ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー2628
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http://www.kfa.or.kr/news/notice_content.asp?id=81&block=&gotopage=1 題目 : [チョン・モンジュンコラム] 2002ワールドカップ誘致と成功的な開催意味
オルリンが : KFA 登録日 : 2005-12-22 午前 10:33:58
http://download.kfa.or.kr/051222jung01.jpg 成功的なワールドカップ開催後ヒディンク監督とカーパレードをするチョン・モンジュン会長
月刊朝鮮は 2006年 1月号特集 ‘去る 10年間韓国の 20台(大) 成就’で 2002年ワールドカップを 20まかなって
ください業績の中一つで選定して, 2002年ワールドカップ大会の主役であるチョン・モンジュン会長の文を載せた.
月刊朝鮮は去る 10年間我が国が成した主要業績で, 2002年ワールドカップ開催を始じめ, IMF 克服, OECD 加入,
年間輸出 1千億ドル突破, 現代自動車 1千万台輸出などを選定した.
鄭会長の文専門を載せる.
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2002ワールドカップ誘致と成功的な開催意味
この間外国人々に “韓国, と言えば思い出すのが何ですか?”と問ったら一般人たちは ‘朝鮮戦争と北核’, 専門家
たちは ‘ワールドカップとオリンピック’と返事したと言う. 韓国が高度成長をした時期に開かれた 1988年のソウル
オリンピックは世界に韓国を知らせる良い機会だった. その後 “韓国”すればたいていソウルオリンピックを思い
浮かぶと言ったが今は 2002ワールドカップだと答えている.
一歩遅れて跳びこんだ誘致戦
私が大韓サッカー協会長に就任した 1993年 1月だけしても 2002ワールドカップがアジアで開かれるはずだという
事実が分かってある人は協会関係者三四人に過ぎなかった. 私も会長就任以後協会の業務把握をしている途中
分かるようになった.
これに反して日本は 1988年からワールドカップが経済に及ぶ波及効果などを調査し始めたし, 1990年にはワール
ドカップ準備団を構成してイタリアワールドカップ準備状況を現地学習した. 私が会長で就任した 1993年 1月,
日本は 15個の開催都市まで発表して 2002ワールドカップは当然日本から開かれるので国際社会で既定事実化
しようと思った.
国際サッカー連盟(FIFA) 会長を 24年間過ごしたアベランゼー会長も日本開催を公開的に積極助けてある状況で
一歩遅れて誘致戦に跳びこむことはだれが見ても無謀な仕事だったが ‘アジアサッカーの宗主国’を自慢して
来た韓国としては人類最大のサッカー宴であるワールドカップが日本で開かれるのをじっと置くことだけして見よう
とするとまことに息苦しいことだった.
1993年 10月カタール渡河で韓国が日本を弾き出して劇的にアメリカワールドカップ本選チケットを取った後本格
的な誘致戦を始めた.
1994年 5月アジアを代表する FIFA 副会長に当選したことはワールドカップ誘致活動に決定的な助けになった.
この時出て競合をした人物は日本の村田外にクウェートのシェークアマドとカタールのハムマムだった.
クウェートのシェークアマドは現在クウェート石油性長官であり, 石油輸出国(OPEC)議長を引き受けている. 彼は
クウェート IOC委員でアジアオリンピック評議会(OCA) 議長を引き受けていてアジア体育界の最高位人士と言える.
現在アシアツックグヒョブメング(AFC) 会長であるカタールのハムだけはカタール国王の側近として国家次元の
支援をもらっていた.
アベランゼー会長は韓国の誘致活動が始まると 1995年 5月に開催地を早期決めようと思ったが私はその年 7月,
アベルラングゼー会長と南米エクアドルの面談を通じてこれを無産させた.
http://download.kfa.or.kr/051222jung02.jpg ワールドカップ共同開催が確定される瞬間
‘共同開催論’の顛末
FIFA 執行委員として誘致戦を活発にしている時負担になったことは一部政治家たちが無責任に濫発する ‘共同
開催論’だった.
事実, 共同開催論は日本が先に取り出した.
1994年末, 当時韓昇洲外交部長官と日本河野洋平外相が東京で会って晩餐をする席で河野外相が初めて両国
共同開催論を申し立てた. 韓日両国の誘致競争が激烈になれば結局両国国民皆に傷つけることができるという
純粋な意味が盛られた提案だった.
ところでやや過ぎて日本の態度は急変した. ある日日本のYamashitaShintaro在韓大使が急に旧評会誘致委員会
委員長を尋ねて来て ‘共同開催をしないと言うのが日本の立場(入場)’という内容の英語文件を読んでくれてから
は “これが日本の動くことができない(unswerving) 公式的な立場です”と言ってからは書類を残さないで行って
しまった.
