2月の夜の風は、刃物じみた冷たさを孕んで、静寂の街を鋭く薙いで行く。
午前2時。人々が癒しを眠りに求め、夢に安らぎを求める時刻。
……そして、陽光の下から放逐された闇どもが蠢く時刻。
真円を描く月の下に、少女はいた。冷たい月光が、巨大なくもの巣のような高圧線を
透かして降り注ぎ、彼女の端正な風貌をほのかに照らし出す。
(今夜こそは……仕留める)
まなじりに強い意志の光を灯らせつつ、右腰に携えた物の冷たい感触を確かめる。
未だ、その気配は感じられない。
――いや、来た。
突如として吹きつけた突風は、不快な瘴気に満ちていた。街路樹が揺れてざわめく様は、
まるで悲鳴をあげるかのようだ。
少女――神条芹華は、右腰のそれを抜き放った。鏡よりも澄んだ鋼の刀身が、月光を
反射してぎらりと輝く。
対・未確認害的存在用特殊装備S−17。一銘を『湖月』。百八日と百八夜に渡る
清めの儀にて邪気を払い、聖気を研ぎ澄ました霊剣。それが今、彼女の手の中にあった。
(こいつの使用申請には手間がかかってるんだ――無駄にさせないでくれよ)
芹華の鋭い眼光が、瘴気の根源を捉える。
はたして、月光の下に、それはいた。
その姿を一言で表すなら、はるかな過去より現れた敗残の武者といったところか。
しかし、その手に携えた剣から、あるいは甲冑にこびりついた血痕からゆらゆらと立ち
上る邪気が、この世のモノならざる存在であることを何よりも物語っていた。
そして、その表情は、仮面に覆われて伺うことはできない。
その妖魔と芹華は対峙した。両者が会いまみえるのは三度目――いずれも満月の夜だった。
取り逃がしたのは、彼女の得意技がその魔物に通じなかったからだ。それゆえに幾人かの
被害者を出してしまった。幸いにもみな一命は取り留めたとはいえ、次からもそうとは
限らない。これ以上凶行を繰り返させるわけには行かなかった。
月と、いくつかの街灯が、二人の足元に複数の影を落とす。迸る殺気が、ちりちりと
芹華のうなじを焦がす。
強い風に揺らされてか、街灯の一つが、頼りなげにちらついた。
それが合図であるかのように。
二人は跳んだ。
芹華が振り下した霊剣のきらめきが、雷光のような軌跡を闇の中に描く。その神速とも
いえる一撃を、しかし『それ』ははねかえした。霊刀と邪剣、二振りの刃が刃鳴りを響か
せる。あたかも互いの存在を拒むかのように。
再び剣光が交錯する。襲い掛かる邪剣の一撃を、芹華の動体視力は的確に捉えていた。
無駄の無い動きでそれをかわし、間髪いれず反撃を繰り出す。横薙ぎに走った芹華の一撃は、
惜しくも妖魔に阻まれた。
三合、四合と剣戟の響きが重なる。その度に、冷たい神気と禍々しい毒気が飛散し、薄闇の
中に刹那の星座を描き出す。
(剣技では互角、か! ならっ!)
芹華は、己の内にある生命エネルギーの流れに精神を集中した。常人が持ち得ない感覚の
下、彼女はそれを操り、うねらせ、練り上げていく。それは右の掌の中で、まばゆい光弾と
化した。『気』そのものを叩きつける破邪の技――芹華の得意技だ。
「はぁっ!!」
気合一閃、掌から放たれた一撃は、獲物に迫る猛禽のように、武者の姿をした妖魔に襲い
かかる。直撃かと思われた瞬間、妖魔の姿が揺らいだ。光弾はその姿をすり抜け、彼方へと
飛び去っていく。だが。
(効かないのは先刻承知だ!)
そのわずかな隙を突いて芹華の剣が妖魔に肉薄していた。突進する運動ポテンシャルの
総てが剣勢へと変わる。繰り出された必殺の突きは、吸い込まれるように妖魔の仮面へと
向かって行く。
ぱきん、いうと乾いた音。その仮面が砕け散り、小さな破片がぱらぱらとアスファルトへ
落ちた。
その砕けた仮面の下にあったものは――
――いや、無かった。何も。ただ漆黒の虚無だけが、『それ』の顔だった。
妖魔がその動きを止めていたのは、わずかだった。
(しまった!?)
