「彼は孤独すぎる」
そう言われた時の、怺え難い気持ちが忘れられない。
たしかに、ここへ来てほどなく恋人は去っていった。
墓場に片足をつっこんだ人々とベンチでくすぶり続け、ついにはレ・ブルー行きの列車にも乗りはぐった。
友人も無い。出場機会も無い。今の僕には何も無い。
これを孤独と言うのだろうか?
"ヌーメロ・ベンティドゥーエ!リッキー・カカー!"
今日もサンシーロに、今世界で最も愛されているアイドルの名前がこだまする。
カメラは彼の姿だけを写し続ける。まるでピッチの上に、彼しか存在しないかのように。
ヨアン・グルキュフは逸材だ、いずれブレイクするだろう、そう、あのカカのように──
そんなふうに言われていた日々が、随分遠い昔の事のように感じる。
思い返せば、僕の若さとカカによく似たルックスだけを褒め讃えていた新聞紙。
名前が載らなくなってから、どのくらい経っただろう。
「リッキー…カカ……」
もはや彼からポジションを奪うなど夢物語だ。
クラブの至宝となったトレクアルティスタの名前をつぶやいて、シャワーの蛇口を思いきりひねる。
吹き出した冷水が容赦なく顔面を殴打した。
全身の血が冷え、体中の感覚が消滅してゆく。
水霧に隠れて、まるで自分の存在が消えていくようだ、このミラネッロから──
「ヨアン?」
突然の呼びかけに、僕はギョッと目を見開いた。
誰にも顔を合わせたくないから、こんな遅い時間にシャワーを浴びに来ていたのに。
「ああ、やっぱりヨアンだ」
パシャパシャとシャワールームの水を弾かせながら笑顔で歩いてきたのは、見間違えるはずもなく、
今まさに僕の意識の全てを支配していた、あの男。
「リ、リッキー……やあ」
ぎこちない作り笑顔と硬い声で挨拶する。上手に目を逸らしながら。
「ヨアンもトレーニング?ご苦労様」
天使の微笑みだ。寸分の狂いもなく描き上げられた絵画から抜き出したかのような、完璧に整った笑顔。
意志の強さを感じさせる精悍な眉、かすかな少年性をたたえた大きな黒い瞳、見る者に幸福を分け与える口元…。
笑顔。
このたったひとつさえ、自分は彼に敵わないような気がした。
鏡を見なくてもわかる、引き攣った笑顔の僕。
「どうして……」
冷たい水に打ちのめされながら、気付いた時には唇が動いていた。
「どうして、そんなふうに…、そんなふうに、笑えるんだ?」
「え?」
氷のように冷え切った掌で、僕はこの腹立だしい天使を思いきり突き飛ばした。
「うわあっ!?」
予期していなかった行動にカカは完全に体のバランスを崩し、水に濡れた床に足を滑らせ勢いよく転倒した。
「痛っ!」
タイルの床に臀部を強打し、大股開きで転がる裸のカカ。天使の不様な姿を見て、
僕は自分が今日初めて生々しい笑みを浮かべているのがわかった。
「ヨ、ヨアン…?」
開いた足を閉じるのも忘れ、ぽかんとしたカカは僕の気を確かめるように名前を呼ぶ。
その無防備な少年のような姿に、僕は自分には無い──これを何と呼べばいいのだろう──何か汚れの無いものを感じ、
腹の底からムラムラと煮え上がってくる汚情を、ついに我慢できなくなった。
「どうして、どうしてそんなふうに笑えるんだ!俺だってトレクアルティスタなんだ!おまえとポジションを争ってるんだぞ!」
夜のシャワールームいっぱいに、自分の醜い怒声がこだまする。
サンシーロいっぱいに声援をこだまさせるアイドルの前で、僕は鬼の形相で仁王立ちになった。
「…ヨアン……。…ごめん…」
優美な眉を曇らせ、カカはぽつりとつぶやいた。
その表情には心の底からの謝罪と憂い、そして、微かな同情が浮かんでいた。
しかしまた微笑みながら、諭すように続ける。
「でも、ヨアン、ヨアンはまだ、若いんだから…」
若いんだから──カカがよく好んで使う言葉だ。
だが、もはやその言葉を素直に受け入れる心の余裕は無かった。
「若さ以外、俺には何も無いっていうのか!!?」
"君はまだ、若いんだから"
若いんだからと言われるたびに、おまえには若さしかない、そう言われているような気がした。
卑屈になっているのはわかっている。
でも、若さ以外、おまえは自分に敵わない。そんな天使の傲慢な同情を感じるこの言葉に、僕の何かが爆発した。
もう、止められなかった。