こんなに見れば, 日本側が申し立ててから撤回した共同開催論は韓国の世論と立地を大きく振って置いた. 誘致
競争で韓国が劣勢と判断した一部人士は私たちの方で共同開催を推進しようという主将を無責任に広げ始めた.
‘チョン・モンジュン会長が熱心に走り回るが率直に何切符や確保したのか疑わしいからアメリカなど友邦の力を
借りても日本を説得して共同開催で出ると国恥さらしを避けることができる’と言う主将だった.
1996年 4月に国会議員総選挙があったがその直前に早期決定で韓国が敗れる場合与党が選挙で大きい被害を
着るものという憂慮の声も流れ出た.
あちこちで悲観論が溢れ出て人の口に戸は立てられないに精製されない意見を濫発することは私たちが弱気で
あることのように映られて結局にはワールドカップ誘致にあまり役に立つことができなかった.
私は単独開催でも共同開催でも日本を圧倒する支持勢力を確保することが急先務と思った. 単独開催が最善で
共同開催が次善だが確かな支持勢力を確保しなくては何も期待することができない事だった. 支持勢力をたくさん
作って韓国で 2002年ワールドカップを開催するという事実が総論で残りは皆各論に過ぎないのだった.
1996年 3月マレーシアでニュージーランドに向ける時イ・スソン国務総理から ‘共同開催をこれ以上反対するな’
は連絡を受けた. 私は困り果てた. 誰もワールドカップ誘致に関心がない時からワールドカップ誘致のために東奔
西走した私がいつのまにか ‘共同開催反対論者’になっていたのだ. アベルラングゼー会長がはじめから日本の
方を持っているというのに彼が心を態度を変えて共同開催を受け入れたら私としては喜ぶ事がだ反対する理由が
全然なかった.
もう一度はその頃新韓国党の高位幹部が事前にどんな協議もなしに日本に行って共同開催を提案したりした.
当時政府では海外公官から誘致競争に関する報告を受けていたが見込みが否定的だった, それでその人士は
韓国の単独誘致が難しいと判断して自分が出れば日本政界を易しく説得することができるだろうと言う考えで
共同開催を提案したが日本の反応は冷淡だった. 国内でもどうして共同開催をもの乞い下ヌかであり非難と反対
世論が降りそそいだ. その熱気に滞って共同開催論の公開的提案はこっそりと影をひそめた.
誘致競争が追いこみに至りながら FIFA 執行委員の中には開催地決定以後の後遺症を憂慮する人士が多かった.
彼らを中心に自然に共同開催論がまた出始めた.
こんな変化の雰囲気を証明でもするように 1996年 3月, マレーシア国王出身でアジアサッカー連盟(AFC) 会長で
あるサルタンアマドシャが正式で共同開催を提案したがアベルラングゼー会長は FIFA 規定に違背されると言い
ながら自分の名義で共同開催不可方針を再闡明した.
1996年 6月1日に予定された開催地決定投票日をわずか一ヶ月控えて国内では悲観論がおこった. 私たちが
不利だという根拠ないうわさが出回った. 日本は自分たちが 13:8で優勢だと自信感を見せた. それで日本は
ヨーロッパサッカー連盟(UEFA) が申し入れた共同開催案を一蹴して単独開催を固執した.
人心を隅隅まで分かることは難しいが私を含んだ 21人の執行委員考えは彼らと一緒に長年の時間を過ごした
私がよく分かっていた. 切符対決に行ったらむしろ韓国が 13:8で優勢だと私は判断した.
一ヶ月間メキシコとヨーロッパを訪問して帰って来て金浦空港で “はっきりと日本を支持する切符は三四票に
経たないで残り執行委員たちは皆韓国に好意を持っている”と説明したが国内の悲観的な雰囲気は大きく変わ
らなかった.
決戦の瞬間が近付きながら状況は予測することができなかった方向で急反転された.
反転の震源地は FIFA 改革の核心勢力であるヨーロッパサッカー連盟(UEFA)だった. UEFAは 5月初, ‘韓国と
日本は 2002年ワールドカップを共同で開催するのが望ましい“増えた決議案を採択したが, 共同開催はいつの
まにか FIFAが変わらなければならないという改革論の象徴のように目立ち始めたのだ.
露骨的に日本の単独開催を後援して来たアベルラングゼー会長の権威に対立して共同開催は改革勢力を代弁
する核心主将で級水勢に乗り始めた.
一部 FIFAの執行委員は共同開催の主将に賛成するのが私たちの弱気で照らされることができると言ったが
大部分の委員たちは日本より柔軟な韓国の態度を自信感の表現で評価した.
