ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー3506
Jリーグに去った Kリーグ外国人選手
記事入力 2008-07-02 12:45
ttp://imgnews.naver.com/image/227/2008/07/02/185409_PG1_101.jpg FC ドコのカボレ(右側)が 6月 15日ソウルワールドカップ競技場で開かれた FC ソウル前で相手選手にボールを奪われた後惜しがっている.(写真リ・ゾンイル)
日本プロサッカー Jリーグは 1993年出帆する時からブラジルの影響をたくさん受けた.
アジアを越えて世界最高級のリーグに背伸びするためにミッドフィールドを中心にするプレースタイルを重要に思いながらブラジルサッカーを見習うことにした.
それで創始期大部分のチームが外国人選手はもちろん監督までブラジル出身で満たした.
そしてチームごとにスカウトなど多くの分野でブラジルサッカー関係者と契約を結んで粘っこい関係を続いて来た.このために能力のあるブラジル選手たちを容易に迎入することができた.
しかし選手ひとりひとりの能力が全部ではなかった.適応力が問題だった.ブラジル選手たちは不慣れな舞台にたやすく適応することができなかった.
1994 年アメリカワールドカップでブラジルを優勝に導いたベベト(44)は 2000年大きい期待の中へいらっしゃるよアントラーズで移籍したが Jリーグに適応することができなくて 8競技で 1ゴールだけ入れるなど不振を繰り返えしたあげく 4ヶ月ぶりに荷物を安かった.
Jリーグ球団たちは Kリーグで目を向けた.Kリーグに完璧に適応したら同じアジアリーグである Jリーグに適応するのに大きい問題がないことで見たからだ.
また Kリーグで良い成績をおさめたらそれなりに実力も立証されたことだと判断した.
NishinoAkira(53) カンバー大阪監督は外国人選手選抜基準に対して “東アジアサッカー経験があるかどうかが一番目定規だ.Kリーグや Jリーグで活動した選手ならより早くチームに適応することができるから”と言いながら
“ブラジルリーグで直接連れて来るのは成功より失敗確率がもっと高くて忌避している”と説明した.
Kリーグで活躍している外国人選手たちも Jリーグ行を喜んだ.もっと多いお金と名声を得ることができるうえヨーロッパビッグリーグ進出夢に一歩もっと近寄ることができるからだ.
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ヨーロッパリーグ関係者たちは Jリーグをアジアで検証されたリーグで評価している.それで Jリーグで良い成績を出した選手を倦まず弛まず迎入している.
国内一エージェントは “Kリーグで活躍する外国人選手たちの窮極的な目標はヨーロッパビッグリーグ進出だ.
Kリーグで経験を積んだ後 Jリーグを経ってヨーロッパリーグで移籍すると言うのが外国人選手たちの一般的な考え”と伝えた.そのように 15人の外国人選手が Kリーグを去って Jリーグの門をたたいた.
ヨーロッパビッグリーグ進出
Kリーグ出身外国人選手が Jリーグで移籍した一番目事例は 1997年成り立った.Jリーグが出帆してから 4年が経った後だった.
初テープを切った選手は Kリーグ最高の外国人選手の中一人に評価されるラデーボグダノ−ビチ(38)だ.
ラデーは 1996年シーズンを終えた後ヨーロッパビッグリーグ進出の夢をつかむために Kリーグを去った.27歳のラデーは全盛期を享受していた.
Kリーグ通算 147競技に出場して 55ゴール36アシストをおさめたラデーは 1996年 13ゴール16アシストで Kリーグ史上初めで ‘10(ゴール)−10(助け)’ クラブに加入する絶頂の技倆を威張った.
ラデーが最初に行こうとしていた所はアヤクスアムステルダム(オランダ)だった.しかしジェフユナイテッド市原と結んだ靴契約問題でアヤクス行が無産された.
ジェフユナイテッドは Jリーグ中,下位圏のチームだった.ラデーが合流した 1997年ジェフユナイテッドの成績は最悪だった.
その年前期リーグで 5勝11敗で 17個チームの中 15位に止めた.チームは不振だったがラデーは輝いた.16競技に出場して 8ゴールを入れて前期リーグ得点共同 8位に上がった.
チーム得点(28ゴール)の 29%を責任負った.コップデフェであるナビスコカップでは競技当たり平均 1ゴールが超える恐ろしい得点力(6競技 8ゴール)を誇った.
利敵初年度に Jリーグに早く適応してリーグ最高水準のゴールゲッターで立ち上がったラデーを眺める視線が変わった.
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1997年から 2シーズンの間セレッソ大阪で走ったコ・ジョンウン(42) 城南幼少年チームコーチは “日本選手たちは自分より実力がすぐれた外国人選手を本気と認めて高く評価する.
