思想や感情を、言語で表現した芸術作品。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など。文芸。」
文学の定義は曖昧である。
実際に文学性の有無を巡って論争が起こりうる。
現代でも例えば、ケータイ小説が叩かれる一方でそれを文学として解説した本があったりする。
教科書に載った詩が、こんなものは文学ではないと文芸評論家にけちを付けられた事例もある。
専門家でもこの有様であるから、解釈次第で十分人それぞれになりうる。
結局個人個人の文学の判断基準は「言語表現を含む創作物のうち優れていると感じたもの」
となってもよいのではないだろうか?
「○○は文学」と2chのしかるべきスレで主張するのは言論の自由であるはずだ。
次に「○○は文学」に対する文学愛好家の反論について考えてみる。
彼らによると、例えばそれが文学ではない理由の一つとして音、絵、演出などが融合していることが挙げられるらしい。
文学として扱われる戯曲が演劇の台本であることを考えると、この理屈は納得しがたい。
また、文学とされる作品にも挿絵が入っていることについては、多すぎると絵本扱いされるが許容範囲内であるらしい。
では言語以外の要素が何処までならよいと言うのだろうか?
例えばここで(絵の数)/(単語数)のような指標を導入したりすると、
僅かに表現を変えただけで文学か否かが変わることになり現実的ではないだろう。
つまり、この判断には多分にグレーゾーンが含まれている。
何処まで認めるのかは結局人それぞれではないだろうか?
思うに、彼らの反論は彼らの脳内の言語フェティシズムに基づいた文学理論によっており、
基準と解釈次第でどうにでもなりそうなところが多い。
また、彼らと同じ基準と解釈を「○○は文学」派が採用しなければならない理由に乏しい。
文学愛好家はまた、「○○は文学」発言をするのは文学に幻想があるからだと言う。
これについては、その通りだが何か文句あるのかと開き直ることとしたい。
大体、彼らに「自分が文学だと思わないものを文学とする主張の存在が許せない」
という感情が生じるのは、彼ら自身もまた文学を幻想(自己対象)としているからではないのか?
彼らの語る純文学の発祥は、純文学を作り上げた作家陣もまた文学に幻想を抱いていたことを認めるものではないだろうか?
彼らは何故執拗に「○○は文学」発言を攻撃するのだろうか?