ようやく、しおらしくなってきた韓国サッカー2086

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KFA公式サイト http://www.kfa.or.kr/news/news_interview_content.asp?idx=294&content_id=263&block=&gotopage=1
ルイスフラビオ、“サッカー王国から来たフィジカルトレーニング伝道師”@

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ブラジル出身の世界的フィジカルトレーナーフラビオ c。スポーツインタラクティブ

最近私たちプロサッカー界の大きい傾向の中で一つはブラジルサッカーの大大的な流入だ。ブラジル
国内の経済不況とかみ合って以前よりもっと少ない費用で高い水準のブラジル選手たちを迎入できる
ようになったし、Kリーグの各球団は競争的に優秀選手たちをチームに合流させている。

これは仮に選手資源にだけ限った話ではない。乾かない泉水のように湧き出るそのサッカー人才たちを
育てた優秀なリーダーたちも徐徐に Kリーグに入城しているからだ。

まだ冬の冷たい風が手酷かった去る 2月、一白髪のブラジル人が地球正反対便で出発した飛行機に
乗って韓国に到着した。彼の名前はルイスフラビオ(55歳).ブラジル有数の名門クラブとサウジアラビア
及び日本国家代表チーム、そしてポルトガルシュペルリがと Jリーグを渉鮮してその実力を認められた
事がある世界的なフィジカルトレーナーだった。

そして 2ヶ月後 Kリーグ開幕戦が開かれた光陽専用競技場。観衆たちは競技を控えてウォーミング
アップをという全南選手たち間で拍手を宴でありあらゆる指示をというフラビオを見つけることができた。
彼の信号に合わせて一糸不乱するようにウオーミングアップする姿や以前の Kリーグでは見られなかっ
た風変わりな訓練方法は一遍に観衆たちの人目を引いたしそれに対する知りたい事も加重された。
65 :04/11/26 19:02:01 ID:N2Vx5oH6
しかし彼と韓国の縁はずっと以前から積もって来た。もう日本代表チームでフィジカルコーチを引き受け
ていた当時韓国と 7回の競技を持ったからだ。見まねが良いファンなら 98年ワールドカップアジア最終
予選当時ベンチに座っていた彼の姿を憶えるでしょう。

後期リーグが追いこみに向けていた去る 11月 8日全南ドラゴンズ選手団宿所で彼に会った。前日遠征
競技を行ったせいに疲れる法もしたがブラジル特有の愉快で楽天的な姿で喜ぶ彼は自らその間ブラ
ジルと日本に積まれた自分に関する記事と写真を準備する程度にプロペショノルした。

- フィジカルトレーナーを始めた同期が分かりたい。

71年サンパウロ州にあるアメリカクラブで選手生活をしながらリハビリ医学科フィジカルトレーニングに
対する勉強を竝行した。
選手生活を終えるやいなや大学に進学してその部分に対する本格的な勉強を始めたし、資格証を獲得
した後 20代中盤からリーダー生活を始めた。

- 選手生活はどうだったのか?

派手ではなかったが私の自らは良いプレーヤーだったと評価する。とても頭が良い選手だった...
選手生活を 3年だけに辞めたことも卓越な選択だったし。(笑い)

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バスコ・ダ・ガマ時代のフラビオコーチ(一番右側)

- ブラジルのフィジカル教育やリハビリ医学体系は世界的な水準と知られている。

ブラジルは 70年代からフィジカルトレーニングに対する大切さを認識して各クラブたちが主軸になって
スポーツ医学を発展させて来た。特に 90年代に入って多くの発展があったがそれが代表チームとクラブ
の成績に直結された。最近には各クラブたちが財政的な部分で問題にぶつかってたくさんたじろいだ
状態だ。財政が困れば一番先に刀をつけることがユースシステムとフィジカルトレーニング部分だ。
- 海外でよほど多い生活をしたことで分かっている。

