死ぬしかなかったから……。
その命、誰の為に使って、誰に祝福されたい? 誰の傍で、誰の手で死にたい……?」
唯湖はそのまま、哀しく笑って。
本来敵であるなつきに笑いかけて。
「――――君も同じ答えなんじゃないか?」
そう、なつきに問いかけた。
なつきは押し黙るしかなかった。
その沈黙は肯定でしかなく。せめて、肯定を口にしないだけという、ただの強がりでしかなかった。
なぜなら、なつきにとってそれは否定できるものではないから。
藤乃静留が精一杯頑張った生き方。そして恐らくは棗恭介も。
例え間違っていた手段ではあっても、その生き方を否定なんて出来ようもなかった。
そしてなつき自身も思う。
もし、自分自身が同じ境遇におかれたらどうなっていただろう?
クリスの為に殺人を肯定したのだろうか?
それは解らないけど。
でも。
最期にクリスの為に死ねたら。
最期にクリスの傍で死ねたら。
最期にクリスに祝福されながら。
最期にクリスの腕の中にいられるなら。
それは――。
(なんて……幸福)
なんて幸せな事なのだろうか。
そんな唯湖への共感をどうしても持ってしまう。
なつきは思う。
(そういう意味では……似ているのかもな)
そんな共感。
なつきと唯湖が似ていると。
じゃあどこが違って、どこが違ったせいでこんなにも違う立場にいるのだろう。
考えても答えは出なかった。
けど、共感はしても、その生き方を認めるわけにはいかない。
それになつきは思うのだ。
唯湖にはまだ希望があると。死ぬ事を選ぶしかなかった藤乃静留や棗恭介とはちがうものがあると。
だからなつきは口を開く。
「違う。お前は違う。来ヶ谷唯湖は、お前まだ……生きてるだろう?
静留や棗恭介とも違う。今も、こうやって立っているじゃないか?
クリスだって言っている。……まだ明日を歩けるじゃないか。……まだ未来を描けるだろう?」
唯湖はまだ生きている。
だからこそ、明日を歩いていける。
クリスが言ったように、今を生きているのだから。
しかし唯湖はなつきの予想外の言葉にキョトンとして。
「そんなもの……存在しないさ。明日など希望など無いから今、私はこうやってここにいるんだろう?」
哀しく自嘲するように笑った。
それは本当に儚く消えゆくような笑顔で。
なつきは戸惑い、それでも消えゆこうとする彼女に向かって言葉を発する。
「どうしてだ……どうしてそんな事考えるんだ……?」
なつきが先ほどから思っている疑問。
唯湖はそれに対してふむと口元に手を当て、少し考えて。
やがて、
「まぁいいか……ほかでもない、クリス君の伴侶だ。特別に話そうか」
それを話すことに決めた。
クリスの傍にいる彼女に。
なぜか知ってもらいたいと。
そう思えたから。
「知っているかい? この島には死人がいたって事を」
「死人? ……死んだ人が……蘇るのか?」
「ああ、だって私がそうなのだからな」
「……なっ!?」
驚くなつきを尻目に唯湖は飄々と語る。
その表情は不思議なもので。
唯湖がどう思っているかをなつきは推し量れないでいた。
「バスの事故でな……ほぼ死人と一緒だったよ」
「そんなっ……」
「まあその間は実は霊体みたいなものだったが……、それは言う必要も無い」
唯湖はあえて、恭介が作り出した世界で理樹と鈴を成長させようとしていたことは省いた。
この記憶は唯湖だけのもので。
唯湖が大切にして、そして捨てた仲間の事は語りたくも無かった。
何より理樹達が死んだ時点でもうその目的すらなくなっていたのだから。
だから、これは唯湖だけの記憶、思い出にしたかった。
楽しかった、思い出の残骸として。
「な…………」
「絶句してるのか? まぁその気持ちは解らなくもないが」
「来ヶ谷……」
「おっと意味のわからん同情は結構だ。むしろしたら殺す」
自分を見つめるなつきの目に苛立ちを感じ、唯湖は冷たく言い放つ。
確かに不幸だったかもしれない。
しかしあの虚構世界での出来事の全てが不幸だったわけではないし、一言で言い表せるものでもない。
だから、それを憐れみのひとつだけで括られるのは深いでしかなかった。
「ふん。まぁ、その最中だ。こんな所に連れてこられたのは」
「……それは?」
「死んだまま、連れてこられた……とでも言えばいいのか。……まぁ、そういう事だ」
なつきは信じられないという風に彼女を見た。
そんなことがあるのかと。とてもにわかには信じられる話ではない。
けれど、唯湖の真剣な眼差しを見れば嘘じゃないこともまたわかってしまう。
なにより、元は霊体だったと、そういう人物も仲間の内にいるのだ。信じれない理由はなかった。
「しかしまぁ…………。この島に来たことは、幸せでもあり不幸でもあったかな」
唯湖はまた微笑んで。
その顔には哀しみか喜びか。
でも、確かに笑ってなつきにこう言った。
「クリス君に会ったことはな」
愛する人の名前を告げた唯湖を、なつきはただ綺麗だなと思い。
唯湖は嬉しそうに話を続ける。
「君も知ってるだろうがあの少年は優しい」
「ああ……」
「簡単に人の心の隙間に入り込んできて、優しくしていく。苦しみを癒していく」
「……」
「そうかと思うと本当に救いたくなるほど弱くなっていく。あの少年を救いたい、助けたいってそう思えるまでに」
クリスを語る唯湖は幸せそうで。
羨むぐらいに本当に幸せそうだった。
「そして……温かい」
「…………ああ」
「温かくて、…………温かくて、……そして、気づいたんだ」
その唯湖の目は優しくて……そしてとても哀しそうで。
「ああ、私も人間なんだなって。人形じゃないんだって……感情が、心がここにしっかりある……そう気づかせてくれたんだよ」
今にも泣きそうに。
だけど、とても嬉しそうに。
笑っていた。
「だけど、………………気付きたくなかった。……知りたくなかったっ!」
その言葉とともに。
表情はとても哀しそうで。
「こんなに苦しくなるなら……こんなにも張り裂けそうになるなら……感情なんて、心なんていらなかった!」
涙が。
ひとしずくこぼれた。
「……何故だ? ……辛いかもしれない、苦しいかもしれない。でも、その感情は、心はいいものだってたくさんつまってるだろう?」
なつきは否定する。
心に苦しみや哀しみは溢れてる。
それでも、その中には喜びだって溢れているはずなのだ。
なつきがクリスと触れ合った時のように、心を交わした時のように。
忘れがたい、失いたくない、想いが、感情が、溢れてるはずなのだから。
「……さっき言った事を忘れたかい? 私は”死人”なのだよ」
「……はっ?」
唯湖が言った言葉は。
それは絶望で。
「私はもう”死んでいる”。……帰る場所なんて無いんだよ。……希望が溢れる明日なんて……存在しない」
そう、唯湖は死んでいる身だということ。
帰る場所なんてどこにもない。
希望が溢れる明日を迎える事など……できやしない。
「なぁ…………死ぬしかないのに、どうして心なんて知ってしまったんだろうな?」
なつきの見つめる前で唯湖は泣いていた。
本人は気でいていないが、大粒の涙がぽろぽろとたくさん。
「こんなに苦しいのに……こんなに哀しいのに……止まらないんだ……好きって感情が……なぁ……どうすればいい?」
それは、本当は生きたいのに、生きることのできない哀しみ。
クリスと一緒に歩みたいのに、なのに歩めない苦しみ。
死ぬしかしない。……そう思っている唯湖の独白だった。
「………………もう戻れない。……なら、私は望むのは一つしかない」
そして、なつきに告げる。
「クリス君の傍で……クリス君の手で私は死にたいよ」
自分自身の願いを。
死ぬ前の最期の願い。
そして、最も幸福な死に方を。
その為に、
「私は殺す。
クリス君に生きてほしいから。
クリス君の手で殺して欲しいから。
クリス君に殺してもらえるように存在になる為に。
そして」
何よりも。
本当に心の底から
「――――クリス君が好きだから」
彼のことを想っているから。
唯湖は笑って言った。
それは作り物じゃなくて。
本当に心からの笑顔だった。
でもそれはとてもとても哀しい笑顔で。
とても美しかった。
なつきは、
「……………………ふざけるな…………ふざけるなっ!」
激昂していた。
顔は朱に染まり。
はじめて、唯湖に対して純粋な怒りの感情を燃やしていた。
「……そんな気持ちで……そんな事で………………生きる事を諦めるなっ!」
それは生きる事を諦めようとした唯湖に対してで。
生を諦め死しか望まないその考えに嫌悪感を露にする。
「生きたくて……生きたくて……本当に生きたくて……でも」
浮かぶ顔は殺してしまった少年。
浮かぶ顔は無邪気な小さな女の子。
浮かぶ顔は自分を護ってくれた先生。
沢山の死んでしまった命。
そう、それは、
「生きたくても……、生きたかった奴らが沢山居るんだっ!」
本当に生きたいと願っていた人達の心と想いを籠めて。
そして、
「好きな気持ちを、死を……死のうとする気持ちの為に」
護ろうとした親友。
護れなかった少女。
護ろうとした少女。
護りたかった少年。
自ら命を断ち切った者達。
「肯定する道具にするなっ!
本当は……本当はあいつらは一緒に生きたかったんだ! 好きな気持ちを………………そんな哀しいものに使うなっ!」
蘭堂りのと穏やかにすごしたかった神宮司奏。
玖我なつきと笑いあっていたかった藤乃静留。
棗恭介と愛し合いたかったトルティニタ・フィーネ。
トルティニタ・フィーネと愛し合いたかった棗恭介。
大好きだった人と本当は歩きたかった。
でも失ってしまった。自分が生きることすらできない。
本当は死にたくなかった。
でも、それしかなかった。
哀しい。
哀しいもの。
好きな人の為に。
命を散らした哀しい結末。
でも。
本当は好きという気持ちを。
命を自ら断ち切る為に使いたくなかったはず。
そう、なつきは思えたから。
「来ヶ谷唯湖っ!」
死のうとしている彼女の名前を呼ぶ。
彼女の表情は長い髪に隠れてわからなかった。
それでもなつきは強く告げる。
「棗恭介からの伝言だっ!」
その名前に唯湖がビクッと身体を揺らしたのをなつきは見逃さない。
「あいつも、静留やお前がしようとしていることと同じだった!」
「自ら命を絶ったのだろう?」
「……っ!」
「知っている。……私も見た」
唯湖の、その小さい呟きは、低くなつきに響き渡る。
哀しいぐらいに、震えていた。
同じ仲間がとった、唯湖がとろうとしている同じ結末に対して。
「大好きな少女へと後追い自殺か…………偶然だな。私もそんな人達を見たんだ」
それは黒須太一と支倉曜子のことで。
彼女達はどうだったのだろうか?
幸せだったのだろうか?
答えはきっと彼女達にしかわからないだろう。
唯湖は深く諦めの篭ったな言葉で言う。
「結局辿り着く所なんていっしょ……」
「ちがうっ! 棗恭介は静留と同じように、大好きだった子の願いとは違うことをしようとしたかもしれない……それでもっ!」
なつきは手を振るい強く言う。
棗恭介の言葉を。
「あいつはな……好きな子にこう言われてたんだ……”生きて”って」
「…………」
「でも……あいつだって、そんなの、同じだって! 棗恭介だって、好きな彼女に生きていて欲しかったっ!
