デスピサロは同情の余地なき悪党 第四十一章

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5名前が無い@ただの名無しのようだ
Q.作中の登場人物、そして私もピサロに同情しています。同情する者が一人でも居る以上、それは
 同情の余地があるという事ではないのですか?
A.一般的に「同情の余地」とは、同情する人が居るかどうかとは無関係な使われ方をしています。
 このスレでも同様です。同情するしないは個人の自由ですが、「同情の余地」が有るか否かは
 あくまでも酌量の差し引きによって(一般的な意味で)客観的に決めるという考え方をします。
 現実にも凶悪犯に同情して獄中結婚する事例がありますが、だからといってその凶悪犯に
 「同情の余地」があったという事にはなりません。

Q.「ピサロは同情の余地なき悪党」というのはアンチの主観による決め付けですよね?
 余計な議論を呼ぶこのスレタイは、変えるべきではないでしょうか。
A.ピサロは既に実際、自ら数々の悪事に手を染め、人類根絶と世界征服の為に行動しています。
 またFAQにもある通り、野望成就の動機となる深い事情も描写されておりません(現に6章ではあっさりと野望を中断します)。
 何よりも、ピサロ自身がその事を一切反省しておらず、時系列的にもロザリーの件がピサロの酌量の要素に当たらないため
 ピサロに同情の余地は無いし、あったとしても確実に消滅していると判断されます。
 よって、スレタイ変更の必要性はありません。

Q.そもそもピサロは人間ではなく魔族であり、人間とは違う価値基準を持っているはずです。
 人間の価値基準で彼らの所業を悪だと断じることはできませんよね?
A..「ピサロに同情する」という意見も人間の価値観でのものです。
 「ピサロに同情する」と主張する時にはピサロを人間と同様の存在のように位置づけて自論を展開しておきながら、
 彼の行いを正当化する際には「ピサロは人間じゃなく魔族だから」と魔族の価値観について持ち出すのは、
 ダブルスタンダード以外の何物でもありません。

Q.こんな主張してる人ってピサロアンチじゃないんですか?
A.単に「よく考えると世間評と違って実態はゾーマ等他の魔王と変わらない同情の余地なき悪党だよね」と言ってるだけです。
 悪を悪と評価する事がアンチに分類されるならばゾーマは殆どアンチしかいないことになります。

Q.久美小説にもあるように、勇者とピサロはよく似た境遇にいます。まるで、同じコインの表と裏のようだとは思いませんか?
A.製作陣が勇者とピサロを「対となる表裏一体の存在」として悲劇的に描写したかったのかどうかは知りませんが、
 妄想による補完を除去した上でゲーム内の描写のみを集めて考察した限り、その表現は大変不適当です。
 共通点は「敵勢力へ対抗するための戦力として期待される若者」「身近にいた大切な女性を、敵側に属する者に殺害された」
 この二点のみしかありません。その一方で、両者は生い立ちも戦う目的も何もかもが違っています。
 他にも「勇者はピサロ一味にシンシアのみならず育ての親も故郷も奪われた」
 「シンシアを殺したのは村を襲撃したピサロ一味だが、ロザリーを殺したのは勇者たちではない無関係の人間」
 「勇者は自分の生まれ故郷も近しい人たち全てを失っても、魔族すべてを滅ぼそうなどと考えず、
 どころか6章では無反省のピサロに手を貸すくらいに不自然なほどの寛容さを持つ」など多数上げられます。
 そういった意味では、善と悪の遥か遠く、対極にある二人かもしれません。