ラデーがそうだった.ラデーは Kリーグに劣らず Jリーグでもすぐれた活躍を広げて良い待遇を受けた”と言った.
ヨーロッパリーグのスカウトたちはゴール感覚がすぐれたラデーを関心あるように見守ったしその年夏利敵市場が開かれるとアトルレティコマドリード(スペイン)がラデーを迎入した.
Jリーググラウンドを歩き回ってから 7ヶ月ぶりに成した成果だった.ラデーはクリスティの中ヴィエリ(35,イタリア)とヨルデ−ラルディン(35,スペイン)の後を差す ‘ジョーカー’で走りながら 6ゴールを入れるなど水準級の活躍を広げた.
ラデーは以後 NAC ブレだ(オランダ),ベルドブレーメン(ドイツ),ア、ムルマニアビルレペルト(ドイツ) などを経ってヨーロッパリーグで長い間活躍した.
ラデー以後 Jリーグからヨーロッパビッグリーグで進出した Kリーグ出身外国人選手は 8年後に出た.
2004年仁川ユナイテッドからUrawaレッズで移したアルパイウェザルと言う(のは)(35)は 1年後 FC ケルン(ドイツ)で移籍した.しかしラデーのように Jリーグで良い成績を土台で移籍した場合ではない.
2000年から 2003年までイングランドプレミアリーグで活躍したアルパイは入団してから仲間たちを無視するなど摩擦をもたらしたし Kリーグデビュー戦で相手チーム攻撃手エドミルソン(40)の十字靭帯を切るなど物議をかもす 8競技ぶりに Jリーグに去った.
アルパイは Jリーグでも 13競技を走るのに止めた.すぐれた能力を持ったが韓国のように同僚選手たちを見下すうえ荒いプレーをして日本サッカー関係者たちのにらまれた.
ウラとは期待に達することができなかったアルパイを放出した.アルパイは “日本審判たちが私にだけ厳格なファウル基準を適用した”と責めた.
しかし Jリーグのある関係者は “Jリーグでも審判判定がそしりのことばを聞くが外国人選手に特別に厳格な基準を置かない.国内選手や外国人選手やまったく同じな基準で判定を下す”と駁した.
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愛憎のマグノ−
Kリーグ出身選手のヨーロッパビッグリーグ行はラデーとアルパイ以後切られた.すぐれた活躍を広げた選手がいなかったのではない.パベルバデア(41)とマグノ−アルベス(32)は Jリーグでも満足な成績をあげた.
水原三星の創立メンバーであるバデアは 1998年から 2001年まで 3年 6ヶ月の間 Jリーグで活動した.
ベルマーレヒラツカ,Kashiwa Reysol,Avispa Fukuokaを経って Kリーグ出身外国人選手の中一番多い Jリーグチームで走った.
Jリーグ関係者たちの評価も良かった.最前方に送る鋭いパスに高い点数を与えた.しかし 30代に入った年がヨーロッパビッグリーグ行を成すのに障害物になった.
マグノ−はラデー以後 Jリーグで一番成功した Kリーグ出身外国人選手だ.一番長い間 Jリーグで活動したしすぐれた技倆を土台で特急外国人選手で数えられた.
Jリーグ球団たちは 2003年 Kリーグで 27ゴールを入れるなど驚くべきな得点力を威張ったマグノ−を注視した.全北現代はマグノ−をつかまえようと思った.
しかしマグノ−は “Kリーグはとても荒い.到底競技することができない.二度と走りたくない舞台”と言いながら Jリーグ大分トリニタに去った.
当時には監督だったし現在は大分球団選手育成総括部長で働いているファン・ボガン(41)はマグノ−の迎入背景に対して “ゴール決定力がすぐれた.荒い Kリーグで成功したら Jリーグでも成功することで判断した”と明らかにした.
2003年 J1リーグに初めて上がった大分は弱いチームだった.2003年 16個チームの中 14位に辛うじて J2リーグ降等を兔れた.
そんな中マグノ−は皇甫部長の期待どおり Jリーグでゴール暴風を起こした.大分所属で 2年間 62競技を走って 29ゴールを入れた.
Jリーグ上位圏チームがマグノ−の迎入競争に出たし 2005年 Jリーグ優勝チームであるカンバー大阪がマグノ−を連れて来るのに成功した.
カンバー大阪で移籍したマグノ−は成功街道を引き続いた.利敵初年度である 2006年 31競技で 26ゴール(競技当たり平均 0.84得点)を入れて Jリーグ得点王に上がった.