だけど……残されたのは棗恭介だった。棗恭介の好きだった子は、あいつを生かす為に命を絶ったんだっ!」
「……っ」
「哀しいな……苦しいよな。そんな結末……誰だって選びたくないだろう」
なつきは辛そうに言う。
そんな、哀しい想いは二度と御免だった。
静留の時のようなそんな、辛く哀しい思いは。
「そして、最後に……リトルバスターズの棗恭介としての言葉じゃない。
おまえが辿るかもしれない、未来の姿――馬鹿な男の頼みごとだって……」
その予想外の言葉に唯湖はビクッと震えて。
なつきを息を吸い込んで言う。
「”おまえは、俺や静留みたいにはなるな。おまえの想い人はまだ生きている。おまえの想いは、まだ消えちゃいない”」
まだクリスは生きている。
クリスへの想いは色濃く残っていて唯湖を突き動かしている。
なら。
「”だったら、逃げたりなんかするな。想いに殉じるなら――死ぬより生きてみろ。それが、先人からのアドバイスだ”」
死に逃げてはいけない。
想いに殉じてはいけない。
まず生きる事。
強い言葉だった。
そしてなつきは言う。
最後に伝える言葉を。
唯湖と恭介達が違うことを。
「なぁ、あいつらはな。……死にたくなかったんだ……生きる事に絶望なんかしていない……本当に最後まで生きたかったんだ」
そして。
唯湖に問う。
本当に。
本当に。
「……お前は……足掻いて、足掻いて……足掻いたのか……生きることに! 生きようとしたのか!」
生きようとしたのかと。
強く強く。
言葉を放った。
それは紛れも無くなつきの強い想いだった。
そしてそれは自ら命を絶ってしまった静留や恭介達への手向けで。
強く、優しい言葉。
その言葉に……、
「……くっくっ……あははははっ!」
唯湖は嗤った。
・◆・◆・◆・
「な、何故笑う!」
「……くっくっ……あははっ」
可笑しい。
笑ってしまう。
何を……何を。
今更なことを言うんだ、君は。
可笑しくて思わず笑ってしまう。
「足掻いたさ……足掻いたさ」
足掻いて。
必死に足掻いて。
他に手段はないか本当に考えて。
それでもなくて。
「夢を見たいさ」
もっと見たい。
クリス君と話す夢。
一緒に過ごせるようなそんな優しい夢。
でもそれは夢で。
思い描いては儚く消えていく。
「もっともっと先を見たいさ」
もっともっと先を見たい。
自分の心の先。
クリス君との先。
明日をもっともっと見たい。
本当に……見たい。
「でも」
確かに玖我なつきや棗恭介の言葉は強くて優しい。
とても優しく励ます……生きろという言葉。
まだ、未来がある、命があるという本当に優しい言葉。
できるなら、甘えたい。
甘えて戻りたい。
あの優しい時間に。
でも。
でもな。
「それでも―――私は殺してしまった」
私は人を殺した。
衛宮士郎。
西園寺世界。
千羽烏月。
源千華留。
私は自分の為に他人を殺した。
クリス君の為でもあるが……最終的な目的は自分自身なのだから。
「エゴの為に殺して……殺して……」
その時は何の後悔も抱かなかった。
苦しくも無かった。
それなのに。
「そして、今更殺した罪の重さに絶望した」
自分自身のが殺した人間。
それに対する罪が……余りにも重い。
今更ながら重圧のように圧しかかってくる。
苦しくて苦しくて耐えられない。
そんな重みに。
私は……耐えられない。
「ああ、なんて愚かだろうな」
私は……殺した事によって。
「そう……私は自分が生きる未来すら殺したんだよ」
夢を描きたい。
明日を見たい。
そんな夢や希望、そんな未来を自分自身の手で殺してしまった。
私は、殺した重みに耐え切ることなんて、出来ない。
苦しくて、苦しくてできそうもない。
弱いかな、私は。
「愚かだよ……足掻いて、足掻いて、足掻いて、足掻いて、足掻いて、足掻いて……必死に足掻いて」
それなのに、その結果。
「そして、私は生きる未来まで失った」
なんだろうな。
それは……何がいけなかったのだろうな。
「そして……それを望む心も」
でも、気になる事があるんだ。
それは、君と私との共通点だよ。
こんな所まで似ているなんて可笑しい。
「なぁ……逆に聞くが」
なのにどうしてそんなに強いんだ?
なのにどうしてそんなに笑ってられるんだ?
教えてくれよ。
「君は辛くないのか? 藤乃静留を殺した玖我なつき君?」
・◆・◆・◆・
「なっ…………」
思わず、なつきは驚き唯湖の顔を覗き込む。
その目の輝きは暗く鈍く光っている。
なつきはそんな唯湖とその言葉に戸惑ってしまう。
そして、心の底にある傷を抉られるような、そんな錯覚が襲ってくる。
「だから、なんでそんなに強く居られるんだ? 笑っていられるんだ? ”殺した”のだろう?」
唯湖は気にもとめず問い詰める。
その言葉は鋭利な刃物のようになつきの心を切り裂いていく。
立っている力が抜けて行く様な感覚に襲われる。
顔から血の気が引いていき、蒼くなっていく。
触れられたくない、触れてほしくない点を唯湖に突かれていた。
「君も護る為に殺した……私と何ら変わらない……同じ”殺人者”なのに」
唯湖は憎しみを籠めてその言葉を吐く。
なつきも唯湖も同じ殺人を犯したものだ。
なのに、なつきは何でこんなに笑っていられるのだろう。
なのに、なつきは何でこんなに強く居られるのだろう。
どうして、こんなに自分と違うのだろう、同じ殺人者なのに。
それが悔しくて、悔しくて堪らない。
心の底から溢れている、紛れも無い嫉妬。
ちっぽけかもしれない感情だけど、それでも、この感情を止めることなんてできなかった。
「私は……私は……」
なつきからは言葉が出ない。
手に持っていたエレメントを落としそうになる。
傍目から解るように動揺していた。
唯湖は知る由もないのだが、なつきは静留の他にもう一つ殺人を犯している。
それは伊達スバルという少年の事で、なつきが明確な意志を籠めて撃ってしまった少年。
状況的に仕方なかった。
そう想いたいのに、未だに彼の顔が消えない。
消えてくれない。
それはなつきの罪。
なつきしか知らない罪。
愛しているクリス・ヴェルティンに話していないたった一つのこと。
クリス・ヴェルティンに許されていない罪だった。
「違う……違うっ!」
なつきは首を振って否定する。
それは唯湖に対してか、自分に対してかは解らなかった。
だけど未だにスバルの顔が消えなくて。
「私は……私はそれでも立っていられるっ! クリスに支えられて立っているんだ! クリスが居たからこそ未来を見つめられるんだ!」
結局頼ってしまうのはクリスだった。
クリスが傍に居てくれるからこそなつきは立っていられた。
クリスがいたからこそなつきは彼に縋れた。
クリスが共にあって未来を一緒に生きてくれる。
そう言ってくれたからこそ、なつきはなつきでいられた。
それがなつきが強くあれた理由であり。
「……ふん、いいな。君は彼が”傍”に居てくれて」
なつきが弱くなった理由だった。
「私はいてほしいのにいてくれなかったよ。羨ましいな。君はクリス君に頼って立っていられる……」
クリスがいたから。
「だけどそれは……本当は、殺した罪から逃げてるだけじゃないのか?
君はクリス君に縋る事で、自分の罪から目を逸らしてるだけじゃないのか?」
でもそれはクリスがいた事で自分の罪から目を逸らしていただけかもしれない。
クリスに甘えられたから、自分の罪と向き合う事をしなかった。
それだけじゃないかと唯湖は蔑む。
「君は……本当はクリス君の思想なんか信じてないんじゃないか? ただ流されるままにその思想に甘えようとしていただけだ」
唯湖はなつきに向かって言う。
クリスが行った言葉や、クリスの考えていたこと。
哀しみの連鎖を止めるということ。
本当は信じていないんじゃないかと。
流されて、その思想に甘えていただけだと。
なつき自身の想いではない、そう冷たい目を向けながら問い詰める。
「…………っー」
なつきは違うと思いたかった。
だけど、それが言葉にならない。
想いが言葉にならない。
その想いが果たしてどんな想いだったかもよくわからない。
わかっているのは唯一つ。
クリスの傍に居たいという事だ。
なつきは立ってるのすら辛くなって幽鬼のような目で唯湖を見る。
唯湖の表情は能面のように無表情でなつきを見つめているだけ。
やがて、なつきの方に近づいていく。
そして、
「玖我なつき……私を止めたいか?」
なつきに問うた。
なつきは心がぐちゃぐちゃになりつつも唯湖を見つめ、かろうじて答える。
「ああ……止めたい」
「…………何故だ?」
唯湖としてはその返答は少し意外だった。
もう、そんな意志すらないように思えたのに。
それでも、なつきは答えていた。
なつきは思う。
唯湖を止めるのが自分の意志なのかはもう、わからない。
考えるのすら億劫になってきた。
でも、その中で見つけたものは唯一つ。
それは絶対に変わらない堅い意志と想い。
「お前が死ぬとクリスが哀しむ! だから――――生きろっ!」
クリスに哀しんでほしくない。
クリスに笑っていて欲しい。
クリスに喜んでいて欲しい。
そんな、クリスを想い、大好きで、そして愛しているからこそ。
それだけは絶対に言えて、誓えること。
なつきの行動原理だった。
「そうか……」
唯湖はその問いに笑って。
なつきを羨ましそうに見て。
その純粋すぎる想いに焦がれて。
「ならば、…………私をここで撃ってくれ」
なつきの手を取り、エレメントでできた銃をを自分の額に押しつけた。
その目からは感情が見えなくて。
なつきはその行為にただ、驚いた。
「ここから……ちょっとした独白だ……黙って聞いてくれよ」
なつきは信じられない風に唯湖を見ていた。
唯湖は気にせず語る。
自分の中にある想いを。
「私がこれからすることは自己満足でしかない。そして、その為にクリス君を酷く哀しませる事になるだろう」
クリスに殺してもらうということ。
それは唯湖が最上の死を得る為の自己満足でしかない。
それが、どんなにその後にクリスを苦しめる事になるとしても。
「でも、私はやめる事ができない……だけど、身勝手だけどクリス君にも哀しんで欲しくないんだ」
唯湖はそれをやめることはできない。
でも、クリスは哀しむ。
唯湖の本心としてはそうなって欲しくない。
できれば、大好きな人には笑っていて欲しい。
だから。
「私がこれ以上、クリス君の重荷になる前に、クリス君を哀しませる前に、クリス君を傷つける前に」
唯湖は笑って。
「私を殺してくれ」
殺してくれと……ただ願った。
なつきに殺されるなら唯湖の願いは叶わない。
でもそれと同時にクリスを哀しませることもない。
なら、それでいいかとも思えたから。
クリスを純粋にただ愛している子に撃たれるというなら。
それもそれで、またいいと思えたから。
「そんな……こと」
なつきは信じらないという風に唯湖を見つめて。
ただ、戸惑っていて。
引き金にかかっている指が動かなかった。
「するなら……早くしろ。もう言葉は受け付けないぞ」
そう言って、唯湖は目を閉じた。
全てを受け入れるように。
なつきの身体が震える。
この引き金を引けば唯湖は死ぬ。
唯湖がクリスを哀しませることはなくなる。
唯湖にとってもそれが最上なのかもしれない。
でも、それは命を奪うということ。
なつきはその行為がただ怖くて。
そんなことをするとクリスに嫌われるんじゃないかとも思い。
引き金を引くことが出来ない。
複雑な思いがなつきの中で交差して。
思うのは幸せに逝った静留。
思うのは殺してしまったスバル。
思うのは自分に想いを託した恭介。
浮かぶ顔は大好きな、愛しているクリス。
全て交差して。
「――――できないっ!」
泣きながら銃を離した。
出来なかった。
出来る訳なかった。
これ以上誰かを殺したくない。
これ以上誰かを哀しませたくない。
これ以上苦しい想いをしたくない。
そして、それ以上に。
「もう…………誰も死んで欲しくないんだっ!」
誰にも死んで欲しくなかった。
もう誰かが死ぬ姿なんて見たくない。
それが唯湖であっても同様で。
なつきは引き金を引くことが出来なかった。
「だから、生きろっ! 来ヶ谷唯湖!」
唯湖に生きる事を強く望む。
その唯湖を見る目はもう、迷いなどなく。
ただ、強い意志と思いだけを宿していた。
「そうか……それが君の選択か」
唯湖はそう言って嬉しそうに微笑んだ。
確かになつきは自分を殺さなかった。
そして、生きることを望んだ。
唯湖は思う。
ここで、引き金を引けないからこそ玖我なつきなのだと。
それこそがクリス・ヴェルティンが愛する事を決めた女の人なんだなと。
そう思うことができて。
不思議に嬉しくなってしまった、なぜかはわからなかったが。
「ああ、生きろ!」
なつきはそう強く言う。
唯湖は笑って。
「けどな――――私は君を許せそうも無い」
懐に隠していたリボルバーを驚くなつきに向けた。
・◆・◆・◆・
「な……ぜ……だ?」
なつきは震えたまま、唯湖を見つめる。
唯湖の瞳には紛れも無い、憎しみ。
「別に……決まってたことだ……私は君の言葉では”絶対”に動かない。考えを変えない。それだけだ」
唯湖はなつきを見据えて、そう吐き捨てるだけ。
もとより、玖我なつきの言葉では絶対に動く訳がなかった。
というよりも、玖我なつきの言葉だけには絶対に動かされる訳にいかなかった。
「君は…………私が帰りたい、傍に居たかった唯一つの場所を”奪った”んじゃないか」
理由はとても簡単で。
唯湖が傍にいたかった場所。
唯湖が帰れる場所。
クリス・ヴェルティンの傍をなつきが奪ってしまったのだから。
なつきがどんなに言葉を重ねても。
なつきがどんなに想いを語っても。
どんなに説得しようとも。
「君の言葉を私は絶対に聞かない。説得などされてたまるものか」
玖我なつきでは来ヶ谷唯湖を動かすことはできない。
それは愛する人の傍を奪っていたなつきへの嫉妬。
下らないようだけど唯湖にとっては何よりも大きな喪失であり、失いたくなかった場所だったから。
クリスを奪ったという事実はどんなことが有ろうとも変わりはしない。
「君がクリス君の為にどれだけ頑張っていかは解る。感謝の気持ちも有るし、認めてる」
なつきがクリスをどれだけ支えていたかはわかっている。
だから、そのことは認めるし、感謝もしたい。
けど。
「君が彼の傍を奪った……その事実は変わらない。そして私は……それを今到底許せることができないんだよ」
「……そん……な」
なつきには生きていればクリスと歩ける未来が、明日がある。
でも唯湖には存在しない。どんなに望んでもそれを手に入れる事が出来ない。
そんななつきが素直に羨ましい。
些細な、それでも唯湖にとって大きな嫉妬の気持ちだった。
「君は本当に……幸せだったな。羨ましい…………全てを奪われた私と違って」
「違う……そんな事ない」
「そんな事ない訳が無い……幸せだろう……なぁ、玖我なつき」
羨ましそうになつきを見ながら唯湖は呟く。
なつきは……それこそがなつきの弱点である事に気付いていない。
そう、なつきはこの島で失ったもの、奪われたものが殆どないのだ。
むしろ、むつみと会い、母という存在を取り戻した。
クリスと出逢い、恋人を手に入れた。
静留は自分の手で殺してしまったものの、その代わりにクリスが支えてくれた。
それ故に全てを失うこと、誰かから大切な物を奪われるという唯湖の気持ちがわからない。
唯湖からすれば、全てを得たなつきの言うことなんて薄っぺらく感じてしまう。
唯湖はこの島にきてから奪われただけだったのに。
リトルバスターズという仲間を奪われて。
またその仲間を侮辱し、捨てる羽目になって。
そしてそのリトルバスターズが作り上げた仲間を自分の手で殺して。
その結果、クリス・ヴェルティンの傍すら奪われてしまった。
はじめから、未来すら奪われていたというのに。
クリスとの楽しかった思い出。
クリスと過ごしたかった夢。
クリスへの大切な想い。
それすらも……奪われてしまった。
「……だから、君の言葉で動くものか……動いてやるものか」
答えは単純で。
全てを得た人間と全てを失った人間では……差が開きすぎていた。
結論から言うと……玖我なつきは幸せすぎた。
それ故に、生きる希望も無く死ぬとわかっている者の絶望が見えない。
そんな壮絶に辛く哀しいものに追い詰められてしまった唯湖の心には届くものなんてなにもない。
ただ、それだけの事。
「だから、私は君を殺して……そして死んでいく」
玖我なつきの言葉は来ヶ谷唯湖には届きようがなかった。
なつきは、
「そっか……うん」
――――笑っていた。
満面の笑みで。
唯湖を祝福するように。
笑っている。
「私じゃもうお前を止められることは出来ない……だから、クリス。後を託すからな」
これから死ぬというのに後悔もないように笑顔でいる。
屈託もなく、唯湖を見つめていて。
「何故だ……何故笑っていられる……私は……お前を殺すんだぞ!? よりによってクリス君を好きな私にだっ!
