ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー2240

このエントリーをはてなブックマークに追加
[ジョイーニュース24 2005-02-25 09:02:00]

2003年7月17日午後8時(韓国時間).
レアをソシエダド球団プレスルームでは史上初韓国人プリメラリゴの契約式が起った.
http://imgnews.naver.com/image/111/2005/02/25/140913_01.jpg

当時イチョンシュと共に同じな飛行機でスペイン住んだセバスティアンに到着した
這おうという現地の熱い反応に驚かざるを得なかった.スペイン記者たちの取材競争と
イチョンシュを見ると競技場に寄り集まった山セバスティアン400人余りの市民たちも
2002年韓日ワールドカップ当時イチョンシュの写真を手に持って彼を熱裂に歓迎した.

9月1日イチョンシュのデビュー戦だったエスパニョル前を見るためにバルセロナを
また捜した.イチョンシュはこの日競技でゴールと違いないアシストをコバチェビチ
に提供した.当時だけしてもイチョンシュのゴールは今でも出ることだけ同じだった.

セルタ備考との次の競技でイチョンシュはホームファンたちに初めてお目見得したし,
この日も3回決定的なゴ?ルチァンスをつかみ出して印象的なプレーをお目見えした.
‘マルカ’, ‘アス’など現地言論たちは連日イチョンシュをトップで立てて関心を見せた.

イチョンシュは以後イタリアの名門ユベントス,ガーラ(GALA)他社ライ(トルコ),拜彼我
コース(ギリシア)などとのチャンピオンズリーグ32強リーグ戦6競技の中で5競を消化した.
http://imgnews.naver.com/image/111/2005/02/25/140913_03.jpg
858 :05/02/25 21:30:53 ID:Cq+uu8eb0
日独伊の同盟国と、米英の連合国が争った第2次世界大戦のときは、オーストラリアは宗主国イギリスとともに、連合国側で参戦している。つまり、日本は敵国であった。
フィリピンで日本軍にやられた米軍のマッカーサーが、「アイ・シャル・リターン」と言い残して、退却し反撃に備えていたのが、オーストラリアのブリスベンである。
当時、日本軍がシンガポールを攻撃し、山下司令官が「イエス・オア・ノー」とイギリス軍に降伏をせまった戦いや、ガダルカナルをめぐる、米軍との戦いなどに、オーストラリア軍が参加している。
日本軍の捕虜になったオーストラリア兵は、虐待を受けたり、重労働をさせられたりしたらしい。「戦場に架ける橋」という映画の舞台となった、クワイ川鉄橋建設には、多くのオーストラリア人捕虜が働かされたと言われている。
また、オーストラリア本土も、1942年、日本軍の攻撃を受けている。
北部のダーウィンや、ブルームは空爆で壊滅的状態。シドニー湾には、日本の秘密兵器、特殊潜行艇が侵入した。
ニューキャッスル(シドニーの北)には外洋から砲撃。
第2次世界大戦では、オーストラリアにとっての敵国は、ドイツでもイタリアでもなく、「日本」だったのである。
従って、そのころ従軍していた人たちやその家族の中には、いまだに日本軍に対する怒りを持っている人もいる。あの戦争で3万人の死者が出たのだから。
なお、ニュー・サウス・ウェールズ州のカウラという町(シドニーの西320キロ)には、かつて日本人捕虜の収容所があった。ここで1944年、日本人捕虜の大脱走事件が起こる。日本兵200人以上が死亡。
現在のカウラには、その時亡くなった日本人の墓地が造られており、日豪の交流のしるしとして、日本庭園や文化センターも建設された
>>857

しかし11月26日拜彼我コースとのチャンピオンズリーグ遠征競技でけがをした以後
イチョンシュは14競技連続欠場した.最初番目試練だった.この時から彼は心が急に
なり始めた.早くゴ?ルソシックを国内に伝えなければならないという負担になることが
先に進んだ.

