【ヒダ】態度が悪いサッカー選手は誰だ?【イラブ】
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>>309 ロマーリオ編
〜ある悪童の記録(ブラジル時代からバルセロナを離れるまで)〜
●66年
ブラジル・リオ州北部のビラ・デ・ペーニャにマランドロ・カリオカ(悪いリオっ子)生まれる
●82年
16歳で、リオの名門、バスコ・ダ・ガマに入団
(85年から3シーズン、123試合で73得点を記録)
●85年
モスクワで開かれるユースの世界大会のブラジル代表メンバーとして選ばれる・・・が、コパカバーナのホテルの窓から、観光客に小便をかけ、即刻メンバーから除外
●88年
ソウルオリンピックで得点王(7点)→オランダの名門PSVに移籍
(順調に得点を重ね、3シーズン連続得点王・・・5シーズンで通算125得点を挙げる)
前妻、モニカと結婚
●89年
代表監督ラザローニに対し「自分(監督)の友人ばかりを(代表に)選出している。代表は救済機関じゃない」と謗る・・・ものの、その後のコパ・アメリカ優勝の原動力に
●90年
腓骨骨折の10日後、ギブスを外してCM撮影・・・これが祟り、再手術をするはめに、、、
ラザローニ代表監督、CBF(ブラジルサッカー連盟)会長ティシェイラに「俺が代表に選ばれないのはおかしい」といちゃもんをつける
(90年イタリアワールドカップに出場するも、当時のブラジル代表のエース、カレカがミューレルとのコンビを望んだため、わずか64分しかプレー出来ず)
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:2005/06/07(火) 23:36:36 ID:XL6CDyX70
●91年
PSVの役員に対し「俺をボイコットしている選手を放出しろ」と詰めより、召集に遅れ罰金を課せられる
当時のPSVの監督、ボビー・ロブソンと口論、5000ドルの罰金
(痛めていた腓骨が悪化、そのシーズンは14試合出場9得点にとどまり、得点王もベルカンプに譲る)
●92年
PSVの新監督ベスターホフとそりが合わず、「チーム体制が変わらない限り、試合に出るのは難しい」と、暗に監督批判・・・出場停止処分を受ける
ドイツとの親善試合で「リザーブなら出ない」と発言、代表監督パレイラを激怒させる
●93年
スペインのFCバルセロナに移籍
(移籍するにあたり、PSVのシーズン前のセレモニーで同じく移籍するファネンブルク(→ジュビロ磐田)と共にファンに最後の挨拶・・・「皆さん、声援ありがとう」と涙交じりに殊勝なコメント)
↑の発言もあって、しばらく代表から選ばれないが、ワールドカップ予選でブラジルがボリビアに敗れ、にわかに待望論が国内から沸き上がる・・・とうとう代表復帰を果たした彼は、
“この試合に勝った方がワールドカップに行ける”というワールドカップ予選の最終戦(対ウルグアイ)で先発、、、試合前のインタヴューで「2ゴールする」と予告していた通り、見事2ゴールを決め、ブラジルをワールドカップに導く
この活躍ですっかり有頂天になり、「ミューレルは(ブラジル)代表としては何の貢献もしていない。彼よりも(友人の)エヂムンドを選べ」とコメント
↑の発言に対し、王様ペレが「こうした発言は代表チームを乱すもととなるから控えなければ・・・」とコメントすると、「ペレ(のような過去のサッカーの人間)は、博物館にでもいて、金の勘定でもしていればいいんだ」、と、毒づく
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:2005/06/07(火) 23:39:03 ID:XL6CDyX70
●94年
スペインリーグ、対セビージャ戦で、巧妙にファウルを仕掛けてくるシメオネに我慢できず、クロスが上がった時、ボールに向かうフリをして、シメオネにグーでパンチをかます・・・当然、レッドカード&4試合の出場停止
ワールドカップに向けたチーム作りが行われる中、チーム編成を問われた彼は「アタック陣は、ベベト、エヂムンド、そして自分がいい・・・90年でカレカとミューレルが馬があったように、自分はエヂムンドと気があうんだ。
エヂムンドには自分のゴールのビデオを送って、もっと賢くなってもらうつもり」と発言
本人がバルサ入りする時宣言した「30ゴール」目を最終節で決め、チームのリーグ戦優勝に大きく貢献
CBFはワールドカップに向けての代表メンバーを発表して以降も、そのメンバーで、公然と監督(選手)批判をしたものを、代表から外す可能性があると発表、、、もちろんこれはロマーリオを意識してのもの
・・・にもかかわらず、ワールドカップに向けてブラジル代表がUSAに向かう飛行機の中で「ミューレルの隣は嫌だ」と相変わらずのミューレル嫌いぶり?を発揮。チームメイト、関係者を困らせる
ワールドカップ期間中、合宿所を抜け出し、不倫女性とのデートに精をだす・・・
ワールドカップの優勝後、所属クラブのバルセロナの集合期日を無視、リオデジャネイロでビーチ・サッカー三昧・・・結局、チーム合流には40日以上遅れる