なのに、もうクリスといられなくなるのに、どうしてそうやって笑顔で後を託す事ができるんだ!」
唯湖は不思議でならない。
怒りをこめてなつきを睨みつける。
殺すというのにどうして笑っているんだ。
クリスといられなくなるというのにどうして笑っているんだ。
「それは……悔しい。クリスと居られない事は哀しい」
なつきは口惜しそうにそう言う。
確かに悔しい。
確かに哀しい。
「でも、クリスを信じてるから。クリスならお前を止めてみせる。そして来ヶ谷唯湖。貴様が説得されると確信してるからだ」
でもクリスを信じているから。
クリスなら止めてくれるだろうから。
そして、唯湖が止められると思っているから。
「何故だ?」
震える声で唯湖は問う。
なつきは笑って、
「だって……お前も同じ人を心の底から好きになったから。
だからわかるんだ。クリスを好きになって……愛して、クリスの言葉を聞かないわけがない」
唯湖がクリスを好きになったからと。
なつきと一緒でクリスを愛しているから。
同じ人を愛しているからこその確信。
それはクリスの言葉を受け入れない訳がないだろうという確信だった。
「私もクリスを心の底から好きになったから…………だから信じる、だから託すことができる」
「ふざける……なっ」
なつきの全てを信じきり。悟りきった笑顔に唯湖は怒りを隠しきれない。
悔しさと嫉妬を露にしながら。
こんなにもクリスを信じきれているなつきが悔しくて堪らない。
理解できているなつきに対して悔しやが堪えきれない。
そしてなつきは唯湖に向かって言う。
「ふざけてなどいない……だって……」
自身の心を。
心の奥底にずっとある想いを。
「私は本当に心の底から全てクリスを愛しているから」
クリスへの純粋な愛を。
そして。
・◆・◆・◆・
悔しいなクリス。
もうここで終わりだな。
もっと一緒にいたかった。
もっと一緒に笑いあいたかった。
でも、
楽しい想い出がたくさんある。
クリスと過ごした楽しい想い出が。
だから、笑っていられる。
笑っていられるんだ。
だから……なぁ……クリス。
笑っていよう。
泣いちゃ駄目だ。
クリスを想いながら。
この愛しい気持ちを誇りに思いながら。
クリスへの愛を持ちながら。
私は最期まで笑っていよう。
だって、クリスは笑ってる私が好きだから。
うん。
だから、笑っていよう。
最期に。
クリス。
愛している。
・◆・◆・◆・
唯湖は嫉妬と悔しさで感情の箍が外れて。
一発の銃声が鳴り響き、血飛沫が宙に舞った。
なつきは――――
命が尽きる最期まで笑っていた。
・◆・◆・◆・
シアーズ職員達は深優の奇襲にてんやわんや。みな、働き蜂のように目まぐるしく動き回っていた。
白衣の青年はシアーズ技術開発総括の眼前を早足で横切っていく。総括は右手のコーヒーを零しそうになり、彼を叱り付ける。
研究員の侘びを聞きながら、次に誰か走ってきたら、足を引っ掛けてやろうと思った。
総括は機嫌が悪かった。その理由はもちろん、部下の無礼な態度のせいでも、
お茶汲み担当のアンドロイドが警備に回されたことでも、深優にメインの発電所を潰されたことでも、
一番地がシアーズの警備を放棄したことでもない。いや、それもあるが一番の原因ではない。
「あの女豹が。たかが人形一体で勝てると思っているのか。
どうやら、娘に腑抜けになりすぎて、脳味噌までシェイクになったようだな」
総括は悪態をつきながら、椅子に背を預けた。彼と九条むつみはことあるごとに対立していた。
男は黒曜の君の拉致を提唱し、むつみはアリッサをHiMEにする派閥についた。交通事故でアリッサ暗殺を試みた時もあった。
ゆえに、アリッサの訃報を耳にしたとき、両膝を叩いて喜んだ。九条むつみをジョセフ・グリーア諸共亡き者にするチャンスだと。
だが、例の媛星喪失事件で、彼女はまんまと生を掴み取った。今は己の目的を達成し、のうのうと勝ち逃げを目論んでいる。
シアーズに仮初の忠誠心しか持たず、欲望のために組織を利用しているだけの人間。
総括は昔から、アレに自分と同じ臭いを嗅ぎ取っていた。だからこそ、むつみの成功は苛立たしく、嫉ましかった。
シアーズ技術開発総括である男は、青い小箱から精神安定剤を取り出すと、唇を噛み締めながら注射する。
戦いの舞台に激情を増幅する作用があるなら、医学の力で抑えるまでのこと。我らには日進月歩の技術力がある。
そうだ、むつみは擬似エレメントの量産も、アンドロイドのAI強化も知らない。だから、彼女はこちらを軽んじたのだ。
男はレーダー上の光点で深優の現在位置を確認、皮相な笑みを浮かべた。
先程の研究員は機材を重たそうに抱えて戻ってくる。総括は彼を床にキスダイヴさせる代わりに、白衣の裾を強く掴んだ。
「深優=グリーアがどのセクションでスクラップになるか賭けないか」
「あの、お言葉ですが、私達の生死が掛かっているのに不謹慎ではないですか」
研究員は迷惑そうに眉をしかめ、その場を立ち去ろうとする。
総括は思う。わかっていない奴だ。自分こそ、あらゆる物を利用し、人々を掌で踊らせ、搾取の果実を貪る男だ。
その証拠を示すために、この戦いをゲームとして消費する必要があるのだ。
「正解したら。スペースシャトル遊泳、ペアチケット」
「あの、外れたら場合のペナルティはあるのですか」
研究者は総括の言葉に足の動きを止め、機材をゆっくりと脇に置く。総括は口元を緩ませ、彼を隣に座らせる。
「ふむ、そうだな。元の世界に戻ったたら、お前の彼女を一晩貸して貰えないか」
「ええと、彼女は貞操観念が保守的で、この前の州知事選挙でも……」
「冗談だ、まじめなヤツだな。1週間コーヒーをお前が煎れろ」
「まあ、それくらいなら」
研究員はすばやく端末をタイプ。シアーズ基地の内部構造を表示する。基地は上下に細長く、4つの階層に大きく分けられる。
【上層】
シアーズの試作品の試験場などのスペースが存在。
セキュリティはトラップや単純な無人兵器で構成されている。
【中層】
主にシアーズ構成員の生活居住施設が存在。
シアーズの戦闘員やアンドロイドたちが警備を担当する。
【下層】
擬似エレメントプラントや量子コンピューターなどの超重要施設が存在。
上記の戦闘員たちに加え、対アンドロイド用の特殊兵器を準備中。
【最下層】
生身の人間には入り口を見つけられず、進入できても発狂する。
現在、アリッサ=シアーズがトップシークレットの研究を行っている。
「上層では無理でしょうね。電力不足でエレナ作戦を封じられたのは痛手です。
そうなると本命はアンドロイドの絶対数や地の利を考えて、中層セクション4でしょうか」
研究員は自信のある口調で、深優の命運にチップを賭けた。
総括は腕を組んで感嘆の声を上げる。内心は相手を小馬鹿にしながら。あの少女は中層を突破すると読んでいた。
あの九条むつみが彼女を送り込んだのだ。隠し玉を用意しているに違いない。
だが、奇手の通じるのは1度か2度が限度。下層に到達する頃には満身創痍になっているだろう。
シアーズ技術開発総括はゆっくりと腰を下ろして、エレナ作戦改の起動キーを入力した。
『司祭』の階位を手にした男と、万年末端である九条むつみとの違いはもうじきに明らかになるだろう。
・◆・◆・◆・
丁字路、左折50m先に対人地雷の存在を感知、破壊します。
深優は光の羽を射出して遠隔操作。爆風に巻き込まれない距離からターゲットを爆破した。
彼女の前に無人のセキュリティシステムなど何の用も成さない。
カメラアイ破壊、クレイモア破壊、赤外線センサー破壊、ブービートラップ破壊――
深優は上層のフロアを慎重に歩きながら、トラップを潰していく。未だに人間や機人の反応はない。
戦闘員を節約するために、重要度の低い施設を放棄したのだろうか。もしくは――
突然、深優の前後左右から小規模な爆音。直後、至るところで鉄筋が爆切、天井や壁が崩れ始めた。
爆発は断続的に発生。大小の瓦礫は雨霰と降り注ぎ、彼女を消耗、足止めしようとする。
いわば爆破解体の応用。普通の参加者にとっては、獰猛なトラップとなり得ただろう。
けれども相手が悪かった。HiMEの力はエレメントやチャイルドを授けるだけでない。
本人の五感や身体能力は向上し、弾丸を弾き返し、巨獣を一刀両断できるようになる。
ならば、元々規格外の性能を持つ戦闘機人が覚醒すれば、どれほどの力を手に入れることか。
今の深優にとって、重力法則に従うコンクリートなど、沼に沈む枯葉の如くに愚鈍で非力なのだ。
深優はコンクリートの残骸を避けながら、冷静に思考する。シアーズは上層全体を破壊するつもりはないはず。
でなければ、彼ら自身が地下に閉じ込められてしまう。ならば、倒壊を免れたルートを残すだろう。
彼女は光、音、匂い、振動、電磁波、己のセンサーを十全に働かせ、安全地帯を推測。
これに九条むつみから与えられた内部地図を加えて、最適解を導き出す。正答はあの細い回廊だ。
深優の思考回路にとって、この程度の計算はさしたる負荷にならなかった。
だが、心の余裕は時に戦いに不要な取り留めもないノイズを生みだす。
視界を高速に流れる側壁は、ところどころに蛇と剣の紋章、シアーズの象徴が埋め込まれている。
ジョセフ=グリーアの設計による、人ならざる、人のかたちをした、人の手によって造られた存在。
それがこの少女、深優=グリーア。そして、ジョセフの出資者はシアーズ財団。財団がなければ彼女は存在しなかった。
――君はその恩を忘れて、シアーズに反旗を翻すのかい。
深優は蛇がレリーフから飛び出して、そう、口を開いたように感じた。
無論、通信機が仕掛けられている訳ではなく、彼女の僅かな認知的不協和が生み出した幻聴に過ぎない。
深優は白昼夢に戸惑い、そしてその正体を自覚しつつ、知のシンボルたる蛇に切り返す。
私を創り、アリッサ様に会わせてくれたことは感謝します。
ですが、私の大切な人の思いを踏みにじり、その命を奪い、さらに命を奪おうとしている。
だから、かつて組織に所属していた者として、私自ら手を下します。
天井に固定された自動小銃を迎撃。蛇からの問答は続く。
――じゃあ、アリッサ様の遺志はどうでも良いのかな。あの子の夢は黄金世界の実現。君はそれを邪魔しているんだよ。
深優は知っている。亡きアリッサが黄金世界を執拗に求め、HiMEの戦いに身を投じた理由を。
あの幼子はシアーズ財団総帥、つまりは自分の父親に振り向いて欲しかったのだ。
彼女はそのためには何を犠牲にしても良いと思っていた。だからこそ、アリッサはメタトロンを制御できたのだ。
黄金世界に関しては、深優にも迷いはある。だが、今の彼女にはそれ以上に突き動かす感情があった。それは怒り。
深優は地下室の訓練の後、むつみからジョセフ殺害の顛末を改めて聞いていた。
アリッサ様の姿を兵器として利用しておいて、それを言う資格はないでしょう。
しかも、あの方の姿を使って私の想いを弄び、更にはジョセフ=グリーアの手を下したではありませんか。
貴方達にだけは、アリッサ様の夢を語って欲しいとは思いません。
私はアリッサ様の姿を汚した貴方に報復し、彼女の名誉を守ります。
道を塞ぐワイヤートラップを切断。されど蛇は嘲笑う。
――ふふ、それは欺瞞だね。君の復讐はアリッサ様を喜ばせはしない。
君はただ、自分のアリッサ様への思いを形にしたいだけさ。
それは分かっています。ですが、私にとって、アリッサ様はあまりにも特別な存在でした。
これまでもあの方の勝利のために戦い、救うために戦い、生き返らせるために戦いました。
行いに過ちはありましたが、彼女への想いには後悔はありません。
それは今やろうとしていることも同じです。
通路の出口付近が爆破され、天井が崩れ始める。深優は速度を上げる。
――なるほど、君の決意は堅いようだ。でも、僕はちょっと矛盾を感じるんだ。
アリッサ様も総帥の娘のクローン、媛星の力を得るための道具だったじゃないか。
君の復讐はアリッサ様の存在まで否定することにならないかな。
それは違う、総帥は娘を生き返らせたくてクローンを造ったのだ、と言おうとして思い留まる。
本人とは違うものに本人であることを強要する。それは絶対に実現不可能な命令。
深優もジョセフに優花の生まれ変わりとして育てられたので、その残酷さ、枷の重さは良くわかる。
だから、事の本質はそこにはない。
尊厳は出自だけで決まる訳ではありません。私もシアーズのために造られた兵器です。
ですが、アリッサ様や父のジョセフ、多くの人の交わりの中で、心を見つけられました。
それと同じように、私もアリッサ様を総帥の娘として、そして人として大切にしてきました。
私の光のエレメントはアリッサ様との思い出の結晶です。