FIFAの改革を望む執行委員たちは共同開催案が貫徹されない場合韓国の方で票をまとめて一度にあたえる
ことに約束した.
UEFAが共同開催を正式に発意すると日本は大きく動搖した.
5月30日, 危機を感じたブレタ FIFA 事務総長はスイスチューリヒへ来ていた日本誘致団のMiyazawa前首相に
連絡して共同開催案を収容するように慫慂した. 日本は大勢がもう傾いたことを悟った. 彼らは共同開催案を
受諾するしかなかった. アベルラングゼー会長と日本の態度変化は実に劇的な 180度局面転換だった.
新しい事態に対して韓国もひとときためらった. 私も単独開催を願う国民の輿望をよく分かっていた. しかし当時
の共同開催案は FIFAの改革とかみ合った議題だった. 私たちの欲心だけ強調してはすべてのものを失うことも
できた.
何より最初の希望どおり 2002年ワールドカップを韓国で開催することができるようになったという事実が重要
だった. 初めて誘致戦を始める時だけしても不可能に見えた夢がこれから現実で現われたのだ.
難しくて大変な過程を経って 1996年 5月31日共同開催で決まった時世界言論たちは “韓国の勝利, 日本の
敗北”と報道した.
すべての分野で日本を圧倒
2002ワールドカップが開かれた後ワールドカップ競技テレビ視聴延べ人員は 420億人という報告があった.
全世界人口 60億人の中テレビ視聴の可能な人口は 40億人で推算しているのでかなりの人々は一ヶ月始終
ワールドカップと一緒に生活したのだ.
2002ワールドカップは私たちの経済-文化全般に大きな影響を及ぼした.
経済面において, 大会関連直接投資は競技場建設と周辺道路建設など総 2兆4千億が出費されて 19万名の
雇用創出と 3兆7千余億ウォンの付加価置創出效果をもたらした. 韓国開発院(KDI)は生産誘発效果 11兆5千
億ウォン, 付加価置創出效果 5兆3千億ウォンなど総 20兆ウォンの経済效果があったと発表した.
2002ワールドカップによる韓国企業の対外的な企業イメージ上昇效果と国家ブランド広報效果は約 29兆院で
推算している.
月ストリートジャーナルが “韓国はワールドカップをきっかけで IT強国の位相を全世界に知らせるのに成功
した”と評価した.
ニューズウイークは “2002ワールドカップの真正なチャンピオンは韓国”と言ったし, ドイツズィトドイチェチァ
イトングは ”ワールドカップを開催しながら韓国は国際社会におびただしい広報效果をおさめた. これにより
経済成長見込みが明るくなるなど今度大会最大の収益国になった“と報道した.
今私たち経済の重要部分を占めとある IT 分野は 2002ワールドカップをきっかけで発展の跳び板を確保した
ものと言う.
http://download.kfa.or.kr/051222jung03.jpg 韓国とスペインの 2002 ワールドカッププレー中の姿 c。KFA 洪席菌
サンアムワールドカップ競技場建設
ソウルサンアムワールドカップ競技場建設も困難が多かった.
1996年にワールドカップ誘致を一直後我が国は IMF 事態にあった. このようなところに私たちがワールドカップ
を開催することイッゲッヌニャであり 2002ワールドカップを日本に皆与えようということも出たし, 実際にどの中央
日刊紙の幹部はコラムを通じてワールドカップを日本に与えてしまうのどうして私たちが負担を持つとした.
ソウルにサッカー場を新たに作るかないのかは意見がお互いにぶつかったこともあった.
キム・ジョンピル総理と関係長官たちが参加した総理室会議で仁川競技場を建て増しして使おうという政府側
提案があったが技術的に建て増しが不可能でソウルとの距離も問題点に指摘された. また入口がくねくねして
そんな道に世界的な主要人士を仕えることができないと言って仁川競技場建て増しはなかった事になった.
蚕室オリンピック競技場を修理-建て増しして使う方案も挙論されたがこれも技術的な問題に採択されなかった.
当時キム・デジュン大統領は政権をちょうど引き受けた直後なのですごく忙しい時だったが大統領執務室で
面談時間を持つことができた. その頃青瓦台秘書室は IMF 事態が朝鮮戦争以後最大の国難と言いながら
ソウルワールドカップ競技場の建設には関心もなかったし, 大部分反対する雰囲気だった.
金大統領は私に会うと “ソウルに競技場は建てることにしないg, 鄭会長が理解してくれてほしい”と言ってすぐ
立ち上がろうと思った.
