空が、白み始めた。
漆黒の空はゆっくりと瑠璃色に染まってゆく。
長い夜が明けようとしている。
「はぁっ……はぁっ……」
冷たい夜天の下、倉田佐祐理は一心不乱に走っていた。
遠く、まだ遠く、
あの人から離れなければ。
朝倉音夢の狂気はことりやさくらはおろか、舞や祐一、参加者全てを飲み込んでゆく。
誰でもいい、この事を伝えなければ。
途中何度転んだだろうか膝は擦り剥き足首は捻挫し、赤く腫れ上がっていた。
それでも立ち止まることなく走り続ける。
後ろは振り返らない、振り返られない。
――朱に彩られた彼女が、すぐ真後ろにいるみたいで。
「はぁっ……ぁっ……ぐっ……」
もう、体力の限界だ。徐々に速度が落ちてゆく。
足首が悲鳴を上げる、もう走れない。意識が朦朧としていく。
「あ……」
目の前に人影が立っていた。
だが佐祐理にはそれを確認するだけの体力と気力は残されてはいない。
意識が、闇に落ちる。
気を失う寸前、優しい腕に抱き止められたような気がして――
「祐一……さん……」
※ ※ ※ ※ ※ ※
オフィスビルが立ち並ぶ静寂の街、その一画に国崎往人はいた。
「…………」
往人は無言で街を歩いていた。
その表情は硬く、そこからは何の感情も読み取ることは出来ない。
――今の往人さん、とっても辛そうだよっ!
「くっ……」
脳裏に浮かんだ少女の声を必死に振り払う。
決めたはずなのに、
観鈴をこの狂気の島から救い出すために、
参加者を皆殺しにすると悪魔に魂を売ったと決めたのに、
残された良心がちくちくと往人の心を突き刺している。
だが、往人はその良心を捨てるつもりは無かった。
これは自分に与えられた罰、観鈴を救うために交わした契約の対価。
罪の意識という罰。
自分一人の魂が汚れる事で彼女を護れるなら、それでいい。
「命なんて安いものだ。特に俺のはな」
往人は自嘲めいた笑みを漏らす。
かつん、かつん、かつん、
自分以外誰もいないはずの街に足音が響いた。
「――!?」
誰か来る――。
往人は耳を澄ませる。銃に手をかける。
かつん、かつん、かつん、
その音は往人のすぐ後ろ、首筋に嫌な汗が滴り落ちる。
まずい――後ろを取られた。
「チィッ!」
俺としたことが――往人は銃を構え即座に背後を振り向く。
その人物は襲撃者では無かった。
風変わりな学生服に身を包み、亜麻色の長い髪をリボンでまとめた一人の少女だった。
服はどこかで転んだのか泥にまみれ、膝は血で滲み、おぼつかない足取りで近づいて来る。
「あ……」
人と出会えたことの安堵か恐怖なのか、彼女は焦点の合わない瞳で往人の姿を確認すると、ゆっくりと崩れ落ちた。
「おいっ! しっかりしろ!」
往人は咄嗟に少女が地面に打ち付けられないようその身体を抱き止める。
その拍子にからん、と金属質の音が地面に鳴り響く。
「これは……」
鋭いナイフが少女の服の下から滑り落ちた音であった。
ナイフには別段使用された形跡は無かった。
往人は少女を抱えつつ自らのデイパックにナイフをしまい込む。
そして少女は口をかすかに開き言葉を発した。
「祐一……さん……」
「――ッ!」
彼女はそう呟くと気を失った。
※ ※ ※ ※ ※ ※
往人は気絶している少女を抱きかかえ近くの公園に移動した。
どこにでもありそうな児童公園、そのベンチに少女を寝かす。彼女は静かな寝息を立てていた。
「何やってんだ俺……」
往人は少女の隣に座りこみ、空を見上げる。
夜明け前の瑠璃色の空には星がまだ冷たい輝きを放っていた。
「この娘も殺さないといけないのに……」
気絶する寸前彼女が発した言葉、それに往人は動揺していた。
祐一さん、という言葉にでは無い。彼女の声そのものだった。
髪型も容姿も雰囲気もまるで違うというのに――
護るべき少女に似ている声が、往人の心をひどく掻き乱す。
「う……こ……ここは――!?」
少女は目を覚まし、慌てて上半身を飛び起こした。その表情は怯えの色が濃く浮き出ていた。
無理も無い、目が覚めると黒ずくめの長身の男が隣に座っているのだから。
「……俺は何もしちゃいない、目の前で気絶したあんたを抱えてここに寝かしていただけだ」
往人は彼女の顔を見据えることなく、空を見上げ言った。
「あ、ありがとう……ございます」