――子に親の罪はないということかな。君がここのアリッサ=シアーズにどう向き合うか楽しみだよ。
蛇はこちらを睨みながら、塵と共に掻き消えた。あのアリッサに関しては、むつみから多くを聞いている。
けれども、深優が直接顔を合わせたわけではない。だから、今はまだ結論は出さない。
偽りのアリッサとの対面は、アリッサ様の想いに気持ちの整理をつける切っ掛けになるのだろうか。
回廊を抜けると、一気に視界が広がる。そこにはマンホール大の穴が口を開き、滑り棒が中層へと続いていた。
・◆・◆・◆・
そうだ、踊れよ、踊れ、お人形。左に曲がれば、ぽっかり開いた地獄の入り口。
技術開発総括はエレナ作戦・改の進捗状況を鑑賞しながら、上機嫌で口笛を吹いた。
施設の倒壊に追い立てられ、深優=グリーアはこちらの思い通りに誘導されている。
そして、彼女は中層に降りた瞬間に、包囲網から一斉射撃を食らうだろう。
電力不足でゼウスの雷を使えなくても、案外上手くいくものだ。
シアーズ技術開発総括は上層の隠し部屋に第二司令部を配置し、そこに潜んでいた。
建前はリスクの分散。侵入者は消耗を抑えるため、真っ先に下層司令部を狙ってくる可能性も高い。
仮に司令部を破壊された場合、ここから残存戦力に指示を出すわけである。
だが、真の狙いは、シアーズ基地での戦いを高みの見物としゃれ込むこと。
万が一、屈辱的ではあるが、侵入者がゲームに勝利しても、彼らは我々を殺せはしまい。
こちらは脱出ロケット開発に有用な技術者であり、シアーズ本部との仲介者なのだから。
深優=グリーアが下層に降りさえすれば、自分達の生還は確定したようなものだ。降りさえすれば。
しかし、レーダーの光点は下層への昇降口を無視して通り過ぎ、第二司令室の300m手前で停止。
司令室の内部は時間が止まったように静まり返る。総括は右手で頭を抱えて、顔を屈辱で歪ませる。
隠し部屋の存在を読まれていたか。彼の脳裏に九条むつみの勝ち誇った笑みが過ぎった。
シアーズの構成員たちはすずの言霊を受けていない。ただし、神崎は主催側は全員、言霊に洗脳されていると放送している。
ゆえに、侵入者は彼らを交渉の余地なき傀儡とみなし、容赦なく攻撃してくるだろう。
深優がどのような顔をしているのかは分からない。監視カメラを壊され、情報は首輪から伝わる音声だけ。
それでも、シアーズ技術開発総括にはまだ心に余裕があった。深優がここから一歩でも先に進めば、
全長150mに渡る倒壊トラップが発動する。あのアンドロイドであっても、無傷では済まされまい。
加えて、この部屋も相応の戦力を整えている。2体のアンドロイドは如月双七とウィンフィールドの戦闘データをコピー。
しかも、無線で細かく指示を与えることで、マニュアル染みた動きに陥ることを逃れている。
我々は一番地のように数に物を言わせた運用はしない。極めて優秀なガーディアンだ。
もちろん、人間の警備員も潤沢だ。特殊部隊クラスなのは当然として、全員擬似エレメントで身体強化されている。
最悪でも自分が逃げるだけの時間は確保できるはずだ。
総括の後ろで誰かを探す職員の声。あの研究員が知らない内に逃げ出したらしい。
その時、盗聴受信機からデイバッグの開く音がした。シアーズ技術開発総括は全てを悟り、急激に血の気が引いていく。
彼は咄嗟に右手で倒壊トラップの強制起動のキーを叩く。激しい爆発と金属を裂くような轟音。
反射的に目を瞑り、左手でサイバーバリア改を展開する。爆風で壁に叩きつけられ、激痛。
シアーズ技術開発総括はゆっくりと瞼を開いた。闇の世界をバリアの光がうっすらと照らしている。
内壁は木っ端微塵になり、コンクリートと金属片が床を埋め尽くしている。
シアーズ技術開発総括は神経の束に形容しがたい痛みを覚える。腰に少しひびでも入ったようだ。
楽な姿勢になろうとしても、バリアを展開したままでは動けない。
そして、もっと大きな問題のせいでバリアを解除できそうにない。
それは推定数トンのコンクリート塊がバリアを押し潰そうとしていることである。
嫌な汗が吹きだしたのは、この恐怖と腰の痛みのどちらのせいだろうか。
この体勢では周りの状況をつかめない。しかも、バリアを張っている間は無線が遮断される。
彼は敵に気づかれるのを覚悟で、大声で呼びかける。だが、骨に響く痛みだけが残った。呼吸するのも辛い。
総括の持つ擬似エレメント、サイバーバリア改はロケットランチャーまでなら相殺できる。
それでこのダメージなのだから、機械人形ではひとたまりもない。人間に至っては生きているほうが奇跡だ。
彼以外は全滅か。いや、先に危険を察知して逃げ出した臆病者がひとりだけいた。
一瞬、あの研究員の顔にビール瓶を投げ付けたくなったが、すぐにどうでも良くなった。
もしも生きていたら、すぐに戻ってきて、自分の生存を伝えて欲しかった。
とにかく、今は希望を棄てずに救援を待つしかなかった。
自分は戦略的重要人物だ。委員会の階位『司祭』だ。見捨てられるはずがない、と心に言い聞かせて。
彼の内面で無限とも思える時が流れる。心の不安を紛らわせるために、第二司令部を襲った攻撃の正体を考察する。
おそらくはカジノ25,000枚の景品、高射砲8.8cm砲、Flak37。通称、アハト・アハト。大ドイツの精神が形にというアレである。
マッハ3弱の弾丸を放ち、爆発と同時に金属片を撒き散らす。そして、弾片の重量と加速度で鋼鉄でさえ引き裂いてしまう。
基本は対空兵器だが、平射して戦車砲の代わりにもなる。エルアラメインではこれにより鉄屑の山が積み上げられた。
ともかく、室内で使うとは狂気の沙汰としか思えない。何もかもが無事では済まない。目の前の光景通りだ。
総括はあの人形が手に入れた心はコンバットハイなのかと恨み言を連ねた。
ひとつの救いは、この部屋が壊れる前に倒壊トラップも発動したらしいこと。深優=グリーアは結局、この部屋には到達できない。
第二司令室の情報を奪うことも、こちらの惨めな姿を見ることもないだろう。
だが、それは一時の気休めだった。バリアの光が弱くなり、ガラスを引掻くような不快音を立て始めたのだ。
これは連続使用を想定していない。高射砲を食らったことと重なり、負荷に耐えられなくなったのだろう。
総括は自分が岩に押し潰されるのを想像し、腹から上にこみ上げる痛みを感じる。
助けを求めて喚き散らすも、反応はない。その代わり、受信用のイヤホンから僅かな音が漏れてきた。
バリアが弱くなり、無線が通ったらしい。総括はつばを飲み込み、最後の奇跡に賭けて全神経を集中する。
「高射砲を食らいやすいセクションの戦力を分散させ、且つ必要最小の被害で無駄撃ちさせるように再編成する。
第二司令室の救援なら諦めろ、こちらに死体を確認する余裕はない」
それはシアーズ防衛総括の怒号。彼はあくまでも堅物でセオリーを守っている。
シアーズ技術開発総括の手元に送信マイクはなく、己の生存を告げるすべはない。
ぶり返す激しい腰痛。彼の口からは乾いた笑いしか出なかった。
プロットはすべて出来あがっていた。そして、自分の生還は保障されていた、はずなのに。
どうしてこうなったのだろう。九条むつみ、お前はこう言うのだろうな、策士策に溺れる、と。
男の心はバリアよりも早く磨り減っていた。内ポケットから小さな黒い箱を取り出す。
そして、震える手を押さえながら、安楽死のアンプルを自身に動脈に突き刺した。
・◆・◆・◆・
中層セクション2の食堂、炎の舌が床を椅子を鉢植えを嘗め回していた。
深優=グリーアはブローニングM2、全長1.6m、重量38.1kgの重機関銃を持ち上げて、
焼夷弾は可燃性ガスのタンクに命中。灼熱の花は弾け飛び、戦闘員3名を吹き飛ばした。
中層セクション2、破壊完了。
深優は焦げた匂いの漂う残骸を横目に、灼熱のトンネルの中を走り去っていく。
キーアイテムは英霊キャスターの宝具、火属性を無効化する黄金の羊皮(ゴールドンフリース)。
これにより、身体を舐める灼熱の炎も深優にとってはなんら痛痒をもたらすものではなくなる。
セクション3消滅、セクション4全滅、セクション5崩壊、セクション6全焼――
深優はエレメントと重火器を使い分け、難攻不落の拠点を次々と破壊していった。
だが、シアーズ構成員を皆殺しにしたい訳ではない。
いや逆に、ゲーム終了後に彼らを捕虜にする可能性があるからこそ、徹底的に力を削ぎ落とすのだ。
『どうもシアーズの連中は、星詠み儀以外にも何か企んでいるみたいなのよね』
『うん、僕も薄々感じてたよ。それも何年か後にやっと顔を覗かせる厄災というか』
『結構骨になると思うけど、念には念ということで頼まれてくれないかしら』
彼女はナチュラルボーンキラー、戦闘兵器として作られたため、殺人への生理的忌避はない。
知識としての道徳と、人との交わりで育まれた命への慈しみはある。
たとえば、無抵抗の研究者と出くわし、故郷の恋人に再会したいと懇願されたとする。
そして、彼を高射砲に巻き込むのを躊躇ったならば、シアーズはその判断ミスを見逃さないだろう。
戦闘員はどこに隠れていたのかというように、次から次へと大広間に集結。
人間8人にアンドロイド4体、彼らはあっという間に凹角陣地を完成させた。この様なことが現実となる。
そして、前後の出入口で重厚な超合金の隔壁が降りる音。この状況で高射砲を爆発に巻き込まれずに使うのは困難だ。
仮にシアーズが何も企んでいなかったとしても、彼らに手を抜くことは許されないのだ。
彼らも不退転の決意、背水の陣。是が非でもここで私を食い止めたいようですね。
複数の銃口が深優に向かう。彼女はとっさの判断でデイバッグを開く。
1秒後、弾丸のスコールが鋼鉄を削り、穿つ。地下駐車場で拾った廃バスは彼女の身代わりに穴あきチーズとなった。
されど、この1秒は深優にとって、1000日よりも価値がある。エレメントから8つの光の羽を射出。
ブローニングM2を構えて9。これに双翼の8門を加えて合計17。多勢に無勢。ならば、こちらは手数でそれに対抗する。
深優は次第に押されていく。地形が圧倒的に不利なのだ。
彼女の側は道幅が狭くて左右に動きづらく、逆に敵側は自在に動けるだけのスペースがある。
そのため、敵側は火力をターゲットに一点集中しやすい。
それに、敵の潜む後方部分には、柱や壁などの頑強な遮蔽物が複数鎮座しており、
いざとなればそこに逃げ込んで攻撃を避けやすくなっている。
2時の方向から一発の銃声。光の羽2枚が撃ち落される。
2秒後に更に銃声。今度は3枚だ。このペースで壊され続ければ、羽の補充が間に合わない。
弾幕は薄くなり、戦況が一気にシアーズ側に傾く。恰幅の良い男の携帯バズーカが火を噴いた。
廃バスに全長の三分の一ほどの空洞を抉り貫く。無限弾のエレメントにリロードの制約はない。第二波はすぐに来る。
高射砲以外の切り札はできれば温存しておきたい。でなければ恐らく、対偽アリッサ戦で膝を突くことになる。
こんな時、玲二ならどのように乗り切るだろうか。彼女は逃げた研究員の落とした金属を拾い上げながら考える。
――吾妻玲二は感情をコントロールして、暴走しない絶妙なバランスで留めているんだ。
その時、地下駐車場の訓練で聞いた那岐の言葉が頭に響いた。
ツヴァイがファントムの中で最強と呼ばれる理由。そのひとつは彼のメンタル面にある。
自我を無にし、人形のように戦うアイン。怒りの衝動に身を任せ、破壊神として振舞うドライ。
想いを殺しては己の限界を超えられない。想いに振り回されては強さにムラが生まれる。
だが、ツヴァイにはそのような隙はなかった。意志を力とし、感情の苦しみを受け止め、
なおそれに振り回されないギリギリのバランス。それがあの男の到達した領域。
HiMEも想う心が強ければ強いほど力を得る。そこに限りはない。
だが、想いが強いだけでは駄目だ。大局を冷静に見据えなければ、知らない内に追い詰められて、逃げ場を失う。
では、どうするのか。勿論、玲二が歳月を掛けて築き上げた修羅の結晶を、そのままトレースできるとは思っていない。
それでも、深優=グリーア自身の特性を生かした上での戦い方があるはず。
エレメントの出力を上げて、無数の光の羽で相手を押し切るのはどうか。それは駄目だ。
彼らは少数精鋭、数発の攻撃で落ちるほど甘い連中ではない。深優も何発か攻撃を受ける覚悟が必要になるだろう。
けれども、彼女の肉体はマギウス九郎や羽鳥桂ほど堅牢ではない。
一応、軽自動車の突撃を片手で止める程度の力はあるものの、エレメントの直撃を食らえば大事は免れない。
それに基地攻略は長丁場。ダメージを受けるのは極力避けたい。
原点に戻って考えろ。こちらを不利にしているのは地形だ。