アメリカ、マリルリアなどのクラブを経った後 79年サウジアラビアに行った。当時サウジアラビア代表
チームにルーベンスミネルリというブラジル監督が就任したが彼が私を連れて行った。サウジでは苦労
が多かった。特にサウジは宗教問題だから一日に多くは五回以上礼拜を見るのに訓練の中でも礼拜が
始めれば中断しなければならなかった。後にはその礼拜をあらかじめチェックした後訓練日程を割当
しなければならなかった。そして今と他に当時サウジ選手たちの選手としてのプロ精神は0点だった。
自分管理に対する認識もなかったし。

82年ブラジルに帰って来てguarani、サンパウロ、バスコ・ダ・ガマなどのクラブにあったがポルトガルの
ルレタノ−というクラブからフィジカルコーチで来てくれと言う要請が入って来てポルトガルへ行くように
なった。ポルトガルは言語や文化的な側面でブラジルとそっくりだから生活しやすかった。

- 日本にはどう行くようになったか?

Jリーグが始まる 1年前の 1992年当時 JFLの最強者だった読売ヴェルディ(現東京ヴェルディ)にマニュ
−エルカズダというブラジル監督とともに行った。しかし彼は 1年後にブラジルに帰ったし、私は以後赴任
したマツキヤスタで監督がずっとチームに残ってくれと言う要請をしてそのまま残るようになった。

そうして 95年日本サッカー協会側で代表チームフィジカルコーチで来てくれと言う要請をしたし、ワールド
カップが終わるまで日本代表チームに携わった。以後札幌、Urawa、ビッセル神戸などにとどまった。

- Jリーグ創始期時代の最強チームならやっぱりヴェルディだった。

すべてのものが良かった。システムはヨーロッパの物をそのまま持って来たし、選手資源もMiura Kazu、
北沢、竹田、ラモス、ビスマルックなどすごかった。日本最高企業中の一つの読売が後にあっただけサポ
ートやっぱり相当だったしファンも一番多かった。
良い成績をおさめることができないのが変な程度だった。

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全南選手たちとウオーミングアップしている姿 c。スポーツインタラクティブ
68 :04/11/26 19:03:22 ID:l9KdJkjX
>>54
ヤンキーっぽい感じで、お前それ鉛筆で書いてんのかよつうぐらい細い奴がいる
そういう連中への指導だと思いたい
- 日本であなたはサッカー専門雑誌を含めたマスコミでたくさん照明受けたが、国内では別儀な注目を
引くことができない。

こちらでは私をルイスコーチだと呼ぶが、日本では一般的にフラビオと呼ぶ。そのためだったのか初めに
はこちらのコ・ジョンウンコーチや今は外国に行っているファングソンホングコーチが私が来るという話を
聞いて私なのか分からなかったと言う。(笑い)

多分ノ・ジョンユン、ホン・ミョンボなど日本で活躍した韓国選手たちやリーダーは私をよく分かっている
でしょう。

- 全南にはどんなに来るようになったか?

全南に来る前バスコ・ダ・ガマで 6ヶ月の間コーチで働いた。よく分かるが現在ブラジルの経済事情は
あまり良くなくて、これはサッカークラブにも当たる話だ。バスコ・ダ・ガマは何年前だけでもブラジル
最高のクラブだったが、スポンサーだった銀行圏会社が手をはなした後で財政状況が急激に劣悪に
なった。それで有名選手たちは海外やブラジル内他のクラブに売る故、ユースシステムをまともに運営
することができなくて今は大きい困難を経っている。バスコ・ダ・ガマでの 6ヶ月の間私はクラブからただ
一銭の賃金も受けることができなかった。

ちょうどブラジル現地で当時全南にイ・ザンス監督が新たに赴任しながらフィジカルコーチを要求して
人を求めるという話を聞いた。それで私の履歴書を正式で提出したし、私の経歴を高く買った全南球団に
連絡が来てで 1年契約を締結して韓国へ来るようになったのだ。

- イ・ザンス監督も海外から来ると言う生活したし、リーダーとして多くの成功をした。二人の間のそんな
共通点が共感台と作用するのか?

