ピクシーを語れ

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336元祖東欧のマラドーナ
(一生忘れられないマラドーナとの電話 )

 アイドルと対戦

マラドーナのアドバイスを受け、その後も華々しい活躍を見せたストイコビッチ
 ストイコビッチが世界の度肝を抜いたのは90年W杯イタリア大会。決勝トーナメント1回戦のスペイン戦。
魔法のような2ゴールは今でも伝説として語り継がれている。しかし、それ以上に忘れられない試合がある。
スペイン戦に続く準々決勝、アルゼンチン戦だ。
 私が有名になったのはスペイン戦だが、アルゼンチン戦のほうが、ずっと質が高くて素晴らしいプレーができた。
何しろアルゼンチンは当時の世界王者。しかもマラドーナというスーパースターがいたからね。

 試合前、初めて間近にマラドーナを観察したんだ。私にとってもアイドルだったから。
彼はシューズのヒモも結ばず、だらだら歩くだけでろくに走らない。ただ練習にきた感じだった。

 このとき、勝てると確信したね。当時、私は「東欧のマラドーナ」と呼ばれることもあった。
だから、どっちが本物のスーパースターか見せてやるつもりだったんだ。

スーパースター
 試合は、前半に退場者を出しながら、華麗なパスを連発するストイコビッチを軸にユーゴが猛攻。
しかしゴールを奪えず0−0のままPK戦で敗れた。

 こういう結末は、サッカーではよくあること。いいプレーができた満足感のほうが大きかった。
試合後、マラドーナが握手を求めにきたんだ。「きょうのプレーを続けていれば、間違いなくスーパースターになれる」と言ってね。
ストイコビッチに大きな影響を与えたアルゼンチンのマラドーナ

 それから1年後、傑作な話をしようか。ベローナ(イタリア)に移籍した時のことさ。
キャンプで同室だったレネカという選手が、ナポリ時代にマラドーナと一緒にプレーしていたんだ。
レネカはマラドーナに電話してね、「今、隣にだれがいると思う? ピクシーだぜ」と自慢するんだ。

 電話を代わると、マラドーナはアドバイスしてくれた。「イタリアはハードだから気をつけろ。
足を狙ってくるから、十分に警戒したほうがいい」とね。ブエノスアイレスにいる、あのマラドーナと話しているなんて夢のようだった。

 私はサッカーを辞めた後も、いろんな人生を経験するだろうけど、あの時の電話は一生、忘れられない。

信じ続けた
 スターの地位を決定づけたかに見えたストイコビッチ。しかし、大会後に移籍したマルセイユ(フランス)で大けが。
どん底の時代を経て日本で復活を果たした。

 移籍して2試合目に左ひざをやられてね。世界のトップになる夢はしぼんでしまった。
その時、マルセイユは提案してきた。私の足には800万ドル(当時約12億円)の保険が掛けられていたから、それを受け取ろうとね。
選手生活を断念すれば、私とチームで400万ドルずつ手にすることができる。

 でも私は断った。クラブ側はクレージーだと思っただろうけど、私は必ずピッチに戻ってくると信じていたんだ。
手術後、ミュンヘンでフリット(オランダ)に会ったら「2年はサッカーを忘れろ」と言われて、大変なショックだった。

 同じ手術を受けた経験者の言葉だけに、気が遠くなりそうだった。でも信じ続けたからこそ、カムバックできたんだ。
だから2回目のW杯(98年フランス大会)も、感激したよ。

 (国内紛争問題で)国際試合ができない時期があった。それでも、もう一度世界の舞台に立ちたいという夢を持ち続けていた。
でも何事も2回目より、初めてのほうがインパクトが強いだろ。だからW杯の思い出といえばイタリアだよ。

 3回目かい? 何度でも出たいけど、私も20年間のプロ生活で、体力的にも精神的にも疲れてきている。
選手を辞めて、しばらく休みたい。1本のワインをプレッシャーなしに飲んでみたいんだ。

今日の中日新聞より転載