当面の目的はここから遮蔽物エリアまで移動すること。
そして、ひとつずつ確実に倒していく。
そこに行くまでに敵の集中砲火を潜り抜ける必要が出てくる。
ウィンフィールドも評価したように、深優のスピードは参加者の中でも間違いなくトップクラスだろう。
だが、速度を持ってしても、複数の弾丸に囲まれたなら、思考の処理に遅れが出てしまう。ならば、もっと速さだ。
彼女は亡きアリッサの、そして我妻玲二の姿を強く思い浮かべる。
深優はアリッサ様に仕えるときは、自分の思いを素直に表すことができた。
だけど、玲二にはストレートに感情を出せないし、出すべきかも分からない。
彼を遠いで見ている関係は心地よく、それでいてもどかしい。思う度に纏わりつく迷いや戸惑い。
だけど、彼を強く想いたいという気持ちは変わらない。今はきっと、それで良いのだろう。全身に力が漲ってくるのを感じる。
でも、まだまだ足りない、何よりも速さが足りない。速さをもっと速さを。
光の翼のエレメントを解除、HiMEの力を全て速度に注ぎ込む。
攻撃手段は重機関銃のみになってしまう。一種の賭けだ。
続けて、思考回路の優先タスクを動体視力の処理に設定。
視界の横幅は次第に人間並に狭くなり、奥行きは鷹よりも深くなる。
深優は廃バスから疾風の勢いで躍り出す。
一瞬遅れ、戦闘員は格好の標的を蜂の巣にしようとトリガーを引く。
だが、彼女の目には、飛来する弾丸はいつもよりもスローモーションで、振動する空気はまるで水飴。
深優はジグザグに動き、身を低くして全弾回避。
そのままの態勢で二挺拳銃の男を射撃、勢い良く引火する。
バズーカ男はエレメントで防御。タイミングが合わず、彼は右腕を損傷。
人間の反応速度では、彼女の動きについていけない。これならばいける。
深優はゴールに向かい更に加速する。それを遮ろうと、深優の左右を挟み込もうとする真紅の爪の雨。
その先には二体のアンドロイド姉妹。装備するのは爪型エレメントの“MARY'S CLAW”、回避不能の間隙乏しきニードルガン。
だが、深優は両者が交差する暇を与えず、右の頭を粉砕。勢いよくしぶきが飛び散る。
人間は装備を範囲攻撃型にいっせいに持ち替えている。彼らは複数の擬似エレメントを所持しているのだ。
だが、もう遅い。こちらは遮蔽ブロックに突入だ。攻撃の嵐を地形で防御。
そして、左に急転回。その刹那、柱の合間を縫って放たれる弾丸。彼女は紙一重で回避。
やはり、あの男は右翼から左翼へと場所を移ろうとしていた。
彼は光の羽を3枚同時に打ち落とした少年であり、ツヴァイの戦闘データをコピーした戦闘機人だ。
命中精度を高めるためか、単発狩猟銃型のエレメントを装備している。
彼を倒さなければここの戦場の支配権は奪えない。玲二の高みに辿り着けない。
深優は焼夷弾の範囲射撃でターゲットの逃げ場を奪っていく。
所詮は量産アンドロイド、いくらファントムの技術をコピーしようと、移動速度はカタログスペックを超えられない。
偽ツヴァイを追い詰めた。彼女がそう確信した、その瞬間。
彼の姿が残像を作りながら移動。深優の視覚処理が追いつかない。
左から微かに引鉄に触れる音。咄嗟に回避するもバランスを崩す深優。軽い痛みが頬を掠めていく。
続けて、偽ツヴァイは左手を剣に変え、一気に距離を詰めてくる。先程とは見違えるほどのスピード。
ツヴァイがファントム最強と呼ばれる最大の理由、それは極限で見せる生への執着心。
それこそが、彼がまだ一般人に過ぎなかった頃に、ファントム・アインを追い詰め、
さらにこの島で桂言葉に不意打ちを食らわせ、九鬼耀鋼の猛攻を辛うじて免れた力である。
深優は重機関銃を杖代わりに、転倒を防ぐ。
少年の刃が胸に届くまであと数歩。彼女はとっさに敵の腹を蹴り飛ばす。
彼は後ろに飛びのき、二人の間合いが開く。深優の体勢はいっそう悪化。
今、彼女がエレメントを出しても、自身の反応速度が落ちて、敵に懐に入られるだけ。
自分は彼の偽者にすら負けてしまうのか。
いくら努力しても、深優と玲二の間には超えられない断層があるのか。
玲二への想いの答えは出ていない。
でも、彼の重荷とならないだけの強さを持ちたい。
それで彼を守ろうと言うわけではない。
きっと、そのような慈悲は拒絶されるから。
ただ、彼の傍についていくために、対等な立場であり続けるために。
深優は唐突に、右手に違和感を覚える。いつのまにか日本刀が握られていた。
偽ツヴァイはふたたび飛び掛る。まだ、何が起きたのか理解できない。
でも、何をすれば良いのかは分かる。
せめて、この戦いで玲二の期待を裏切ることだけはしたくない。
偽ツヴァイは首から赤い液体を吹き出し、コンクリート袋のように崩れ落ちた。
彼女は右手を確認する。それはデイバッグに入っていたはずの今虎徹、別名、妖刀ハラキリブレードだった。
0.05秒で4.35光年規模の空間両断跳躍。まさか、本当にこの銘刀に救われるとは思いもよらなかった。
『冬子先輩の黒須先輩を愛する気持ちが攻撃的に現れたときに、
いきなり刀が現れて、悪い虫にきついお仕置きを食らわせてたものです。主に太一先輩本人に』
『たぶん、魔法というよりはメタとかパロディとか、その辺の原理はミキミキにはワケワカメです。禁則事項です』
冗談ではなかったらしい。
続けて、ツヴァイコピーの力の種明かしをしよう。彼は人工的に魔術回路を組み込まれていた。
そして、強化魔術で加速して、ツヴァイの窮地の反応を擬似的に再現したのである。
ただし、術は自身ではなく、擬似エレメントの身体能力機能を『強化』して行っている。
ちなみに擬似エレメントのモデルは、とある魔術師愛用のトンプソンコンテンダーだったとか。
実は、偽ツヴァイは剣ではなくこの単発銃で殴り掛かれば、僅かにリーチが加算され、勝敗はまだ分からなかった。
だが、一挙一動が刹那の世界に、無線で彼の判断を修正できる者はいなかった。
所詮は形を真似ただけの攻撃。本当の意味で限界を超えることはできない。彼が深優の強い想いに敗れるのは必然だった。
深優の玲二を愛する気持ちはその時、冬子が太一を思うのと同じくらい強かったのだろうか。
深優は思う。自分は玲二の領域に一歩近づけたのだろうか。
そして、刀が飛来した時、そのの気持ちは冬子が太一を思うのと同じくらい強かったのだろうか。
彼女と太一はどんな関係だったのか、ちゃんと聞いておけば良かったかも知れない。
軽い疲労の後に訪れる達成感。だが、それに浸っている余裕はない。
もう一体の少年型アンドロイドが、箱型エレメント“トリガーハッピー”から無数の拳銃を射出し始めた。
深優は次から次へと遮蔽物を渡りながら、音を立てずに光の翼を展開した。
・◆・◆・◆・
下層司令部。上層の第二司令部が崩壊した今、ここが唯一のブレインとなる。
シアーズ防衛総括はモニターを見つめたまま、時間にして124秒ほど口を閉じるのを忘れていた。
翼を広げた戦乙女(ワルキューレ)が戦場の中心で踊っている。それは弾丸に追われて手足を動かす、惨めな逃走ダンスではない。
それは躍動の中の静謐、冷たく純粋な情熱、重ね合わさった混沌がとりなすシンフォニー。
戦の怒りと喜びと哀しみとその他諸々の美を体現しており、その芸術性ゆえに舞と形容するに相応しい。
戦闘員は彼女の旋律を乱さんと銃弾を放つ。だが、その不協和音は女神の衣に掠ることはできない。
彼らはなす術もなく、炎の洗礼を食らって、立ち木のように燃え落ちていく。
自軍は完全に翻弄されていた。ただただ、観衆として見入るしかなかった。
世界を動かす秘密結社が、たった一人の参加者に追い詰められているとは。
長年の間、このような光景は映画か娯楽小説でのみ存在を許されるフィクションだと信じていたのに。
「温かい飲み物を持ってきました」
背後からあまり覇気のない声。コーヒー豆を炒った香りが鼻を刺激する。総括は慌てて襟を正し、咳払いをした。
「以前、カフェインは口にしないと言っておいたはずだが」
「も、申し訳ありません。ホットミルクでしたね。つい、技術開発総括と混同してしまって」
彼はしばしば技術開発総括に呼び出されていた男。第二司令室の唯一の生還者でもある。
彼は臆病者で少々性格に難はあるものの、ここの研究状況をほぼ完全に把握している。
そのため、亡き技術開発総括にとっても、歩くレファレンスとして使い勝手が良かったらしい。
「技術開発総括か……惜しい男を亡くしたものだ。ところで君はHiMEの力には詳しい方かね」
「はい、なんでしょうか。専門ではありませんが、一通りならの質問なら答えられますよ」
シアーズ防衛総括は補佐に指令を任せた後、椅子を研究員の方に回転させる。
「深優=グリーアの戦闘ランクはAではなかったのか。それなのになぜ、ほぼ同等のアンドロイド相手に圧倒できる。
しかも、彼女は疲労するどころか、ますます動きが良くなっているように見えるのだが」
研究員は軽く頭を掻きながら、
「これはあくまで仮説なんですけど。彼女は今もカマエルを召喚できる状態なのだと思います。
ですが、そのための力を全て、自身の身体能力の向上に充てているんです」
彼は例証を挙げた。神崎の妹の美袋命は大量のHiMEの力を弥勒の制御に使っていた。
そのため、彼女自身はチャイルドに覚醒することはなかった。
深優はイレギュラーなHiMEであるため、己の身体に対して似たようなことが起きているのではと推測する。
防衛総括は顎に手を当て、少しばかり唸って、
「理屈は置いておくことにしよう。彼女は結局のところ、カマエルを召喚できないのかね。
「今のところは、ですね。一度だけ召喚できたのは確かですし。
心理的なブレーキが掛かっているのか、それとも想いの自覚が足りないのか……」
彼はそれを聞き、わずかに安堵の息を漏らす。今の深優よりも、強力な砲台かつ盾を使われる方が面倒だからだ。
だが、彼女のここに来てからの成長速度は異常である。この戦いの中でもう一段階覚醒を遂げてもおかしくない。
「まるで、不発弾の解体処理をしている心地だな。どちらにせよ、彼女が難敵であることには変わらん。
こちらも対アンドロイド兵器で対抗せねばなるまい。直ちにNYPリーサルウェポンの起動準備をするのだ」
研究員は“NYP”という単語を聞いた途端、一歩後ずさりして、
「いや、あれは……未完成で安全性も低くて、実用に耐える代物ではありません。
それよりも、アリッサ=シアーズを下層の防衛に出動させたのが確実かと」
「そうしたいのは山々だが、プロメテウス計画の最終段階は彼女の力なしには完成できない。
今、彼女を最下層から動かす訳にはいかんのだよ。それは君が一番良く知っているはずだ」
防衛総括は苛立ちを抑えながら、彼を説き伏せようとする。
だが、相手は小難しい理屈で煙を巻き、なかなか行動に移ろうとしない。
防衛総括は改めて、室内の研究者連中の様子を俯瞰する。ある者はモニターを見つめたまま硬直しており、
ある者は突然信仰に目覚めて神に祈り、ある者はトイレに行ったきり戻ってこない。
しかし、彼らの多くは普段と変わらず、慌しくも淡々と作業を進めている。
薬物で安定させている部分もあるだろう。業務に支障のないこと自体は望ましいことだ。
だが、総括の目には、彼らは単に現実から目を逸らしているだけに見えた。
薬の力にも限界はある。いったん、眉に火が付いてしまえば、部屋は錯乱状態に染まるのは避けられまい。
無造作に置いたヘッドホンから衝撃音。総括が反射的に振り返ると、モニターは既にブラックアウトしていた。
「セクション8、高射砲に破壊されました。無線、通信できません!」
補佐官の肉声が耳に響く。防衛総括は胸に手を当て、カシアーノとパウロの死に黙祷を捧げる。
かつて南米のクーデターを成功させた戦友に。
男達はこの島でも勝利の凱旋をし、ほんの少しマシになった世界で杯を交わそうと誓ったのに。
シアーズ防衛総括は棒立ちの研究員の胸倉を掴み、抉り刺すような睨みを利かせ、
「おい、××なし、お前もアレにやられた口だろうが。さっさとNYP用意しねえと、煮えた鉛飲ますぞ。ゴラァ!」
研究員は瞳孔を開いたまま、無言で何度もかぶりを振った。
シアーズ防衛総括はあの殺人機械、深優=グリーアの戦いを見て、強く確信していた。
こちらは参加者に皆殺しを挑んでいるのだ。彼らと停戦協定などできるわけがない。
もしも、丸腰で白旗を揚げたならば、死より恐ろしい報復が待ち構えていよう。
愚将と罵られようが構わない、勝って生き延びるのが第一だ。そのためならどんな力でも利用する。
・◆・◆・◆・
「さて、彼女達も行ったことだし……僕も一仕事する番かな」
一足先に神崎の元へ向かった桂と柚明を見送った那岐。