「ヨアン、違う、僕はそんなつもりじゃ…っ」
「じゃあどういうつもりなんだっ!!!」
僕は叫びながらカカの腰に跨がると、長めに伸ばした前髪を掴み顔をこちらに向けさせる。
「あっ!痛いっ!」
髪をひっぱられる痛みにカカがうめいた。
「ヨ、ヨアン、ヨアン…、やめるんだ、ヨアン…」
苦痛で歯をくいしばりながらも、なんとか激昂した年下の後輩をなだめようとする冷静なカカ。
世界中の人々から愛される均一の取れた美しい顔が作る苦悶の表情を見ていると、
ふと、このよく出来た男をめちゃくちゃにしてみたいという不埒な欲望が頭をもたげた。
「ミラネッロの中で何が起きようと、絶対に外には漏れない…そうだろ?リッキー」
「え…?」
「俺がこのクラブに来て良かったと思うのは、それだけだっ!」
凄みをきかせて怒鳴りながら、僕はアイドルの右頬をあまり痛くないように殴りつけた。
「ぐっ!!」
衝撃に顔を歪めるカカ。何発も繰り返せばアザになるだろう。
アディダスとミランの広報部が発狂しそうだと、胸の浅い部分から笑いが込み上げてきた。
自分はいつからこんな性格になったのか。それとも、元からこんな性格だったのか。見つめ返す余裕もない。
「離せ!ヨアン!!」
さすがにカカも身の危険を感じたのか、全身で激しく抵抗し逃れようとする。
「黙れ!おとなしく…しろっ!!!」
股の下で暴れるカカの体を押さえつけるため、僕も力まかせにのしかかる。
そして足を押さえようと右手を後ろにやった時、何か"硬いもの"に触れた。
「!」
ハッとしたカカが一瞬動きを止める。
瞬間、僕の頭の中には「勝利」の二文字が浮かんだ。
「リッキー、これ…ふふっ」
僕はそのカカの"硬いもの"を腰の後ろでギュッと握ると、指と手の平を使い上下に擦ってみた。
「あっ!こら、ヨアン!」
案の定、あわてふためいたカカはオロオロしながら頬を紅潮させた。
やはり、結婚まで童貞を守り抜いた部分は敏感らしい。
この方面に関しては、フランス人の自分の方が一枚も二枚も上手だ。
「リッキーどうかした?様子が変だけど…?」
わざと意地の悪い笑みを作りながら、右手を上下にスライドさせ、左手で前髪を弄んでみる。
のしかかられながら下腹部へ与えられる予想外の刺激に、カカは耳までほてらせ混乱してゆく。
「あっ…、ヨアン、やめ、やめろっ…、あっ」
妻との貞節な営みしか持った事がないカカは、こんな時どうしたらいいのかわからない。
カトリックの教えを忠実に厳守してきた「神の子」にとって、
夜のシャワールームで男に下腹部をまさぐられるなど決してあってはならない経験なのだ。
「こ、こら、ヨアンっ、本当にやめないと、神様から、…あっ、か、神様から、天罰が下るぞ、あっ」
カカは本気で諭そうとしている。"I BELONG TO JESUS"さすが神の子は言う事が違う。
だから僕は言ってやった。流暢なフランス語で、天使の耳たぶを軽く噛みながら囁く。
「"Dieu est mort"さ、リッキー」
「え?」
パリのノートルダム教会から突き落とされて死んだ汚れた神父を思いながら、僕は右手の動きに神経を集中させた。
「あ、あっ、…はっ」
カカが喉の奥から熱い吐息が漏れる。かすかに隠媚さの混じったあえぎ声とともに。
白い肌と同じように色素の薄い小さめで楕円の乳輪、うぶ毛しか生えていないツルツルの脇。
その全てを舌先でちろちろと丁寧に弄ぶたびに、無垢なカカの躯が天の雷に打たれたようにビクッとふるえた。
「あっ、あっ、ヨアン…罰あたり、この、罰あたり…っ」
左右の頬と耳たぶをぱっと紅色に染め、汗で前髪を額にぺっとりと張り付かせながら、
カカは快感の波に鼻先をヒクヒクと痙攣させた。
黒く大きな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、泣き顔で神にこの羞恥を恥じている。
天使が堕天使に堕ちる瞬間は、こんなにも美しいものか──。
冷え切ったはずの僕の指先は、いつのまにか熱くじっとりと熱をおびていた。
無我夢中でカカの躯を弄ぶ。まるで、孤独をまぎらわすかのように。
11月のミラネッロ。
冷水の音が止まったシャワールームには、いつまでも堕天使達のあえぎ声がこだましていた。