ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー4371

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キム・ヒョン回 | 不利な韓日戦, 闘魂で争いなさい
記事送信 2011-08-10 11:39

日帝強点期だった 1937年 '韓国サッカーの大父' キム・ヨンシクはサッカーをしばらくやめた状態だった.
日本早稲田大学選手でしばらく活躍したが朝鮮人に対する抑圧がますますひどくなると懐疑感を感じて
サッカーをあきらめた彼はアメリカ留学を準備していた.
知人の紹介でしばらく新聞社記者に働いた時だった.
グラウンドを歩き回らなければならない当代最高のスターキム・ヨンシクはスポーツだけ専門的に取材する
体育部が別になくて社会部記者に働かなければならなかった.
日帝強点期が生んだ悲しい現実だった.

彼は走る所がなかった. 日本は朝鮮の体育システムを全部破壊した.
27才の年でもうサッカー選手で頂点に上がったキム・ヨンシクはグラウンドに立つことができずに
新聞社机に座っていなければならなかった.
彼は記者生活をしながらアメリカ人宣教師に片手間に英語勉強をしていた.
たとえ社会部所属だったが時間が出る度に競技場を尋ねてサッカー競技を観覧したし一人で球を扱ったりした.
彼においていつも心の中の本業はサッカーだった.
いつでもサッカーのために駆け付ける用意ができていた.

"またサッカーシューズをはくように."
1938年 6月ポソン専門学校で嬉しい消息がキム・ヨンシクに飛んで来た.
戦日本サッカー選手権大会でポソン専門オールスターを招待したのだった.
当時朝鮮のスポーツを抑圧した日本が案外の決断を出すとキム・ヨンシクを含めた
ポソン専門学校出身選手たちは驚くしかなかった. 悩むこともなしに決めた.
"またサッカーをして見ます." そのように昨日の勇士たちがまた集まった.
キム・ヨンシクは何月通わなくて新聞社をやめたまま仲間たちと東京に飛んだ.

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<写真1 : キム・ヨンシク先生は日帝強点期に日本の抑圧でしばらくサッカーシューズを脱ぎもしたしお父さんの神社参拜
拒否で京城で追放されるなど数えきれないほど多い苦難を経験した. (写真=連合ニュース)>