彼は、今はただの静寂だけが残る地の底の祭壇に一人立っている。
聞こえる音はというと時折波打つ地底湖の波音のみ。
じっとしてると耳が痛くなるような静けさだった。
「しっかしまあ……派手にやったもんだねぇ……」
木で作られた祭壇の階段を一旦降り、那岐はつい先ほどまで行われた戦闘の跡を改めて見つめる。
広大な石造りの床と、その先に広がるむき出しの地面。これら一面に散らばるアンドロイドの残骸。
上半身が粉々に砕かれた物。
鋭利な刃物で一刀両断にされた物。
何らかの爆発により残骸の一部が焼け焦げた物。
さまざまな形をした機械の残骸の状態がここで行われた戦闘の凄まじさを物語っていた。
「数十体は僕らでスクラップにしたかな?
まったくもって勿体無いねえ……。一体につきいくらぐらいの値が張るのか、僕には想像もつかないよ」
那岐は首だけになって転がっているアンドロイドの顔に視線を移す。
深優にどことなく顔立ちが似た、少女の姿を模したアンドロイド。
本来なら人工皮膚で覆われている端正な顔も焼けただれ、顔の半分ほどは機械が剥き出しになっていた。
「ふう、かわいい顔が台無しだね」
そう言って肩をすくめる。
しばらくの間アンドロイドの残骸を調べていた那岐は少女型のアンドロイドに混じって、
何体か少年型のアンドロイドが存在していたことに気がついた。
「ああ……そういえば桂ちゃんがたまに手こずっていたのがいたけどこれだったのか」
大多数を占める少女型のアンドロイド。
その動きは普通の人間を凌駕するものの、動き自体は機械的で単調なものだった。
だがこの少年型の物はそれに比べるとトリッキーで有機的な動きをしていた。
その機械にあるまじき動きは戦闘経験の浅い桂を翻弄していたのだが……
「相手が桂ちゃんのような接近戦主体のスタイルなら効果的だけど、僕や柚明ちゃんには相性が悪かったね」
桂と違って那岐や柚明は遠距離戦を得意とする。
特に点ではなく面制圧に優れた攻撃方法を取る二人の前ではいくら変幻自在で翻弄しようとも、
そこにいる場所ごと絨毯爆撃するような那岐と柚明の戦法に対してはあまり意味はなかったのである。
那岐は祭壇に向かって足を戻す。
アンドロイドの残骸に紛れ今もなおむせ返るような血の臭いを放つ、肉塊となった人間だったものを一瞥して。
言霊によって生ける人形と化した一番地の戦闘員。
哀れではあるが同情はしない。一番地という闇の組織の構成員をやってきたのだ。
何も知らずにここまで来たなんて言わせない。
――そう思えば、心が痛まずに済む。
「……感傷に浸るのはここまでっと。さあ仕事始めますか」
太い注連縄が張られた祭壇の中心へと那岐は立つ。
足元に描かれた魔法陣は洋の東西を問わない、まさに魔術の和洋折衷というべきの複雑さで記されていた。
那岐は魔法陣の中心に手を付いて静かに目を閉じ、意識を集中させる。
この島に広がる霊脈の中心、そこで霊脈を制御しオーファンを出現させる術式の解析を開始した。
「解析――開始――」
暗い闇の中を光が行き交う那岐の心象風景。
光はまるで回路を流れる電気信号のように明滅し、移動してゆく。
その中に一つの魔術文字が浮かび上がる。
さらに一つ、さらに一つ。
凄まじいスピードで浮かび上がり、霊脈を制御する術式が展開されてゆく。
それはまるで津波か洪水のように何千万行に及ぶ術式が那岐の脳内に氾濫する。
本来なら多数の魔術師が何日もかけて完成させる巨大な術式。
並みの魔術師が一度に解析しようものなら、あっというまに氾濫する情報の波に精神を破壊されてしまうだろう。
だが那岐は長年培った知識と経験で、氾濫する情報の波を受け流す。
「……まったく酷い術式だね。なんでもかんでも混ぜりゃあいいってもんじゃないよ」
世界中の魔術様式が入り混じった制御術式。
アルが一緒にいてくれればもう少し早く解析できそうなのだが、そうでない以上そんなことを言っても始まらない。
那岐は混ぜ込まれた西洋の魔術様式へと意識を飛ばし、不慣れなそれに四苦八苦する。
「こんな闇鍋状態の式がまともに動くことが僕には信じられないよ」
スパゲッティのように複雑に絡み合った術式を丁寧に解きほぐして整理してゆく。
そのままではどの式がどの作用を及ぼすか全く検討がつかない。
下手に書き換えてしまうと予想もつかない術式に変貌してしまう可能性もある。
最悪、島ごと吹き飛ぶ可能性も無きにしもあらずなのだから。
「よし、解析と整理終わり……次は書き換え――」
見慣れない魔術様式が暗号のようになって解析を阻んだがそれも終わり、ようやく書き換え作業に移る。
整理してみると膨大な術式のほとんどがただのジャンク――ノイズだと分かった。
解析を防ぐためのダミー情報、とは言っても何千万行の式が何万行にまで減ったというレベルではあるが。
だがこれで書き換え作業は多少なりにとも楽になったと言えよう。
さてと那岐は作業を開始する。書き込む術式のベースは以前教会でオーファンを呼び出した形である。
だが今回術式で操作するのは島を流れる地脈の中枢――いわばメインサーバーのようなもの。
教会で行ったことは端末からのアクセスする許可を受けてサーバーからオーファンを召喚したにすぎない。
これから行うのは、メインサーバーをクラッキングして管理者権限を直接奪うことに等しい。
「祭壇を放棄したのがトラップじゃなきゃいいんだけど……」
書き換えに精神を集中してるところに襲われでもしたらさすがの那岐とて無事では済まない。
それに物理的な攻撃のほかに魔術的な攻撃の可能性もある。
那岐もアルと同じく生きて動いているが元々は魔術の理が一人歩きしている物。
普段は意識野を何十もの魔術的な障壁により精神を守っているが、
式という術理によって存在を構成されている以上、精神本体は人間よりも遥かに魔術に弱い。
長い時を炎の言霊ひとつで縛られていたということもある。
「……迷ってもしかたないんだ。みんな役目を果たそうとしてる。僕だけ逃げるなんてことできないもんね」
腹は決まった。書き換え作業を実行する那岐。
どうせ攻撃を受けるなら解析作業中にも来る可能性だってあったのだ。
しかし攻撃は来なかった。つまり神崎は本当に祭壇を『放棄』した。
その可能性に賭けて――。
闇に浮かぶ膨大な行で記された霊脈の制御術式。
それが凄まじい速度で書き換えられていく。
那岐がもっとも得意とする魔術様式へと置換されてゆく。
やがて足元の魔法陣が仄かに輝きだす。霊脈の制御が一番地から那岐へと移り変わりゆく。
しかし攻撃は訪れない。そして一際眩い光が柱のように立ち昇り、霊脈の制御の奪取が完了した。
「……………………」
那岐は指をパチンと鳴らす。
すると光の粒子が一点に集まり鴉のような姿をしたオーファンが現れた。
鴉は洞窟内をしばらく飛び回った後――
「戻れ」
那岐の一声で再び光の粒となって消え去った。
「おーけー、これでこの島の霊脈とオーファンは全てこの僕の制御下だ」
もうここには用はない。
霊脈の制御術式は那岐が仕掛けた幾重のも防壁で守られている。
日本にまだ文字が伝わる前に存在した術式で。
もはや誰も伝えることができない遥か昔に失われた魔術。
現代に存在する魔術師にこれを突破できる術はないだろう。
那岐は祭壇奥の通路に向かい神崎の元へ。
その時、いつものように神崎の放送が聞こえて来た。
それはここ数日繰り返される時報めいた放送……のはずだった。
・◆・◆・◆・
『――これより、二十二回目となる放送を行う。
聞いている余裕があるのかどうか、それどころではないという者も多いだろうがよく聞いて欲しい。
今回は前回までのような形だけの意味の薄い放送ではない。
君たちや我々にとって至極重要であり、放送の本来の趣旨を取り戻すものだ。
死者の発表をする。
玖我なつき
山辺美希
ファルシータ・フォーセット
以上、3名。
繰り返し言おう。玖我なつき、山辺美希、ファルシータ・フォーセット。以上の3名は死亡した。
続けて禁止エリアの発表を行う。
14時より”B-4”。16時より”G-6”が禁止エリアと指定される。
君たちが入場してきた学園と、君たちが拠点としていたあのカジノホテルがあるエリアだ。
最早地上に逃げたとしても、君たちに帰るべき場所はない。
取り戻したければ全てに決着をつけるしかないだろう。私もそれを望んでいる。
以上だ。もう次の放送はないだろう――』
・◆・◆・◆・
機器のスイッチを切ると、神崎はしばらく無言で何かを考えそれから席を立った。
極一部の者しか入室を許されていない放送室を横切り、簡素な鉄扉を開いて通路へと出る。
「終わったロボ?」
「ああ。司令室に帰ろう」
外で待っていたボディガード役のエルザに答えると、神崎は口を閉じて無言で通路を進んでゆく。
久々となる死者の読み上げ。
停止していた儀式が動き出したという実感と、迫り来る終焉の予感。
そこにあるのは喜びと期待か、それとも空しさと諦観か。それは、神崎自身にも掴みきれない複雑な感情であった。
・◆・◆・◆・
耳を貫くよう響き渡るは怒号のような轟音。
壁に床にと幾度となく反響し、まるでバケツの中に入れられて外から叩かれているかのよう。
音の原因は、その大きさから考えればありえぬほど小さく、しかし、人の身からすれば怪物と呼べる程に大きい代物。
ある種の類似性と整合性、そして美しさと獰猛さを持つ、鉄の獣。
戦車の如き巨体を持ちながら、戦車では到底あり得ない、獣のような挙動。
縦横無人に地を駆け抜け、その手足を振るい爪痕を存分に刻み付ける鋼鉄の暴風。
それが、四つ。
一つ一つの形状は異なるものの、誰かがこの場を見ればそれらは同属の存在であると考えただろう。
その同属に近しい四つの巨体は、同属でありながら、いや、だからこそかお互いに合い争っていた。
高く吼え、梳く奔り、神のごとく裂き、地を砕き、他者を潰す。
己の持ちうる限りの知性と蛮性でもって、破壊の渦を作り出す巨獣たち。
跳ねる四つの鋼の巨体の前では、人などまるで嵐の中の鳥のように引き裂かれ、何処へとも無く吹き飛ばされてしまうだろう。
だが、その凶嵐の只中にあって、尚消え去ることの無く人影が存在し続ける。
吹き飛ばされることも、引き裂かれることもなく、今なお、そしておそらくはこのまま延々と留まり続けるであろう人影。
絶えず動き回るその影は、凶獣の数と同じ、四つ。
揃いの武器、柄の長い鉾槍を油断無く構える、四人の人影。
一つは地を往く鋼鉄の牙たる愕天王。その主たる杉浦碧。
残りの者達は名も無き存在。彼女の能力を写し取ったオーファン共の背に立つ、アンドロイド達。
・◆・◆・◆・
「ははは……こりゃ、流石に参ったね」
額に滲み出した汗を拭う。
腕も足も怪我は無いけど重くて痛い。
地響きを立てて三方向から次々と襲い掛かる巨体。
黙っていると何処までも押しつぶされてしまいそうな程の圧力。
それに耐えかねて口を開いてみても、でも、出てくるのは軽口ばかり。
……これは本当にキツい。
圧倒的な力の波に踏み潰されるのを何とか耐え忍ぶとかじゃなくて、
どう頑張っても押し負ける相手に徐々に制圧されるというのは精神的にキツい。
1対1でも互角、というかそもそも同じ能力なのが3人。
正義の味方にはニセモノが現れるのはお約束だけど、それが一度に3人てのは卑怯てもんでしょ。
1対1×3とかに出来る狭い場所でもなく、1対3でやるしか無い広い部屋。
何かしら状況が好転する要素は無いことも無いけどそれも大分先の話になる。
何と言うか今すぐにでも撤退……じゃなくて転進、そう転進ね。撤退にあらず、したい所ではある。
「けど、それは無理、だよね」
先生として、仲間として、この場を譲る訳にはいかない。
他のみんなも同じような苦境の中にいるかもしれない。
なら、こんなところで泣き言いっている暇なんて無い。
それどころか、さっさとこの場を片付て、待たせたねババーン! と正義の味方らしく参上しないと。
そう、参上しないいけないのだけど。
「と! 危ないね、この!」
叫びながら、オーファンの上から飛び掛ってきた相手のエレメントを受け止める。
ギリギリと押し込まれるのを強引に押しかえした。声を出すと喉が張り付く、喉が渇いてる。
そうして、愕天王の上から弾き飛ばしたけれど、あっさり他の一人に抱きとめられる。
そのタイミングで突っ込んできたもう一人を防ぎきるだけの力は無い。
何とか受け止める事には成功したのだけど。
「あーちくしょー! 乙女の珠のお肌に何するのさー!!」
熱い。
熱くて、痛い。
左のおでこに痛みを感じる。
こんなの死んでったみんなに比べればなんでも無いと言い聞かせても痛いもの痛い。
つーか顔は女の命なんだっての! ふざけんなー!