チームに合流してもなかなか調子が上がらず、
夜遊びもやめない彼を見かねたバルセロナのクライフ監督が「夜遊びもほどほどに・・・」と注意すると、「クライフは、サッカーのことだけ心配していればいい」と反論
ベンツを正規のルートで購入せず、スペイン警察に押収される
●95年
ついに母国ブラジルのフラメンゴに移籍
以上
ttp://w2352.nsk.ne.jp/~giggs/column/romario.htm より
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:2005/06/08(水) 00:11:11 ID:OThQhP3T0
その後は、
95年 フラメンゴの英雄であるジーコが、傍若無人でチームをガタガタにしたロマーリオを嗜めたのに対して、「ワールドカップに勝てなかった負け犬」と発言(98年落選の原因にもなった)。
96年 ルイス・アラゴネスの反対をよそにバレンシアに入団。アラゴネスはシーズン途中で退任。
後任のクラウディオ・ラニエリは、ロマーリオがハットトリックを達成した日に朝7時まで遊んでいたことを記者から聞いて、更衣室のど真中でロマーリオの着ているユニフォームを引きちぎり始めた。
ロマーリオはユニフォームを取り返すと「夜は私のフレンドだ。プライベートでは私はしたいようにする(中略)チームメートなんか糞くらえだ」と応酬。結局1シーズン持たずにバレンシアを去る。
97年 ロナウドにあやかろうと、代表選手に丸刈りになることを提案。息のかかった選手に、レオナルド等言う事を聞かなかった選手を闇討ちさせ無理やり丸刈りにしてしまった。
98年 ワールドカップ本大会直前に怪我を理由に落選。仕返しに自身が経営するナイトクラブのトイレに、ピッチの真ん中で便器に座るザガロにジーコが紙を渡す画を飾る(後にジーコから訴えられで敗訴)。
99年 門限破りでフラメンゴから解雇される(解雇される直前の試合について「あの試合は物凄い暑さの中での試合だった。試合中日陰を探して休んでいたよ。それで試合に負けたんだ。」と語っている)。
サウジのクラブ、アル・ナスル(世界クラブ選手権出場)からの高額オファーに契約をするも、古巣ヴァスコ・ダ・ガマ(こちらも世界クラブ選手権出場)からのオファーを受けると、アッサリ覆しヴァスコに入団。
サウジのファイサル王子は「我々は契約を平気で踏みにじるロマーリオをFIFAに提訴した。証拠となる正式書類もこちらにある。本来ならロマーリオは首切りの刑。リオ・デ・ヂャネイロは火の海になっているところだ」とコメント
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:2005/06/08(水) 00:33:05 ID:OThQhP3T0
2000年 不仲だったエヂムンドとの最凶コンビを組み、世界クラブ選手権で大活躍も準優勝。しかし、またエヂムンドと不仲になり追い出す
(のちにエヂムンドはヴァスコ戦でPKを外したあとにヴァスコのファンに手を振る暴挙を行い、クルゼイロを解雇されて日本に流れてくる)。
ブラジルサッカー協会は、ロマーリオと犬猿の仲であるルシェンブルゴ監督の猛烈な反対を押し切ってロマーリオを代表に召集。2試合で7点をとり代表を救う。
2001年 目の治療があるからと言う理由で、コパアメリカを辞退しながら、約束を破った事でルイス・フェリペ・スコラリ監督の逆鱗にふれ、代表から干される(皮肉にもルシェンブルゴの後任としてロマーリオが推したのはフェリペだった)。
迷走する代表を尻目にブラジル全国選手権でゴールを量産してフェリペに大変なプレッシャーをかける。
2002年 涙を流して、過去の過ちを謝罪し、ワールドカップに選ばれなければ引退するとまで発言しながら、落選(ロベルトカルロスとカフーはロマーリオを選ばない様に懇願していたとか)。
引退はせず、フルミネンセに移籍し、シーズンの佳境に大活躍。この頃は試合の無い日は現われず、レナト監督は「ロマーリオは試合の日だけで十分」と名言を吐いた。
2003年 突然、カタールのアル・サイードに移籍、ロマーリオがモスレムの国でやっていけるハズはなく、ほとんど活躍しないままフルミネンセに復帰。
不甲斐無い戦いぶりに怒って練習場へニワトリを投げ込んだファンと乱闘を起す。
2004年 エヂムンドと和解、3度目の最凶コンビ結成。
2005年 フルミネンセを解雇され、引退を表明。翌日に撤回。煮え切らない態度に苦言を呈したペレに「「ペレは黙っていれば詩人だが、ときにくだらないことを言う。 彼は口に靴でも入れておくべきだ。自分の人生だけを心配しろ」 と発言(これも翌日撤回)。
古巣ヴァスコに復帰すると、ビーチサッカー代表でも活動。パレイラ監督の計らいで一試合だけ代表に復帰し、ゴールを決めて有終の美を飾る。
その試合の前には、引退しない理由を聞かれ「下手なやつばかりだから、まだ辞められない」と名言を吐いた。