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[フットボールリズム] Kリーグソポティング眺める二つの視線
[サッカー専門家博聞性 2008-10-06 11:40]

サッカー場応援文化に対する論争が再現されている.一社会学者は "競技場は現実に対する逸脱と抵抗が自然に受け入れられる必要悪の場所だ."と言ったりした.

"健全な応援文化作ると" vs "ゴンゾンハムの基準が何か"

最近水原と全北前で観衆席から出たチョ・ゼジンの 'アンチコール'が論難をもたらしたのに相次いで仁川とソウル前直後両チームサポータースが衝突する芳しくない事故が発生した.
その間イ・チョンスとアン・ジョンファンなど選手とサポーター,応援団と応援団の衝突した事例が少なくなかったという点で憂慮がつながっている.問題はなにか.

ソポティング文化と係わった論争を察してみよう.

サポータース台サポータース,サポータース台選手の衝突がもたらす度に漏れ無く登場する自省論理の中で一つが '道徳と秩序'の回復だ.
家族が伴って幼い学生たちが捜す競技場での悪口と暴力は止揚しなければならないという認識と同時に批判だ.
このような論理は応援チームに愛情は傾けるが相手チームのやじは慎もうという '健全な' ソポティングの強調に帰結される.

同意できない指摘ではない.しかし純然と首をうなずくにはどうも分からなく寂しい.
‘健全な’ ソポティングの指摘は部分的同意同時に部分的には同意しにくい側面を内包する.

悩みは '道徳と秩序'の論理にだけ応援文化を裁つことイッヌニャだ.

道徳と秩序そしてナンセンス

2002ワールドカップ韓国とアメリカ戦を控えての記憶だ.一刻で '円満な' 韓米関係のためにアメリカを刺激することができる '過激な' 応援を慎もうという声が漏れた.
多くの媒体を通じて紹介されたこのような内容の記事を接した,当時現場で会ったヨーロッパの一記者は "ナンセンスだ."と言い切った.

"競技場は UN総会席ではない.礼儀と格式は他の所でいくらでも計算することができる.応援チームの勝利と相手チームの敗北のために大声を出して地団太を踏むことはファンの選択と同時に権利の問題だ."
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競技場は '自由な空間'ではなければならない.ファン立場(入場)では日常のストレスを払い落とす噴出と脱出の空間が競技場だ.
一社会学者は "競技場は現実に対する逸脱と抵抗が自然に受け入れられる必要悪の場所だ."と言ったりした.
応援の文化を ‘道徳と秩序’のフレームにだけ眺めることは社会と競技場を等値する間違いだ.
スポーツの魅力の中で一つを引き出しの中に隠して置くことのような右だ.

私は願う.私に禁止されたことを

ただ暴力は他の次元の問題だ.
相手を害する暴力や人類の病幤である人種差別など反人権的な行為は 'フリー' の中でも守らなければならない最小限のタブーだ.
暴力と反人権的行為は正当化されることができないという共通分母を持っていたりする.

ソポティングは文化だ.文化は生と同時に日常だ.だから文化は法と制度に強制することができる性質の物ではない.
1990年代ヒット作 '私は願う.私に禁止されたことを'という映画題目のように自由とタブーの危なげな綱渡ることは本質的には応援する当事者たちの認識と選択の問題だ.
判断と選択に対する責任もそっくりそのままサポーターたちの分け前だ.

一例で文を仕上げる.

いつかアイルランドとイングランドの Aマッチでの仕事だ.
殖民支配の痛みがあるアイルランドのイングランドに対する敵対心は深い.
競技場所がアイルランドホームだったわけに応援雰囲気は実に殺伐できわまりなかった.
競技手始めに合わせてイングランド選手たちが入場する瞬間,観衆席で鈍重な物体一つが飛んで入った.
選手一人がたちところに倒れたし競技場は大きくざわめいた.
競技(景気)が終わった後 '犯人'を捕まえて届けたことは外でないアイルランドファンだった.
"イングランドが嫌いだが過去彼ら(イングランド)が私たちを支配した暴力はもっと受け入れることができない"と言うのがアイルランドファンの考えだった.