それほど深いわけでもないとか、髪に隠せる位置だとか、治るくらいの傷だとかそんなので納得いくか。
というか髪も少し切られたし! 髪は女の命なんだよ!
痛いし、何か目に近い所から一瞬拭ってみて、
「あれ!?」
視界が急激に悪くなる。
何でか知らないけど額から流れる感触が止まらない。
――額からの血は、多い。
見た目ほどの怪我では無い事がほとんどだが、逆にいえばそうだと錯覚するくらいに多い。
加えて、骨に近く肉が薄いから出血自体も止まり難い。
短時間での止血は難しく、手で拭ったところでかえって目の近くに流れ、視界が塞がることもある。
戦闘経験はあっても、戦闘の専門家というわけでは無い碧としては仕方ない対応ではあるのだが、
どちらにせよ碧の左の視界が一部塞がれたことには変わらない。
しかも、液体である血液はこれから徐々にその支配範囲を広げる。
左側の視界はおろか、遠近感すら狂ってしまえば、最早碧に勝利は無い。
一度侵入を許した以上、手で拭うのは逆効果にすぎず、さりとて悠長に布などの用意している余裕などある筈も無い。
取り得る手段としては、左手の袖を使い、ある程度長時間傷口を押さえ続ける事だろうか。
だが、それも不可能。
いくら重さを感じない青天霹靂でも、長柄の武器は片手で扱うには向かないのだ。
上に流れたと思いきや、次は下から現れる流水のように奔る動きは、両の手を用いなければとても出来るものでは無い。
これが或いは玖珂なつきや深優・グリーアのように、片腕でも使用可能な武器ならばどうにか対処できたかもしれないが、
鉾槍である青天霹靂だと片手では振り下ろすか、なぎ払うかの単調な動きしかできない。
重さを感じない動きで振り回せ、それで居て金属塊の重さと鉈の切れ味を併せ持つ青天霹靂ならそれでも充分な戦力ではあるが、
相手も同じ武器の使い手。
騎上から敵を寄せ付けないように振るうなら兎も角、
相手も同じ騎上の人。
片腕を封じるという選択肢など、取りようも無かった。
息が荒い。
体中が熱を帯びてる。
疲労の熱さが半分、痛みの熱さが半分。
心臓の音が体の中で反響してるように聞こえるほど激しく響く。
片方の視界はとっくに赤く曇り、左側どころか距離すらうまく掴めなくなる。
可能なら片手で押さえたい、出来れば布か何かで止血したいけどそんな暇が無い。
「はっ……はぁ……」
息が荒い。
喉の奥が痛くてゼィゼィと音がする。
動かないでいると身体が勝手に揺れはじめる。
もうここでどのくらい戦っているんだろう。
先に行ったクリス君となつきちゃんは無事だろうか。
他のみんなはちゃんと神崎君の下まで辿りついたのだろうか。
「はぁ……ふっ……」
荒い息を飲み込む。
のんびり深呼吸してる暇も無い。
視界が塞がった方を防ぎやすいように右足を前に構える。
少し動きの鈍ってきた指をしっかりと動かして青天霹靂を握り締める。
他のみんなの心配している余裕なんてとっくに無いけどそれでも心配だ。
ずいぶんと荒れ果てた床の上を、土煙を立てながら三体のオーファンが迫る。
内一体は足元しか見えない。 少しだけ左を向いてその上に人影があるのだけ確認。
再び真ん中の一体を正面に捕らえる。 一度に全部見えないのは危険だけどどうしようもない。
一体を完全に視界から外すよりは足元の動きだけでも見えたほうが少しはマシ。
あと、何回防げばいいのかな。
どれだけ我慢し続ければ隙が生まれるのかな。
そろそろ、アルちゃんや玲二君は基地に侵入できてるのかな。
時折遠くから轟音が響いてる気がするけど心臓がうるさくてよく聞こえない。
出来れば早く……
「…………っ」
首を振る。
そんな弱気でどうするのさ。
血と汗で額に張り付いた髪をかき上げる。
倒しきれないなら、せめて最後までここで足止めし続けないと。
もう何度目かもわからない轟音と衝撃。
ふんばれ愕天王……っ!
みんな頑張ってるんだから!
あたし達がここで倒れるなんて許されない!
みんな、
みんなで約束したんだから、
みんなで生きて帰るって、しかめっ面の玲二君でさえ約束したんだから、
腕が痛い。
青天霹靂が重い。
目の前の子は無表情のままに力だけ込める。
あたしのコピーだってのに、疲れは無いんだろうか。
さすが碧ちゃんと誇るべきなのか、あたしはもう少しかよわいと抗議すればいいのか。
「っ!」
余計な思考ごと青天霹靂をなぎ払う。
軽快な動作でオーファンを下がらせる影。
でもそれを追う余裕もなく次の影が迫ってる。
ちゃんと視界に入りにくいように向かってくるのが敵ながらニクい。
「愕天王っ!!」
正面から受け止めるなんて真似は何度も出来ない。
だからこうして三体の間隔が開いた隙を見計らって移動。
両側から鉾槍やオーファンの爪牙が振るわれるけど、服が更にボロボロになる程度で済む。
いくつかの新しい痛みに顔をしかめつつ、適当に振り払いながら距離を取って反転、再び向かい合う。
向こうの動作はいつも変わらない。三体で等間隔を取りながら同時に突進。
同時に受け止めるなんて出来ないのは最初の二回でわかった。
だから同時に攻撃される前に一体だけに狙いを絞ってそいつに突撃。
どうにかそいつを退けて逃げれば、他の二体は深追いしてこない。
少し距離をおいて、必ず三体で突撃してくる。休む時間があるのは助かるけど逆にどんなに頑張っても攻めきれない。
それに気づいたのは何時だっただろう。
もう少し早く気づいていればどうにか他の手段も取れたのかもしれないけど、そんな力はもう残ってない。
「もう、とっくに……飽きてるんだけど、ね……」
唾液に薄く混ざった血の味を飲み込みながら言ってみる。
別の動きを要求してみても、応えてなんかくれない。
ゆっくりじわじわと削られるだけ。
ふと気が付けば、そのことに焦りよりも安堵を感じてる。
こうして同じ事をしてきてくれる内は、まだ大丈夫。
なんとか、防いでいられるから。
だから……
『――これより、二十二回目となる放送を行う。』
「ふぇ!?」
『聞いている余裕があるのかどうか、それどころではないという者も多いだろうがよく聞いて欲しい。』
ちょっと驚いた。
こんな時にまで放送とは相変わらず律儀だね怜人君。
放送って事は今はもう12時かな。まだ、それくらいしか経ってないんだ。
「もう一頑張り……かな」
いや、もうこんなにも経ったんだ。
だったら後もう少し、いやもうちょっとだけど、頑張れる。
何とかなる。ここで防いでいればみんな頑張れる。
よし、それじゃあ――、
『死者の発表をする。――玖我なつき』
「…………は?」
『――山辺美希。――ファルシータ・フォーセット』
え?
い、いやこら、
「あ……………………えと………………。は、ははは、そんな、冗談キツいね……は…………は……」
やだな神崎君、冗談はほどほどにして欲しいよ。
あんまり先生を、大人をからかっちゃいけないよ。
こんな殺し合いだけでも赤点ギリギリなのにこんなの留年確定じゃないのさ。
「そんな冗談……笑えるはず、無い、よ?」
『繰り返し言おう。玖我なつき、山辺美希、ファルシータ・フォーセット。以上の3名は死亡した。』
「今ならさ、ほら、許してあげるから」
返事は無い。
ただの放送、元々こっちの話なんて聞いてない。
もう何度も聞いてきた、ただ一方的に事実を告げるだけのもの。
だから、考えるまでもない。
「ほら……ね……てば」
また、 何度目だろう。
また、 手の中で体温を失っていく小さな身体。
また、 もう動くことの無い鋼のような巨躯。
また、 確かな意思を秘めた容貌はもう。
また、 守れていた筈の命は何時の間にか失われ。
また、 嘆き悲しむことしか出来なくて。
また、 力を取り戻した筈なのに。
また、守れなかった。
守りたいと、そう思いながら。
一度だって、何かを守れたっけ?
力があった筈なのに。
見失っていた力を取り戻したのに。
結局、あたしは何が出来た?
何を……守れた?