Kリーグ出身外国人選手の一番目得点王だった.カンバー大阪はマグノ−の活躍に負って去年ナビスコカップ優勝と 2006年天皇盃準優勝を成した.ところで仕上げが良くなかった.
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去年ひんぱんな負傷で苦戦したマグノ−はカンバー大阪と契約期間が終わらなかったのにチーム訓練に不参したままサウジアラビアに飛んで卵イティハドと秘密契約を結んだ.日本情緒で見る時受け入れにくい行動だった.
カンバー大阪は直ちにマグノ−と契約を解約した.一サッカー関係者は “マグノ−に対する Jリーグの視線は冷やかだ.実力は最高かも知れないが人格的には最悪というのだ”と伝えた.
カンバー大阪はマグノ−に対する沈澱物が相変らず残っている.Nishino監督は “マグノ−はカンバー大阪で多くのゴールを入れてチーム成績に大きく貢献した.しかし仕上げをまともにできなかった.信頼が大きかった位背信感も大きい”と不快な感情を現わした.
疼いて辛い失敗
ラデーとマグノ−は Kリーグと Jリーグで皆強い印象を残した.ところがラデーやマグノ−がしたことのような成功を成した選手は多くない.大部分の外国人選手は Jリーグで Kリーグよりできなかった成績を出した.
1997年釜山大宇のシーズン 3冠王を導いたマニチラデ−ボイェ(36)は翌年セレッソ大阪で 1年賃貸された.
釜山で一緒に走ったハ・ソッチュ(40)が属していて適応するのに難しくなかった.早い突破と正確なシューテングの引き立ったマニチは Jリーグで 6ゴールを入れるなどそれなりに活躍を広げた.しかし 1年後マニチは未練なしに Kリーグで復帰した.
1999 年 Kリーグ得点王(18ゴール)であるシャシャドラキュルリチ(36)は翌年移籍料 150万ドル(約 15億ウォン)にKashiwa Reysolで移した.しかし新しい家に引越荷物もまともに解くことができなかったまま 5ケ月ぶりに Kリーグに帰って来た.
シャシャが Jリーグに残した成績は 2競技出場が全部.2003年マグノ−と得点王競争をしたドド(34)は 2005年 Jリーグ大分で移籍したが 6ヶ月ぶりにブラジルリーグゴイアスに去った.
Kリーグで水準級技倆を広げてすぐれた外国人選手で名前を揚げた選手たちが Jリーグでぞくぞく苦杯を飲むわけは何だろう.
去年 Jリーグで活動した仁川ユナイテッドのラドンチチ(25)は “Jリーグに適応するのにすごく大変だった.戦術,サッカースターであるなど多いことが Kリーグと違った”と言った.
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ttp://imgnews.naver.com/image/227/2008/07/02/185409_PG1_105.jpg カボレは Jリーグでヨーロッパビッグリーグ進出の夢を育てている.(写真リ・ゾンイル)
ラドンチチは去年夏反フォーレ故の後に賃貸されたが入れ替え 7競技を含んで 9競技に出場して 1ゴールしか入れることができなかった.出場時間は 275分に過ぎなかった.
皇甫部長は “Kリーグでは外国人選手が戦術の中心だが Jリーグではそうではない.外国人選手自らチーム・プレーに合わせなければならない.こんな環境に早く適応すると生き残ることができる”と
“ラドンチチとドドが代表的に失敗した場合だ.ドドはゴール決定力がすぐれたが Jリーグの競技(景気)スタイルに迎えなかった.それで自らチームを去った”と説明した.
日本サッカーに精通したある関係者は “Jリーグチームは外国人選手を特別待偶しない.選手よりチームが優先だというのだ.成功するためには外国人選手自ら早くチームに席を取らなければならない”と言った.
監督の影響も大きい.ハ・ソッチュ慶南 FC コーチは “Kリーグ出身外国人選手が Jリーグで光を見られないのは監督の位相のためでもある.Jリーグ監督の権限は Kリーグよりよほど多い”と “マニチとシャシャが失敗したのは監督と不便な関係のため”と仄めかした.
マニチは 17競技に出場した.少ない出場回数だ.当時 Jリーグは外国人選手をチーム当り 5人まで保有することができたし競技(景気)には最大 3人だけ走ることができた.
セレッソ大阪は 1998年マニチ外にハ・ソッチュ,ファン・ソンホン(40),ピンタも,ペリクレスなどで外国人選手保有限度を皆満たした.
外国人選手どうし競争が熾烈だった.ブラジル出身のレビルクルピ(55) 監督はコンディションが良い選手主として出場機会を与えながらもファン・ソンホン,ピンタも,ペリクレスを中庸した.マニチは監督に不満を噴き出したし以後出場機会はもっと減った.
