ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー3396

このエントリーをはてなブックマークに追加
アン・ジョンファンの無限挑戦...日本 Jリーグ-8年ぶりに実家復帰まで
[スポーツ朝鮮 2008.01.20 21:55:01]

10年前(1998年) 釜山(当時釜山大宇)でプロにデビューしたアン・ジョンファンの手始めはチァングデした.

デビュー初日ブロンズシュを引っつかんだ彼は翌年 MVP(最優秀選手)上まで引っつかんで K-リーグあっと
いう間に K-リーグを平定した.ハンサムな外貌まで兼備して当時釜山グドク運動場に 2万観衆突風を起こす
原動力になった.

このような成功を土台で 2000年韓国最初のセリエA リーガーになりながら海外舞台挑戦に入って行く.歓喜と
逆境もこの時から本格的に点綴された.

ヒディンク監督の残酷な調練あげく 2002年韓-日ワールドカップから看板攻撃手に走った彼は '4神降ろし化'
の一等功臣になった.イタリアとの 16強戦で残したゴールデンゴールは世界サッカー史に永遠に残る記録な
がらも苦難でもあった.

当時所属チームペルージャが不敬罪を適用してアン・ジョンファンを放出させてしまったこと.以後アン・ジョン
ファンは坡州 NFCで個人訓練をして鬱憤をのんだし,9月になってからこそ J-リーグShimizuに新しく巣を作る
ことができた.

Shimizu(2002〜2003年)から横浜(2003〜2005年)につながった 2年 8ヶ月間の日本生活はアン・ジョンファン
に黄金期だった.総 70競技に出場しておおよそ 29ゴールを入れて故国ファンを楽しくしたし,日本に 'アンサマ'
シンドロームを起こしたりした.

しかし歓喜も少しの間.ドイツワールドカップを 1年控えて 2005年 7月 FCメスで移籍,ヨーロッパ舞台に再入城
したが 6ヶ月ぶりに再びデュースブルクで移した.ドイツワールドカップ後にはまた苦難が近づいた.海外利敵に
失敗,2006年 9月 1日付けでデュースブルク球団から自由公示された後 6ヶ月間無敵状態で残っていなけれ
ばならなかった.
>>806
そして長考あげく水原に入団,7年ぶりに K-リーグに復帰したが出場機会をまともに得ることができなかった
まま手酷い復帰初日を送らなければならなかった.

こんなに不名誉に消えることができないと思った.それでアン・ジョンファンは '骨を問う'と言う覚悟で実家チー
ム釜山を選択,名誉回復を意気ごんでいる.

挑戦の連続であるアン・ジョンファンのサッカー人生は釜山で終りではなく新しい手始めであることだ.

< 催晩食記者 scblog.chosun.com/cms690>