呆けている。
何をするべきなのかわからない。
視界の隅に動いているものがあるのにそれを認識出来ない。
・◆・◆・◆・
女性は、動かない。
まるで彫像であるかのように、
作り物のように顔を下ろしたまま、
血に塗れた髪に隠されて窺えぬ表情、
両手で構えていた鉾槍は片手に垂れ下がり、
あたかも、全ての意思を捨ててしまったかのように。
ならば、好機である。
狩られる獲物が抵抗する意思を捨てたのならば、これほどありがたい事は無い。
狩猟者である三つの巨体は、被捕食者である残りの一つをゆっくりと取り囲む。
獲物が動かないとしても、油断は禁物。
最も効率的な陣形をもって、確実に刈り取るのみ。
そうして、もはや生きるのを諦めたような女性と獣に向かい、一斉に奔る。
集団で獲物を狩るある種の動物達のように飛び掛り、
響いたのは破滅的な轟音。
破砕音を響かせながら床を削り飛ばされる鋼鉄の巨躯。
四つの巨躯はぶつかり合った。
いや、ぶつかり合う直前、
その内の一つが、坂を転げ落ちる車のように、平面を転がった。
等距離に居る残りの三体に大きな動きは無い。
二体は突然の出来事に咄嗟に対応出来ず、
最後の一体は、ゆっくりと、
酷く、ゆっくりと、
飛び掛る直前の獣が地に伏せる時のように、ゆっくりと、
少しだけ、左を向いた。
突如、
その先に居た筈の巨獣が吹き飛ぶ。
戦車に乗用車が吹き飛ばされたら、こう飛ぶのか、
ほぼ同等の質量の筈のオーファンが、一方的に弾き飛ばされる。
先ほどの一体と同じように、床を転がるように。
それで、
ようやく、
動かなかった最後の一体が。
飛び掛ろうと身構えた時。
先に飛び掛られた。
獣すらも怯えさせる唸りを伴って。
「ふざけんなっ!!」
放たれたのは、怒り。
嘆きでもなく、
悔恨でもなく、
絶望でもない。
状況への、皆への、そして自分への、怒り。
激情に身を任せ、あらん限りの声で吼える。
それは、どちらの叫びか。
主の怒りか。
獣の怒号か。
考えるまでも無く、二つにして一つの、咆哮!
「なつきちゃんも!」
唸りを上げて迫る鋼の巨躯。
同じ巨体でも、それは狩るものと狩られるもの。
ならば、ぶつかる前に既に勝負は付いている。
「美希ちゃんも!」
部屋中に軋みが響く。
先ほどまでは確かに同等の力であった筈の獣。
だが、その力の差は今や目に見える程はっきりと現れていた。
「ファルちゃんも!」
そしてそれは獣の主にも、
いや、もう一匹の獣にも、しっかりと見て取れる。
血に塗れた髪をはためかせ、強大な鋼の牙を振り回す、若く美しい女蛮族(アマゾネス)。
その牙を、人の作った人形が防げる道理も無い。
「みんな!絶対に! 生きて帰るって約束したんだよ!!」
甲高い金属音が響く。
槌打つ音のように幾度となく、それでいて鍛冶場では決してあり得ぬ破壊を込めて。
触れるものを切り刻む、鋼鉄の旋風を生み出し続ける。
「死んでない! 死ぬもんか!!」
技巧も組み立ても何も無い。
ただ、速度と腕力だけで人形を圧倒する。
それはさながら鋼の豪雨、いや暴雨、スコールというべきか。
暴雨の前に傘など弾かれ砕かれるように、人形の槍斧もまた鋼の暴雨を支えきれない。
「だから!」
一際甲高い音を立てて弾き飛ばされる鉾槍と、その返しの刃で弾き飛ばされる人影。
「だから!! さっさと!!」
既に暴風に巻き込まれた前の二人を同じ位置にまで飛ばされる。
「そこを!!」
だが、吹き飛んだから何だというのか。
吹き飛び、体制を崩した今が格好の機会と愕天王は突撃する。
獣同士の死闘はどちらかの息の根を止めるまで終わる事は無い。
倒れ、腹を晒すならば、そこに喰らい付くことこそが正しい行動。
「どけ――――――――――っ!!!」
主の、母の感情を映し出すが如く、鋼の巨体は突撃する。
対するは、最初に飛ばさたが故、既に起き上がっている一体。
初めての状況に対する戸惑い故か、いまだにどのような動きも起こしていない。
ただ、受動的に向かってくる愕天王を迎え撃つ位置に立つのみ。
そうして、数瞬の後にぶつかりあう鋼と鋼。
射線上にあるあらゆる物をなぎ払い、吹き飛ばす蒸気機関車を彷彿とさせる鋼鉄の塊。
その突撃を、たかが一体の獣が押し留められようか。
一瞬、
いや、それこそ一瞬にも満たない刹那の間。
それが過ぎた時には既に圧されていた。
金属の軋む音と、床を削る音。
聞くものを恐怖を掻き立てる破滅的な音のみが響く。
手負いの獣の怒り。
それは時に襲撃者に想像だにしない程の傷を負わせる事になる。
感情は力の燃料で、激情とはプルトニウムのそれだ。
一つの激情に支配された人と凶獣、母と仔、獣と獣。
その前に、捕食者の考える確実な狩りなど成立する筈も無い。
圧される獣に助力するように、二番目に跳ばされたオーファンが横合いから凶獣に突撃する。
本来ならば凶獣の後ろを取るか、或いは横から腹を狙いたいところであるが、そんな余裕など無い。
そんな周り道をしている間に、今組み合っている獣は再び吹き飛ばされるだろう。
そうして、生まれる構図は2対1。
同じ力量の個体同士である以上、その結果は明白。
1は決して2には勝てない。
だから、この結果は当然。
静止という、この結果は。
……静止?
そんな結果が生まれる筈が無い。
2−1=1それは真理だ。
2=1などということが、ありえるはずが無い。
ありえるはずが無い、のに。
生まれる結果は、拮抗。
いやそれどころか、1対2の力比べを、勝利する勢いで圧す。
――そう、だが忘れてはならない。
だがそこに、三体目が迫る。
1=2だとしても、いや、ならばこそ。
3−1=1になる。 それが理。
そして、それは理を捻じ曲げている愕天王にも理解出来ている。
ああ、でもそれがどうしたのか?
凶獣は、一匹の獣に在らず。
今まで動かなかった碧が鉾槍を構える。
母と仔の合わせて一匹。
仔が動けぬなら、母が動けばいい。
1=2となったのだ。
なら、0,5=1になっておかしい道理などあるのか?
いや、無い。
迫る鋼鉄の巨体。
雷が降るように振り下ろされる鉾槍。
軋む碧の鉾槍と骨。全身に走る衝撃。
その交錯は、碧の全身に取り返しの付かない破滅を及ぼす。
そう、及ぼした、のだが。
質量保存の法則も何も合ったものではない。
少々の被害など、何の意味があろう。
碧は、鉾槍一本で鋼の巨獣を受け止めたのだ。
――どれほどの猛威であろうと
「っああああああああああああ!!!」
そして、受け止めた、どころの話ではない。
そのまま、碧は力任せにその巨体を、右に圧す。
組み合った獣が相手を押し倒さんとするように、だ。
ミシミシと音が響き、巨体が倒されようとする。
時を同じくして、愕天王も自らに対峙する二体のオーファンを打ち倒そうとする。
母が0,5>1を証明したのだ、仔が1>2を証明できなくてどうするのかと。
勝敗はここに決した。
三体のオーファンの内二体は愕天王に敗北しかけており、
残りの一体も碧に受け止められている。
だから、このまま、
――どれだけの脅威を示そうと、
そのような事を考えた碧の耳に、カツンと、硬い音が聞こえた。
もう赤い色しか見えない左の視界に、何か物が落ちたような音が。
咄嗟に、そちらに視界を向けようとする。
だが、それよりも早く。
碧の胸部から腹部にかけて、得体の知れない熱さと衝撃が走った。
――手負いの獣の怒りとは、すれすなわち唯の悪あがきに過ぎないということを。
「え……」
出たのは、戸惑いの言葉。
その後に続くはずの言葉は無く、口腔に液体が溢れる。
口はパクパクと開くのみで、そこから一筋の線が……鮮血が滴る。
「あ……ッハ!」
言葉は途中で血に変わる。
受けた衝撃を支えきれず、たたらを踏む。
碧は確かに三体目の巨体を、受け止めた。
だが、受け止めて、そこで見るのをやめてしまった。
そこにあるのは一体のオーファンと、それに跨るアンドロイドだと。
視界の悪さ故に、そして確かに見える巨体故にそうあるものと思い込んでしまった。
音を聞いた時に、咄嗟の判断で身を引いていたのだが、それも意味など無い。
「……ちょっ」
だが、敵は待ってなどくれない。
血を流した獲物の哀願を聞くものなど何処にいようか。
何時の間にか、三体目のオーファンの上から愕天王の上に跳んでいたアンドロイド。
端正な顔立ちは変わらぬ無表情のまま、たった今流れた血にまみれたエレメントを振りかざすのみ。
「…………っ」
咄嗟に、何処をどのように動かしたか判らないままに、青天霹靂を構える。
血にまみれた刃こそ何とか防いだものの、先ほどオーファンを防いだ雄姿は見る影も無い。
無様に尻餅を付き、そのまま愕天王の背中から転げ落ちそうになる。
碧の身体が意識ともども自由落下する。
その直前、どうにか愕天王が身をよじりそれを支える。
だが、愕天王は今まさに二体のオーファンと対峙している最中。
そこで姿勢を崩すことなど、彼らが許すはずも無く。
あっさりと、
本当にあっさりと。
今までの拮抗など最初から存在しなかったかのように愕天王は姿勢を崩され、
そこに、碧が支えていた三体目が横から突っ込む。
柔らかく、隙だらけの横腹目掛けて、鋼鉄の衝角が打ち込まれる。
鉄のぶつかり合う音、そして、砕ける音。
今までのものとは決定的に異なる、破壊のそれ。
轟音と共に、愕天王が弾き飛ばされ、
そしてその鉄と鉄のぶつかり合う、破滅的な轟音の傍ら、
ポーンと、まるでボールのように、碧の身体が跳んだ。
一度地面を跳ね、
そして二度目は砂煙を立てながら地面を滑る。
血と布の切れ端を地面に撒き散らしながら。
床に数メートルの文様を記して、停止した。
死に瀕した獲物が最後の足掻きを見せるように。
捕食者が思わぬ反撃でその身に傷を追うこともある。
悪あがきによって傷を負い、それが後に捕食者の命を奪う事もある。
だが、それでも。
その場での獲物の運命には、何の関わりも齎さない。
狩るものと狩られるもの、その関係は変わらない。
激情に駆られた獣は、ただ己の死期を早めたのみ。
・◆・◆・◆・
「…………う」
目を開く。 相変わらず左目は良く見えない。
一瞬、気を失ってたかも。
愕天王の上から落ちそうになった後が少し曖昧。
痛くて意識が飛びそうになって、また痛みで意識が戻される、そんなのを何回か繰り返した気がする。
「っ……いた……」
全身、痛い。
何処かどう痛いとか考えるのも面倒なくらい痛い。
どうにか立ち上がろうとして、まず右手が動かない。
折れてるとかじゃなくて、何か重さを感じる。
痛みのせいでのろのろと顔を向けてみれば、青天霹靂は、どうにかあたしの手の中にあった。
ただ、重さを感じない筈のそれが、どうしてか重く感じる。
「失敗、……し…ゃった…な」
5回くらい顔をしかめながら身体を起こして、青天霹靂を立てる。
右手よりはあんまり痛くない左手を添えて、杖の代わりに寄りかかる。
痛いところは多いけど、多分出血はそんなに多くない。
それでも2,3回腰が砕けそうになりながら、何とか起き上がる。
生まれたての小鹿みたいな、とかよく言うけど今あんな感じなのかな。
「傷……残っちゃうかな……嫁入り前なのに……」
一番大きそうなお腹の傷は、どのくらいだろう。
破けたところが真っ赤で、見ても良くわからない。
柚明ちゃんに頼まないと、もう水着は着れないかも。
流石に、夏場にTシャツ着るのは大丈夫だと思いたいな。
「好きな人に見せる機会が無くても、さ、やっぱりこう、キレイな身体でいたいじゃん? 女の子としてはさ」
何とか前に踏み出そうとして、右足が上手く動かない事に気が付く。
折れたか、それともただ打っただけか。
とっくに痛みしか感じなくて、どこがダメになっているのかもわからない。
それでも、何とか転ばなくて済んだ。
左足は何とか身体支えられるから、動かしたのが右足だったのは良かったのかも。
「あー、で…やっぱり、この……ゴホッ……胸とかおなかとか、持ってるだ…っての勿……い、のかな?」
痛みで今にも倒れそう。
幸い、というか気を失って倒れることは無いだろうけど。
「はは、もうこうなった…、元の世界に、帰ったら、教、授に……しちゃおうかな……ゴホッ、コホッ」
何とか気をそらそうとして楽しい事考えてみる。
笑ったはずなのに、こほ、こほ……と血の混じった咳が出るだけ。
「どうせダメ元なんだし……あ、でももし成功しちゃったらどうしよ」
それでも、何とか無理に笑い、声を上げる。
声と一緒に、重くて下がり気味だった顔も持ち上げる。
普段の通りに、胸を張って大声を上げるように。
半分しか見えない部屋の向こうには、こちらに角と鉾槍を向ける影が三つ。
こんな時でも、律儀に三人で来るみたい。
「うわ、どうしよ……よく考えるとデー…って初なんだよね。
何、着てけばいいんだろ? いつもの……ゴホッ……格好、でいい、……わけないし。
ここはほら、やっぱり、みんなに聞いてみて、さ、うん、そう、それがいい」
なつきちゃんは下着集めてるらしいし、ファルちゃんは何か男の人の気を引くのが上手いとか。
美希ちゃんも男の子に人気あるらしいからそういうの詳しそうかもだし。
「うん、皆、帰る、帰るんだよ」
梅
1000なら今年中にGR2完結
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1001:
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