去年2月22日歳費野戦でせっかくグラウンドに姿を照らしたイチョンシュは四日後
ホームで開いたフランスリヨンとのチャンピオンズリーグ16強戦に出場した.韓国選手
では初めて踏み出したチャンピオンズリーグ16強だった.

イチョンシュに再び不運が迫って来たことはアテネオリンピック代表に差出された時
だった.イランテヘランアザデ?スタジアムで開いたイランとの アテネオリンピックアジア
最終予選でイチョンシュは競技(景気)の前左足目が挫きながら大きくけがをした.

しかし負傷を隠して出場を強行したイチョンシュは結局決勝ゴールを噴き出して1-0
勝利を導く.当時競技(景気)後スタジアムで会ってみたイチョンシュは自分の下着ゴ?ル
ドイップルが内容になぜ‘3’とゾックオッは上げる知らせてくれて負傷に対する心配
よりは自分がゴールを入れてチームが勝利したことに凄く血わき肉おどっていた.

この時負傷はイチョンシュに致命的だった.以後彼は5月10日バヤドルリドゾンと17日
マラガ前にしばらく出場したのが精一杯だった.マラガ前から1助けを記録してシーズン
を仕上げることはしたが最初‘イチョンシュ效果’を期待したレアをソシエダドとしては
期待に達する事が出来なかった彼を大乗的な次元からヌマンシアで賃貸させた.
イチョンシュとしては主戦席を占めることができた機会だった.
http://imgnews.naver.com/image/111/2005/02/25/140913_04.jpg
860 :05/02/25 21:31:43 ID:Cq+uu8eb0
オーストラリアは太平洋戦争で日本と戦いました。
日本の攻撃により、オーストラリアはアメリカとの関係強化の必要性を痛感し、実行したそうです。もしあのとき日本がオーストラリアを空爆しなければ、オーストラリアはアメリカと一緒にテロ戦争に参加しなかっただろうに、などというのは想像の飛躍でしょうか。

日本は北部のダーウィンをはじめ、シドニーすら攻撃していました。
当時のオージーはかなりパニック状態に陥ったようで、オーストラリア大陸のど真ん中に旭日旗が突き刺さっている風刺漫画が
新聞に載ったという事実は、日本による占領に対する危機感の一つの現れでしょう。

ただ、太平洋戦争開戦当時、日本はオーストラリアまで手を伸ばそうとは考えていなかったようです。東南アジア戦線におけるシンガポール占領により、オーストラリアにも行ってみるか、という感じになったものと推測します。
シンガポールから、飛行機は途中給油なくオーストラリアまで往復できたのです。
初めての爆撃が1942年だったそうですが、その翌年には、もはや日本の爆撃はありえないと当時の豪首相は確信していたようですが、国内引き締めのため、「日本の脅威」を戦時中は宣伝していたということです。
>>857>>859

ヌマンシアユニホームを着て今年シーズン二番目出場だった9月20日ヘタペゾンと27日
アルバセテゾンでイチョンシュはスペインクラスメディア‘アス’が選定した競技(景気)
MVPに選定されるなど可能性を回復した.

しかしヌマンシアでイチョンシュは‘酷いゴールポストジンクス’と引続いた‘負傷悪夢’
に再び泣かなければならなかった.

何回ゴール機会でイチョンシュのシュートはしきりにゴールポストとクロスバにあって
脂で音を出し出た.ずっとゴールポストを当てるとイチョンシュは自分がドマッアチァドン
フリーキックも仲間に譲歩するほどに自信感を失った.

また右側と左側膝を交賛にけがをしたし最近には靭帯負傷に欠場回数が増えるしか
なかった.イチョンシュは結局“まだ若くて機会が多い.一応国内で復帰して心機一転した後
来年ワールドカップ以後ヨーロッパ進出を再挑戦しよう”と心を固めてKリーグUターンを
決心するのに至った.
http://imgnews.naver.com/image/111/2005/02/25/140913_05.jpg

/ツェワンチァング記者[email protected]
ITは子供ニュース24,芸能スポーツはジョイーニュース24
(Copyright cジョイーニュース24.無断転載及び再配布禁止)