ジーコ監督で代表はジェフサテライトより弱くなったPart110

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朝日だけどその点は考慮して読んでくれ。

◆サッカー代表 ジーコは「神聖不可侵」か 大住良之(サッカージャーナリスト)

 ジーコが日本代表の監督に就任して1年が過ぎた。
 2002年ワールドカップでベスト16に進出し、「世界」への足がかりをつかんだ日本。
ジーコへの期待は、そのチームに勝者としてのメンタリティーを植え付け、さらに高いレベルに到達させることだ。
 だがこの間、日本代表のプレーぶりには失望させられてきた。ジーコは選手たちに大幅な自由を与えた。
その結果、チームは攻撃のリズムとスピードを失い、個人プレーの寄せ集めのようになってしまった。6月の
FIFAコンフェデレーションズカップ(仏)での戦いぶりを見て、私は監督を代えざるを得ないという結論に至った。
 チームが一つの意図の下に一体となって戦うのが、日本サッカーの基本的な強化方針だ。
「個」の弱さを補うためではない。「個」の強化は継続的に行わなければならないが、強い「個」が集まっても、
それだけでは一丸になったチームには勝てないからだ。「個」の創造性を強調するあまり、チームの一丸性の欠如に
目を向けないジーコは、こうした強化方針から外れていると私は考えたのだ。
 それは早計だと言われるかもしれない。東京で先月行われたナイジェリアとの親善試合では、
日本はジーコ時代になってから初めて、リズムに乗った集団でのプレーを見せた。それまでの試合で個人の能力を
ひけらかすようなプレーばかりしていた選手が、チームの勝利のためにシンプルなプレーに徹した。
 ただ、この修正はチームとしての明確な意図の下の行われたものではない。ジーコは相変わらず、「選手たちの
創造性を生かすために約束ごとは極力少なくする」と語っている。ワールドカップのアジア予選は
来年2月にも始まる。今月のセネガル戦(新潟)を始めとする残る年内の数試合の中で、
再び集団としてのプレーができるのか、しっかりと監督ジーコの力量を見極め、
場合によっては解任の決断が必要となる。
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その際、気になることがある。メディアの代表監督チェック機能が正常に働いていないことだ。コンフェデ杯は
結果を問う大会ではなかったが、引き分けても準決勝進出という最終戦で無策に終わったことを含め、ジーコの責任を
追及する意見がほとんど見られなかったのは、私には少し意外だった。
 ジーコは、選手としての経歴が世界でも十指に入るだけでなく、素晴らしい人間性の持ち主だ。そして、日本の
サッカーを世界レベルにしたいと心を砕いていることにも疑問の余地はない。しかしそうしたことと代表監督としての
適正は、まったく別の話である。
 自らジーコの監督就任を要望し、その後も強烈にサポートしている日本サッカー協会の川淵三郎キャプテン(会長)
への遠慮もあるのだろうか。しかし、代表チームは日本サッカーの一部分にすぎない。仮にジーコが監督として
不適だったとしても、それだけで川淵氏の会長としての適否が決まるものではないのだ。
 日本サッカーのフロントランナーであり、手本であるべき代表チームは、
常に健全な批判にさらされていなければならない。今行われている代表強化と、日本サッカー全体の強化の基本方針
との間にもし食い違いがあるなら、今後どのような方向に進むのがいいか、まじめな議論が必要だ。
 「ワールドカップは一国を挙げての戦い」と、98年大会で代表を率いた岡田武史監督は語った。
ジーコは「神聖不可侵」ではない。メディアの正常なチェック機能のない国に、ワールドカップ上位進出はない。