【Les Bleus】フランス代表【Part27】

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462008年ドメネク続投の事情 1/3
例によってソースは『レ・ブルー黒書』

・ドメネク以前のフランス代表監督選考の流れ
フランスでは歴史的な事情からアマチュアクラブ出身者が協会の主導権を握っていて、
プロクラブの会長たちの発言力は小さい。

 1984年の欧州制覇後、協会主導でアンリ・ミシェルが代表監督になった。
4年ほど大きな失敗はなかったのだが、1988年10月にキプロス相手にドローという失態を演じて解任され、
ジャーナリストらの圧力によりプラティニが監督となった。
 だがプラティニも1990年W杯予選で敗退し、1992のユーロは予選突破したもののGLで一勝もできず敗退。
「お前らもダメだったじゃないか」で再び決定権が協会に戻り、92年夏にはウリエ
(協会の技術委員会出身。プラティニのアシスタントコーチだった)が監督になった。
 ウリエは1994W杯予選で敗退して辞職するが、同時に協会の会長も交代し、
当面はウリエのアシスタントコーチだったエメ・ジャケが(暫定)監督に就任する。
そのエメ・ジャケはイタリア戦で勝つなどして支持を集めて正式に監督となり、1998年のW杯で世界王者になる。
エメ・ジャケが退任してアシスタントコーチのルメールが引き継ぐのは自然な流れだった。
 ルメールはEuro2000は制覇するが日韓W杯で失敗して辞任する流れになり、
ここで久々にプロクラブの会長たちが発言力を獲得して、前リヨン監督のサンティニが就任する。
(リヨン会長がサンティニの就職を世話した説あり)
だがサンティニもEuro2004で失敗して追われ、再び協会主導の人選となりって
ユース代表で実績を残してきたドメネクが就任した。

要するにフランス代表監督は基本、協会の技術委員会が主導で選び、
その人が失敗した時にプロクラブの会長たちが口出しして選ぶ体制になっている。
そして、ウリエもジャケも協会系の人間。
472008年ドメネク続投の事情 2/3:2013/05/28(火) 19:27:32.96 ID:gwGNDVUX0
・ジャケ&ドメネク VS ウリエ
 Euro1996でフランスはベスト4に進出したが、決勝トーナメントでは2試合ともスコアレスのPK戦で、
その後もデサイー、テュラム、ブラン、デシャンを中心に守りは堅かったが、
攻撃はジダンとジョルカエフ次第という状況に世論は必ずしもジャケを支持していなかった。
 一方当時のフランスには、A代表の足りない部分を埋められそうな若手がたくさんいた。
アトランタオリンピックの代表(監督はドメネク)にはヴィエラ・マケレレ・ピレス・ヴィルトールがいて、
U-20代表(監督はウリエ)にはアンリ・トレセゲ・アネルカらがいた。
そういう状況でウリエは「
次はドメネクが昇格してA代表の監督になって自分の指導した世代をそのまま率いるべきだ」
と発言していた。

 ウリエの意図は明白だった。「ドメネクがA代表へ→空席になったオリンピック代表監督に自分が」として、
ドメネクの次のA代表監督に自分が返り咲くのを狙っていた。
この案は意図が見え見えだったのでジャケはおろかドメネクも拒否し、ジャケ・ドメネク組とウリエは1998年頃に不仲になった。
結局1998年に自分が主張した流れが実現せず、ウリエはフランスの協会を辞めてリヴァプール監督になった。

ウリエは2005年にリヨン監督としてフランスに戻り、ジャケやドメネクとの仲を修復して2007年、
フランス代表のテクニカルディレクターとして協会に復帰した。
482008年ドメネク続投の事情 3/3:2013/05/28(火) 19:29:09.75 ID:gwGNDVUX0
・2008年にあったこと
 ドメネクの契約は2年残っていたが、年俸は税込みで60万ユーロだから違約金も大したことはなかった。
むしろ代わりの監督を連れてくるならその年俸の方が問題だし、そのリスクを取る必要は薄かった。
この時点でのドメネクは「1回成功し、1回失敗した監督」だからそう悪い評価ではなく、
フランス・フットボール誌は解任を主張していたがレキップは一定の評価をしていた。
レキップの世論調査でも、41%が続投を支持していた。
 後任の候補として名前の挙がるのがブランもしくはデシャンで、フランス協会系ではない
(代表監督のアシスタントコーチやアンダー世代の監督・コーチが主な経歴ではない)
というあたりで、協会はドメネク支持だった。一方、プロの会長たちは一部を除いてドメネク解任派だった。
 微妙な情勢の中、プラティニ(UEFA会長である分、影響力は大きい)が
「監督を変えるには準備をした方が良い。ブランやデシャンを就任させるのも解決策だろうが”今は”その時期ではない」
と間接的にドメネク続投を支持したことと、協会内部ではジャケに加えてウリエが続投支持に回ったことでドメネク続投になった。
 プラティニが本当にドメネクを良いと思って支持したのか、
後任が'98優勝世代ということに嫉妬したのかは本人の心の内にしまっていることでしかない。
 ウリエが支持した理由は、当時は仲を修復できていた
(2006年、リヨン監督なのを利用して代表選手のサインをもらいに来てドメネクに追い払われた”事件”があったが、2年かけて修復した)
ことと、協会出身のよしみと、勝ち馬(協会内部の空気的な意味で)に乗ったのが理由。

・ジャケとウリエ
 ジャケは一貫してドメネク支持派だったことと、解説が面白くなかった(らしいよ)のが理由で一線からは引いている。
 ウリエは勝ち馬に乗るのと負け馬から逃げるのが上手いらしく、2010年にはジャケと協会に責任を押しつけて矢面からは逃れた。