ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー3214
<アジアンカップ07 プレビュー>(9) ライバル戦の思い出
ニューシース | 記事入力 2007-07-03 09:09
http://imgnews.naver.com/image/003/2007/07/03/NISI20061114_0001234402_web.jpg 崩れる日本
【ソウル=ニューシース】
サッカーはよく戦争に比喩される.
或者は戦争でごっちゃになった 20世紀が末尾に至りながら砲撃の回数が減ったこともサッカーの '功徳'が大きいと言う.
すなわち,伝統的に怏宿関係にある国家または相反した理念を持った国家間の政治的対立を過去には銃刀で,現代にはサッカーというスポーツが解消してくれるというのだ.
もちろん最近戦争の減ったことは武器が徐徐に高度化しながらひとりひとりが銃刀を持って争う回数が減ったからで,21世紀に入ってテロリズムが頭をあげて戦争の機運はまた乱れて慌しく漂っている実情だ.
しかしサッカーが爆発直前まで行く極端的な状況で人々に 'カタルシス'をプレゼントするということは確かに違ったものではない.
戦争で敗れたことがあるとか長年の期間の殖民支配,経済的な劣等感などありったけ '骨身にしみる' 経験のある国々は相手国家とのサッカー競技から勝利すれば来た国土がドルソックゴリル位に喜びながら歓呼する.
代表的な例でイングランドとアルゼンチン,韓国と日本,アメリカとメキシコ位を指折ることができるろう.
アジアサッカー連盟(AFC) アジアンカップでも '宿命のライバル'私はは何回あった.
特に民族と宗教,理念の葛藤が最近までもつながって来たアジア地域はアジアンカップというまた他の戦地で '血弾く' 血戦をして来た.
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▲80年韓国 対 北朝鮮…'涙の' ライバル戦
去る 80年 9月 28日クウェート.第7回アジアンカップ 4強戦が開かれたこちらに妙な緊張感が漂った.
戦乱を支払ってからやっと 30年度まだならない韓国と北朝鮮選手たちがグラウンドで見合わせてあるからクウェート観衆たちまで緊張された表情で競技手始めを知らせる主審のホイッスルを見守っていた.
競技が始まると選手たちは鬼に魅入るとかしたように熾烈な死闘をした.
たぶん羊お吸物のリーダーと国民は選手たちに '勝つことができなければソンハン身で祖国地を踏むことができなかろう'は暗黙的な圧力をかけたようだ.
結果は韓国の 2-1 勝利.韓国はチョン・ヘソン(現済州ユナイテッド監督)の 2ゴールに北朝鮮に手に負えない勝利をおさめた.
北朝鮮選手たちはグラウンドにそのまま倒れた.しかしこれらを起こしてくれる利刀,激励の拍手を打ってくれる利刀なかった.
今は北朝鮮と一本勝負をした後間違いなくお互いを抱き締めて '統一になれば会おう'と祈るが,当時にこのような姿はあることもできないのだった.
理念の対立が極まった 80年代に韓国と北朝鮮がスポーツ祭殿で会えば,選手たちは武器だけ持たないgだけ軍事とも同じ存在だった.
韓国サッカーのライバルならよく日本を思い浮かぶが,当時日本は '宿命的に' 勝たなければならない相手だったら北朝鮮は '死を辞さなくて' 勝たなければならない相手だった.
韓国と北朝鮮の 80年クウェートアジアンカップ 4強戦は韓半島の悲しい歴史がそっくりそのまま盛られた '涙の' ライバル戦だった.
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▲96年であるという 対 イラク…'美しい' ライバル戦
80年イラン-イラク戦争を経験した両国は 96年UAE(UAE)大会で久しぶりにサッカーにもう一度激突した.
イランとイラクは並んで B組に編成,12月 5日ドバイで開かれた 1次戦で取り組んだ.
しかし当時競技(景気)は戦争を経験した怏宿どうし争いと言うよりは,アラブ共同体文化でヨックである兄弟が汗しずくを取り交わしながらした一本勝負だったという方に近かった.
当時イラクは 1980年イラン-イラク戦争以後 91年湾岸戦争まで経験しながら全国土が焦土化されていた.
だからイラクは 1980年からアジアンカップ本選にオルシンもできなかったし,96年に来てからこそ本選に上がるようになった.
イランは当時アリダエとコダダドアジだなど最強の全力で大会優勝を狙っていた.
イランが当時大会 8強戦で韓国に 6-2 大勝をおさめたことだけ見ても彼らの全力がいくら強かったのか分かる書き入れ時だ.
しかしイランはイラクとの競技で前半 37分ナッジと後半 25分カルリドサバルに 2ゴールを奪われた後競技終了直前アリダエイがやっとペナルティーゴールで入れて 1-2 敗北に喫した.
当時国内一新聞が 'イランがイラク国民に希望をプレゼントした'と報道してイランが多少 '見てくれた'と言うニュアンスを漂ったが,結果的にイラクはイランより 1ゴールをもっと入れて正正当当と勝利した.
もちろんイランは以後サウジアラビアとの 4強戦でPK戦で敗れる前まですべての競技で 3ゴール以上追いこむゴール嵐を起こして勝利を引き続いて 'イラクだけ見てくれた'と言う疑惑(?)は消すことができなくなった.
結果はどうしたといってもイランとイラクの B組予選 1次戦はスポーツの精神が込められている '美しい' ライバル戦だった.
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▲04年日本 対 中国…'恐怖の' ライバル戦
04年 7月 4日北京で開かれた日本と中国の決勝戦は競技(景気)内容より当時両国情勢が生んだ張り切ている緊張感がグラウンドにそっくりそのまま反映された 'ライバル戦'と言える.
当時日本の総理だった小泉純一郎は靖国神社参拜で周辺国たちの非難を浴びていた.
特に中国は和製国株の時代 30万南京市民たちが日本軍によって虐殺された歴史的な問題で日本と不便な関係を維持して来た.
このような状況で日本と 04年アジアンカップ決勝戦で会った中国選手と観衆たちは戦場に上がった戦死たちとも同じだった.
中国は 4強でイランと 1-1 引き分けをおさめた後PK戦で 4-3で負かす波瀾を起こして 20年ぶりに決勝に上がったし,彼らは他のどの大会より優勝可能性が高いと壮語した.
しかし中国は全般でタカシFukunishi(日本,22分)と里ミング(中国,31分)が 1ゴールずつ取り交わして張り切ている均衡を成してから,後半に入って日本のNakadaHidetoshi(20分)とTamadaケージ(インゾリ 1分)に 2ゴールを許容して 1-3で崩れた.
中国人たちの怒りは極まった.競技場は中国人たちのやじで授賞式案内放送が聞こえないほどだったし日本である観衆たちは長年の時間の間競技場を抜けることができなかった.
日本である観衆を向けて水差しとあらゆるごみが飛んで入ったし,私服公安が競技場を統制するのに至った.
競技場外はヨーロッパビッグリーグのフーリガンたちはゾリがラするほどの暖冬が起ったし,中国公安 6000人が投入されてから事態はやっと本当いい.
日本と中国の 04年大会決勝戦は過去日本のファシズムが現在中国の外れた愛国心で後先になってグラウンドを暴力でごっちゃになるようにたいてい '恐怖の' ライバル展だった.
金哲やせがまん者
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