ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー3470
[尹晶煥のプップットク] 3.崔龍洙,私の生涯最高のパートナー(1)
2008年05月09日(金)15時24分 スポタルコリア
[スポタルコリア=専門家コラム]針行くのに糸行くという話のように 尹晶煥 ウル話す時,必ず陥らない人が
一つある。 韓国が産んだ不世出のストライカー 崔龍洙 。韓国最高のコンビ プレーを広げたという
尹晶煥と崔龍洙はサッカーファンらを常にときめくようにした。 今回は尹晶煥が崔龍洙との話を解きほぐす。
私尹晶煥を話す時,必ず抜けないことが崔龍洙だ。 用水型は私より一歳が多いが互いに非常によく合った。
私がパスをいれれば前で確かに終えて。 それで人々が最高のコンビと呼んだかもしれない。
用水型を初めて分かったことは私が東亜大3学年だった時であった。 用水型は延世(ヨンセ)大4学年で
あったしその当時初めて競技をした。競技は私たちの学校が2-0で勝った。 (ところで大会優勝は予選を
あごコルで突破した延世大がした。 アイロニーだ。) その時初めて会ったし,用水型が釜山出身だと見ると
私たちの学校選手たちとも交流が多かった。それで私もしばしば会ったし常に良いこととおもしろいことが
あった。 ところが必ず用水型と良いことだけあったことではない。
オリンピック代表チームの所属でフランスで開かれたツーロン サッカー大会に参加した時であった。
出たプロに今しがた入団した状態であり用水型はプロで1年を送った。 それで私に助言をたくさんして
くれた。それと共に'プロではお金もたくさん儲けて良い','オリンピック代表チームでの訓練は成り行きで
してもかまわない'こういう話もした。私は全く分からないからそのまま従ったし ビショベッツ監督 あなたと
面談する時,ぶよぶよすることもした。
当然成績が良いわけはずがない。 競技はほとんどみな0-1で負けたしチームの雰囲気はめちゃくちゃに
なった。大会を終えた後,私と用水型,そして金台植このように三だけK-リーグのために帰国したし他の
選手たちはアフリカ側に訓練を離れた。帰国前日にも監督様と面談をする時戦って出てきていた。
その時'ここで出来なければ他の所で上手にすれば良い'と考えながら,顔を赤らめて出てきていた。
ところで大食いと対話して知ることになったものだが用水型は監督様と面談をする時'がんばる'でした
ということだ。 私には傾いているように出て行くようにして監督様とも戦うようにしながら本人は正反対の
行動をしたのを見るととても腹が立って頭にきた。
その時韓国にくるのに13〜14時間かかった。 テシクをの中で置いて私と用水型が両側に座ったのに
その時間がとても長くて侮辱だった。用水型とは話もしなかったし韓国に来る間大食餌とだけ話していた。
私の性格が被害をこうむれば話をよくしないタイプだった。それで私に簡単に近づく人がなかった。
そうだと見ると用水型とも冷戦状態が長かった。
その後用水型が自分の誤りを分かったのか私によくしたよ。 一度は酒の席で用水型が'申し訳ない'で
話すこともした。 それで私は'みな忘れた'と話しながら和解した記憶もある。
その時そのことが誤ったとすれば恐らく監督様が日再びオリンピック代表チームに選ばれなかっただろう。
それだけ大変だったので用水型にたくさん腹が立っていたようだ。
尹晶煥(Jリーグ射干トス テクニカル アドバイザー)