イ・ザンス監督が中国で成功したことはよほど高く評価しなければならない。リーグの水準が高くても低く
ても外国人リーダーが海外で成功することは易しくない。海外で長年の期間生活してそうか外国人コーチ
たちの難しい点やお互いの見解の違いをよく理解してくれる。何よりイ・ザンス監督は私に全幅的な信頼
を送ってくれているし、私も彼に肯定的に回答することができるように努力している。
- その間多い韓国選手たちが Jリーグに進出した。Jリーグで韓国選手たちが持つ位相や位置はどの
程度や?

チームの主役だった。韓国選手たちはいつも用意ができていた。勝利に対する執着も強くて。そんな点
だから Jリーグチームが韓国選手に大きい魅力を感じるようだ。
ノ・ジョンユンから始めてホン・ミョンボ、ファングソンホング、ユサンチョルなど多い選手たちがずっと成功
したから信頼することもできたし。

- 両国選手たちを比べた時どっちがもっとプロ意識が揃っているか?

韓国選手の方ではないかと思う。韓国選手たちは監督の指示や訓練日程をとてもよくて。世界にもそん
な所はあまりない。
しかし回して言えば選手たちがちょっと硬直されたと言うか。実際競技(景気)の中には良くない方向でも
現われることができる。しかし運動に対する欲心だけは韓国が優れる。

- 日本でコーチ生活をしながら韓国選手を指導したことがあるか?

ある。ビッセル神戸でコーチで過ごす時なのに体つきは小さかったが気ばたらきあるパスとフリーキック
能力が引き立つ選手だった。城南で走ったと聞いたが名前がよく思い出さない。
(パク・カンジョを言うようだ。)
当たる。強調。良い選手だった。しかし惜しくも私がいる当時にはリザーブで競技にそんなにあんまり
出場することができなかった。

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97年日本代表チーム時代のフラビオ。中与える右側で二番目(横が岡田コーチ)

- 一名東京大勝と呼ばれる 98ワールドカップアジア最終予選戦当時日本代表チームフィジカルトレー
ナーでカメラに何回つかまった。ヤマグチがゴールを入れた時はベンチから飛び出して一番先に歓呼
する人中一人だったし。

どこにも味方がゴールを入れれば飛んで行く。(笑い)
- 韓国としては 96年にアジアンカップで失敗を味わったし、以後チャ・ボンクン監督が代表チームに
赴任したが国内では歴代催弱体という心細い評価も多くて韓日戦を控えてよほど緊張した。当時日本
代表チームは韓国をどう思っていたか?

コーチングスタップではよほど自信感を持っていた。たくさん分析したし。しかし選手たちの立場は違った。
彼らはいつも韓日戦を負担になった。

当時にも競技を控えて私が “相手は 12人ではない。私たちも 10人ではない 11人だ。自信感を持って”
と話したが相変らず心細い目つきがありありと見えた。

-当時加茂監督が後半 1-0でリードした状況でストライカであるロペズを抜いてストッパAkitaを入れたが
結果的に日本が 2-1で逆転負けした。その頃加茂監督の選手交替は適切だったと見るか?

多分その状況だったら誰もそうだったろう。その競技さえ勝てばすべてのものが解決される状況だった。
それに私たちのホームだった。韓国がそんなに強く出ることとは予想することができなかった。結果的
にはあったが当時加茂監督の選手交替には疑問を持たなかった。今もそうで。

- 韓日戦敗北とカザフスタン戦引き分け以後加茂監督が更迭されるなど当時敗北の余波は相当だった
ようだ。当時更迭が適切な判断だったと見るか?

言論で過ち報道した部分があるのに、当時加茂監督は予選戦に対するひどい圧迫に健康が悪くなって
自ら辞任した。多分自ら辞任がではなかったら日本サッカー協会側では加茂監督を最後まで信じた
で思う。

以後に日本サッカー協会は岡田コーチを監督代行に座らしたが、当時その問題を置いて岡田コーチは
多くの悩みをした。初めには断ろうとすることを出て他のスタッフたちが重ねて説得して心を入れ替える
ようにした。当時岡田コーチと本当に多い対話を交わした。

->2編に引き続き...
インタビュー=西戸庭、通訳=ナヤングズン 2004-11-26