邪剣がそれまでと変わらぬ速さで走る。反応が半瞬遅れた。芹華の頬に痛みが走り、
鮮やかな赤が一筋しぶいて宙に舞った。
「くっ!」
苦し紛れに繰り出した芹華の一撃が、妖魔の足をかすめる。だが、やはり手ごたえは無く、
切り裂かれた衣の中からは虚ろな無が漏れ出すのみだ。
(こいつ……実体が無いのか!?)
動揺が芹華の心にさざなみを立てる。その隙に乗じるかのように、邪気に満ちた斬撃が、
より苛烈さを増して襲いかかった。
いまや戦いの趨勢は、バランスを崩した天秤のように急速に、魔物の方へと傾いていた。
芹華の心臓を、あせりが圧迫する。集中力の全てを費やして、立て続けに迫る斬撃をどうにか
凌ぐ。それでも、邪剣が一振りされるごとにじりじりと追い詰められてゆく。
(どこかに実体があるはずだ! 仮面でないなら、心臓か、手にした刀か……!?)
不運は突然訪れた。月からも街灯からも死角となる場所に生じた小さな暗闇、そこに足を
踏み入れたとき、ずるり、と右足が滑った。
(しまった……!!)
空缶か何かを踏んだらしかった。芹華の体が宙を泳ぐ。つまらない、しかし痛恨のミスだ。
無限に近い一瞬の中に、妖魔の剣が自分を叩き割る、そんな幻視を芹華は見た。そして。
(……来ない!? どうして!?)
すばやく姿勢を立て直す。暗闇の中で息を整えながら、芹華は再び妖魔と対峙した。まだ
命があるのが信じられなかった。一瞬といえど致命的な隙だったはずだ。
古びた街灯は相変わらず明滅を続けていた。妖魔はその光の中に踏みとどまり、こちらに
動く様子は無い。街灯がちらつくその度に妖魔の足元の影は2つに3つに増減する。
その時、芹華の中で閃く物があった。それは一つの仮説にすぎない。しかし。
(……賭けてみる価値はありそうだ!)
芹華は、刀を右手に持ち替え、利き腕である左手に『気』を込め始めた。『気』の高まり
とともに、芹華の髪からまばゆい光が溢れ、足元から暗闇が消え去る。それは、先刻の牽制
技とは桁違いの生命エネルギーが費やされている証拠であった。
動きを止めていた魔物がゆっくりと動き始める。
しかし、芹華の瞳はそれを映さなかった。
光の中で芹華は、両の目を堅く閉ざしていたからだ。
それは、今にも邪剣が振り下ろされるかもしれないという恐怖との戦いだった。感覚を研ぎ
澄まし、視覚以外の感覚のすべてで妖魔の姿を捉える。奴が近づいてくる。奴が来る。まだだ。
まだ間合いが遠い。まだだ――。
(いまだっ!!)
光弾は放たれた――真上へ。
それは頭上の高圧線に直撃した。まばゆい火花がケーブルを切断する。全ての街灯から光が
いっせいに奪われた。
その瞬間、すでに芹華は動いていた。地を這う一陣の風のように。
直前まで閉ざされていた瞳が見開かれ、暗闇の中に朧に浮かぶ影を捉える。
唯一の光源――月が大地に落とす妖魔の影を。
霊剣が、垂直に大地に突き立てられた。アスファルトに覆われたはずの地面を、刃は易々と
突き通した。
妖魔が吼えた。それは明らかに苦痛の叫びだった。
「光と相反する存在でありながら、光が無くては存在できない……か」
呟きながら芹華は、刀を握る手に力を込めた。その大地の傷から、赤黒い液体がどろりと
流れ出す。
「――悲しいもんだな。影ってのは」
答えは、無かった。
ただ、怨嗟に満ちた断末魔の絶叫、それを除いては。
妖魔の体が、塵とも霧ともつかない、仄黒いもやになって消えてゆく。骸を残すことも
無い、それが生命無きものの滅びだ。再び街に光が灯る頃には、完全に消えうせているだろう。
切断された電線も、朝には修復されているはずだ。
それで全てが終わりだ。この一夜の死闘、それを証明するものは何一つ残らない。
(――いや、もう一つだけあったっけな)
芹華は、自らの頬に刻まれた傷口を、親指でなでた。傷口はまだ固まっていなかった。
親指を染めたそれは、ほの暗い月下にあってなお、鮮やかな色をしていた。
少女は、その指を口元に運び、まるで口づけをするかのように、小さく舐めた。
<完>