少女は起きようと足を動かそうとしたが膝と足首に走る痛みに顔をゆがめる。
膝には緑色の布が巻きつけてあり、そこには赤黒い血が滲んでいる。
無意識に後頭部に手をかざす。
「包帯が無かったんであんたのリボンを使わせてもらった。もしかして大事な物だったか? それならすまない事をした。
ああ、それとあんたが服の下にしまい込んでいたナイフ、俺の荷物の中だ、取り出そうか」
「いえ……結構です。あの――」
「国崎往人だ」
往人は初めて少女の方を振り向き名を名乗った。
「佐祐理は……倉田佐祐理と言います。佐祐理と呼んでくれて結構ですよ」
佐祐理は屈託の無い笑顔で自己紹介をする。そこにはもう先ほどの怯えは無かった。
「そうか、ならそう呼ばせてもらう。俺はなるべく国崎と呼んでくれ」
彼女の声で『往人』と呼ばれたくなかった。
佐祐理の声は否応にも観鈴を思い起こさせる。
それがひどく嫌だった。
「あははっわかりました国崎さん」
あまりに眩しい笑顔が嫌だった。
(俺には……眩しすぎる)
「で、何があったんだ」
佐祐理は一瞬、往人にこれまでの事を話すべきか迷った。
でも、往人になら話しても大丈夫だろう。
鋭い目付きの奥に湛えた温かい感情。大丈夫、この人は悪い人じゃない。
佐祐理は二人の友人の捜索、朝倉音夢との出会い、音夢の凶行、そして彼女からの逃走と往人と出会うまでの経緯を語った。
「あの人は……音夢さんは危険です……兄のためなら……どんなことも」
「そうだな……放っておくわけにはいかないな」
往人は思う、似たような事を考える奴はいるものだと。
朝倉音夢……彼女もまた自分と同じ、大切な人のために闇に堕ちた者。
芳乃さくら、白河ことりを葬った後は彼女はいずれその殺意の矛先を参加者全てに向けるだろう。
それで無くとも朝倉音夢は関係の無い人間二人を既に殺害しているのだ。
放っておいては観鈴も危険に晒される。
「国崎さん……大丈夫ですか?」
佐祐理は心配そうな表情で往人の顔を覗きこんだ。
頼む、そんな顔で俺を見ないでくれ、優しい笑顔を向けないでくれ、
俺はお前のその想いを踏みにじらないといけないんだ。
悪魔に慈愛なんて必要無い、憎しみの感情さえ向けてくれればいい。
憎悪の炎よりも慈愛の光のほうが遥かに俺の心を焦がす。
だがこれが俺の罰、逃げるわけにはいかない。
最期の時まで正気を保ってないと駄目なんだ。
観鈴が最後の一人となるまで――
「大丈夫……俺は大丈夫だ……」
往人は自分に言い聞かせるように呟く。その目はどこも見てはいなかった。
「国崎さん顔色悪いですよ……あの、水を……」
佐祐理はデイパックから水を取り出し、往人に差し出す。
冷たい水がゆっくりと往人の落ち着きを取り戻させてゆく。
「すまん……俺も相当まいってるようだ」
「この状況で平静を保っていられるほうが変ですよ」
「そう、だな……」
言葉が続かない、二人とも押し黙ったまま時が流れる。
往人は口を開く。
「神尾……観鈴という娘を知らないか? 長い金髪をポニーテールにした娘だ」
先ほどの佐祐理の話から彼女は観鈴についての情報を持ち合わせていない事は解っていた。
それでも質問する往人、まるで儀式のように。
「ごめんなさい……佐祐理は見ていなかったです」
「そうか……」
「お知り合い、ですか」
「ああ、俺の大切な人間だ……あいつは」
やるべきことは全てやり終えた。
残るはこの娘を殺すだけ、往人は握り締めた拳に力を込める。
(それでもせめて夜が明けるまでは――)
それから往人と佐祐理は他愛の無い会話をするだけだった。
「舞は『さん』を付けるからすぐにしりとりに負けてしまうんですよ〜」
「マジかよ……観鈴に匹敵するアホちんだな」
「はえ〜不思議ですね〜この人形」
「どうだっタネも仕掛けも無いぞ」
「あははーっ、でもオチがありませんよー」
「……………」
「その話を聞いてる限りじゃ佐祐理、お前はその祐一って野郎のこと――」
「はい、そこまでですよ〜。あははーっ、佐祐理は祐一さんと舞が幸せならそれで幸せですから」
他愛の無い話、およそこのような場に似つかわしくない友達同士の会話。
往人はこの時間が永遠に続けばいいと思っていた。
(だが永遠なんて無い、長い夢にも終わりは来る)
瑠璃色の空はいつしか茜色の朝焼けの空に染まってゆく。
