ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー3639

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[ディユオでも] サッカーと言論はファンのために存在する
記事送信 2009-02-25 09:31

食べ物がなんだかまずく感じられる食堂に行って見た経験は誰もが持っている.(このような事がよく起こらないことが幸いだ)
充分に熱くない石焼きビビンバ,脂肪だけ付いた三枚肉,魚の味がまともに染み出ないメウンタンが出ればこのような気持ちは確かになる.

私は食べ物に関する限り専門家ではない.しかし私はどうなことがおいしくてどうなことがまずい食べ物かはよく分かる.
まともに料理された食べ物とそうではない食べ物も区分することができるし,使われた材料たちの質も凡そは気付くことができる.

食べ物に関する意見を言うことは誰もができる仕事だ.最高の板前だけがそういうものを言えるのではない.
食べ物を食べる主体は抜くから.映画も同じだ.私たちは映画をどんなに撮るのか詳らかに分からないが,ある映画が大丈夫な作品かは感じ次第に言える.

サッカーも同じだ.私たちはプロサッカーのような高いレベルで走って見たことがないが,良いサッカーとそうではないサッカーに対して自由な意見を開進することができる.

最近イングランド言論と解説者たちから多くの批判を受けたモブレイ監督はこのような部分に対する不満を噴き出した.

“ 世の中人々は私が誤ったフォーメーションで誤ったサッカーを駆使すると言っている.しかし私の心は変わらないだろうし,私が信じているサッカーにずっと集中するでしょう.
ソファ−に座っている専門家たちの実力がそんなにすぐれたら,彼らが今この席で監督をしていなければならない.”

ウェストブロームは確かに大変なシーズンを送っているし,モブレイ監督も多くの圧迫に苦しんでいる.チームはリーグびりを走っているし降等が有力な状況だ.
普段のモブレイは考えが深くて物静かな性格を持ったリーダーに知られている.
しかしチームがびりを走るのに人々が批判さえやっつければかんのむしがおこるのが当然だ.

しかし言論の批判は世界で一番人気あるリーグで監督に働く人が受け入れなければならない対価だ.
あちこちで圧迫が入って来ることと同時に言論はチームと係わるすべての人々の一挙手一投足を見張る.
>22
言論が加える圧迫をたまらない人ならプレミアリーグの監督はしないほうがましだ.
イギリスで言論はよほど大きな影響力を発揮して,プレミアリーグに一番多いお金を出す主体も結局は言論だ(スカイスポーツが代表的だ)

ウェストブロームは降等されるとしてもこれからの 2年の間数百万パウンドのお金を取りそらえることができるのに,このお金の出処も外でないスカイスポーツだ.
‘プレミアリーグ退職金 ’と呼ぶことができる ‘parachute payments’はウェストブロームには良いディールが間違いない.このお金が入って来る時はモブレイ監督も何の不満がないだろう.

去年ホン・ミョンボは “大韓民国にはサッカー専門家があまりにも多い”と言ったことがある.
サッカー界携わっている人々はこんな方式と思う場合が有り勝ちだ.
‘最高水準で直接走って見ない君逹が何を分かる?’という態度なのに,これは誤った概念でホン・ミョンボもこれに関しては違ったと思う.

韓国サッカーはもっと多いサッカー記者とサッカー専門家たちが出る時発展することができる.
多様な意見で多様な質問を投げることができる人々がいる時,サッカー文化も一段階もっと高くなることができる.
報道人たちの場合は今のように球団,協会,選手たちと親密な関係を結んでは困る.

サッカーと言う(のは)何か?サッカーは結局ファンのために存在するのではないのか?
ファンにサッカーを伝達してくれる言論がなければサッカーは何らの意味を持つことができない.

もちろん監督たちは言論に対する不満を噴き出すことができる.しかしサッカーと言論の関係をまともに理解するリーダーはあまり多くないようだ.
言論は監督のために存在するのではなくファンのために存在するだけだ.
私も一人の報道人として選手,監督たちが私の記事が好きだったら気持ちが大丈夫だが,彼らが私の文が嫌と言っても大きく関係しない.
サッカー界にある人々が全部私の文が好きだったら,むしろ憂わしい気がするようだ.

私に大事な人々は私が文を書くことができるように関心を傾けてくれて原稿料を支給してくれる読者たちと会社らだ.
(この前にはEmpasが主な活動舞台だったがこれからはサイワールドとネイトがその席の代わりをするようだ.
>23
Empasとのお別れが悲しい!) 私が本当に幸せな瞬間は私の文に対するサッカー選手の褒め言葉を聞く時ではなく,
一読者が ‘サッカーに対してあまり関心がなかったがディユオドンシの文を読み上げてサッカーが見たくなりました.’と言う時だ.

言論がいつも正しいというのではないが,とにかく言論は自分たちが見て感じたことを言う権利がある.
そしてサッカーはそういう意見たちを要する.

このコラムはEmpasに出る最後の文になるようだ.3年が過ぎる時間の間読者皆さんたちとサッカーに対して話すことができてとても幸せだった.
Empas読者皆さんの関心の大きい力になったことを明らかにしたい.

ttp://cafe.empas.com/duerden

(初記事を作業した 2006年春が一昨日ようなのに時間がこんなに経ちました.読者皆さんが送ってくださった激励と叱責のメールたちは相変らず手紙するに大切に保管中です.
ディユオドンがこの間から ‘Empasが消えて悲しい’という言葉を続いたが,私も同じ気持ちを感じています.
Empasと共にできる機会をくださったソヒョングウックの前チーム長と常に一緒に働いた神佑式課長にまことに感謝させていただきます
- 条件号賠償)

翻訳: 条件号(スポーツ専門翻訳家)

立派なコラムと素敵な翻訳で苦労してくださったゾーンディユオドンと条件号さんにありがたさを伝えます.
愛読してくださったドックザブンドルにも感謝することを伝えて新しいネイトでまたお目にかかります.
-ニュース編集チーム