下してするのは “監督がブラジル選手たちを好んだ.マニチの技倆が落ちるのではなかった.しかし多血質的な性格のため退場される場合がかなりあった.チームとしては得して糸がもっと多かった”と当時状況を伝えた.
シャシャもマニチのように監督に憎まれていた.シャシャは 2000年シーズンの前転地訓練をして右側足指にけがをした.
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一歩遅れてチームに合流したが今度は不真面目な訓練姿勢と自由奔放な私生活が問題だった.選手管理に厳格なNishino監督としては気に入るあごがなかった.
シャシャは 38分の短い出場機会でNishino監督の目に入るに値するプレーができなかった.
結局 2000年 5月ファン・ソンホンとトレードで水原三星に帰って来た.シャシャは以後 Kリーグで 124競技を走りながら 47ゴール,21アシストを噴き出した.2001年から 2003年まで城南一和の 3年連続 Kリーグ優勝を導いた.
しかしNishino監督の頭の中にシャシャは相変らず最悪の外国人選手だ.Nishino監督は “Kリーグ得点王出身だから大きい期待をして迎入した.ところでとても失望な選手だった.活躍が些細だった.訓練でも 100% 実力を発揮しないなどプレーに誠意がなかった”と
“シャシャは 10点満点の 6点の選手だった”と冷情に評価した.
第2のラデーを夢みる
FC 東京は去年シーズンが終わった後カンバー大阪で移籍したルーカスセベリヌ(29)の空席を補うために移籍料 300万ドル(約 30億ウォン)に 2007年シーズン Kリーグ得点王カボレ(28)を迎入した.
2000年シドニーオリンピックブラジル代表選手であるルーカスは 2004年から去年まで東京で走りながら 48ゴール(競技当たり平均 0.4得点)を噴き出したゴールゲッターだ.
去年 Kリーグ 31競技に出て 18ゴール(競技当たり平均 0.58得点)を入れたカボレは理想的な一体選手だった.
カボレは 6月 20日現在 Jリーグ 13競技に出場して 4ゴールを記録した.去年 Kリーグ前半期の得点ペース(18競技 10ゴール)に比べてちょっとおくれる.
ところが東京は急ではない.東京は 6月 20日現在 7勝2分け4敗(勝ち点 23)で 3位に上がっている.1位Urawaレッズ(勝ち点 26)とは勝ち点 3点差だ.東京は最近 4年間 7位中にも入ることができなかった.
東京の上昇勢にカボレが一分け前をしている.兆候区Hiroshi(47) 東京監督はカボレに対して “去るシーズン Kリーグのように多くのゴールを入れることはできなかった.しかしチーム貢献度は最高だ.得点力はすぐ生き返えることと思う”と満足した.
Kリーグ関係者たちは 6月 15日ソウルワールドカップ競技場で開いた FC ソウル−東京前を見守った後 “プレーに余裕が付け出すなどカボレの実力がもっと増えたようだ”と口をそろえて言った.
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カボレはこの日競技でHirayamaソタ(23)と最前方攻撃手に出場して後半 15分アカミの申告(25)と入れ替えされるまで印象的な競技を開いた.
随時に左側と右側側面を入りこんで得点機会を作ったしミッドフィルダーエメルソン(28)と組織的なパスを取り交わして東京の攻撃を導いた.
前半 40分にはペナルティーキックを誘導した後キッカーに出てきれいにゴールを成功した.カボレの手早い動きに異種民(25),チェ・オングォン(27) などソウル選手たちは苦戦した.
ソウルゴールキーパーギムホズン(24)のファインプレーがなかったら多くのゴールが出る所だった.
カボレに対する Jリーグ関係者たちの評価も悪くない.
一サッカー関係者は “カボレに対する日本現地の評価がかなり高い方だ.多くの Kリーグ出身外国人選手が Jリーグで不振だったがカボレは成功する可能性が高いことで見ている.
私のコンディションだけ倦まず弛まず維持したら Jリーグで充分に統轄攻撃手というのが日本サッカー関係者たちの一般的な考え”と伝えた.
カボレはもっと大きい成功を夢見ている.彼が眺めていることはヨーロッパビッグリーグだ.28歳のカボレは 27歳のラデーが歩いた道に付きたがる.
カボレは “幼いごろからヨーロッパビッグリーグで活躍したい夢を育てた.競技ごとに最善をつくしたら機会は必ず今年の”と言いながらヨーロッパビッグリーグ進出に対する意志をもう一度整えた.
SPORTS2.0 第 109号(発行である 6月 23日) 記事
イ・サンチォル記者