そして夜が――明けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「きれいな朝焼けですね」
「ああ、こんなに……きれいな朝焼けは初めてだ」
往人の声は若干震えていた。もうすぐ夢の終わりがやってくること、
自らの手で彼女の夢を終わらせないといけないこと。
自らの夢も終わらせなければいけないことを。
往人はベンチから立ち上がって歩き出し、空を見上げる。
曙光に照らされた空は本当に綺麗で、澄み切った空気は本当に綺麗で、最後の言葉を紡ぎだす。
「明けない夜の夢はもう終わった。夢は所詮夢、夢は覚めなければならない、俺も――そしてお前も」
振り向いた往人の手には冷たい銃が握り締められていた。
「お前を――殺す」
「国崎……さん……?」
佐祐理は何かの冗談だと思った。嘘だと思った。
目の前の光景を信じたく無かった。
「嘘……ですよね」
「本気だ、俺はお前を殺さなくてはならない」
「どうして……っ! 国崎さんは気絶した佐祐理を看病してくれました! 傷の手当てもしてくれました! 人形芸も見せてもらったのに……どうしてですか!」
往人は今すぐ銃を捨てて彼女に謝りたかった。
冗談だと言って、泣いた彼女に叱ってもらいたかった。
往人は感情を押し殺した声で言葉を投げかける。
「全部演技だ。お前を助けたのも、人形芸を見せたのも、全て観鈴の情報を聞き出すためさ、用済みになればお前を殺すつもりだった」
「それで……観鈴さんが喜ぶとでも思ってるんですか!」
「わかってるさ、こんな事をしても観鈴は喜ばない。だがな……俺一人地獄に堕ちることで観鈴が救えるのなら釣りが来るぐらいだ」
ゆっくりと引き金に力を込めていく。
狙うは彼女の頭部、今度は苦しまぬよう一撃で決める。
「あなたに……佐祐理を撃てません、現にあなたは迷ってる」
「迷う? 俺が? 馬鹿馬鹿しい」
「だって……国崎さん、あなたのそれは何ですか、流してる涙は何ですか……っ」
「な……に……?」
彼女は見た。感情の無い顔で銃を向ける往人の瞳、そこから大粒の涙が溢れていることを。
朝焼けの光に照らされた顔から流れ落ちる涙はまるで血のようで、
国崎往人は確かに泣いていた。
「あなたはこの狂ってしまった島で必死に戦ってる」
佐祐理はベンチから立ち上がる。
挫いた足首に激痛が走るがしっかりとした足取りで両腕を広げながら往人に歩を進める。
光に照らされたその姿は聖母のように神々しかった。
「国崎さんは本当は優しい人だから……優しすぎる人だから」
(どうして……どうして……あゆも佐祐理も俺の本心を見破るんだ。俺はお前達を殺そうとするただの殺人鬼なのに……ッ)
「大好きな人のために無茶をしてしまうんです」
「俺は……俺は……ッ」
「ほら……その手を下ろして、ね」
また一歩、また一歩と往人に向かって歩み寄る佐祐理。
「往人さん」
優しい笑顔を往人に向けて。
「やめ……ろ」
全ての罪を許す慈愛の声は。
「往人さん」
その手を彼に差し伸べる。
「―――――――――――」
そして――乾いた銃声が公園に響き渡った。
※ ※ ※ ※ ※ ※
朝焼けの茜色の陽光が降り注ぐビル街の一画、名も無き公園、
硝煙が立ち昇る拳銃を手にぶら下げて、往人は空を見上げ立ち尽くしていた。
「……馬鹿野郎」
佐祐理は制服の白いケープを朱に染め、往人の足元で仰向けに横たわっている。
往人の放った一発の銃弾は佐祐理の眉間を貫いていた。
即死だった。
その表情はとても安らかで往人に対する憎しみは一片足りとも感じさせなかった。
それがとても痛くて辛かった。
「どいつもこいつも……俺を買いかぶりやがって……」
【D-2 公園/1日目 早朝】
【国崎往人@AIR】
【装備:コルトM1917(残り5/6発)】
【所持品:支給品一式×2、コルトM1917の予備弾54、スペツナズナイフ、木彫りのヒトデ@CRANNAD、たいやき(3/3)@KANNON】
【状態:精神的疲労】
【思考・行動】
1:観鈴を探して護る
2:観鈴以外全員殺して最後に自害
3:朝倉音夢を危険人物と認識
4:相手が無害そうなら観鈴の情報を得てから殺す
【倉田佐祐理@Kanon 死亡】
[残り54人]
※佐祐理のデイパックはベンチ脇に放置しています