私は持って行った資料を取り出して見せてくれて IMF 事態で国内経済が貧しい時であればあるほど我が国は
2002年ワールドカップみたいな国家的大事を蹉跌なしに準備しているという国際的イメージを作って行くのが
国際社会, 特にヨーロッパとアジア大陸で国家信用度を高めることある方法だと説明をした.
競技場を建てれば大きい工事になるから IMFで生じた失業者救済にも役に立つと説明するから金大統領が
耳を傾け始めたし, 金大統領は工事の規模について具体的な質問をしたりした.
IMF 事態当時救済金融を韓国に竝び時ヨーロッパの多くの国々は救済金融で失業者を助けることを反対した.
韓国が不渡り事態にあったが失業率を見ればヨーロッパが韓国より高かった. 失業率の高い国がお金を出して
失業率が低い国の失業者を救済することは理にかなっていないというのがヨーロッパ側の主張だった.
金大統領の面談時間は予定時間をずっと越して 1時間 30分や進行されたし, 結局付く金大統領から “競技
場を建てないという決定は保留する”と言う返事を受け出した.
2002ワールドカップは文化全般にも肯定的な影響を及ぼした.
フランスの社会評論家キーソロマンは 2002ワールドカップが開かれる前に “韓国はイメージがない国だ.
国際社会で韓国のイメージがあったら安っぽい品物を売り込んで住む国というのだけ”なら酷評をした.
彼はワールドカップ後 “2002ワールドカップは韓国が私の魂を失わないのに先進世界への進入を推進する
ことができるという潜在性を確認させてくれるきっかけになった”と肯定的なものを言った.
http://download.kfa.or.kr/051222jung04.jpg ソウル視聴広場に集まった路頭応援人波たち c。KFA 洪席菌
路頭応援, 韓国の躍動性現わして
全国民が参加した路頭応援は世界すべての人々に韓国人の躍動性を刻印させてくれるきっかけになった.
全国で全国民の 47%に達する延べ人員 2千 2百万名が距離(通り)で溢れ出たし, ソウルの場合ソウル市民の
88%である延べ人員 1千万名が応援に参加した.
路頭応援に対して最近 “もろともに広場に集まって自分の感情と欲求を表現したワールドカップ応援は以後
多様な社会的代案に対して集団的に意見を表出しようとする欲望を強化してその実践方式を提示した”と言う
評価が出た.
サッカー先進国水準のサッカーインフラ構築
2002ワールドカップを通じるサッカーインフラ向上も注目するに値する.
我が国は 1954年スイスワールドカップ以後 1998年フランスワールドカップの時まで本選舞台で 14戦 4分け
10敗を記録した. 2002ワールドカップから準決勝まで 4勝1分けを記録してアジア圏最初で 4強に進出した
ことは韓国サッカー史の光栄で残るでしょう.
2002ワールドカップを通じて全国に 6個のサッカー専用競技場を確保したことはこれからサッカー発展の
基盤を用意したのだ.
2002ワールドカップ剰余金 650億ウォンと地方自治体の出演金 2千170億ウォンなど総 2千820億ウォンで
2007年中盤まで全国に 3個のサッカーセンターと 14個のサッカーパークが建設される. ここには 17個の
フットサル競技場を含んで皆 78個の天然及び芝サッカー場が立ち入る.
2002ワールドカップ以後全国で 315個の芝サッカー場が建設されたとか施工の中にある.
これらサッカー場が完工されればインフラ面ではサッカー先進国と肩を並べるようになる.
サッカー場は文化の広場役目もする.
ヨーロッパの場合サッカー場は球だけ蹴る所ではなく市民たちのフォーラム役目をする. 競技(景気) 1時間の
前に政界, 経済界, 文化界など各界の人士が競技場に出て食事をするとか対話を交わす.
一都市の主要人士大部分が一席に集まって共同の関心事項を持って一緒に時間を過ごすというの自体の
大きい意味があるとする.
経済-文化など総合評価成り立つと
2002ワールドカップ以後日本は ‘Going global’に行ったのに比べて韓国は ‘Going national’に行ったような
感じだ.
西洋諺に “自分のことだけ思う人は悲観主義者になって(pessimist), 他人の事も思う人は楽観主義者
(optimist)になる”と言う言葉がある. 他人達は外に出るのに私たちは過度に私たちの過去のみをのぞき見て
あるのではないのかよく見なければならないでしょう.
まったく同じな行事を同時に支払ってから韓国と日本両国政府と国民がどの方向に行ったのか, そうして国家
運命がどんな方向によれたのか, ワールドカップが終わってから 3年になったのでこんな問題を総合的に
検討して見ることも私たちの社会の未来のための事がではないか?