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初代1 ◆zhFdGsjV7M :
さて、罪というのは、いったいどこで、何のために生まれたものなのか?
現在の日本人が罪として認めているほとんどのものが、法律に依存している。
罪であるかどうかは、法律の有無解釈によって左右されているというものだ。
また、原罪などという言葉もあるが、キリスト教誕生以降に生まれたものだろうというのが
一般的な解釈であるようだ。
紀元前1800年ぐらいには、ハムラビ法典等のかたちで、罪とその罰が記されるようになったが
それ以前の習慣については、権力者等がその場の雰囲気や状況に応じて決めていたと見られる。
では、それ以前は?
そもそも、原罪の未来技術村には
「善」と「悪」といった概念はかなり曖昧でである。
現在の未来技術村はかなりおおらかで、他人の家から物を持ち出しても
当人が困らなければ、それで良いような風習になっている。
そのため、持ち出しでのトラブルが頻繁におきていたのも事実である。
しかし、ここに『泥棒』という概念が持ちこまれこれを一方的な悪とする人達があらわれた。
モラーラ率いる、聖女信仰集団である。
油壺の持ち出しに一番苦しんでいたひとたちである。
ここで、もうひとつ、正義無き力はただの暴力であるが、力無き正義はただの負け犬に過ぎない
とのこともあるように、ただの個人であれば、話しは大きくならなかったのだが
モラーラ達はまとまった数の集団であり、幼稚ながらもモラーラを中心として統率が取れていたのだ。
数は古今東西すべてにおいて有効な力である。
モラーラ達は油壺をかってに持ち出した人間を袋叩きにして、自分達が正しいことをしていて
壺を持ち出したものが悪であることを高らかに主張した。
この瞬間に、それ以降の出来事につながる大きな流れができたといっても過言ではない。
この流れは、現代の我々もこの中にあり、多くの富みと災いを呼んできたものである。
さて、未来技術村の行きつく先はどんなものだろうか?
答えは、現代人の我々にもわかることはないだろう。