松井大輔(ル・マン/MF)
アテネ五輪世代で最初に海外挑戦を果たしたのが、
現在フランス2部のル・マンでプレーする松井大輔だ。
ユース時代までは国際舞台を踏むチャンスさえ得られなかった彼は、
02年5月のU-21トゥーロン国際トーナメントで「ベストエレガントプレーヤー賞」に輝いた事を契機ステップアップ。
五輪代表、A代表を経験し、04年9月に海外リーグの門を叩いた。
言葉の問題などはあるが類まれなテクニックが認められ、瞬く間にレギュラーを獲得。
今年に入ってからは、5試合出場2得点2アシスト(2月4日現在)という目覚しい結果を残している。
チームもナンシー、トロワに次ぐ3位。1部復帰も現実味をてきた。
今、まさに絶好調の松井。彼に会うため、フランス北西部の町ル・マンを訪ねた。
パリからTGVで1時間。24時間耐久レースで世界的に有名な町ル・マンに到着する。
市庁舎、教会など主要な場所なら歩いて回れるくらい小さな町で、松井は異国のサッカー環境に挑んでいる。
渡仏した9月から現在までは、模索と発見の連続だったという。
―ル・マン入りの経過と、この5ヶ月間の流れを改めて話してもらえますか?
「アテネ五輪のビデオをル・マンの前監督だったジャンデブーが見て、
欲しいと思ってくれたらしいんです。トルシエ(現マルセイユ監督)の話も聞いたとか。
自分としてはプロ3年目くらいから本格的に海外へ出たいと思っていた。」
―ル・マンに来た当初の印象は?
「去年の9月10日すぎに来たんですけど、練習場にあるプレハブのクラブハウスを見て”あれっ?”て(苦笑)。
グラウンドの数は多いけど、施設面は京都のほうが良かったですから。最初の試合は2週間後の27日。
ジャンデブーは選手の能力に合わせてポジションを決めるタイプの監督だったけど、
僕は[4-4-2]の左サイドで使われた。フランスの場合、一部は技術があってボールをつなぐサッカーだけど、
2部はフィジカルや当たりがものすごい。中央へ行くとかなり人が密集している。最初はボールを持とうとしたけど、
足首の捻挫も癖になったくらい相当に削られた(笑)。だから真中ではシンプルにさばいて、
外ではテクニックを出そうと思ってプレーするようになりましたね。この違いに慣れてきたのが5試合目くらいかな。」
―でも去年12月4日のユニオール戦後に監督が交代しました。
「そう。成績不振の責任をとって。正直、『えーっ、マジかよ。また1からかよ』って思いました。
後任のフレデリックは4部で監督をやっていた人というけど、どんな人かわからなかったし。
だけど『好きにやってくれ』と言われて、これなら大丈夫だと。
まぁ、彼はかなり細かくて日本人っぽいけど(笑)」
ジャンデブー前監督は松井のことを「10番の血を引く絶滅種」と評し、現代サッカーでは数少ないファンタジスタを
高く評価していた。フレデリック現監督も「ダイは普通の選手と違う。技術と動きの素早さは飛びぬけている」と
評価し[4-1-4-1]の左サイドに据えている。日本ではトップ下やFWでプレーしてきた彼だが、
今はプレッシャー少ない外の役割を新鮮に感じているという。
日本人である彼が、監督からいち早く信頼を得られたのは、コミュニケーション意識の高さによる部分が大きい。
フランス語は完璧に操れないものの、チームメートと交流しようという姿勢は人一倍強い。
03年に京都でオランダ人監督のピム(現ボルシアMGヘッドコーチ)と正面から向き合った経験も生きているようだ。
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C:05/02/11 21:06:56 ID:307zZhrc0
―言葉の面で不安はありませんでしたか?
「なかったですね。僕は慣れれば何とかなるって考える方。中学3年のフランス留学、
高校時代のブラジル留学が役に立ってますね。中3のときはパリ・サンジェルマンで
練習させてもらったんだけど、一人でパリの地下鉄に乗って毎日通ってた。
そんなことはなかなか出来ないじゃないですか。親に感謝したいです。
フランス語のレッスンは週何回かやってますけど、まだ監督の指示までは理解できない。
そういう時はベテランのペイルラーデが英語で教えてくれたりします。
まぁ選手同士って意外と分かり合えるものなんですよ。細かいことを話す必要があるときは、
パリにいる通訳さんに頼んできてもらっていますね」
―チームメートとはプライベートでも交流があるんですか?
「もうしょっちゅう(笑)。アルジェリア人FWブタブなんかとは飯を食ったり、自宅行き来しあったり。
皆凄いお喋りで賑やか。言葉なんか関係ないですね。ついこの間はウチで散らし寿司を振舞いました。
嫁さん(晶子夫人)が作ったんだけど、俺は混ぜる担当。その具合が絶妙でしたよ(笑)。」