人 工 知 能

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314遊び人の玲さん
>>301
人間の精神は、目を閉じて心静かにしていると、
何も言葉を想起しない『無』の状態になるわけだけど、
その『無』からは、あらゆる思考を生み出すことが出来るんだよね。

たとえば、「鉛筆」という言葉を一つ想起すると、それによって『限定』という現象が起こる。

なんでもイメージできる『無』限の可能性が、言葉をイメージしたとたん有限のものになるんだよね。
「鉛筆」に続いて「赤い」という言葉を意識すれば、かなり限定されてくる。
こういった言葉に対して、人間は行動を結び付けようと発想するから、
「添削」とか「採点」といった、常識的に連想できる言葉はどんどん狭まっていく。

人間は外界に存在する対象を記述するとき、示差的特長によって対象を限定するしかない。
そして、その限定の方法が、ライフスタイルということになってくる。
純愛とSMの例が出されているけど、指摘されている連想(思考パターン)の違いは、
ライフスタイルの違いだし、その差には個性も含まれてくることになる。
315遊び人の玲さん:2006/12/29(金) 13:17:18 ID:DXJV8kSh
人間以外の動物だと、意識的思考の自由度が低くて、
連想のパターンがかなり生得的に固定されているから、
動物の思考をシミュレーションするのは比較的楽といえるかな。
そして、じつは、自由意志を持っているようにかんじていても、
人間だって完全にフリーな思考が出来るわけではなくて、
普段意識しないだけで、かなりの制限を受けていることは見逃せないポイント。

たとえば、非常識という言葉が存在するのは、慣習としての連想のパターンが決まっていて、
そこから外れた発想かどうか、絶えず感覚的に判断して、自分の思考を制御しようとしている証拠。
だから、限定の仕方をパターン化する式を組んでいくことで、
ある程度生存のための行動様式や思考パターンを数理的に扱うことが出来るようになる。

つまり、無限に近い感覚要素の集合が、次々とイメージの想起によって限定されていく過程を、
数理的に記述するシステムを組む必要があるんだよね。

保守と革新の間で人間の思考は絶えず揺れ動いていて、
創意工夫といったものは、常識から一歩踏み出すことで可能になるから、とても厄介なんだけどね。
316遊び人の玲さん:2006/12/29(金) 13:17:59 ID:DXJV8kSh
つぎに、重要なのは、生物の脳の中に出現する意識は、
シンボルをイメージするためにあるのではなくて、
本来は随意筋を制御するためにあるのだから、行動の制御を考えるのが大切ということ。

赤ん坊を観察するとよく分かるけど、泣くときは、全身の筋肉を緊張させて泣いている。
ところが、笑うときは、特定の筋肉だけ緊張した状態を作っている。
ここでもやはり、全てが選択可能な状態から、特定のものへと『限定』する動きが生じている。

テニスなどのスポーツを習い始めた人は、全身の筋肉に力が入っていて、体がガッチガチに硬い。
まるで泣いているときの赤ん坊みたいに、緊張すべき筋肉がきちんと『選択』(限定)されていない。
無限の行動の可能性の中から、特定の行動を『選択』することが出来ない状態にある。
『淘汰』されて、必要な筋肉だけを緊張させることが出来るようになる作業が、
行動の生成と学習といえる。

進化によって、生存の様式が発展していくときにも、
自然『淘汰』という『無』からの『選択的限定』が起こっている。

精神が『無』の状態にあるときは、意識が非限定状態にあるわけだけど、
特定の感覚要素で構成されたイメージを想起することで、『限定』=『淘汰』が行われる。

遺伝子情報系が行っている情報処理と、人間の脳が行っている情報処理を対比すると、
何が見えてくるか、イメージしてもらえただろうか。

限定の仕方をパターン化する式を組めるシステムをコンピュータに実装させることで、
生存のための行動様式や思考パターンを数理的に扱うことが出来るマシンが作れる。
もちろん、無限の感覚要素の集合が、特定の思考へと収束していくことになる。